『絶望という名の町』
滝澤真実
一 夢という名の町
背の高い防風林に弱められた浜風が、寝静まった町をゆるやかに吹き抜けていく。すでに日没からはかなりの時間が経っており、その海辺の町はひっそりと静まり返っていた。丸い月が中天で明るく輝き、青白い澄んだ光で町を隅々まで照らしている。
街はずれの防風林の近くに、一軒のひなびた宿がある。その宿はどっしりとした石造りの二階建てだったが、外壁は強い浜風に長年さらされてきたせいで、かなり傷んでいた。
この宿には、その昔、有名な聖人が宿泊したことがあるという。聖人は夢のお告げに従って、宿の敷地の中に井戸を掘った。当時、ひどい日照りに悩んでいたこの町の住民たちは、その井戸によって命を救われたと言い伝えられている。しかし、井戸はすでに涸れて久しく、今では宿の裏手にわずかな痕跡を残すのみとなっていた。
その宿の狭い廊下に、窓からほの暗い月明かりが忍び込んでいた。ざらざらとした廊下の壁と、客室の木製の扉とが、青白い光に照らしだされている。
そして、その扉の脇に、一人の男の姿があった。男は小柄で痩せており、頬もひどくこけ落ちている。ただ、不格好に大きなワシ鼻だけが、男の顔を非常に印象的なものにしていた。
男は扉に耳をあて、室内の様子をうかがっている。やがて、おもむろに男は細い金具を取り出し、それを鍵穴に差し込んで慎重に回した。
金属のぶつかる耳障りな音とともに、鍵は開いた。男は急いで鍵穴から金具を引き抜き、壁に張りついて室内の気配をうかがう。そして長い間をおいてから、ゆっくりと扉に手をかけた。
押し開けられる扉の隙間から、室内へ月明かりが差し込んでいく。ベッドは扉から入った正面に置かれており、その上には三十がらみの男の姿があった。まるで彫刻のように整った顔立ちの男で、寝息もたてずに横になっている。
侵入者はすばやく室内を見回し、ベッドの脇にある小さな机に目を止めた。机の上には、宿泊客の衣服と思われる畳まれた布と、ひと振りの剣、そして皮袋に入った丸いものが並べられている。男は机に忍び寄ると、皮袋を手にとり、中をのぞき込んだ。
皮袋をのぞく男の目に、歓喜の色が浮ぶ。男は微笑みながら皮袋を懐にしまい込み、ベッドの上の男を見た。ベッドの男は身じろぎひとつしない。男は机の上の衣類の山を素早く探り、他に金目のものがないことを確認すると、剣を持ち上げた。
と、剣の鞘と机がぶつかり、ゴリッという大きな音をたてた。反射的にベッドから飛びのいた男は、慣れない手つきで奪ったばかりの剣を抜く。しかし、ベッドの男は微動だにしない。
それは、あまりにも不自然な沈黙だった。
男は眉をひそめてベッドに歩み寄り、男をまじまじと見つめた。寝息もたてず、微動だにせず、まるで彫刻のように整った顔立ちの男……。
盗っ人は剣の鞘を突き出し、ベッドの男の顔を軽く突いた。
ゴツッ。
ベッドの男の顔は弾力がなく、それこそ彫刻のように硬かった。盗っ人は息を殺しながら剣を鞘に収め、素手で男の顔に触れた。紛れもない、冷たい石である。人間のかわりに、奇妙な質感にあふれた男の石像が、ベッドの上で横になっているのだ。
盗っ人は手を引っ込め、逃げるようにして部屋から出ていった。後に残されたのは、月に照らされているベッドの上の冷たい石像だけだった。
二 希望という名の島
西に大きく傾いた朱色の太陽が、今まさに水平線に触れようとしていた。昼間より数倍も大きく見える太陽は、水平線のわずか上でゆらゆらと揺れている。その太陽からの強い光を浴びて、島は朱と黒の二色に染まっていた。
この島は、石像の島という名を持っている。その名が示す通り、この岩ばかりの小さな無人島には様々な動物の石像が散在していた。島のすべてが朱色の光と黒い影に覆い尽くされるこの時間、石像たちには光と影が織りなす微妙な表情が浮かびあがる。束の間、島は呪縛を解かれた石像たちの静かな息吹きで満たされるのだった。
穏やかな波の音が、島に響いている。
この石像たちが支配する島の静寂を、一人の男の足音が破った。男は長身で、逞しい体つきをしている。貧相な旅人の身なりをしているが顔だちは端整で、歳の頃は三十代はじめくらいに見えた。細い目が、強い太陽の光を受けて余計に細められている。
男はゆっくりと歩きながら、島の北端へ向かっていた。そこには海に向かって立つ、美しい女の像がある。その女の石像もまた、強い西日を浴びて朱に染まっていた。
無雑作に頭の後ろで束ねられた髪、憂いに満ちた大きな瞳、形の良い小さな唇、ほっそりとした体、体の前で握り合わされた祈るような手、スカートの裾から見える細い足。そのどれもが限りなく生身の人間に近く、豊かな質感にあふれている。
島の静寂を破りながら歩いてきた男は、女の正面に立ち、そっと女の頬に触れた。そして男は女の肩に手を置き、体をかがめ、女の唇にそっと口づけをする。
その瞬間、朱に染まった太陽は水平線に触れ、目で見ても判るほどの速さで沈みはじめた。男はハッとしたように沈みゆく太陽を見やり、再び女に視線を戻す。女の朱に染まった体は、徐々に暗さを増していく背景の中に没しつつあった。
ふと、男の体から黄白色の小さな光が飛んだ。
光の粒はしばらくの間蛍のように男と女の像の周囲を舞い飛ぶと、空へと昇っていく。その光の粒を追うように、いくつもの光の粒が続けざまに男の体から飛び立ち、ほどなく無数の光り輝く粒子が辺りに満ちた。
太陽は半分近くまで水平線の向こうに沈んでおり、島はゆっくりと、しかし確実に夜の闇に覆われていく。ただ島の北端、女の像と男が立っている一角だけは、不思議な光の粒のおかげで明るく見えた。
ゆっくりと空へ舞い上がっていく黄白色の光の粒にかわって、青白い光の粒が空から降ってきた。そして、青白い光の粒は女の像に吸い込まれるように消えていく。
と、海からの微風を受け、石でできていたはずの女の髪が揺れた。
群れ飛ぶ光の粒の中、灰色の石だった女が色を取り戻しつつあった。風になびく髪は柔らかい茶色に、着ている服は綿色に、肌は透き通るような白に。そして、大きな目が一度閉じられ、再び見開かれた時には、みずみずしい生きた人間の瞳に変わっていた。女は輝きを取り戻した緑色の瞳で男を見、歓喜に顔をほころばせた。
なおも黄白色の光の粒は空へと昇り、幾つもの青白い光の粒は空から舞い降りる。そして、青白い光の粒は二人の周囲を舞い、女の体にぶつかって消えていく。
女は徐々に柔らかさを取り戻しつつある腕をゆっくり伸ばし、男の頬に触れた。男は女に向かって穏やかに微笑みを投げかけたが、それ以上のことは何もしなかった。
女とは反対に、男の体が徐々に色を失っていく。黒髪も、日に焼けた褐色の肌も、濃い藍色のマントも、すべてが石の冷たい灰色に変わっていくのだ。しかし、やはり男は微笑みを浮かべたままだった。
女がようやく自由になった足を一歩前に踏み出した頃には、男は完全な石像になってしまっていた。しかし女はそのほっそりとした体を男に寄せ、男をきつく抱きしめ、冷たい石の唇に口づけをした。
空から降ってきた青白い光の粒は、そのほとんどが女の体に吸い込まれるように消えていた。最後の一粒が男の石像を抱きしめる女のまわりを少しの間だけ舞い、女の細い腕にぶつかって消える。
そして、太陽は水平線の向こうへ沈んだ。
西の空にはまだ朱色の光が残っていたが、もはや島を照らすには弱すぎた。女は石像と化した男に何度となく口づけし、薄暗い中で男の顔を見つめ続ける。
女は長い時間を男の石像に寄り添って過ごしたが、西の空から太陽の最後の残光が消えるとともに、男の像から離れて島の中央へと歩きだした。女の白い姿が、闇に飲み込まれて見えなくなる。
近くの岩陰に隠れてこの一部始終を目の当たりにしていた男がいた。こけた頬と大きなワシ鼻を持つ、小柄な痩せた男である。彼は女の白い姿を見送ると、石になってしまった男に歩み寄り、何やら神妙な面持ちで男の石像に触れた。そして、女が去っていた方向をゆっくりと見やる。
島には、もう完全な夜が訪れていた。
「どなた?」
女が細い声で言った。
「俺はウォルターだ」
ワシ鼻の男の言葉に、女は微笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。私の名前はクラウディアよ」
「やあ、クラウディア」
ウォルターと名乗ったワシ鼻の男は、こけた頬をぼりぼりと掻きながら周囲を見回した。
そこは、小さな洞窟だった。ベッドやテーブルといった最小限の生活必需品を、蝋燭の明かりが弱々しく照らしている。潮のにおいが強かったが、きちんと整頓されていて小奇麗な部屋だった。
「何かおもてなしができればいいのですが、この通り何もない所ですから、どうか許してくださいね」
クラウディアが優しい笑顔をウォルターに向けた。
「いや、何も必要ない」
ウォルターは女の顔を見た。クラウディアも澄んだ緑色の瞳で彼を見返している。
「ここには、長いのか?」
ウォルターは視線をクラウディアの瞳からそらし、尋ねる。クラウディアは何も言わず、静かにうなずいた。
「こんな、狭い洞窟の中に?」
クラウディアはもう一度うなずく。
「ずいぶん判りにくい場所に入り口があるもんだから、見つけるのに苦労したよ」
「入り口は、わざと隠してあるんです」
「なるほど……」
ウォルターはうなずく。そこで会話が途切れ、気詰まりな沈黙が流れた。
蝋燭の炎が、微かな音をたてて揺れていた。
「それで、あなたは何をしにいらっしゃったのかしら?」
クラウディアが沈黙を破った。ウォルターは少し困ったふうに首を傾げ、頬を掻いた。
「実は、この島にまるで生きているような素晴らしい女性の石像がある、という話を聞いてね。盗んで売れば、いい値段がつくかな、と思ったんだ」
クラウディアはプッと吹きだした。白い衣服に包まれたクラウディアのしなやか体が、笑いに合わせて楽しげに揺れる。
「おかしいかな?」
「ええ」
笑いながらそう言うクラウディアの声は、とても明るい。
「だって、その『生きているような石像』は、本当に生きてたんですものね」
ウォルターは何も言わなかった。
「あなたのお仕事は、泥棒さんなの?」
「……まあね」
「知りたいんでしょう? 何がどうなっているのかを」
「…ああ。できれば、お願いしたい」
「立ち話もなんですから、お座りになってください」
クラウディアはにこやかに椅子を勧める。ウォルターが言われるままに腰を下ろすと、彼女は狭い部屋の中をゆっくり歩きながら、口を開いた。
北の山をひとつ越えたところに、魔女の治める土地がある。魔女は名前をアイリーンといった。
魔女は痩せた土地を魔術で肥やし、日照りが続けば雨を呼び、外敵が侵入すれば魔術を使ってこれを撃退した。領民にとっては、魔女は良き統治者だったのである。
ただし、これには「ただ一点を除いて」という条件がつく。
魔女アイリーンは、あまりにも横暴だった。気に入らない事があると稲妻を呼び、魔女の不興をこうむった者には誰彼かまわず呪いをかけたのである。もちろん、呪いがかけられるほど魔女の機嫌を損ねる例は、そう多くはない。その一番最近の例は、もう十年も前の話になる。
魔女とて一人では生きてゆけるはずもなく、幾人かの有能な家臣に支えられていた。この魔女の家臣の中に、ハワードという若い男がいた。
ハワードは才気煥発にして眉目秀麗。誰の目にも止まる好人物であった。
そして、この好人物ハワードに魔女は恋をしたのである。しかし、ハワードには将来を誓い合った恋人がいた。魔女はありとあらゆる手段を使ってハワードの心変わりを誘ったが、どのような魔術もハワードの心を動かすことはできなかった。
そして、どうしてもハワードの心を得ることができないと悟った時、魔女の愛情は憎悪へと変わったのだった。
ハワードと彼の恋人にかけられた呪いが、「石の呪い」である。この呪いは、人間を石に変えてしまうものだった。しかし、二人がただ永遠に石と化してしまうだけならば、それは二人にとってどれほど楽なものだっただろうか。「石の呪い」はただ二人を石に変えるだけではなく、より多くの苦痛を二人に与えるものだったのである。
一人が夜の間だけ石に、もう一人は昼の間だけ石に変わる。二人はともに生きながらえながら、愛し合うことはおろか、会話することすらできない。愛し合っていながら会えない二人の日々が、こうして始まったのだった。
時にハワード二十二歳。その恋人クラウディアは、十八歳だった。
「十年も前?」
話を聞いたウォルターが、クラウディアに問い返す。
「ええ。二十八歳には見えない?」
クラウディアが微笑む。その笑顔は若々しい。
「ああ。もっと若く見える」
ウォルターの言葉に、クラウディアは静かに応えた。
「ありがとう」
「…それで、それからずっとこの島に?」
ウォルターが少し考えてから尋ねた。
「ええ、近くの漁師さんがいろいろと世話をしてくれるから、あなたが考えているほど大変じゃないのよ」
「でも、こんな何もない無人島で…」
「島にある私の作品を見てくださったかしら。私、この島に来てから彫刻を始めたの。動物たちの像も、この十年でずいぶん完成したわ。…ねえ、半分石像の女が石像を作るなんて、ちょっと洒落てると思わない?」
クラウディアの声は、あくまで陽気である。ウォルターは顔をしかめて、クラウディアの明るい笑顔を見つめた。
「あの、こんな事を聞いていいのか判らないんだけど……」
「気になさらずに、何でもおっしゃって」
「その…あんたの立場はとても辛いと思うんだが、ずいぶんと明るいんだな」
クラウディアはひときわ明るく微笑んだ。
「だって、信じていますから。呪いが解ける日がくることを」
「呪いは解けるのか?」
ウォルターが驚いたように言った。
「まだハワードの旅の話をお聞かせしていませんでしたね。彼は呪いを解く方法を探して、各地を旅してまわっているんです。彼が手に入れてきた古い書物によれば、『太陽の石』と『月の石』と呼ばれる一対の宝石があって、その宝石には私たちにかけられた『石の呪い』を解く力があるらしいの。もう月の石は手元にあって、呪いが解けるまであと一歩のところまできているのよ」
「…それはすごい」
「あなたがいらっしゃるまでハワードの手紙を読んでいたんですけれど、とうとう彼は太陽の石も見つけたらしいわ。でも残念なことに、近くの町で盗まれてしまったんですって」
「…………」
言葉を失ったウォルターに、クラウディアは優しく言う。
「大丈夫よ、十年も待ったんですもの。あと少し待つ時間が増えても、私は気にしないわ。石が近くにあることは判った訳だし、ね」
ウォルターは黙ったまま何も言わない。
「ねえ、ウォルター。あなた、泥棒さんなんでしょ? 泥棒って、盗んだ物をどうするものなの?」
「……故買屋に売り払って、金に替える」
「この近くの故買屋さん、ご存知?」
「ええ、まあ」
ウォルターは小さくうなずいた。
「もしよろしかったら、ハワードの道案内をして頂けないかしら」
クラウディアが、期待のこもったまなざしでウォルターを見る。ウォルターは、無表情のまま視線をそらした。
「お願い、お礼はするから」
クラウディアはウォルターに歩み寄り、彼の痩せた肩に手を乗せた。ウォルターは椅子から立ち上がり、クラウディアのほっそりとした手を自分の肩からどかすと、蝋燭の炎に照らされた彼女の顔を見据えた。
「なぜ、俺に?」
「だって、あなたはいい人ですもの」
「泥棒にいい人間なんかいない」
ウォルターは自嘲ぎみの笑顔を作ると、ぼそりと言った。
「でも、あなたは違うわ」
ウォルターは押し黙って、クラウディアから顔をそむけた。
「お願い、ウォルター」
クラウディアの細い声が、小さな洞窟の中に響く。
洞窟の入り口からは、静かな波の音が忍び込んできていた。
ウォルターは、古ぼけた茶色い皮表紙の本をパラパラとめくった。『呪術大全』という題のその本には赤い紙のしおりが挟んであり、彼の目は自然とその頁で止まった。
〈石の呪い〉
頁の始めには、そう小題がつけられていた。続いて、古くさい文体でその効用が書かれている。
「石の呪いは二名の者を一時に会合させぬもの也。即ち、一名を昼間のみ、一名を夜間のみ、石化せん。術の効果は死の訪れまで永久に続くもの也。
術を施されし者、人と石とは表裏一体にして、命もまた表裏一体也。即ち、人として死する時は石としても死し、石として死する時は人としても死すもの也。故に、死は術の均衡を破り、術を施されし者は死の訪れし瞬間の姿に定着せん。猶、一名の死はもう一名の呪いには影響を与えず」
次に、術を施すために必要な品物の一覧がある。「ベニトカゲを一ヶ月間陰干ししたもの」という記述が見られたが、それ以外はウォルターの知らない名前ばかりだった。
続いて、前と同様ウォルターには理解不能な術の施しかたの記述があり、最後に呪いを解く方法が書かれていた。
「解呪には一対の秘石を要す。即ち、『太陽の石』と『月の石』也。日出または日没の瞬間、『太陽の石』は昼の人の手に、『月の石』は夜の人の手に、二名並び立つべし。さすれば、術は破られん」
ウォルターが続けて次の頁に読み進もうとした時、部屋の入り口に一人の男が姿を現わした。筋骨逞しい大男だが、細い目のおかげで穏やかな印象を与える。間違いようもない、石になっていた男である。
「どなたかな?」
男は深みのある声でウォルターに言った。ウォルターは本を閉じながら男に向き直り、笑みを浮かべた。そして懐を探り、クラウディアからあずかっていた手紙を差し出しながら、彼は男に言った。
「おはよう、ハワード。俺の名前はウォルターだ。クラウディアから手紙をあずかってる。事情を聞いて、ちょいと力になってやろうと思ってね」
三 熱意という名の旅
「ここで待っててくれ」
小柄なウォルターは、長身のハワードを見上げるようにして言った。
船で島から漕ぎだした二人は町の近くの浜辺に上陸すると、町の中でも倒壊寸前のあばら屋ばかりが立ち並ぶ、湿った裏通りへ入った。そして、ハワードから盗まれた品物―石と剣―の特徴をざっと聞いたウォルターは、ここからは自分の領域だとハワードに告げ、単身で進んで行ったのである。
一軒のあばら屋の前で立ち止まったウォルターは、ハワードを振り返った。ハワードは彼に言われた通り、素直に待っている。彼はひと呼吸おいてから、あばら屋に踏み込んでいった。
建て物の中は外の通り以上に湿っており、薄暗くカビくさい空気で満ちていた。室内に散乱する数々の品物は、どれもが使い道のなさそうなガラクタばかりである。奥には小さなテーブルと一脚の椅子が備え付けてあり、そこでは背中の曲がった老人が椅子に腰掛けたまま居眠りをしていた。ウォルターはガラクタの山の中を物色して縁の欠けた陶器の皿を拾い上げると、それを持って老人に近寄っていった。
「よう、おやじさん」
ウォルターは老人に声をかけたが、まったく起きる気配がない。ウォルターは、手に持っていた皿を思いきり床に叩きつけた。
「ひゃっ!」
老人は情けない声を上げて目を覚ました。
「おやじさん、俺だ、ウォルターだよ」
老人は顔を上げ、目をこすりながらウォルターの顔を見た。
「なんじゃ、またお前さんかい。今度は何の用じゃ?」
「昨日引き取ってもらった石と剣を返してもらいにきた。金は全額返す」
「こりゃまた、どういう風の吹き回しかねぇ。あの見事な宝石を返せだって? わしも老いぼれて耳が悪くなったのかのう」
老人は耳に手をかざして顔をウォルターに近付けてくる。ウォルターはしかめ面をして老人の手を払いのけた。
「おやじさんの聞き違いじゃない。事情ができて、あの石が必要になったんだよ」
「はてさて…久しぶりの大物だと、お前さんも喜んどったはずじゃが……」
「だから、何度も言わせないでくれ。のっぴきならない事情ができたんだ」
ウォルターは声を荒らげると、懐からずっしりと重い布袋を取り出し、テーブルの上に置いた。老人は無言のまま布袋をのぞくと、鼻を鳴らした。
「だめじゃな」
「なぜ? 昨日のことじゃないか。金はまったく使ってない」
「剣はその辺のガラクタの山に転がっとる。持っていくがいい。剣の代金はもらっとくぞ」
老人は布袋を抱えて手を突っ込むと、貨幣をひと掴み取り出した。
「石は?」
「ウォルター、お前はつくづく運のない男じゃな。石は昨日のうちに買い手がついたんじゃよ。毎月必ず品物を見にくる金持ちの使いが昨日ちょうど来てな、あの宝石をえらく気に入ってくれたんじゃよ。お前から引き取った値段の三倍の値がついたわい」
老人は三本の指を立てながら、卑しい笑い声を上げる。ウォルターは舌打ちすると、老人の手から金の入った布袋を奪い返した。
「畜生。剣の代金にしちゃ多すぎだぜ、おやじさんよ。金を少し返しな」
「馬鹿言うな。引き取る値段と売る値段が同じでは、わしの商売はあがったりじゃわい」
「…糞ったれ」
ウォルターは渋い顔で周囲を見回した。そしてガラクタの山の中からハワードの剣を探しながら、老人に声をかける。
「で、おやじさん。石を買っていった金持ちってのは、何者なんだ?」
「まさか、わしからタダで情報を聞きだそうと思ってるんじゃなかろうな、ウォルター」
老人は高らかに笑う。ウォルターは剣を探す手を止め、ため息をつきながら老人を睨みつけた。
「この因業ジジイめ」
ハワードに剣を手渡したウォルターは、老人から聞きだした富豪の名前を言った。
「その富豪の使いが、太陽の石を買っていったのか……」
ハワードは静かに言った。
「ハワード、そいつのところに行って、事情を話して石を譲ってもらおうじゃないか」
ウォルターは言ったが、ハワードは首を振っただけだった。
「私はその富豪を知っている。ここから少し北に行ったところに住んでいる、魔女の息のかかった男だ」
「魔女の?」
ウォルターは目を見開いた。
「魔女の手の者が、呪いを解くための道具を簡単に譲ってくれるとは思えん」
ハワードはウォルターの肩を軽く叩くと、歩きはじめた。
「ウォルター、行くぞ」
ウォルターが後を追いながら、ハワードに問い返す。
「行くって、どこに?」
「必要とあらば、どこへでも」
ウォルターは足を止め、考え込む。ハワードは振り向き、言った。
「危険があるかどうかを考えてるのか?」
「どうして判る?」
「ただ、そう思っただけだ」
「…で、実際のところ、危険はあるのか?」
「判らない。だが、君に一緒に来て欲しい」
ハワードは、その細い目でウォルターの思案顔を見つめた。
「なぜ、俺に?」
ウォルターがしぼり出すような声で言った。ハワードは大きく息を吐きながら首を振ると、ウォルターに背中を向けながらつぶやいた。
「無理にとは言わん。ただ、私は君の力を必要としている」
ハワードが一人、歩き始める。
ウォルターは長い時間をハワードの背中を見送りながら立っていたが、やがて無言のままハワードの後を追って足を踏み出した。
太陽が、西の空に大きく傾いていた。
北の山を越える峠は、一帯が木々に覆われている。この時間になると、低い位置から差してくる陽光は木々に遮られて地面まで届かない。
「ずいぶん長い間夜を見ていないが、夜はこんな感じなんだろうな」
ハワードは暗い森の中で薪を拾いながら、そうつぶやいた。しかし、ウォルターは何も言わずに薪を拾い続けていた。
二人は、北の魔女の城へ向かっている。
富豪の家に寄った二人は召使いを捕まえ、脅して情報を得た。その召使いの言葉によれば、富豪は魔女に進物を届けるために外出中で、「太陽の石」も進物の中に含まれているという。このため、その富豪の一行を追って二人は魔女の城へ向かっているのだった。
「……気を付けろ。その刺のある草には毒がある」
「え?」
ウォルターは地面に落ちている枯れ枝を拾おうとしながら、ハワードを見上げた。ハワードは剣の切っ先で、ウォルターが拾おうとした枯れ枝の脇に生えている背の低い草を指した。幅広の葉に隠された細い茎には、小さな刺がいくつもある。
「猛毒だ。牛でも一発で死ぬ」
ウォルターは慌てて手を引っ込めた。
「そう。触らぬ神に祟りなし、だ」
ハワードは静かに言い、再び歩きはじめた。ウォルターがその後に続く。
「…魔女にも、触らんほうがいいのかも知れないな……」
ハワードが、まるで独り言のようにつぶやいた。
ウォルターは何も言わず、毒草を慎重に避けて枯れ枝を拾った。
「…すまんな…」
ハワードは立ち止まり、ウォルターに向き直って頭を下げた。頭を下げられたウォルターは、ばつが悪そうに頬を掻く。
「……別に、謝られるような事はしてない」
「君の義理立てには、とても感謝している」
「義理立て?」
ウォルターは怪訝な表情でハワードを見た。
「私を置いて逃げようと思えば、簡単に逃げられるはずだ。なのに、君は危険を承知の上で私を手伝ってくれている。君は責任感の強い、いい人間だよ」
「馬鹿言わないでくれ。俺はコソ泥だ。善人なら、そんな商売などしてないさ」
「悪いと知りながら悪事をはたらくには、それなりの理由があるはずだ。だから、私にはそういう人物を憎む気持ちはない。君も、泥棒という職業を選ばざるを得なかった事情があったんだろう?」
ウォルターが答えないのを見て、ハワードは言葉を続けた。
「考えてみれば、私たちは似ているのかも知れない。私は夜の間を石として暮らし、君は夜の間を泥棒として暮らす。どちらも、一日の半分の時間しか本来の自分として過ごせないのだからな」
「…俺は、ケチな悪党なんだ。そんな上等なもんじゃない」
ウォルターはうつむいて、蚊の鳴くような声で言った。
「本当に人の心の判らない悪党なら、自分の身を危険にさらしてまで他人の手助けをしようなんて真似はしないさ」
「…違う…俺は……」
「夜の君は許せない悪党かも知れないが、昼の君は普通の人間なんだよ」
ウォルターは押し黙った。ハワードはそのウォルターの表情をちらりと窺いながら近くの木の脇に腰を下ろし、地面に拾い集めた薪を放った。
ふと、ハワードの体から黄白色をした光の粒が飛び出す。
「日没だ。私は石になるから安全だが、君は狼に気を付けてくれ」
ハワードは木に寄りかかり、目を閉じた。
ウォルターは何も言わずにハワードを見た。次々とハワードの体から飛び出す光の粒は、上昇していって覆い茂る木々の枝の向こうへ消えて行く。
ウォルターは、拾った薪に火を起こす準備をゆっくりと始めた。
四 敵意という名の城
魔女の住む城には、四本の尖塔が立っている。四本とも形態と装飾が違っており、見た目にはアンバランスな印象を与える。正確に東西南北に配置されたこの尖塔には何か儀式的な意味があるらしいが、実際のところは城の主しか知らなかった。
城には石塀がめぐらされており、その周囲には水を湛えた堀がある。出入口は一ヵ所しかなく、跳ね橋がかけられていた。この跳ね橋は、昼の間は下ろされていて渡ることができる。もちろん、橋を渡りきったところにある城門には常に槍を持った二人の衛兵が詰めているため、誰でも城内に入れる訳ではなかった。
ハワードは、少し離れた木陰から城を眺めている。そのハワードのところへ、通りの向こうからウォルターが駆け寄ってきた。
「昨日森ですれ違った馬車の一団は、やっぱり例の富豪だった」
ウォルターが息を弾ませながら言った。
「そうか。それでは、献上品はもう宝物庫に入れられたな……」
「夜まで待とう。俺が忍び込んで盗んできてやるよ」
ウォルターの言葉に、ハワードは首を振った。
「だめだ。宝物庫は城の地下にあるのだが、城の地下は迷路になっている。場所は私が一緒に行かなければ判るまい」
「どうする? まさか、宝物庫に用があるから入れろ、と言う訳にもいかないだろう」
ハワードは少し考えてから、にやりと笑った。
「うん、その手でいこう」
ウォルターは目を丸くしてハワードを見る。
「私は夜は動けない。ならば白昼堂々、正面から乗り込んでいくしか方法はあるまい」
「でも…」
口を開きかけたウォルターを遮るように、ハワードは平然と言った。
「他に選択肢はない。どうあっても、やらねばならん」
「ハワード、もう少し考えてからでも……」
ウォルターは言ったが、すでにハワードは城に向かって歩きだしていた。
「ウォルター、武器は持っているか?」
ハワードが歩きながら言った。仕方なしに彼を追ってきたウォルターが、自分の荷物の中からナイフを取り出す。
「ナイフが一本」
「扱いはうまいか?」
「投げさせれば、そこそこには」
「ぜったいに投げるな。相手にしなければならないのは一人だけではないからな」
ウォルターは黙ってうなずいた。
「やあ」
ハワードが城門を守る若い二人の衛兵に近づき、無雑作に挨拶した。
「お前は?」
衛兵の一人が不審そうに言った。ハワードが城を出てから十年が経っているため、この若い二人はハワードの顔を知らない。
「ハワードという者だが、アイリーン様はいらっしゃるかな?」
「何の用だ?」
衛兵の一人が手にした槍を構えた。ハワードは細い目を余計に細め、笑いながら両手を上げた。
「怪しい者じゃない。私は、昔アイリーン様にお世話になった者でね。取り次いでもらえないか? ハワードが来たと言ってもらえれば判るはずなんだが」
衛兵は顔を見合わせた。
「頼むよ」
ハワードが言うと、ようやく衛兵は決心がついたらしい。
「判った、ここで待っていろ」
と言い置くと、一人が客の来訪を告げるために背を向けた。
瞬間、目にも止まらぬ早さでハワードが剣を抜いた。
「あっ!」
残った衛兵が声を上げた時には、ハワードの持つ剣の柄が衛兵の顔面をとらえていた。衛兵は弾き飛ばされ、倒れて動かなくなる。
しかし、その間にもハワードは次の行動に移っていた。背中を向けていた衛兵が物音を聞きつけて振り向いた時、すでにハワードが剣を振り上げて肉迫していたのである。衛兵は、なす術なくハワードの剣の柄を顔に受けて倒れた。
その光景を、ウォルターは呆然と立ち尽くしながら眺めていた。
「ウォルター、詰め所の衛兵たちが出て来る前に駆け抜けるぞ。走れ!」
ハワードは怒鳴りながら走りだす。ハワードの声で我に返ったウォルターは、慌ててハワードの後を追った。
二人が詰め所の脇を駆け抜けた直後、詰め所から異変を察知した衛兵がバラバラと飛び出してきた。
「ちょっと、ハワード!」
ウォルターが横目で追って来る衛兵を見ながら叫んだ。
「何だ!」
「城に入ったのはいいけど、出る時はどうするんだ?」
ハワードは全力疾走しながら、ウォルターに怒鳴り返した。
「城から出る時に考える!」
城の地下は、入り組んだ迷路になっている。一定の間隔を置いて明かりが灯されていたが、迷路は薄暗くじめじめとしていた。
暗い迷路に飛び込んでいったハワードとウォルターを追って来る衛兵はいなかった。ハワードの言葉によれば、衛兵で迷路の抜けかたを知る者がいないため、ということである。実際、迷路は入り組んでおり、入ってすぐにウォルターは迷路の出口はおろか、自分の向いている方向さえ判らなくなっていた。
「どうやってこんな迷路を覚えたんだ?」
ハワードに付き従って歩きながら、ウォルターが尋ねた。
「魔女の部屋が迷路の奥にある。魔女に直接会うことのできる者なら、誰でも迷路の抜けかたは知っているはずだ」
「魔女に直接会える人間ってのは、何人いるんだ?」
ウォルターは尋ねたが、ハワードはその問いには答えなかった。彼は答えるかわりに立ち止まると、黙って正面を指差した。薄暗い迷路はそこで行き止まりになっており、そこには「宝物庫」と書かれた扉がある。
「ウォルター、君の出番だ」
ハワードが言った。その期待に満ちた顔を、ウォルターが見上げた。
「罠はあるのか?」
「ある、という話だ。しかも、とびきり危険なやつが。どんなものかは私も見たことがないが」
「ありがたいことだな」
ウォルターはため息まじりにそう言うと、慎重に扉を調べはじめた。そして、とくに不審な点がないことを確認すると、扉のノブに手をかけた。
「鍵がかかってないな……。なあ、ハワード。知ってるか?」
「何を?」
「泥棒の間の諺さ。『鍵のかかっていない扉が一番危険だ』っていう」
「初耳だな」
「覚えとくといい。何かの役には立つだろう。…さあ、開けるぞ。下がっててくれよ、何が飛び出すか判らないからな」
ウォルターは扉から身をひきながら、そろそろと扉を引き開けた。扉の隙間から、不快な腐臭が漂い出てくる。
すぐに扉は完全に開いた。しかし何も起こらない。
「なんだ、何もないじゃないか」
ハワードは無雑作に足を踏み出し、部屋に入ろうとした。それをウォルターが手で制止する。彼はハワードを下がらせると、引き開けた扉の内側を念入りに調べた。
「まだ安全と決まった訳じゃない……ほら、見ろよ」
ウォルターが指で触った扉の内側の縁には、何かの小さな文字らしいものが半分だけ描かれている。床を調べると、文字の残りの半分があった。
「…この文字は、何か魔術的な意味があるんだろうな……。確信はないが、たぶん内側から開かなくなる仕掛けだろう」
「私が支えていようか?」
「いや、その必要はない」
ウォルターは自分の荷物から金属製のくさびを取り出すと、それを開けた扉と床の間に打ち込み、扉を固定した。
ウォルターは扉が動かない事を確認してから、慎重に室内を覗いた。扉から入った正面に、大きな木箱がいくつも並んでいる。箱のひとつは半分口を開けており、そこから宝石の輝きが覗いていた。
「さあ、中に入ろうか……」
ウォルターは室内への第一歩を踏み出した。
室内には、むせかえるような腐臭が満ちていた。その発生源は室内に散らばる人間の死体である。ほとんどが骨だけの状態になっていたが、一体だけは比較的新しく、腐臭はおもにその死体から発生しているようだ。
「ひどいにおいだ……」
床を調べながら這うように室内を進むウォルターが、そうつぶやいた。後から続くハワードは、マントを口にあてている。
「妙だな…」
木箱の目前まできて、ウォルターが首を傾げた。
「何が?」
「罠がない。扉の罠だけなのかな……」
「そうかも知れん」
ウォルターはしかめ面で、木箱を調べ始めた。しかし、木箱にも不審な点はない。
ウォルターは思いきって木箱を開けた。その彼を迎えたのは、無数の宝石の輝きだった。彼は、目の前の宝にそろそろと手を伸ばしながらつぶやく。
「…すごいな、これは……」
突然、ハワードが剣を抜いた。
「ウォルター、ここの罠の正体が判った」
「えっ?」
ウォルターが振り返るのと、ハワードが剣を振り下ろすのとが同時だった。
ハワードの剣がウォルターの頭をかすめる。
「ハワード、何するんだ!」
ウォルターが悲鳴に近い声を上げた。しかしハワードはウォルターの声には答えず、彼を横に突き飛ばし、木箱の向こう側に向かって剣を振り下した。暗がりの中で何かが大きな音をたてて砕ける。
「気を付けろ、ウォルター! ここの死体は動くぞ!」
ハワードが怒鳴った。
「何を馬鹿な……」
ウォルターは起き上がりながら言いかけたが、すぐにその口をつぐんだ。目の前に、骨だけになった死体が立っているではないか。二本の足で立ったその死体は、虚ろな眼窩でウォルターを見つめると、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「うわっ!!」
床を転がるようにして死体の手から逃れたウォルターは、出口のほうへ向かって一目散に逃げだした。その彼の目に、くさびで固定したはずの扉が動いているのが見えた。扉の縁、半分に切れた文字が淡い光を発している。それに呼応するように、床や壁に描かれた文字の残りの半分も明滅していた。
「ハワード、扉が閉まるぞ!」
ウォルターは扉に駆け寄りながら叫んだ。見ると、ハワードはまだ室内で死体相手に剣を振るっている。ウォルターは扉までたどり着くとすぐに、ありったけのくさびを荷物から取り出して扉と床の間に打ち込んだ。部屋に入る時に打ち込んでおいたくさびは、すでに扉の閉まろうとする強い力によって変形してしまっている。
「ハワード! 早く!」
なおも閉まろうとしてジリジリと動く扉を体で支えながら、ウォルターは怒鳴った。
ハワードは群がってくる死体を剣で払いながら、扉まで後退してきた。そして、追ってきた死体を叩き切りながら、ぼそりとつぶやいた。
「さすがは魔女だ。半端な罠じゃないな」
「感心してる場合じゃない。動く死体と一緒に地下室に閉じ込められるなんて、考えただけでぞっとする。早いところ、ここから抜け出そう」
ウォルターは言ったが、ハワードは死体を切り伏せながら言い返す。
「まだだ。太陽の石を取り戻していない」
ウォルターは呆れたような表情でハワードを見た。ハワードは最後の死体を叩き潰すと、ウォルターを見る。
「よし、死体はすべて動けないほどにまで破壊した。君は石を頼む。扉を支えるのは私に任せろ」
「え? 俺が行くのか?」
ウォルターは口をあんぐりと開けた。ハワードが当然だと言わんばかりにうなずく。
「力仕事は私のほうが得意だ。違うか?」
ウォルターは筋骨逞しいハワードと自身の痩せこけた貧弱な体を見比べ、ため息をつきながら室内に飛び込んでいった。すでに扉は半分近くまで閉まっている。
木箱の蓋を弾き飛ばすようにしながら、ウォルターは片っ端から箱をあさっていった。
「ウォルター、早くしろ!」
扉を支えているハワードが怒鳴る。
「急いでるよ!」
怒鳴り返したウォルターは、見覚えのある大きな丸い宝石を見つけた。人間の拳ほどもあるその黄色い透明な宝石は、間違いなく彼がハワードから盗んだ『太陽の石』である。
「あった!」
ウォルターは宝石を取ると、もう片方の手で木箱の中身をわし掴みにし、全速力で扉へ駆けだした。
「何をしてる、急げ!」
「行き掛けの駄賃だよ!」
ウォルターは、走りながらわし掴みにした戦利品をハワードに見せる。と、ウォルターは何かに足を取られて倒れた。転倒したウォルターのの手から戦利品の数々がこぼれ落ち、太陽の石も床に転がった。
「畜生!」
ウォルターは毒突きながら見ると、足にハワードが切った死体の腕がしがみついているのが判った。
床に落ちた太陽の石は扉の方へ転がり、扉を支えるハワードの足下を抜けて部屋の外へ出ていく。
「太陽の石は大丈夫だ。ウォルター、早く出てこい! もう限界だ!」
ハワードが叫び、ウォルターは太陽の石を追うようにして這いながらハワードの足下をすり抜ける。その直後、宝物庫の扉が音をたてて閉まった。
「畜生、気持ち悪い」
ウォルターは顔をしかめながら、死体の腕を足からはずした。
「怪我は?」
ハワードが尋ねる。
「大丈夫。でも戦利品が……」
ウォルターはくやしそうな顔で、手元に残った品物を見た。小さな赤い宝石が一個に古
い硬貨が一枚、そして汚れた手鏡がひとつだけである。
「助かっただけでも良しとしよう」
ハワードはそう言いながら、ウォルターが立ち上がるのに手を貸した。そして、床に転がっていた太陽の石を拾い上げる。
「さあ、行こう」
「ああ…」
二人は、薄暗い迷路を引き返し始めた。
迷路を歩きながら、ウォルターは手に入れた手鏡をのぞき込んでいた。服の袖で汚れを拭うと、鏡の中からは疲れた表情をした彼自身の顔が見返してくる。彼はため息をつきながら鏡を裏返し、鏡の裏に刻まれた模様を眺めた。そこにはオウムのような鳥の絵が描かれている。
「なあ、ハワード」
ウォルターは鏡の模様から目を上げ、ハワードを見た。
「何だ?」
「城から出る方法は考え付いたか?」
「いや、まだだ」
ハワードは無愛想に答えると、角を曲がった。
「!!」
角を曲がったところで、ハワードが身構えた。
そこで三人の人物と鉢合わせしたのである。一人は肥満した巨漢で、肩には巨大な棍棒を担いでいる。もう一人は細身の中年男で腰には剣を吊している。二人の男に挟まれるように立っているのは、小柄な美しい女だった。女はあでやかな顔をしているが、目だけは奇妙に冷たく、不気味な印象を与えた。
「…ハワード……」
女が言った。澄んだ透明な声である。
「これはアイリーン様。ご機嫌はいかがですか?」
ハワードは剣を抜きながら言った。
「…やはり、石を取りに来たのですね」
魔女アイリーンは眉ひとつ動かさず、静かに言った。
「ええ、とても大切なものですから。私にとっては」
ハワードは剣で巨漢と中年男を牽制しながら、前に進もうとした。
「私と話をするつもりはありませんか、ハワード」
魔女の冷たい目が、微かに揺れた。
「いいえ、残念ながら」
ハワードが言うと、魔女は静かに目を閉じた。
「…そうですか……」
「アイリーン様。申し訳ありませんが、そこを通していただけますか?」
「何を丁寧な口きいてるんだ、ハワード。相手はあんたとクラウディアの仲を裂こうとした女じゃないか。とっとと……」
ウォルターは言いかけたが、ハワードがそれを制止した。
「よせ、ウォルター」
しかし、ハワードの制止は遅すぎた。魔女は眉を吊り上げ、何か汚らわしいものでも見るような目つきでウォルターを見た。
「お前は、何ですか」
魔女は鋭い視線をウォルターに浴びせかけた。ウォルターは何も言えず、ただ半歩後退した。
「いまいましい下等民め。クズはクズらしく、身分相応の場所にいなさい。ここはお前のような者の来る場所ではありません」
魔女は一歩ウォルターに近寄った。ウォルターは気おされて二歩下がる。魔女は、怯えるウォルターの姿を見ながら陰険な笑みを浮かべた。
「二度と目のあてられない、クズにふさわしいおぞましい姿になってしまいなさい!」
魔女は大げさな身振りで宙に何やら文字らしきものを描きながら、大声で言った。その視線は、見るものを怯えさせる凶悪な力に満ちている。
「ひっ!」
ウォルターは悲鳴を上げながら、とっさに魔女の視線から逃れようとして顔を腕で覆った。その手には、宝物庫から持ちだした鏡が握られている。
一瞬、鏡がきらめいた。
「ぎゃっ」
魔女が人間のものとは思えないような叫び声を上げるのと、ウォルターの持っていた手鏡が粉々に砕け散るのとが、同時だった。
どろり。
と、魔女の美しい顔が蝋を溶かすように崩れていく。魔女は両手で顔を覆いながら、悲鳴を上げてうずくまった。
間髪を入れず、ハワードが動いた。剣の柄で巨漢を顔面を強く殴り、目を見張っている中年男を羽交い締めにして剣をつきつける。
「ウォルター、逃げるぞ!」
我に返ったウォルターは、中年男を盾にとったハワードに続いて進みはじめた。巨漢は頭を振って立ち上がりかけているが、後を追ってくるほどの力はないようだ。魔女はうずくまったまま金切り声を張り上げている。
「おのれ! 殺してやるぞ。そこの男も、ハワードも、二人とも必ず八つ裂きにしてくれるわ!」
城の薄暗い地下に、魔女のヒステリックな叫びがいつまでもこだましていた。
五 失意という名の森
ハワードとウォルターが中年男を盾にして魔女の城を出た時には、すでに夕暮れ間近だった。
「日没まで、それほど時間がないな」
そうつぶやいたのは、ハワードに羽交い締めにされていた小柄な中年の男である。
「森へ急げ、ハワード。追っ手が来るぞ」
「はい、先生」
ハワードは城から見えない位置まで来たのを確認し、中年の男を放した。
「先生だって?」
ウォルターが驚きのまなざしで、冴えない外見の中年男を見た。
「私の剣の師匠だ」
ハワードが言う。中年の男は、そんなことはどうでもいい、というように手を振って、ハワードを急かした。
「行け、ハワード。アイリーン様はすぐにでも追っ手を差し向けてくるだろう」
ハワードは黙ってうなずいた。
「アイリーン様の怒りが鎮まるまでには、かなりの時間がかかるだろう。二度とここへは近寄るな。そこの人もだ、いいな?」
男はウォルターにも言った。
「ああ。頼まれたって御免だ。さあ、行こう」
ウォルターはうなずき、ハワードをうながした。
ハワードは一歩踏み出してから立ち止まり、中年男を振り返った。
「先生…」
「行け」
中年の男は一言だけ言うと、二人に背を向けて城へ歩きだした。その背中をいつまでも見送ろうとするハワードの腕を、ウォルターが引いた。
「夜の間身を隠しておく場所を探さなきゃならないんだ。急ごう」
ハワードはゆっくりと歩きだす。途中、彼は一度だけ振り返ったが、その時にはすでに小柄な中年男の姿は見えなくなっていた。
ねぐらへ帰る鳥が長く尾を引く声で鳴きながら、南の森へ向かって飛んでいった。
その夜、二人は森の木の上で一泊した。
ウォルターは湿った森の地面についた自分たちの足跡を消したり、あらぬ方向へ向けて足跡をつけてみたり、さまざまな工作をしてから木に登った。その時、すでにハワードは太い枝にまたがって幹に寄りかかった姿勢で、石になっていた。
ウォルターはハワードの隣の木の枝に腰を据えると、周囲に気を配った。
夜行性の猛禽が羽ばたく音が森に響き、どこかで狼が遠吠えをし、鼠が微かな音をたてながら低木の葉を揺らす。
そのたびに、ウォルターは身をこわばらせた。何度か彼はまどろみかけたが、音が聞こえるたびに目を覚まし、周囲の様子をうかがうのだった。
静かな、長い夜が過ぎる。
その夜、結局追っ手は姿を見せなかったが、ウォルターは一睡もできなかった。
峠を越えてなだらかな下り坂を進み始めるまで、ウォルターとハワードの旅は平穏に続いた。しかしその日の夕方、間もなく森を抜けて人の往来の多い通りに出ようというところで、二人はとうとう追い付かれたのである。追っ手は、魔女の城の地下でハワードに殴り倒された巨漢が率いる、総勢五人だった。
ウォルターはとっさにハワードの顔色をうかがったが、ハワードは涼しい顔でぼそりとこう言っただけだった。
「五人か。少ないな…甘く見られたものだ」
ウォルターは何も言わず、木の陰へと後ずさった。逆にハワードは剣を抜きながら、追っ手に向かって歩きはじめる。
「痩せた男は相手にするな。奴だけを狙え! 囲むのだ!」
巨漢の声が木々の間に響く。指示に従ってハワードの背後に回り込もうと、二人の兵士が左右に別れて走った。
それまで悠然と歩いていたハワードが、身をひるがえした。彼は驚くような素早さで右の兵士へ突進したのである。向かって来るハワードの姿を見て、回り込もうとしていた兵士の表情がひきつった。
ガツッ。
鈍い音がして、振り下ろされたハワードの剣が兵士をとらえた。鮮血が飛び散り、兵士は剣を取り落としながら地面に崩れ落ちていく。しかしハワードはその様子を見もせず、回り込もうとしていたもう一人の兵士に向かって駆けだした。
ハワードの第二の目標に選ばれた兵士は、一度だけ剣を打ち合わせると木の陰に逃げ込んだ。ハワードは深追いをせず、接近してくる残りの三人に目を向けた。
「俺が相手をしている間に、奴を倒せ!」
巨漢が怒鳴り、棍棒を構える。兵士二人が左右に開き、ハワードは四方を包囲されてしまう形になった。
しかし包囲の輪が狭められる前に、ハワードは左に走った。ハワードの突進を受けた兵士は一歩も退かず、ハワードに向かって勇敢に剣を振るう。
兵士の剣をかいくぐって繰り出されたハワードの鋭い突きが、兵士の脇腹を貫いた。しかし、兵士は脇腹をえぐられながらもハワードに致命的な一撃を与えようと剣を振りかぶっていた。ハワードの背後からは棍棒を振り上げた巨漢が迫っている。
ハワードは剣を手放し、横っ飛びに体を投げ出した。地面に転がったハワードと紙一重の場所を、兵士の剣が切り裂く。わずかに遅れて打ち下ろされた巨漢の棍棒は、その兵士の頭に命中した。
兵士は声もなく倒れ、そのまま動かなくなった。
「畜生!」
巨漢は舌打ちし、地面に転がったハワードめがけて再び棍棒を振り下ろした。ハワードはもう一度地面を転がってそれを避け、木の陰に身を隠した。
「食らえ!」
振り回された巨漢の棍棒がその木に当たり、木は大きな音をたててふたつに折れた。ハワードは逃げ、次の遮蔽物を求めて走る。そのあとを巨漢が追ってくるが、その図体に似合わず巨漢の動きは機敏だった。
あちこちと逃げ回った挙げ句、ハワードは最初に倒した兵士の死体から剣を奪い、ようやく逃げ回るのをやめた。巨漢と兵士が並んで追って来ており、もう一人は少し離れたところにいる。ハワードは何のためらいもなく、離れたところに兵士に向かって突進した。
ハワードが近づいて来るのを見た兵士は、木の陰に隠れようとする。それを見て、ハワードは走りながら剣を投げた。
剣は一直線に飛び、兵士の腕を貫通して木に突き刺さった。憐れな兵士の悲鳴が森に響く。泣き叫ぶ兵士に飛び付いたハワードは、兵士の手から剣をもぎとり、その体に深々と突き立てた。
ハワードは動かなくなった兵士から剣を引き抜くと、追って来る巨漢と兵士に向き直った。二人の追っ手を見つめるハワードの細い目からは、何の表情も読み取れない。
巨漢と兵士は立ち止まり、少し離れた位置でハワードの視線を受け止めた。
ハワードは肩で大きく息をしながら、抑揚の乏しい声で静かに言った。
「残りは二人だ。どうする?」
太陽が地面に近づき、森は次第に暗さを増してきていた。しかし、まだ森の中では戦いが続いていた。
巨漢と兵士は、並んでハワードと相対している。ハワードは何度となく二人の側面に回り込もうとしたが、その動きは相手に予測されており、すべて失敗に終わっていた。彼は二人を相手に奮闘していたが、彼の不利は明らかだった。ハワードは兵士の剣を受け流し、巨漢の棍棒を避けるために飛びのき、追い撃ちをかけるような兵士の剣を再び受け流す。まさに、後退するばかりである。
とその時、ハワードの腕から黄白色の光が飛んだ。
日没である。
ハワードは顔をしかめた。その顔から別の光の粒が飛び立ち、体からもひとつふたつと蛍のように光の粒が飛び立っていく。
一瞬、兵士はその光の粒に気を取られた。その隙を見逃さなかったハワードが、兵士を切り伏せる。ハワードが巨漢の棍棒をかわして飛びのいた時には、兵士は地面に倒れて動かなくなっていた。
「……あと一人…」
ハワードはうめくように言った。そうする間にも、光の粒は次々と彼の体から飛び出し、空へと昇っていく。巨漢は、その光景に目を奪われないように、慎重に身構えていた。
一方ウォルターは、戦いが始まってから一貫して木陰に隠れ、ただ傍観していただけだった。しかしここに来て、ようやく彼はナイフを手に立ち上がった。が、膝がガクガクと震え、足が前に進まない。彼はすぐ地面にへたりこんでしまった。
ウォルターは地面にへたりこんだまま、がっくりと頭を垂れてうなだれた。と、うなだれた彼の目に背の低い草の姿が映った。茎には刺を持ち、大きく葉を広げている。どことなく見覚えがあった。
猛毒で牛でも一発で死ぬ、とハワードが言っていた草に似ている。
ウォルターは自分の手にあるナイフを見、そしてもう一度草を見た。
ウォルターは木に寄りかかるようにして立ち上がった。彼の足下には切り刻まれた草の残骸があり、彼の手には草の汁で濡れたナイフがある。
すでにハワードは剣を構えたままの姿勢で動かず、飛び立つ光の粒もその数を極端に減らしていた。ハワードと向かい合った巨漢は状況を飲み込めない様子で、棍棒を構えたまま立ち尽くしている。
ウォルターは狙いを定め、ナイフを投げた。
「痛っ!」
森の空気を切り裂いて飛んだナイフは、見事に巨漢の腕に命中した。巨漢はいまいましげにナイフを引き抜いて投げ捨てると、凶悪な形相でウォルターを睨みつけた。ウォルターは息を飲んで後ずさる。
そこで、巨漢はハッとしてハワードを見た。ハワードは動かない。もはや光の粒も飛び立たない。完全な石になっているのだ。
巨漢は、ニヤリと笑った。
そしておもむろに棍棒を振り上げ、石像と化したハワードめがけて打ち下ろす。
「やめろ!」
ウォルターの声と硬い物同士がぶつかる鈍い音が重なり、暗い森に響いた。
硬い石と化したはずのハワードの体は奇妙な形に折れ曲がり、地面へと崩れ落ちた。そこへ目掛けて、巨漢が渾身の力を込めてもう一度棍棒を振り下ろす。再び鈍い音が響き、巨漢の持っていた棍棒が折れて弾け飛んだ。
「やめてくれ!」
ウォルターは悲痛な声を張り上げた。巨漢はウォルターを睨み、手に残った棍棒の柄の部分を放り投げると、うめくように言った。
「次はお前だ…」
巨漢はウォルターに近づいて来る。毒の効果がなかったのか、そもそもさきほどの草には毒などなかったのか、ウォルターのナイフの一撃が効いている様子はまったくない。
ウォルターは駆けだした。そのあとを巨漢が追ってくる。ウォルターは、全力で逃げた。しかし巨漢は意外にも足が速く、彼はすぐに追い付かれてしまった。
彼は背中を掴まれて地面に引き倒され、逃れようともがく間もなく顔をしたたかに殴られた。ウォルターの顔面に、彼自身の鼻血が飛び散る。巨漢は朦朧としているウォルターの首をわし掴みにすると、そのまま宙に持ち上げた。
ウォルターは巨漢の腕力に激しく抵抗を試みたが、巨漢の太い腕を振りほどくことはできなかった。体重によって巨漢の手が首に食い込んでいき、全身からゆっくりと力が抜けていく。
と、突然ウォルターは地面に放りだされた。
ウォルターは空気を求めて激しく咳き込み、喘ぎながら喉をかきむしった。その彼の脇では、巨漢が地面に膝をついた体勢でしきりに頭を振っている。巨漢は一度立ち上がりかけたが、今度は顔から地面に倒れ込んだ。巨漢は再度起き上がろうとして顔を上げたが、その口からは大量の白い泡が吹き出していた。
巨漢はうめきながらがっくりと顔を地面に落とし、何度か手足を痙攣させると、そのまま動かなくなった。
ウォルターは咳き込みながら涙をこぼしており、その涙が鼻血と混ざって彼の顔をぐしゃぐしゃにしている。しかし、ウォルターは自分の顔には構わず、這うように木々の間を進み、長い時間をかけてハワードのところまでたどり着いた。
しかし、そこでウォルターが見たものは、完全に破壊されたハワードの姿だった。
首と腕が折れ、胴体も腰のあたりで砕けている。無数の細かい破片が周囲の地面に散乱しており、もはや人間としての原形はとどめていなかった。
ウォルターは、うなだれた。
そのウォルターの顔から鼻血と涙がしたたり落ち、その滴がかつてはハワードという名の人間だった石塊を音もなく濡らした。
六 落胆という名の島
沈みゆく太陽が空を朱色に染める頃、石像の島に一艘の小舟が漕ぎ寄せた。小舟の漕ぎ手は大きなワシ鼻を持つ小柄な男で、男の体の倍はありそうな大きな荷物が積まれていた。
男は舟を島の北端につなぐと、布に包まれた大きな荷物を重そうに担ぎ上げ、ひきずるような足取りで島へ足を踏み入れた。
島は、岩ばかりの無人島である。島の唯一の住人である女性も、今は島の北端で石像になっていた。落日が放つ朱色の光によって石像たちは命を与えられたようにも見えるが、それも結局は一瞬のことにすぎない。無数に散らばる動物の石像も、所詮は作りもの以上にはなりえないのだ。
すべては、太陽が水平線の向こうに姿を消すまでの一瞬の幻想である。
男は美しい女の石像の脇に荷物を下ろし、自らも腰を下ろした。
風が吹いていた。
波が砕け散る。
そして、日は沈んでいく。
「ウォルター、ありがとう」
クラウディアは表情を変えず、静かに言った。彼女は、ところどころ欠けたハワードの頭を胸に抱き、その細い腕で優しくなでている。
島は、闇の中を漂っていた。微かな星明かりが、島の輪郭と波の大きなうねりを照らしている。そんな闇の中、クラウディアとウォルターが並んで地面に腰を下ろしていた。
「礼を言われるような事は、何もしてない」
そう言うウォルターの表情は、暗い星明かりの中では見ることができない。風が強さを増してきており、大きな波が轟音とともに島を打ちつけた。
「…でもね、ウォルター。愛する人の生死も判らないまま、ただ待ち続けるというのは、とても辛いことなのよ。知らせてくれて、本当に感謝しているわ」
ウォルターは、何も言わない。
大きな波が二人の近くの岩に当たって砕け、しぶきが二人にかかった。
「私は、ずっと夢を見ていたの。変わるかも知れない未来を。未来を変えるために私ができる事は限られているのは知っていたし、夢見ていた未来が訪れても満足なんてできないことも知っていた。でも……」
クラウディアは小さなくしゃみをして、鼻をすすった。
「ずいぶん冷えてきたな」
ウォルターが言った。
「私は、ずっとここで待っていたわ。寒い夜も、暑い夜も」
「…クラウディア」
「この島で、ただ動物たちの石像を作りながら待っているのは、とても悔しかった」
「クラウディア」
ウォルターはクラウディアの肩に手を置いた。その細い肩は、わずかに震えている。
「私も何かしたかった。呪いを解くための何かを、私自身の手でしたかったの。でも…」
「クラウディア!」
ウォルターは大声を出し、クラウディアの体を揺する。クラウディア口を閉じ、ウォルターの目を見つめた。
「……終わったんだ、クラウディア。今ここで何を言っても、どうにもならない…」
クラウディアは、自分の手の中にあるハワードの頭へ視線を落とす。
「…なあ、クラウディア。俺と一緒に行かないか? 俺でも、何か力になれることがあるかも知れない…と、思う……」
「私の力になってくれるの?」
クラウディアはハワードの頭をなでる手を止め、ウォルターを見た。
「ああ」
ウォルターが、わずかにうなずいて見せた。
「それなら、私のお願いを聞いて欲しいの」
「何だ?」
「夜が明けて私が石になったら、私を叩き壊して」
「……」
再び大きな波が砕け、二人は頭から潮をかぶった。
「お願い」
クラウディアが、か細い声で言う。しかし、ウォルターは頬を掻きながら空を見上げただけだった。
「…畜生、荒れてきやがったな。ひどくなる前に、俺は引き上げさせてもらうよ」
沖のほうから暗い雲が近づいてきているのが、ぼんやりと見てとれた。雲によって星が徐々に姿を消していく。
「…ウォルター。私のベッドの下には、生活のためのお金が隠してあるの。そのお金を全部あなたにあげるから、どうか私の願いを叶えて……」
クラウディアの声は震えていた。
「悪いが、今の俺は金では動かない」
ウォルターは小さくつぶやく。
「ウォルター、お願い」
クラウディアの声は、懇願というよりむしろ悲痛な叫びに近い。ウォルターは彼女に言葉を返したが、その小さな声は風の音と波の音とに飲み込まれ、闇の中へと消えていった。
七 絶望という名の町
雨が降っていた。街のはずれにある防風林も、強い横なぐりの風に乗って叩きつけるその雨を防ぐことはできなかった。
その雨の中、一人の男が歩いていた。
海辺の町から西へ向かう道に出た時には、すでに男の全身はずぶぬれになっていた。痩せた小柄な体は風にあおられて何度もよろめき、ワシ鼻を伝い落ちる水滴は風に飛ばされて空へと消えていく。
道には男の他には誰の姿もなく、男を風雨から守ってくれるものもない。叩きつける雨のせいで視界が悪く、足を踏み出す先は泥水の中だった。
しかし、男は歩き続けた。
男の痩せた後ろ姿は徐々に遠ざかり、そして、嵐に包まれた風景の中へ溶け込むように、消えていった。
(完)
| 紡ぐ | 叫ぶ | 呟く | 繋ぐ | 跳ぶ | 企む | 語る | 表紙 |
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