『超電磁人間アキヒロ』
                              滝澤真実

「なんだ、オラ。てめー、ブッ殺すぞ」
 男の怒声に、明弘はにこやかに応じた。
「ありがとうございます。お願いします。私、死にたかったものですから」
 男の表情が、凍りついた。
 それを機に、明弘は男を観察する。
 男は身長一七〇センチ弱。茶色の長髪で、日焼けをした褐色の肌を持っている。目は一重で細く、薄い黄色のサングラスをかけていた。やや細めの体は黒いTシャツに包まれていて、首には金色のネックレスが輝いていた。
 そこまで観察したところで、男が我に返った。
「上等じゃねぇか、やってやるよ!」
 男は明弘の胸倉をつかむと、拳を明弘の顔面に叩きつけてくる。鼻のあたりに激痛を感じた明弘は、目の前に星のような光の粒が飛ぶのを見た。
 ああ、殴られると、本当に星って見えるんだ――。
 場違いにも、明弘は感心していた。反射的に涙が流れ出す。鼻がツンと痛み、流れ出した鼻血が口に入ってきた。
「こんなんじゃ、死なないですよ。はやく殺してくださいよ」
 明弘が言うと、男は彼の胸倉から手を離し、目に見えて動揺した表情になった。
「畜生っ!」
 男は悲鳴に近い声を出しながら明弘の腹に拳を突き上げる。しかし、明弘が反射的に腹に力を入れてしまうと、その腹への打撃は耐えられないものではなかった。筋肉質のほうが女にモテるだろう、などと勘違いをして、トレーニングをして鍛えていたのが悪かったようだ。
 もっとも、腹を殴られただけで死ねるはずもないのだが。
「お願いしますよ。殺してください。ナイフとか、持ってないんですか?」
 男は一歩引いた。
 明弘は、一歩詰め寄る。
「できもしないのに、殺すとか言ったんですか? 無責任ですね。だいたい、人が死ぬってどういうことか、あなたわかってます?」
 男は無言のまま明弘に背中を向けると、歩き出した。明弘はその後を追って男に駆け寄り、声をかける。
「あの、待ってくださいよ……」
 男は猛然と走り出し、明弘の視界から消えていった。
 意気地なしめ。
 明弘はそう思ったが、意気地なしという意味では、死にたいと言いつつも自らの命を絶つことに踏み切れないでいる自分自身も、十分に意気地なしなのだと思った。
 たとえば、高い建物の上から、地面を見下ろしたとき。遠くに見える地面が自分を呼んでいるような、吸い込まれそうな、そんな感じがする。飛び降りたい、飛び降りてしまえば楽になる、そう思うのだが、動物的な本能のようなものが邪魔をして、明弘を後退させるのだ。駅のホームで、通過電車が猛スピードで目の前を走り抜けていくときも、そう。信号待ちをしていて、ほんの一メートル先をダンプカーがうなりを上げながら通過していくときも、そう。
 吸い込まれそうになる力と、それに反発する力。
 俺は磁石なのだ、と明弘は思う。
 体の中で、磁石が回転しているのだ。N極とS極がぐるぐる、回っている。Nは「逃げ出す」のN。Sは「辛抱する」のS。N極が前面に来ているときは、もう何もかも放棄して逃げ出してしまいたくなる。高い場所から見下ろす地面や、目の前を高速で通り過ぎていく電車やトラックは、だから、S極なのだ。N極が優勢になっている明弘は、引き寄せられてしまう。
 逆にS極が前面に来ているときは、辛抱しようと思う。苦痛に耐えていれば、努力を続けていれば、いつかは事態が好転するのではないかという可能性を信じることができる。その意味では、Sは「信じる」のSでもある。
 磁石はいつも高速で回転しているから、たとえば高い場所から下を見下ろしたときなどは、「飛び降りたい」「飛び降りたくない」という感情の繰り返しが発生する。逡巡、というやつだ。ただ、どっちの感情にも偏らないでいるから、どうしようか決められなくなり、とりあえず現状維持を選んでしまう。どっちでもいい、どうでもいい、と思ってしまう。
 そう、どうでもよかった。
 明弘はぼんやりと立ち尽くし、自分の鼻から滴り落ちる鼻血がアスファルトの上に不規則な水玉模様をつける様子を見つめていた。
 頭の位置を動かすと、赤いしずくが落ちる位置も変わる。
 絵でも書いてみようか。
「これ、どうぞ」
 不意に声をかけられて、明弘は顔を上げた。女が一人、ポケットティッシュを明弘のほうに差し出して立っている。女は濃紺のジーンズに白いブラウスという身なりで、黒いバッグを持っている。髪の毛はゆるくカーブしていて黒。肌は白く、化粧は薄い。
 明弘がのんびり女を観察していると、女はポケットティッシュを彼の手におしつけた。
「ひどいですね、さっきの人。きっと、因縁をつけるためにわざと肩をぶつけたのよ」
「見てたんですか?」
 言いながら、明弘は手の中のティッシュを見た。街角で配られているようなティッシュではなく、ちゃんとしたメーカー品の、しかも最高級品だった。やわらかくて、肌触りも最高のティッシュ。
「ええ、見てましたよ。私、あなたのすぐ後ろを歩いてたから」
「そうですか……いっつもボーっとしてるから、よくぶつかったり、つまずいたりするんですよ」
 明弘は、笑い顔を作った。
 女は、ためらいがちに口を開く。
「あの…鼻血……」
「ああ、そうでした。ティッシュ、使わせていただきます」
 言うと、明弘はティッシュを一枚取り出し、思い切り鼻をかんだ。
「やだ! なにしてるんですか?」
 女が悲鳴に近い声を出した。
「何って、鼻をかんでるんですよ」
 明弘は、血で真っ赤に染まったティッシュを見て、ずいぶんたくさん出るな、と思っていた。
「だめですよ。鼻血が出てるときに鼻をかんじゃ」
「どうして?」
 もういちど、鼻をかむ。すでにたっぷり血を吸って弱くなっていたティッシュは、簡単に破れてしまった。
「どうしてって……よくそう言うじゃないですか」
「誰が?」
「それは――」
 女は困惑した表情になり、視線を宙に漂わせた。
「これ、ぜんぶもらっちゃってもいいですか? ティッシュのパッケージ、血で汚しちゃったので」
「あ、いいですよ」
「それじゃ、どうも。ありがとうございます」
 礼を言って明弘は女に背を向けた。
「あ、あの!」
 女は明弘を呼びとめるように声を出した。
「はい、なんでしょう?」
 振り向くと、女はしばらくためらっってから、思い切ったように口を開いた。
「…あの……どうして『死にたかった』なんておっしゃるんですか?」
 明弘は答えるのが面倒になり、無言のまま、再び女に背を向けた。
 歩き出した明弘に、女は声をかけてこなかった。

「あれ、植田さん、顔どうしたの?」
 鼻を中心におおきく腫れ上がった明弘の顔を見た職場の同僚たちが、次々に声をかけてくる。明弘は同僚全員に問われるたびに、笑顔で答えた。
「いやあ、ちょっと喧嘩に巻き込まれちゃいまして」
 笑ってみるものの、腫れた鼻のせいて、うまく笑顔になっていないように感じられた。自分の顔でないような、かたい仮面をかぶっているような、そんな感じである。
「それより、今日も社長は休みですか?」
「そ。連絡もなし。まったく、どこで遊びまわってるんだか」
「社長に決裁をお願いしたいものがあるんですけど……」
「後回しにしていいんじゃない?」
 そんな会話をしながら明弘は席に座ったが、不意に何もやる気が起こらなくなった。
 仕事に支障が出なければ顔が腫れようが痣ができていようが関係ない、と思っていたのだが、鼻のあたりがじくじくと痛みつづけ、仕事にも集中できそうにない。痛みに耐えて努力するのもバカらしいので、明弘は早退することにして、さっさと会社を出た。
 外は、晴れている。
 明弘の顔は腫れている。
 晴れと腫れ。
 明弘は笑った。
 笑うと、鼻に鋭い痛みが走る。
 職場の近くの公園に入り、明弘はベンチに寝そべった。
 青い空。白い雲。木の葉の緑。木の幹の茶色。
 ありきたりだ。
 明弘はありきたりでないものを探して、空の中央で輝いている太陽を見つけた。その太陽を、じっと見つめてみる。最初、太陽は白色だったが、見つづけるうちにいろんな色が混ざってきた。黒が基本になっていて、紫や濃い赤、青など。じわじわと太陽の姿がにじみ、青い空にも黒紫の斑点が侵食していく。
 太陽も本来はありきたりなものだったが、直視してみると、ありきたりでなくなった。おかげで、空までありきたりでなくなる。
 目が痛くなり、明弘は目を閉じた。
 涙がとめどなく流れた。
 何もかも、無意味だ。
 無意味だとあきらめているのに、ずっと前にあきらめたはずなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
 目を閉じたって、太陽の残影はまぶたの裏側でぎらぎらと黒く輝いて見える。
 忘れようとしても、鼻の痛みも薄れない。
 人間は同時に二ヶ所の痛みを感じられない、という話を思い出し、明弘は拳をにぎりしめて自分の腿を強く殴りつけた。何度も、何度も。力を入れようと歯をくいしばるたびに、鼻が痛んだ。殴るうちに、指の関節がポクッという音をたてて、鳴った。
 人気のない公園に、指の関節の鳴る音がむなしく響く。
 痛みに耐えようとじたばたしている自分が間抜けに思えて、殴るのをやめた。
 脈拍にあわせて、腿がじん、じん、と痛んでいる。
 鼻は、じく、じく。
 明弘は、もう一度ベンチに体を横たえて目を閉じると、じんじん、じくじくいう回数を数えはじめた。
 一、二、三……。
 近くの通りを、車が走り抜けていく。平板なエンジン音は、たぶんタクシーだろう。車体の色は、きっと黄色。
 二八、二九、三〇……。
 誰かの足音。アスファルトを打つかかとの音が軽いので、おそらく女。靴はかかとの低い黒のパンプス。どこかの企業の営業職で、グレーのスーツ姿をしているに違いない。
 五五、五六、五七……。
 靴音は公園の中に入ってきた。こんなところで寝ている男を見つけたら、女は驚くだろうな。しかも、その男の鼻は醜く腫れ上がっている。
 空は青く晴れ上がり、鼻は紫色に腫れ上がる。
 ナンセンス。
 八二、八三――。
 足音は明弘のすぐ近くで止まり、女の声が聞こえた。
「植田さん、何してるんですか?」
 明弘は目を開けて、女を見た。女は会社の同僚であった。名前は大塚麻耶。彼女はグレーのスーツ姿などではなく、白とブルーのチェック柄のシャツに膝丈の黒いスカート、という服装だった。シャツの上には、黒い薄めのカーディガンを羽織っている。
 予想は全部はずれ。
「ねえ、植田さん。大丈夫?」
 黙っている明弘を気遣うように、麻耶が言う。
「大丈夫ですよ。今、数をかぞえてたものだから」
「数を?」
「脈にあわせて鼻がうずくんで、その脈の数をかぞえてたんです」
 そう明弘が言うと、麻耶は突然大声を出した。
「ダメですよ! やっぱり痛むんじゃないですか。ちゃんと冷やしました?」
「ぜんぜん」
「もう!」
 麻耶は怒ったように言うと、ぱたぱたと走っていった。なにをするのかと見ていると、彼女は公園内の水飲み場まで行き、自分のハンカチを水でぬらして戻ってきた。
「はい、これで冷やして」
 言いながら、ぬれたハンカチを明弘の顔にあてる。
 べちゃ、という感触と同時にひんやりとして、少しだけ気持ちいい。
「すみません」
 明弘が言うと、麻耶は陽気な声で応じた。
「ちがうでしょ。『すみません』はお詫びの言葉。感謝しているときは?」
「…ありがとう」
「はい、どういたしまして」
 明弘は、ハンカチをずらして目だけ出し、麻耶を見た。彼女はその明弘の様子を見て、微笑む。
「ねえ、植田さん」
「はい」
「もう少し、自分を大切にしましょうよ」
「どうして?」
「怪我して、それを放置して、痛いままでいて、楽しいですか?」
「ぜんぜん」
「じゃあ、どうして放置しとくんですか?」
「別に、怪我が治ったって、いいことなんかないですから」
「どうして? 痛くなくなるのは、うれしくない?」
「鼻の痛みがなくなっても、別の痛みを感じるから。どうせ痛いなら、どっちでもいい」
 麻耶は不満そうな表情で明弘を見た。ややあってから、彼女はため息をつき、口を開いた。
「そうやって、ほかの痛さでごまかそうとするんだ。傷が治った後の別の痛みっていうのを治そうともせずに」
「努力は、したさ。精一杯に。でも、ダメだった。だから、あきらめた。どうせ痛いんだ。どうせ苦しいんだ。だったら、何したって同じ。生きてる間は、ずっと、同じ」
 そう言おうと思ったが、明弘は言葉を飲み込んだ。かわりに出てきた言葉は、もっとシンプルなものだった。
「そうだよ」
「最低。私、植田さんは、もうちょっとマトモな人だと思ってました。植田さんって、ちょっと素敵だな、って思ってたのに。そんなイジケた人だとは思わなかった」
 麻耶が火の出るような強い視線で、明弘をにらみつけた。明弘はその視線をさえぎるように、ぬれたハンカチを目の上にかけた。
「俺は、ゴミさ」
 麻耶はため息をついた。
「さよなら。そのハンカチ、いらないんで、捨てちゃってください。じゃ」
 声のあと、足音が遠ざかっていく。規則正しく、カッ、カッ、と響く靴音を、明弘は数えた。
 三八まで数えたところで、その足音は通りを走る車の音にかき消されて、聞こえなくなった。
 彼女が公園入ってくるときに数えていた数字は八三。出て行くときには三八。不思議な一致。入ってくるときと出て行くときとで、数字がさかさま。
 そういうものか。
 自分はN極。彼女もN極。反発して、遠ざかる。
 やっぱり、そういうものか。
 明弘は、ぬれたハンカチを持ち上げ、じっくりと見た。シンプルな、ガーゼ地の白いハンカチだった。強く握ると水がしみだしてきて、手首からひじ、上腕まで伝いおちる。
 そして、明弘はハンカチを投げ捨て、また目を閉じた。

 翌朝、通勤の途上で、明弘は再びあの女に会った。例の、ティッシュをくれた女。
 都心で働く社会人というのは、だいたいが同じ時間に同じ電車から降りて、同じ時間に同じ場所を歩く。その意味では、気づいていなかっただけで、以前から明弘は彼女とすれちがっていたのかもしれなかった。
 明弘が先に女の存在に気づいたが、わざと目をそらし女に気づかないふりをした。しかし、女のほうから声をかけてきた。
「おはようございます」
「あ。昨日はどうも」
「鼻、ずいぶん腫れて痛そうですね。大丈夫ですか?」
「見た目ほどひどくないです」
「そうですか、良かった…」
 何が良かったのかわからないが、女がそう言ったので、明弘は愛想笑いを浮かべた。早足で歩く明弘に、女が必死になってついてくる。
「あの、警察とかには行かれたんですか?」
「いいえ」
「どうして行かないんですか?」
 どうも、昨日から『どうして』という質問が多い。
「面倒だったから」
「でも、あんなふうに殴られて、黙っていていいんですか?」
「いいですよ」
「もしも警察に行って、証人とかが必要になったら、私、いくらでも証言しようと思ってたんですけど……」
「大丈夫ですから、気にしないでください」
「でも……」
 この女は、何が気になっているのだろう。
 まだ何か言いたげな女の顔を見て、明弘は思った。
 明弘がN極だとしたら、この女はS極なのだ。
 少なくとも、今は。
 磁石である、ということも、厄介なものである。明弘は、誰の記憶にも残りたくなかった。ただ無意味に生きて、ただ無意味に死んで、それでおしまい。彼が死んで喜ぶ人間も、悲しむ人間も、誰もいない。それが理想だった。
 しかし、磁石として生まれついた以上、誰かと反発し、誰かと引き合う、それは避けられないのだろうか。
「どうして、私なんかのことをそんなに気にしてくれるんですか?」
 明弘の問いかけに、女は困ったような表情をした。
「どうしてって……よくわかんないんですけど……」
 わからない。
 それが答え。
 そういえば、昔、学校で習った数学の中に『解なし』という回答があったっけ。そういうものなのだろうか。物事には原因と結果があって、すべてはその積み重ねで構成されていると信じて疑わなかったのだが、実際には違うのだろうか。つきつめて考えれば、すべてに結論が出ると思ってきたのだが、それは間違いなのだろうか。
 わからない。
 女の知性が足りなくて答えを導き出せないのか、明弘の知性がたりなくて『解なし』という答えを理解できないのか。
 なにも、わからない。
 やがて、明弘は思った。
 考えるだけ、無駄。原因と結果がわかっても、どうにもできない問題がある。動かしがたい現実というものが。
 だから、どんなに考えても、何の意味もない。
 くだらない。
「お気づかい、ありがとうございます」
 そう言って、明弘はさらに早足で歩き、女を振り切った。

 会社の近くまで来たとき、明弘の前に三人の男が立ちはだかった。そのうちの一人が、前日に明弘を殴った人間であることは、すぐにわかった。
「ケンジ、こいつか? 死にたいとかほざいてた奴ってのは」
 三人の中で中央に立ち、残りの二人を後ろに控えさせるようにしていた男が言った。
「そうです、タカさん」
 名前が決定。昨日明弘を殴った男がケンジ、偉そうにしているのがタカさん、もう一人はナナシくん。
「よう、ちょっと顔を貸してくれや」
 タカさんが言って、明弘の肩に手をまわすと、人通りのすくない路地へと導く。
「なにかご用ですか?」
「なあ、おめえ、死にたいんだってな?」
「厳密に言えば、違います。積極的に死にたいわけではなくて、死んでもかまわないというレベルなんです。自分から進んで死にたいとは思わない。でも、誰か殺してくれる人がいるのなら、死んでもいいかな、という感じで」
「そうかい。俺は一度、人を殺してみたかったんだ。死んでくれるか?」
 タカさんは言うと、明弘に一歩詰め寄ってきた。タカさんは目が細く、一重だ。そういえばケンジも一重で細い目をしていた。このての連中の流行なのだろうか。それとも、肉体的にこのような特徴をもつ人間が、こういう人間になるのだろうか。
「いいですよ」
「じゃあ、一筆書いてくれや。私はこの人に自分を殺してくれと依頼しました、ってさ。そうすりゃ、殺人じゃなくて自殺幇助で済む。ま、どのみち未青年だから、たいしたことはねぇけどよ」
「面倒だから、いやです。わざわざ書類に書いて依頼するほど、死にたいわけじゃないので。用事はそれだけですか? それなら、私は仕事があるので、行かせてもらいます」
 明弘が歩き出そうとすると、タカさんが笑いながら行く手をふさいだ。
「なあ、なめた真似、すんなよ。ケンジは、俺の舎弟でさ。舎弟がコケにされたとあっちゃ、黙って引き下がるわけにはいかねぇんだよな。落とし前をつけなきゃ、な」
「コケになんかしてませんよ」
「いや、殴っても倒れなくて、怖くなって逃げ出したなんて、ちっとマズイだろ?」
「それは私のせいですか?」
「ああ。てめぇには不満かも知れねぇが、俺たちは、そう考えてる」
 タカさんは気取ったふうに肩をすくめて見せた。
「で、どうするつもりですか? どうすれば落とし前をつける、っていうことになるんでしょうか。命をあげればいいんですか?」
 明弘が言うと、タカさんは歯車がきしむような笑い声をあげた。
「最初は、死んでもらうつもりだった。でもな、気が変わったよ。生きてても死んでてもどっちでもいい、なんていう奴の命なんて、ぜんぜん価値がねぇんだよ。そんなものをもらったところで、何の意味もねぇや」
 なるほど、と明弘は思った。生きたいと思わない奴の命は価値がない、か。タカさんは正しい。さすが、この知性の足りなそうな集団の中にあっては、ボスになるだけの脳味噌を持ち合わせている、ということだ。
 明弘はタカさんをちょっとだけ見直して、思わず微笑んだ。
「楽しそうだな、おい」
「そう、見えます?」
「ふん。まあ、いいや。ようするに、俺たちは、てめぇの『大切なもの』をもらいてぇんだよ。たとえばさ、ついさっき、女と話してたよな。あの女、今もちょっと離れた場所で、こっちの様子を心配そうな顔して見てるんだよ」
 明弘は首をめぐらし、女の姿を確認した。
「私、彼女の名前も知らないんですけど」
「そうかい。まあ、どっちでもいいや。まあまあ悪くない女だし、俺たち三人で楽しませてもらったあと、クスリ漬けにしてソープにでも売っぱらってやるよ」
「……そうですか。どうぞ。どうせ私には関係のない人ですので」
 嘘をついた。
 いや、嘘はいつでもついてばかりいるのだが、この嘘にはためらいがあった。一瞬だが、女のことが可愛そうになったのだ。
 彼女と明弘とは、たまたま磁石の向きが合って引き寄せられただけなのに、それでひどい目にあわされるのは哀れである。明弘なんかと関わり合いにならなければ、良かったのに。彼女は明弘と違い、生きたい、幸せになりたいと思っていることだろう。それが、奪われようとしている。
 誰かをそんな目に合わせるくらいなら、最初からおとなしく死んでいればよかった。誰とも関わらず、誰にも迷惑をかけず。生まれてこなければ良かったのだ。
 その思いが、一瞬のためらいにつながった。
 もちろん、タカさんはそれを見逃さなかった。
 さすがだね、タカさん。
「よお、どうした? ちょっと表情がひきつってるぜ」
「彼女も可愛そうに、と思ったんですよ。私みたいな人間に関わらなければ、ひどい目にあわされることもなかっただろうに、と思うと」
 タカさんはにこやかに笑った。
 笑いながら、膝で明弘の股間を蹴り上げた。
 防御しようとする間もなく、背骨を頭頂部までつきぬけるような痛みとともに、明弘は体を折って路地に倒れ込んだ。
 息が、できない。
 その直後、顔を蹴り上げてくるタカさんの靴が目に飛び込んできた。タカさんの靴は赤と黒のスニーカーで、ナイキのロゴが見えた。
 きっと自分がN極だとしたら、このナイキの靴はS極なんだ。
 明弘は、そう思った。

 暴力の嵐が過ぎ去ると、明弘は立ちあがろうとした。しかし、体に力が入らず、結果的に路地の上で毛虫のように体をよじらせただけで終わった。
 体中がじんじんとしびれたようになっていて、痛いとか痛くないとか、そいうレベルの問題ではなくなっている。ただ、とにかくすべての関節ががくがくしていて、どうにも地面から離れることができない。
 きっと、殴打の衝撃で、明弘の中の回転磁石が止まってしまい、N極に固定されてしまったのだ。だからS極である地面に引きつけられたままになってしまった。
 そんなことを考えていると、明弘は髪の毛をつかまれて、顔をむりやりタカさんのほうに向けられた。血が目に入って、世界が赤く見える。もちろん、タカさんの顔も赤く染まっていた。
「どうだ、気分は?」
 ぼちぼちです。
 そう答えようとしたが、声を出すために息を吸い込むことさえつらい。
「さあ、どうする。女を助けたいか?」
 タカさんは言いながら、顎をしゃくった。見ると、ケンジとナナシくんに、女が捕まえられている。
 ようするに、他の二人が彼女を捕まえている間、タカさんはひとりで明弘をこれだけボコボコにしてくれたわけだ。やるね、タカさん。
「なあ、生きたくも死にたくもない、とかほざいてねぇで、根性あるところを見せてみな。そういう何もかも諦めたようなことを言う前に、一度でいいから必死になってみろよ。どうでもいい、なんてのは逃げの言葉なんだろ? 本気だして、自分なり、あの女なり、守ろうとしてみろよ」
 やっぱり、やるね、タカさん。あんたは頭がいいよ。
 最低のクソ野郎だけど、物事をちゃんと把握してる。ほかの論理はすべてひとりよがりで間違っているが、こと明弘の心情に関しては、的確に理解しているようだ。
「…彼女を、放してあげて、ください」
 どうにかして声を絞り出すと、タカさんの表情が歪んだ。
「じゃあ、その代わりになにをくれるのかな。自力で死んでみせてくれるか?」
 死ねるだろうか?
 気持ちの上では、死ぬことができる。回転磁石が止まってしまった今、死から逃れたいという欲求は一切存在しない。しかし、今、この場には死ぬための道具はないだろう。それに、体がこれだけガタガタになっていては、どうしようもない。
 死ぬというのも、意外と体力のいるものなんだな。
 体力とかが関係のない次元に旅立つのに、体力が必要だなんていうのは、なんとも皮肉な話だ。
 では、どうすればタカさんを満足させられるだろうか。
 指でもつめるか?
 昔から、落とし前、と言えば小指を切り落として差し出す、と相場が決まっている。でも、やっぱり、そのための道具がない。タカさんならナイフぐらい持っているかも知れないが、タカさんから道具を借りるというのも筋違いだ。
 残るのは……。
 明弘は激痛できしむ体を無理に動かし、上半身を起こした。それだけで気が遠くなりそうな時間がかかったが、タカさんは辛抱強く待っていてくれた。
 まったく、理不尽な話だ。
 明弘がケンジに因縁をつけられたところから、理不尽だったのだ。理不尽に、明弘は殴られた。理不尽に、彼女は明弘を心配した。理不尽にケンジは腹を立て、理不尽にタカさんを巻き込んだ。タカさんは理不尽に血を求め、理不尽に彼女を人質にして、理不尽な謝罪を要求して、理不尽に待ち構えている。
 いや、そもそも、タカさんみたいな人間が生まれたのも、明弘が生まれてきたのも、ぜんぶ理不尽なのだ。磁石のN極だとかS極だとか、そんなものは関係なくて、世界には何も理由なんか存在していない。
 くそ、くらえ。
 明弘はこれから訪れるであろう激痛に備え、息をつめた。
 そして、右手の人差し指を、自分の右目に突っ込む。圧迫された眼球が黒と赤の混ざった斑点を見せる。それは、太陽を見つづけたときの黒紫の残像と、すこしだけ似ていた。
 明弘は生暖かく湿った感触の眼窩にのさらに奥に、人差し指を突っ込んだ。そして、眼球をほじくり出す。
 痛い!
 強くかみしめた奥歯の間から、思わずうめき声がもれた。
 しかし明弘は、さらに人差し指に力を込め、眼球を眼窩から掻き出した。
 ずるり、と丸いものが右手のひらに転がり込み、人差し指の圧迫感がなくなる。眼球に直接触れてしまったとき特有の焼けつくような痛みに耐えながら、明弘は右手におさまった丸いものをタカさんに差し出そうとした。
 が、ぬるりと眼球が手から滑り落ち、頬の上にぶら下がる。
 こんな状態になっても、目というのは律儀に視覚刺激をきちんと伝達していた。明弘は自分の足を揺れながら見ていて、それと同時に静止しながらタカさんも見ているという、不思議な感覚を味わっていた。
 実際に自分が何を見ているのか、きちんと把握できず、非常に気持ち悪い。
 明弘は左目をつぶり、右手で自分の眼球をつかむと、ちぎろうとして強く引いた。しかし、予想外に眼球と脳をつないでいる視神経は頑丈だったようで、明弘は頭をがくんと引っ張られるような衝撃とともに、手の中の眼球がつぶれてどろりと液体が流れ出すのを感じた。
 明弘は目をとじたまま、そのどろりとしたものがこびりついた手をタカさんに差し出し、声を絞り出す。
「……これで、いいですか?」
「オーケー。おもしろいものを見せてもらったよ。たいした野郎だ」
 おそらくタカさんだろう。誰かが明弘の肩をたたくのが感じられた。
「おい、お前ら、女を放してやんな。引き揚げようぜ」
 明弘はタカさんのその声をきいてホッとして、体を横たえた。
「誰か、救急車を呼んでください!」
 女の金切り声とともに、誰かが明弘の手に触れた。
「しっかりして。すぐに救急車が来ますから」
 どうやら、女が明弘の手を握っているらしい。明弘は、その生あたたかい手を握り返す。
 安堵。
 何とも言えない心地よさの中で、明弘の意識は暗闇の中にゆっくりと落ち込んでいくのを感じた。
 遠のく意識の中で、明弘は女の声を聞いた。
「死なないでください」
 明弘は、笑いながら失神した。

                                  完



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