アナスタシア戦記 第八話                                滝澤真実    一、モスクワ 「ラスプーチンからの伝言だと?」  ジェルジンスキーは眉をひそめる。 「はい。トーキョーに潜らせております工作員からは、そのように報告を受けております」  ユロフスキは自信満々で答えた。  ジェルジンスキーの威張りくさった態度が気に入らない彼としては、今回のことはジェルジンスキーに泡をふかせる絶好のチャンスだと感じていた。彼が手にしている紙には、ラスプーチンからの伝言が、原文のまま書かれている。これを読んだ時のジェルジンスキーの顔を、はやく見てやりたかった。 「順に話を整理しよう、同志ユロフスキ。君がトーキョーに潜伏させた工作員が、任務中にラスプーチンと名乗る男に正体を見やぶられ、私への伝言を託された。ここまでは間違いないな?」  ジェルジンスキーの言葉づかいに少しひっかかるものを感じながらも、ユロフスキはうなずいた。 「間違いありません、同志ジェルジンスキー」 「そして、君はその報告をうのみにして、私のもとへとやってきたわけだな。ろくな確認作業もせずに」  これは、雲行きがあやしくなってきた。ユロフスキは慌てて弁明する。 「お言葉ですが、トーキョーにおります工作員は、非常に優秀な人物です。識別コードも間違いありませんでしたので、疑いの余地はないと思われます。もとより、トーキョーのような遠い土地のできごとですので、確認作業とおっしゃられましても…」 「優秀が聞いてあきれるな。ラスプーチンに正体をたやすく見破られるような工作員が、それほど優秀なのか?」 「…そ、それは……ラスプーチンだからこそ、可能なのです。あの男は、ただの人間ではありません。毒を盛られても、刺されても、撃たれても死なないような男なのですから。工作員の正体を見破るなど、彼にとっては…」 「ということは、君はラスプーチンにまつわるそのような風説も信じるわけだな。そのうちに、やつは預言者だのと言いはじめるのだろう? 君はむろん、われわれがそのような宗教的な世迷言を一切排除すべき立場にいることを、理解しておらぬはずはあるまいな?」 「……はい、それは、もう……」  言葉に詰まったユロフスキを、ジェルジンスキーは鋭い目で見た。 「そろそろ、私の忍耐力も限界に近づいておるのだ、同志ユロフスキ。今度君もしくは君の部下が失態を演じるようなことがあれば、私は君の新しい仕事の世話をせねばならなくなる。君は、ダールディンに行くつもりはあるかね?」  ダールディンは、中央シベリアにある鉱山の名前である。そこにはラーゲリがあり、拘留されている人間が鉱山労働者として強制労働に従事しているのだ。ユロフスキは、目の前の男がひとこと発するだけで自分の運命が暗転することに気付き、顔から血の気がひいていくのを感じた。 「……いや…鉱山はちょっと……」  ジェルジンスキーは自分の言葉が期待通りの効果をあらわしたことに満足した様子で、冷たい笑みを浮かべた。 「まあいい。が、次はないと思え、同志ユロフスキ」 「はい」 「では、ラスプーチンからの伝言とやらを見せてもらおうか」  ジェルジンスキーは、ユロフスキに向かって手を差し出した。  ユロフスキは手にしていた紙にちらりと目をやり、今の状況下でその紙をジェルジンスキーに見せることの意味を考えた。紙には、『拝啓、ユダヤの馬の尻どの』で始まる、罵詈雑言に満ちたラスプーチンからの伝言が書かれている。 「どうした、はやく見せんか」  ジェルジンスキーは言うと、躊躇しているユロフスキの手から紙を取り上げた。 「あっ、あの……正確を期すべく、伝言は原文のままなのです。内容が内容ですので、そのままお見せするのはどうかと思いまして……」  ユロフスキの言葉を無視し、ジェルジンスキーは無表情に読み進めていく。ややあって顔を上げたジェルジンスキーは、感情を押し殺した声でつぶやくように言った。 「下がってよろしい、同志ユロフスキ。この件は、同志レーニンと協議をおこなう必要がありそうだ。追って指令があるまで、自宅で待機しているように」 「わかりました」  怒りの爆発の前に逃げ出そうと、ユロフスキはジェルジンスキーに背を向けた。その背中に、ナイフのような鋭い声が突き刺さる。 「正確を期して原文のまま伝言を届けてくれた君の賢明さに、感謝しているよ」  ユロフスキが振り向くと、ジェルジンスキーはにこやかな笑顔で彼を見ていた。しかし、その目はまったく笑っておらず、冷酷なかがやきを放っている。  ユロフスキは胃が口のあたりまでせり上がってくるような感覚におそわれながら、ジェルジンスキーのオフィスを後にした。  少女の楽しげな笑い声が、レーニンの執務室に響いた。 「ジェルジンスキーがこれを読んだのね? あの男のことだから顔には出さなかったでしょうけど、さぞかし腹を立てたことでしょうね。ユロフスキは、無事で済むのかしら」 「そういうことを言っているのではない」  沈んだ声が、レーニンの口から吐き出された。スターリンはレーニンの難しい表情を見てとり、冷笑を浮かべる。 「かと言って、ここでイライラしてるだけでは何もならないわ」 「では、どうする? ヒラガという男は、すでに『鍵』も『種』も支配下においているのだぞ。しかも、ヤポンにいる以上は『門』も手中におさめているようなものだ。加えてエヘズケールの図面も手にしているのだから、秘蹟も伝わってしまったに等しい」 「いいえ。エヘズケールはまだ不完全よ。ケルーヴ・ミムシャハでさえ、秘蹟の成果物にすぎない。秘蹟を知るには、そのものの口伝をうけなければね。そしてそれができるのは、今となっては日和見が得意なコルスンスキーだけ。ラスプーチンの知識なんて、コルスンスキーの知識に比べたら子供だましの物まねのレベルよ。コルスンスキーが寝返らないように注意すれば、秘蹟がもれる心配はないわ」 「しかし、向こうは『門』と『鍵』を手にしているのだ。解放されてしまえば、何が起こるかわからん」 「だから、それをここで悩んでも仕方ないと言っているのよ、ウラジミール」  突然ファースト・ネームを呼ばれたレーニンは、驚きの目をスターリンに向けた。 「またヤポンを攻撃しろ、と言うのか? 帝都のトーキョーを?」 「『種』でも『鍵』でも、研究中の試作機だっていい。とにかく、ヒラガの手から奪わなければならないのよ。まあ、シベリアに侵攻してきた報復だと言っておけばいいわ」  レーニンは目を細めた。 「ははあ、読めたぞ。そして、その部隊の指揮を任せろ、と言うのだな」 「あたりまえじゃないの。ユロフスキなんかに任せられる?」 「お前が行って、勝算はあるのか?」 「ケルーヴ・ミムシャハを使えば、一〇〇パーセントね。実を言うと、白軍の相手にはそろそろ飽きてきたところなのよ。なんか、張り合いがなくって」  レーニンはしばらく黙っていたが、首を横に振った。 「だめだ。ラスプーチンからの情報というのが気になる。奴は、何の策もなく情報だけを我々に提供するような真似はしないはずだ。問題は、ラスプーチンの動機だよ。それには何と書いてあったかな?」  スターリンは紙を読み上げた。 「『無知のまま手探りで前進し続けるヒラガは、危険この上ない。阻止できるのは赤軍だけだ』と書いてあるわね」 「怪しいものだな。奴は、明らかにこちらの指揮系統を心得ている。ジェルジンスキーに対する挑発的な文面といい、こちらにどのような餌を与えればどう動くか、完全に予測しているのだ。うかつには動けん」 「かと言って、重要な道具がすべてヤポンに集中してしまっているのは事実よ。仮にラスプーチンが言ってきた場所に道具がないにしても、私なら見つけ出してみせるわ」  スターリンはレーニンの顔をのぞき込む。レーニンは目を伏せ、広い額に手をあてた。彼の頭脳がフル稼動している証だ。 「ここは、ラスプーチンの知らない駒を使う必要があるな」  レーニンは、スターリンの脇に鎮座している鉄の箱にちらりと視線を向けた。 「だめよ、今の彼には思考力なんてかけらも残っていないんだから。向こうで捜索をしなければならなくなったら、使い物にならないわ」 「考えるのはお前でいい。無線という便利なものがあるのだからな。空から、お前の飼い犬に指示を出せばいいだろう」  それまで常に楽しげな表情をしていたスターリンが、急に顔をしかめて唇を噛んだ。 「ラスプーチンは、お前がアナスタシアを殺しに出向いていると読んでいるのだ。お前のアナスタシアに対する憎しみを、よく心得ているはずだからな。奴の目的がお前の拉致だとしたら、どうする?」 「ケルーヴ・ミムシャハを使えば、捕まる心配なんかないわ」 「いや、危険は冒せん」  レーニンは静かに言い切った。スターリンには、レーニンの判断に反駁することができない。彼女はレーニンの頭脳がこの上なく明晰であることを、よく心得ているのだ。  スターリンが黙り込んだのを是認と受け取ったレーニンは、素早く計画を立てはじめる。 「ウラジヴォストク、ナホトカ、ハバロフスクをヤポンに占領されているのは痛いな…。すこし遠いが、コムソモリスクに大型の飛行船を回しておこう。堕天使は二号機を陸路でコムソモリスクまで輸送する。ユロフスキの部隊が主力で、あくまでもお前は補助戦力として随行させる形にしよう。万が一失敗した時には、ジェルジンスキーがユロフスキを血祭りにあげられるようにな。それから、補給物資だが…」  レーニンの言葉は続いたが、スターリンはそれを聞き流していた。  彼女の心は、すでにアナスタシアのいるヤポンへと飛んでいたのである。    二、富士山  二人が登りはじめた頃には快晴で無風だったのだが、五合目を越えたあたりからにわかに風が強くなってきた。師走も二十日を過ぎたこの時期、登山中の天候の急変は命にも関わる。  まっしろな息を吐きながら、平賀源道は立ち止まって空を見上げた。強い風で舞い上がった雪が顔に叩きつけてくるが、空は青く澄みわたっている。  雪に覆われた斜面を踏みしめながら源道に追いついてきた近衛薫は、息をはずませながら源道に声をかける。 「やはり、あの山小屋で待機すべきでした。今は雲も出ていませんが、これはひと荒れきますよ、平賀さん」  源道は無言で近衛の顔を見ると、不意に背を向けて登りだした。 「ならば、君はここで帰りたまえ」  背を向けた源道は、何の感情もこもらない声を発する。近衛は思わず身震いした。  この男は、いったい何のためにそうまでするのか……。  何か個人的な動機が隠されているに違いあるまい、と近衛は考えた。少なくとも、金を得るためでも、名声を得るためでも、愛国心による軍への協力でもないことは間違いない。今回の『調査』は、非公式という名目で源道と近衛の二人だけで隠密裏に出かけてきた。それも、源道からの一方的な通告によって、である。  近衛の上官は、源道が知っていながら意図的に隠している情報を引き出すために、近衛を源道に張り付かせていた。が、源道も軍とのパイプを確保するために、近衛が張り付くのを許しているのは間違いない。むしろ、今回のように調査に同行させるなどして、積極的に手の内を明かそうとしているようにも見える。  しかし、怪しいものだ…。  近衛は源道の後を追って斜面を登りながら、首を振った。うわべだけの情報は、たしかに提供されている。しかし、本質的な何かを、源道は意図的に隠しているような気がしてならないのだ。  これまで、任務中に直感によって命を救われたことが何度かあった。その直感を信じるならば、今回の『富士調査登山』には危険の香りがつきまとっているように感じられる。  問題は、この天候だけではあるまい。もっと別の、大きな危険がどこかに…。  しかし今回に関しては、近衛に選択の余地はないのである。『任務』という二文字が、彼に大きくのしかかってきている。  近衛は、今度ばかりは自分の直感がはずれてくれることを祈りながら、防寒着のフードを眉のあたりまで引きさげ、足元の雪面に意識を集中させた。 「ついたぞ」  源道は低くつぶやいた。  二人の目の前には、山頂付近にある鳥居が立っている。富士の鳥居と言えば、山麓の浅間神社にある大鳥居が有名であるが、山頂付近にも小ぶりながら鳥居が存在していた。大きさこそ巨大とは言えないものの、そのどっしりとした風格にあふれた鳥居を見て、近衛は言葉を失った。 「近衛中尉、富士山はその昔、『不死山』と表記されていたことを知っているかね?」 「…いいえ。そうなのですか?」 「そうだ。これまでは山岳信仰と極楽浄土の観念が結びついたもの、として説明されてきたのだがね。私の考えでは、それは間違いだったのだ」 「どういう意味です?」  近衛の問いに答えず、源道は荷物をおろしながら言う。 「もし君が『死とは何ぞや』と問われたら、君はどう答えるかね?」 「禅問答みたいですね。…自分なら、死とは肉体の消滅にして霊魂の解放、と答えるでしょうか」 「模範的な回答だな。しかし、その答えは正解ではない」 「では、正解は?」 「そのくらい、自分で考えたまえ。それはそうと、頼んでいたものは持ってきてくれたかね?」  源道は荷物の中から手のひらほどの大きさの金属片を取り出しながら言った。例のアミュレットだ。 「ええ、木登り用のロープですよね。持ってきていますが…まさか……」  近衛は鳥居を見上げた。 「そのまさかだ、中尉。君には鳥居に登ってもらう」 「そんなバチ当たりなことは、できません」 「安心したまえ。この鳥居は入り口をしめすものであって、それ自体に何かが宿っているわけではないのだ。登ったところでバチなど当たらんよ」 「しかし…」  近衛の言葉をさえぎるようにして、源道は荷物から取り出した金属片を彼の眼前につきつけた。 「これが、ロマノフ家に代々伝わってきた護符だ。この護符の表面に刻まれている模様を、よく憶えておいてほしい。私が導き出した結論が間違っていなければ、この鳥居のどこかに、護符と同じ模様、もしくは護符と関連のありそうな模様が刻まれているはずだ。私は礎石から調べていく。君は鳥居の上部を調べてくれ」  近衛は護符の表面の文字を見て、首をかしげた。 「これは…梵字ですか?」 「似ているが、違う。とにかく、上はまかせたぞ」  源道は護符を防寒着のふところにしまいこむと、雪に埋もれた鳥居の礎石を掘り出しにかかった。近衛は仕方なしに荷物からロープを出し、鳥居の太い柱にしがみつくような格好で登りはじめた。  柱に付着した雪のせいで何度か滑り落ちそうになったものの、近衛はどうにか横にわたされた柱にたどりつくことができた。下を見下ろすと、礎石まで雪を掘り進めた源道が、模様の有無を念入りに調べているところだった。  近衛は横にわたされた柱を伝って、柱と、上にわたされている屋根のようなものを順に調べていくことにした。  強風にあおられて何度がバランスを崩しそうになりながら、近衛は鳥居の中央へと進んでいく。と、中央の額のようなものの脇に、何やら墨文字が書かれているのを発見した。こびりついている雪をこすりおとして、文字を露出させてみる。 『富士の宮、生が死し、死が生ずるところなり。転じて……』  ところどころかすれた文字は、近衛にはそう読めた。 「平賀さん、ここに何か文字が…」  下にいる源道に声をかけようとした瞬間、源道に近づいていく人影を近衛は見た。人影はゆっくりと右手を上げると、それを源道に向ける。近衛は、その手に握られているものが拳銃であることに気付き、自分の腰をさぐった。  ない…。  柱を登るのに邪魔になるからと、拳銃は荷物に押し込んできたのだ。 「あったぞ、中尉。ここに同じ模様が刻まれている。やはりここで間違いなかったのだ!」  礎石から顔を上げた源道は、自分に向けられた銃口に気付いて凍りついた。 「平賀先生、護符をおわたしください」  防寒着のフードの中から聞こえてきた声は、女の声である。 「何のことだね?」  源道が穏やかに答える。 「もう一度だけ申し上げます。護符をおわたしください」  女の声は、あくまでも機械的で冷たかった。 「待ってくれ、私には何のことだか…」  パァン!  乾いた銃声が響き、源道はくるりと体を反転させると、自分の堀った穴に落ち込むように倒れ込んだ。近衛が声も出せずにいるうちに、女は銃口を近衛に向けた。 「近衛中尉、護符はどこです?」 「あなたはいったい…」 「もう一度だけお尋ねします。護符はどこですか?」  女は冷たく言い放つ。 「平賀さんの…防寒着のふところです…」  近衛は鳥居の柱にしがみついたまま、自分の無力さを呪った。  女は源道の体をさぐると、護符を取り出した。源道がかすかなうめき声を上げる。 「大丈夫ですよ、殺すつもりはありませんから。これでも銃の腕前は確かなのです」 「どういう意味…」  自分に銃口が向けられるのを見て、近衛は息を飲んだ。  パァン!  銃声が響き、弾丸が近衛のこめかみをかすめていく。  近衛は意識が急速に遠のいていくのを感じた。    三、帝都・大正長屋  大正学園は冬休みに入っている。スタナは、新しく蒸気人形の乗り手となった徳子とともに市ヶ谷で模擬戦闘訓練をおこなっていた。徳子の操る七八式二号機は、これまでスタナが相手にしてきた赤軍の機体や日本の七五式と比べて、比較にならないほどの性能を見せていた。が、徳子はまだ蒸気人形の操縦に慣れてはおらず、スタナの目にはまだまだ荒さの目立つ動きをしているように見えた。  一通りの実戦訓練をこなしたスタナだったが、今日ははやめに切り上げることにした。今日は、彼女にとって特別な日だったのである。  イエス様がお生まれになった日。  ロシアにいた頃は、家族たちとともににぎやかなパーティを開いたものである。たとえ西シベリアで軟禁生活にあった時でも、この日だけは特別だったのだ。しかし、昨年は逃亡生活のため、パーティどころではなかった。  今年こそは…。  家族たちと過ごしたクリスマスとは比べるべくもない。が、それはもはや失われてしまったものなのだ。父、母、姉たち、そして…泣き虫で、甘えん坊の弟。  スタナは首を振って、失われたものの大きさを意識の外へと押しやった。そう、あの人は言ったじゃないの…。  一番大切なものを失わない限り、また新たな何かを得る可能性は残されている。  イリヤ…。  スタナの思いは、遠くロシアの地へと飛んだ。白い大地、黒い針葉樹林、疾走する蒸気人形、狭い操縦席の中で触れ合った手と手。  彼女は、気付いていた。自分は、日本人ではないのだ、と。  日本人は礼儀正しく、他人との接触を避けようとする傾向が強い。しかし、スタナは違うのだ。日常的にキスをし、抱擁をする社会の中で育った。いつも一定の距離をあけたまま近寄ろうとしない日本人の中では、息苦しいのだ。人の肌が恋しい…。  だから…なの?  スタナは屈辱で頬が熱くなるのを感じた。ラスプーチンの手に触れられた時の、あの喜び。ラスプーチンは、自分の着衣に手をかけることなく、ただひたすらスタナの肌に触れた。もうろうとした意識の中に残る快感…。いや、快感というのとは違う。たしかに気持ちは良いのだが、そこにエロチックなものは含まれていない。いつくしまれ、存在すべてを許容されている感覚。それが何よりも心地よかった。  そして今、スタナは彼にまた触れて欲しいと感じている。  あんな……グリーシャなんかに!  そんな自分にいらだちながら、スタナは大正長屋の前に立っていた。長屋の中には、日本での弟ともいえる真之介がいるはずだった。彼は、私を抱きしめてくれるだろうか。彼は、私にキスしてくれるだろうか。  家族のように? それとも、恋人のように?  その想像は甘美であったが、同時に彼女の心を困惑もさせる。  真之介のことは、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。でも、愛とは、たぶん、違う。いや、よくわからない。私は…私は……。  好きな人に、抱きしめて欲しい。  ぎゅっとされたときに感じる、あの圧迫感と、あたたかさ。  今なによりもスタナが欲しいものは、それであった。  しかし…とスタナは思う。  不可能だ。慎重に彼女との距離をとっている真之介は、そんなことをするはずもなかった。だから、せめて家族と祝ったクリスマスパーティの、ほんの真似事でもいいから…。 「真之介、いる?」  スタナは静まり返った部屋に向かって声をかけた。  部屋はしんとしたままだったが、開けられたままの押し入れにスタナの目が止まった。押し入れから、座布団が不自然に出されたままになっている。スタナは押し入れに近寄り、中をのぞき込んだ。  押し入れの底板がとりはずされ、暗い階段が見えていた。 「なによ、これ……」  スタナは階段の奥に見える明かりを目指して、暗がりの中に足を踏み入れた。  物音に振り返った時には、すでにスタナの姿が地下室の戸口に見えていた。父は静岡に出張、スタナは訓練と思い込んでいた真之介はパニックに陥り、母とスタナを交互に見た。 「スタナ、今日は遅くまで模擬訓練だったんじゃ…」 「ここ、なんなの?」  スタナは暗がりに目が慣れていない様子で、目を細めながら地下室を見回している。やがて、真之介の向こうに見える零式に目を止めた。 「その人形……」  零式の目が、スタナの動きを追って揺れた。  スタナの視線は、零式につながれた無数の配線をたどり、その先に置かれているガラス容器で止まった。  真之介の耳に、スタナが息を飲む音が聞こえた。 「詳しい話は、ここを出てからするよ。とりあえず上に……」 「ああ神様、なんてことなの。こんな、こんな冒涜的なことって…」 「スタナ、話を聞いてくれ」 「だってその人形、生きているんでしょ? 人の脳をつながれて。人形に命を吹き込もうだなんて…」 「違う!」  思わずカッとなって真之介は怒鳴った。スタナが口を閉じたのを見てから、真之介はゆっくりと言った。 「生きているのは、母さんなんだ。人形が生きているんじゃない」 「それが、あなたのお母さんなの?」  スタナは人形の奥に見えるガラス容器を見つめている。青緑色の液体の向こうに、うっすらとヒトの脳が浮かんでいるのが見えた。  思わず口走った言葉だったが、それで誰にも言えない秘密を知られてしまった…。  真之介は呆然と立ちつくし、零式にゆっくりとスタナが近寄っていく様子を眺めていた。 「真之介、お母さんのことが好きなのね?」  彼は黙ったまま、零式に見入るスタナの横顔を見た。 「こんな姿でも、生きていて欲しいんだよね」  真之介は何も言わない。 「よく判るよ、真之介。私も…」  しかし、そう言いながら真之介に振り向いたスタナの目は、とても厳しかった。 「でも、もしもお母さんが自由にしゃべれたら、何て言うか考えたことある? こういう形で生き続けることに、どう感じていると思う?」  スタナの問いかけで、真之介は堰を切ったように話しだした。 「死なせてくれ、と言うかもね。辛いから死なせてくれ、と。でも、ありがとう、と言うかも知れない。判らないんだ。何も。確かなことなんか、何も判らない。自分の気持ちさえ判らないのに、他人の気持ちなんか判るはずないじゃないか。可能性を考えてあれこれ言うのは簡単だよ。でも、確かなことなんか、何ひとつない。死ぬのがいいのか? 生きるのがいいのか? 知っているなら教えてくれよ!」  真之介の叫びが地下室に反響して、そしてゆっくりと消えていく。やがて、地下室は静寂につつまれた。スタナが真之介を複雑な表情で見ている。悲しみ、それとも哀れみだろうか。  不意に、スタナが真之介に体を寄せてきた。真之介が逃げる間もなく、スタナは真之介に抱きつき、彼の肩の上に顎をのせる。真之介の頬にスタナの髪がふわりと触れ、甘いにおいが彼の鼻をくすぐった。 「…私たち、みんな、悲しいね……」  真之介の耳もとで、スタナがささやく。  自分の胸に感じられるスタナのぬくもりと、彼の背中をしっかりと抱きしめるスタナの手にドギマギしながら、真之介は自分の手のやり場に困っていた。意を決して自分もスタナを抱きしめようと思い、彼はゆっくりと手を動かす。  と、外が急に騒々しくなった。  真之介が抱きしめる前に、スタナは彼から体をはなし、階段を見上げる。 「どうしたのかしら…」 「表に出てみよう」  二人は連れ立って、階段を駆け上がっていった。    四、帝都・神田 「ちぃっ」  ユロフスキは舌打ちをした。飛行船から落下傘降下をしたのはいいが、少し風に流されたようだ。にしても、相変わらずヤポンの防衛体勢はなっていない。帝都に、二度までもやすやすと蒸気人形の降下を許すとは。 「総員、点呼!」  ユロフスキは無線に向かって言った。 「二番機よし」 「三番機、着地よし」 「四番機、落下傘切り離し」 「五番機、準備完了」  そしてもう一機、青い新型の機体を、ユロフスキは肉眼で確認した。無線は聞こえているはずだったが、一切返答をしない。スターリンが連れている鉄の箱から出てきた鉄仮面の男。凄腕らしいが、薄気味の悪い男だった。 「全機、目標地点に向かって全速前進!」  ユロフスキが無線に命ずるがはやいか、青い新型が矢のように駆け出した。それはもはや蒸気人形の動きではなく、蒸気人形の姿を借りた人間の動き、とでも呼ぶべきものであった。恐るべき運動性能である。不気味ではあるが、前回アナスタシア皇女の操縦する木製蒸気人形にやられた身としては、頼もしい助っ人であるとも言える。  ユロフスキは新型を追うように自機を走らせながら、今回の任務の流れを頭の中で確認した。まずは、一般家屋に偽装された秘密研究所の急襲。そこで開発中の最新型蒸気人形を奪取するのが最初のステップ。次は、迎撃に出てきたアナスタシア皇女の蒸気人形を無力化し、皇女が首にかけているアミュレットを奪取する。ここで、あの青い新型が役に立ってくれるはずだった。可能であれば皇女を拉致し、あとはフナバシという地点に移動、飛行船に回収してもらって任務完了だ。  今回は、絶対に失敗できない任務である。ユロフスキは、ジェルジンスキーの冷たい笑みを思い返し、緊張した。  野郎ども、失敗したら全員が鉱山行きだからな…。  と、通信が入る。 「二番機、目標を確認しました!」 「状況を知らせろ」 「木造家屋、一般市民らしい者が数名います。武器は携帯していません」 「青い新型はこっちの用事が片付くまで、敵を近づけるな。ポポフとサボビッチは外で援護にあたれ。残りの者は火器を携帯して蒸気人形を降り、俺と一緒に地下研究施設に突入する!」 「二番機、周囲の制圧を開始する」 「三番機、了解」 「四番機、突入準備完了」 「五番機…親分、青い新型のお守りはまかしときな」  ユロフスキは部下の言葉にニヤリと笑みを浮かべると、大正長屋の脇で蒸気人形を停止させた。周囲を取り囲むように、部下の蒸気人形が待機している。準備は整った。突撃だ。ユロフスキは腰の拳銃の弾倉を確認すると、銃剣つきの小銃をひっつかんで蒸気人形から飛び降りた。部下二名が彼に続く。周囲に人影はない。どうやら、逃げたらしい。  偽装はいいが、本当に一般人しかいないのでは、いざという時に役に立たんな…。  ユロフスキはほくそえみ、目的の家屋に突入した。ラスプーチンからの情報によれば、狭い室内の片隅に設けられた小さな収納スペースに出入り口が隠されているはずだった。見ると、階段はむき出しのままになっている。  どうぞいらっしゃい、てことか? 気に入らん……。 「バシレフ! 待ち伏せに注意して突入しろ。俺とカリチェンコが援護する」 「了解」  部下が突入するのに続いて、ユロフスキも暗い階段を駆け下りる。  タンタン、と小銃の発射音がして、くぐもったうめき声がした。地下室に駆け込むと、一人の若いヤポン人が、素手でバシレフを打ち倒したところだった。若いヤポン人は無言のまま、間髪入れずにカリチェンコに突進する。  カリチェンコの小銃が狙いを定められないうちに、ヤポン人はカリチェンコの小銃をたぐりよせる。銃を引かれてバランスを崩したカリチェンコを、小柄なヤポン人がきれいに投げ飛ばした。カリチェンコが壁に叩きつけられて動けなくなるのを見届けてから、ヤポン人は今度はユロフスキに襲いかかってくる。  目を見張るような素早さだったが、カリチェンコが倒れるのを見届けたわずかな時間が、ユロフスキに味方した。  ユロフスキはヤポン人に向けた小銃の引き金を、引いた。  地下室に銃声が響き、ヤポン人はのけぞって倒れる。 「バシレフ、カリチェンコ、大丈夫か?」  問いかけに対する返答はなく、かわりにヤポン人がうめいた。  慎重にヤポン人に近寄ると、ヤポン人は苦痛に顔をゆがめながら左肩を押さえている。ユロフスキは、銃剣の切っ先をヤポン人の喉につきつけて、言った。 「ロシア語は判るか?」  ヤポン人は理解できないふうに首を振った。 「お前、英語は判るか?」  今度は、英語で言ってみる。 「…少し」  そう答えるヤポン人は、まだ少年らしさを残していた。十五、六才といったところだろうか。こんな子供のようなやつに、武器を携行した熟練の兵士が素手でやられてしまうとは…ヤポン人もあなどれん。  ユロフスキは唇を噛んだ。 「何という技だ、今のは」 「ヤワラ」 「俺の部下は、死んだのか?」 「ヤワラは、人を殺さない」 「ほう、それは面白い技だ。お前、名前は?」 「シンノスケ」 「そうか。シンノスケ、お前はこの研究所の警備員か?」 「ケンキュウショ?」  どうやら単語がわからなかったようである。それとも、ユロフスキの発音が悪かったのか。ユロフスキは舌打ちした。ユロフスキ自身がさほど英語が達者でないこともあり、あまり細かい情報は聞き出せそうにない。  ユロフスキは真之介から離れると、室内を見回した。研究所とは名ばかりの狭い地下室である。まるで、何かの倉庫のようだ。地下室の奥には、美しい日本女性をかたどった人形があり、その奥には……。 「なんだ、これは」  ユロフスキは自分の目を疑った。この人形は、ガラス容器におさめられたむき出しのヒトの脳とつながれているのだ。人形そのものは蒸気駆動式のようだが、それを直接人間の脳で制御しようというのか。それとも、人間に新たな肉体を与えようというのだろうか…。  物音に振り返ると、倒れていたバシレフが体を起こそうとしているところだった。 「バシレフ、カリチェンコの様子を見てやれ」  ユロフスキは言うと、設備の状態を改めはじめた。  結線をはずせば、人形は持ち出すことが可能である。が、脳のほうは維持装置が複雑で持ち出すのは容易ではなさそうだ。今回の任務にあたり、もしも持ち出せない場合には破壊せよ、という命を受けている。人形を運び出したら、脳のほうは始末するしかない。  ユロフスキは銃剣で結線を切ろうと、人形に近寄った。人形の目が、ユロフスキの動きを追っている。 「くっ、薄気味悪い…」  銃剣が結線を切断する。人形の目の動きが止まったのを確認して、ユロフスキは人形を抱え上げた。 「かあさん…」  真之介の声に、ユロフスキは振り返った。彼は、ユロフスキに懇願するような目を向けている。 「あれが、お前の母親だというのか?」  ユロフスキは信じられない思いで脳を見る。が、やがて首を横に振った。 「悪いな。任務なんだ」  部下を振り返ると、カリチェンコがバシレフに助け起こされているところだった。 「人形は確保した。お前たちは、そこの容器と中身を完全に破壊してこい」 「…了解……」  ユロフスキは肩に人形を担いで、階段を登りはじめた。背後では小銃が発射される音が響く。  小銃の連射音の向こうから、真之介が母を呼ぶ、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。 「あの青いのに、スターリンが乗っているのかな? 予定通りだ…」  ラスプーチンは建物の陰から様子をうかがいながら、ひとりごちた。 「ラスプーチンさま」  一人の女がラスプーチンに駆け寄ると、静かに言う。 「どうした」 「富士山の天候が荒れはじめたようで、通信が途絶えました」 「アミュレットは?」 「山頂で源道から奪った、という連絡は受けております。ですが、それ以後は連絡がなく、心配しております」 「心配してもはじまらん。もう二、三人送って、様子を探らせろ」 「承知いたしました」  女はラスプーチンから離れると、街並みの中へと消えていった。  ラスプーチンはヒゲをしごきながら、考えをまとめようと集中する。  彼が仕組んだ通り、ロシアは兵力を送り込んできた。そして、源道の実験機である『零式』を奪った今、次はスタナの持つ偽のアミュレットを奪おうとするだろう。しかし、そこでスターリンは感情に走って失敗する。それが彼の考えた筋書きだった。  本物のアミュレットを奪いに行かせたまでは良かったが、奪った手下との通信が途絶えたのは痛い。モノがこの手に収まるまでは、まだ安心できなかった。  それにあの青い機体…。  予想以上の完成度と見た。新潟に上陸した『エヘズケール』に毛の生えたレベルを想像していたのだが、動きを見ている限りでは、格段に進歩している。操縦者がスターリンのレベルで、しかも感情に流されて無謀な動きをしたとしても、かなりの性能を発揮するだろう。スタナの七八式で、互角に戦えるかどうか……。徳子の二号機の動きが、状況を大きく左右するかも知れない。  と、青い機体が動いた。周囲の建造物には頓着せず、それらをなぎ倒すように走る。  速い!  ラスプーチンは目を見開いた。あの動き、まともな人間ならば耐えられないはずだ。スターリンならば耐えられるかも知れないが、しかし…。  読まれたか?  ラスプーチンの脳裏を、レーニンの顔がよぎる。こちらの意図を悟って、スターリン以外の者を搭乗させているとしたら、スタナに勝ち目はない。  ユロフスキは零式を自機に積み込んでいる。その姿にちらりと目をやってから、ラスプーチンは青い機体が走っていった方向に駆け出した。  青い機体はなめらかな動きで走りながら、前方から迫ってくる七八式を迎撃する。七八式は薙刀を手に、青い機体に突進した。と、青い機体は宙に舞い、七八式を飛び越す。 「いかん!」  走るラスプーチンの口から、思わず声がもれた。  操縦者の才能と機体の性能の違いから、スタナの七八式は後続の二号機と七五式を大きく引き離してしまっている。援護が来るまで、まだ時間がかかりそうだった。逆に、ユロフスキ部隊はすでに二機が七八式に迫っている。 「スタナ、逃げろ!」  ラスプーチンの叫びは、届かなかった。 「飛んだ?」  スタナは視野から消えた青い機体を追うため、機体を反転させる。が、敵の速さに危機感を覚えた彼女は、ただの反転ではなく『コサック』にした。日本風に言えば、まわし蹴りである。  案の定、青い機体は七八式に迫ってきており、蹴りをかわすために急停止した。それも、慣性がはたらいて操縦者が操縦席から投げ出されそうな勢いである。 「なんて人なの、このパイロットは!」  スタナは薙刀を構え、青い機体と向かい合った。敵機の操縦席に座っている人物は、操縦席を覆っている装甲板の隙間から、目だけが輝いて見える。その操縦者が、視界を確保するために細くあけられたのぞき穴の向こうで、ふと首をかしげた。 「何?」  スタナは、相手の顔をよく見ようと目を細めた。のぞき穴から見える黒い目が、彼女の心のどこかに触れた。  見覚えのある目である。  そしてあの時と同じように、ひたむきな視線をスタナに向けていた。 「まさか……イリヤ…」  青い機体の無線から、女の声が聞こえてくる。スタナのところにまで聞こえてくるほどの大声で、何やらヒステリックに怒鳴っているらしい。途端に、青い機体が迫ってきた。スタナは慌てて腕を上げ、敵の突進を防いだ。操縦席ののぞき穴どうしが近づき、相手の顔がよく見える位置になった。  敵機の操縦者は、鉄仮面をかぶった男であった。  鉄仮面の男は、間近にスタナの顔を見て、ふたたび首を傾げた。 「イリヤ、その女を殺してしまいなさい! いますぐに!」  敵機の無線から、ロシア語が流れ出て来るのが聞こえた。それは女の声で、なぜかスタナには聞き覚えのある声であった。しかし何よりも、その女の声が操縦者に呼びかけた名前が、スタナの頭の中でこだました。 「イリヤ! あなたなの? 私、スタナよ!」  鉄仮面の男は、スタナを見据えたまま何やら考え込んでいる。 「いいから、その女を殺しなさい!」  無線から女の声が吐き出される。  その声で呪縛が解かれたように、青い機体は動きはじめた。突進を受け止めた七八式の腕をとると、それをひねり上げるように機体を回転させる。  ミシッ。  鈍い音がしたかと思うと、七八式は前にのめるように倒れた。頭を打たないように衝撃に備えたスタナだったが、操縦盤が腹部に強くあたり、息ができなくなってしまう。しかも、容赦なく七八式は背後から殴られ続け、そのたびに衝撃がスタナを襲った。  蒸気管のどこかが破損したのか、蒸気のもれる音が聞こえてくる。衝撃に耐え続けるスタナは何度か頭を打ち、次第に意識がもうろうとしてきた。 「アナスタシア皇女?」  不意にロシア語で声をかけられ、スタナは目を開いた。いつのまにか衝撃は止んでおり、銃を手にした男が装甲板をこじあけ、地面と機体の隙間から操縦席に入ってこようとしている。いかにもスラブ民族らしい、金髪の青年だった。 「アミュレットをお持ちですね? おわたしください」 「ポポフ、急げ! 敵の蒸気人形が一ダースも近づいてくるぞ!」  機体の外から声がかけられる。顔をのぞかせている男は、銃口をスタナに向けると静かに言った。 「あまり時間がありません。あなたを撃ってでも、私はアミュレットをいただかなくてはなりません。さあ」  神は、私を試されているのね……。  スタナは目を閉じ、首にかけたアミュレットをはずした。  愛する弟の思い出。それを象徴する品物。誰にもわたしたくない、とても大切なもの。でも…。 『一番大切なものを失わない限り、また新たな何かを得る可能性は残されている』  そうよね、イリヤ。生きていれば、必ず…。  だが、そのイリヤですら、まるで意思のない人形のように、おそるべき力でスタナを攻撃してきた。  アリョーシャ。  イリヤ。  とっても、大切なのに。  どうしてこんなことになってしまうの?  私、何か悪いことをした?  スタナの目から、一筋の涙が流れ落ちた。  首からはずしたものの手放せなかったアミュレットが、ひったくられるようにして手から離れていく。目を開けると、ポポフと呼ばれた兵士は銃口をスタナに向けたまま、悲しげな表情をした。 「申し訳ありません、アナスタシア皇女。もしもあなたの身柄を拘束できない場合には、命を奪うように言われておりますので」 「ポポフ! ああ、もう間に合わんぞ。うわぁっ!」  外で叫び声が上がるのと、ポポフの銃が火を吹くのが、同時だった。 「どきなさいよ!」  徳子は、邪魔に入るブリキ人形を薙刀で受け流すと、スタナの七八式にのしかかっている青い機体めがけて、薙刀の柄を突き入れた。青い蒸気人形は七八式と絡み合うように転がって、神田の外堀へと落ちていく。 「あっ。アヤ!」  徳子は、後続の七五式がブリキ人形たちの相手をしてくれる位置まで来ていることを確認してから、掘の端まで移動した。掘の斜面には、青い機体がしがみついている。そして、スタナの七八式は激しく水蒸気を上げながら水面下に姿を消しつつあった。 「しつこいわね、あなたも!」  斜面にしがみついている青い敵機めがけて薙刀を振り下ろす。と、青い機体は宙を舞った。まるで猿の曲芸のように掘の反対側まで跳躍すると、掘の上に着地する。ゆっくりと起き上がる青い機体を見て、徳子は心の底から恐怖を覚えた。  なんなの、あれは…。  青い敵機はふたたび跳躍すると、掘のこちらがわにやってきた。徳子は恐怖に凍りついたが、敵は徳子に興味がないようだった。青い敵機はブリキ人形たちの相手をしている七五式に接近すると、やすやすと三機打ち倒し、赤軍のブリキ人形たちの退路を確保している。  やがて、彼らは青い蒸気人形をしんがりに、退却をはじめた。青い機体は驚くべきしなやかさで追撃する七五式をあしらいつつ、六機の蒸気人形は一団となって、東に向かって移動していく。  そして、その一部始終を、徳子はただ呆然と眺めるばかりだった。  オオオオオ…。  不意に地鳴りのような音が聞こえ、徳子は我にかえった。音がしたのは、堀の中である。見ると、七八式が沈んだあたりが激しく泡立っていた。  と、水中から七八式が飛び出す。弾き飛ばされた水滴がキラキラと輝き、その向こうでは七八式が先ほどの青い機体と同じような滑らかさで跳躍していた。七八式は徳子の二号機の脇に着地すると、そのまま停止する。  操縦席から大量の水を吐き出しながら蒸気を上げている七八式に、一人の老人が駆け寄っていった。 「あの人…」  徳子は老人の顔を見たことがあった。たしか…。  老人は操縦席からぐったりとしたスタナの体を引きずり出すと、背負って歩き出す。 「そう、あの人は…この蒸気人形を作った、左甚五郎さん……」    五、帝都・成願寺  スタナは目を開けた。彼女は柔らかい布団に包まれて横になっている。そこは見知らぬ和室で、隣りにはもう一組の布団が敷いてあり、真之介が横になっていた。スタナはゆっくりと体を起こしたが、体のあちこちが痛んで思わず顔をしかめる。また、喉のあたりに違和感を覚え、軽く咳払いをした。何かにむせた後のような感じである。 「気がついたみたいだね」  真之介が横になったままで言った。 「ここ、どこ?」 「甚五郎さんの知り合いの、お寺だって」 「ジンゴロウさんって…飛騨の?」 「なんかいろいろあったみたいで、今はこっちに出てきてるみたい」 「ふうん。それで、私たちはなんでここにいるの?」 「スタナは七八式と一緒に堀へ沈んで、だいぶ水を飲んだみたいだね。僕は……撃たれちゃった…」  真之介が珍しく弱々しい口調で言った。 「大丈夫なの?」 「うん」  真之介は小さく言うと、布団を頭からかぶる。スタナは真之介の声が悲しげに震えているのに気付いたが、あえて何も問わずに記憶の整理をはじめた。  青い蒸気人形。イリヤ。ポポフの銃口。そして、転落。  ポポフが撃った弾は、当たらなかったようだ。その後の落ちていく記憶は、堀に落ちたらしい。水の記憶はない。堀に落ちた段階で、すでに意識がなかったのだろう。 「真之介」 「……何?」  真之介は、一度鼻をすすってから布団の中で答えた。 「どこ、撃たれたの?」 「肩」 「痛むの?」 「別に」 「じゃあ、何メソメソしてるのよ」  真之介は答えない。スタナは諦めて、ため息をついた。 「入るよ」  声がして、障子が開けられた。やってきたのは、左甚五郎と見知らぬ僧衣の老人である。甚五郎は、スタナの記憶にあるよりも、いささかくたびれているように見えた。 「気がついたようで、何より。こちらはこのお寺のご住職、観光禅師だ」  甚五郎は障子を閉めてあぐらをかき、観光禅師と紹介された老人はのんびりと正座した。老人はスタナの顔を穏やかに見つめると、深々と頭を下げる。 「観光でございます。はじめてお目にかかります」 「はじめまして」  スタナは布団の上で半身を起こした姿勢で、頭を下げた。 「実は、観光禅師を巻き込みたくはなかったのだがね。君たちふたりをかくまってもらった以上、何も知らせないのは仁義にもとるから、こうして観光禅師に同席してもらっている次第なんだよ」  いつになく神妙な甚五郎の口調に、真之介は驚いた表情で布団から顔を出した。 「『エヘズケール』の図面を、調べた。非常に興味深いものでね、いろいろ新しい考え方を学ばせてもらったよ。しかし、いくつか何でできているのか不明の部品があってね。新潟で大破した機体をもとに調べていたところ、どうも生体部品らしいことがわかったのだ」 「生体…部品?」  生きた部品とは、いったいどのようなものなのだろうか。スタナは甚五郎の次の言葉を待った。 「詳しいことは判らない。だが、そのおかげで滑らかな動きが可能になっているのは確かなのだ。正直なところ、その生体部品が人間の肉体から作られているものでも、私はさほど驚かない。ご神木も、同じような考え方で作られているわけだからね」 「ご神木が『作られている』ですって? どこかにひっそりと生えているようなものじゃないんですか?」  アナスタシアの言葉に、甚五郎はうなずく。 「ある特殊な環境下におかれたすずかけの木が、ご神木となる。簡単に言うと、根元に人の死体が埋まっているのが一番良い。死者の思いが木に宿り、特別な木となるのだ。だが、ご神木は使い手を選ぶ。木に込められた死者の思いと同調できる人間でなければ、使いこなすことができないのだ。ちなみに、七八式の一号機に使われたご神木の根元には、戦国時代のとある姫君が眠っていたと言われている。今でもほこらがあるがね。言い伝えによれば、家臣の謀反によって家族を奪われた姫君が、ひとりで逃亡生活を送っていた。しかし、最後に逃げ場を失った姫君は、沼に身を投げて自らの命を断った。あわれに思った旅の僧侶が、沼の近くに生えていたすずかけの木の根元に姫君のなきがらを埋め、丁重に葬ったのだそうだ。なぜアナスタシアに七八式が使いこなせて他の者にはできないのか、これで理解できるだろう。それに、アナスタシアが意識を失った後に、どうして堀から飛び出すなんて芸当ができたか、ということもね」 「じゃあ、二号機は…」 「ほかにもいろいろと条件はあるのだが、わかりやすく言うと徳子さんの母上の遺品が根元に埋められていた。だから、乗り手は徳子さんでなければならない。しかし、これは不便なことだと思わないかね? 『エヘズケール』のような形であれば、部品さえ揃えば誰でも高い性能を引き出せるのだ。今日、君たちも見ただろう、あの青い蒸気人形を。操縦者の肉体がその動きに耐えられる限り、ほぼどのような動きでも可能なのだ。私はエヘズケールの図面を解析して、そのことに気付いていた。そして、そのことを源道君に話したのだ。そうしたら、彼は何と言ったと思う?」  甚五郎は問いかけたが、誰も答えなかった。 「『なるほど。それではあなたの役目は終わった。生体部品の研究はこちらでやるので、あなたはのんびり引退してください』などとぬかしおったのだ。私もくやしまぎれにあれこれ調べてみた。すると、登戸の研究施設で、すでに生体部品の研究を始めているというじゃないか。しかも、革命で国を追われたロシア人を雇ってね。すでに、シベリア出兵に出た兵士たちをわざと死なせ、ご神木を量産しようという計画さえ練っているのだ。ご神木とエヘズケールの生体部品が組み合わされたら、いったいどのようなものができると思う? その技術さえあれば、君の母上の再生だって……」  甚五郎はそこまで言って、はっと口を閉じた。 「母は、あの赤軍兵たちに『殺され』ました…」  真之介が悲痛な口調で言った。 「そうだったな、すまん…」  甚五郎がうつむく。 「天意というものがあります」  唐突にそう言うと、禅師は立ち上がり、障子を解放した。ひやりとした空気が室内に忍び込んでくる。いつのまにか雲が出て薄暗くなっていたが、庭の見事な枯山水ははっきりと見えた。禅師は枯山水を手で指し示しながら、ゆっくりと語り出す。 「これが、天意です。そして、世界です。命であり、あなたがた自身でもあります。我々がどのようにあがこうと、必ずそこにあるものです。変転しますが、普遍でもあります」  禅師はスタナ、真之介、甚五郎を順に見て、にこりと笑った。 「すべては定められた位置におさまる運命にあります。我々には、その位置がどこなのか判りません。判らないのですから、むろん変えることなどできはしないのです。もしかすると、もうおさまるべき位置におさまっているのに、気付いていないだけかも知れませんしね。甚五郎さん。いつも申し上げてきたでしょう? 人は必ず死にますが、必ず生きもするのだ、と。そろそろあきらめて、一緒に碁をうちながら余生を過ごしませんか?」 「確かに、今はこれまでになく心が揺れているよ、観光どの。感じることなどないと思っていたのにな、後悔なんてものは…」  甚五郎が頼りなげな声を出した。 「そちらの若いおふたり。いろいろと辛い目に遭われてきたようですが、もしもおふたりが私の弟子ならば、私はあなたがたにこのような問いを与えます。『あなたがたの誕生の時はいつですか?』とね。もしも興味がおありなら、ぜひ考えてみてください。おそらく、その答えがあなたがたの道標となるでしょう」  甚五郎が、大きなくしゃみをした。禅師は空を見上げ、小さく身震いする。 「冷えてきましたな。これは、雪が降るかも知れません。甚五郎どの、我々年寄りは、向こうの暖かい部屋で一局うつことにしましょう。おふたりは、こちらでゆっくりお休みなさい。食事の支度ができたら、お呼びします」  禅師は甚五郎が立つのを待って、障子に手にかけた。 「あっ、そのままでいいです…」  スタナは立ち上がり、枯山水がよく見えるところまで進み出る。  禅師はスタナに優しく微笑みかけると、甚五郎と連れだって去っていった。  枯山水。  いくつか大きめの石があり、その周囲に小石で波紋のような模様が形作られている。何をあらわしているのかスタナには理解できなかったが、見ているとなんとなく落ち着くような気がした。  ふと振り向くと、真之介も障子のへりにつかまるように立ち、枯山水を見ていた。肩に巻かれた包帯が痛々しい。 「判る?」  スタナは真之介にたずねた。 「ぜんぜん。スタナは?」 「私も。でも、すごく奇麗だよね」 「うん」  ふと、白いものが空から舞い落ちはじめる。 「あ、雪…」  クリスマスパーティなんか、なくてもいいかな…。  空を見上げる真之介の横顔を見ながら、スタナはそう思った。                                (第八話・完)