『破滅への一歩』
滝澤真実
最悪の一日が、始まった。
目覚し時計が電池切れのために止まっていて、和行は起きるのが遅れた。慌てて身支度をして家を出たが、乗った通勤電車は、会社に遅刻するかどうかギリギリの時間の満員電車だった。
電車に乗り込んだ瞬間、混雑した車内で周囲ににらみをきかせながら「寄るな」というオーラを出している大柄な男の姿を和行は見た。満員電車内で出くわすには最悪な、頭のイカれた野郎だということはすぐにわかった。混雑して行き場のない中で、できるだけ男から離れた位置に立とうと体をひねり、和行は男との距離を五センチほど確保して、どうにか落ち着いた。
しかし、ほっとしたのも束の間、イカれ野郎と接触せざるを得ない位置に立ってしまった中年男が、男とやりあい始めた。
まず、互いの肩で相手を押しのけあう。やがて、そのバトルに熱中しはじめた二人は、相手の体を押しのける合間に舌打ちや苛立たしげなため息をおりまぜるようになった。
そのバトルの過程で、和行がかろうじて確保していた五センチは失われてしまった。バトルを繰り広げる二人が体を動かすたびに和行の体も押されて、しまいにはバランスを崩して反対側のOLふうの女にもたれかかってしまう。
「すみません」
まるで和行を痴漢か何かのようににらみつけてきた女に詫びながら、和行はバトル中の男たちに向かって内心で毒づいた。
――クソ野郎ども、一度死んでくれよ。
しかし和行の心の声など何の効果もなく、二人のバトルは激化する一方だった。
そして、終点の新宿駅に着く直前に、それは起こった。
男たちの一人が、肘を振り上げて相手を突き飛ばそうとした。しかし、その肘は不幸にも和行の鼻に命中し、和行は目の前で火花が飛ぶのを見た。足から力が抜けて立っていられなくなった直後、和行は隣のOLにもたれかかりながら、女の声を聞いた。
「いーかげんにしろよ、このエロオヤジ!」
どこか現実感のないふわふわした感じの中、和行はぼんやりと思った。
――俺、まだオヤジと呼ばれる歳じゃないんだけどな……。
気が付くと、和行は駅員に腕を抱えられていた。
とっさに、自分は痴漢ではないと主張すべきだと思った。しかし、どんなに主張したところで、どうにもならないのだとも思った。痴漢はセクハラと同じで、やっていようがいまいが、訴えられたらそれでおしまいだと聞いたことがある。
「大丈夫ですか?」
意外にも、駅員は気遣うような口調で言った。
「はい?」
「大丈夫ですか?」
駅員はもう一度言った。
心配されるような状態なのか、と考えて、あらためて自分の体を見た。驚いた。ワイシャツもネクタイも、真っ赤に染まっている。紺色のスーツも、襟のあたりにどす黒い染みが広がっていた。すぐに、イカれ男の肘が鼻に当たったときに鼻血が出たのだということがわかった。
――スーツ、買いなおさないとダメかなぁ。
それが、和行の率直な感想だった。
「急に鼻血を出して倒れられたらしいんですが、救急車を呼びましょうか?」
「そんな大げさな」
和行は、自分の鼻に肘を叩き込んだ男が逃げおおせたことを不快に思いながらも、自分自身が痴漢扱いされていないことにほっとして、駅員の申し出を断った。
腕時計を見ると、走ればまだ会社の出勤時刻に間に合いそうな時間だった。イヤミばかり言う上司の顔が脳裏に浮かび、和行は遅刻を避けるために走ることにした。
和行は意を決した。
「すみません、会社に遅刻しそうなんで!」
そう言い残して走り出した和行の背中に、何やら駅員が声をかけてきたが、無視した。
時折腕時計を見ながら走った和行だったが、体に力を入れたせいか、止まりかけていた鼻血が再び流れ始め、新宿の路上には和幸の血の跡が点々と残った。
それでも全力疾走して、和行は自分が勤務するオフィスビルに駆け込んだ。血まみれの和行の姿を見て驚く同僚たちの間を抜けて、タイムカードにたどりつく。
ガチャン。
打刻された時刻は、一分遅刻だった。
「寺田! お前はいったい何をやっとるんだ!」
上司の怒声が響く。血まみれになった和行の様子に動じることもなく、見下すような目を向けてくる。
「電車でケンカに巻き込まれまして……」
「この能無し! そんなナリじゃあ、客先に行けないだろうが!」
「すみません……」
言いながら、和行はなぜ自分が謝っているのかわからなくなってきた。鼻血を出している部下を前にして、このムカつく上司は気遣いというものをまったく見せない。
「だいたい、なんだ。そこらじゅうに血をボタボタたらしやがって。汚ねぇなぁ」
「遅刻しないように走ったら、なんか、止まらなくなっちゃって……」
「んなこと言って、結局は遅刻してるんだろうが! お前はアホか? どうせ遅刻するなら、鼻血を止めてから来い」
――遅刻をしたらしたでイヤミを言うくせに、本当にムカつくな。
和行が黙っていると、部長は言葉を重ねる。
「だいたい、お前はドンくさいから、ケンカなんかに巻き込まれるんだよ。そもそも、こんな遅刻ぎりぎりの電車に乗るからダメなんだ。時間ギリギリでみんな殺気立ってるんだから、そりゃあケンカにも巻き込まれるだろうさ。自業自得なんだよ。俺みたいに一時間前に出社するぐらいの心意気でいれば、そもそもそんなトラブルとは無縁だろう?」
「はい」
それ以外の返事をするとさらに説教が長引くことを和行は知っていたので、おとなしくうなずいた。しかし、この日は違った。
「はい、はい、って言うけどな、お前、ぜんぜんわかってないだろう? 口先だけなんだよ、お前は。口先だけの薄っぺら野郎なんだ。なんでお前みたいのが平気な顔をして生きていられるのか、俺にはわからんよ。お前はどうして死なないんだ? 俺なら、恥ずかしくて死ぬね」
最悪の朝の最後にそこまで言われて、さすがの和行も限界に達した。
「じゃあ、死ねよ……」
「何か言ったか?」
「じゃあ死ねよ、このクソジジイ! 歳とって耳が遠くなったのか? もっとでかい声で言ってやろうか? ク・ソ・ジ・ジ・イ! てめーなんか死んじまえ! てめーは自分より立場の低い人間をいじめるだけのクズだ! てめーみたいなクズは死んだほうが世界のためだ! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」
和行が大声でまくしたてると、オフィス全体が静まり返った。それまでは和行が説教されている様子を聞き流していた同僚たちも、驚いた様子で和行に注目している。
いい気分だった。
和行はずっと地味で目立たない人間だったが、生まれて初めて人生の主役になれた気がする。
「スーツの替えを買ってきまーす」
にこやかにそう宣言すると、和行は静まり返ったオフィスを出た。最悪のスタートをきった一日だったが、上司に言いたいことを言ったおかげで、気分は上々だった。しかし、そのいい気分がさほど長持ちしないことを、このときの和行はまだ知らなかった。
和行はコンビニのATMで現金をおろそうとしたが、ちょうど給料日直後だったこともあり、列ができていた。しかも、和行の前にATMを使っていた女が何度も手続きをやり直して、なかなかどこうとしない。
ようやく順番が回ってきたが、和行が銀行のカードをATMに入れると「カードを確認してください」というメッセージとともにカードが吐き出されてしまう。繰り返し試すうちに、和行の後ろに並んでいた男が盛大にため息をつき、舌打ちをした。
――何か文句があるのか?
苛立ちをかくさずに振り返ると、男は和行の血まみれの服装を見て、ぎょっとした表情を見せた。慌てて目をそらした男をにらみつけると、和行はカードを入れなおす。が、やっぱりエラーになってしまう。
結局、和行の銀行カードはATMにはじかれつづけ、七回目にしてようやく認識された。どうにか現金をおろした和行は、駅前にある紳士服のチェーン店に向かう。
しかし、店では店員に入店拒否されてしまった。
和行は鼻血で汚してしまったスーツの替えが欲しいのだと一生懸命説得を試みたが、店員はかたくなに血まみれの和行が店内に入るのを拒絶したのである。
この段階で、いったん良くなっていた和行の気分は再び悪くなっていて、怒りが再燃しつつあった。
「だから、服がこれしかないから、替えが必要なんだってば」
「ですがお客様、やはり血まみれでは困ります」
「じゃあ、裸で入ればいいわけ?」
「それも困ります」
「俺に売る服なんてない、ってこと?」
「そのようなことはございません」
「じゃあ、店に入れろよ。ちゃんと買うから」
「ですが、その格好では……」
押し問答に飽きた和行は、店員を無視して店に押し入った。店内で吊るされているスーツとワイシャツ、棚に並べられてるネクタイなど、いずれも安いものを見つくろってレジに持って行く。レジ担当の女の店員が困惑した表情をしていたが、和行が現金を出すと気をとりなおしたように釣銭を出した。
「ここで着替えさせてもらっていいですか?」
和行が言うと、店員が黙って試着室を指す。買ったばかりのスーツを手に試着室に入って着替えていると、外から声がかけられた。
「ちょっといいですか?」
和行が試着室の外に顔だけ出すと、そこには警官がいた。
「何か用ですか?」
「その血は、どうしたんですか?」
「鼻血で汚しちゃったんです」
「ケンカですか?」
「違いますよ」
「着替えが終わったら、詳しくお話を聞かせていただけますか?」
「いいですよ」
内心で面倒なことになったと思いながら、和行は着替えを追えた。試着室の鏡に映った自分の顔を見ながら、脱いだワイシャツの汚れていない部分で顔の血をぬぐう。完全に血をぬぐうことはできなかったが、どうにか見られる姿になったのを確認してから、和行は試着室を出た。
「はい、終わりましたよ」
「では、店の中で立ち話もなんですから、ちょっと交番のほうまで来ていただけますか?」
「どうして?」
「ちょっとお話を聞きたいだけです」
「仕事があるんだけど」
「そんなに時間はかかりませんから」
「着替えを買うために抜け出してきただけだから、すぐに戻らないと」
「でも、こちらのお店の迷惑になっちゃうから、ね」
警官は、まるで和行が悪いことをした人間のように扱っている。その犯罪者をなだめるような口調に、和行はカチンときた。
「鼻血で汚れた服を買い換えるのが犯罪ですか?」
「もちろん犯罪じゃあないですよ。それが本当に鼻血なら」
警官が意味ありげな笑みを浮かべた。芝居がかっている。
――こいつ、テレビドラマの見すぎだな。
「本当に鼻血ですってば」
苛立ちを必死に飲み込みながら、和行は言った。
「まあ、詳しくは交番で」
「お断りします。仕事に戻らないと」
「だから、そんなに時間がかからないと言ってるだろう!」
警官が突然声を荒げた。
「何を逆ギレしてるんですか。俺を連れていきたいなら、逮捕状でもなんでも持ってきてくださいよ。ほら、すぐメモして」
和行は財布の中から運転免許証を出すと、警官の眼前に突きつけた。その和行の手を、警官が払いのける。
「なんだその態度は!」
警官のかたくなな態度に、今度は和行がキレた。
「てめーこそなんなんだよ、この税金泥棒のクソ野郎が! 偉そうに命令すれば誰でも言うこと聞くと思うなよ」
和行は言い放つと、店のレジに向かった。
「ちょっと待て!」
追いすがってくる警官を無視して、和行はレジの女店員に言った。
「コピー機、ある?」
「……え、はい。奥にありますけど」
「この免許証のコピー、とってもらっていいですか? この警察の人に渡したいので」
「はい」
女店員はあわてた様子でバタバタと店の奥に入り、すぐに戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取ったコピーを警官に渡すと、和行はいったん店を出ようとしてから、足を止めた。
「あー、すみません」
「はいっ」
女店員の声は裏返っている。
「これだけ血に汚れたスーツって、クリーニングできれいになるかな?」
「クリーニング店によっては、染み抜きの得意な店もあるそうです。でも、乾いてしまうと落ちにくいと思います」
「ありがとう」
どこかでクリーニング店を探すか、それとも諦めて捨てるか、考えながら和行は店の外に出る。近くを歩き回って、クリーニング店が見つかったら頼んで、見つからなかったら捨てることにしようと心に決めた。
「おい、お前! 逃がさんぞ!」
警官がしつこく追いすがってくる。
「あんた、頭おかしいんじゃないの? 免許のコピー渡したんだから、用があるなら後で来いよ」
「いいから交番まで来い! 話を聞かせてもらうぞ」
「逮捕状を持ってきてくれ」
「逮捕状がなくても逮捕ぐらいできるんだ。公務執行妨害だでしょっぴいてやったっていいんだぞ。おとなしく交番まで来い」
「ったく、うるせーなぁ。行けばいいんだろう、行けば。ほら、証拠だ! 受け取れ!」
和行は警官の胸に血で汚れたスーツをたたきつけると、駅の交番に向かって歩いた。
たっぷり一時間後、和行はようやく解放された。
腹の中は煮えくり返るような怒りに満ちていたが、感情を必死で抑えて警官と話をした。幸いにも交番にいた白髪の警官はいくぶん話のわかる男で、どうにか納得してもらえたようだった。
「仕事に行けなかったこの時間、弁償とかしてもらえるんですかねぇ」
和行は交番を出ながらイヤミを言ってみたが、白髪の警官は笑って受け流した。
「まあまあ、そう言わないでくださいよ」
「あの、俺を捕まえようとした警官、ホントに精神鑑定を受けさせたほうがいいですよ。明らかに頭がおかしいですから」
「いやいや、本当に申し訳ありませんでしたね」
白髪の警官に軽くいなされて、和行は送り出された。
「お気をつけて」
「大きなお世話だよ」
憎まれ口をたたいて、和行は会社に向かった。すでにスーツの血は乾いてどす黒い色に固まっていて、クリーニングで落ちそうな感じには見えなかった。交番での警官とのやりとりに疲れた和行は、クリーニング屋をさがす気力もなく、通りにあったコンビニの店頭のゴミ箱にスーツを押し込んだ。
ようやく会社に帰る。
それまで聞こえていた話し声がぱたりとやんで、微妙な空気が流れた。和行は同僚たちを無視して、車内を見回した。上司は会議か何かで席をはずしているようで、席にはいない。これ以上面倒なことはイヤだったので、和行は荷物をまとめて予定していた仕事にとりかかることにした。
「営業行ってきまーす」
和行は軽く言って会社を出と、会社のとなりの駐車場に泊めてある社用車に乗り込んだ。
「なんだよ、これは」
一人なのに、思わず声が出た。社用車の中にはすえたタバコのにおいが充満しており、シートには灰が飛び散っていた。前に使った人間が汚したままにしていたらしい。
――モラルのないやつは、これだから嫌いだ。
和行は灰を息で吹いて散らせると、車に乗り込んだ。
この日の営業先に行くには、新宿駅の混雑した界隈を抜けて行かなければならない。道はたくさんのタクシーで混雑していて、車内に充満するタバコの悪臭とあいまって、和行苛立ちはピークに達していた。
和行は拳を握り締めると、ハンドルを繰り返し殴る。
新宿駅の脇を抜ける途中に、駅から出てきた歩行者の多くが渡る横断歩道がある。気をつけていないとその横断歩道の中央で信号が赤に変わり、歩行者に白い目を浴びせかけられる羽目になりかねない。途中で信号が赤になりそうなタイミングならば、無理をせずに横断歩道の手前で止まる必要がある。
和行が運転する車の前を走っていたのは緑色の車体のタクシーだった。横断歩道の向こう側には充分なスペースがあり、前のタクシーと和行の車の両方が横断歩道を通過できるはずだった。
しかし、前のタクシーが横断歩道の終わりで客に呼び止められて、停車した。タクシーの後ろについていた和行は、横断歩道の真上で停車せざるをえなくなった。
「こんなところで停めるなよ。無神経な野郎だな」
聞こえないことはわかっていたが、思わず不平が口をついて出た。タクシーを呼び止めたいなら、もっと横断歩道からはなれた場所でするべきだ。何より、タクシーの運転手も変な場所で停車しないように心がけるべきだった。
和行は、よほどアクセルを踏み込んでタクシーに追突して、横断歩道の位置から押し出してやろうかと思った。しかし、ふんぎりがつく前に信号が赤になって、横断歩道を歩行者たちが歩き始め、和行の車は身動きできなくなってしまった。逆に、客を乗せたタクシーは歩行者の波に巻き込まれる直前に、逃げ出すように走り去っていった。
「ふざけんな! 何考えてるんだ!」
和行は車内で怒鳴り散らした。逆に、歩行者の一人に怒鳴り返される。
「邪魔だ、バカ野郎!」
それだけなら、和行は辛抱できたかもしれない。しかし、その歩行者は、怒鳴った後で和行の乗る車を蹴りつけたのである。
自分は何も悪いことはしていない。なのに、どいつもこいつも自分に敵意をむき出しにする。
何かが、和行の中でぷつりと切れた。
気が付くと、和行は車を蹴った男に向けてハンドルを切り、アクセルをめいっぱい踏み込んでいた。
車は道路脇の電柱に激突した。
電柱と車の間には、車を蹴った男は挟まっていた。
――やっちまった……。
和行は車をバックさせて電柱から離した。男は路上に崩れ落ちて、ぴくりとも動かない。
和行は怖くなって、車を発進させた。
少し車を走らせたところで、和行は車のボンネットがひどくへこんでいることに気付いた。これでは、すぐに人をひいたことに気付かれてしまいそうだ。そう考えた和行は、通り沿いにあった地下鉄の駅の入り口近くに車を停め、駅に駆け込んだ。
地下鉄が駅のホームに入ってくる音が聞こえたので、走って地下鉄に乗り込む。ぎりぎりで地下鉄に乗り込んだ後も、どうしても和行は周囲を見回してしまった。自分を追ってくる者がいないかが気になるのである。
「えー、次はー、新宿ぅー、新宿ぅで、ございまーす」
車掌のすっとぼけた声のアナウンスが流れて、和行ははっとした。慌てて乗り込んだのはいいが、新宿に戻る地下鉄に乗り込んでしまったのだ。
――俺はなんてバカなんだ!
自分への怒りに、唇を切れるほどかみ締めた。
どうすればいいのか思考がまとまらず、頭がぼうっとなっている。結局、何も思いつかないまま地下鉄は新宿に到着して、和行はホームに降り立った。
――落ち着け。こういうときは、順序だてて考えるのが重要だ。
和行はホーム上で立ち止まると、深呼吸した。
人をひいた。逃げなきゃならない。どこへ逃げる? 自宅のアパートか? 田舎の実家か? 会社か? いや、乗り捨てた車から、すぐに身元は特定されてしまう。関係のない場所に行かなければならない。できるだけ、遠く。だとしたら、新幹線に乗るべきだ。とりあえず、新幹線の始発駅である東京駅まで移動しよう。
和行は新宿駅から中央線に乗って東京駅まで行くと、博多行きの東海道新幹線に乗りかえる。
常に周囲の目を気にしながらの移動だったために、和行は心理的に疲労していた。新幹線の座席に座ったとたんに、和行は眠りに落ちた。
電車が揺れて、和行は目をさました。
ちょうど名古屋を出発したところで、和行は自分が思いのほか長時間眠っていたことに気付いて、驚いた。
――新宿のひき逃げは、ニュースになっているだろうか?
和行は携帯電話でテレビを見ようとしたが、ふと先日発生した殺人事件の報道を思い出した。携帯電話の電波の受信状況から、電話機が現在どこにあるかをおおむね特定できる、というものだった。
――まずい、見つかる……。
和行はあわてて携帯電話の電源を切った。不安だったので、電池もはずした。それでも、携帯電話を持っていると誰かに監視されているような気分になってしまうので、両方まとめてゴミ入れに放り込んだ。
名古屋まで来たことは、すぐに警察に知られてしまうはずだった。このまま西に逃げつづけるのは危険だと判断して、和行は乗り換えることにした。
新幹線が次に停車したのは京都だった。京都で新幹線をおりた和行は、駅の路線図を見ながら、これから進むべき道を考えた。
――北に抜けて日本海側に出るか。
そう考えて切符を買いなおそうとした和行だったが、財布の中身が寂しくなっていることに気付いた。朝おろした現金は、スーツと新幹線の切符代に消えてしまっている。
和行はATMを探して現金をおろそうと考えて、すぐにキャッシュカードを使ったら、やはり居場所がばれてしまうことに気付いた。
しかし、だからといって現金をおろさないわけにはいかない。とりあえず、有り金をぜんぶおろして、今後は二度とカードを使わない覚悟でいなければならない。
決断した和行は、ATMで貯金をすべておろそうとした。しかし、最近のATMは、大金をまとめておろせない仕組みになっているらしく、和行は十万円ずつ何度も手続きをするはめになった。
しかし、三回目の十万円を引き出したところで、和行は自分が見張られているような気分になってATMを離れた。そのまま、現金を財布に入れて駅に向かう。途中、慌てた様子の中年男が走ってきて、和行にぶつかっていった。
「すみません!」
たいして気持ちがこもらない調子で中年男が言い、去っていった。反射的に、怒鳴り返していた。
「てめーは『すみません』って言葉の意味はわかってるのか? 謝罪する気持ちがなければ、謝る意味なんかないんだ、ボケが!」
走り去っていく中年男の姿をしばらくにらみつけていたが、和行は怒りを飲み込んだ。今は、まず逃げることが先決だ。
和行は駅構内に入って、自動券売機の前に立った。
そこで、財布がなくなっていることに気付いた。
――さっきの中年男、スリだ!
急いで中年男とぶつかった場所まで戻ったが、もちろん男の姿はどこにも見えなかった。
――最悪だ……。
和行は頭を抱えた。警察から逃げ回っている立場では、財布をすられたと言って警察に訴え出ることはできない。泣き寝入りするしかないのだ。
現金がなければ、逃げることもできない。カード類もすべて財布の中に入れていたので、さらに金をおろすこともできない。
まさに進退窮まっていた。
しばらく立ち尽くしていた和行だったが、いつまでも留まっていることはできないことは理解できた。すでにキャッシュカードを使ってしまったので、和行が京都のコンビニに立ち寄ったことはすぐに警察に知られてしまうだろう。なのに、移動するための現金は、一円もない。
――最悪だ。本当に最悪だ。どうすればいいんだ。いったいどこで間違って、こんなことになったんだ。どうしてこんなにツイてないんだ。
和行は歯を食いしばって、しぼり出すように言った。
「なにもかも、ぜんぶクソだ」
近くを歩いていた老女が、ぎょっとした表情で和行を見た。
「何見てんだよ」
「すみません……」
逃げるように去っていく老女の後姿を見送りながら、和行は心に決めた。
――とにかく、ここから離れよう。
和行は駅から離れる方向にまっすぐ歩き始めた。
暑くもなく、寒くもなく、歩きやすい季節になっているとはいっても、体を動かせば疲れて、喉がかわく。和行は道端の自動販売機に立ちよりかけて、現金がないことを思い出した。
通り沿いで見つけた小さな公園に入り、公園の水飲み場で和行は喉をうるおした。できるだけ京都駅から離れなければならないとは思ったが、疲労をおぼえて和行は公園のベンチに腰を下ろした。
慢性的な疲労と戦いながら、家と会社を往復するだけの日々。毎朝、自分のことしか考えない連中と押し合いながら電車に揺られ、夜は酔っ払いのアルコール臭い息が充満した電車に揺られる。仕事は、中国製の粗悪な電卓を売りつける仕事。会社では、イヤミな上司にいびられるだけ。休日は、疲労を回復するためにテレビを見ながら寝て過ごす。楽しいことなど、何ひとつない。
その挙句に、感情を抑えきれなくなって、人をはねてしまった。今や、和行は犯罪者で、逃亡者で、しかも無一文だった。何もかも最悪で、うんざりしていた。
――どうせ道を踏み外してしまったのなら、死ぬまで道を踏み外しつづけてみよう。
なかばヤケクソになって、和行は考えた。
まずは、金を手に入れる。気が進まないが、金を手に入れるには、誰かから奪うしかない。相手は、ろくでなしだったら、誰でもいい。街中でタバコをブカブカふかしているクズ野郎にするか、行列に割り込むヤツにするか。いっそのこと、税金で食っているのに偉そうにしている警官がいいかもしれない。
朝、和行をつかまえて交番まで連れていったムカつく警官の顔を思い出しながら、和行は思いをめぐらせる。そもそも、交番に連れていかれたのが、わずか数時間前だということが信じられなかった。
――よし、交番を襲おう。
和行は立ち上がると、公園を出た。
しばらく歩き回った末にようやく見つけた交番には人気はなかった。
和行は交番内に入り、椅子に座り込んだ。何をやろうとしてもうまくいかない状況に、心底うんざりしていた。
とにかく、うんざりして、腹が立って、仕方がなかった。
「どうしました?」
不意に背後から声がして、和行は振り返った。交番の奥のドアから、警官が顔を出している。偶然かもしれないが、警官の顔は、和行をつかまえた警官にそっくりだった。
怒りが、瞬間的に和行の頭を沸騰させた。
「どうもこうもあるか!」
和行は立ち上がると椅子を蹴飛ばした。椅子は警官の足に強くあたり、警官は大きくよろめく。和行はその警官にとびかかると、馬乗りになって顔面をなぐりつけた。床に警官の後頭部が当たる鈍い音がした。
「ムカつくんだよ、偉そうに!」
上から体重を乗せて、拳を何度も叩きつけた。
気が付くと、辺りには血が飛び散り、警官はぴくりとも動かなくなっていた。
――拳銃だ。
和行は、警官の腰にある拳銃に目を止めた。取ろうとしたが、細い電話コードのようなもので警官の体につながっていて、取れない。交番内のデスクを物色してハサミをみつけると、和行はそのコードを切ろうとした。しかし、コードの芯には金属が入っているらしく、なかなか切れない。
交番に長居すればするほど見つかる危険が増えるため、和行はじりじりしながらハサミを使った。何度もハサミでこすりあげて、ようやくコードが切れたときには、全身が汗ばんでいた。
和行は拳銃を片手に逃げるように交番を出る。交番から遠ざかって一息つくと、和行はまだ自分が拳銃を手に握り締めていることに気付いた。急いで腰のベルトにはさみこむと、上着で隠した。
――さあ、武器は手に入れた。次は金だ。
そう考えてから、ふと和行は、警官から銃だけでなく財布も奪えばよかったと気付いた。
「俺はバカだ」
思わずつぶやくと、怒りにまかせて電柱を蹴った。足に鈍い痛みが走る。
――いったい、何をやってるんだ、俺は。すべてが不快この上ない。このまま生きてたって、何もいいことなんかない。いっそ、とっとと死んだほうがマシじゃないか。
拳銃を腰から抜いて、銃口をのぞきこむ。ぽっかりとあいた黒い穴は、すべて吸い込むような暗闇をたたえていた。
――これが、死か。
和行は目を閉じ、拳銃を自分のこめかみにあてて、引き金に指をかけた。
――このまま引き金を引けば、死ねる。すべてを終わりにできる。このロクでもない人生を、終わりに。
しかし、引き金をひくことはできなかった。引き金にかけた指が震えて力が入らず、呼吸が浅くなり、拳銃を眉間に押し当てていることも難しくなった。銃をおろした。
――なにもかもイヤで死にたいと思っているのに、どうして死ねないのだろう。
和行は電柱の脇に立ったまま、考えた。考えたが、答えは出なかった。
そこに、通りを細身の若い男が通りかかった。和行に不審の目を向けていたが、和行と目が合うと逃げるように目をそらす。和行は男を追いかけて、声をかけた。
「あの、すみません」
「はい」
「死にたく、ないですか?」
「はい?」
「みんな、なんで生きてるんですか? 人生なんて、最後は死ぬだけの、ロクでもないものなのに」
「……あの、ぼく、急いでるんで……」
立ち去ろうとする男に、和行が追いすがる。
「教えてください。ロクなことがないじゃないですか、人生なんて。今日だって、俺は頭のおかしなヤツにどつかれて、鼻血でスーツを台無しにして、ムカつくタクシーのせいで車を蹴られて、そいつをひいて、逃げてる途中でサイフをすられて――」
男は和行を無視して立ち去ろうとする。
ムカつく。
和行は拳銃を持ち上げて、男の背中にねらいをさだめて、引き金を引いた。
何も起きなかった。
すぐに、安全装置がかかっていることに気付いた。モデルガンで遊んだことがあるので、安全装置の場所もすぐにわかり、解除した。
和行は男を走って追いかけ、振り返った男に向かって発砲した。
轟音と、衝撃。
驚いた和行は、かすかな煙を上げている拳銃を手にしたまま、立ち尽くした。銃弾はそれたようで、男は無傷だった。しかし、男も驚いたようで、呆然とした表情でただ立っている。
先に我に帰った和行は、もう一度拳銃を構えて、じっくり狙いを定めてから、撃った。
男ははじかれたように尻餅をつくと、そのままばったりと地面に倒れこんだ。
発砲の衝撃でしびれる手を振りながら和行は倒れた男に歩み寄った。男は腹からおびただしい血を流して、今にも死んでしまいそうに見えた。
――こいつはなぜ生きているのだろう。ここで俺に撃ち殺されてしまうクソみたいな人生に、どんな意味があったんだろう。俺は生きることにうんざりしてるのに、死のうとすると怖くて引き金を引けなくなるのはなぜだろう。死が間近に迫ってくると、その理由はわかるのだろうか?
「ねえ、死ぬってどんな気分ですか?」
和行は問いかけたが、男は横たわったまま浅く息をしているだけだった。
「教えてください。これから死ぬって、どういう気分ですか? 死が迫ってくると、自分がなぜ生きているのかが理解できるようになるんですか?」
男は、ひゅう、とため息のような音をもらすと、そのまま動かなくなった。どうやら、死んだらしい。
和行は男をその場に残して歩きながら、拳銃を見た。相変わらず、銃口は真っ黒で薄気味悪かった。こめかみに銃を押し当ててみる。引き金を引けば、つまらない人生を終わりにすることができる、と思ったものの、いざ引き金を引こうとすると、怖くて引けない。
死んだ男のため息のような最後の息を思い出す。
背筋が寒くなって、銃口をこめかみから放した。
――だめだ。できない。
拳銃を片手に歩き回ると、すぐに恰幅のいいスーツ姿の男を見つけた。落ち着きがあり、いかにも人生経験も豊かで何でも知っていそうに見えた。
「すみません」
「はい」
男は落ち着いた様子で返事をしたが、和行の手に握られている拳銃を見て、とたんに落ち着きを失った。
「教えて欲しいんですけど」
「……なん…ですか?」
「どうして、生きてるんでしょう?」
「はい?」
「生きてるって、つらいことのほうが多いじゃないですか。なのにみんな、どうして生きているんでしょう?」
「それは……」
男は、鼻の頭に汗をかきながら、唇をなめた。
「それは?」
「たぶん、たまに楽しいことが起きるから、じゃないですか。つらいこと十回に楽しいこと一回くらいの頻度で」
「そうなんですか?」
「そうだと思いますよ」
和行は首をかしげた。記憶をたどって、楽しかったことを思い出そうとしてみる。しかし、何も思い出せなかった。
「社会人になってからもう五年ですけど、楽しいことなんて何も思い出せないんですけど。こんな俺は、やっぱりもう死んだほうがいいですかね?」
和行は拳銃をこめかみに押し当ててみる。
「ああ、いや、それはやめたほうがいい。生きていれば、いいことはきっとある」
「そうは思えないんだけどなぁ」
「いや、大丈夫だ。真面目に努力を積み重ねていけば、必ず報われる」
「あなたの努力は、報われましたか?」
「もちろん」
「たとえば、今ここで俺に撃ち殺されるとしても、努力が報われたと言えます?」
和行は男に銃を向けた。
「……なにを……」
「こんな形で終わってしまう人生に、意味があると思いますか?」
「いや、それは……」
「ためしてみましょうか」
和行は銃口を男の足に向けて、引き金を引いた。轟音と同時に血が飛び散り、男は路上にへたり込んだ。
男は言葉にならない悲鳴を上げながら、撃たれた足を押さえた。
「どうですか? こんなひどい目にあうなんて、理不尽だと思いませんか? どんなに努力を積み重ねても、こんな理不尽な形で命を奪われるなんて、おかしいと思いませんか?」
男はひいひいと悲鳴を上げつづけている。
「人生が何の意味もなく終わろうとしている今の気持ちを教えてくださいよ」
やはり、男は答えず、悲鳴を上げている。
和行は男の頭にねらいを定めて、撃った。
まるで電池が切れたおもちゃのように、男の悲鳴も動きもぴたりと止まった。
答えを見つけられないまま歩いた和行は、次に若い女に出会った。女は、和行が持っている拳銃を見ても、まったく動揺した様子がなかった。
「質問があるんです」
女は切れ長の目を細めて、和行を見た。
「なあに?」
「どうして、みんな生きてるのかな?」
「生きてるからよ」
「意味がわからない」
和行が言うと、女は口元に笑みを浮かべた。
「生まれたから、生きているだけ。生きていることは動かしようのない現実で、理由なんてどこにもない。質問に答えが出ないのは、その質問自体が間違っているから」
「じゃあ、死にたいのに死ねないのは?」
「それも、質問が間違っているわね。死にたい、という部分が」
「このロクでもない人生に、うんざりしている。死にたいんだ」
「くだらないことを力説しないで。みんな、死にたいと思いながら、死にたくないとも思っている。うんざりだと思いながら、でもひょっとしたら楽しいことが起きるかもしれないと思っている」
「思ってない」
「思ってるわよ。人間の感情は、ゼロか一かできれいに分かれるものじゃないの。いつも相反する感情を持ちながら、迷ってる。間違いは、必ずそのことを忘れたときに起こるの。死にたいか、死にたくないか、だけじゃない。死にたいけど死にたくない、ということもあるの。好きだけど嫌いな人、いるでしょ。見たいけど見たくないホラー映画、あるでしょ。そういうこと」
女は自信満々に言いきって、長い黒髪をかき上げた。
和行は、混乱していた。自分が考えていた疑問そのものを否定されて、どうしていいのかわからなかった。それが、腹立たしかった。
銃口を女に向ける。
「じゃあ、あんたは今、ここで俺に殺されてもいいのか?」
「それが重大なことのように言うあなたは、やはり命を大切に思っているんでしょ」
「うるさい! 答えろ!」
「ここであなたに殺されてもいいかって? 良くないに決まってるじゃない。私も死にたいけど、死にたくないもの。ここで殺されたら、死にたい私は満足だけど、死にたくない私にとっては不満だから」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。和行は、思わずサイレンのする方向に目を向けた。
「ほら。うんざりしてるのに、警察に捕まることを恐れてる。人生がどうでもいいものだったら、警察に捕まっても平気なはずなのに」
「うるさい! あんたは何なんだよ。偉そうに、何もかも知ってるような顔をして」
「この顔は生まれつき」
「いい加減にしろ。殺すぞ」
「それも仕方がないわね。だって、死ぬタイミングは、私自身には決められないから」
女は口元に笑みを浮かべたまま、続けた。
「どうでもいいけど、何かするなら急いだほうがいいわよ。警察が来ちゃうから」
和行は、パトカーのサイレンが近づいてきていることに気付いた。どうすればいいのかわからなくて、手の中の拳銃に目を落とした。
「私、行くね。ばいばい」
女は手を振ると、和行に背を向けて歩き出す。
「待て!」
和行は怒鳴ったが、女は立ち止まらない。
女の背中に向けて引き金を引いた。
高らかに銃声が響いたが、ねらいをはずしたらしく、女は平然と立ち去る。もう一度引き金を引いたが、何も起こらなかった。
――弾切れ、か。
和行は銃口をのぞきこんだ。銃口は相変わらず真っ黒だったが、さっきまでのような不気味さはなかった。
――やっぱり、うまくいかないもんだな)
ぼんやりと銃口をのぞきこんでいると、周囲が騒がしくなってくる。
警察が到着したようだ。
「銃を捨てろ!」
和行は、声がしたほうに目を向けた。パトカーの陰にかくれて、警官たちは銃をかまえている。
――潮時だろうな……。
和行は拳銃を警官たちのほうに向けた。
警官たちの銃が、煙を吹く。
腹のあたりに熱い痛みを感じて、和行は路上に倒れた。目を閉じると、辺りが暗黒に包まれた。
まるで、銃口をのぞき込んだときに見えた闇のようだった。
とくに感慨もなく、ただ、和行は思った。
――ま、いっか。
(完)
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