「サンド・ダイバー」
滝澤真実
顔をあげると、そこにリナの顔があった。リナの唇が僕の唇に触れた。リナの吐息は花のような匂いがした。
一瞬、リナの体のやわらかさとあたたかさが、僕を包み込む。
僕は歯を食いしばって、リナの体を押しのけた。
「嫌いなの?」
「なにが?」
「あたしのこと」
「べつに」
部屋のうすぼんやりとした明かりの下で、形のいいリナの唇がゆがんだ。
「ばっかみたい」
「明日は出動だから、用がないならもう行くよ」
「ばっかみたい」
リナはもう一度言った。その言葉が、僕への苛立ちから出たのか、衝動的にキスをしてしまった彼女自身の苛立ちから出たのか、僕には区別がつかなかった。
たぶん、僕が悪いのだろう。
「じゃ」
僕はリナの部屋を出て自室に戻った。部屋に戻ると僕はベッドに転がり込んで、目を閉じた。
唇に、まだリナのぬくもりと匂いが残っているような気がして、なかなか寝付けない。仕方がないので、明日の出動のことを考えた。
潜る。
ただ、潜る。
潜って敵を殺す。運が悪ければ、自分が死ぬ。
まあ、それも悪くない、と思う。
同僚の誰かが、死ぬのは順番だと言っていた。生きて返るのは、まだ順番がきていないだけ。順番がきたら、めでたくこの世とおさらば。
出動して敵を沈め、帰ってきて休むだけの日々が続く人生だ。この世には、執着したいものなどなにもない。正直、いつ終わってくれても構わない。
ふと、リナの顔が脳裏に浮かんだ。
リナは、なぜ僕にキスをしたのだろう? 明日死ぬかもしれない僕に。そもそも、いつ死ぬかわからない誰かと親密になるなんて、ナンセンスだ。交わした言葉、共有した時間、そのすべてが無駄になる。
人は、不意にいなくなってしまうものだ。
だから、誰かを理解しようとする試みは無意味なのだ。
僕は出動に思いを馳せる。
暗黒への、ダイブ。
寝るために目を閉じるのは、ダイブするのに似ていた。
翌朝、軍服に着替えてホールに行くと、しばらくしてボスが入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日のダイブは、単独の偵察任務だ。偵察ポイントは、ナビに登録済み。敵発見時の交戦は自己判断。出発は一時間後。質問は?」
「また僕ひとり、偵察任務ですか?」
「アルスバーグが不審な動きをしている。できるだけ多方面を偵察しておきたい。全員が偵察だ」
「そうですか」
ボスは僕に近づいてきて、肩に手を置いた。
「アル。死ぬなよ」
「人はみんな死にます」
「無茶をするな、という意味だ」
「僕はダイバーです」
「無茶をしないダイバーが長生きする」
「無茶をしないダイバーは敵を沈められない」
「今回は敵を沈めるのが目的ではない。偵察が目的だ」
「……了解」
「なぜお前は死にたがる?」
「べつに。それより、なぜみんな生きたがるんでしょう?」
「そんなのは決まってる。生まれてきちまったから、仕方なく生きてる。生きてる以上、ちっとは楽しくないとやってられないから、あれこれ努力する。そういうことだ」
「僕にはわかりません。みんないつか死ぬんだから、それまで何をしたって一緒だと思うから」
「何をしたって一緒なら、楽しいほうがいいだろう?」
僕は無言で首をかしげた。ボスの言いたいことが理解できなかった。
ボスはため息をつくと、ぞんざいに手を振った。
「行け」
「はい」
僕はホールを出る。出発ゲートに行くと、すでに何隻かの船がダイブを開始していた。
僕は自分の愛機に近づき、表面に手を触れた。
円錐が横たわったような形の、灰色の金属の塊。ざらざらとした表面からは、ひんやりとした感触が手に伝わってくる。この金属の塊の中に乗り込んでダイブするのは、僕にとってはとても楽しいことだ。暗くて、狭くて、息苦しいが、満ち足りた気分になれる。
つなぎを着たリナが近づいてきた。
「側噴出口を少し改造したから、旋回性能が上がったはず」
「ありがとう」
「必ず帰ってきて」
ボスといい、リナといい、僕が死にたがっていると思っているらしい。どっちでもいいと思っている、というのが正しい。どうやら、僕はよほど信頼がないらしい。
僕は、思わず苦笑した。
「何がおかしいの?」
「べつに」
「返事は?」
「何の?」
「必ず帰ってきて」
「努力する」
「待ってる」
リナはそう言うと僕の手を短く握って、離れていった。手に、リナのぬくもりが残った。昨夜のことは、あまり怒っていないようだった。
僕は船に乗り込む。ハッチを閉めると、船内は完全な暗闇に包まれた。
深呼吸する。
船内は、油のにおいと砂のにおいが混ざった、独特のにおいに満ちている。僕はそのにおいを胸一杯に吸い込むと、そのまま息を止めて闇に身を任せた。
やっぱり僕は、この船の中の狭い空間が好きだ。
改めてそう思いながら、手探りで操縦桿を握る。ダイブすれば、この操縦桿ひとつで僕は世界とつながれる。それが、何よりもうれしい。
出発ゲートで動き回る機械たちの音が、真っ暗な船内にくぐもったように響いていた。ダイブすれば、こんな騒音すら聞こえなくなる。
潜る。
ただ、潜る。
僕の心は、すでに砂の海に飛び出していた。
そうやってどれだけの時間を夢想していたのか、わからない。しかし、操縦席脇にかけられていたインカムから人の声がしたので、我に返った。
僕は静かに息を吐き出すと、手探りでメインスイッチを入れた。暗闇の中にメーター類が浮かび上がる。
僕はインカムを装着した。
「こちらコントロール。ファイアバード、応答せよ」
「こちらファイアバード。感度良好」
「こちらも感度良好だ、ファイアバード。発信前のチェックに入れ」
「了解」
僕はパネルのスイッチを相次いでオンにする。
青白いホロ映像が浮かび上がり、その中に赤いマーカーが表示された。
「レーダー、オーケー。ナビシステム、動作正常。ミッション目標、緯度三五・三九・三一、経度一三九・四四・四四」
「チェック」
操縦桿を前後左右に動かす。
「油圧、制御系正常」
「チェック」
「酸素残量、五時間。バッテリー、一〇〇パーセント」
「チェック」
「ミサイル弾数、二十」
「チェック。ファイアバード、エンジンの始動を許可する」
「エンジン始動」
僕はパネルのスイッチを押した。低いうなりが船体を振動させる。
「給入弁、排出弁、動作問題なし。エンジン出力、安定。ファイアバード、システム・オールクリア」
「チェック」
僕はゴーグル付きのマスクを着用して、シートベルトを締めた。
「マスクの酸素供給、問題なし。シートベルト着用完了」
「チェック。ファイアバード、射出シーケンスに移行」
無線の声と同時に、船体が揺れた。
クレーンに吊るされて揺れると、ダイブへの期待感が高まる。
「ファイアバード、レディ?」
「レディ。ダイブ!」
ぐんと加速がかかって、僕は砂の中に飛び出した。
エンジンがうなり、砂を吸い込んで後方に吐き出す。それで、船は進んで行く。船は密閉されているはずだったが、砂のにおいがかすかに強くなったように感じた。
レーダーのホロ映像には、後方にある基地が壁のように映っている。
「コントロール、こちらファイアバード。船体に異常なし」
「了解、ファイアバード。幸運を祈る」
僕は操縦桿を倒して、下降の角度と速度を上げた。
深く。どこまでも、深く。
それが、僕の喜びだった。
暗い船内に浮かび上がっているホロ映像に目をこらす。
粒子の細かい砂は、気圧や密度の影響で、まるで液体のように地中を流れている。その流れが微妙なもやとなって、ホロ映像に浮かび上がる。ともすると見落としがちなその砂の流れを、僕は慎重に見極めた。
今は、左上後方から右下前方への流れの中にいた。操縦桿を微調整していないと、船は勝手に右前方に落ち込んでいってしまう。
強い下降流に巻き込まれて制御を失うと、この砂地獄の奥底にまで引き込まれてしまうだろう。底には多くのダイバーたちが沈んでいるという。もっとも、敵味方を問わず、エネルギーや酸素を切らしてしまったダイバーよりも、戦って沈められたダイバーのほうがずっと多いのだが。
危険と隣り合わせで、親しくなったか仲間たちはすぐに死んでしまう。僕自身も、いつ死んでもおかしくない。それでも、船の中にいると落ち着くのだ。
僕の居場所はここなのだ、と思う。
鉱山も暗くて狭いが、船に乗っている時のような自由さはない。操縦桿を通して世界につながっている感じ。どこまででも潜っていけそうな感じ。それが、僕にとってのダイブの魅力だった。
岩石地帯を縫うように抜けると、砂の海は広がった。僕は砂の流れに乗りながら、ときに避けながら、偵察の目的地に向かって進んだ。
目的地に近づいた頃、不意にホロ映像がゆらめいた、
僕は意識を集中した。前方に、何か見える。砂に落ちた異物なら、ゆっくりと沈下していくだけだが、それはこちらに近づいてくる。
僕は即座に通信を共通周波数に切り替えた。
「こちらラーム鉱山所属、ファイアバード。貴艦の所属とコードネームを告げよ」
「こちらはアルスバーグ鉱山所属、レッドストン」
低い男の声で返事があった。返事とは裏腹に、相手は僕の右上に回りこむ動きを始めている。
やる気か。
「レッドストンに警告する。ここはラーム鉱山の排他砂域だ。即刻退去せよ」
僕は告げた。しかし、冷たい返信が返ってくる。
「それは事実誤認だ。この砂域はアルスバーグのものだ。すぐに出て行けば、命までは取らん。とっとと引き返しな、ぼうず」
やはり、やる気だ。
僕はホロ映像に集中すると、敵との間にあるわずかな砂の流れを読んだ。操縦桿を動かして、艦首をわずかに動かし、敵の左上に向かってミサイルを発射した。
砂の流れを考慮しても敵には命中しない弾道だったが、小さな砂の流れをひとつ見落とすと、ミサイルが当たりそうな気がするはずだった。敵が回避行動をとったら、その進行方向に数発のミサイルを撃てば、それで勝負は決まる。
しかし、敵は回避行動をとらず、静かに接近してくる。
手ごわい。
僕は敵の接近コースに二発ミサイルを撃って、敵の右上方向へ船を操った。
敵は、僕にまっすぐ近づいてくる。しかし、僕が放ったミサイルには、絶妙に当たらないコースだ。
このまま近づかれるのは得策ではないので、僕はまたミサイルを撃った。艦首をわずかに振りながら、敵の左、上、下へ、敵の進路をふさいだところで、敵の進行コースへさらに一発。
進行コースに放ったミサイルがホロ映像の中で光っていたが、不意に消えた。
遅れて爆発の鈍い衝撃が来る。
何が起きたのか、僕には理解できなかった。
砂中戦用のミサイルは、船と同じく前から吸い込んだ砂を後ろに吐き出して進む。発射と同時に安全装置が解除されて、一定速度以下にスピードが落ちると爆発するように作られている。
ミサイルは、レーダーに映らない何かに当たって爆発したのかもしれない。
しかし、理由をゆっくり考えている余裕はなかった。
僕と敵は、互いに右から回り込むように移動しながら、徐々に接近している。リナの改造は十分に効果を発揮していたが、それでも敵のほうが旋回性能が良かった。これほど性能のいい敵には出会ったことがないので、新型かもしれなかった。
まずい。
このままでは、後ろにつかれる。
艦首を上に、と見せかけて下に振る。
敵は僕のフェイントに引っかからず、追ってくる。
敵は、とうとう僕のうしろについた。
僕は船を左右に振りながら、逃げる。しかし、速度も敵のほうが上だった。
もう、敵はすぐ後ろだった。
敵のエンジン音が聞こえてきそうな距離だ。
嫌な予感がした。
僕はとっさに舵を切る。
直後に、船に小さく鋭い衝撃が、三度。
僕の船はエンジンが停止して、すぐに電源も落ちた。
すぐ脇を、敵が通過していく音が聞こえた。
僕はメインスイッチを操作したが、電源は回復しない。シートベルトをはずすと、操縦席の下に常備されている携帯型のライトを取り出した。
シートの背を倒して、船の後部にある機関部にライトを向けた。
ライトの光に照らされて、きらりと金属が光る。それは鋭く尖った槍のような金属で、機関部の覆いを貫通して突き出していた。
なんだ、これは。
僕は機関部の覆いをはずした。
槍はエンジンには当たっていない。しかし、バッテリー部分を貫通していた。
四つあるバッテリーのうち、二つは使い物にならないだろう。残りの二つは、見たところは無傷だ。
ダメになったバッテリーの配線をカットして、残りの二つへの配線をチェックする。別の槍が刺さっていて、配線が切断されていた。導線の皮膜をやぶって、つなぎなおす。
これで、どうだ。
僕はメインスイッチを入れた。
しかし、電源は回復しない。
僕は小さく息を吐いた。
このまま、砂の底へと沈んでいくのだろうか。
とうとう、自分の順番が来た。
僕は目を閉じた。船は、重心のある後部を下げている。沈んでいるのだ。砂が船体とこすれるかすかな音以外、聞こえるのは僕自身の息だけだった。沈む船に乗っていれば、後は酸素が切れて死ぬのを待つだけだ。行き先は、深い砂の海の底。
僕は息を吐いた。
すでに、敵のエンジン音は聞こえない。敵も、僕の船が回復できないと考えて、去っていったのだろう。
僕の順番がきたらしい。船が直らない以上、すでに、僕は死んでいるのと一緒だった。
死を前にしたら、すべてが無駄だ。必死になってバッテリの配線を直したのも無駄。出撃したのも無駄。これまでに多くの敵を沈めてきたのも無駄。これまで生きてきたのもすべて無駄。
あの時生き残ったのも、無駄だった。
あの時、僕は母に抱かれていた。
暗くて、狭くて、息苦しい船の中で、母の感触だけが唯一たしかなものだった。
僕の頬に触れる母の手は、冷たかった。
呼びかけても、母は答えなかった。
船はひどく揺れて、僕は何度もコンソールに頭をぶつけた。
母は、船が揺れるたびにその体で僕を受け止めてくれていた。
船は上昇流に偶然巻き込まれて、地上に出た。
ハッチがこじ開けられて、ボスの顔が見えた。
外はとても明るくて、ボスの顔がこわくて、僕は母にしがみついた。
光が当たった母の顔は血まみれだった。
母の顔はあちこちが陥没していて、人の顔としての原型をとどめていなかった。
僕は悲鳴を上げて、母から離れた。
死んでもなお僕を守ってくれていた母に、僕は怯えた。母にすまないと思う一方で、人ではなくなってしまった母をどうしても受け入れられなかった。
奇跡の子、というのが生き残った僕の呼び名だった。でも、僕は母の命を踏み台にして生き残った自分を許せなかった。
奇跡なんてうそっぱちで、どこにもない。
あるのは、居心地の悪い現実と、死と隣り合わせのダイブ。
それだけ。
死ねばすべて意味がなくなる。こうして僕が船と一緒に沈もうとしている今、僕を守ってくれた母の死も、無意味だったということになる。
母の姿が思い出されて、心の奥底がちくりと痛んだ。
本当に、母のしたことは無駄だったのだろうか。どうせ死ぬんだから、何をやっても無駄なのだろうか。何をやっても一緒なのは、間違いない。しかし、それは何もしないことの理由にはならない。
何かをしても、無駄。
何もしなくても、無駄。
死ぬのは構わないが、ダイブできなくなるのは、少しだけ悲しい。
何をやっても一緒なら、少しでもダイブが長くできるようにしたって構わないはずだ。
死んでもいい。でも、死にたくないという気持ちもある。僕はただ、帰るための努力をする理由が欲しいだけなのかもしれない。
いいだろう。
どうせ、黙っていれば数時間で酸素が切れて死ぬだけだ。どのみち無駄な時間なら、何をやったって一緒。何もしないで死ぬのを待つのも退屈なので、もう少し必死になってやろう。
僕は機関部に格納されていた工具箱を取り出して、操作パネルをはずした。
操作パネルにあったメインスイッチの配線をたどる。配線が集まっているコントロールボックスに別の槍が刺さっていた。コントロールボックスを開けると、槍は基盤の端のほうを破壊していた。
壊れた基盤の一部から配線をはずし、短絡させる。
一瞬火花が散って、電源が生き返った。
計器類も生き返ったが、レーダーのホロ映像は出ない。さすがに、僕にはホロ映像の投影システムを直すころはできそうになかった。
短く息を吐いて、状況を確認する。
レーダー動作せず。ナビシステム動作せず。油圧、制御系正常。酸素残量三時間。バッテリー三十パーセント。ミサイル弾数十三。
残り少ないバッテリーで、帰れるだろうか。
深度計と方位計は動いているが、ホロ映像がない中で岩石地帯を避けながら帰るのは不可能だった。どこかで浮上して、岩場に船を繋留して救援を待つしかない。
もしもこの状況で帰り着いたら、また奇跡だとか言われるかもしれない。
苦笑しながら、操縦桿を握って船体をたてなおす。
船体に刺さっている槍のせいで、舵が右にとられる。方位計を見ながら、慎重に基地がある方向へと船を進めた。
しかし、槍のせいで抵抗が大きく、バッテリーの消耗が激しい。
これでは、もたない。
バッテリーが切れれば、自重で沈むだけだ。
なるべく早く浮上して、最寄りの岩場にたどりつかなければならない。しかし、この調子では、岩場にたどりつけるかどうかも微妙だった。
僕はできるだけバッテリーを節約するために、上昇流をつかまえることにした。レーダーが死んでいる以上、操縦桿から伝わる感触だけが頼りだった。
僕は操縦桿に集中する。
槍で右に舵をとられる動きに隠れて、かすかに沈むような感覚。
左へ。
下降流を回避して、方位計を見ながら進路を戻す。
今度は左に引き寄せられるような流れ。
その流れに乗せるように左。
かすかに上昇しながら流れは続く。
そして、不意に下降。
流れを離れて右上に舵をきる。
しばらくして、今度こそ上昇流。
流れに乗る。
船首が上を向き、僕は操縦席であお向けになった。
砂のにおいが強くなっていた。細かい砂の粒子が操縦室内を舞っている。槍があけた穴から、船内に砂が入ってきているのだろう。砂の抵抗で槍が動き、穴が広がって砂が入り込んできているのだろう。
やはり、一刻も早く地表に出るべきだ。
その思いとは裏腹に、船を乗せていた上昇流は水平に変わり、やがて下降に転じた。
僕は流れから離れ、自力で上昇しながら砂の流れを探した。しかし、今度はなかなか流れに当たらなかった。
僕は操縦桿を左手だけで握り、右手首を振った。
手のひらには、汗をかいていた。
進行方向を維持するだけでも、槍の抵抗で船が右に曲がりたがるせいで、操縦桿を握る手にはどうしても力が入ってしまう。
服で手の汗を拭くと、手に砂がついてでざらざらした。砂が入る量が増えてきたのか、船内の空気が赤く濁って見えた。
息を吐きながら、パネルを見る。
酸素残量二時間半。バッテリーは、十パーセント。
現在地は、推測だが、基地の南西二十キロあたりのはずだ。このあたりから、周囲に岩場が増えるはずだった。
現在の深度は五十メートル。
上昇流を待たずに、浮上を決めた。
操縦桿を引く。
砂を切り裂く船は、あいかわらず右に曲がりたがる。槍の刺さっているあたりから、振動が伝わってくる。
もうひとふんばり。
暴れる操縦桿を両手でおさえこみ、進路を維持する。
深度五……二、一、ゼロ。
不意に操縦桿が軽くなり、一瞬の浮遊感の後で、船体が水平になった。
耳を澄ます。船の外では、少なくとも砂が叩きつけるような強い風は吹いていないようだった。足で操縦桿を操作しながら、ゆっくりとハッチを開ける。
まぶしい太陽の光が、差し込んできた。
ボスがハッチを開けてくれたときの、あの光を思い出した。もしかしたら、僕はダイブ後のこの光を求めて、砂の海に潜っているのかもしれない。そんな気にさせる、解放感のある光だった。
空は抜けるように赤く、どこまでも晴れ渡っている。
進行方向に岩山。
予想より、やや北にいるようだ。勘で航行したにしては、なかなかの結果だった。基地はたぶん、正面の岩山の向こうだった。
僕は体をのばして船体を見た。敵の放った三本の槍が、右舷後方から突き刺さっている。
ひどいありさまだ。
直すのが大変だと言って、リナが怒りそうだ。
リナの怒った顔を思い出して、なんだか僕はうれしくなった。きっと、僕はリナのことが嫌いじゃないんだろうな、と思った。
風はなく、砂も舞っていないので、僕はマスクをはずした。
焼けた砂のにおいが、心地よかった。
太陽が、地平線の向こうに沈んでいく。
空に星が輝きはじめた。
岩に腰かけた僕は、ただ世界の色が変化していく様子を見ていた。砂の中は自由だと思っていたが、地表はもっと自由だった。地下の鉱山設備の中で暮らして、砂の中へダイブするだけではわからない、大きな世界の広がりがあった。
空はどこまでも高く、星の輝きは神秘的だった。この星たちの中に、人類発祥の地である太陽系があるのだと思うと、胸が高鳴る。
いつか宇宙に行ってみたいな。
なにバカなことを考えてるんだ。
僕は苦笑した。
エネルギーの切れた船は、岩山に打ち込まれた繋留索にひっぱられて、かろうじて船首の一部を地表に出している。船は独立した電力で救難信号を発信しつづけているので、数時間後には救援がくるはずだ。
そうしたら、僕は基地に帰って、ボスに叱られて、リナに叱られるだろう。僕は槍を発射する敵の新型船について報告して、いずれまた敵を求めて出撃するのだろう。今日の敵、レッドストンとまた会うことがあるかもしれない。
僕は無線から聞こえてきたレッドストンの声を思い返した。低く、よく響く声だった。年齢はどのくらいだろう? すくなくとも、十七歳の僕よりは年上に違いない。
次は絶対に負けるものか。
勝って、凱旋してやる。
まだ、帰還すらしていないのに、僕は次の出撃の帰還に思いをはせている自分に気付いて、つい微笑んだ。
まだ僕は、助かったわけではないのだ。
何かトラブルがあって、救助が来ないかもしれない。天候が急変して、砂嵐に襲われるかもしれない。ひどい砂嵐なら、叩きつけてくる砂で皮がはがれてしまうだろう。
未来がどうなるかは、わからない。
それでも、僕はここから、今いるこの場所からスタートしなければいけない。次にどんなことをしよう、と考えつづけ、一歩一歩進んでいくしかないのだ。
帰ったら、まずリナに謝ろう。母の墓参りに行こう。命を張って僕を助けてくれた母にお礼を言おう……。
やりたいこと、やるべきことが次々に頭に浮かんでくる。
きっと、人生はたくさんの「こうしたい」と「こうしなくちゃと」と「こうなった」で構成されている。「こうなった」は変えようがないけど、他のものはすべてこれから決められる。
過去は閉じていて、未来は開いているのだ。
不意に腹が鳴った。
僕の腹が、未来に向けて主張しているようだった。
僕は心に決めた。リナには悪いが、謝るのは後回しだ。帰ったら、まず飯を食おう。
銀色の星の輝きを見上げながら、僕は声に出して言ってみる。
「何、食べよっかな」
僕の声は星空に向かって、どこまでも広がっていくようだった。
(完)
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