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悲歌『希望 のために』を見る


長詩   MIKAMI       

   

 (観念の罠を歩き回ったインド二箇月の旅) 
   おかのおじか
  

マドラスで死んだ
三上俊弘に

28.5.1999 一周忌

私がインドに行ったのはインドで死んだ友三上に会うためだった。
三上はすでにデリー空港の通路の雑踏の中にいた。
三上は語った、「ああ君か」。
九年ぶりの再会。
生者に対する無関心、それが死者たちの特徴だ。

しかし私と一緒に歩いていると次第に生者の体温が彼に移るらしい。
彼は不意に歯を剥き出したりした。

友人を殺した国に初めてやってきた。インドのすべてに激しい怒りを感じていた。
旅は怒り以外の何者でもなかった。歩けば歩くほど怒りが増した。旅の目的は怒りを鎮めるためであって、それは彼のためではなく自分じしんの霊鎮めのためだった。
私が三上と連れだってゆこうとしている場所がこの国のどこかにあるはずだった。
インドで私たちの怒りを癒してくれる場所。そんなものがあるのだろうか。
私は死んだ友と連れだって歩き始めた。

おおインド、なんというおびただしい人、人、人。
人の眼窩の深さ。
ふかい眼窩の中にきらきら輝いている黒い眼。
その眼が私をのぞきこんでは通りすぎてゆく。
だれもが生きている。

のどがざらざらする。暑い。頭が熱い。かゆい。のどが渇いた。うるさい。
足がつかれた。疲れた。痛い。眠たい。
体が発する苦情がいっせいに呼び鈴を鳴らしている。
ともかく歩け。

埃と煤煙の国。阿鼻叫喚の交通。
街をあるく人間と牛たち。
人間の顔、牛や犬の顔、婆羅門の顔、シュードラの顔、蒙古顔。
おびただしい人間の激流の中の、あらゆる多様さをもつ人間の顔。

四方八方から乞食に手を差し出されて動けなくなる。
裕福な階層に属するらしい、緑のサリーを着て金銀の装身具で飾った若い女が乞食たちの間を通り抜けて行くときの、全くの無関心な顔に唖然とする。

路傍にうずくまっている人びとがその女を見る。
その女は路傍にうずくまっている人びとを見る。
視線はすりぬけてゆく。まるで石や樹を眺めるかのように。

宇宙の中で同時間に同一の世界を共有する生き物たち。
私とその女と見知らぬ彼らとは同時間に同一の世界を共有する不思議な関係にある。
見知らぬ他人たちの群れをくぐり抜ける。

手を差し出されて、
見知らぬ誰かの前に立っている自分を見いだす。

持つ者の本質的な傲慢さに気づく。
知らぬうちに自分の皮膚の下にぜい肉がつき始める。
豊かさの中でぜい肉がふくらんでゆく。
知らぬうちにぜい肉が第二の人格を次第につくりはじめる。
ぜい肉とともに何かが私を蔽い始める。

その証拠にインドに来るとみるみる痩せてゆく。

あれはビー玉遊びをしているのだろうか。子供らが地面にしゃがんでいる。
いっしょに腰をおろす。
水に浮いている何かを眺めている。
水面におびただしい虫がとまっている。水草の茎にしがみついている。
水面から一本の竹棒の頭が突き出ている。

駅で見た老人たち。子供をかかえた母も混じっている。地上で最も弱い立場の者たち。死んだ子供たちは語るだろう、泥臭い水の上にとぶ、小さな虫たちは語るだろう、生とはあてもなく浮遊すること。死は私たちにとってどこかに落ちることではない。ただ沈んでゆくことだ。たんに沈んでゆくこと、しずかに沈んでゆくこと、そこには何の意味もない。浮いていることも、意味もないことでは同じだ。
三上よ、なんて沢山の生と死があることだろう。野ざらしにされた生と死。

水道管が壊れている。
泥の道ははだしで歩かなくてはならない。

堤防。立ちながら腐ってゆく茎。

この地で輪廻転生の教えが生まれたというのはよくわかる。
生きてもゆくさきがなく、死んでもゆくさきがない者たちにとって、沈んでは浮かび、浮かんでは沈むしかないのだ。
それが輪廻転生というものだ。
二度と浮かばないように死ぬこともできないし、二度と沈まないように生きることもできない。私たちはただただ浮いているのに疲れたら沈んでゆくだけだ。沈んだらどこにゆくわけでもない。また浮かび上がってくる。そのようなあり方でしか生もありえないし、死もありえない。
だれもがカルカッタの街をあてもなく浮遊している。
ガンジスの流れにそって浮遊しつつ生きて死ぬ。

同じところに来てしまう。
流れに、一本の竹棒が突き出ている。
竹棒の影が水の上でのびたりちぢんたりしている。

竹の影は永遠のものの影。
水は竹の影と一緒にながれ続ける。

駅裏の大通りにいる。
それにしてもすさまじいこの喧噪。切り裂くような警笛と甘い映画音楽の氾濫。
踊るラジニカーントとミーナ。
ナタ・ラージャは銀幕の上にいる。
待合室のあらゆるところでごろ寝している。
目を閉じて、永遠の時の流れ去るのを待っている。

だからあてもなく扉から扉へと歩き回ってインドにきたのだ。死んだ三上よ、三上の生まれ変わりの少年たちよ、きみたちに会いに来たのだ。
私たちはこの世界に生まれて以来、たくさんの部屋をくぐり抜けて来た。
たくさんの部屋をくぐり抜けているうちに、どの部屋も同じ部屋であるような気がしてきた。
だからインドに来たのだ。世界が迷妄ではないことを知るために。実在することを知るために。同じ一度きりの実在を他人と分かち合うために。インドに騙されないために。

値段の交渉。あこぎなことを言う。らちが明かないので歩き出した。
群衆の間をすり抜けてゆく一台のリキシャーの車輪の金属の軸が私のジーンズの分厚い布を引き裂いてしまった。血が流れている。
痛い。悲鳴をあげるような感覚。だが感覚は一度きり鋭い悲鳴をあげた後に、次第に鈍く黙り込んでしまう。時々思い出したように痛む。だが次第に忘れてしまう。

地獄は感覚だけから出来ている。無間地獄では痛感覚は眠りこむことがない。絶え間なく悲鳴が聞こえるところだ。

経典によれば地獄は痛みに満ちているが、同時に地獄そのものは亡者の作りだした幻想だという。痛みは幻想を打ち破るだけの力をもたない。痛みが同時に幻想であるというのは恐ろしいことだ。
世界はこれほど痛みに満ちて実在する。しかもなお世界は幻想でありうるとすれば恐ろしいことだ。

この世界以外に地獄はないという人は何と恐ろしいことを口にするのか。もしそれが真実だとしてもそれを口にしてはならない。
経典の中にそのようなことは書いていない。地獄がないといってはならない。

駅の構内の公衆便所に入った。
十のきんかくしに十人の男が並んでいる。
十人がいっせいにふりむいた。
なぜなのだろう。

便器の前の奇妙に白い壁。
インドではすべてが非現実であるような気がする。インドとは巨大な罠なのではないだろうか。
その証拠に、ここで感じることは何かしら形而上学的だ。あまりに観念的だ。

三上よ、私たちは一緒にサンスクリットを勉強した。村上真完教授の授業を聞いた。
夜更けまで議論をしたものだ。それはどうどう巡りの議論だった。
「印度学佛教学研究」の上に灰皿を置いて。

君1の中には君2がいる。君2の中には君3がいる。君3の中には君4がいる。それが限りなくつづいている。君はそのように無限の「君」から出来た年輪のようなものだ。君は無始無終の存在だ。
無限の輪廻の年輪の層の中心に「君」と呼ばれる者がいるかって?そんなものはどこにもない。
君の言葉を聞いている私の中には別の私がいるか。

歩いている。
なんて暗いアーケードだろう。
細い路地をあるいているとどこまでも店が続いている。
電球が店ごとに吊されている。
この世界はむすうの部屋から出来ている。私たちには見える、明るく輝きながら、部屋がどこまでも並んでいるのが。頭にターバンを巻いたインド人たちはすべての部屋の中央に坐り、何かを広げて商いをやっている。だが色とりどりのカーテンでごまかしても、この世界の一人一部屋の構造に変わりはない。だれもがそれぞれに閉じこめられていることに変わりはない。
この世界はむすうの部屋から出来ている。私たちの仕組みは単調だ。
毎日が並んでいる。色青ざめて。電球を一本づつ垂らして。

出口がなければ迷路ではない。出口がなければ迷路は成り立たない。
だがたった一つ、出口のない迷路というものがありうる。それはこの現実の世界だ。
出口がどこにも存在しないという迷いがあり、出口がどこかに存在するという迷いがある。どちらも迷いだとすれば、私たちはどうすればよいのか。

背中を叩いてくれ。
悪いものを食べたらしい。どぶの上にしゃがんで水面をにらんでいる。
三上、背中を叩いてくれ。

私1の中には私2がいる。私2の中には私3がいる。私3の中には私4がいる。それが限りなくつづいている。私はそのように無限の私から出来た年輪のようなものだ。私は無始無終の存在だ。
無限の輪廻の年輪の層の中心に「私」と呼ばれる者がいるかって?そんなものはどこにもない。
君は君の年輪すべてを根こそぎ切り倒せ。私は私の年輪すべてを根こそぎ切り倒すだろう。・・それが解脱の教えが命じることだ。

歩いている。
開いていない部屋などない。
すべての部屋は全部、私たちの前に扉を口開いてしまっている。都会は貝のように全部口を開いて死臭をただよわせている。蠣殻のような臭いだ。
「扉がすべて口を開いてしまった世界は貝のように死んだ世界なんだ」。
都会には何もない。開いてしまっているものには何もない。だからせめて、開いていない扉の前に立ちたい。子供たちの前に立ちたい。
固く閉ざされている部屋のありかを知りたい。永遠に開かれることのない謎が世界には欠けている。
あてもなく私たちは歩いている。

展望台に昇って、また下りてくる。眩しい。
河がふしぎに水音を立てている。濁っているが大きい。
川べりで水浴びをしている子供たち。黙っている子もいるし、はしゃいでいる子もいる。
明るく開けている空間はここだけだ。たしかに川は聖地なのかもしれない。
ここにくると息がつける。

君が君を根元から切り倒す時、君はいなくなる。
だが君は存在しなくなったのではない。君は世界の広がりでありつづける。
だから君は君を切り倒せ。
私が私を切り倒す時、私はいなくなる。
だが私は存在しなくなったのではない。
その時私は花だ。樹だ。野原だ。河だ。岩だ。鳥だ。日の光だ。大気だ。
だから私は私を切り倒せ。根こぎにせよ。

「その時存在するものは池だ。波紋だ。水すましだ。水に映る雲だ。空だ。
その時君はいなくなる。つまり自由になる」。
インドとはそのような<いなくなる>ための教えが語られるところだ。

三上よ、かつて仙台にいるとき、君は天使の歌声とはいかぬ、男性合唱隊の一員だった。お揃いの燕尾服を着て、舞台の上で外国の歌を歌った。
シューベルトの冬の旅を聞いた。
研究室ではサンスクリット語を読んでいた。ヴェーダを節をつけて読んだりした。奇妙だが美しい古代の音楽を聴いているような気がしたものだった。

古い古い言葉を習った。その言葉は人類の揺籃期にインドが独りつぶやいたものだ。
揺り篭の中で赤ん坊が誰にも聞かれない言葉を独りつぶやいているように、インドはかつて自ら永遠に自分に向かって言葉にならぬ言葉をつぶやいていた。それは美しい言葉だった。インドはいまだに揺りかごの中にいて言葉をつぶやきつづけている。そのような気がしたものだ。
君はインドに留学した。そのころ私はマールブルクにいて、君の出発を見送ることが出来なかった。

三上よ、君はインドのなかで生きている。君がいなくなった今、私は巨大な君の上を、インドの上を、一人で歩いている。

川岸に私は立っている。

三上、君は火葬されて、君の灰の半分は河に流された。
君が河に塵芥と一緒に流れて行くとき、君が河から聞いたものは何か。それはサンスクリット語のどのような響きをもっていたか。
君は火葬の火の中で、そして河の水の中で、誰のいかなる言葉を聞いたのか。

それは私たちがインド学研で学んだものとどう違っていたのか。
三上よ。水の中で君はどのようなことを耳にしたのか。火の中、炎の中で君はどのようなことを耳にしたのか。

炎の言葉。
火葬の薪のはじける音の中で君が聞いた炎の言葉。
水の言葉。
焼いた骨が流される水流の音の中で君が聞いた水の言葉。
ウパニシャッドの言葉。

三上よ、
倒れることができるということはなんという恩寵だろう。
倒れることは、与えられた重さを耐えきれなくなるまで耐えた後に、すべてを母なる運命の手にゆだねるということ。
君がかかえていた重さ。君が耐えていた高さ。それらすべてを君は母なるものに帰して倒れた。なんと困難な、選ばれたことの重さに耐えた生であったか。

サンスクリット文献学の困難な時代。最後の世代の一人だった。

インド学。
仏教学。仏教とは仏陀を納めた棺にすぎない。

すべてを手放して、火のはじける音を聞き、水の流れる音を聞いた。
四大元素の四重奏が奏でる始源の時に戻った。

私たちはカルカッタの町の中で絶えず死者たちの言葉を聞いていた。
このとおり、私たちは生きながら腐り、蝿の中で生きています。
腐るということは大地に生を与えることです。
腐るということはいのちの連鎖を大地にゆだねることです
腐りながら生き、生きながら腐る私たちはつねに大地とともにあります。
死と分解とを恐れてはいけません。
腐るということは大きなものの中で再び生きることです。

生きながら死に、死にながら生きる。
群衆。おびただしい人。

「日本の方ですか」と日本人に声をかけられた。
髪の毛ボサボサ、髭ボウボウのすさまじい臭気を放つ若者だった。
ポワの秘法を求めてインドを歩き回っている。

寺院。
美しく凶暴な女神が、はだかの黒い肌を汗で輝かせ、足で人間を踏み砕きながら口を開けて踊っている姿。
「どうしてこれほど恐ろしい神を人は崇めるのだろう」
「人は破壊されたがっている。
だれもが自分を破壊してしまいたいというひそかな欲望をもっている。
娘のように美しい神に無邪気に踏まれて死ぬのならば最高じゃないか。
人間とはエゴの凝り固まった玉のようなものだ。自足しきった小さな玉だ。
その玉の上に美しい神は情け容赦なく足をのせ、踏み砕いてゆく。
踏み砕かれることは快感だ。
数限りない玉を踏み砕きながら女神は歌い、踊っている。
すべての玉はくだかれ、破片のまま、大地にちらばり、世界の広さの中にちらばる。
踏み砕かれ、ちらばることは快感だ。
破片となってはじめて人間は神を知る。世界の広さ、美しさを知る。
破壊されるとは、神を知るということだ。
破壊されることは快感だ。
誰もが自分を根底まで粉砕し破壊してくれる恐ろしい神を求める。
踏み砕くことによって神はわたしを小さなわたしの中から救済してくれる。

ミミミミミミ<女神よ、わたしを引き裂いてください><わたしを産んだ母よ、わたしを踏み砕いて下さい><わたしを滅ぼしてください><わたしをこなごなになるまで滅ぼし続けてください>ミミミミミミ これがインドの民衆が発見した神への最高の祈りだ。」

熱い雨が降り始めた。傘をもつ人たちが傘を開いた。
傘をもたないインド人たちが雨に濡れていた。
傘をもつ人たちはズボンやサリーを少しも濡らさないように歩いていた。
傘をもたない人たちは一枚きりのシャッツを濡らして立っていた。
すべてのカーストの上に雨が降っていた。
色とりどりの傘の上に、傘をもたない人たちの肩の上に、あらゆる屋根や道や樹や地面の上にインドの神は雨を降らせていた。
子供たちが木陰に立って降る雨を眺めている。
葉の間からこぼれ落ちてくる滴りを手のひらに受けている。

ヘイ、フレンド。トモダチ。ハッシッシ、ハッパあるよ。オンナ、あるよ。
声をかけてくる売人の、暗い目。

インドの内部に入ることができない。
一つの閉じた箱には内側と外側があるが、存在しているのは箱そのものであり、内側は外側によってあり、外側は内側によってある。
しかし箱が閉じていない場合は?
決して内部が存在しない箱がある。それがインドというものだ。

罠としてのインド。

インドは神の国。ペテン師と本気のヨーガ行者がいる国。
悪党と俗物と聖者と犬と少年と乞食が入り混じって住む奇妙に調和がとれている国。

お求めの宗教をすべて品揃えしてお待ちしております。本場インドの名産、神々の佃煮。
生が生であることの無意味さを問いたずねることは人生の嘘偽りのない本当の衝動だ。しかし答は嘘だ。答を求める者に百や千の答をいちどに与えることでインドは常にからかい騙し続ける。すべては仮装した神の戯れ。

夜の野原に立ち続ける人がいる。近づいて理由を聞いてもわからない。
樹の枝に立ち続ける人がいる。近づいてもわからない。
川べりに立ち続ける人がいる。近づいてもわからない。

君はなぜ存在するのか。そう不意に背後から誰かに訊かれた人のように、不意に永遠に立ち続けている人がいる。
インドにはそのように立ち続けている人がいる。
近づいて理由を聞こうとするな。本人たちもわからないのだ。

空をみる人もいる。

インドには太陽をみつめつづける苦行があるという。
太陽をみつめて盲目となった苦行者がいるという。
空を見上げつづけ、消えがたい神の焼印、不滅の光の刻印を目の底に押しつけ、
影となった世界をさまよい歩く苦行者がいるという。
彼は両手に何一つもたず、盲いた目から涙を流し続け、街中を叫びながら歩く。
そのような人を見た。

神の奴隷。シヴァ・ダーサ氏はヴィシュヌ・ダーサ氏と一緒にブッダ・ダーサ氏を神の命令によって殺害したと英字新聞に出ている。3月28日のインディアン・タイムズ紙。

ラージャガハでの会話。
ブッダガヤで数珠を一つ買ったばかりに、暴利を貪られましたよ。あそこはひどいもんです。
ブッダガヤの聖跡を思い出すたびにつまらぬ数珠のことを思い出し、一生それで腹が立つと思うとそれが悔しいです。

日本はどう思いますか。夜がなくて昼間だけがある国。
仕事だけだったら人間は空しく空回りをつづける狂気にすぎない。
がらんどうの機械にすぎない。

三上よ、教授がインドに向けるまなざしは、死体を解剖する科学者のまなざしと変わらなかった。死んだ宗教のテキストが解剖台にのせられてばらばらにされる。解剖が終わった後でも、科学者の意識に何の変化も起こらない。
白いランプのもとに続けられてきた死者たちの文献学。
十九世紀に成立したインド学はいま死につつある。職もない。
君も悩んだはずだ。私も悩んだ。
どんな解決を見つけたのか。答を聞く前に不意に君は死んだ。

暑い。

デリー大学寮に住んでいる林隆嗣の部屋で二時間だけ寝せてもらった。

林隆嗣がマドラスでの葬儀の様子を詳しく語ってくれた。
ひつぎの中に君は横たわっていた。
ひつぎはインドの葬式にはあまりに不似合いだった。それは近くのキリスト教会から借りてきたものだった。
南国特有の花々でひつぎの中は埋まっていた。胸の上にも載せられていた。

病院に駆けつけた日本人の手が瞼を閉ざしたあとも、瞼のしたの石のように丸い眼は冷たく永遠を凝視しつづけていた。
あらゆる地上の風景を越えて暗黒の星辰の一点だけを見つめていた。
どのような手も君の瞼を閉ざすことが出来なかった。死んだ三上の無限大に開かれた黒い瞳孔はあらゆる遠さを越えて神に向けられていた。

無限大まで焦点を開ききってしまっていたから、君はもう何も見つめる必要がなかった。もうどのようなかたちも要らなかった。
ただ眩しい光だけが君の中にあった。

林が召んできた南方仏教の坊さんが仏前で三帰依文を読んでくれた。
手をあわせた。

後に残されたのは英語で書かれたおびただしい原稿。<制限された不二論>の哲学における神についての著作。
それが博士論文になるはずだった。

いつからだろう。人は<骨壷>をつかうようになった。遺された人の思いが死をとりかこんで壺に閉じ込めてしまった。

インドでは死が戻る場所がある。焼いた骨はすべて河に流される。

日本人・三上の遺骨は半分ビンに入れられ、北海道の家族のもとに戻った。半分はマドラスで河に流された。流された半分は南インドの海に溶けた。
彼の半分はインドにとどまった。それはインドとなった。

火葬の薪が燃え上がる。
人間の中には重さがある。人間の頭蓋には重さがあり、人間の眼には重さがあり、人間の耳にも鼻にも重さがあり、人間の肩にも腕にも重さがある。それらすべての人間の重さをまとめて炎の力で焼きすててしまうことがここで行われる。
重さを失ってしまった灰。たぶんこれは次の再生の旅に向かう初めのプロセスとなる。
白い灰は水に流すのがよい。

世界の中に溺れてしまった。永遠に溺れてしまった、われと汝の区別がつかなくなるほどに。

おしよせる白い波に足を濡らしている。

浜辺で私は少年クリシュナから絵はがきを買った。買ったというよりも、じつのところはボールペンと交換したのだが。

少年クリシュナは路地をくぐり抜けて、ある店に入り、店をどこまでもくぐり抜けて裏口から空き地に出、しばらく歩くと一本の樹があって、その樹の根元には半ば破れた一枚の扉が捨てられていた。
その一枚の扉を私たちは見た。イギリス統治時代の古い木の扉か?
表面がやたらざらざらしているので、目を近づけて見てみると、その扉の表面にはさまざまな模様が走っている。出口がない無限の迷路のように模様が細かくある。遠くから見ると漠然と世界地図のようにも見える。
クリシュナは戯れて語った、これが私たちの世界、ジャンブ島だ。
そういって、扉の表面のある場所を指し示した。日本はここだ。
そういってクリシュナは笑った。

ベナレスの宿の夢の中で少年クリシュナはもう一度笑いながら出てきた。
クリシュナはその古ぼけた木の扉を手にしていた。
彼は私たちの前で扉を地面に垂直に立てると、驚くことにその扉を開いて見せた。
そこには黒い空間があった。ぞっとするような無がそこにあった。
クリシュナは扉を閉めた。
少年クリシュナは笑っていた。

私はクリシュナに英語で(まるで戦車に乗ったアルジュナの如く)語った。
世界は実在する。
世界はいちどきりの仕方で存在するものでなくてはならない。
世界をいちどきりの仕方で存在するものに変えなくてはならない。

クリシュナは笑ってすべてを否定した。彼の言葉は英語でなくサンスクリット語だった。(もしかしたら彼はバガヴァッド・ギーターの一節を唱えただけだったのかもしれない)
真理が存在する。それは恐ろしい真理だ。
真理は太陽のように直接見ることは出来ない。見る者は見たものによって盲目となり、視力を失う。
クリシュナは笑った。

光のまばゆさのために盲目となった者は幸せだ。

インドの言葉を信じない。騙されない。
私は鳥たちの、ただ一度きりの叫びを愛する。
実在とは、あのような叫びをあげるのだ。
かつて深い森の中で聞いたことがある。
あのような叫びを言葉に聞いたことがない。言葉はあのような叫びを発することが出来ない。

私たちは声をもたない。一度きりの声、あのように叫ぶただ一つの声をもたない。私たちのもつ思想、いかなる思想もあのような叫びを聞いたためしがない。

いかなる思想も信じるな。
思想はしょせん人間の生理にすぎない。人間の声でしゃべるあらゆる物を信じない。

ヒトという生き物が排出する糸、形而上学。
蜘蛛の一種だ。
世界の縁から縁へ形而上学の網を張り巡らして、垂らした糸の上にさかさまにぶら下がっている。
自ら作った網の中心にいる。
世界はどのようなものなのかわからない。もしかしたら網は世界の似姿かもしれない。しかし網は世界ではない。
インドという罠に足を踏み入れるな。

列車の座席に坐っていた。列車はパトナ行き(のはずだ)。

かげろうに揺れるインドの市街風景。
世界は幻にすぎない、とインドの天井で回り続ける扇風翼はいう。
パンを上を繰り返し飛び回る蠅たち。壊れた蛇口から絶えず滴りおちる水音。
うだるような暑さの中で低く繰り返しつぶやかれる言葉は、世界よ夢であれ世界よ幻であれという言葉だ。

天井の扇風翼は回り続ける。扇風翼は語り続ける。
世界は幻にすぎない。

世界が迷妄であるというのか。
世界は回り続けている。憧れと苦痛が世界を60億のベッドの上で身もだえさせている。
苦痛すらも幻であるというのか。蛇口の滴りはつぶやき続ける。

ヴェーダはいう。
枝に二羽の鳥がとまっている。
一羽は果実を食べ、もう一羽はそれを眺めている。
果実を食べて鳥は酔い、世界の夢を見ている。
もう一羽の鳥が見つめていなかったら、その世界は実在であったかも知れない。
鳥はついに夢から醒め、そろって飛び去ってゆく。

私たちは迷妄の中にいる。

まず、切ることからはじめる。
目の前にある世界をばらばらに切ってゆく。
切られたものはすでに単語という別のものに変わっている。
それらに文法構造を与えてもういちど組み立ててゆく。
こうして組み上がった世界こそ私たちの世界だ。
私たちが生きる世界だ。
だがその世界が真実のものであるかどうかは知らない。

間違いと思うならもう一度組み立ててみよ。
同じように切って同じように組み立ててしまう。
同じような世界ができあがる。
間違いと思うなら君もやってみよ。
決して別の世界をつくることはできない。
常に同じ世界だ。同じ世界からのがれることができない。なぜならそのような意識構造になっているからだ。
けっして、のがれられない。

言葉で世界が建てられている。その下にあるのは石のように冷たい固いものだ。
それに触ることは出来ない。
石のように固いもの。無明といわれ、迷妄といわれる何か。

出口がなければ迷路ではない。だがたったひとつ、出口のない迷路というものがありうる。私たちの生だ。
出口を作ろうとするな。出口はない。宗教は、秘密の出口を発見したと叫ぶ。こっちに来いこっちに来いと叫ぶ。だがすべて嘘だ。
たいせつなのは出口がないことを知ること。

どうしようもなさ。それが、この世界の実在という謎だ。
投げ出されている一つのティー・カップ。
茶碗とは一つの何かを入れるための容器なのだが。

三上よ、
ヒンドゥー教典の中、仏教経典の中に、そして聖書の中に言葉を探した。
あらゆる神々と聖者たちの中に言葉を探した。
言葉を探し求めた。なぜなのか。
言葉ならこれほど自分の中に渦巻いているのに。
自分の言葉では駄目なのだ。私の所有であるような言葉では駄目なのだ。
私を打ち砕くような言葉でなければ。
私は私を打ち砕いてくれるような言葉を探し求める。
私は言葉を発する石にすぎない。
神々よ、聖者達よ、
きみたちにいくら話しかけても、私は一個の石だ。
永遠の孤独の中にある石だ。
この石を砕いてくれるものは何なのか。
私はどれほど言葉を発しようと私の石を砕くことはできない。
私は待っている。
誰かの口からもたらされる言葉が私の石を打ち砕くことを。
その誰かとは乞食かもしれないし、犬かもしれないし、小さな子かもしれないし、林を通りぬけてゆく風かもしれないし、黄色い襤褸を来た聖者かもしれないし、ガンジスのさざ波かもしれないし、白い雲の輝きかもしれない。
私は打ち砕かれるのを待っている。
私はインドに来た。
私が私をふさいでしまっているために、私の中に永久にころがり落ちてこない言葉があるのではないか?

三上よ、君の手紙を読みながら私はデリーの町を歩いている。
君が古い手紙に書いていた<見ザル・言ワザル・聞カザル>の三猿像を見たかったが見つけられなかった。あれはどのガンジー記念館だっけ?

汗をふきながらリキシャーに乗って、走る男の肩ごしに奇妙な違和感をもってインドの街を眺めた。
何と奇妙な高さをもつ乗り物だろう。まるで人の背に乗っているかのようだ。

リキシャーを牽いて黙々と走り続ける男たちの背。
奇妙な感覚が私の内部を揺さぶっている。それは吐き気に変わる。

インドに生きるだれもが握りしめている握りこぶし。
それは智慧を握りしめているのか。憎しみを握りしめているのか。
握りこぶしから汗がしたたる。
インド人たちはそれを握りしめている。
握りしめたまま走る。走る。リクシャーは走る。
三上よ。
インドに限らない。生きるということはそういうことだ。固く何かを握りしめる。赤ん坊の時から握りしめている。
人間は誰もそれを固く握りしめたまま喚き、泣き、走る。
握りしめているものは無明と呼ばれるもの、迷妄と呼ばれるものなのかもしれない。しかしそれを握りしめずに生きてゆくことは出来ない。

私もインド人たちもいつか千年間にぎりつづけた自分の握りこぶしを開いて見る日が来るだろうか。

世界は意味にみちみちている・世界は無意味にみちみちている・世界はなにも意味しない。

一枚の滑らかな真珠層をもつ貝殻を残して、自分の生が終わったなどと決して思うな。生がもしいつのまに一つの形而上学になってしまうなら、それを壊さなければならない。ばらばらに砕けた破片の間から生はやがて別の形而上学を、別の別の形而上学を作るだろう。かならず作るだろう。そうしたらまた自ら血を流してそれを壊さなければならない。生は貝のように輝く真珠層を分泌し、真理を、形而上学を形成する。だが私たちはそのたびに真理というものの美しさを踏み砕き、壊し続けなければならない。そのようにしては私たちはどこまでも終わりのない認識の実験としての生を、無限過程としての一つの生を続けてゆかなければならない・・・

世界の豊穣さ。そして
世界は意味にみちみちている・世界は無意味にみちみちている・世界はなにも意味しない。

ある路地にさしかかると日に照らされて白い家の前にひとりの子供が立っていた。
その子はわたしを見つめていた。
不思議そうにその子はわたしを見つめている。
傾く日の影の上に道の上に子供は立っている。

見知らぬ顔 見知らぬ目 見知らぬ口をしたこの子供は誰か。

旅の中ではそういうことが起こる。
たそがれの一瞬のみ、世界が姿を現す。

あの子は誰か。

立ち止まってかんがえる。
私の目の中にはひとつの傲慢があり、それが私にほんとうの光景を見えなくしている。
私は探しつづけている。探そうとすることは、見ることではない。
奇妙な旅行者。見ようとしながら何も見ていない。探しながら何も目に映っていない。
インドを通り過ぎてゆく。何も見ていない。

旅行者は顔をもたない。
顔をもたずにインドの顔を見ようとする。
旅行者は顔を真正面からみつめられるのをいやがる。
呼びとめられるのをいやがる。
このようにしてインドを通り過ぎてゆく。

夜汽車の窓ガラスに映った自分の顔をみている。
疲労した顔。深く刻まれた皺。

窓の下に落花生を売りに来る子供たち。
2時半だ。もうすぐ夜が明ける。

駅の床にお絵かきをしている小さな手。
その小さな手が描いた戯れの絵の中にある小さな世界。小さな小さな世界。小ささの中にのみ幸福な世界は完成している。

駅から歩きだした。
インドにはベンチがない。地面に坐る。
ひどい下痢だ。

靴を脱いで道にしゃがみこんでいる。物売りが寄ってくる。
草が風にそよいでいる。アイスクリーム屋の白い旗。

サールナートの崩れた煉瓦の上に立っている。
日が照りつけている。木陰に移動して汗をぬぐう。
陽炎に揺らぐ仏塔。すべてが幻のようだ。

夢を見ていた。
闇の中だった。
それは三上の声だった。
三上は黒い川の岸辺につないである舟に乗っていた。
舟と見えたものは木の棺だった。その舟の中に身を横たえ、三上は眠っており、眠りながらつぶやいていた、
「さあ 鳥たちがふたたび賑やかに目を覚ましにくるまで、ひたいに光が射してくるまで、岸辺につないだともづなを解いて、東の海に船出する夜明けまで、
この土に埋められた舟の中で、狭い木の板のあいだで、しばし私は眠ろう。
両目をつむり夜の大いなる静寂に安らかに身を横たえていよう」

私は近づこうとしたが近づけなかった。
やがてともづながひとりでに解け、三上を乗せた舟は川を下っていった。海の方角に向かって流れていった。
東方に光が煌めくのが見えた。
私は叫び続けた。

五百年前の坊さんが座敷に座っていた。
熱でうなされたながら、私は坊さんの出した奇妙な公案を解こうとしていた。

水音がしている。
ざぶざぶと月明かりの下で鏡を洗う人がいる。
あかるい鏡の中を一匹の鯉が泳いでゆく。
鯉の影が水面から消えてゆくと月が輝いている。

ウグイスが鳴いている。
ウグイスの鳴き声はなんと水のしたたりに似ていることか。
見えない水面があり、張られた水盤に落下する水がある。
したたり落ちた水はいま、どこにあるのか。
ウグイスが鳴いている。

赤ん坊のように、にぎりしめている。
これまでにぎりしめてきた、あらゆる枝をはなせ。
枝をはなせ。

茶碗がひとつ置いてある。だれが置いたのかは知らない。
ぐっと飲みほした。

厠であくびをする人がいる。
裏の井戸でしきりに水くみの音がする。
夢の中で夢を見ている人を夢に見ている人がいる。
ばたりと戸を開いては閉める音がする。
ばたり。ばたり。
不意に耳もとで歌う者もいる。

下痢。発熱。
私は眠りつづけ、ある朝目覚めた。窓から涼しい風が入ってきた。
小鳥がどこかで鳴いていた。窓の向こう、樹の枝の間から子供ら二三人の話声が聞こえてきた。日が差してきて木の葉を輝かせた。

子供たちはしゃべりつづける。それは遠くなる。
インド人の医者が帰っていった。

夜と昼の眠り。正午の眠り。

たえまなくふるえている木の葉。ふるえきらめいている光。さざめく金の光。
金色の木漏れ日。ふりそそく光は地面に白い斑点をつくる。いたるところに光。光の波。

戸外に出てみた。戸口に腰を下ろしていた。

いなくなったわたしの空間には一本の樹が立ち、その中ではただ光が葉の影や風と戯れながら、ひとつの歓喜をつくりあげていた。

三上はそこにいた。そこに立っていた。

彼は振り向き、そして消えていった・・・
 
かつて川内の植物園で見た二十歳の頃の三上の姿だ。
 
ホテルの一室で眼をさますと、もう夕方だった。うすぐらい部屋の中に夕日が射し込んで白く壁にうつっている。
 
私は夢想する、一つの十字路を。
誰一人通らない一つの十字路を。
四つの方角を示す木の標識が十字路の真ん中に立っていて、日に照らされたり雨にうたれたりしている。
その標識の根元には一本の樹木が植えられていて、花を咲かせている。
その花が<高さ>というもう一つの方角を空に向かって指し示している。
私は夢想する、そのような十字路を。
私はいつかそのようなうつくしい十字路に出会うだろう。

だから私はインドに来たのだ。死んだ三上よ、クリシュナよ、きみたちにその場所を案内してもらいに来たのだ。

私の発熱はそれからも続いた。
熱が引いたのは、インドから帰国する日の朝だった。


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