『黒の万里』
滝澤真実
少年は、走っていた。
空にはまだ茜色が残っていたが、日は落ちて、あたりは薄暗闇に包まれている。暗い茜色の空を背景にして、丘の上の大きな建物の影が、黒々と浮かび上がっていた。
少年は、その丘に向かって、走っていた。
丘には草木がなく、ただごつごつとした石ばかりが転がっている。少年は、その石につまずきながら、丘を駆け上がった。
丘の上には石造りの建物があって、中からは赤い光がもれ出ててきている。
少年は息を切らせながら建物に駆け込むと、大声で叫んだ。
「おなつ!」
声変わりをしている少年に特有の低く太い声が、等間隔にたいまつが架けられた広い廊下に響いた。
「へーちゃん!」
少女の声が、建物の奥から聞こえてきた。
たいまつの炎に照らされた廊下を、少年が奥へ向かって走る。長い廊下を抜けた先には天井の高い部屋があり、中央には祭壇があった。そしてその祭壇には、一人の少女が縛りつけられていた。
少女の体は白装束に包まれていたが、ふくらみはじめたばかりの小さな胸が、縛られた紐にはさまれて突き出していた。
「おなつ!」
少年は祭壇の上の少女に駆け寄ると、少女の手を握った。
「ごめんね。へーちゃん」
少女の目に、涙が浮かぶ。
「すまない、おなつ。見張りが厳しくて、遅くなった」
少年は、強く握り締めてくる少女の手をふりほどくと、少女を縛りつけている紐の結び目に爪をたてた。
「……ちくしょう、かたくむすびやがって」
少年は舌打ちをした。きつく結ばれた紐は、なかなかほどけない。
「へーちゃん。日暮れまで、あとどのくらいなの?」
「もう日は落ちた。だから、急がないと」
少年の言葉を聞いて、少女の顔が青ざめた。
「クロヌシさまが、来るのね?」
「大丈夫。その前に、おれがおなつをここから連れ出す」
少女が、小さくため息をついた。
「村のみんな、怒るよね。きっと。ここであたしが死なないと、村にたたりがあるから」
「そんなの、くそ食らえだ。おなつをいけにえにするなんて、おれが許すもんか」
「ごめんね。へーちゃん」
消え入りそうな声で少女が言った瞬間、神殿内の空気が揺れた。
二人は息をひそめて、出入口の方向を見た。まっすぐに伸びた廊下にはたいまつが等間隔に並び、そこにともされた炎が揺れていた。
ずしん……ずしん……。
遠くから、規則的な音が響いてきた。
「ああ、ちくしょう。来ちまった!」
「クロヌシさま…」
少年は、紐の結び目と格闘しつづけていた。
その様子を見て、少女が言う。
「へーちゃん?」
「なんだ、おなつ」
「一人で逃げて。もういいよ。あたしは、村のみんなのために死ぬから」
「ふざけたことを言うな。おれはぜったいに、おなつを見捨てない」
少女が首を横にふった瞬間、少年の手の中で紐がゆるんだ。
「よし、ほどけた!」
紐がほどけて自由になると、少女は体を起こして少年にしがみついた。
少年は頬を赤らめながら、少女の体を押し返す。
「よせよ。そんなひま、ないだろ」
「そうだね」
少年は少女の手をとって、祭壇から下ろした。
「急ごう。外に出ないと」
少女の手をとったまま、少年は建物の出入口に向かって走り出した。重々しい音は規則的に聞こえていて、今では建物全体が揺れるほど近くで響いている。
走っていた二人が廊下の中ほどにさしかかったとき、不意に出入口付近のたいまつの炎が揺れて、消えた。
二人は足を止めた。
たいまつが消えた暗がりに、黒く小さな無数のものがうごめいている。それは、丸く、小指の先ほどの大きさで、たくさんが群れて動きまわっていた。
「ああ…」
「ミツナシだ!」
二人は、同時に声を上げた。
黒いつぶつぶの群れは、小さく乾いた音を断続的にさせながら、二人のほうへ近づいてくる。廊下のたいまつの炎は、その黒いつぶつぶの群れが近づくと、大きく揺らめいて、消えた。
「大丈夫。ミツナシはクロヌシさまの先ぶれをしているだけだから、まだ――」
少年の言葉は、そこで途切れた。
建物の出入口に、大きな黒いものが姿をあらわしていた。暗いせいで形は定かではないが、その黒いものの表面は、かすかな明かりを受けてぬらぬらと輝いている。
その黒い大きなものは、長い触手をのばして廊下の床に打ちつけた。
ずしん。
建物全体が、大きく振動した。
少年は少女の手をかたく握ったまま、一歩あとずさった。
ずずず。
湿った音をたてながら、黒いものが体を引きずって前進した。そして、再びび触手を床に打ちつける。
大きな振動とともに、少年と少女の周囲に腐臭が漂ってきた。
少年が『ミツナシ』と呼んだ小さな黒いつぶつぶの群れは、大きな黒いものの前をせわしなく動き回り、廊下のたいまつの炎をひとつひとつ消していく。
「おなつ、ここは駄目だ」
少年は少女とともに、祭壇のある部屋まで駆け戻った。
「へーちゃん、どうするの?」
「この祭殿の出口は、他に――」
「ないよ。どこにも、ない」
少年は祭壇の間を見回して、出入口とは反対方向の壁に駆け寄った。奥の壁は石の彫刻で飾られている。壁の上のほうに見える大きな石像のところには、人が乗れるほどの空間があった。少年は壁に手をあてて凹凸を確かめると、祭壇まで戻り、少女を縛りつけていた紐を手に取った。
「おなつ、この紐で体を結ぶんだ」
少年は言いながら、紐の一方を少女に渡し、もう一方を自分の胴に巻きつけて結んだ。少女も少年にならって、自分の胴に紐を結んだ。二人の間の紐の長さは、大人の背丈の三人分ほどあった。
「いいか、おなつ。おれは、これから奥の壁をのぼる。のぼったら、この紐を引っ張って、おなつを引き上げるからな」
少女は、無言でうなずいた。
廊下のほうから響いてくる規則的な音の中で、少年は壁の凹凸に手をかけ、のぼりはじめた。身軽にすばやく壁をのぼって大きな石像の上にまたがると、少年は少女に向かって呼びかけた。
「おなつ、引っぱり上げるから、紐につかまれ」
少女は、うなずいた。
少年は歯を食いしばりながら紐を引き、少女は紐に支えられながら壁の凹凸に足をかけて、のぼった。しかし、少女は途中で何度も足をすべらし、宙吊りの状態になってしまう。そのたびに少年は、両手で少女の体重を支えた。
ずしん。
足音は、近づいてきていた。
「おなつ、がんばれ。あと少しだ」
少年は小声で少女に呼びかけて、紐を引き続ける。
やがて、大きなぬめぬめとした黒いものが、祭壇の間に入ってきた。あたりに腐臭が満ちて、少年は少女を引き上げながら顔をしかめた。
ようやく少女が少年の脇までのぼったときには、少年の息はあがり、手は疲労でふるえ、額にはたくさんの汗の粒が浮かんでいた。
「ごめんね、へーちゃん。あたし、ぐずだから」
そう言って、少女は少年の額に浮いた汗を、着ている白装束の袖でふいた。少年は、無言で少女の体を引き寄せ、きつく抱きしめた。
「へーちゃんの体、あったかい…」
少女は少年の体を抱き返し、少年の汗ばんだ頬に自身の頬をこすりつけた。少年は、ただ、少女の体を強く抱きしめていた。
ずしん。
すでに黒いものは、部屋の中央の祭壇にまでたどりついていた。そして、祭壇の上を触手でなでまわすと、低く響く音をたてた。
げはあ。
少女を引き上げて荒くなっていた息を整えながら、少年はささやいた。
「おなつがいないから、クロヌシさまがお怒りになっていらっしゃる」
黒いものは触手を振り上げると、祭壇にたたきつけた。轟音とともに、祭壇が砕け散った。
少女がおびえた表情を浮かべ、少年の肩に顔をうずめた。
大きな黒いもののまわりにいた小さな黒いつぶつぶたちが、あわただしく動きはじめた。黒いつぶつぶたちは、すばやく祭壇の間の四方の壁をのぼりだす。そして、すぐに二人のいる石像のところまでやってきた。
かさかさと音をたてながら、黒いつぶつぶたちは二人の体にとりついた。少年がその黒く丸いものを叩き落すと、つぶつぶたちは一斉にきいきいと鳴き声を上げはじめた。
そして、その声を聞きつけた大きな黒いものが、触手を振り上げて、再び吠えた。
ぐがががはあ。
ぬらぬらとした黒いものは、ゆっくりと二人のいる壁のほうに近づいてきた。少年は、その黒いものから目をはなさずに、言った。
「おなつ、飛ぶぞ」
少年の言葉に、少女は首をかしげた。
「え?」
「クロヌシさまを、飛び越える。飛び越えれば、出口まで何にも邪魔されない」
「無理だよ、へーちゃん」
「大丈夫だ。一緒に飛ぼう」
少女の細い腰を、少年がしっかりと抱き寄せる。
「いくぞ。いち、にの、さん!」
二人は抱き合ったまま、石像の上から飛んだ。
しかし、二人が飛んだ距離は、足りなかった。二人は大きな黒いものの上に落ちた。強烈な腐臭を立ちのぼらせている黒いもののねばつく体は、二人をやわらかく受け止めると、そのまま体内へ引き込む。
「おなつ! 絶対におれから離れるな!」
少年が少女を強く抱き寄せながら言うと、少女は少年の腕の中で小さくうなずいた。
二人は抱き合ったまま、黒いものの体内へゆっくりと沈み込んでいく。が、どろどろとした黒いものの体が二人の間に割り込んできて、二人の体を引き離した。少女の体は引き込まれ、逆に少年の体は押し出されていく。
「へーちゃん、だめ…」
少女は胸のあたりまで引き込まれていた。一方、少年の体は完全に黒いものの外側に押し出されてしまっていた。二人は、お互いの首にしがみついて、離されようとしている互いの体を、引き寄せあっていた。
「だめじゃない。おなつ、がんばれ!」
少女は、首まで引き込まれていた。黒いもののねばつく体に押しのけられて、少年の手が少女の首から離された。
「ごめんね、へーちゃん」
そう小声でつぶやき、少女の顔は黒いものの中へと沈んでいった。少年は、最後まで残っていた少女の白く細い手を握りしめる。
「おなつ! あきらめるな!」
少女の手が少年の手を強く握り返す。しかし、そのまま少女の手も黒いものの中に沈んでいき、二人の手は完全に引き離された。
「おなつっ!」
少年は、二人の体を結んだ紐をたぐり、黒いものの中に手を押し込んだ。しかし、少年の手はすぐに黒いものの体に押し戻されて、少女に届くことはなかった。
「ちくしょうっ!」
黒いもののねばつく体に拳を叩きつけながら、少年は叫んだ。その少年の胴に、黒い触手が巻きついた。暴れる少年の体が軽々と持ち上げられ、投げ捨てられた。
と、少年と少女を結んでいる紐がのびきり、少年の体は黒いものの近くの床に落ちた。少年の周囲から、小さく黒いつぶつぶたちが逃げていく。
少年は機敏に起き上がり、再び黒いものにつかみかかった。
「化け物めっ、おなつを返せ!」
少年の体にもう一度触手がからみつき、投げ捨てる。
が、少年はまたも紐のおかげで近くの床に落ちた。床で体を強く打った少年は、しばらく体を丸めたままうずくまっていたものの、また立ち上がり、黒いものにすがりつく。
その少年の体に、みたび触手がからみつく。
触手は少年の体を締め上げながら、ゆっくりと持ち上げた。途中で紐がのびきり、少年の体がそれ以上持ち上がらなくなった。
ぐげはぁ。
黒いものはうめきながら、力まかせに少年の体を引いた。少年の体に結ばれた紐に引かれて、黒いものの体内から少女のぐったりとした体が、ずるり、と出てくる。
ぐがああぁぁぁっ!
黒いものが吠えて、少年の体を離した。二人の体は、床に落ちた。黒いものは、触手を少女のほうにのばす。
「お前なんかに、おなつは渡さない!」
少年は飛び起きると、ぐったりと倒れ込んだままの少女に駆け寄った。黒い色の粘液で汚れた少女の体を、少年は抱き上げ、出口へ向かって走った。
黒いものは触手を振り上げ、少年めがけて叩きつけた。が、少年は一瞬早く、触手の届かない距離まで走り抜けていた。
ぐごごごぉっ!
黒いものの咆哮が、建物をふるわせた。
少年は走りつづけて、建物を飛び出し、丘を駆け下り、丘のふもとの樫の木の下でようやく足を止めた。
少年はあえぎながら、少女の体を地面に下ろした。
少女は、息をしていなかった。
「おなつ!」
少年は少女の頬を叩き、口の中からあふれ出てくる黒い粘液を見て、少女の体を横向きにした。そして、指を少女の喉の奥まで突っ込む。
少女は体を大きくふるわせて、大量の粘液を吐きながら激しく咳き込み、意識を取り戻した。
「おなつ、大丈夫か?」
少年が、少女の背中をさすりながら言う。
しばらくして、激しい咳の発作がおさまってから、ようやく少女は言った。
「ごめんね……」
「なんで謝ってるんだよ」
「あたしの体、もう汚れちゃったよ」
腐臭の漂う粘液で汚れた体を見下ろしながら、少女は言った。白装束も、真っ黒に汚れている。少年は、首を横にふった。
「そんなことはない。おなつは、何があっても、おなつだ」
少年の言葉を聞いて、少女の目から大粒の涙がこぼれた。
「それに、あたしが助かったせいで、村にはきっと、クロヌシさまのたたりがある……あたしなんか、死ねば良かった」
「ばかを言うな。おなつが死ななきゃならない理由なんか、ない。おなつを死なせなければ村が生き残れないなら、そんな村なんて、なくなったほうがいい」
少年は、少女の肩を揺する。
「ごめんね、へーちゃん」
「よく聞け、おなつ。おれは、おなつと一緒なら、父ちゃんや母ちゃんを捨てたってかまわない。一生、村に戻れなくたっていいんだ。おなつさえ、一緒にいてくれれば」
「へーちゃん、ごめんね…こんなあたしのこと、励ましてくれて……」
「ああ、ちくしょう!」
少年は声を荒げた。驚いた表情をした少女が、息をのんで少年の顔を見る。
少年は、ゆっくりと言った。
「『ごめんね』なんて、言うな。おなつは、何も悪くない。たしかにおなつは、泣き虫で、臆病で、ぐずで、本当にどうしようもないやつだけど、おれはそんなおなつが好きなんだ。おれのしたことが、おなつにとってうれしいことだったら、『ありがとう』と言ってくれ。それだけでいい」
「へーちゃん、ありがと」
涙にふるえる声でそう言うと、少女は少年の体に抱きついた。
「痛っ!」
少年は顔をしかめて、少女から体を離した。
「どうしたの?」
「クロヌシさまにつかまれたとき、あばらを痛めたらしいや。でも、大丈夫」
「へーちゃん。ごめんね、あたしのせいで――ううん、違ったね。ありがとう、へーちゃん」
少年が眉をひそめる様子を見て、少女は言い直した。少女の言い直した言葉に、少年は微笑んでこたえた。
「どうってことないさ。それより、おなつ。歩けるか?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
少年は少女の手を握ると、立ち上がった。
「行くって、どこへ?」
少女の問いに、少年はしばらく考え込んだ。
「……そうだな。ここじゃないどこか。二人で行ける場所なら、どこへでも」
少女は何も言わず、ただ少年の手をきつく握りしめた。
少年も、少女の手を強く握り返した。
おおおおおん…。
丘の上では、黒いものが触手を振り上げて吠えていた。二人は丘を見上げてから、ゆっくりと歩き始めた。二人の目の前には、深い森が広がっていた。
二人はためらうことなく、その森の中へ足を踏み入れた。
二人の体は、紐でかたく結ばれていた。
二人の手は、握りあわされていた。
互いに指先が白くなるほど強く、強く、握りあわされていた。
『黒の万里』 完
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