『胡蝶の夢』
                         滝澤真実

     序
 アキナスは、暗い洞窟の中をゆっくりと歩いていた。
 唯一の明かりは彼が右手に持った杖で、その先端が青白い光を放っている。しかし、杖はたいまつのように燃えているわけではなく、ただ不思議な青白い光を発しているだけだった。蛍の光にも似たその燐光が、洞窟内部のゴツゴツとした岩肌を照らし出している。その大きな自然の回廊は静寂に包まれており、彼の足音だけが響いていた。
 ふと、アキナスは歩みを止めた。
 長く続いていた自然の洞窟は五メートルほど先で終わりを告げ、そこからは人工的な石敷きの通路へと変わっていたのである。それまでの不規則な岩肌とは対照的に、床、壁、天井と、すべてがなめらかに磨かれた石で作られている。アキナスは杖の明かりをかざしながら、石敷きの通路へ向かって進んだ。
 彼が杖を持つ手に力を入れると、杖に灯った明かりの光量が上がる。その光で、石敷きの短い通路と、その向こうに広がる巨大な空間が照らし出された。それは直径五十メートルほどもありそうな円形の部屋で、ドーム型の天井には大きな浮き彫りがほどこされている。その浮き彫りは渦巻くような厚い雲と、その中で竜と戦っている男の姿を描き出していた。その男の背中には羽がついており、隆起した筋肉は今にも動き出しそうな迫力に満ちている。
 そして、部屋の中央には小さな祭壇のようなものがあり、その上には石の箱が置いてあるのが見えた。
「見つけたぞ……」アキナスは低くつぶやき、石敷きの通路に一歩足を踏み入れた。
 と、彼の踏んだ石がわずかに沈み込む。
 爆音が轟き、彼の視界は激しく吹き上げる炎に包まれた。
 身をかばうように眼前に突き出された杖が、炎のむこうで一瞬きらめく。その杖はアキナスの手から離れ、炎の中を遠ざかっていった。杖に続くようにして、爆音も、炎も、その向こうで見え隠れしている祭壇も、すべてがアキナスから遠ざかっていく。
 いや、それらがアキナスから遠ざかっているのではなく、アキナス自身がそれらから遠ざかっているのだ。
 アキナスは、果てのない暗闇の中へ落ち込んでいく。彼の体を包み込んでいた炎もぐんぐんと小さくなっていき、すぐにそれは微細な光点となり、しまいには彼の視野から消えてしまった。
 消えた炎の後を追うようにして、次から次へとアキナスの背後から無数のぼやけた映像が現れる。それは風景であり、人であり、物であった。そのぼやけた映像が多彩な色をした光点へと姿を変えながら、彼から遠ざかり続ける。
 そこで、音楽が鳴った。
 ホルストが作曲した組曲『惑星』の中の『火星』をアレンジしたものである。その猛々しい音楽が、現れては消えていく映像に合わせて、大音量で鳴りはじめたのだ。
 やがて映像が現れなくなり、すべてが暗黒に包まれた。しかし、音楽だけは鳴り続いている。そして音楽がクライマックスを向かえたところで、暗闇の中に銀色の文字が、まるで幻のように浮かび上がった。その文字はゴシック体で立体的な厚みがあり、音楽に合わせて一度だけギラリと輝く。
  THE LAST SORCERER ―最後の魔術師―
   COPYRIGHT 2007 GSA CO.,LTD.
 このタイトルもまた、それまでの映像と同様にぼやけ、遠ざかり、光点となって消えていく。そして、文字が完全に消えて再び暗黒が訪れた時、音楽は終わった。しかし、その残響が消えるか消えないかのうちに、次の音楽が始まる。次の曲もホルストの『惑星』から、今度は『金星』をアレンジしたものだった。前の曲とは一変して、静かで穏やかな曲である。
「だいじょうぶ?」
 『金星』をBGMにして、子供の声がした。暗闇が消え、眼前には雲がたなびく青空を背景にした、五〜六歳くらいの女の子の顔が出現する。
 アキナスは体を起こす。そこは草原で、少し離れたところには石づくりの民家が見える。民家の周囲には柵がめぐらされており、その柵の中には数頭の牛の姿が見えた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 服が焦げ焦げだよ」
 アキナスは自分の衣服を見た。少女の言葉通り、服はあちこちに焦げ跡がついている。
「お兄ちゃん、口がきけないの?」少女の表情が曇る。
「……いや、話せるよ。大丈夫」
「良かった」少女の顔がぱっと明るくなった。「私はジルよ」
「僕はアキナス」
「こんなところでお昼寝? 何してたの?」少女はアキナスの顔をのぞき込んでくる。しかし、しばらくしてもアキナスが答えないので、少女は不満そうに言った。「何よ、変な顔して。何してたのか、教えてくれたっていいじゃない」
「…思い出せないんだよ」アキナスは言った。
「え?」少女は狐につままれたような顔をする。
「ここはどこ?」
「セローザ王国のウォック村よ」
「セローザ…どこかで聞いたことがあるような気がするけど……畜生、僕は誰なんだ?」
「自分の名前も忘れたの? さっき言ったじゃない。アキナスって」少女が言った。
「わかるのは名前だけなんだ。僕はこれまで何をしてきたのか、なぜ焦げた服を着てこんなところに寝転がっていたのか、何も思いだせない…」アキナスの深刻そうな口調に、少女は戸惑いの表情を浮かべた。
 と、突然。バチッという音とともに少女の顔と牧歌的な風景が消え、眼前には暗くて広い部屋の様子が浮かんだ。しかしそれは一瞬のことで、すぐにその光景は消え、あどけない少女の顔と牧歌的な風景が戻ってくる。
「…暗くて、広くて、丸い部屋だ。その真ん中に何かがある……とても大切な何かが…」
 再びバチッという音。今度は炎の映像。
 アキナスは手で顔を覆った。
 もう一度バチッという音。剣を手にした、翼の生えた男の姿。
「……行かなきゃ…探すんだ……」アキナスは立ち上がった。
「どこへ行くの? 何を探すの?」少女はアキナスに尋ねる。
 しかしアキナスは少女を無視して、よろよろと歩きだした。
「お兄ちゃん!」
 少女の声が背後から聞こえたが、アキナスはその声には応えず、ただ歩き続けた…。
 こうして、アキナスの冒険は始まった。視野の右下隅に入力待ちのカーソルが表示され、制御がゲームのプレイヤーに任されたことが知らされる。
 高沢敏彦は知らず知らずのうちに詰めていた息を大きく吐き出しながら、ヘッドセットをはずした。アキナスの視界が離れていき、『金星』が遠ざかり、そのかわりに見慣れたオフィスの情景と現実の音声とが、高沢の目や耳へいっせいに流れ込んできた。
 高沢は思わず顔をしかめた。頭の奥のほうで、脈拍に合わせて軽い痛みが感じられる。その痛みの脈動を意識して初めて、彼は自分の心拍がひどく速まっているのに気付いた。
「どうです?」そう言って高沢の顔をのぞき込んだのは、岩永めぐみである。岩永は映像の担当で、今回の作品のために数多くの絵を描き、それをデジタル化したのだった。高沢の顔をのぞき込む瞳が、丸い大きな眼鏡の向こうで期待に満ちて輝いている。
 高沢は答えようとしたが、強まっていく頭痛に顔をしかめたまま、こめをかみ押さえた。
「クックックッ……」と低い声で笑ったのは、船岡健一だった。見てくれは貧相な体つきの男だが、実際は非常に優秀な作曲・編曲の才能を持っている。今回の作品のために『火星』や『金星』をアレンジしたのは、他ならぬ彼だった。「高沢さんには刺激が強すぎたようだな。どれ、俺に貸してみな」
 船岡は、高沢が頭からはずしてデスクに置いたヘッドセットを持ち上げた。ヘッドセットとは機械の開発元であるゲイズ・エンターテイメント社がつけた呼称で、何も知らない者の目から見ると、風変わりなヘッドホンのようにしか見えない。このヘッドセットは、ヘッドホンとサングラスが一体化したような形状をしていた。サングラス部分には表示装置が内蔵されていて、内側に映像が表示される仕組みになっている。ヘッドホンの耳当て部分はやや大きめで、いくつかのケーブルを接続するためのポートが口を開けている。そのうちのひとつにつながれた黒いケーブルの先には、手の形に合わせていくつかのボタンが配置されたコントローラが接続されていた。このヘッドセットとコントローラのセットが、最新の家庭用ゲーム機『ヴァーチャル・ステーション』なのだ。ヘッドセットのサングラス部分には超高密度ROMカードが挿入されており、このカードを交換することによって、多種多様なゲームを楽しむことができる設計になっている。
 この『ヴァーチャル・ステーション』の売りは、三次元加工された高品位の音声と映像によって仮想現実空間を楽しむことができるというものだった。ヘッドセットに内臓された表示装置は、装着した人間の左右に目に別々の映像を見せることによって、立体的な映像表現を可能にしていた。
「で、どうなんだ?」大きく腹のせり出した中年男、砂田治が高沢の肩に手を置きながら言った。
 彼は今回の開発チームのチーフで、業界の中では小規模なゲーム開発会社に分類されるグローバル・ソフトウェア・アソシエイツ株式会社――略してGSA社――を支える天才プログラマーである。今回の作品のオリジナルプログラムを、中心になって仕上げたのは、彼であった。常に機械と向かい合っている仕事の関係で、普段はめったに周囲の出来事には関心を持たないのだが、さすがに今日ばかりは新作の出来が気になったようだ。
「たいしたもんです。予想以上ですよ」高沢はようやく言った。「アキナスが罠にひっかかって魔法で脱出するシーンなんか、迫力がありすぎて腰が抜けそうでした」
「こっちで作った物が、忠実に移植されているか?」砂田はヘッドセットをかぶろうとしている船岡を眺めながら、言った。
「今のところは。見たのはまだオープニングだけですから、これから全部チェックしなければ何とも言えませんけど…」高沢は言った。
「納期までにチェックは間に合いそうか? 遅らせると、また営業の小久保がうるさいぞ」砂田は顔をしかめて見せた。「あの若造に文句を言われると、頭にくるんだ」
 営業の小久保というのは、若いながら抜群の成績を上げて営業課長に抜擢された男のことである。GSA社の売上の半分を稼いでいる、怪物営業マンだった。砂田の言葉を借りれば「商品がいいから売れるのだ」ということになるのだが、実際のところ小久保はよく商品を売ってくれている。ただ、ひんぱんに発売予定日を遅らせてしまう開発スタッフを厳しい口調で非難するため、開発の人間からは嫌われている存在だった。開発の人間も好きで完成を遅らせているのではないのだが、品質を優先させようとするとそれだけ時間もかかるのだ。そのあたりが、開発と営業の間で摩擦を生んでいた。
「大丈夫です。残り四十時間、不眠不休でやればどうにか間に合いますよ」高沢は砂田にうなずいて見せた。「意地でも一二月五日に出して、小久保さんを見返してやりましょう。そのかわり、終わったらたっぷりと休ませてもらいますからね。そう、一ヶ月くらい。その間に、次のゲームの企画を考えておきます」
 砂田は何も答えず、微笑んだ。
「うぉーっ、こいつはすげえや」ヘッドセットを装着した船岡は、コントローラを操作しながら楽しそうに歓声を上げている。
「ねぇ、船岡さん。僕にも見せてくださいよ」そう言って船岡の肩を揺すっているのは、アルバイトの大学生、菱沼である。彼はプログラマーの手伝いからフロアのゴミ集めまで、幅広い雑多な仕事をこなしていた。彼こそが、GSA社の開発部にはなくてはならない、もっとも重要な存在だと言える。彼は力を込めて、船岡の体を大きく揺すっていた。「船岡さんってば」
「誰だ、俺の肩をつかんでいる奴は?」船岡は、必要以上に大きな声を張り上げながら言った。「ヘッドセットのおかげで何も聞こえないぞ!」
 こめかみを揉みながら二人のやりとりを眺めていた高沢に、岩永が声をかける。
「高沢さん、具合悪そうですね」
「船岡の言った通り、刺激が強すぎたみたいだ。ヴァーチャル・リアリティ酔いかな?」高沢は苦笑した。
「だいたい、ゲイズがケチなんですよね。テスト用のマシンを一台しか提供しないんですから。一人でチェックしなきゃならないなんて、最悪じゃないですか?」岩永はかなり腹を立てている様子だ。「大きい会社のやることって、威張ってて嫌いです」
「同感」高沢は立ち上がって大きくのびをした。「でも、チェックについて言えば、それほど問題はないさ。こっちはオリジナルプログラムの段階で充分なチェックをしているんだから。ゲイズでは、そのオリジナルをヴァーチャル・ステーション用に変換しているだけで、本質的なところは何もいじっていないはずだよ」高沢は再びこめかみを揉む。
「建て前ではね」岩永は微笑んだ。「ねえ、何か薬でも飲みます?」
「いや」高沢は首を振った。「ただの頭痛だよ。人間の体には自然治癒力というのがあってね。たいていのものは、ほっときゃ直るもんさ」
「ヴァーチャル・リアリティ酔いは、そんな甘い病気じゃないかも知れませんよ」岩永は社内に常備してある薬箱へ向かって歩きながら、ぴしゃりと言った。「理屈ばかりこねてないで、頭痛薬くらい飲んでください」
「へいへい」高沢は気のない返事をしながら、船岡の頭のヘッドセットを強引に引っ張った。ヘッドセットの下から、船岡の憮然とした顔が姿を現す。
「何だよ」
「明後日の朝までにチェックを終わらせなきゃならないんだ。悪いな」高沢は、船岡の手からコントローラをもぎとった。「最後の重労働だよ」
「音楽のチェックも頼むよ。俺の作った曲なんだから」船岡が未練がましい目つきでヘッドセットを見ながら言う。
「わかってるよ」高沢は机の上に機械を置き、ヘッドセットを軽く撫でながら言った。「任せとけって」
「はい、薬」岩永が頭痛薬の白い錠剤とグラス一杯の水を持ってくる。
「あ、ありがと」高沢は薬を口に放り込み、水で流し込んだ。
 そしてゆっくりと深呼吸をすると、彼はヘッドセットをかぶった。

     一
 高沢は会社から駅に向かう通りを歩きながら、落ち着けそうな店を探していた。時間は夜の十一時をまわっている。彼にとっては標準的な退社時間だが、一般の会社員にとっては違っていた。すでに通りは人影もまばらで、アルコールを提供する店以外はほとんどが店を閉めている。
 今日は夕食を抜いてしまったのだが、すでに空腹を通り越して、体には倦怠感だけが残っている。何かを食べたい、というよりは、どこかに腰をおろして一服したい、という心境だった。
 しかし、この時間では、これといってめぼしい店など開いていない。高沢はあきらめて、路上喫煙を決め込むことにした。彼は自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、歩道と車道を隔てているガードレールの上に腰を下ろし、ポケットから煙草を出して一本くわえた。
 しかし、ライターがない。
 彼は両手で衣類のポケットというポケットを探り、舌打ちした。どうやらどこかに忘れてきたらしい。
 うんざりして頭を垂れ、歩道に視線を落とす。誰かが吐き捨てたらしいガムが、歩道上に黒いシミのようにへばりついていた。あとは、散在する煙草の吸殻。そして、銀色のちいさなかたまり。
 背後の道路を通っていく車のヘッドライトの光を受けて、それは歩道上で鈍く輝いた。それは、銀色のオイルライターであった。歩道の上に落ちているそのライターに、高沢はなんとなく見覚えがあった。彼は体をかがめて、そのライターを拾い上げる。
 銀色のオイルライター。つるりとした表面に、大きなへこみがひとつ。
 …これは……。
 じわり、と記憶が蘇ってきた。父が愛用していたライター。高校生の時に隠れて煙草を吸おうとして無断で借りたライター。それがばれて父に叱られて……。
 しかし、なぜこんなところに?
 ありえなかった。このライターは実家の仏壇に置いてあるはずのもので、東京の高沢の職場近くの路上に落ちているはずのものではない。似たライターなのだろうか? いや、似ているなどどいうレベルではない。そっくりなのだ。
 奇妙だ。
 そう思った瞬間、周囲の景色が歪んだような気がした。慌ててあたりを見回す。そこは、人通りのない歩道。安っぽい電飾のついた飲み屋の看板。通り過ぎていくタクシー。すべてが記憶にある通りの姿なのに、なにかが違うように見えた。
 ライターは父が愛用していたものに似ているだけのもの。街並が変に見えるのは気のせい。きっと目が疲れているのだ、と高沢は自分に言い聞かせた。煙草も缶コーヒーもどうでもいいから、こういう時は早く帰って寝よう。
 しかし、火をつけようとしてくわえていたはずの煙草は、どこにもなかった。買ったはずの缶コーヒーもない。周囲を見回したが、どちらも見当たらなかった。
 おかしい…いったい、どうなっているんだ?
 煙草など吸おうとしていなかったし、缶コーヒーも買わなかったのだ……。
 一瞬、高沢はそう思ったが、すぐにその考えを否定した。コーヒー缶の熱さの感覚は記憶にあるし、煙草を口にくわえた感触も記憶にある。しかし……コーヒー缶の熱さも煙草をくわえた感覚も、今日の記憶ではないのでは?
 高沢は頭を振った。すべてに現実感が欠如しているように思える。夜の街。料理屋の看板を目立たせている安っぽい照明。まばらに見える街灯の白い光。駅へ向かって通りを走るタクシーの尾灯。ぽつんと立つ自動販売機…。
 夢だ。
 いや、違う。
 高沢は、見慣れた街を眺めた。五年間、平日はもとより土曜・日曜も仕事のために通ってきた街だ。よく知っている。少し進むと何の特徴もない平凡なラーメンを出す店があって、その先にはイタリア料理のチェーン店、さらに先には古ぼけたパン屋、カメラ屋。そして線路の下をくぐるとJRの駅だ。
 高沢は、手の中にあるライターのひんやりとした感触を確かめながら、駅に向かって歩いた。そして、歩きながら以前テレビで聞いた記憶のある話を思い出した。おもにコンピュータ・プログラマーなどがかかる病気で、仕事のやりすぎで記憶が混乱するというものだった。そう、感覚の遮断による記憶の混乱とか言っていたっけ。たしか、長時間コンピュータのモニタ画面の中の世界だけと接触していると、現実の世界の刺激に対する認識にズレが生じて、記憶が混乱するというようなものだったはずだ。
 高沢は、少し疲れているだけだ、早く帰って休もう、と自分に言い聞かせながら、駅への道を急いだ。ラーメン屋の前を通りすぎる。イタリア料理屋も通過。パン屋とカメラ屋はもうシャッターがおりている。そして、線路の下をくぐって駅へ……。
 駅についた高沢は、改札の前にひとりの女が立っているのを見た。女はすらりと背が高く、さりげなく体の線を見せる品の良いベージュ色のスーツを身に付けている。軽くウェーヴのかかった長い髪は、微風になびいていた。彼女は高沢を見て、表情を輝かせた。
 高沢は彼女を知っていた。GSA社の社長秘書で、男性社員のファンを多く持つ、小原映子である。
 その小原映子が自分に向かって駆け寄ってくるのを、高沢はぼんやりと見ていた。何が起こっているのか彼が理解できないうちに、小原は高沢に抱き付いてくる。名前の知らない香水のにおいが、高沢の鼻にかすかに届いた。
「会いたかった…」小原は高沢の胸に顔をうずめ、小声で言った。
 なんだって?
 高沢は呆然とした。彼は、小原と抱き合うような仲ではない。同じ会社で働く人間。ただそれだけのはずだ……。
 しかし、小原と抱き合うような仲ではないという高沢の記憶は間違いで、実際は深い仲なのでは? もしかすると、今現在小原に抱き付かれているという意識そのものが、混乱した感覚の作りだした虚構なのかも知れない。
 まさか。
 小原の手は高沢の背中にしっかりとまわされていて、彼女の体のあたたかさが伝わってくる。しかし、非常に生々しい感触があるにもかかわらず、どこか違和感があった。
 何かが、違う。
 そう思った高沢は、小原の腕から逃れようともがいた。
 その時、ドン、と誰かが彼の背中にぶつかった。一瞬遅れて鋭い痛み。瞬間的に下半身から力が抜けていき、立っていられなくなる。小原は崩れ落ちそうになる彼の体を抱きかかえていたが、すぐに彼女ひとりの手では支えきれなくなった。高沢は彼女の腕をすり抜けるようにして、アスファルトの上に倒れた。
 彼は小原の足元に倒れながら、視野の隅で一人の男の後ろ姿をとらえた。黒い服を着た男。男は歩きながら振り返り、倒れている彼の姿を見て満足げに微笑んだ。その顔には見覚えがある。あれはGSA社の営業課長、小久保秀明だ。その手には街灯の光を受けて鈍く輝くナイフのようなものが握られていたが、彼はすぐにそれをコートの中へしまい込み、二度と振り返ることなく歩み去っていった。
 彼は急速に力が抜けていく腕を無理に動かして、しびれるような痛みのある背中に触れた。背中は、水をかぶったように濡れている。背中に触れた手を目の前にもってくると、その指先は真っ赤な血で汚れていた。
 これは悪夢だ。彼はそう思った。実家に置いてあるはずのライターを拾い、煙草と缶コーヒーが消滅し、同僚に抱き付かれ、別の同僚には後ろから刺される。こんな馬鹿なことが現実にあっていいはずがない。何かの間違いだ。
 これは悪夢。
 そう、夢だ。間違いなく夢だ、絶対に夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ……。
 そのとき、女が彼に近付けてきた。大きく魅力的な目が、きらきらと輝いて見えた。
 別れのキスとはしゃれている。悪夢の終わりに、多少の救いがあったようだ……。
「教えて、ケンはどこ?」女はキスなどせず、ただ彼に向かって事務的な口調で言っただけだった。その表情には、彼の体を心配しているような色は、うかがうことができない。彼女は、繰り返した。「見つけたんでしょ? 教えて、ケンはどこなの?」
 畜生め。
 彼はそう言おうとしたが、声は出なかった。
 そして、すべてが暗転した。

     二
 次に光が戻ってきた時、彼が最初に見たものは白い天井だった。苦労して首をまわすと、そこが広い部屋であることがわかった。ドアがひとつ、窓がひとつ。窓からは青い空と木の枝が見えた。枝の感じから、それなりの高さのある建物の上のほうの階にいるらしいことが推測できる。
 彼はベッドの上で横になっており、ベッドの脇には無数の導線やつまみがついている金属製の箱が置かれていた。その箱から出ている何本もの導線は、ベッド上に横たわる彼自身の体にのびている。体にかかっていた毛布を跳ね上げて見ると、その導線は白い布テープのようなもので、彼の手、足、腹、胸と、ところ構わずにとめられていた。何本かは頭に延びており、頭にかぶせられた金属製の帽子のようなものに接続されている。
 彼は、自分がなぜこのような場所にいるのかが理解できなかった。そもそも、この奇妙な部屋は何なのだろうか?
 彼の眼前に、過去のできごとが映像となってまざまざと浮かんできた。美女の抱擁、黒衣の男、ナイフ……。
 そう、刺されたのだ。
 ということは、ここは治療院なのだろうか? 治療院にしては少し風変わりだが、これが最新の設備なのかも知れない。
 と、突然扉が押し開けられ、大きく腹のせり出した白衣姿の中年男が入ってきた。
「お目覚めかね?」男はかすれ気味の低い声で言った。
「…はい……ここは、どこなんです?」
「私の治療院だよ。気分はどうだね」男はベッドの脇へ近づいてきて、にっこりと笑った。
「気分は、悪くありません」
「では、傷を見せてもらおうか。うつぶせになってくれたまえ」
 中年男の言葉に従って、体を反転させようとした。しかし、体のあちこちにつけられた導線が邪魔になって、思うように動けない。
「ああ、それはもう用が済んだから、はずしてあげよう」男は彼の体に手をのばし、布テープを手際よくはがしていく。
「これは、何なんですか?」彼は尋ねた。
「君の回復状態を調べるためのものだよ」男は作業を続けながら答えた。
「僕はどのくらいここに?」
「君は一日眠っていただけだよ」男はすべての導線をはずし、彼にうながした。「さあ、うつぶせになって」
 言われるままに、彼はベッドの上でうつぶせになった。
「素晴らしい!」中年男は彼の背中を見て歓声をあげた。「すでに傷跡さえ消えつつある。…これは素晴らしい。まったく、素晴らしい……」
 彼は、自分が傷を負った時の様子を思い出した。あの出血からして、一日で直るなどということは考えられない。普通のすり傷だって、傷跡が消えるまでには一週間ほどかかるではないか。ということは、彼がここには一日しかいないという男の言葉は、嘘だということになる。
 しかし、何のために嘘を?
「傷はどのくらいの深さだったんですか?」彼は問いかけてみた。
「そこだよ。君は、路上に血の池を作っていたんだ。おそらく、並の人間ならば私たちがここに運び込む前に、とっくに死んでいただろうね。しかし君は助かって、しかもこの回復の早さだ。私たちの間では、君が実は人間ではないのじゃないか、という噂がささやかれているよ」男は屈託なく、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「さて、話を聞かせてもらおうかね」
 彼は、戸惑った。男は彼が重傷だったことを隠そうともしない。なのに一日で治ったと言う。嘘をつくならば、もう少し工夫をしそうなものである。ということは、男が言っていることは本当なのだろうか……。
「では……」男はベッドの端に腰を下ろした。「まず名前から聞こうか。いや、その前に私から自己紹介をすべきかな? 私はドーデという者だ」
 ドーデ? 男の外見と名前のイメージが一致しない。何か不思議な違和感があった。
「それで、君の名前は?」ドーデと名乗った男が、彼に返答をうながす。
「アキナス」彼は答えた。
「年齢は?」
「わかりません」
「本当に?」
「はい。最初は確か…」彼は少し考えた。「…そう、ウォック村というところで気がつきました。地面の上に倒れていたんです。それ以前の記憶はありません」
「それは、職業も何もかもわからない、という意味かな?」
「はい」
「なぜ刺されたのかも?」それは質問というよりも、むしろ確認に近かった。
「ええ、わかりません」
「ふーむ」男は手を組み、ぼんやりと天井を見上げた。「興味深いね。では、何でもいいから憶えていることを言ってみてくれないかな?」
「…僕を刺したのは、黒服の男でした。見たことのない男です。それから、刺された時、きれいな女性が僕に抱き付いていました。僕は彼女を憶えていませんが、彼女は僕のことを知っていたようです。『会いたかった』と言っていましたから…」言ってから、彼は漠然とした疑問を感じた。彼を刺した男も抱き付いてきた女も、本当に知らない人間だったのだろうか?
「その女は、君が刺された時にどうしたのかな?」
「刺された僕を助けてくれるような感じではなかったですね。淡々とした口調で、確か、ケンはどこだ、とか何とか言ってました」
「ケン?」ドーデと名乗った中年男の目が、一瞬輝いたように見えた。「確かにそう言ったのか?」
「ええ……知っているんですか、そのケンという人を?」
「あ、いや…」中年男は彼から目をそらし、視線を宙に泳がせた。「その二人の人物が、君の記憶を取り戻す鍵になるのかも知れん…その女と、ケンという人物が……」
 中年男はしばらく考え込んでいたが、おもむろに立ち上がった。
「君はゆっくり休んでいてくれたまえ」中年男は言った。「いくら超人的な回復力の持ち主とはいえ、体力は落ちているはずだからね」
 男はそのまま部屋を出ていった。
 彼はベッドの上からその姿を見送りながら、状況を整理しようと考えた。しかし、次から次へと浮かんでくる疑問のために、考えがまとまらない。
 なぜ記憶を失うようなことになったのか。
 彼に抱きついてきた女は何者だったのか。
 彼を刺した男の目的は何だったのか。
 ケンとは、いったいどういう人物なのだろうか。
 どうして傷がこんなにも早く治癒してしまったのか。
 それに、あの中年男……。
 男はドーデ、と名乗った。男が名乗った時に感じた違和感は何だったのだろうか? まるで、男のことは以前から知っていて、男が嘘の名前を名乗ったような感覚だった。
 あの中年男には、以前も会ったことがあるのだろうか?
 わからない。
 そもそも、あの中年男は何者なのだろう。このような風変わりな設備をそろえた治療院を持っているが、彼自身、男に治療されているというよりは、何かを調べられているような、そんな印象を受けていた。
 あの中年男は、いったい――。
 そう思った途端に彼の体はがくんと揺れ、頭の中で何かが弾けた。
「…このため、記憶を失ったことによってアキナスは自分自身が力を使えるということも忘れてしまい……」
 突然、あの中年男の声が聞こえてきた。
 彼は瞬間、その声がどこから聞こえてくるのかがわからなかった。しかし、すぐにそれは、彼の頭の中に直接響いてきているということに気づいた。声に集中しようとして目を閉じると、中年男の姿が脳裏にひらめく。
 先ほどの中年男は、他の何人かの白衣姿の人間と一緒に机を囲み、何やら話し合いをしているようだった。その中の一人が言った。
「ということは、力は持っていても彼はそれを行使することができない、ということですか?」
「その通り」中年男はうなずいた。「正確には『意図的に行使することはできない』と言うべきだがね。とにかく、彼は素晴らしい研究素材だ。それに、彼はあの伝説のケンについて何かを知っているらしい。彼とケンとを手中に納められれば、我々の研究は飛躍的な進歩を見るだろう。彼がここに運び込まれてからの一日で、すでに我々は何ものにも変えがたい貴重なデータを入手することができた。力は、波動なのだよ。計測できたということは、擬似的に生み出すことも可能だろう。波動に干渉するエネルギーを照射することで、力を無効にできるかもしれんのだよ」中年男の口調が熱を帯びてきた。「…とにかく、アキナスの存在が我々の研究を進めてくれることには間違いない。力を使える者による独裁の時代が終わり、新たな時代が幕を開ける日がすぐそこまで近づいてきたと言えるだろう。そうすれば我々サイテニッツは……」
「ドーデ様!」中年男の話を遮るように、若い男が飛び込んできた。「アキナスが力を使っています。観測された値はこれまでの最高値の約九倍で、力はまっすぐにこの部屋へ向けられています!」
「何だと?」中年男は立ち上がった。「全員、この部屋から退去しろ。それから、兵士をアキナスの部屋の前に集合させるんだ。アキナスほどの力があれば、傷はすぐに回復する。多少は手荒いことをしても構わない。取り押さえろ。あとは、大至急トロンメルを呼べ。予定を早めて、ひと働きしてもらわねばならん」
 彼は目を開けた。中年男と白衣の男たちの姿は消えて、彼らの会話も聞こえなくなる。彼はめまぐるしく頭を働かせた。が、考えは部屋の外に駆け付けてくる騒々しい足音に中断される。そのとたんに、体が勝手に動き出した。
 …この違和感は、何だ?
 まず、体は窓に向かった。窓から下を見おろすと、そこが石造りの建物の三階部分であることがわかる。しかし頭が「飛び降りたら無事では済まない」と判断する前に、体は勝手に反転して、扉へ向かって突進していた。独断専行する体は体当たりの一撃で扉を吹き飛ばし、部屋の外に躍り出る。そこはさほど広くない廊下で、右手のほうから五人の体格の良い男たちがやってくるところだった。
「邪魔だっ!」彼は制御を失った自分の肉体が勝手に怒鳴るのを聞いた。
「困りますよ、アキナスさん。おとなしく部屋で…」言いかけた先頭の男の顔が恐怖に歪みながら近づいてくる。いや、違う。実際はその逆で、彼がものすごい速さで男に接近しているのだ。
 …この違和感は、何だ?
 彼は拳を突き出し、その拳は男の腹にめり込んで、男は体をくの字の折り曲げながら後ろへ倒れた。
 先頭の男の転倒に巻き込まれて、二番目の男も転んだ。彼の体は間髪入れずにその二人を跳び越え、三番目の男のふところに飛び込む。男は意味もなく手をのばしてきたが、彼はその股間に蹴りを入れていた。
 …なぜ俺はこんなに強いのだ?
 彼は目の前で男が床に崩れ落ちていくのを眺めながら、そう思った。その間にも、体は自動的に四人目の男の顔面に拳を叩き込んでいる。
 おかしい。
 この肉体と精神が遊離しているような違和感は、記憶を失ったことだけが原因だとは思えない。
 …この違和感は、いったい何なんだ?
 肉体は五人目を難なく倒す。
 …俺は誰なんだ?
(僕はアキナス)
 …違う!
(違わない。僕はアキナスだ)
 …その記憶は偽物だ!
(偽物だと思うのが間違いさ)
 …俺の名前は他にある!
(いや、アキナスという名前こそが正しい)
 …そんなはずは……。
 心の叫びは虚しく空回りして、次第に消えていった。勝手に動きつづける体は、空転する思考とは関係なく、階段を発見して駆け降りている。階段をのぼってくる白衣の男を蹴り倒しながら、彼の肉体は吠えた。
「実験台なんかにされてたまるか!」
 そうか、実験台にされるのが嫌だだったのか…。頭が遅れて理解する。
 肉体は建物の出口を見つけて、勢いよく外に飛び出した。そこは広い前庭で、正面には小道がのびており、左右には細かな葉を持った低木が並べて植えられている。
 と、その繁みの向こうから手招きする男の姿があった。
「アキナス、こっちだ!」声を殺して呼ぶ男はひどく痩せており、腰には幅広の剣を吊るしている。「急げ!」
 ここにきて、肉体はようやくためらいを見せた。肉体は痩せた男に声をかけられて一瞬迷った様子だったが、結局は男のところへ向かって走った。
「正面の門は見張りが厳しい。こっちに塀の下をくぐれる穴があるんだ」痩せた男は繁みに隠れるように腰をかがめながら、早足で進みはじめた。「こういうヤバい場所からは、早いところ抜け出すのが一番だ」
「…あなたは、いったい誰なんです?」彼は尋ねた。
「おいおい、探してる相手の名前を忘れてもらっちゃ困るな」痩せた男はちらりと振り返り、笑った。「俺は、ケンだよ」

     三
 違う!
 心の中の声がそう叫んだ回数は、もはや数えきれない。痩せた男が何かを言うたびに、精神から遊離した肉体が何かをするたびに、心の中の声は叫ぶのだった。
 痩せた男の言葉は嘘だ。
 勝手にしゃべったり動いたりしているこの肉体も、嘘だ。
 二人が並んで歩いている道も嘘で、空も雲も太陽も、すべてが嘘なのだ、と……。
 痩せた男は、何やらしどろもどろに答えている。真実を聞きだして記憶を取り戻すきっかけにしようとする彼の肉体の問いに、答えられなくなっているのだ。そう、男が名乗ったケンという名前は嘘なのだ。では、彼は何者なのか。そもそも、この奇妙な感覚のズレ――肉体の動きと思考が分離してしまっているような感覚――は、どういうことなのだろうか…。
 突然、二人は立ち止まった。黒衣の男が二人の行く手をふさいでいる。
(黒衣の男、俺はお前を知っているぞ!)
「くそっ、何でお前が生きていやがるんだ? あの時、俺はたしかにお前の急所を刺したはずだ…」黒衣の男は、彼の肉体を見ながらそう言っていた。
(そうだ。奴は駅で俺を刺した男じゃないか……待て、『駅』だって?)
「なぜ僕を殺そうとするんです?」肉体がしゃべる。
「それが俺の仕事だからさ。金を受け取った以上、仕事は最後までやらなけりゃならん」
(違う。人を殺すのが仕事なんてのは嘘だ。彼の仕事は…彼の本当の仕事は……)
 黒衣の男はどこからともなくナイフを取り出し、身構える。と、痩せた男が肉体と黒衣の男の間に入った。その手には、男がそれまで腰に吊るしていた剣が握られている。
「お前の好きにはさせないぜ」
 この痩せた男の言葉に、黒衣の男は微笑んだ。
「犬死にしたいのなら、それもいいだろう」
 そして、二人は戦いはじめた。黒衣の男は痩せた男が振り回す剣を巧みにかわしながら、手にしたナイフを突き出す。ナイフは一回突き出されるごとに、痩せた男の体に傷をつけていた。
「…やめろ」肉体が言う。「やめてくれ…何でそんなことを……」
 二人の男は戦い続ける。
「やめてくれ」
 痩せた男の脇腹に、ナイフがくい込んだ。
「やめろ!」
 声とともに、目の前が真っ赤になる。そして鈍い爆発音とともに、二人の男の間に炎が立ちのぼった。
「畜生!」小さな炎の爆発に吹き飛ばされた黒衣の男は、痩せた男の脇腹にナイフを残したまま地面に倒れ、毒突いた。「魔法が使えるなんて、聞いてねえぞ!」
 すぐさま黒衣の男は立ち上がると、痩せた男をそのままにして逃げ出していく。痩せた男は地面に倒れて、うめき声をあげていた。
 肉体は、爆発に驚いたような様子で立ち尽くしたままだ。すべてが他人事のように、何の感情も呼び起こさないまま流れ去っていく。
 騒ぎを聞き付けて、誰かが駆けてきた。見る。女だ。女は肉体を見てアキナス、と言った。女は小柄で丸顔、丸い眼鏡をかけている。
 眼鏡?
 女は彼の肉体を揺すりながら言う。私よ、アキナス。ヘスティアよ。
 違う! ヘスティアは眼鏡なんかかけていない!
 わからないの? 私はヘスティア。ずいぶん捜したのよ……。
 違う、君はヘスティアなんかじゃない。君の名前は岩永めぐみ。GSA社のゲーム開発スタッフだ。そこに倒れている男もそうだ。彼の名前は船岡健一。彼もゲーム開発スタッフの一人だ。さっきの殺し屋だってGSA社の社員だ。営業部の小久保秀明。彼に刺されたときに抱き付いていた女は、社長秘書の小原映子。ドーデと呼ばれた中年男は砂田治で、開発チームのチーフ。そして俺はアキナスではなく、高沢敏彦。
 高沢敏彦!
「畜生ぉっ!」高沢は吠えた。「これはゲームなんだっ!」
 彼は高沢敏彦。自分が企画とシナリオメイクを担当したゲームの最終チェックをやっていた。美女に抱かれて刺されるのはゲームの主人公アキナスの役割だ。だから刺したのは営業の小久保ではなくて殺し屋ビベロなのだ。美女は小原ではなくてビーナ。施設で魔法の科学的検証を行っているのは砂田ではなくドーデ。ケンと名乗ったのは船岡ではなく、ドーデによって主人公アキナスの見張り役として派遣された、工作員のトロンメル。騒ぎを聞き付けて現れたのは岩永ではなくヘスティア。そしてその全員が、高沢敏彦の作り出したゲーム世界の住人…。
 現実と虚構が混同してしまったのだ。目の前に出てきた人間は皆、モデルになった役者の動きを基にして作られた、コンピュータ・グラフィックスの立体動画……。
 高沢はそう自分に言い聞かせながら、アキナスの目を通して周囲を見回した。岩永がいる。彼女はヘスティアという名前の魔法使いで、今は小久保に刺された船岡に治療の魔法をかけている。違う、ビベロに刺されたトロンメルが正解。
 それにしても、ゲーム中の人間たちがなぜ実在の人物のように見えるのだろうか。幻覚なのか? 彼が見ている世界は、本来『ヴァーチャル・ステーション』のヘッドセット内部に映し出されているものだった。高沢本人の目が見ているのはあくまでもコンピュータ・グラフィックスで、目の前にいる二人の人物は岩永や船岡とは程遠い、ゲーム世界の中の電子的な存在であるはずなのだ。
 高沢は、アキナスの視点と自分の視点を分離しようと努力した。しかし努力の甲斐なく、彼の目の前では岩永の外見をしたヘスティアと船岡の外見をしたトロンメルがいるだけだった。何も変わってない。
「くそっ…」高沢は悪態をついた。
 そうする間にも、物語は進行している。ヘスティアは怪我をした船岡を「サイテニッツの工作員」と呼び、彼がアキナスを守ろうとしたという話を聞かなければ、こんな奴に治療の魔法をかけてやるような真似はしなかったのだという内容のことを、繰り返し言っていた。
 サイテニッツとは、魔法を科学で解明しようとしている集団の呼称だ。高沢が考えた筋。
 そう、間違いない。これはゲームの筋だ。この後、アキナスはヘスティアとともに、記憶を取り戻すための旅に出る…。
 高沢は耳に神経を集中させた。ゲームの中では、船岡が編曲した曲がBGMとして流れているはずなのだ。しかし、そのBGMは聞こえない。次に彼は自分の両手に神経を集中させた。彼の手にはヴァーチャル・ステーションのコントローラが握られているはずで、右手の親指をのばせばゲームを終了させるメニューを表示させることができる「コマンドボタン」に触れるはずだった。しかし、コントローラはどこにもない。かぶっているはずのヘッドセットも、本来このゲーム世界を構築維持するのに必要なはずの機械類は、いっさい見出だすことができないのだ。
 高沢の体は、動かない。ゲームの主人公アキナスに体を乗っ取られてしまった。コントローラを投げ捨てようにも、ヘッドセットをはずそうにも、体が動かないのだ。
 高沢は、激しい恐怖に襲われた。高沢敏彦という人格が、ゲームの中に埋没していこうとしているのだ。理由はわからない。ヴァーチャル・ステーションにはなんらかの設計ミスがあったのかも知れないし、別の要因があるのかも知れない。しかしとにかく、高沢は高沢ではなくアキナスになろうとしていて、現実の人物もゲーム中の登場人物に同化しようとしているのだ。
 体がガタガタと震え、めまいがしてきた。
 冷静に考えろ。冷静に考えるんだ……。
 高沢は震える息を大きく吐き出しながら、周囲を見た。特徴のない広大な平原。空は青く、綿のような純白の雲がいくつか浮かんでいる。そして、目の前には眼鏡をかけた岩永の顔。そのすべてが混ざり合いながら、ぐるぐると回りはじめる。
 誰かが何か言っていた。
「……大丈夫? 具合が悪そうだけど。ねえ、アキナス? 聞こえているの? 私がわからないの? かわいそうに。なにがあったのかしらないけど、わたしがいっしょだから、わたしがあなたをまもってあげるからだからがんばろうげんきだしてね……」
 世界はゆらりゆらりと揺れる。そしてその向こうから、聞き覚えのある何種類かの声が聞こえてきた。しかし、その声は遠く聞き取りにくく、聞こえてくる方向も定まらない。まるで言葉が音節単位に分解されてしまい、意味を失って宙を漂っているようだった。
「……いったいどうなっているんだはやくげいずにれんらくしろきゅうきゅうしゃもひつようだいそげ……」
 どこかから男の声。誰だろうか?
「……ばーちゃるすてーしょんにもんだいわないといってますこれまでそのようなもんだいわはっせいしたことがないのでこちらのそふとのもんだいでわないかということですこれじゃあらちがあきません……」
 誰かの声。聞き覚えがある。
 自分の意思とは関係なく世界が不安定に揺れつづけていた。それは、船酔いの時の感覚にどことなく似ていた。
 息苦しく、気分が悪い。
「……ふざけやがってげいずのやつめぴーえるほうおしらないのかこんなけっかん……」
「……そういえばきいたことがあるかんかくのしゃだんによるきおくのこんらんといってちょうじかんたんちょうなかんかくしげきのすくないかんきょうにいると……」
「……いぽおぴいぽおぴいぽおぴいぽ……」
「……やっときゅうきゅうしゃがきたか……」
「……いぽおぴいぽおぴいぽおぴいぽ……」
「……そのきおくのこんらんがじっせいかつにししょうがでるれべるまでいくと……」
「……いぽおぴいぽおぴいぽおぴいぽ……」
「……そんなことはどうでもいいはやくたかざわをきゅうきゅうしゃに……」
 音も、周囲の世界の色彩も、すべてが無意味に重なり、一瞬にして遠ざかっていく。
 そして、高沢に残されたのは真っ暗な世界。そこには音も光も何もなかったが、すべてがあった。混乱と秩序、狂気と理性、それに、恐怖と安らぎも。
 高沢の意識は浮揚し、それからゆっくりと暗闇の中へ落ちていった。

     四

 高沢が意識を回復した時、彼が最初に見たものは白い天井だった。苦労して首をまわすと、そこが陰欝な印象を与える白い壁に囲まれた部屋であることがわかった。ドアがひとつ、窓がひとつ。窓からは青い空と木の枝が見えていた。枝の感じから、それなりの高さのある建物の上のほうの階にいるらしいことが推測できる。
 彼はベッドの上で横になっており、ベッドの脇には点滴があった。点滴の管は高沢の左腕につながっていてる。
 既視感。
 ゲームの、アキナスが目覚めるシーンに後戻りしてしまったのだろうか? その気に入らない想像に顔をしかめながら、高沢は体を起こした。そして彼は注意深く周囲を観察しながら、自分が今いる場所がどちらの世界なのかを考えた。
 点滴はなかったはずだ。天井にはスピーカー。これもゲームにはなかった。枕元のナースコール。糊のきいたシーツ。消毒液のにおい。すべてが、今いる場所は現実の世界であることを指しているいるように思える。
 かすかなノイズに続いて、天井のスピーカーから年のいった印象を与える女の声がもれてきた。
「サカガミ先生、サカガミ先生、ナースセンターまで内線をお願いします…」
 高沢は耳を澄ました。扉の向こうからは、さまざまな雑音が聞こえてくる。話し声、誰かが咳をする音、足音……。
 足音のひとつ、とても軽快に聞こえる足音が彼のいる個室に近づいてくると、静かに扉を開けた。部屋に入ってきたのは、高沢のよく知っている顔だった。小柄、丸顔、薄化粧、丸く大きな眼鏡……。
「…岩永さん?」
 岩永はベッドの上で半身を起こしている高沢を見て、顔をほころばせた。
「ご気分はいかがですか?」岩永は病室の隅に置いてあった三本足の丸椅子をベッド脇に動かし、その上に小さな体をちょこんと乗せた。
「なんでここに?」
「『なんで』とは失礼ですね。GSAのアイドルがこうしてわざわざ来てあげたんですよ。少しは感激してください」岩永は気取ったふうに体をそらせて見せた。
「へいへい…」高沢は苦笑した。『GSAのアイドル』というのは岩永の一八番のセリフで、高沢はこれまでに耳にタコができるほど聞かされてきた。もちろん、彼女はアイドルになるにはいささか体の線が太く、鼻も低すぎた。
「会社じゃ大騒ぎなんです」岩永は一転して真顔になった。「プロジェクトを中止するかどうか、まだ結論は出てないんですけど」
「あの…」高沢は首筋をぽりぽりと掻いた。「悪いんだけど、何が起きたのか教えてもらえないかな。今ひとつ状況が把握できてないんだ」
「ヴァーチャル・ステーションのせいで、現実とヴァーチャル・リアリティの区別がつかなくなったんですよ」岩永はあっさりとした口調で言った。
「じゃあ、ハードの問題?」
「ゲイズ・エンターテイメントさんは認めないみたいですけどね。まあ、私たちはみんな機械のせいだと思ってます」岩永は思い出したように付け足した。「でも船岡君だけは、高沢さん本人にも原因があるような言い方をしてました」
「あいつらしいな」高沢は思わず微笑んだ。船岡は高沢の六歳年下、岩永から見ると三歳年下になるのだが、誰にでもずけずけと物を言う。しかし、高沢はそのあけっぴろげな彼の性格が好きだった。「で、奴はどんな理屈をつけてた?」
「神経伝達物質って知ってます?」
「なんだっけ? 聞いたことあるけど…」
「ノルアドレナリンとかドーパミンとかアセチルコリンなんていう名前の物質のことです。脳内麻薬とも呼ばれることがあるらしいんですけど、五感から入ってきた刺激を伝達するために必要なものなんです」
「ずいぶん詳しいな」高沢は驚きの視線を岩永に向けた。
「船岡君の受け売りですよ」岩永は微笑み、続けた。「これらの伝達物質は、通常、外界からの刺激量にあわせて分泌されるものらしいんですよね。外界からの刺激が多いと大量に分泌されて、それだけ刺激の伝わりが速くなってハイになる、といったような感じで。逆に何かの理由で充分な量が分泌されない場合には、刺激の伝達が停滞して、私たちの知っている自閉症の症状によく似た状態になる場合があるらしいんです。外界からの刺激がうまく伝わらないから、外界への反応もうまくいかなくなる、という感じで。まあ、実際の自閉症とは質が違うらしいんですけど…」
「なるほどね」はっきりとは思い出せなかったが、以前どこかで聞いたことのある話だった。「それで?」
「ヴァーチャル・ステーションって、刺激的ですよね。でも、その刺激量は一定で単調なので、ゲームのやり初めに脳内麻薬が大量分泌されても、刺激に慣れてくると脳内麻薬の分泌は逆に抑制されてしまう。それで外界からの刺激にうまく反応できなくなって……」
「ちょっと待った」高沢は岩永の言葉を遮った。「じゃあ、俺は一時的な自閉症になったってわけ?」あまり気分のいい話ではない。
「自閉症によく似た症状、ね」岩永は穏やかに言った。「でも、それなら原因は全部ヴァーチャル・ステーションにあることになりますよね。大事なのはここからなんです。たとえ脳内麻薬の分泌が抑制されても、普通ならボーッとする程度で終わってしまいます。高沢さんの場合、ここに別の要因が加わったんですよ」
「別の要因?」高沢はおうむ返しに言った。
「私、高沢さんに頭痛薬を飲ませましたよね。鎮痛剤には、ある種の麻薬と同様の効果があるんです。それが脳の正常な活動に影響を与えたんだと思います。あと、『ラスト・ソーサラー』は高沢さんの作品ですよね。あの世界も、登場人物も、物語も、すべて高沢さんの頭の中から出てきたものです。高沢さんが作るファンタジーの物語は、いわば高沢さんがこうあって欲しいと願う気持ちが生み出したもので、それは高沢さんにとってはユートピアのようなものだったんですよ。だから、高沢さんは現実の世界に…」
 逃避。
「…帰りたくないと感じたんじゃありませんか? 深層意識にあるその願望と神経伝達物質の分泌の抑制が一緒になって、高沢さんは……」
「もういい…」高沢は苦々しい思いを味わいながら、うめくように言った。
「……ごめんなさい。船岡君が言っていたことをそのまま…」
「わかってる」高沢は大きく息を吐き出した。「いかにも奴らしい分析だ。でも、それが本当に正しいかどうかは、誰にもわからない」
 認めたくないから、虚勢を張ってそう言ってみた。しかし、ある意味でその指摘が正しい、ということは、高沢本人が一番よくわかっていた。
「ねえ」不意に岩永は明るい声を出してひょっこり立ち上がり、そして唐突に言った。「気分転換に旅行でもしません? きっと楽しいですよ」
 高沢は困惑した表情を岩永に向けた。岩永は屈託のない笑顔を返してくる。
(気分転換に旅行でもしません? きっと楽しいですよ)
 彼女は口に出しこそしなかったが、一緒に、という含みが感じられる。
(気分転換に旅行でもしません?)
 彼女は俺と二人だけで旅行したがっているのか?
(旅行でもしません?)
 なぜ?
(しません?)
 彼女は俺のことを? まさか。彼女には付き合っている男がいたはずだ…。
(?)
 一瞬、あらぬ妄想が高沢の意識の隅をよぎる。正直なところ、この瞬間まで岩永を異性として意識したことはなかった。ぱっと見た感じでは幼児体型だし、背が低いせいもあって小学生のような印象を受ける。彼女の明るさは好きだが、それは船岡のあけっぴろげな性格が好きだというのと同じだった。高沢の本来の好みは成熟した女、たとえば社長秘書の小原映子のような……。
「鳩が豆鉄砲をくらったような顔してますよ」岩永は微笑んだ。
「…あ…そう?」高沢は言いながら、自分が赤面していなければいいが、と願った。
 岩永はそんな高沢の気持ちを知ってか知らずか、ベッドの脇に寄ってきて彼の腕にそっと触れた。彼女の手のぬくもりが、服を通して伝わってくる。
 高沢は岩永の顔をまじまじと見つめた。大きくて奇麗な目。優しい頬の線。しなやかな首。そして、胸のふくらみ。高沢は、頭の中で岩永を裸にした。その裸体に触れると、彼女は身悶えしながら歓喜の声を上げ……。
「高沢さん、行きましょ」岩永は、言った。
 高沢は、その言葉で吹き飛びかけていた理性を取り戻した。
「行く? どこへ?」
「やだ」岩永は笑い、高沢の腕に乗せた手に力を込めた。彼女はそのまま高沢の腕を引き、彼をベッドから立ちあがらせる。「私の話、聞いてなかったんですか?」
 旅行? これからすぐ?
 高沢の頭には疑問が浮かんできたが、それは言葉にはならなかった。彼は彼女に手を引かれるまま、病室から出ていった。

     五
 既視感。
 車窓を流れていくその田園風景には、どこか見覚えがあった。規則的な揺れ。乗客が少なくがらんとしている電車。窓際の席。上腕にあずけられた岩永の小さな頭。石鹸かシャンプーか化粧品か、岩永の体から漂ってくるかすかな香料のにおい。規則的な寝息……。
 この状況は、以前にも体験したことがある。高沢は確信した。しかし、それがいつのことなのか、とっさには思い出せない。
 岩永が眠ったまま小さく声を出し、体を動かした。彼女の胸のふくらみが、高沢の腕にそっと触れる。高沢は股間に欲望がうずくのを感じ、肩ごしに女の姿を見た。揃えられた細い足は、ぴっちりとした濃紺のソフトジーンズに包まれている。丸い尻、くびれた腰、白い半袖のポロシャツに隠された乳房…。
 既視感。
 大学に籍を置いていた頃のことだ。東京の大学。一様に外見だけは美しい女たち。その実際は、都会に馴染めない孤独な地方出身者の群れ。孤独を紛らわせようとするための、ファッションのような恋愛。エゴに満ちたセックス。それは、胸の奥に存在する空洞を埋める役には立たなかった。ただ惰性で続く、よそよそしい関係。その惰性から離脱するための挑戦。挑戦の失敗。いつの間にか、惰性から離脱しようという成功の見込みのない試みそのものが惰性となってしまうのだ……。
 高沢は思い出した。大学時代に付き合っていた女。平凡な女。ふたりで行った旅行。何のことはない、セックスの舞台が変わっただけ。大学を卒業して高沢がゲームの開発にかかわり始めると、会う回数が減った。惰性で細々と続く肉体関係。そして別れ。
 それなりに輝いていたと信じていた学生時代の関係に戻ろうと、別れる直前に出かけた旅。行き先は学生の時に行った場所と同じ。何も変わらない、ずっと、まったく…。
 すべては閉じた輪の中をめぐるだけの、果てのない惰性…。
 あの日、彼女はソフトジーンズに白いポロシャツという服装だった。彼女は高沢の肩に頭を預け、寝息をたてていた。彼女の乳房が高沢の腕に触れ、高沢は彼女にではなく彼女の肉に対して欲情したのだ…。
 高沢は、萎えた。
 なぜあの時の彼女と同じ格好なんだ!
 高沢は心の中で呪いの言葉を吐きながら、車窓の風景に目を戻す。しかし彼はもう、窓の向こうを流れていくどこか見覚えのある田園風景など、まったく見てはいなかった。彼の意識の焦点は、他ならぬ自分自身に合わせられていたのである。
 彼は、思った。
 大学の時と何が変わったのだろうか?
 スイッチを完全にオフにするまで、一〇分おきに鳴る目覚まし。いつも一時間ちかく鳴っては止めるの繰り返し。布団から這いだすのは一一時。そして、職場へ。ゲーム作りの仕事に終始して、日付が変わってから帰宅する。腐敗したゴミのにおいと万年床の出迎え。作っているゲームのことを考えながら、万年床にもぐり込む。毎日が同じ一本道の往復。惰性で続く日常。それが今。
 それに対して大学生の時。気が向いた時にだけ大学へ行き、あとは家でゲームをやっていただけの毎日。親からの仕送りで買ったゲームのパッケージが部屋に溢れ、散乱していた。ひとつゲームが終わると新たなゲームを買いに出かける。同じことの繰り返し。惰性で続けるゲーム。気がつくと夜明け。万年床にもぐり込み、ゲームのことを考えながら眠る。寝てもゲーム、起きてもゲーム。惰性、惰性、惰性。
 少なくとも、今の俺は作っている! 高沢が心の中で叫ぶと、別の誰かが言い返す。
(そうやって、いつも自分を正当化する)
 俺は、ずっとやりたかったゲームを作るという仕事をやっている。ゲームをやるだけでは満足できなかったから、作る側にまわったんだ。
(それでも、満足はしていない。心の奥では惰性だと感じている)
 そんなことはない、今は疲れてるだけなんだ!
(そうやって、いつも自分を正当化する。自分をなぐさめ、自分を許し、自分を甘やかすことで、逃げ続ける)
 違う! 俺は何かを作りたいんだ! 今、それをやってる!
(高校時代にやっていた音楽は? 大学時代にやっていた小説は? いつも飽きて放り出す時には自分にこう言った。よくやった。ここまで努力してこの程度なんだから、これ以上やっても仕方ない。別の手段を探すさ、と。そうやって自分をなぐさめて――)
「もういい!」高沢は怒鳴った。揺れる電車の中に、その声が虚ろに響いた。
「…どうしたんです?」岩永はびくりと体を震わせて目を覚まし、高沢から体を離しながら言った。
「なんでもない」高沢は岩永を見ようともせず、不機嫌に言った。
 窓の外を、景色が飛ぶように流れていく。遠くに見える山々。散在する古ぼけた民家。まぶしい陽光を浴びた緑の田園。田畑で労働する人々。何もかも、あの最後の旅行の時と同じだった。すべては記憶にあるまま。記憶の通り。繰り返すだけ。閉じた輪。
 その時、視野に一軒の家が飛び込んできた。木造の二階建てで、玄関脇には犬がいる。
 あ――。
 高沢は、その家をよく知っていた。犬は雑種で、名前はゴロ。死んでから、もう十年近く経っている。犬小屋の脇、玄関の引き戸を開けると右側に下駄箱があり、その上には骨董品として高く売れそうな黒いダイヤル式の電話機が置かれている。まっすぐ奥へと続く廊下と、その右側にある階段。階段をのぼった左側には六畳間。柱にはカッターで削った跡。くすんだ茶色の天井の隅には雨漏りでできた染み。彼が幼い頃には、その染みが人の顔に見えてひどく恐ろしかった…。
 そう、それは高沢敏彦の実家だった。
 最後に訪れたのは三年前、父が肺ガンで死んだ時。今は母と、農業を継いだ兄夫婦が住んでいる。しかし、妙だった。家の近くには市道につながっている細い砂利道が通っているだけで、電車などは通っていなかったはずである。彼の記憶によれば、この車窓から見える景色はその砂利道から見た眺めと一致していた。
 家と砂利道をつなぐ、車一台がやっと通れる幅の、草ぼうぼうの小道もある。その小道はまっすぐこちらに近づいてきていたが、踏切によって唐突に途切れていた。懐かしい風景はすぐそこに見えるのだが、赤いランプを明滅させた遮断機によって、遠く隔てられている。
 カン、カンという単調な踏切の警告音が、冷たく響いていた。
 遮断機に隔てられているその小道の脇には、高沢自身が相続を放棄した父の土地がある。今は兄の持ちものだ。その土地には野菜が植えてあった。土の色。まばらに見える緑。そして、その野菜畑で働く体格のいい男。男の顔はいかつく、白髪頭だった。
 それは、高沢和男。高沢敏彦の父だった。
 父は、息子を厳しい表情で見つめていた。息子を叱る時にはいつでもそうしていたように、目を怒らせ、口をへの字にして、腕を組んでいる。
 父の口が動いた。
 むろん、声は聞こえない。しかし高沢の耳には、父の煙草でかれた低い声が聞こえたような気がした。聞き慣れた、懐かしい声…。
「この馬鹿もんが。何をやっとるか」
 高沢は長い間忘れていた感情を思い出し、目頭が熱くなるのを感じた。葬式の時ですら流れなかった涙だ。そう、父には言いたいことが山のようにあった。なのに、父は彼がそれを言う前に、いなくなってしまったのだ…。
 理性は、その光景を否定する。犬は死んで、犬小屋は薪になった。父は死んで、あの畑に立って農作業をするのは兄。電車から見える場所に実家はない。これは違う。違うんだ。絶対に違う!
 実家と、それを含めたすべての光景が、電車のはるか後方に流れていった。そして、窓の外は闇に包まれる。トンネルに入ったのだ。もう何も見えない。すべては過去。すべては二度と戻らない。二度と繰り返されない。惰性は存在しない。それは何度も繰り返す輪のような道ではなく、一方通行の長い道。
 もう、帰ることはできない…。
 突然、耳をつんざくような鋭い金属音が響いて体が前のめりになった。高沢の乗った電車が、急ブレーキをかけている。彼は激しい頭痛とめまい、吐き気を感じながら、向かいの座席に手をついて体を支えた。やがて電車は止まり、高沢はようやく慣性から解放されて置きあがる。
「高沢さん!」彼を呼ぶ声がして、電車が進行していた方向からさわやかな風が吹き込んできた。見ると、車両と車両を区切っていたはずの扉が開かれ、その向こうには美しい緑に覆われた風景が広がっている。扉の脇にはさっきまで彼の隣にいたはずの岩永が立ち、微笑みながら手招きしていた。
「敏彦!」低くかさついた男の声が、反対方向から聞こえた。
 振り返ると、そこには父がいた。腕組みをして、怖い顔を高沢に向けている。父の脇の扉も開かれていたが、その向こうに見えるのは白い壁。どこか陰欝な印象を与える、暗い部屋のようだった。
「高沢さん! 行きましょうよ」岩永が呼んだ。高沢は振り返る。
「敏彦! 何をやっとるか、この馬鹿もんが!」背後から父の声。高沢は振り返る。
「高沢さん。そっちに行っちゃ駄目ですよ」岩永の声。高沢は振り返る。
「敏彦! いつまで夢を見とるんだ。とっとと来んか!」と、父。高沢は振り返る。
 そうか、これは夢なのだ。夢から覚めなければ…。高沢は、父に向かって一歩足を踏み出した。
「高沢さん、駄目! それはお父さんじゃないんですよ! お父さんは三年前に死んだんでしょ? こっちに来てください」岩永が言う。
 それもそうだ。扉の向こうは死後の国に違いない。なるほど、どうりで扉の向こうに見える白い壁も陰気に見えるわけだ。高沢は振り向き、岩永に向かって数歩進んだ。
「敏彦! わしはお前に言わなければならん。わしは…」父の声は、そこで途切れた。高沢は振り返る。
「高沢さん、こっちですよ」背後からは岩永の声。
「敏彦、わしは…」父は床を見ながら言葉につまった。いかつかった体が、ずいぶんとしょぼくれて見える。それは死の間際、ガンのせいで痩せこけた父の姿だった。大きく力強かった父の面影は、もはやどこにもない。父はうつむいたまま、小さく息を吐き出した。
「父さん…」高沢の足が、父のほうに向いた。
「高沢さん!」背後からは岩永の声。
「…ここから出て、終わりにしろ」父は言った。「出れば、病室だ」
 病室?
 高沢は父が立つ扉の向こうに目を凝らした。陰欝な白い壁と、点滴が見える……。
 既視感。
 目覚め、そして病室。そして砂田の顔をしたドーデの出迎えか? それとも岩永の出迎えか? そんな繰り返しはもう御免だ。
「いやだ!」高沢は父から逃げるように背を向け、岩永が手招きしている扉、美しい緑にあふれた風景に向かって歩きだした。
「敏彦!」父の声。高沢は振り返らない。
「早く、高沢さん」岩永の笑顔。
「違う、違うぞ! 敏彦っ! そっちは違う!」父の絶叫。高沢は振り返りたい欲求に駆られた。
「高沢さん!」岩永の丸い顔に浮かんだ笑顔が、とても可愛い。これまでは気付かなかったことだ。
 緑に覆われた風景は、もう目の前だった。
「敏彦! いかん!」父の悲痛な声。
 高沢は目を閉じて父の声を意識の外に押し出し、早足で一気に進んだ。扉を抜けた瞬間は、目を閉じていてもわかった。父の声が消え、かわりに川のせせらぎと小鳥の声が聞こえた。降り注ぐ陽光が、体にじわりと熱を染み込ませていくのがわかる。
 ああ、気持ちいい……。
「高沢さん!」緊迫した岩永の声がする。
 彼はその声で眠りから覚めた。
 眠っていた?
 今のはすべて、夢?
 横になったまま目を開けると、まぶしい太陽の光が突き刺さってくる。まだ頭の中が混乱していた。彼は歩いて電車の外に出たはずだったが、今は横たわっている。電車も、車窓の風景も、父も、すべてが夢だったのだろうか?
「高沢さん、はやく起きて!」
 首をめぐらせると、岩永が彼に背中を向けて身構えているのが見えた。彼女の向こうからは、ゆっくりと油断なく近寄ってくる黒装束の男たちの姿がある。
 岩永が手を振ると、その指先から紅蓮の炎がほとばしった。黒装束の一人が、その炎に包まれて悲鳴を上げる。タンパク質の焦げる胸のむかつくにおいが高沢の鼻をついた。が、その間にも別の黒装束がナイフを振り上げて岩永に襲いかかる。
 高沢は、自分が選択を誤ったことに気づいた。
 彼は慌てて目を閉じ、そして念じた。現実の世界を思い出せ。夢は、これでおしまいにしろ。俺はゲームの世界に閉じ込められているのだ。ヴァーチャル・ステーションのコントローラも、ヘッドセットも、投げ捨てるんだ。そして、帰ろう…。
 しかし、目を開けた高沢を待ちうけていたのは、色彩豊かな美しい世界と小柄な岩永、そして接近してくる黒装束の男たちの姿だった。高沢自身が創作した、ただ美しいだけの軽薄な世界。そして、やはり高沢自身が創作した、陳腐な物語……。
 畜生、畜生、畜生、畜生!
 高沢は苛立って地面を叩いた。丈の低い雑草で緑色に覆われていたが、地面はとても固く、手には鈍い痛みが残る。
 と、雑草の緑の間でキラリと光るものが見えた。高沢はそれに手をのばし、拾い上げた。それは銀色のオイルライターで、なめらかな表面には大きなへこみがある。
 まぎれもない、父のライターだ。
 どういうことだ? なぜこれがここに? たしかこれは会社の近くの路上で拾って……違う、それ以前に実家の仏壇に父の位牌と一緒に置いてあったものなのだ。こんなところに落ちていることなど、ありえない。
「高沢さん、助けて!」
 岩永の悲鳴に近い声が、彼の意識を眼前の光景に引き戻した。岩永が、黒装束に囲まれそうになっている。
 高沢は起き上がり、岩永に向かってナイフを振るう黒装束に素早く接近すると、その顔面に拳を突き出した。黒装束は仰向けに倒れる。
 …そうさ、わかってる。
 岩永の指が再び火を吹く。新たな犠牲者が絶叫しながら倒れる。悪臭。
 …もう、わかった。
 黒装束の中でも一番体格のいい男が、岩永の身長ほどもある巨大な剣を振りかざして高沢に接近してきた。
 …ここは狂ったゲームの世界。登場人物が現実の人物と重なったり、あるはずもない物が落ちていたりするが、結局は高沢が作ったゲームでしかない。黒装束の連中は邪教集団「ゾルティ」の殺し屋で、アキナスとヘスティアの探索を阻止しようとしているのだ…。
 黒装束が突き出してきた剣が、高沢の脇腹をかすめた。鋭い痛みが走る。
 …違う! これはゲームだ。痛いと感じているのは錯覚で、実際にはどうってことはないのだ!
 次の一撃は空振り。しかし、先ほど殴り飛ばした男が、高沢を後ろから羽交い締めにした。前方から剣の切っ先が接近してくる。
 刺さったら痛そうだな。でも、これはゲームだ。だから、怖くない。これは、ゲームなんだ…。
 瞬間、高沢はひらめいた。ゲームの主人公は記憶を失った魔法使いで、その主人公であるアキナスは高沢自身である。ということは、高沢は魔法を使えるのだ。
 高沢は、鋭い刃をイメージした。彼がその魔法につけた名前は「ブレード」。真空の刃で敵を切り裂く魔法だ。
 高沢の目には、大男に飛んでいく透明な刃が見えた。刃は大男の胸に当たり、そこからは鮮血が勢いよく噴き出した。その熱い血が、高沢の体にかかる。少し遅れて巨大な剣が高沢の肩を貫き、高沢を羽交い締めにしていた男も軽々と貫いた。
 …そうさ。これでいい。ゲームはこういう展開なんだ。これで、残りの雑魚を片付けたヘスティアがアキナスのところに来て言うんだ。「大丈夫?」するとアキナスは答える。「ああ」「魔法、思い出したのね?」「わからない。もう一度やれと言われてできるかどうか……」肩の傷だって、たいしたことはない。ゲームの中ではどうでもいい要素だ。魔法さえあれば、傷などはちょちょいのちょいと治せる。
 黒装束の一団は、二人を残して全滅した。残った二人は逃げて行く。岩永の顔をしたヘスティアが近づいてきた。彼女は返り血を浴びておらず、傷も負ってはいない。しかし少し疲れた様子で、体からは焦げ臭いにおいが漂ってきた。
「高沢さん」彼女は言った。
「違うだろ。お前のセリフは『大丈夫?』だ」肩の痛みに苛立ちながら、高沢は言った。
 ヘスティアは、岩永の顔に怪訝そうな表情を浮かべて見せた。
「よく聞け。これはゲームだ。お前は俺の書いたシナリオ通りに動いていればいい」
「高沢さん、どうしたっていうんです?」
「畜生…」高沢は毒づいた。
 現実の人間と、ゲームの筋。現実と虚構とが、交錯している。この狂った世界には、もう、うんざりだった。
 この狂った世界から抜け出すには、いったいどうすればいいのだろうか? 念じたり思ったりするだけでは現実に戻れないことは、すでにわかっている。だとしたら……。
 ゲームを、終わらせるのだ。
 この方法しかない。ゲームが終われば、ゲームの世界も終わる。ゲームを最後の最後までやり遂げて終了してしまえば、解放されるはずだ……。確信はないが、それ以外に目的らしい目的を見つけることもできそうにない。
 しかし、ゲームの途中で死んでしまったら?
 その不快な想像は、高沢の気分を暗くした。どうなるかは想像もつかない。『ラスト・ソーサラー』にはレジューム機能がついていて、死んだ場合には死ぬ直前の場面に戻るように作られていたはずである。しかし、この機能が働いて死ぬ以前のシーンに戻るだけならば問題ないが、本当に死んでしまうかも知れない気がする。
 この肩の傷の痛み。そして、ナイフで背中を刺された時の痛み。どちらもリアルな激痛だった。死ぬような重傷を負った時の苦痛に、彼は正気を保っていられるのだろうか?
「痛い? 今、傷を手当てをしてあげるから…」岩永が、高沢の肩に右手をかざした。彼女の手から淡い光が出て、高沢の傷を癒していく。光は、とてもあたたかく感じられた。
 高沢は恐怖を飲み込んだ。ゲームの物語を作ったのは、高沢自身なのだ。彼はこれからどういう事件が起こるかを知っているし、それにどう対処すればいいかも知っている。加えて、途中でアキナスが死ぬ可能性は低い。ゲームを作った高沢自身が、そうなるようにゲームバランスを調節したのだ。唯一死ぬ可能性が高いのは、最後の大ボスと戦う場面だけだった。
 高沢は大きく息を吐き出し、緊張のために知らず知らずのうちに握り締めていた拳を、ゆっくりと開いた。右手の中には、先ほどのライターがある。その銀色のライターを見つめるうちに、高沢の心は決まった。
 あたたかい光が傷に染み込んでいき、肩の痛みが消えた。
「はい、おしまい」岩永が言って、高沢の肩をぽんと叩く。「高沢さん、動かしてみてください」
「行くぞ」高沢は彼女の言葉を無視してライターをポケットにしまいこむと、彼女の手を振り払って言った。「次はパスバの町だ」
「待ってください、高沢さん!」岩永が驚きの表情を浮かべる。「どうしたんですか?」
「答えろ。パスバの町はどっちだ?」彼は再び岩永の声を無視し、彼女を詰問した。
 彼女は高沢の剣幕に圧倒された様子で、おそるおそる平原の彼方を指差した。
 高沢は、岩永が指差した方向に向かって大股で歩きだす。パスバの町は、ゲームの中で重要なイベントが起こる場所だった。
 後ろから、岩永が追ってくる足音が聞こえる。
 色彩が豊かで美しいだけの、現実感がまったく欠如した風景のどこかでは、小鳥がさえずっていた。

     六
「パスバの町よ」岩永の顔をしたヘスティアが、いつの間にか手にしていた杖で前方を指し示した。
 高沢はその言葉を聞きながら、自分が作った設定を思い出していた。パスバは西部辺境の入り口に存在する町で、より西方に散在する鉱山労働者の町に物資を輸送する中継地としての役割を担っている。三年前に終結したセローザ王国の王位継承戦争では、鉱山資源を求める両軍が激しくぶつかった場所でもあった。
「見覚え、ないの?」岩永/ヘスティアは高沢の顔をのぞき込んだ。
 いいぞ、その調子だ。
 高沢は思った。彼女はゲームの内容に忠実に動き、言葉を発するようになっている。そして、高沢もまた、アキナスの役割を演じきることに専念しようとしていた。
「よく憶えてない」高沢はアキナスの真似をして、穏やかな口調で言った。
「でも、パスバの町って言ったのは高沢さんよ」ヘスティアは言う。
 …これはヘスティアのセリフではない。高沢はあえて彼女のセリフを無視した。
「見て、何か様子が変じゃない?」ヘスティアが言う。
 確かに、町の様子はおかしい。しかし、高沢の作った話ではそうなっていて当然なのだ。そうでなくては、パスバまで来た意味がない。
 耳を澄ますと、遠目に見えるパスバの町から穏やかならぬ喧噪が聞こえてくる。きらめく閃光。そして黒煙。
「襲撃されてるんだ」高沢は言い、二人は同時に町へ向かって走り出した。
 しかし、二人が町へ入った時には、すでに襲撃は終わった後だった。破壊された石造りの建物。その影でくすぶる炎。路上に転がる死体。死体にすがって泣く人。そこには、血のにおいと焦げ臭いにおいがあふれていた。
 路上に転がって傷の苦痛にうめく人に、ヘスティアが走り寄る。そう、彼女はここで治療を行うのだ。そしてその間にアキナスは一人で町を歩き回らなければならない。まだ治療の魔法を思い出していないアキナスには、治療の手伝いができないのだ。彼はこの町を歩き回った挙げ句に、ひとつの記憶を見つけることになっていた。
 高沢は、路上に転がる死体を見ながら歩いた。胴体から首が切り離された男の死体。信じ難いほど大量の血が飛び散っており、切り離された男の首は見えない何かをにらみながら硬直している。その二度と動くことのない顔には、恐怖の表情が張り付いていた。地面にこびりついた赤黒い血が、高沢の目に焼き付く。彼は胸がむかつくのを感じながら、先を急いだ。
 剣で胸を貫かれ、地面に縫い付けられている兵士の死体。王位継承戦争後、パスバの町の守備に残されていた兵団のひとりだろうか。高沢はその兵士の姿を見て、小学生の時にやった夏休みの自由研究を思い出した。昆虫採集。ピンで留められた「標本」。腐らないように防腐剤を注射して…。その連想で、また気分が悪くなる。高沢は兵士の死体をなるべく見ないようにしながら、その場所を通り過ぎた。
 と、弱々しい、しかし聞き覚えのある男の声が彼の耳に届いた。
「おい…」
 高沢はその声に振り向いた。通りの脇、石造りの建物の外壁にもたれるようにして、一人の年老いた男が倒れている。男は左手で腹を抑さえていたが、その指の間からは、赤黒い血がこびりついた、何か柔らかそうなものがはみ出していた。一見して、それが腸であることは容易に想像できた。
「…お前が…殺したんだ……」その年配の男は言った。「…お前のこのいまいましいゲームが、ここの住人たちを殺したんだ。…この……人殺しめ…」
 男の顔には、見覚えがある。しかし、自分に呪いの言葉を吐いている男が誰なのか、高沢にはとっさに思い出せなかった。ただ確かなことは、この男の言葉がゲームの筋から明らかにはずれていることである。男は「このゲーム」と言った。間違いない、男は本来ゲームの世界にいるはずのない人物で、これがゲームだということを知っているのだ。もしかすると、この世界から抜け出す方法を知っているかも知れない…。
「あなたは?」高沢は恐る恐る尋ねた。
「…俺の顔を忘れるとは……」
 高沢は、男の顔をまじまじと見つめた。白髪、広い額、深い皺、細い目、大きな鼻、薄い唇……。見覚えがないと言えば嘘になる。しかしその印象は希薄で、どこで見た顔なのかをはっきりと思い出すことはできなかった。
「憐れな奴だ…」男は言い、微笑んだ。と、その顔がゆっくりと若返っていく。深い皺は消え、肌に張りがでてくる。白髪は黒くなっていき、広い額には黒髪が生える……。
 そして、男の顔の変化は止まった。
 若返った男の顔は、高沢敏彦自身の顔だった。
「馬鹿な…」高沢は思わずつぶやいた。「そんなはずは……」
「お前は死ぬ。死んですべてが終わる」
「やめろ!」高沢は叫んだ。
「お前は逃げられない。これは、宿命だ」
「全部嘘だ! これはゲームなんだ! これは…」高沢は言葉に詰まって空を仰ぎ、そしてゆっくりと視線を戻した。しかし、いつの間に入れ換わったのか、高沢自身にそっくりの顔をした男の姿は消えていて、代わりに腹を裂かれて死んだ少年の姿があった。
 少年の首には、鳥をあしらった飾りのついたネックレスがかかっている。
 高沢は、ゲームの筋を思い出した。
 その簡素なネックレスは、以前アキナスがこの町を訪れた時、幸運のお守りにと少年に与えたものだった。アキナスはここでネックレスを手に入れ、記憶の一部を取り戻すのだ。
 そう、このネックレスは、手に入れなければならない。高沢は、少年の首からネックレスをはずすために手をのばした。
 が、その手は途中で止まった。
 少年の顔に、見覚えがあるのだ。いや、見覚えどころの話ではない。それは、あまりにもよく知っている顔だった。
 高沢のアルバムに貼られた写真に、何度も登場する顔……幼い日の高沢敏彦。
 いや、違う。似ているだけだ!
 自分自身にそう言い聞かせながらも、高沢は「自分」の死体に近づくことに激しい抵抗を感じていた。しかし、ここで少年の首からネックレスをはずさなければ、ゲームの物語は進行しない。だから、何が何でもネックレスを手に入れなければならない……。高沢は顔をそむけながら、幼い自分の死体からネックレスをはずすために手をのばした。震える指先が冷たい頬に触れ、彼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 冷たい死体の皮膚の感触に耐えながらネックレスをつかむと、高沢はがむしゃらにネックレスを引っ張った。壁にもたれていた死体はバランスを失って倒れ、ネックレスはちぎれて高沢の手に残る。高沢はすぐに逃げるようにして死体から離れ、歩きだした。
 凄惨を極める破壊された町の中を歩きながら、高沢はすべてを否定し続ける。
 これはゲーム。これはゲームなんだ。あれは自分の幼い頃の姿なんかじゃない。あれはコンピュータ・グラフィックス。街も、人も、このネックレスだって……。
 高沢は手の中にあったネックレスを見て、その場に凍り付いた。ネックレスには、取る時にひっかかって抜けたらしい少年の髪の毛が数本付いていたのだ。それに、赤黒い血で汚れてもいた。
「嘘だ!」高沢は叫び、ネックレスを地面に叩きつけた。小さな鳥の形をした金属製の飾りが、ネックレスからはずれてキラキラと金色に輝きながら弾んだ。
 高沢は自分の手を見た。手には少年の血。
「嘘だぁっ!」彼はもう一度叫びながら地面に膝をつき、血のついた手を土にこすりつけた。と同時に、彼の胃の中身が逆流してきた。喉の奥に焼けるような刺激。酸味と苦味。そして糸を引きながら地面に落ちる、唾液と胃液の混合物。
 嘘だ…。
 嘔吐の苦しさに、涙があふれ出てくる。彼は何度も繰り返し吐きながら、心の中で叫び続けた。これはゲームなんだ。ゲームではアキナスは吐いたりしない。全部嘘。ゲームにあるのは視覚と聴覚の刺激だけで、胃液の味も、焼け焦げたにおいも、刺された痛みも、全部虚構なのだ。
 これは、嘘なんだ!
 彼は涙を流しながら、いつまでも吐き続けた。
 彼の吐き気がようやく落ち着いた頃には、町のあちこちに飛び散った血はすでに乾ききっていた。彼は汚れた口を袖で拭いながら、ヘスティアの姿を探して歩いた。
 彼女は町のはずれで、ぼんやりと立っていた。怪我人の治療のために魔法をかなり使った様子で、その表情には疲労の色が濃く見られた。
「アキナス」彼女は彼に気付いて言った。「どうしたの? ひどい顔よ」
「君だって、人のことは言えないよ」
 ヘスティアは黙ったまま微笑んだ。
「僕は、巡礼の旅の途中でこの町に来たことがある。その時、一人の孤児と仲良くなった。彼に幸運が訪れるようにと、僕は持っていたネックレスに幸運のまじないをかけて渡したんだ。でも、まじないの効き目はなかったよ…」
 ヘスティアは驚いた様子で彼の顔を見、そしてすぐに表情を曇らせた。
「その子、死んだのね?」
「襲ってきた連中について、町の人たちは何か言ってたか?」
「仇を討つつもりなのね?」ヘスティアは苦笑しながら言った。「ほっとしたわ。だんだん本当のアキナスっぽくなってきた」
「そんなことはどうでもいい」アキナスはきっぱりと言った。「情報を」
「襲ってきたのは二十人くらいの集団で、略奪が目的だったみたいね。家畜と物資、それに若い娘さんも何人かさらわれたらしいわ。魔法使いがひとり混ざっていたという話だから、その魔法使いが略奪を指揮していたんでしょうね。たぶん、反乱軍の残党……」ヘスティアはそこで言葉を切った。
「どうした? 反乱軍って、何?」
「やっぱり、何も憶えていないのね」ヘスティアは悲しさと安堵とがないまぜになった、なんとも複雑な表情を見せた。「憶えていないなら、気にしないで」
「この調子なら、いつか思い出すことになる。どんなことでもいいから、教えてくれ」
「……でも…」
「頼む」アキナスは断固とした口調で言った。
「…三年前に王位継承戦争を戦ったのが、今の国王の軍と反乱軍なのよ」ヘスティアはアキナスから顔をそむけ、感情を押し殺した声で言った。「今の国王は私の父。負けて死んだ反乱軍の首領は、アキナス、あなたのお父さんよ」
 アキナスは顔をしかめただけで、何も言わなかった。
「私たち、ずっと兄妹のように育ってきたのに、あなたは反逆者の息子ということで追放されたわ。あなたは魔法使いの称号を剥奪されて、二度と魔術師会議には出席できなくなった。だから、今ではすっかりすたれてしまった魔術師巡礼の旅を、ひとりで続けていたのよ。人々に幸運のおまじないをかける代わりに食事と宿を提供してもらう、あてのない放浪の旅を……」言いながら、ヘスティアは悲しげに目を伏せた。
「僕のことで、そんなに辛そうな顔をしないでくれ。どのみち、話を聞いても実感はないんだから」彼は言いながら、何か違和感を感じていた。この違和感は? 前にも感じた違和感だ。体験済みの違和感。同じ感覚。同じことの繰り返し…。
 彼は、我に返った。
 父は反逆者なんかじゃない。父は農業をやっていた。三年前に肺ガンで死んだ。継承戦争なんて関係ない…。
 畜生!
 高沢はアキナスの意識を締め出す。アキナスを演じようとは思ったが、アキナスになりきってしまうのは危険すぎる。
「アキナス…」高沢の表情が険しくなったのを見て、岩永の顔をしたヘスティアが心配そうに言った。「また何か思い出したの? 大丈夫?」
「なんでもない…」彼は、自分に言い聞かせるように言った。高沢と呼ばれるよりは、アキナスと呼ばれたほうがいい。そのほうが本来のゲームには忠実なのだから。大切なのは、彼自身がアキナスではなく高沢であることを忘れないようにすることだ。
 俺は高沢敏彦。今、自分の作ったゲームをやっている。
「で、連中は、どっちから来たって?」高沢は尋ねた。
「西」ヘスティアは静かに言った。「廃坑を根城にしてるんじゃないかって」
「よし」高沢はヘスティアの肩を軽く叩いた。「行こう」
 こうして、二人はパスバの町を出て、西へと向かった。赤みを増した太陽は、二人の正面からまぶしい光を投げかけている。それほど時間が経たないうちに、太陽は彼方にそびえる峰の向こうに姿を消してしまいそうだった。
 高沢は口の中にこびりついた胃液の味をどうにかしたかったが、ゲームにない行動はしたくなかった。しかし、考えてみればゲームには日没もなかったはずだ。やはり、どこかでゲームは狂っているのだ。口をゆすぐくらい、来ないはずの夜が来ようとしていることに比べたら、たいしたことはないような気がする。
 どこかで水を見かけたら口をゆすごう、と高沢は考えながら、沈みゆく太陽に向かって歩き続けた。
 起伏が多くなり、木々の姿が目立つようになってきたところで、二人は足を止めた。すでに日没からずいぶんと時間が経っている。二人は薪に使えそうな木切れを拾い、ヘスティアが魔法で火をつけた。
(簡単なものだ)
 そして、焚き火を挟んで二人は干し肉と乾燥豆という食事をした。
(食事? そんな要素もゲームにはなかったはずだ)
 食事の後は、背負っていた袋から薄っぺらの毛布を出す。
(いつの間に袋なんか背負ってたんだろう?)
 二人はそれぞれの毛布を肩にかけて、焚き火の炎を挟んで向かい合うように座った。歩き通しだったせいか、土踏まずのあたりが痛い。
「ねえ、怖くない?」ヘスティアがつぶやくように言った。
「何が?」反射的にそう言ってから、高沢は失敗したと思った。こんな会話はゲームには存在しないのだ。
 彼は落ち着かない気持ちで、自分の足元に視線を落とした。いつの間にか、高沢は薄汚れた布製の靴のようなものを履いている。靴というよりも足袋に革製の靴底をつけたようなもので、奇妙な履き心地だった。それに薄汚れた布製のズボン、薄汚れたシャツの上には革製のベストを着ている。一方のヘスティアは、こちらもあまり清潔とは呼べないような褐色のワンピースを着ている。ワンピースは長い筒状の布に袖をつけたようなもので、腰の部分を紐でしぼっていた。彼女がいつも持ち歩いている木製の簡素な杖は、今は体の脇の地面に横たえられている。靴は高沢と同じようなものを履いていた。
 考えてみれば、この服装がゲーム本来の姿なのだ。いつの間にか変わっていたというのは気になるが、いよいよそれっぽくなってきた。
(気を付けろ……)
 頭の奥で何かが警告を発していた。もともとは夜もなく、食事もなく、疲労感もなかったのだ。ゲームにはそういう要素は存在しない。なのに、まるで現実の世界のようになってきたではないか。これは、ゲームの世界がリアリティを増しているということではないのか? だとすれば、現実の世界は遠ざかっているのでは?
 しかし、そうだとしても、何か対策をたてられる訳ではない。高沢に考えられる唯一の手段は、『ラスト・ソーサラー』を終わらせることだけだった。
「……ねえ、聞いてる?」ヘスティアが言っていた。
「ん?」高沢は思わず言った。そして後悔。本来は存在しないはずの会話だ。
「だから、自分が誰だかわからないと、何だか怖くない?」ヘスティアはちらりと高沢の表情をうかがい、焚き火に視線を落とした。「私も自分自身のことがよくわからない時があるわ。いくら相手が私たちを殺そうとする狂信者集団のゾルティでも、平気で人殺しをしている自分が怖いのよ。まあ、あなたの不安とは比べものにならないんでしょうけど…」
 高沢は答えなかった。しかし、そう言われて、自分の作った物語の平板さを指摘されたような気分がした。ヘスティアの人格設定。陽気で、優しい女魔法使い。そんな彼女が、人殺しなどするのだろうか? ゲームには生きるか死ぬかの戦いが存在しなければならない。それがゲームに緊張感を出すための手法なのだ。しかし、心優しい魔法使いのヘスティアに、いくら自分の安全を脅かす敵とは言っても、そう簡単に殺すような真似ができるのだろうか?
 しょせん、登場人物はただの道具に過ぎなかったのかも知れない…と、高沢は思った。すべては彼が作ろうとした世界を充足させるための道具であり、そこにはリアリティなど存在していない。しかし、ファンタジーであればこそ、実際にはリアリティのある手法で描かなければならないのだ。そうでなければ、作った本人しか感情移入のできない、ただの絵空事になってしまう。そのことを今、高沢は指摘されているのだ。
「……思い出さない?」ヘスティアは高沢からの返事がないために、無理に陽気な口調で話題を変えた。「小さい頃のこと。都のはずれに小さな林があって、よくキャンプごっこをやったのよね。ちょうど、今みたいな感じで。私の父と、あなたのお父さんが国王選挙に立候補する前の話。世の中がこんなふうになっちゃう前の、とても幸せだった頃の話…」ヘスティアの言葉から陽気さが消えていく。
 これも存在しないリアリティのひとつだ。そんなことがあったとは、アキナスやヘスティアを生み出した高沢本人ですら知らなかった。しかし、仮にも人間ならば、そういった思い出のひとつやふたつは必ず存在するはずなのだ。例えて言うなら、実家の自分の部屋にある天井の染みに怯えた記憶のような、そういうささいなものだ。人間は、ささいなものの積み重ねでできている。
 高沢は顔をしかめた。彼の手がけたゲームが、そこそこ売れこそしても、絶対に大ヒットしなかった理由がわかったような気がする。凡百のゲームの中の無個性なひとつ。しょせんは、ヒットしたものの模倣でしかなかったのだ。過去に爆発的な大ヒットとなったゲームに、その単なるコピーごときがかなうはずもない。
 ヘスティアは、高沢が顔をしかめたのは自分の質問のせいだと勘違いしたようだった。彼女はうつむいて、ごめん、と小声で言った。
 高沢は、黙っていた。
 薪が小さく鋭い音をたて、火の粉を舞い上がらせる。煙はゆっくりと空へのぼっていき、木々の間から見える夜空に吸い込まれていった。空には無数の星が輝いている。
 高沢は、子供の頃に田舎で見た満天の星空を思い出した。無数の星。息を飲むような美しさ…。星空は、記憶の底にある高沢の源風景とそっくり同じだった。
 どこかでフクロウが一声鳴いた。緑と土のにおいが強烈に鼻をついてくる。忘れかけていた故郷の記憶が、まざまざとよみがえってきた。遠くに過ぎ去った懐かしい日々への懐古の念が、胸に染み込んでくる。
 と、小さく鼻をすする音が聞こえた。
 高沢はヘスティアを見た。彼女は袖で顔を押さえている。ヘスティアは泣いているのだ。しかし、なぜ?
 高沢はどうしていいかわからず、ただ呆然としたまま彼女が泣く姿を眺めていた。
「……ごめんね…あなたの気持ちも考えないで……ひとりで馬鹿みたいにしゃべって、あなたを傷つけて…」彼女がとぎれとぎれに吐く言葉が、高沢の胸に突き刺さる。
 馬鹿な! この女は、そんなことで泣いているのか? 俺のために?
「傷ついてなんかいないよ」高沢はいたたまれなくなって言った。「頼むから泣かないでくれ」
 ヘスティアのすすり泣きは、激しい鳴咽に変わった。
 畜生、こんなことはあってはならないのだ。ゲーム。すべて虚構。彼女がここで泣こうがわめこうが、そんなものは…。
 だからといって、高沢には泣いている彼女を無視することなどできなかった。
 焚き火の向こうで体を震わせている女。その姿は小さく、非力だった。しかも、それは知らない女ではない。一緒に仕事をしてきた仲間というだけでなく、以前から好感を抱いていた、岩永めぐみなのである。いや、中身は違う。中身はゲームの登場人物。心を動かされてはいけない。たとえ岩永の外見をしていても、実際は違うのだ。
 高沢の頭の中で、現実と空想が交錯した。高沢はアキナスの役を演じなければならない。アキナスは、泣いているヘスティアを放置できないだろう。しかし、実際に泣いているのは岩永で、その岩永の姿に心を動かされているのは、高沢なのだ。
 高沢は立ち上がり、彼女に近づき、脇に腰を下ろした。そして、そっと肩を抱く。彼女は高沢にすがりつき、顔を彼の胸にうずめて声を出して泣いた。高沢は彼女の小さな体をしっかりと抱き、右手で彼女の髪を撫でた。
 彼の鼻に、彼女の香りが届く。女の体臭、男の理性を失わせるものだ。徐々に、高沢の股間が緊張していく。
 こらえなければならない。アキナスとヘスティアは肉体関係をもってはならないのだ。それが、本来あるべきゲームの筋だ。
 しかし、高沢はその理性の声が遠のいていくのを、漠然と感じていた。
 彼は、彼女を押し倒すような格好で地面に横たわった。彼女は、驚きの表情で彼を見上げている。高沢は彼女の顔を両手で包むように触れ、頬を濡らしている涙を親指で拭った。
 彼女は目を閉じる。
 高沢は彼女の唇に自分の唇を重ね、手でゆっくりと彼女の体をまさぐった。やわらかく、弾力のある彼女の唇を吸いながら、高沢はすべてを体の奥から湧き上がってくる衝動にまかせた。彼の右手が、彼女の張りのある乳房を着衣の上からもみしだく。
 そして、高沢は固くなった股間を、彼女のやわらかな腿に押しつけた。
 彼女は唇を離し、その唇から熱い吐息を吐くことで、彼に応えた。

     七
 情交の後の浅い眠りの中で、高沢は父の姿を見た。
 父は暗闇に立ち、口にくわえた両切りのピースに火をつけた。火は暗闇の中で揺れ、ライターは銀色の光を放っていた。父は何も言わず、地面の上に火のついたままのライターを置くと、そのまま背中を向けて闇の中へと消えていった。父を追いかけようとした瞬間に目を覚ました高沢のかたわらには、その父のライターが夢で見たとおりに、火がついたまま置いてあった。
 彼の右腕を枕がわりにして眠る女の静かな寝息を聞きながら、高沢はライターを拾い上げる。ともされたままの炎によって熱くなったライターは、まるで高沢を鼓舞しているように感じた。
 大丈夫だ…きっとできる……がんばれば、こんな場所から抜け出すこともできるさ……。
 ライターの蓋を閉じると、パチン、という音とともに炎が消えて、辺りは闇に包まれた。高沢は、ゆっくりと熱を失っていくライターを握り締めたまま、いつまでも目を開けていた。
 翌日、夜明けとともに起き出した二人は、木立の中をさらに西へ歩き続ける。昼過ぎ頃まで歩きつづけたところで、高沢は目的地に到着した気づいて、立ち止まった。大きな木の下に立った高沢は、手を上げて後ろから来るヘスティアの注意をうながす。そして、前方を指差して見せた。
 木陰から見ることができたのは三人の男の姿と、岩でごつごつした斜面にぽっかりと口を開けた、四角い穴だった。穴の入り口は木の柱で支えられており、その入り口付近では三人の男が腰を下ろして、何やら談笑している。三人のかたわらには、それぞれの持ちものらしい剣がひと振りずつ置いてあった。
「どうするの?」高沢に並んだヘスティアが小声で言う。「仲間を呼ばれたら面倒よ」
「三人を同時に片付けるのは難しい」高沢も小声で言い返した。「何か作戦を考えよう」
 高沢は気分が悪くなってきた。今、二人は殺人の打ち合わせをしている。パスバの町で殺された少年の仇討ちという名目の、殺人。できればやりたくなかったが、ここを通り抜けなければ、ゲームの終わりまでたどり着くことはできないのだ。
「僕がおとりになろう」高沢は記憶を頼りに、アキナスのセリフを続けた。「とりあえず、僕があの三人を入り口から遠ざける。あとは君の魔法で何とかしてくれ」
「簡単に言ってくれるわね」ヘスティアは苦笑した。
 高沢は彼女の苦笑に微笑を返しながら、背負っていた荷物を地面に下ろし、反対側に回り込もうと足を踏み出した。と、彼の手をヘスティアがつかむ。
「どうした?」違う、これはアキナスのセリフじゃない。
「気を付けて」ヘスティアはそう言うと、高沢の唇に軽く自分の唇を押し当てる。
 高沢は何も言わず、体を離してヘスティアの手をほどいた。そして彼女に背を向け、忍び足で歩く。
 彼はまずいったん後退し、それから左に動いた。ヘスティアの姿が見えなくなったところで、今度は思いきり音をたてながら前進した。憔悴しきった男を演技しながら、ところどころで木の幹に手をついて息を整えるふりをする。視野の隅で、廃坑の入り口を見張っていた三人の男が、剣を手にして立ち上がるのが見えた。
 高沢はよろよろとした足取りで三人がよく見える位置まで進み、そして倒れた。うつ伏せに倒れた高沢の耳に、近寄って来る男たちの足音が聞こえる。
「……何か…食べ物を…」高沢は顔を近寄って来る男たちのほうに向け、わざとかすれた声で言った。
 高沢のところに歩いてくるのは二人で、残る一人は廃坑の入り口の前に立っている。
「ぐっ」その入り口付近に残っていた一人が、くぐもった声を出して体をふたつに折り曲げた。男は倒れて、そのまま動かなくなる。ヘスティアがブレードの魔法を放ったのだ。
 高沢に近づいていた二人が、物音に気付いて振り返った。高沢はその隙を見逃さず、半身を起こして意識を集中した。真空の刃のイメージ。ブレードの魔法……。
 真空の刃は一直線に飛び、男の背中を切り裂いた。
「あうっ」男はのけぞりながら倒れた。
 最後に残った一人は、振り向いて自分が孤立したことを悟ったようだった。そして、怯えの表情を浮かべながら、仲間に助けを求めるべく大声を出そうとした。
 高沢は再度真空の刃をイメージしようとしたが、時間が足りなかった。
 間に合わない。仲間を呼ばれる――。
 そう思った瞬間、男は短く声を上げ、首筋を押さえた。鮮血が指の間からほとばしる。ヘスティアの二発目の魔法が間に合ったのだ。
 男は恨めしそうな表情で高沢を見つめながら、倒れた。
 男は死んでも、高沢を凝視し続けている。嫌な目つきだった。気分が悪くなる…。
 高沢は立ち上がりながら、死んだ男を見た。ここで、アキナスは剣を手にしなければならない。優秀な魔法使いでもあり、同時に優秀な剣士でもあるアキナスの記憶が、ここでまた一部だけ戻ってくるのだ。
 高沢は死んだ男の手から剣を取りあげた。男の凝視。朝食に食べた干し肉が食道を逆流してきそうになる。彼は必死になって、その逆流をこらえた。
 死んだ男は二十代後半くらいに見える。不精髭を生やしていて、細い目と大きな鼻、そして薄い唇をしていた。
 それは、彼がよく知っている顔だった。
 高沢敏彦の顔…。
 朝食が一気に逆流して口の中を満たした。胃液が喉の奥を焼く。高沢は目を閉じ、剣を手にしたまま男の死体から離れた。そして苦労しながら、口の中にたまった消化しかけの朝食を飲みくだす。口の中に残った肉のかけらを吐き捨て、にじみ出してきた涙を拭いた。
 ヘスティアが近づいてくる。
「行こう」彼は言い、廃坑に向かって歩いた。
 一歩足を踏み入れると、廃坑の内部は意外に明るいことがわかった。等間隔にたいまつが架けられており、炎が揺れている。空気はひんやりとしており、どことなく湿っていた。
 たいまつの列が作り出している道に従って、二人は奥へと進む。
 正面から女の悲鳴が聞こえてきた。さらわれた女たちが乱暴されているに違いない。二人の足は、自然と速まった。
 少し進むとたいまつの通路は終わり、その奥には開けた空間があった。女の泣き声と、男たちの下品な笑い声が聞こえてくる。彼はそこをちらりとのぞき、様子を確認した。
 その広い空間は、数個のランプに照らし出されていた。広さは十五メートル四方くらい。左側には奥へと続く通路が口を開けている。男たちは思い思いの場所で、縛られて抵抗できない女たちを犯していた。女は五人。男の人数が多いため、女一人に男が三人くらいずつ群がっている。
「ひどい……」ヘスティアが強姦の現場から目をそむけながら言った。
「見張りが仲間を呼ぶのを怖れる必要はなかったな」彼は押し殺した声でつぶやく。「この騒ぎじゃ、外から呼んでも聞こえやしない」
 そう言いながら、彼は注意深く観察していた。武器は右側の壁に並べて立てかけてある。右側から攻めれば、武器を持った敵を相手にせずに済むはずだ。問題は、この一団の指揮をしているらしい魔法使いがどこにいるかだった。パスバの町の破壊の具合から判断して、かなり強い力を持った魔法使いと見て間違いない。しかし、頭領が下っ端と一緒になって女を犯すのは考えにくい。ということは、頭領は左の通路の奥いると考えるのが妥当だ。
 武器を奪うか? 頭領と下っ端の分断を図るか?
 頭領のいる通路に背を向けて戦うのはぞっとしない。武器側から攻めて、全員を通路の奥に追い詰めるのが良さそうだ……。
 アキナスは決断した。
「ヘスティア、援護を頼む。左の通路に敵を追い詰める」
 ヘスティアは硬い表情でうなずき、緊張のために乾いた唇をゆっくりとなめた。
 アキナスはヘスティアの肩を軽く叩き、すぐさま剣を手にして勢いよく突進した。最初の目標は、右のほうで女を犯している三人。背中を向けていた男の背骨を剣で叩き砕くと、残る二人は一様に驚愕の表情を浮かべた。続いて、まだ女の体に挿入したままの男の頭に剣を振り下ろす。剣は男の鼻のあたりまで食い込んで止まった。
 アキナスの足元で、犯されていた女が血を浴び、絶叫した。
 残る一人は武器のほうに走ろうとしていたが、アキナスはその足に切りつけ、男が転倒したところを串刺しにした。彼はそのまま剣を男の体に残し、岩壁に立てかけられている剣を取り上げて振り向く。
 しかし、この時点で異変に気付いたのは半数ほどで、残る半数はまだ女に気をとられている。
「敵だ!」誰かが怒鳴ったが、その時にはアキナスは次の標的に向かって突進していた。
 彼の次の標的は、武器のある壁を背にして右側にいた四人。四人とも一斉に逃げ出したが、ズボンが膝までおりたままの男が一人だけ逃げ遅れた。アキナスはその男の腹を切り裂いた。鮮血が飛び散り、アキナスの腕にかかった。
 血。
 パッと炎が吹きあがる。ヘスティアが援護の魔法を使ったのだ。その魔法の炎で、武器のほうに走っていた数人が炎に包まれて絶叫した。アキナスは逃げ惑う盗賊たちを、一人また一人と倒していく。アキナスに殺された男たちの血が、アキナス自身に降り注ぐ。
 血。
 不思議な高揚感とともにアキナスは八人を殺し、ヘスティアは魔法で六人を殺した。奥の通路へ逃げ込んでいったのは、わずかに三人だけである。
 血。
 アキナスは自分の顔面に飛び散った敵の血を指で拭い、なめた。
 血!
 生臭い鉄の味。殺戮の味。体の奥底から沸き上がってくる力……。
「ヘスティア、来い!」アキナスは叫び、ヘスティアを待たずに通路へ飛び込んだ。
 この通路には、たいまつはなかった。暗闇と、通路の奥に見えるかすかな光だけである。
 イメージ。炎…すべてを焼き尽くす炎のイメージ。
 アキナスの魔法によって生み出された激しい炎が、通路を明るく照らしながら奥へと走り抜けていく。途中の物陰に潜んでいた男が炎に包まれ、身をよじりながら倒れた。
「もっとだ!」アキナスは再度イメージした。今度は、より激しい炎。
 そして彼は炎の後を追うように走り、一気に奥の部屋へと駆け込んだ。
 部屋にはランプがひとつ。怯えた表情の男が二人と、相応に落ち着きのある男が一人。落ち着きのある男が頭領の魔法使いだと見て間違いなかった。魔法使いは、手をかざしてアキナスに向けている。
「死ねぇっ!」アキナスは魔法使いめがけて突き進み、剣を薙ぎ払うように振るった。
 しかし、それよりも一瞬早く、魔法使いがアキナスに向かって術を放った。魔法はブレード。
 アキナスの剣は魔法使いの首を半分まで切り、骨に当たって止まった。一方、魔法使いの放った真空の刃は、アキナスの腹部に命中した。
 やられた!
 アキナスは切り裂かれた腹を抱え込みながらがっくりと膝をついた。首を半分切断された魔法使いの体から、熱い血がふりそそぐ。魔法使いはアキナスにたっぷりと血をふりかけてからゆっくりと倒れ、一度だけ体を大きく痙攣させた。
 アキナスはブレードを受けた腹部をおさえながら、魔法使いの絶命を確認した。不思議と、腹に痛みは感じなかった。ただ、下半身に力が入らない。
「畜生!」彼は叫びながら、完全に戦意を失っている最後の二人の盗賊に向かってブレードを放った。ブレード二発で二人は倒れ、すべてが沈黙した。
 遅れて駆け込んできたヘスティアが、アキナスの傷の手当てをする。癒しの力。あたたかく光る彼女の手。
 彼は治療の魔法をかけられながら、さらなる血を求めて目をぎょろつかせた。しかし、敵は全員死んだ。もういけにえとなるべき「敵」は存在しない。ゆっくりと、アキナスを包み込んでいた興奮が消えていく。
 そして次の瞬間、彼の感覚は突然に反転した。全身を濡らしている血のにおいは、甘美な香りから耐えがたい悪臭へと変わる。彼がある種の快感を感じながら殺してきた男たちの顔が、次々と脳裏によみがえってくる。なぜか、全員が同じ顔だったような気がしてきた。細い目、大きな鼻、薄い唇。見覚えのある顔。
 とても不快だ……。
 そうだ。彼が殺してきた盗賊たちの顔は、すべて高沢敏彦という人間の顔だったのだ。
 アキナスは、それが自分であることに気付いた。そう、アキナスは高沢なのだ。アキナスは何人もの自分を殺した…。
 高沢は殺戮の手ごたえを思い出し、耐えきれなくなって胃の中身をすべて吐き出した。そして、高沢は全身に付いた血のにおいをかいで、もう一度吐いた。
 ヘスティアが何かをささやきながら、繰り返し嘔吐する高沢の背中をさすっている。その彼女の手はまるで母の手のようだ、という漠然とした感慨にふけりながら、高沢は体からすべてが流れ出していくのを感じていた。
 もう、嫌だ。
 こんなこと、耐えられない……。
 高沢は吐きながら、泣いた。

     八
 父が立っていた。父は煙草をくわえており、銀色に輝くオイルライターで火をつけた。父はゆっくりと煙を吐き出しながら、火がついたままのライターを地面に置き、そして高沢に背を向けた。
 父の姿が消えた後も、ライターは燃え続ける。高沢はそのライターを拾い上げようするが、なぜかライターには手が届かなかった。次第に高沢は焦りを感じ、ライターに向かってがむしゃらに走り続ける。
 あと一歩、あと一センチ、あと一ミリで手が届く……。
 高沢は、そこで眠りから覚めた。
 目覚めてみると、高沢は白い清潔なシーツに覆われたベッドの上で横になっていた。彼は全裸で、その体には毛布が一枚だけ掛かっていた。その同じ毛布の下に、ヘスティアの裸体もあった。彼女は高沢に背を向け、静かな寝息をたてている。
 シーツのサラサラとした肌触りと毛布の柔らかな感触が、とても心地良い。手をのばせば、自分を受け入れてくれる女のすべやかな肌に触れることもできた。窓から入り込んでくる明るい日差しも、緑の薫りを含んだ風も、すべてが穏やかで彼の心を落ち着けてくれる。
 パスバの町に戻ってからすでに五日が経過していた。その間、高沢は何をする気にもなれず、気の向いた時に食事をし、女を抱き、眠るだけの生活を続けていた。二人は盗賊を退治して戻ったことで英雄扱いされ、町長の家に客として滞在していたのである。しかし、二人がいる町長の屋敷の客室には、無気力が蔓延していた。
 まず最初に、高沢が旅を続けることに意欲を感じなくなり、それがヘスティアにも伝染したのである。平穏なだけのだらけた時間が、無意味に経過していた。
 むろん、高沢はわかっていた。このままではゲームのエンディングまでたどり着けないだろうことは、火を見るよりも明らかなのだ。しかしこれから先、高沢が演じるべきアキナスは、まだまだ殺戮を繰り返さなければならなかった。このことは、物語を作った高沢自身がよく知っている。だが、これ以上の殺戮に高沢自身の精神が耐えられそうにないことにも、高沢は気付いていたのだった。
 もう、先へは進めない……。
 厳密に言えば、ゲームを進行させることは可能だった。その動機も、手段も、高沢にはあるのだ。しかし、高沢は怖れていた。廃坑での大虐殺。あの時、高沢は血に酔っていた。あのイベントをクリアしてゲームを終わりに近付けたかったのではなく、犯されていた女を助けたかったのでもなく、殺された少年の仇を討ちたかったのでもなく、ただ戦いたかったのだ。剣を振るい、相手が血を流しながら死んでいく姿を見て、それを楽しみたかったのだ。それは、純粋な暴力への渇望だった。
 剣が相手の骨を砕いた感覚は、まだ手に残っていた。その感覚とともに、背筋がぞくぞくするような興奮もよみがえってくる。そして、殺戮に興奮してしまった自分に対する、激しい嫌悪も。
 高沢はその思考から逃げ、意識を別のものにそらした。
 女。
 高沢は寝息をたてているヘスティアを見た。呼吸に合わせて、肩がゆっくりと上下している。左の肩甲骨のあたりには小さなほくろがあり、背骨に沿って腰のほうに向かって生えている産毛が見えた。
 待て。
 そのほくろの位置には見憶えがあった。高沢が知った初めての女。大学の時に付き合っていた女。一緒に旅行へ行った女……。
 なぜ彼女がここにいるのだ?
 彼女はヘスティアではないのか?
 高沢は、おそるおそる女の肩に触れた。女の肌のぬくもりと、すべるような肌触りが手を伝わってくる。
「……何よ…」女は甘くけだるい声を出した。
 高沢の手に力が入る。
「…どうしたの?」女は寝返りをうち、乱れた髪の向こうから高沢を見た。女は顔にかかっていた髪をかきあげ、けげんそうな表情を高沢に向ける。
 その顔は、眼鏡をはずした岩永めぐみのものだった。はずされた眼鏡は、ベッド脇の小さなテーブルの上にたたんで置いてある。
「何でもない。ちょっと、ね」高沢は安心して、微笑んだ。似た場所にほくろがある人間など、きっといくらでもいるのさ……。
 寝返った加減で、岩永の乳房が毛布の端から見えそうで見えない微妙な感じになっていた。思わず高沢は手をのばし、毛布に隠れた乳房に触れる。そのやわらかさと弾力の調和した丸みは、至福の感触だった。
「やだ、何してるのよ…」岩永が高沢の手をどかし、再び彼に背中を向けた。
 気持ちの収まらない高沢は彼女を背中から抱き、うなじに唇を這わせた。岩永はくすぐったそうに首をすくめる。その間に高沢の手はゆっくりと動き、彼女の胸から腹、そして腿に寄り道してから股間に到着した。
「…ん……」岩永の体が、ぴくりと反応する。
 と、ノックの音が部屋に響いた。
「アキナス様、失礼いたします」屋敷の使用人の声である。
 高沢は舌打ちをし、岩永は楽しそうにクスクスと笑った。
「お客様がお見えですが…」使用人は言った。「ビーナ様とおっしゃるご婦人と、ベケット様とおっしゃる男性ですが、いかがなさいますか?」
 ビーナとベケット? こんなところで登場するんだっけ?
 高沢は首を傾げている間に、部屋の外が騒がしくなった。
「どきなさいよ」女の声。
「いけません……あっ」使用人の悲鳴に続いて、何かの倒れる大きな音。
「悪ぃね、おっさん」男の声。
 そして、部屋の扉が開けられた。先頭に立って部屋へ入ってきたのは、すらりとした長身の女である。軽くウェーヴのかかった長い髪が揺れており、整った顔の中では切れ長の目が光っていた。社長秘書の小原映子だ。
「アキナス、こんなところで……」小原は高沢の隣に岩永が寝ているのを見て、驚きの表情を隠そうともせずに言葉を途切れさせた。
 彼女の後に続いて部屋に入ってきたのは、中肉中背でこれといった特徴のない若者である。しかし、彼の顔も高沢はよく知っていた。彼はGSA社のアルバイト、菱沼登なのだ。
「おやおや、お楽しみ中だったとは…」菱沼が言った。
 いや。
 高沢は否定した。屋敷の使用人が言ったではないか。姿を現したのはビーナとベケットであって、小原や菱沼ではない。目の前にいるのは小原の姿をしたビーナと、菱沼の姿をしたベケットだ。岩永の姿をしたヘスティアと同じで、ゲームの登場人物が実際に人間の外見を借りているだけなのだ…。
「どういうこと?」小原の姿をしたビーナは言った。その問いかけは高沢に向けられたものだったが、目はヘスティアを凝視したままである。
「こういうことなのよ」ヘスティアが言い、ベッド上で高沢の首に腕を絡めながら体を寄せた。彼女の乳房が高沢の背中に押しつけられる。
「アキナス、この私の前でよくもそんな真似ができるわね」ビーナは目をつり上げ、高沢をにらみつけた。
「ビーナ。なぜ、ここに?」高沢は、ようやく疑問を口に出した。
「たった二人で盗賊を退治した若い魔法使いの噂を聞いたからよ。あなたかも知れないと思って、わざわざこうして……」
「ライファに行くのはどうしたんだ?」高沢は言った。「お前はベケットと一緒にライファの豪商の家へ盗みに入るつもりだった、そうだろう?」
「…なんで知ってるのよ?」ビーナは眉をひそめた。「あなたに言った憶えはないわよ」
「お前はライファに行く途中でゾルティに捕えられ、俺と、ヘスティアと、ベケットの三人で助けに行くはずだったんだ。それが正常なゲームの筋なんだよ!」
「何言ってるの?」ビーナは気味悪そうにな目つきで高沢を見た。「『はずだった』って、どういうこと? ゲームって何?」
「深く考えないで、ビーナ」ヘスティアが高沢の肩を愛撫するように触れながら、穏やかな口調で言った。「この人、『ラスト・ソーサラー』ごっこをやりたがってるのよ。悪いけど、黙って付き合ってあげてくれない?」
 高沢は驚愕のあまり、服を着ていないのも忘れてベッドから飛び出し、ベッドの上のヘスティアの顔を見た。
「…おい……今、なんて言った?」
「…記憶を失っていたせいで時々変なことを言うけど、気にしないでって……」ヘスティアは高沢の反応に心底驚いた様子で、目を見張っている。「それがどうかしたの?」
「嘘だ! 今、お前は違うことを言った。俺にはちゃんとわかってるんだ。畜生、なめた真似をしやがって!」高沢は怒鳴り散らした。
「…ちょっと、待ってよ……」ヘスティアが困惑の表情を浮かべる。
「うるさい! 俺が好きでこんなところにいると思ってるのか? それを『ごっこ』をしたがってるだって? ふざけるな! 畜生!」
 全員が一様に押し黙り、室内には重苦しい沈黙が流れた。激昂した高沢の荒い呼吸だけが、室内に響いている。
「嘘つき」ヘスティアが、ぽつりと言った。
 何が嘘だというのだ? 俺がゲーム世界に嫌々ながらいるということが嘘だとでも? 冗談じゃない!
 高沢は彼女をにらみつけたが、あえて何も言わなかった。
「ケンはどうなったの?」ビーナが唐突に言った。「見つかった?」
 高沢はビーナに振り向く。彼女は褐色のぴったりとしたズボンに革製のチュニックという地味な服装だったが、それでも彼女は申し分なく美しかった。
「記憶を失っているというのは、本当なのね?」高沢が押し黙っているのを見て、ビーナはため息混じりに言う。「なるほど、この間会った時に様子が変だと思ってたわ」
「俺が刺された時か」高沢はビーナをにらんだ。「お前は俺よりもケンのほうを気にかけていた。俺とお前は、その程度の間柄なんだよな」
「…まさか」ビーナは一瞬だけ表情に戸惑いの色を浮かべたが、すぐに妖艶な笑みを作って見せた。「二人で過ごしたあの夜のことも忘れてしまったの?」
「そんなもの、糞食らえだ」高沢は吐き捨てるように言う。「俺は全部知ってるんだよ。お前らがケン目当てで俺に近づいたことも、何もかも」もちろん、これが狂ったゲームの物語だってことも、と高沢は心の中で付け加えた。
「…ケンって、誰なの?」ヘスティアがいぶかしげに言った。「待って。それより先に、この二人が誰なのか教えて」
「その前に」ベケットがへらへらした口調で言う。「アキナスさぁ、頼むから服着てくれよ。俺、あんたのチンポなんか見たくないんだよな。で、その後、そっちにいる裸の別嬪さんを紹介して……」
 ビーナがベケットのみぞおちに肘鉄を食らわせ、ベケットは目を白黒させた。
「ビーナに、ベケットだ」高沢は二人を指差しながらヘスティアに言った。そしてベッドの脇に脱ぎ散らかしていた衣服を身に付け始める。「ケンというのは人間の名前じゃない。武器の剣なんだよ」
「だって、サイテニッツの工作員のトロンメルは、ケンと名乗ってあなたに近づいたんでしょう? そんなの、変じゃない」
「あの時は、俺の記憶が混乱していた。俺自身が、人名だと勘違いしていたんだ」俺はアキナスになっていたつもりだったのだ、と高沢は心の中でつぶやく。「俺が剣に関する情報を握っているのを知って、連中が探りを入れてきただけさ」
「なあ、アキナスってば」ベケットが無関係に騒ぐ。「彼女を紹介してくれよ…ひっ!」
 ビーナの肘鉄が、再度ベケットのみぞおちに食い込んだ。ベケットは苦しそうにうずくまる。
「彼女はヘスティア。このセローザ魔法王国の第二十三代国王アルフォンスの娘だ」高沢はヘスティアの衣類を取り上げ、彼女に投げた。「ヘスティア、服を着ろ」
「じゃあ、王女様ってわけ? なんでそんな大物がこんなところにいるのよ?」ビーナは不信感をあらわにする。
「王は魔法使いたちの選挙で選ばれるんだ。だから、その家族だからといって、優遇されることはない。王の娘だろうが乞食の息子だろうが、魔法さえ使えれば同等の資格を持って魔術師会議に参加できる。そんなことも知らないのか?」高沢は刺のある視線をビーナに向けた。「これは常識だろう?」
「あなたがた魔法使いにとってはね」ビーナは冷たい視線を高沢に返してきた。「私たち一般人には、雲の上の話よ」
「それに、それは昔の話」ヘスティアが服を着ながら言う。「今は、前の内戦で追放されて魔法使いとしての資格を奪われた人たちがたくさんいるのよ。アキナスもその一人」
「…それで、そういう連中が悪いことをするんだよな」ベケットが腹を押さえて起き上がりながら言った。「おかげでこっちはいい迷惑だよ。仕事がやりにくくていけねぇ」
「今に、昔のような平和が戻るわよ」ヘスティアがつぶやくように言う。
「無理だ」高沢は断言した。彼は、そうならないことを知っているのだ。なぜなら、彼がそのようにこの世界を作ったのだから。「魔法使いの生体実験をやっているサイテニッツの気違い科学者どもと、邪神を召喚させようとしているゾルティの狂信者どものせいで、セローザ王国は滅びるんだ…」
「そんな…」ヘスティアは声をつまらせた。
 その時、上着を着ようとした高沢の手が止まった。上着に縫いつけられたポケットに、何か硬いおもりのようなものが入っている。ポケットに手を入れると、ひんやりとした感触の四角いものが手に触れた。しっかりとした確かな手触り…。
 それが何なのか、彼には見なくてもわかった。
 父のオイルライター。
「ねえ、アキナス。聞いてるの?」ビーナは高沢の顔を見据えていた。
 高沢はライターをポケットから出さず、できるだけ冷静を装った。
「…何か言ったか?」
「私たちは伝説の聖剣が実在するという噂を聞いて、そのお宝目当てであなたに近づいたことは認めるって言ったのよ」ビーナは言った。「でも、あなたは剣を探して一人でどこかに行っちゃったでしょ。久しぶりに会ったらあなたはその場で刺されるし、サイテニッツの連中に連れていかれちゃうし、そのうち私たちもゾルティの連中に狙われちゃって、ほんと大変だったのよ。それで、ゾルティの狙いを探っていたら邪神召喚の話を聞きつけて…」
「その召喚の儀式を阻止できるのが、伝説の聖剣だけという話も聞いたよ」ベケットは真面目な顔になり、静かに言った。「祈り重ねて時は満ち、破壊の黒竜よみがえる…ってやつさ」
 ビーナが、ぷっと吹きだした。
「なんかおかしいか?」ベケットは意外そうな表情をする。
「何を真面目な顔してんのよ」ビーナは自分の左手の甲を見て、なでさすった。「ああ気持ち悪い。鳥肌たっちゃった」
「失礼な」ベケットは憮然としてビーナを見る。
「…祈り重ねて時は満ち、破壊の黒竜よみがえる。炎来たりて焼き尽くし、破滅に瀕して戦士立つ。戦士聖剣手に取りて、破壊の黒竜討ち果たす……。あの伝説の邪神ヴェーリの話なの?」ヘスティアが驚きのあまり、声を震わせた。
 くだらない。
 高沢は、その茶番劇を眺めながら考えていた。陳腐な設定に基づいた陳腐な会話。すべてが、高沢の考え出したそのままだった。真面目で明るい女魔法使いヘスティア、美しくて気の強い女盗賊ビーナ、ビーナの相棒で底抜けにいいかげんな性格の盗賊ベケット。外見こそ実在の人物のものを借りていたが、中身は変わっていない。それぞれが役割をきっちりと果たしているのだ。
 ずれているのは物語の展開だけ。しかし、最終的に行き着こうとしているものに変化はないように思える。破壊の黒竜・邪神ヴェーリを退治して、世界を救うのだ。そうすれば、ゲームは終わる。
 しかし、また殺戮の中に身を置くのか? 高沢は苦々しい思いで自分に問いかけた。
(ならば、このまま邪神に滅ぼされて死ぬまで、ここで女を抱きながらだらだらと過ごそうといのか? 何もせずに?)頭の中で反論する声が響く。
 どうせいつかは死んでしまうのに、なぜ好んでつらい目に会わなければならない?
(つらい? つらいとは何だ? 何をしていても満ち足りないのではないのか? 女を抱いているだけでは満ち足りない。それもつらいのではないのか?)
 何をしても満ち足りないのなら、せめて性的な快楽を求めて何が悪い?
(くだらない逃避だ。性的な快楽と破壊の快楽と、どこが違うというのだ? どちらも快楽というレベルにおいては同じだ。そして自分自身を傷つけることでも、やはり同じなのだ)
 同じなら、どっちを選んでもいいじゃないか!
(最後の瞬間に、どちらがいいのだ? 行動したら変わっていたかも知れない現実を夢想するのと、行動した挙げ句に夢想していた現実へたどり着かなかったことを嘆くのと?)
 そんなこと、知るもんか!
(考えろ! 百万分の一のわずかな可能性に賭けて負けるのと、始めから百万分の一の可能性を放棄するのと、どちらがいいかを。考えるんだ!)
 うるさい、命令するな! だいたい、お前は誰なんだ?
(負けるのを怖がって逃避することこそ本当の敗北だということを、お前は知っているだろう? そうとも、お前はそういう価値観を持った人間だ。でも、そのことを認めたくないだけなんだ。違うか?)
 黙れ! 俺は、お前が誰かと聞いたんだ。人の頭の中で勝手に説教しやがって! お前、誰なんだよ?
 頭の中の声は返事をしない。
「畜生! 答えろ!」高沢は怒鳴り、そしてハッと我に返った。
 同僚の岩永めぐみの顔が、社長秘書の小原映子の顔が、アルバイトの菱沼登の顔が、高沢にまっすぐ向けられている。
「…何を……」高沢は三人の凝視から逃れるために目をそらした。「おまえら、何を見てるんだよ」
「行くの? 行かないの?」ヘスティアは静かに言った。
「決定権はあなたにあるのよ」ビーナが高沢を見据えながら言う。
「決めてくれよ」ベケットが言った。
 高沢は、目を閉じた。
 賭けて負けるのと、賭けずに逃げるのと、どちらがいいのか…。
 あの不思議な声との激しい会話がよみがえってくる。そして、記憶は猛スピードで遡っていった。
 ゲームの筋に則した三人の会話。ヘスティアとのセックスに明け暮れた数日間。廃坑での殺戮。幼い自分の死体。電車の中で見た父の姿。ゲームに閉じ込められた恐怖。ラスト・ソーサラー。手掛けてきたゲームの数々。父の死。不毛な大学生活。付き合った女。東京での生活を世話してくれた父の友人。田舎での高校生活。恐喝してきた不良の同級生。田舎の太陽。田舎の緑。母のぬくもり……。
 彼の頭は、空白に満たされた。
 夢。
 真っ白になった頭の中に、まるでライターの火が灯ったように、その一文字だけがぽつんと浮かんできた。
 夢。
 あなたの夢は何ですか、と小学生の時の担任。野口英世のような立派なお医者さんになることです、と高沢。いつの間にか消えてしまった夢。
 夢。
 夢に出てきた中学の時の同級生の女の子。それがきっかけで始まった、実らない初恋。切ない片思い。現実に影響を与えた夢。
 夢。
 自分は世の中の役に立ち、認められ、愛され、すべてがうまくいくという夢。若さゆえの幻想。自分が他人とは違う特別な存在だという夢。
 夢。
 自分の都合に合わせて作り出した夢。現実にうちひしがれた高沢自身の逃避場所。
 夢、願望。夢、妄想。夢、幻想。夢、逃避。
 高沢は目を開けた。彼の目の前には二人の女と一人の男が立っている。
「どうするの?」女の一人が言った。
 高沢は何気なくポケットを探り、ひんやりとしたライターに触れた。
「どうするんだ?」男が言った。
 高沢は、ポケットの中のライターを強く握りしめた。
「どうするつもり?」別の女が言った。
 握り締めたライターが、まるで炎に包まれたように熱くなった。
「…畜生……選択の余地が、俺にあるのか?」高沢はつぶやくように言う。
 その彼の言葉には、誰も応えてくれなかった。

     九
 その日のうちに、高沢はヘスティア、ビーナ、ベケットを率いてパスバの町を発った。行き先は聖剣の眠る山。ゲームの冒頭でアキナスが歩いていた洞窟である。
 アキナスが記憶を取り戻さなければ聖剣の眠る山には行けないはずだったが、ゲームの筋の混乱がひどく、正直なところ現段階でアキナスの記憶が戻っているかどうかの確信がなかった。しかし高沢としては当然ながら聖剣のありかを知っているわけで、高沢とアキナスが一体化してしまっている以上、記憶が戻る戻らないということ自体がナンセンスのように思える。もう、そんな些細なことはどうでも良かった。
 高沢は、北西に向かって歩いた。地面の起伏が激しくなり、木々が密生して、道と呼べるようなものはどこにもない。しかし、その森林を抜けて行かなければ、聖剣の眠る山までたどりつけないのだ。
 行かなければならない。
 しかし、それは気の重い作業であった。
 高沢は自分の作った話の筋を思い出していた。聖剣の洞窟にたどり着いた彼らは、ゾルティに襲撃される。そして、サイテニッツの新兵器「反魔法波動発生装置」のテスト稼働の余波をうけて襲撃者たちに敗れ、聖剣を奪われてしまうのだ。そしてその時、ヘスティアはゾルティに捕えられ、ベケットは命を落とすことになっていたのである。
 高沢は、そっとベケットの様子をうかがった。GSA社の開発部アルバイト・菱沼の顔をしたベケットは、高沢が設定した性格通り、ヘスティアとビーナを相手に軽口をたたいて二人の失笑を買っている。むろん、本人は自分がじきに死ぬ運命にあることなど知らないのだ。それが、何とも嫌な気分だった。
 ベケットの役回りはそうなっているのだ。だから、彼の死は諦めるしかない。おそらく、ベケットが純粋なゲームの登場人物として存在していたなら、これほど高沢の心は痛まなかったに違いない。それが彼の知っている顔、アルバイトとして彼の仕事の手伝いをしてくれている菱沼の顔をしているから、心が痛むのだ。
 どうしようもない。諦めるんだ……。
 そう自分に言い聞かせた瞬間、あることに気付いて彼は息を飲んだ。なぜ諦めなければならないのか。高沢は知っているのだ。今こうして歩いている間にも、ゾルティの一団が彼ら四人を追跡していることを。彼らは聖剣の位置を確認した上で、四人に不意打ちをかけてくるはずだった。しかし、もしもその不意打ちを防ぐことができたら? そう考えると、高沢の気分は揺れ動いた。
 しかしゲームが筋の通りに進まなければ、高沢が持っている知識は意味がなくなってしまう。だが、すでに、ゲーム上で起こるべきだったイベントが起こらないという不整合は、確かに存在しているのだ。
 高沢は歩きながら、頭を悩ませ続ける。イベントがいくつか起こらない程度ならいい。しかし、死ぬはずの人間が死なないということになると、今後の展開に不安がある……。筋の整合性を放棄するか、それとも人命を放棄するか、つらい決断だった。
 決まりきった未来を求めて安心感を得るのか。
 それとも、未知の領域に飛び込んで、自力で道を切り開いていくのか。
 後者がいいに決まっている。しかし、それに踏み切るには、非常に大きな決断をしなければならなかった。「知っている」という安心感は、何よりも大きい。
 ふと木々が途切れ、幅四メートルほどの渓流が姿を現した。優しい水音が、耳に心地良く響いてくる。この渓流をさかのぼっていけば、聖剣の眠る洞窟へたどり着くことができるはずだった。
「アキナス、少し休みましょうよ」ヘスティアが言った。
「そうだな……」高沢は言いながら振り返り、自分たちの来た方向を見た。もちろん、追跡しているはずの一団は影も形も見えない。
「よう、何か見えるのか?」ベケットが彼に近づいてくる。
 高沢は、はっとしてベケットの顔を見た。言うべきなのだろうか? ゾルティの一団が四人を追跡していて、このまま放置しておくとお前は殺されるのだ、と。言う勇気があるのか、この俺に?
「女に追われて怯えてるような顔をしてるぜ」ベケットは薄笑いを浮かべて高沢の肩を小突く。「この色男」
「そうか?」高沢は曖昧に微笑んで見せると、ベケットから離れて渓流に近寄った。水は透明で、清らかに流れている。その流れに逆らうようにして、小さな魚が水中を泳いでいた。川の中には小さい岩がいくつもあり、水面に出ている部分には緑色の苔のようなものがついている。水のにおいが緑や土のにおいと混ざって、高沢の鼻を心地良くくすぐった。
 彼は足を滑らせないように気を付けながら手頃な岩の上に立ち、かがみ込んで水を手ですくおうとした。
 違和感。
 まただ…。高沢は顔をしかめた。揺れる水面に映っている顔も、表情を曇らせる。この違和感は何だ? すべてが狂っているこの環境の中で過ごすうちに、少しくらいのことでは動じなくなったはずだ。違和感を頻繁に感じていたのは、高沢としての人格とアキナスとしての人格が混乱していた時のことで、今は違う。今は自分が高沢敏彦であることをしっかりと認識しているのだ……。
 高沢は水を口に含んだ。冷たく、甘い味がした。口許から水がしたたり落ち、水面に映った顔に波紋を投げかけている。
 待て。
 高沢は、水面に映った顔を凝視した。大きく鋭い目、通った鼻筋、そして形の良い女性的な唇。
 アキナスの顔だ。
 厳密に言えば、アキナスのモデルになった俳優の、非常に整った顔である。その意味するところが、じわりと心に染み込んできた。高沢は、おそるおそる自分の顔に手を触れる。水面に映る顔の主も、驚きに目を丸くしながら自分の顔を触れていた。
 違う。俺の目はもっと細い。俺の鼻はもっと不格好に大きい。俺の唇はもっと薄い。俺の頬はもっと高いし、えらも張っている。
 違う!
 高沢は両手で顔を覆い、激しくこすった。そして指の間から水面に映った顔を見る。手が邪魔をしていて、顔は見えない。おそるおそる手をどかすと……。他人の顔。高沢敏彦本来の顔よりも、数倍は男前の顔。
 嘘だ!
 アキナスの顔になっているなんて、そんな馬鹿な…。
 高沢は水に映った顔に怯えて、慌てて川面から体を離そうとした。しかし足が滑ってバランスを崩し、そのまま流れの中に倒れ込む。顔から水に落ちた彼の口、鼻、耳に、水が一斉に流れ込んできた。
 嘘だ!
 俺は高沢。アキナスじゃない。
 絶対に嘘だ!
 高沢の手が川の底についた。手を力一杯に突っ張ると、胸から上が水面に出る。彼は激しくせき込みながら、川底に腰を下ろした。水面に映って揺れているアキナスの顔の上に、彼の顔から唾液と鼻水が糸をひきながら落ちる。水に浮かんだその粘液が、川の流れにゆっくりと流されていった。
 後には、流れに揺らぐアキナスの顔だけが残った。水面に映ったアキナスは、苦しげにあえぎながら高沢を見ている。
 高沢は目を閉じ、軽くむせながら天を仰いだ。
 太陽が当たっているのを感じる。体のまわりを水が流れているのがわかる。鼻と喉の奥に水が少し残っていてるのもわかる。すべては高沢敏彦として経験した通りの感覚で、異常なところはない。
 顔。
 違うのはそれだけだ。いや、世界も違っている。…畜生、訳がわからない。俺は高沢ではないのか? 記憶を失って自分を高沢だと信じているアキナスなのでは? ならば、どうして未来のことを知っているのだ? 予知能力? そんな荒唐無稽の超能力は信じない。…馬鹿な、信じないだって? 魔法を使っていながら、よくもそんなことを言えたもんだ。魔法にはそういう占い的な要素だって含まれるじゃないか……。
「アキナス、大丈夫?」ヘスティアが近寄ってきて、彼の腕を取って立たせようとした。
 彼はその手を振りほどいて、自分の力で立ち上がる。
「そんな浅い場所で、なに溺れてるのよ。ドジねえ」ビーナがほっとした口調で、努めて明るく言った。
 彼は何も答えずに川から上がると、上流に向かって黙々と足を進め始める。後ろから、三人が慌てたように追ってくる足音が聞こえてきた。
 その日はそれから日没まで休まずに歩いたが、洞窟には到着しなかった。そこで、彼らは進むにつれて狭く速くなっていく流れの脇で野営をすることにした。例によって焚き火を囲み、乾燥した保存食で空腹を抑え、そして毛布をかぶる。
 彼の毛布は川に落ちた時に濡れてしまっていたので、彼は毛布を焚き火で乾かしながら時間をつぶしていた。他の三人は、思い思いの場所で毛布にくるまっている。
 火の勢いが弱くなってきたので、彼は薪を火の中に放り込んだ。夜空に舞い上がる火の粉、そして闇に包まれた空。いつの間にか雲が出てきたようで、星はひとつも見えない。しっとりと暗い、陰欝な夜だった。
 誰かが動く気配を感じて、彼は目を向けた。ベケットが体を起こし、彼を見ている。
「ベケット、どうした?」彼は声をかけた。
「眠れないんだ」ベケットは小声で言うと、立ち上がって焚き火の近くへ歩み寄ってきた。「どうも嫌な感じだ」
「嫌って、何が?」彼は尋ねる。「気になることでも?」
 …畜生、知っているくせに。
「うまく言えないんだが…」ベケットは彼の脇に腰を下ろした。「妙な胸騒ぎがするんだ。これまでに三回こんな感じを味わったことがある。最初は、一緒に盗っ人稼業をしていた兄貴が死んで、俺も大怪我をした。その日俺たちが盗みに入ることを、なぜか向こうは知っていやがったんだ…」
「そうか…」
 …ベケットには兄がいたのか。
「兄貴が死んで以来の二回は、計画を変更して何もなかった。それが胸騒ぎに従って計画を変更したせいなのか、そもそも何もなかったのか、わからないが…」ベケットは中空を見上げ、口を歪めながら舌打ちをした。「俺の思い過ごしだといいんだけどな。でも、どうも気になる」
「でも、行かなきゃならない」高沢は言った。
 ベケットはため息をつきながら、何度もうなずく。その様子を見ながら、彼は気付いた。ベケットは、紙に書きつけられた設定の集合体ではないのだ。切られれば血も流すし、痛ければ涙も流す……。
「そうだよな。行かなきゃならないんだ…」ベケットは再度ため息をついた。「正直言って、最初にあんたに会った時、俺はあんたの頭がおかしいんだと思ったよ」
「そうか?」
 …知らない。
「だって、あの伝説の聖なる剣を探してるって言ったんだぜ」ベケットはその時のことを思い出した様子で、微笑した。「そう、最初はエロアの酒場『竜の背骨亭』だった。この地で倒された伝説の黒竜の話を知っている者はいないか、って言ったんだ。誰もがあんたはいかれてると思って相手にしなかったけど、俺は面白がって話を聞いたんだ。そしたら聖剣を探してるって話になった…」
「悪い、記憶が……」
 …そんな設定を作った記憶は、かすかにある。しかし、それをシナリオに盛り込んだ憶えはない。
「なんだ、まだ記憶は完璧じゃないのか?」ベケットは彼の表情をうかがう。「あれから、俺たちはいろいろな場所を一緒に旅したんだぜ。それも憶えてないのか?」
「…ああ」高沢はうなずいた。「教えてくれよ。思い出すかも知れないから」
 …過去にどんなことがあったのか、興味がある。
「そうだな…」ベケットは空を見上げた。「俺とビーナは、聖剣が目当てであんたと一緒にいた。聖剣が見つかったら、あんたから奪ってとんずらする予定だったんだ。でも、サートリン村の事件じゃ、さすがにあんたを騙してることが怖くなったよ」
 …サートリン村? どこだ、それは?
「頭のいかれた予言者がいたろう?」ベケットはそう言って彼の顔を見たが、諦めたように首を振った。「それも憶えてないか……その予言者ってのがろくでもないジジイで、聖剣の情報を集めている俺たちを邪神の使いだと決めつけちまったんだよ。なんでも邪神の降臨が近くまで迫っていて、邪神は自分を倒すことのできる聖剣を人間の手から奪おうとしてるのだ、とかなんとか言いやがって。で、俺たちはジジイに先導された村人に狩りたてられて、村はずれの小屋に追い込まれた。そこで、連中は小屋に火をかけたんだ。ビーナも俺も、さすがにあの時ばかりは覚悟を決めたよ。でも、あんたは落ち着いてた。『伏せてろ』と言って、いきなり小屋を吹き飛ばしちまいやがった」
「吹き飛ばした?」彼は思わず声を出した。
 …初耳の話だ。
「そう、あんたが魔法を使うのを見たのはそれが最初じゃなかったけど、あんなに強烈なのは初めてだったよ。小屋が一瞬で粉微塵になって空高く舞い上がり、破片があられのように降ってきたんだからな。でも、小屋の破片はどれも細かく砕けていたから、それに当たっても怪我をするようなことはなかった。で、破片が降り注ぐ中、あんたは連中に向かってゆっくりと歩いていった」ベケットは微笑む。「『いかにも、我々は邪神の使いである。人間の命を奪うのは我が主の務めだが、おのれらごときは主の手をわずらわせるほどのこともない。今この場で、全員を焼き尽くしてくれる』とか言って、手の上にでかい火の玉を作り出した。連中、散り散りになって逃げていったよ。ところが予言者のジジイは腰を抜かして、一人で取り残されていやがった。俺たちが近づいていった時の、奴の顔ったらなかったぜ……」
 高沢はただ、記憶をたどりながら語るベケットの笑顔を、ぼんやりと眺めていただけだった。むろん、何の感慨も湧いてこない。ベケットのほうでも彼のその表情に気付いた様子で、大きくため息をついた。
「やめやめ。一人で話していても虚しくなるだけだ。あんたが俺を助けた話や、俺とビーナであんたを助けた話をしたって、肝心のあんたが何もわからないんじゃ面白くもない」ベケットはあくびをした。「俺、もう寝るよ。妙な胸騒ぎは気になるけど、逃げるわけにはいかないからな」
 言うべきか?
 彼は迷った。その胸騒ぎは正しい、とベケットに告げるべきなのだろうか。洞窟の中でお前はゾルティの手にかかって殺されるのだ、と? しかし、それを言うことによって何か大切なものが失われてしまうような気もする…。
「じゃ、適当な時間に起こしてくれよ。見張りを交替するから」ベケットは言い、彼に背を向けると自分の毛布が敷いていある場所へ足を進めた。
 ベケット! 彼は心の中で叫んだ。許してくれ、今、俺は自分の物語を守るために、君を死なせようとしている…。
 ふと、ベケットが足を止め、怪訝そうな顔で振り返った。
「今、俺の名前を呼んだか?」
 今の言葉が聞こえたのか? いや、そんなはずはない……。
「…いいや」と、彼。
「そうだよな……。やっぱり気のせいか…」ベケットは首を傾げながら、毛布にくるまった。「おやすみ、アキナス」
「ああ」彼はつぶやくように言った。「おやすみ、ベケット…」

     一〇
 黒く、巨大な影。その影に向かって、音もなくベルトコンベアが動いている。しかし、ベルトは何かに支えられているわけではなく、ただ虚空に浮かんでいるだけだった。ベルトコンベアの上では何人かが巨大な影に向かって整列しており、ベルトの導くままに影へと近づいていく。
 高沢敏彦は、そのベルト上の最後尾に並んでいた。高沢の前には小柄な女が立っている。後ろ姿だけだが、高沢にはそれが岩永めぐみだということがわかった。いや、岩永の外見をしたヘスティアか? 区別がつかない。
 岩永の肩越しに見ると、岩永の前には音楽担当の船岡健一(の姿をしたトロンメル?)がいる。船岡の前には社長秘書の小原映子(の姿をしたビーナ?)がいて、その前にはアルバイトの菱沼登(の姿をしたベケット?)、さらに開発部のチーフの砂田治(の姿をしたドーデ?)、営業の小久保秀明(の姿をしたビベロ?)、父の友人で東京での高沢の生活の世話をしてくれた山賀明(の姿をしたアルフォンス?)、高校時代の同級生で札付きの不良だった安岡弘典(の姿をしたルバート?)、と続いている。
 なぜ後ろ姿だけでわかるんだ?
 …理由はわからないが、そうなのだ。
 国王アルフォンスも、悪に走った魔法使いルバートも、まだ登場していない。なのに、この狂ったゲーム世界での配役が、なぜわかるのだ?
 …理由は問題ではない、そうであるということが重要なのだ。
 それに、主要登場人物の中でここにいない人間がいる。アキナスの父でゾルティの首魁・ボーデルだ。一瞬、高沢の脳裏に父・高沢和男の顔が浮かんだ。
 …その通り。ここだ、敏彦。
 高沢は驚いて周囲を見回し、あっと息を飲んだ。高沢の右側、何もない空中に父が浮いているではないか。手をのばせば届きそうな距離だが、そのわずかな距離が何よりも遠く感じられる。高沢は父のいる空中へ足を踏み出そうとして、思いとどまった。父が、来るなというように手で制している。
 …落ちることは、死ぬことだ。
 父は口を動かさずに言った。高沢はちらりと前方を見る。黒い影が近づいてきている。不吉な黒い影。逃げ出したい。高沢は救いを求めるように父の顔を見た。
 …よく見ろ、敏彦。お前は何を怖がっている?
 高沢は、父の言葉に従ってもう一度影を見た。実体のない、黒い空気。墨を流したような空間。不定形で、何か恐ろしいもの。先頭にいた安岡弘典/ルバートが、黒い影に吸い込まれていく。安岡/ルバートはその瞬間、振り返って高沢の顔を見ながら笑った。意味ありげな笑みが、黒い影の向こうに消えていった。
 いやだ。
 …よく見ろ。
 父が厳しい表情をして腕を組み、高沢をにらんだ。
 高沢は、山賀明/アルフォンスが影に飲まれていくのを見た。山賀/アルフォンスも振り返り、笑う。
 いやだ。
 …よく見ろ。相手が誰なのか。
 小久保秀明/ビベロが影の中に消えていく。小久保/ビベロの笑み。
 …相手は誰だ?
 砂田治/ドーデが消える。笑み。菱沼登/ベケットが消える。笑み。小原映子/ビーナが消える。笑み。船岡健一/トロンメルが消える。笑み。岩永めぐみ/ヘスティアが消える。笑み。影は目の前。
 いやだ!
 高沢は影に背を向け、走ろうとした。しかし、足が重い。まるで、水の中を走ろうとしているようだった。その抵抗に逆らって一歩。上半身だけが先に行って、足は進まない。精一杯に逆らって、もう一歩。先走った上半身のせいでバランスが崩れ、高沢は転倒した。
 怯えて影を振り返る。影は近づき、そして高沢の足先を飲み込んだ。這って影から逃げようとしたが、高沢の足は影に引き込まれたまま抜けない。
 助けて! 父さん!
 影は膝まできた。
 父さん!
 高沢は父を見る。父は目を閉じ、首をゆっくりと横に振った。
 影は腰まで。高沢は父を見る。
 いやだ!
 …自分が誰なのか考えるんだ、アキナス。
 なんだって? 僕は敏彦じゃないの?
 父の姿は高沢の眼前でゆっくりとぼやけていき、そして消えた。
 その間にも、高沢の両腕が影に飲み込まれていき、腹から胸までが覆われてしまう。
 高沢は恐怖に耐えかね、目を固く閉じた。
 静寂。
 ややあって、ひんやりとした風が彼の頬をなでた。どこかから鳥のさえずりが聞こえ、静かな水音も彼の耳に届いた。彼がおそるおそる目を開けると、まず最初に火の消えた焚き火の跡が視界に飛び込んでくる。辺りは淡い光に照らされていた。彼がゆっくりと顔を上げると、膝の上にあった毛布が地面に落ちた。
 早朝独特のひんやりと張りつめた空気が、じっとりと汗ばんだ彼の体を冷やしている。木々の間から早起きな鳥たちの声が彼の耳に届き、怯えきってしまった彼の心をなごませてくれた。川を流れていく水のやわらかな音が、心地よく響いている。
 澄んだ空気。ゆるやかな風。静寂に包まれた林。どこかで昇りつつある太陽の光を受けた、灰色の曇り空。
 彼はゆっくりと立ち上がり、川のへりへと向かった。そして、不快な寝汗を洗い流そうと、流れの上に体を乗り出した。アキナスの顔が水面に映る。彼は顔の映った水を両手ですくい、自分の顔にこすりつけた。冷たい水が手首から肘のほうへ流れ、顎から首に伝い落ちる。気持ち良かった。
 彼は立ち上がり、衣服の袖で顔を拭い、そして腹の底から声を出した。
「みんな起きろ、出発するぞ!」
 ビーナ、ベケット、ヘスティアの順に同行者たちは目を覚ました。ベケットが目をこすりながら立ち上がり、彼に近づいてくる。
「一人で朝まで見張ってたのか? 見張り、交替するからって言っといたろ?」
「大丈夫、俺もぐっすりと眠ったから」彼は笑って見せた。
「へえ」ベケットは一瞬顔をしかめ、やや時間をおいてからにやりと笑った。「眠っていても見張りができるとは、あんたもたいした男だよ」
「任せてくれ」彼は胸を張り、ベケットの肩を叩く。
 それから、四人は近くの木になっていた梨のような果実で朝食を済ませ、川の上流に向かって出発した。そして昼過ぎには、木々に隠れるようにしてひっそりと口を開けている洞窟を発見したのだった。
 彼は腰に携えた剣の柄に、ヘスティアは手にした杖に、それぞれ魔法で明かりを灯し、ビーナとベケットは手頃な木でたいまつを作って火をつける。そして、四人はゆっくりと聖剣の眠る洞窟の中へ足を踏み入れた。
 洞窟の内部では、ひんやりと湿った空気が静止していた。四人が侵入したことで、その空気がかき乱される。洞窟内を支配していた静寂は破られ、濃厚な闇は明かりに押されて洞窟の奥へと退いていった。
 既視感。
 しかし、彼は、その既視感が高沢としての既視感なのかアキナスとしての既視感なのか、区別をつけることはできなかった。この光景をアキナスとして見た記憶はないのだが、高沢として見たコンピュータ・グラフィックスと比べても、やはり眼前の光景は違っているのだ。
 ヘスティアの持つ杖と彼の持つ剣の柄が、どちらも淡い燐光を放っている。ビーナとベケットが持つたいまつは、音をたてて燃えている。その光に照らし出される、ごつごつとした岩壁。
 既視感。
 以前この洞窟を見たのは、アキナスなのか? それとも高沢敏彦なのか?
 わからない…。
 何度か枝別れしている洞窟を迷わずに正しい方向へ進むことができるのは、高沢敏彦の記憶のため? それともアキナスの記憶が戻ったから?
 わからない!
 わからない。確かなことはわからない。正しいことはわからない。何もわからない……。
 彼の剣に灯っていた青白い魔法の光が、ちらりと明滅して消えた。
 彼の額には、脂汗が浮いていた。ひどく気分が悪い。
「大丈夫?」ヘスティアが言った。優しいヘスティア。この洞窟でゾルティに捕えられる運命にあるヘスティア。洗脳されて、かつての仲間と戦う運命にあるヘスティア。
「具合悪そうだな…」ベケットが言った。陽気なベケット。この洞窟でゾルティに殺される運命にあるベケット。
「少し休んだら?」ビーナが言う。勝ち気で美しいビーナ。相棒ベケットの死に、人前ではめったに見せない涙を流す運命のビーナ。
 運命?
 それなら知っている。最後には全員が死ぬのだ。それが運命だ。誰かが誰かより早く死ぬ、誰かが誰かより長生きする、それだけのことだ。自分がアキナスだか高沢だか知らないが、いつか死ぬことに違いはない。
「畜生!」彼は力をふりしぼった。剣の柄に、再び魔法の明かりが灯る。
 彼は一度だけ深呼吸すると、そのまま前進を続けた。彼の後からは、ヘスティア、ビーナ、ベケットの三人がついてくる。そしておそらく、そのさらに後からは狂信者集団ゾルティに魂を売った悪の魔法使いルバートが、襲撃部隊を率いてついてきているはずだった。
 いや、そんなことはどうでもいい。すべては、なるようにしかならないのだ…。
 と、先頭を進んでいた彼の持つ明かりが、自然の岩壁の終わりを照らし出した。その先は、滑らかな石組みの通路に変わっている。石組みの通路には、黒く焦げたアキナスの杖が放置されていた。杖の周囲には一面に黒く煤がこびりついており、以前この場所が激しい炎に洗われたことを物語っている。
 記憶。
 激しい炎の爆発があった。地響きを聞いた。とっさに瞬間移動の魔法を使って脱出を試みた。瞬間移動の魔法が働いて、目に見えるすべての光景が遠ざかっていく……。
 そう、物語はここから始まったのだ。
「ここが、アキナスが罠にかかった場所なのね」ビーナがたいまつを掲げながら言った。
「こいつはすげえや」ベケットがおどけた調子でつぶやいた。「真っ黒けだ」
「この奥に剣が?」ヘスティアが彼の表情をうかがう。
 彼は黙ってうなずくと、一歩足を踏み出した。
 しかしその瞬間に、襲撃が開始された。突如、四人の後方から「気配」が盛り上がると、一直線に接近してきたのだ。彼は振り向きながら大きな盾をイメージし、両腕を突き出すようにして気を放った。
 ずん、という鈍い衝撃とともに、彼のイメージした魔法の盾に敵の飛ばしてきた「ブレード」がぶつかり、消滅する。魔法を使うことができるヘスティアは、その魔法的なやりとりを察知してすぐに襲撃を悟った。しかし、ビーナとベケットの二人は何が起きたのか理解できない様子で、棒立ちのままである。
「気を付けて。襲撃よ」ヘスティアがビーナとベケットに警告を発した。
 その間にも、彼は襲撃者たちがいるだろうと思われる暗闇に向かって、炎の爆発をイメージした。パッと巻きおこる炎に、七・八人の姿が浮かび上がる。しかし、炎は彼らに届く前に見えない障壁に当たって消えてしまった。向こうにいる魔法使いが防いだのだ。
 むろん、顔が見えなくても、その魔法使いが誰なのか彼にはわかっていた。相手は安岡/ルバート。高沢を恐喝し続けた不良の顔をした、邪悪な魔法使いだ。邪神の召喚をもくろんでいる狂信者集団「ゾルティ」の中にあって、潜入、破壊、強奪、暗殺といった表向きにできない工作を指揮している、非常に腕の立つ魔法使いだった。
 数人の気配が、並んで接近してくる。
「援護を頼む!」彼は怒鳴りながら剣を構えた。
 かすかにしか光の届かない薄暗闇の中で、黒装束が揺れた。彼は迷わず、その薄暗闇の中に飛び込んでいく。彼が持つ剣の柄に灯った魔法の明かりが、身構えている先頭の三人の姿をあらわにした。
 洞窟には広さの制約があるため、三人が横に並ぶと武器を振るうのは難しくなる。黒装束たちはそのことは心得ているようで、両脇の二人が前に、中央の一人は一歩さがって武器を構えている。彼は、左側の黒装束に勢いよく打ち込んだ。
 耳障りな金属音が響き、火花が散った。
 黒装束が、彼の剣を自分の剣で受け止めていた。間髪いれずに、右にいた黒装束が剣を突き出してくる。彼は後退しながら、その鋭い突きをかわした。が、よけきれなかったのか、右腕に痛みが走る。
 強い!
 彼は敵の意外な強さに舌を巻きながら体勢を立て直そうをしたが、相手はその余裕を与えてくれなかった。続けざまに左側の黒装束が飛び込んでくると、剣を真横に振るう。彼はまたもや後退を余儀なくされた。しかし、その後退もまた、充分ではなかった。
 腰のあたりに強い衝撃を受ける。
 やられた!
 彼はそのまま尻餅をつき、剣を取り落とした。剣に灯っていた魔法の光が消え、辺りは闇に覆われる。彼は痛む腰を片手で押さえながら、もう一方の手で取り落とした剣を探った。しかし、手に触れるのはごつごつとした岩ばかりである。
 間に合わない……。
 暗がりの中に目をこらすと、ぼんやりとながら目の前に黒い人影が接近しているのがわかった。剣が振り上げられ、今にも彼の脳天めがけて振り下ろされようとしている。
 しかし、瞬間、目の前で赤い光がはじけた。
 炎、そして熱風。
 炎は、ヘスティアの援護の魔法によるものだった。しかし、その炎は敵の魔法使いの力によって防がれ、彼を斬ろうとしていた黒装束の男にまでは届かない。炎に一瞬ひるんだ黒装束は、わずかに遅れて剣を振り下ろしてくる。
 が、その一瞬の遅れは致命的な遅れだった。
 炎による明かりで剣を見つけた彼は、その間に剣を拾い上げ、黒装束の足を横ざまに薙ぎ払ったのである。剣が肉を切り、骨を砕く手ごたえがあった。振り下ろされた黒装束の剣は彼の頭からそれ、頬をかすめて鎖骨にあたって止まる。
 激痛。
 すぐさま別の黒装束が踊りかかってくる。彼は肩と腰に傷を負っていて、しかも尻餅をついたままである。逃げようがなかった。
 彼は覚悟を決めて体を横たえ、洞窟の地面を転がった。
 痛い。切られた傷のせいか、岩でごつごつとした洞窟のせいかわからなかったが、とにかく体のあつこちが痛んだ。彼は苦痛をこらえながら転がって、何も考えずにただ黒装束から遠ざかろうと努めた。
 背中が岩壁にぶつかって、彼の体は止まる。追ってくる黒装束の姿は見えない。なぜ誰も追って来ないのかを考える間もなく、とりあえず彼は立ち上がった。
 全身が痛い。とくに肩だ。
 彼は岩壁によりかかって自分の肩に触れた。血のぬるりとした感触。しかし、それほど深くはない。皮膚を切り裂いた程度で、骨にはダメージがなさそうである。
 腰も痛かった。が、手を触れてみると、血が出ているような感じではなかった。ポケットの中身が、敵の剣を受け止めていたのである。彼は慌ててポケットの中身を取り出した。
 なんてことだ…。
 時折ほとばしる魔法の炎を明かりにして、彼はその銀色のライターを見た。剣が当たったと思われる場所には直線的なへこみがついていて、大きく歪んでいる。
 畜生、父さんが大切にしていたライターなのに…。
 彼は呆然としながら、痛みにかすむ目を周囲に向けた。しかし、目の前の光景がとても遠くに感じられる。頭の奥のほうが痺れているような感覚だった。
 矢が空気を切り裂く音がしていた。その音に呼応するように、黒装束が短い悲鳴を上げて倒れる。弓の名手であるビーナが、黒装束たちを狙い射ちにしているのだ。
 はて、彼女は弓なんか持っていただろうか?
 彼は目の前の戦闘とは無関係に、ぼんやりと考えた。彼女が弓を持っていたかどうかの記憶はない。が、彼女が弓の名手だという記憶はあった。しかし、それが設定を作った高沢の記憶なのか、実際にアキナスとして彼女が弓を使う場面を見たことがあるのか、どうも判然としなかった。
 アキナスが現実なのか?
 高沢が現実なのか?
 わからない。そう、「わからない」がすべての答え。誰も、何も、わからない。
「…おい、アキナス」小声で話しかけてくる男がいた。
 彼はゆっくりとその男を見る。ベケットだった。
「歩くんだ」ベケットはビーナとヘスティアがいるほうへ顎をしゃくった。「ここは危ない。もう、ビーナが持っている矢は尽きかけてる」
 ビーナは弓で何人くらい倒したのだろう。彼はベケットに腕を引かれながら、襲撃者たちを振り返った。ときおり炸裂する魔法を明かりにして、ルバートの他に四人の黒装束を確認することができた。
 おかしい。襲撃者が三人倒された段階で、「反魔法波動発生装置」のテスト稼働が始まるはずなのだ。ここにきて、またゲームの筋が壊れてきたようだった。しかし、おかしいのはすべてなのだ。もう、何がどうなっても構わなかった。
 このまま襲撃者に全員が殺されて、この奇妙な物語は終わる。それもいい……。
 そんな諦めの気持ちが心に浮かんだ瞬間、彼は自分の頭が万力に挟まれたような苦痛を感じて、がっくりと膝をついた。頭が割れそうな痛み。こめかみを貫き通すような激痛。激しい耳鳴りとめまい。
 彼にはわかった。ようやくサイテニッツの秘密兵器が動きはじめたのだ。
 痛みのあまり、周囲の様子を見ている余裕はない。しかし、周囲がどんな状態なのか想像することはできた。突然激しい苦痛に襲われたのは、彼とヘスティア、そして敵方のルバートの三人だけなのだ。魔法を使える者だけが味わう苦痛。それを呆然と見守る魔法を使えない者たち。そう、それがサイテニッツが開発した機械がテスト稼働した瞬間の状態なのだ。
 彼は頭痛に耐えかねて体を横たえ、頭を抱えながら転がって仰向けになった。意識が霞み、目の焦点が合わせられなくなる。すべてがぼやけて、とりとめなく見えた。
 ベケットが、彼を起こそうとしている。ヘスティアは倒れたまま動かない。ビーナが矢を射ち尽くす。黒装束が近づく。ベケットが斬られる。胸のあたりから血を吹く。倒れる。ビーナが黒装束をナイフで刺す。黒装束は苦痛に顔をゆがめる……。
 と、苦痛は訪れた時と同じように、唐突に去っていった。彼の頭を挟んでいた目に見えない万力はどこかへ消え去り、苦痛のかすかな余韻が頭の奥で脈打っているだけだった。
 ここで、彼は起き上がるべきだった。起き上がり、絶体絶命のピンチに陥っている仲間を瞬間移動の魔法で脱出させるのが、あらかじめ予定された話の筋なのだ。しかし、彼にはそうする意欲が湧かなかった。彼がこのまま何もしなければ、全員が死亡してすべてが終わる。
 高沢としての記憶にあるゲームでは、この場面でアキナスはゲームのプレイヤーの制御を離れて勝手に行動するはずだった。が、今のアキナスには行動の選択権があるのだ。もちろん、ゲームには存在しない行動も選択できる。ゲームではやらなければならない事も、あえてする必要はない。それをアキナスに強制できるのは、彼自身だけなのだ。すべては彼の気分で決まる。
 アキナスには行動の自由があり、その未来は不確定で、本来進むべき道などは存在しないのだから。彼が生き延びようと努力することを放棄したのなら、それはそうなのだ。死んでしまえば、生き残った者がその後どんな目に会おうが、まったく関係ない。彼はそう思う。だから、死を選ぼう……。
「アキナス、諦めちゃだめ!」ヘスティアの声。
 大きなお世話だ。
「立ち上がって!」ヘスティアの声。
 畜生、俺に命令するな。
「行って、あなたのお父さんに会わなきゃ!」
 どうして父さんの話が出るんだ?
「高沢さん、行ってください!」岩永めぐみの声。
 なぜ行かなければならないんだ?
 岩永/ヘスティアが彼に近づいて、手を触れた。力が流れ込んでくる。
 馬鹿な。何をする気だ?
「高沢さん。苦しくても、戦うことを、やめないで」
 彼女の言葉とともに、がくん、という衝撃が体に感じられて、岩永/ヘスティアが遠ざかっていく。岩永だけではなく、小原ビーナも、倒れた菱沼ベケットも、黒装束も、魔法使いの安岡ルバートも、洞窟も、何もかも。
 既視感。
 すべては閉じられた輪。同じことの繰り返し。以前炎に包まれて洞窟から脱出した時と同じ。瞬間移動の魔法だった。遠ざかる光景。遠ざかる世界。遠ざかる、遠ざかる…。
 そして次の瞬間、彼は明るい外の世界にいた。
 まず、空が見えた。空は曇っていて太陽は見えない。しかし、それでも洞窟の暗闇に慣れた目には、まぶしすぎるくらいだった。そのまぶしさの次に彼が感じたのは、浮遊感である。が、すぐに彼は気付いた。
 違う、これは落下しているのだ!
 そして、彼は背中から何かに叩きつけられた。強い衝撃の後、彼は自分の体が柔らかいものの中に沈んでいく感覚を味わった。その柔らかいものは彼の体を包み込み、鼻や口、目、耳のすべてから体内に流れ込んでくる。
 これは水だ!
 彼は水中で咳込み、水を飲んだ。必死でもがき、水面に顔を出す。が、息を吸い込もうとしても、咳ばかり出て正常な呼吸ができない。咳で肺の中の空気がすべて出てしまい、胸が裂けてしまいそうだ。
 彼は水面に顔を出し、必死で息を吸った。が、次の瞬間には水中に沈み、吸ったばかりの空気は咳となって水中にごぼごぼと吐き出される。水を空気の代わりに吸い込みそうになるのをこらえながら、水面に顔を出す。そしてまたわずかな空気を吸い込み、水中で再び咳として吐き出す。それを何度か繰り返すうちに、苦しさはどんどん増していった。
 もうだめだ……。
 彼がとうとう耐えきれなくなって水を吸い込もうとした瞬間、誰かの手で彼の体は水面に引き上げられた。彼は存分に咳をして、その咳の合間に空気を吸い込もうとした。
 そうやって彼が正常な呼吸をしようと努力している間にも、誰かは彼の体を引いて力強く泳ぎ、膝くらいの浅さの場所まで彼を連れていった。
 彼は自分を助けた人物を見ようと、咳をしながら首を動かした。すらりとスタイルの良い女の後ろ姿が見える。長い髪が背中に広がるようにして貼り付いていた。彼女は一度だけ大きく呼吸すると、水に倒れ込むようにして泳ぎはじめる。
 彼は彼女から目を離してうつむき、よだれをたらしながら咳をした。喉の奥のほうに入った水が、なかなか出てくれない。息がうまく吸えず、無理に吸おうとするとどうしても咳が出てしまう。
 何度も咳をして、ようやく呼吸が落ち着いてきたところに、彼を救った先ほどの女が戻ってきた。今度は顔が見える。小原映子の整った顔。ビーナだ。彼女は水面に力なく浮いている人間の腕を引いていて、岸に引き上げようとしている。彼を助け、別の誰かもまた助けようと奮闘しているビーナの姿は、とてもたくましく見えた。
「手伝って」彼女はそんな彼の感慨をよそに、荒い呼吸の合間に鋭く言った。
 彼は言われるままに立ち上がり、力が抜けきってぐにゃぐにゃした人間の体を岸に引き上げる。その体は菱沼登の顔をしたベケットのものだった。しかし、その体はすでに冷たくなっており、もはや命がないことは、誰の目にも明らかだった。肩から胸にかけて大きな切り傷があったが、水に洗われて白いあばら骨がのぞいており、血はわずかしか出ていない。確認するまでもなかったが、念のため彼はベケットの手首に指をあてた。やはり、もう脈はない。
「どうなの?」ビーナは荒い息に混ぜて言葉を放ったが、その声には絶望の色がありありとしていた。
 彼は何も言わず、軽く咳込みながら地面に仰向けに寝転がった。ビーナも無言のままその脇にゆっくりと腰を下ろし、呼吸を整える。
 そこは小さな湖で、対岸には樹木が密生していた。その木々の向こうには、山が連なって見える。湖水は灰色の曇り空を映して、陰欝に見えた。
「…助けてくれて、ありがとう」彼は言った。「危うく溺れるところだった。……それにしても、ビーナは泳ぎがうまいんだな…」
「さっき、洞窟の中で、どうしたの?」ビーナは彼の言葉には応えず、荒い息を飲み込んで言った。「あなたとヘスティアと敵の魔法使いが、急に頭を抱えて苦しみだしたけど」
「…さあ」嘘つきめ。本当は知っているくせに。あれはサイテニッツが開発した新兵器、魔法が使えなくなる「反魔法波動発生装置」が稼働した時の苦痛なのだ。あの時のはただのテストで一時的に稼働しただけだったが、じきに本稼働することになっている。「よくわからないけど、急に頭が痛くなったんだ」
「魔法使いだけが苦しがったってことは、魔法になにか関係があることなのかしら…」
「どうなんだろうな…」そうなんだよ、ビーナ。君の考えは正しい。
 沈黙。
 風に吹かれて打ち寄せられる湖水の、さざなみの音だけが辺りに響いていた。
「……瞬間移動の魔法って、すごいのね…」ビーナは独り言のようにつぶやいた。「あんな体験、初めてよ」
「でも危険だ」彼は灰色の湖面が風に吹かれてかすかに揺れるのを眺めていた。「使い手は行き先をしっかりと頭の中に描かなきゃならない。少しでも狂うと、大きな代償を払うことになるんだ。移動した先が地面の中だったら窒息、空高くだったら墜落、どっちも命はない。使わなければ間違いなく死ぬときだけの、最後の手段だよ」
「…そう……」しばらくの沈黙の後、ビーナは彼自身も気にしていたことを、そっと口に出した。「…ヘスティア、逃げてこないね……」
 彼は黙っていた。心が痛む。知っていたのだ。こうなることはわかっていた。すべてを仕組んだのは、高沢敏彦なのだ。経過は多少違っていたが、結果は同じだった。ビーナと、アキナスが脱出に成功し、ベケットは死体となり、ヘスティアだけが取り残されてゾルティに捕えられる。それが予定された物語の筋だった。
「洞窟に、探しに行かなきゃね」ビーナは自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「洞窟に行っても、いないさ」彼は言い切った。彼は知っているのだ。「ヘスティアはゾルティに捕まって、ゾルティの本拠地・ラフテックに連行されたんだよ…」
「どうしてそんなことが言い切れるの?」ビーナは厳しい口調で言う。「あなたの気持ちはわかるし、こんなことを言うのはつらいけど、連中がヘスティアを生かしておく理由はないわ。違う? 連れ去られたかも知れないし、連れ去られていないかも知れない。それを確認できる場所は、ラフテックなんかじゃないわ。あの、洞窟よ。そうでしょ?」
 彼は愕然としてビーナの顔を見た。思いつめたような厳しい表情が、彼に真っ直ぐ向けられている。頬には、幾筋かの濡れた黒髪が貼り付いていた。
「私たちが行くべきなのは、あの洞窟よ。連中が別の罠にかかって、剣を手に入れられずに引き揚げた可能性だって考えられるじゃない。まだ聖剣があの洞窟にあるかも知れないんだから…」
 それはありえない。
 彼は瞬間的にそう思ったが、その思いに対する反駁が次々と浮かんでくる。どうしてわかる? 確かに、聖剣のある大広間に罠が仕掛けられていてもおかしくない。しかし、実際はどうなのだ? 高沢敏彦の作った物語では、アキナスは洞窟をあれ以上先へ進むことはなかった。だから、その奥に関する設定を考える必要などなかったのだ。が、高沢敏彦が考えもしなかった詳細な事実が、ここでは実際に存在している。そういう意味では、何が存在していても不思議ではない。
 しかし、そこまで考えた瞬間、彼は自分が知っていて、災厄が降りかかるのを放置していたという事実を思い出した。
 そう。彼は知っていたのだ。
 知っていたのなら、助けられたのでは?
 答えのない疑問が繰り返し浮かんでくる。
 高沢敏彦が物語をこんなふうに作らなければ、ベケットは死なずに済んだのでは?
 苦悩に満ちた疑問が、彼を責める。
「俺は、知っていた…」彼は視線をビーナからベケットの体に向けた。青白い顔。ぱっくりと口を開けている醜い胸の傷。「畜生…俺が殺したようなもんだ」
「何を一人で責任感じてんのよ」ビーナがぶっきらぼう言う。「そういう、自分だけ不幸づらしてる奴が一番頭にくるのよね。自分の思い通りにならないとメソメソ、悲しいことがあるとメソメソ、何があってもメソメソ、あーやだやだ」
 そういう意味じゃないんだ、と彼は心の中でつぶやいた。
 しかし、すぐに反駁。
 そういう意味とは、どういう意味なのだ? 知っていて何もしなかったこと? それは自分自身の決断なのでは? その自分の決断が間違っていたから、思い描いていた通りの結果にならなかったから、ぐだぐだと文句を言っているだけなのでは? そうなったかも知れない現実。そうならなかったかも知れない現実。そうなって欲しいと思った現実。そうなって欲しくないと思った現実…。
 畜生、どれが本物の現実なのだ? 本物とは何だ? 現実とは何だ? わからない。わからないのだ。何もわからない。すべては不確定。もちろん、「こうなるべき」という予定された現実など、あるはずもない…。
「しゃきっとしなよ、アキナス」ビーナが、彼の肩を軽く叩いた。「ベケットを埋めてやろう、ね?」
 彼はビーナを見た。その視線がビーナの視線とからみあう。そのからみあった視線を通じて、彼女の気持ちが彼の体に流れ込んでくるように感じられた。彼女は深い悲しみに包まれていて、それを覆い隠そうと強い意思の力を発揮している。
 二人の間に、長い沈黙が流れた。
 ぽつり、と雨粒が落ちてきた。彼は空を見上げ、大きく息を吐く。雨は次第に強さを増し、いくらもしないうちに周囲は静かな雨音に支配された。
 そういえば、もともとのゲームには雨という要素もなかった……。
 二人の体とベケットの亡骸を、その本来存在しないはずの雨が冷たく打ち続ける。
「…俺は……」ややあって、彼は口を開いた。「俺は、君の強さがうらやましい…」
「ふざけないで」ビーナは吐き捨てるように言い、地面に転がっていた木切れを拾って、地面を掘り始めた。「私なんか…」
 彼は黙って別の木切れを拾い、彼女と一緒に地面を掘っていった。ベケットの遺体が収まるだけの穴ができるまでには時間がずいぶんかかったが、その間じゅう二人は無言のままだった。ビーナの美しい顔には何の表情も浮かばず、ただ頬を雨粒が伝い落ちるばかりだった。
 二人は雨の中、長い時間をかけてベケットを埋め、粗末な木の墓標を立ててから、湖のほとりを発った。
 ビーナは最後まで、「私なんか…」の続きを言おうとはしなかった。

     一一
 アキナスとビーナが瞬間移動した先は、聖剣の眠る洞窟から北東へ約一日の距離にある、イカサ湖という名前の湖だった。彼らが最初に洞窟へ行くときにたどっていった渓流はイカサ湖に流れ込んでおり、イカサ湖からはルーテ川という名前になってセローザ王国の中央部を流れ、最終的には王国の東にある海へと注いでいる。
 二人は丸一日をかけて流れを遡って洞窟まで戻ると、中に入り、再度問題の場所に立った。自然の洞窟が人工的な石組みの通路に変わる場所。前に来た時にも転がっていた、焼け焦げたアキナスの杖。そして今回新たに加わった数体の黒装束の死体…。
 しかし、ヘスティアの姿はどこにもなかった。やはり、彼女はゾルティに連れ去られたのだ。
 二人は罠に気を付けながら通路の先にある聖剣の間へと進んだが、途中に罠などは見つからなかった。
 直径五十メートルほどの円形の部屋。ドーム型の天井には大きな浮き彫り。その浮き彫りは渦巻くような厚い雲と、その中で竜と戦う翼をもった男の姿を描き出している。そして、部屋の中央には小さな祭壇……。
 記憶にある通りだった。アキナスは以前、祭壇の上にあるものを手に入れようと前進して、罠にかかって記憶を失ったのだ。
 祭壇の上にあるもの? 彼は改めて祭壇の上を見た。しかし、そこには何もない。以前ここに来たときには、確かに何かが乗っていた。あれは…。アキナスは記憶をたどる。部屋の中央の祭壇、そして祭壇の上には……。
 石の箱。
 そう。確かにあの時、アキナスは祭壇の上に石の箱が置いてあるのを見た。その箱がない。おそらくその石の箱の中に聖剣が入っていたのだろうが、ルバートが持ち去ってしまったのだ。
 ビーナが祭壇に歩み寄り、その上に無雑作に腰を下ろして天井の浮き彫りを見上げた。
「遅かったようね」
「そうだな」アキナスも祭壇に歩み寄り、ビーナの脇に腰を下ろした。「やっぱり、ラフテックに乗り込むしかないか…」
「…ねえ、アキナス…」ビーナは浮き彫りを見上げたまま言った。「誰がこんなに大きなものを作ったのかしら。よっぽど暇だったんでしょうね」
 アキナスは微笑した。「それだけのことをする価値があると思ったんだろうよ」
「ねえ、アキナス」ビーナは祭壇の上に寝そべった。「ラフテックには、何が待っているのかしら…」
「さあ…」彼は頭の後ろに腕を組むと、ビーナの脇に体を横たえた。「何なんだろうな?」
 ビーナは何も言わなかった。アキナスは顔をビーナに向ける。相変わらず、彼女は天井の浮き彫りを見上げたままだった。
「ねえ、アキナス」ビーナが口を開いた。
「何?」
「アキナス……」ビーナは声をふるわせて、目を閉じた。
 アキナスは、ビーナをはげますように、彼女の手をそっと握る。
彼女はアキナスの手を強く握り返してくると、顔を彼の肩に押し付け、泣いた。
 アキナスは無言のまま、天井の戦士の浮き彫りを眺めた。
 伝説の戦士は背中についた翼で空を飛び、雲の中で破壊の黒竜と戦っている。戦士の腕の筋肉はたくましく隆起しており、片手に握られた大振りの剣が今にも黒竜めがけて振り下ろされそうだった。一方の黒竜は長い首をくねらせながら、何かに怯えたように口を大きく開けている。恐ろしげな竜としての姿とは裏腹に、その顔にはどこか人間くささがあった。目が細いために、口を大きく開けていなければ愛敬のある顔なのかも知れないとさえ思えてくる。一方、戦士のほうは男前で、毅然とした表情で剣を振るっている。大きく鋭い目、通った鼻筋、真一文字に結ばれた形の良い唇。アキナスに似ていなくもない。
 突然、祭壇の上を強い風が吹き抜けた。
 浮き彫りの雲が渦巻きながら流れはじめ、雲の中を稲妻が走る。筋骨たくましい戦士は剣を竜めがけて振り下ろし、竜は長い首を器用にくねらせてその剣の一撃をかわした。
 戦士が次の一撃のために剣を構え直しているところへ、竜は口から炎を吐き出す。とっさに戦士は片手に持っていた盾を突き出して炎を受けたが、全身をかばうことはできなかった。竜の吐き出した炎は戦士の下半身を焼き、戦士は苦痛に顔をゆがめた。
 竜はすかさず口を大きく開けて戦士の頭に食い付こうとし、戦士は死力を振り絞って剣を突き出す。竜が喉を剣で貫かれるのと、戦士が頭を噛み砕かれるのが、同時だった。両者の首から大量の鮮血が吹き出し、下からその様子を見上げていたアキナスめがけて、滝のように降り注いでくる。
 アキナスは両腕で顔をかばいながら目を閉じ、息を詰めた。
 が、何も起こらない。
 アキナスは恐る恐る目を開け、天井を見た。そこのあるのはただの浮き彫りである。渦巻く雲も、戦士も、竜も、すべて静止したまま動かない。むろん、出口がひとつしかない聖剣の間では、風が吹くはずもなかった。
「どうしたの?」ビーナが驚いたような表情で彼を見ている。
「いや」浮き彫りが動いていたと言っても信じないだろう、とアキナスは思った。「なんでもない」
「変なの」ビーナは微笑しながら、目の端に浮かんでいた涙をぬぐった。「浮き彫りの黒竜が怖かったんじゃないの?」
 その言葉は、あながち間違いではないかも知れない。しかし、アキナスはあえて何も言わなかった。
 そして、沈黙。
 二人の呼吸する音だけが、聞こえていた。ひんやりと張りつめたような空気。冷たい石の祭壇。巨大な天井の浮き彫り。すべてが死に絶えたような静寂の中で、自分の脈拍の音だけが響いているように感じられた。
「ねえ、アキナス」ビーナが言った。
「ん?」
「私、あなたに会えてよかった」
「何言ってるんだよ」
「最初はお宝目当てであなたに近づいたんだけど、今は違う。あなたがヘスティアのことを好きなのは知ってるし、私じゃだめなのも、知ってる。でも、私はあなたのことが好き。そばにいてくれて、ありがとう」
 言い終えてすぐ、ビーナはアキナスの頬に唇を押しあて、自分の頬をすりよせた。頬に感じられるビーナの体温を感じながら、アキナスは目を閉じた。
「そろそろ、行こうか……あまり時間はない」
「そうね…」
 ビーナはつとめて明るい声を出すと、彼から体を離した。
 アキナスは体を起こしながら思いをめぐらせる。ゾルティの本拠地は、信徒でない人間にとっては危険この上ない場所だ。二人で行って、無事にヘスティアを救出できるのだろうか? それよりも、助力を求めるべきでは? しかし、誰に? 最も強力な助っ人は、ヘスティアの父親、国王のアルフォンスだ。しかし、ここから首都へ戻るのは、時間がかかりすぎる。その間に、ヘスティアの身に何かが起こらないとも限らない…。
 アキナスはひとつの決断にいたり、すっくと立ち上がった。
「ビーナ、君に頼みがある」彼は静かな口調で言った。「首都へ行って、国王に助けを求めてくれ。一人娘がさらわれたと知れば、国王も黙ってはいないはずだ」
「あなたを一人でラフテックに行かせるわけにはいかないわ」ビーナは体を起こし、彼の顔をにらみつけながら反論する。「あなたが行くなら、私も行く」
「僕一人のほうが、何かとやりやすいんだ」アキナスは言った。
「何気取ってんのよ。確かにあなたは魔法が使えるけど、一人じゃ…」
「一人だから、安全なんだ。隠れやすいし、逃げやすい。君が助けを呼んで来るまでの間だけなら、自分の面倒くらい見られるさ」アキナスは口でそう言ったものの、内心では別のことを考えていた。それは、父のことだった。彼は、父に会って、決着をつけなければならない…。
「だって、いくら急いだって、五日はかかるじゃない。そんな…」
「頼む」アキナスは、短くきっぱりと言った。「お願いだ」
「…あなた、馬鹿よ」ビーナの瞳に悲しみの色が浮かぶ。
「自分でも、そう思う」アキナスはため息混じりに言った。「こんな無謀な作戦しか思い付かないんだからな」
「…私、王様なんかに会わせてもらえるのかな……」
「通路に落ちている僕の杖を持って行くといい。あの杖は、僕が国王からもらったものなんだ」
 ビーナはアキナスの表情から決意のほどを読み取ったらしく、ちいさくうなずいた。
「死なないでね、アキナス」
「大丈夫。やり遂げてみせるさ」
 二人は短い抱擁を交わし、それから洞窟を出た。そして、洞窟を出てからもういちど抱き合い、それぞれの目的地に向かうために別れた。
 アキナスが目指したラフテックは西部辺境の南部にある小都市である。もともと魔力が集中しやすい土地として名高く、昔の人々はそこが荒れ地の真ん中であるにも関らず、都市を建設したのだった。かつては魔法の真理を追及するための大学があり、非常に栄えている都市だったが、王位継承戦争によって都市は荒れ果ててしまったのである。
 今のラフテックは、ゾルティの手によって城砦都市と化している。ゾルティは新興宗教集団で、古い書物に書かれている破壊の神ヴェーリを崇拝していた。破壊とは時代遅れになった常識や旧秩序の破壊であり、世界の破壊や混沌を望むものではない、というのが彼らの言い分である。彼らの言葉を借りれば、ヴェーリによる破壊は「変化」であり、「覚醒」であるというのだ。この教義を広めて辺境のラフテックでの宗教的な統一と自治を確立したゾルティだったが、王国に対する納税などの義務は怠ることがなかった。このため表面的には実害がないので、国もゾルティの活動を放置していたのである。
 しかし最近になって、このゾルティを組織したのが先年の王位継承戦争で現在の国王と争って敗死したはずの魔法使いだ、という噂が囁かれるようになっていた。その人物の名前はボーデルといい、そのボーデルこそが、他ならぬアキナスの実の父親なのであった。アキナスがゾルティに興味を持ったのはこのためで、ゾルティについていろいろ調べるうちに偶然からゾルティの進める邪神召喚の儀式を察知したのだった。
 もしかすると父に会えるかも知れないという淡い希望があったからこそ、アキナスはビーナが同行することを拒絶した。もし父に会えるのなら、誰にも邪魔されずに一対一で話をしたかったのだ。
 聖剣の洞窟からラフテックへは、南に約二日の道のりである。アキナスは不眠不休で歩いて、この行程を一昼夜でこなした。ごつごつとした褐色の岩山の中腹にある城砦都市へ到着した彼の目にまず最初に飛び込んできたのは、遠目にもまぶしく見える白亜の城壁である。首都の中央にある壮麗な国王の居城と違い、ラフテックは街の全体がその高い城壁の向こうに隠されているのだ。明らかに実戦を前提にして、長期にわたる篭城に耐えられるように作られている。
 アキナスは少し離れた岩影からラフテックを観察しながら、城壁の向こう側へ入る方法を考えた。城門はひとつだけで、その唯一の城門は厳しく警備されている。むろん、城門を突破するなどという方法は論外だった。となると、夜の闇に紛れて城壁を乗り越えるしかない。しかしこの距離からでは、城壁によじ登るべき足がかりがあるかどうかは確認できなかった。
 あとひとつ、危険な賭けを選択することができる。城門に正面から近づき、自分はアキナスであると名乗って、父親に会いに来たと告げるのだ。アキナスの父親がゾルティを組織したという噂が本当ならば、中へ入れてもらえる可能性はある。しかし、アキナス自身が聖剣のことで何度かゾルティに命を狙われたことから考えて、うまく事が運ぶ確率は低いように思えた。それに、仮にその方法でラフテックの中に入ることができたとしても、ヘスティアを探して助け出すのに必要な自由を与えてもらえるとは限らない。
 アキナスは、夜になるのを待つことにした。
 岩影でじっと待つアキナスにとっては長く単調な時間が、静かに過ぎていった。太陽が照りつけ、アキナスの体はじっとりと汗ばんでいく。彼はポケットから歪んだオイルライターを取り出し、それを見つめることで時間を費やした。
 やがて太陽は西に傾き、周囲の明るい茶色の岩は赤へと変わる。そしてそれからいくらも経たないうちに、すべては夜の闇に没していった。城門の両脇と城壁の周囲に配置されたいくつかのかがり火が、ただ星空を焦がすばかりである。
 アキナスはライターをポケットに戻して星空を眺めながら、さらに時間をつぶした。そして人々が床に就くと思われる頃合を見計らって、ようやく腰を上げた。
 彼は城門からは死角になっている位置に忍び寄った。かがり火に照らされた石組みの城壁は、遠目に見たよりも凹凸が目立っている。よじ登るのに必要なだけの足がかりはありそうだった。迷う必要は、もうどこにもない。
 アキナスはふたつのかがり火の中間、最も暗い位置を選んで城壁に歩み寄った。両手の指と片足の爪先を城壁を組み上げている石と石の間にこじ入れ、しっかりと力を込めて体を引き上げる。もう片足をこじ入れる隙間を探り、足の場所を決めた。そして、再び片手で新たな手がかりを探る…。
 手、足、手、足の繰り返しで、彼の体は地面からどんどんと離れていった。体を引き上げるたびに、腰に下げた剣が城壁にぶつかってカラカラと音をたてる。さほど大きな音ではないが、周囲ではかがり火の燃える音しかしないために、彼の耳にはまるで鐘の音のように響いて聞こえた。ここで城壁を乗り越えようとしていることを自分から宣伝しているような気がして、なんとも落ち着かない。
 剣のたてる小さな音に怯えながら登り続けること数分、アキナスの額には汗が粒となって浮かび、呼吸は荒くなってきた。手足、とくに腕の筋肉は、はやくも重労働に耐えかねて悲鳴を上げはじめていた。新たな手がかりを求めて壁面をさまよう指先が、疲労のために震えている。
 アキナスは呼吸を整えながら残りの距離を見上げ、これまで登ってきた距離を見下ろした。まだ中間点くらいだろうか。しかし、筋肉の疲労はもう限界に近づきつつある。幸運にも警備が巡回してくるような気配はなかったが、彼は上まで登りきれるかどうかが不安になってきた。が、むろんここで引き返す訳にもいかない。アキナスは自分を叱咤して、再び壁をよじ登りはじめた。
 手、足、そしてまた手…。
 上を見上げる。まだ遠い。
 足、手。
 握力がなくなり、指が手がかりからはずれそうになった。慌てて指先に力を込めなおす。思わず、背中から落ちて地面に叩きつけられる想像をしてしまい、冷や汗がじわりと吹き出すのが感じられた。気を取り直して、体を動かす。
 足、手、足…。
 城壁の上端は遠くに見える。いくら登っても、なかなか近づいてこない。腕が重い。肩がだるい。足が痛い。体が休養を求めていた。しかし、休めるような場所はない。壁にへばりついている時間が長引くほど、疲労は増していくのだ。一刻も早く壁を登りきって体を休めたい、その一心でアキナスは登り続けた。
 上を見る。
 終わりがだいぶ近づいてきた。腕が震える。力が入らない。
 上を見る。
 あと少し。苦しい。もう終わりにしたい。
 上を見る。
 あとわずか。体を引き上げられない。全身に力を込める。思わず喉の奥から声がもれ、全身の筋肉が疲労に震えた。上端に手が届く。最後のふんばり。頭が城壁の上に出る。城壁の厚みは五十センチほどだったが、そのわずかな幅の上に体を乗せられれば、休むことができるのだ。両腕で体を引き上げる。胸まで上がり、そしてとうとう右足が上端にかかった。
 アキナスは五十センチ幅の城壁の上に全身を引き上げ、うつ伏せになって体を休める。体じゅうが痛く、とくに疲労しきった両腕は際限なく震えるばかりだった。もう壁登りは二度とするまい、と心に誓いながら、アキナスは呼吸を整えた。
 しかし、登っただけでは終わりにはならない。今度は降りなければならない。壁の上から内側を見下ろすと、地面に近づくにつれて厚みを増す城壁が、星明かりに照らされてほの白く見えた。むろん、まるで絶壁のようなこの城壁を、再び手がかりを探しながら降りることはできそうになかった。それほど彼の体は疲れていたし、疲れがとれるまで待っていたら夜が明けてしまいそうである。時間が経てばひどい筋肉痛になることは目に見えているため、休んでも今よりましな状態になるとは思えない。ならば、すぐに行動を起こすべきだ、とアキナスは判断した。
 もちろん、今の彼に残された方法は、たったひとつだけである。高さは普通の建物の三階分くらいだった。下の地面の様子をうかがうことはできなかったが、おそらく普通の土だろう。飛び降りて、飛び降りられないことはない。
 アキナスは腰の剣をはずし、少し離れた位置に放り投げた。剣は闇の中に消えていき、ザクッという音をたてる。続いて、背負っていた荷物。どさっという音。次は、自分の体の番である。
 彼は、疲労しきった体に鞭打って、城壁の上に立ち上がった。立った場所が高いせいもあって、風が強く感じられる。首をめぐらせると、星明かりにぼんやりと浮かび上がるラフテックの全容が一望できた。左前方には、ラフテック内でただひとつの明かりが見える。城門のかがり火だ。しかし、それ以外は真っ暗だった。無秩序に散在する民家の屋根や壁だけが、星のかすかな光を受けてぼんやりと闇の中に浮かび上がっているように見える。しかし、そのラフテックの中央には、浮かび上がる民家の屋根さえない、闇に覆われた空間があった。
 暗く、実体のない場所…。
 あそこだ。
 直感が、アキナスに告げている。その闇に覆われた空間に、目に見えない何かが感じられるのだ。
 行かなければ。
(なぜ?)
 そうしなければならない。
(どうして?)
 ゾルティの野望を阻止しなければ。
(なぜ?)
 ヘスティアを救い出さなければならない。
(どうして?)
 それが義務なのだ。
(それはありえない)
 なぜ?
(義務は他者が介在するときにのみ発生する)
 他者…ヘスティアだって、ビーナだって、いくらでもいるじゃないか!
 答えはない。ただ、風だけが、アキナスの体を強くあおっていた。今の会話は誰との会話だったのだろうか? 声には聞き覚えがあった。よく知っている感じのする人間の声である。しかし、誰かはわからなかった。
 畜生、もたもたしている暇はない。いくぞ!
 意を決して、アキナスは跳んだ。
 瞬間、記憶の断片が蘇ってくる。
「お父さん、待ってよ」高沢敏彦は言った。
「早く降りてこい」父は彼の顔を見上げる。
「でも、怖いよ」
「なら、降りてこんでもいい」父はぶっきらぼうに言った。「もう帰るぞ」
「やだよ」高沢は悲鳴に近い声を上げた。「お父さん、おいてかないで!」
「その木に登ったのはお前だ。降りたければ、自分で降りろ」父は、高沢に背を向ける。
「お父さん!」彼の涙まじりの声が、辺りに響いた。
 しかし父は振り返らず、彼を裏山に残して歩き去った。高沢は父を何度も呼んだが、父はその声を完全に無視した。父に見捨てられたという思いから、高沢少年は泣きわめく。まるでその彼の涙に誘われたように、空から雨粒が落ちてきた。遠くで、ゴロゴロと雷が鳴りはじめる。
 その時のことである。声を上げて泣き続ける高沢少年に、誰かが声をかけた。
(その木から、降りたいのか?)
 大人の男の声、落ち着いていて低く深みのある声だった。しかし、声の主の姿は見えない。驚いた彼は声の主を探して周囲を見回したが、その彼の頭の中に声が再度語りかけてきた。
(その木から、降りたいのか?)
「……うん…」高沢少年は、おそるおそる声に出して答えた。
(なぜ?)
「だって…」家に帰りたい。一人でいたくない。…しかし、たくさんある理由を、うまく言葉にすることはできなかった。
(理由もなく降りたいのか?)
「違うよ、降りたいから降りたいんだ」
(じゃあ、降りればいい)声が笑ったように感じられた。(飛び降りれば簡単だ)
「怖くてできないよ」
(大丈夫。下は土で柔らかいから、怖いことなんかない)
「でも…」
(さあ。飛び降りて、家に帰ろう)
「わかったよ…」
 そして、高沢敏彦は飛んだ。
 高沢の蹴った木の枝が大きく揺れ、葉がざわざわと鳴る。わずか後には、彼の体は地面に着いていた。着地した瞬間に強い衝撃があり、右足のかかとから腰のほうにまで突き抜けるような痛みがあった。しかし、彼は木から降りることができたのである。
「降りられたよ!」誇らしげに声を上げる高沢に、もはや何も言葉は返ってこなかった。
 彼は不思議な声のことを思い、首を傾げた。そして右足を引きずりつつ、次第に激しさを増していく雨にうたれながら家へと帰ったのである。高沢が家の玄関に入ると、そこでは父が傘を二本持って彼を迎えに出ようしていたところだった。
「…おかえり」父は小声で言いながら、手にしていた傘を傘立てに戻した。
 つい先ほどまで高沢がいた木に落雷があったのは、まさにその瞬間である。
 鼓膜が破れそうなほどの轟音に家が震え、家の中の電気製品が一斉に作動を停止した。突然のことに、父も息子もその場に凍りいてしまった。普段は何事にも動じない父のいかめしい顔が、後になって落雷のあった場所を知った瞬間に蒼白になったことが、彼の脳裏にまざまざと焼き付いている。
 あの時の声だ…。
 彼は地面に向かって落下しながら、そう思った。右足の軽い捻挫と引き換えに彼を落雷から救った声、以後何度か彼の頭に直接語りかけてきた声、高校の頃を最後に聞かなくなって久しい声……。
 本当にそんな事があったのか? 見えない誰かの声というのは、何かで読んだ空想物語の中での話ではないのか?
 記憶は、すでに輪郭を失っている。
 わからない…。何も……。
 黒い地面が急速に接近してきて、彼の足と勢いよくぶつかった。膝を曲げてクッションにし、そのまま体を右前方に回転させて衝撃をやわらげる。しかし、緩衝は不完全だったようで、両足首に鋭い痛みが走った。
 彼は体を起こし、足で地面を軽く踏みつけてみる。痛みはあるが、歩けないほどではないようだ。
 彼は先に投げ下ろしておいた背負い袋と剣を拾い上げ、ラフテックの中心部へと足を向けた。
 重苦しい疲労感が、足をひきずりながら歩く彼の全身を覆っていた。

     一二
 ラフテックの城壁の内側には、砂と岩に覆われた外側からは想像できないような、みずみずしい土地が広がっていた。湿っていて柔らかな黒土に覆われた畑があり、何かの野菜らしい植物が栽培されているのを、暗がりの中でぼんやりとながら見ることができた。
 ラフテックにはそのような畑が多くあり、一見すると豊かさに満ちているように思える。しかし、城壁を境にして荒れ地が肥沃な土地に変化していることは、どう見ても不自然だった。何か、作為的なものが感じられる。
 その理由は、少し考えるとすぐに理解できた。このラフテックは、魔法で土地を豊かにされているのだ。しかし、魔法でものの形態を変容させるには、非常に大きな力を要する。都市ひとつ分の岩と砂を豊かな土に変えるには、莫大な魔力がなくてはならないのだ。そして、それほど強力な魔法を持っている人物は、この世界に二人しか存在しない。一人はセローザ魔法王国の国王アルフォンス、もう一人はアキナスの父・反逆者ボーデルである。が、政務に忙しいアルフォンス王が、わざわざ辺境の一都市を富ませるために莫大な労力を使ったとは考えられなかった。
 三年前に死んだはずの父は、やはり今もここで生きているのだ…。
 このラフテックの豊かな土地を見て、アキナスは父の生存を確信した。父はここにいる…。そう思うと、会いたいという気持ちがどんどん強くなっていく。
 自然とアキナスの足は速まった。彼の引きずるような足音だけが、静寂に包まれたラフテックに響きわたる。しかし、住人たちが侵入者に気付いた様子はない。いや、気付いていて何もしていないのかも知れないし、そもそもこの静まり返った都市には住人など存在していないのかも知れない…。
 もはや、そんな事はどうでも良かった。
 父のもとにたどり着く前に何らかの形で妨害があるだろうことは、容易に想像することができる。が、重要なのは、ここまで彼が妨害を受けていないという事実だった。一歩でも父に近づくことが、今のアキナスにとっては唯一可能なことなのだ。
 突如、街並が途切れて視界が広がった。地面はそこで唐突に終わり、直径百メートルはあろうかという巨大な穴が口を開けている。
 アキナスは恐る恐る巨大な穴の縁に立ち、中をのぞき込んだ。穴は垂直には落ち込んでおらず、彼の立った位置から見て左方向へ七十度くらいの角度で落ち込んでいる。どこまで続いているのかわからないほど深い穴の奥底では、かすかな光が明滅していた。
 この底に、父がいる…。
 周囲の様子をうかがうと、星明かりのおかげで穴の縁に木造の小屋が立っているのが見えた。その木造の小屋が穴と何か関係あると推測したアキナスは、小屋に向かって足を一歩踏み出した。
 しかし、その瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。頭を万力に挟まれたような、文字通り頭が割れてしまいそうな激痛である。耳鳴りとめまいが、苦痛に追い撃ちをかける。アキナスは頭を抱えて、その場にうずくまった。聖剣の洞窟でルバートに襲撃された時とまったく同じ苦痛だった。
 苦しい!
 アキナスは一刻も早く苦痛が去ってくれることを願いながら、ひたすらに待ち続けた。しかし、苦痛は去らない。
 誰か助けて!
 むろん、誰も助けてはくれない。彼は息も絶え絶えに、地面の上をのたうち回った。
 死にそうだ!
 しかし、アキナスの頭の中にある何者かの知識が反論する。
 これはサイテニッツが開発した「反魔法波動発生装置」が稼働したことに起因する、魔法が使える者にだけ感じられる苦痛なのだ。最終的にこの装置の作動によってセローザ魔法王国は崩壊し、魔法使いたちはこの世界から姿を消す。しかし、それは魔法使いが死に絶えてしまうのではなく、魔法を使えない普通の人間として生活していくことを意味している。魔法使いは装置によって発生させられた「反魔法波動」の苦痛に耐えながら、以後も普通の生活を送るのだ。すなわち、この苦痛は「耐える」ことができる性質のもので、死んでしまうような性質のものではない!
 駄目だ、耐えられない!
 …耐えるんだ!
 できない!
 …父に会いたくないのか!
 彼の脳裏に、父親の姿が浮かんだ。三年前に死んだはずの父親。強い父親。強さの中に息子への愛情を隠し持っていた父親。
 父には言いたかったことが山のようにある。それを告げるだけのためにも、父のもとへ行きたかった。会いたいのだ。
 アキナスは苦労して体を起こし、木造の小屋を見据えようとした。しかし苦痛のあまり、目の焦点が合わない。彼は立ち上がろうとしたが、バランスが保てずに転んだ。横倒しになった彼の肩から上が、深い穴の上に乗り出すような格好になった。
 奈落の底から吹き上げてくる微風が頬を撫で、霞んだ目には明滅する光が見えた。
 行かなければ…。
 彼は自分にそう言い聞かせ、死力を振り絞って再度体を起こした。そして、剣を杖がわりにして立ち上がる。
 と、いつの間に現れたのか、目の前には一人の男が立っていた。男は、思うように動けないアキナスの顔面を殴りつける。アキナスはなすすべもなく、再び倒れた。
「よお、アキナス」男は言いながら、倒れたアキナスの腹を蹴った。「こんなとこに来ちゃ、駄目じゃんかよ」蹴る。「おめえなんか」蹴る。「俺が呼ぶまで」蹴る。「おとなしく家で寝てりゃあいいんだよ」蹴る。「わかったか?」蹴る。「わかったんなら」蹴る「『わかりました、ルバートさん』って言えよな」蹴る。
 アキナスは、自分を蹴り続けている男を見上げた。暗くて顔はよく見えない。しかし、声には聞き覚えがあった。安岡弘典。恐喝の常習犯。髪を茶色に染め、額が狭く、品のない顔をしている男。自分より力の弱い人間しか相手にしない、クズ中のクズ。
「おら、どうした?」蹴る。「俺が言えってことを」蹴る。「言えないのかよ」
 その蹴りは、先ほどから彼を苦しめている激しい頭痛に比べたら、羽で軽くなでられている程度にしか感じられない。アキナスは頭痛に耐えながら安岡に向かって言ってやった。
「…くたばれ、悪党……」
「ふざけやがって」安岡は言うなり、アキナスの左腕を掴んだ。「俺にたてつくとどうなるか、教えてやる!」
 言葉が終わるか終わらないかのうちに安岡の手からブレードの魔法が放たれ、アキナスの左手首が切断された。
「っ!」アキナスは声にならない悲鳴を上げた。頭痛はきれいに吹き飛んだ代わりに、左腕から脳天まで貫き通すような激痛が走る。手首は地面に落ち、切断された左腕からは際限なく血が流れ出した。
「ほら、言えよ」安岡は左腕を再度引っ張った。「今度は肘から先を切っちゃうぜ」
「…なぜ…魔法が使えるんだ……?」アキナスは顔を歪めて激痛に耐えながら、ようやくそれだけの言葉を口にした。
「うるせえ、質問なんかできる立場にあると思ってんのか?」
 安岡の言葉と同時に、今度は左肘から先が切断された。アキナスは痛みにのけぞる。まるで棒切れのような形をした前腕部が、音をたてて地面に転がる。
 なぜ、魔法が?
 アキナスは心の中で問いかけた。それに対する回答が、やはり心の中に返ってくる。
 反魔法波動発生装置の効力から逃れるには、特殊処理されたネックレスを着用する必要がある。奴の首にかかっているネックレスをひきちぎるのだ。そうすれば、奴も頭痛に苦しむことになる。
 アキナスは、安岡の首のあたりを見た。暗くてネックレスがあるのかどうかわからない。
「おめえ、むかつくんだよ」安岡は言った。「おめえのせいで、全部ぶちこわしだ」
 アキナスは何も言わず、ただ安岡の胸元に目を据えながら、切断された左腕の痛みをこらえてた。
「聞こえてんのかよ」安岡はあざけるように言った。「答えないつもりか? こっちの手も切られたいのか?」
 安岡がアキナスの右腕をつかもうとして体をひねった瞬間、胸元で何かが星明かりを受けてきらめいた。アキナスは迷わず、安岡の胸元できらめいたものに手を伸ばした。安岡の体温でぬくんだ、細い金属の鎖のようなものが手に触れる。
「てめえ、何しやが――」
 安岡の声を聞き流して、アキナスは金属の鎖をつかんだ右手を強く引いた。ペンダントのひもが切れる手ごたえとともに、それは安岡の首からはずれ、安岡の声は悲鳴に変わった。
「あああぁぁぁぁぁっ! 頭がぁぁっ!」安岡は地面に転がり、頭を抱えながら足をばたつかせている。
 アキナスはゆっくりと体を起こし、取り落としていた剣を拾い上げ、地面に仰向けに横たわって苦痛に喘いでいる安岡の胸につきつけた。
「さよなら、ルバートさん」
 剣に体重をかけると、剣が安岡の胸を貫いて地面まで届くのを、アキナスは右手に感じることができた。と同時に、安岡の苦悶の声はぱったりと途絶える。アキナスは剣をそのままにして、地面にへたりこんだ。肘から先を失った左腕がひどく痛む。その痛さは先ほどまでの頭痛の比ではなかった。
 アキナスはひきちぎったネックレスを首にかけようと思ったが、その時改めて左腕が失われていることを意識した。ネックレスはひきちぎった際に留め具がこわれたらしく、片腕だけではどうしようもない。彼はネックレスをかけることは諦め、着ていた革製のベストの内ポケットに入れた。
 それからアキナスは痛む左腕に向かって癒しの魔法をイメージしようとた。しかし、集中できない。切れたネックレスでは効力がないのか、痛みで気が散っているだけなのか、とにかく魔法で腕の手当てをすることは諦めなければならなかった。しかし、傷口から血はどんどん流れていく。
 アキナスは、安岡の着ていた衣服を片腕で切り裂き、肘から先を失った左腕にきつく巻きつけて締め上げ、どうにか止血をした。
 そして、歯を食いしばって激痛に耐えながら、彼は立ち上がる。夜明けが近づいているのか、心なしか空が白みはじめているようだった。アキナスはその空を仰いで大きく息を吐き出すと、死体から剣を抜き取って小屋へと足を踏み出した。
 痛みは、ともするとアキナスの意識を霞ませる。彼の左側で口を開けている巨大な穴に落ちないように歩くには、かなり集中していなければならなかった。剣を杖がわりに、一歩、また一歩と足を進める。最初に見た時にはさほどにも感じられなかった小屋までの距離が、とてつもなく長く感じられた。
 やっとのことで小屋にたどりついた頃には、左前方の空が明るくなり、黒かった夜空が紺色へと変化しつつあった。夜明けが近いのだ。
 彼は片腕で杖がわりの剣の柄にすがりながら一息つき、それから小屋の中に入った。
 小屋の中は、まだ暗かった。アキナスの背後から入り込んでくる夜明けのかすかな光が、がらんとした小屋の中を照らしているだけである。中央にはらせん階段の入り口があったが、近づいてのぞき込んでみると、そこは明かりひとつない真っ暗闇に支配されていた。
 魔法が使えない今となっては、明かりを灯すことも火をおこすこともアキナスにはできない。が、彼はポケットに父のライターが入っていたことを思い出した。
 彼はライターを取り出したが、歪んでしまったせいでフタがなかなか開かない。片腕で苦労してこじ開けたが、火はつかなかった。アキナスは何度かライターを試し、やはり火がつかないことを確かめると、諦めてポケットに戻した。
 アキナスは暗闇に満たされた階段に飛び込む決意を固めるために、ゆっくりと深呼吸をした。すでに腕の傷の痛みはしびれたような弱い痛みに変わっており、代わりに頭痛が蘇りつつある。が、この程度の痛みならば、行けそうな気がしてきた。
 もとより、選択肢はそれしかないのだ。彼自身が行けると思うか思わないかは、取るに足りない問題だった。
 彼は意を決して、らせん階段を下りはじめた。
 剣を持った右手でらせん階段の壁に触れながら、アキナスは暗闇に包まれた階段をゆっくりと下りていく。すぐに小屋の入り口から入ってきていたかすかな光さえも届かなくなり、階段は鼻をつままれてもわからないほどの暗闇に包まれてしまった。アキナスが頼りにできるのは、手に触れる壁と足が触れる階段だけだった。
 足で次の段を探り、体を下ろす。そしてさらに次の段を足で探り…。
 果てしなく続く単調な作業が、アキナスの感覚を狂わせていく。
 手にした剣が壁に当たる音も、足音も、そして自分自身の呼吸の音でさえも、すべてがどこか遠くの別世界から響いてくるようだった。失ったはずの左腕も、暗闇の中ではちゃんと存在しているように感じられる。腕の痛みも、頭痛も、耳鳴りも、どれも問題ない程度に軽く感じられた。
 しかし、遠のいていく痛みとは対照的に、闇は息苦しさをともないながら彼に迫ってくる。迫ってきて、彼の体を押し包み、じわじわと体を溶かしていくようだった。体が溶け、意識も溶け、すべてが形を失っていく…。
 闇に浸食された彼は彼でなくなり、やがて闇の中に浮遊する塵となった。
 らせんは回る。
 塵は果てしない落下を続ける。閉じられた闇の空間。始まりもなく終わりもない闇…。
 ふと、塵は闇の中で、おのれの存在を思った。
 僕は、どこにいるんだろう…?
(『ここ』だよ)
 『ここ』って?
(ここは『どこか』)
 『どこか』って?
(俺のいる場所さ)
 君は誰?
(不完全な人間)
 普通の人間と、どう違うの?
(どこも違わない)
 なら、みんな不完全なんだね?
(そうだし、そうじゃない)
 わからないよ。
(わかるし、わからない)
 どっちなのさ。
(どっちでもない、でもどちらか片方だけだ)
 教えてよ。
(教えられるが、教えられない。言葉は無意味だ。言葉は記号。記号はそこにあるか、それともないか、どちらかだ。二つの価値しかない。そんな小道具で、何ができる? 言葉が存在しないことが、そのものの非存在の証明になると思うか?)
 ちょっと待って。
(待てるが、待てない。時間は無限にあるが、限られている。ここでも言葉は無意味だ。言葉は記号。記号は具象。具象で抽象を表わすことは、できない)
 何を言いたいのかわからないんだってば。
(これから俺が提起する質問に答えられれば、わかるかも知れない)
 質問?
(そう、質問。その一、三択問題。俺は何かを言いたいが、何も言いたくない。俺は何かを言いたいが、何も言わない。俺は何かを言いたいが、何も言えない。さあ、どれが本当だ?)
 知らないよ、そんなの。
(その解答は部分的に正解。三角だ。では質問その二。ここはどこだ?)
 邪神ヴェーリを召喚するための儀式が行われている場所へ続くらせん階段。
(それはどこにある?)
 ラフテック。
(それはどこにある?)
 セローザ王国。
(それはどこにある?)
 ヴァルティア世界。
(それはどこにある?)
 ………。
(やはり部分的に正解。本質をついていないので、三角マイナス。続いて質問その三、俺は誰だ?)
 僕とずっと一緒にいた人。でも誰だかわからない。
(大正解、と言いたいところだけど、あと一歩。限りなく正解に近い三角。さて、次はいよいよ最後の質問。君は誰?)
 僕はアキナス。もしかするとアキナスになったつもりの高沢敏彦。
(これも部分的正解。質問終わり)
 ちょっと、いったい何が…。
 その瞬間、らせん階段は唐突に終わり、その変化がアキナスの感覚を呼び戻した。いくら足で探っても、次の段は見つからない。
 右手で壁を伝うと、そこが行き止まりになっていることがわかった。アキナスはその突き当たりを探り、扉の取っ手を見つけた。取っ手を回すと、扉は小さくきしみながら開き、その向こうからは弱い光が忍び込んでくる。
 扉の向こうはさほど広くない部屋だった。暗がりに慣れた彼の目は、その中央に立つ人の姿をはっきりと見ることができた。小柄で痩身ながら、バイタリティに溢れた男。見覚えがある。彼は……。
「君のおかげで、メチャクチャだよ。わかってる?」張りのある声が、アキナスに向かって発せられた。
 その声も、アキナスは知っていた。GSA社の営業課長、小久保秀明の声。頭の回転がずばぬけて速く、それゆえに普通の人間を見くだしてしまう傾向のある男。悪い人間ではない。しかし、アキナスは彼が苦手だった。
「だいたい、予定通りに進んだためしがないじゃないか」小久保の表情は苛立たしげに歪んで見えた。「予定通りに進まないのがわかってるんだから、予定をたてる段階で修正を加えておけばいいんだよ。こっちはその予定に合わせて動いてるんだからさ、今さら予定通りにならないっていうのは、ちょっと筋が通らないだろ?」
 アキナスは何も言わず、小久保の表情をうかがった。
「どうしてくれるんだよ。俺はこれから君の味方になって、ちょっといいところを見せるはずだったのに。このままじゃ、君を背中から刺しただけの、ただの殺し屋ビベロのままで終わっちゃうじゃないか。聞いてる?」
「どうすればいい?」アキナスはつぶやくように言った
「もう、どうしようもないよ。ここまで話を変えられたら、お手上げじゃないか。ほんと、頭にくるよなあ……」
 瞬間、小久保の体が滑るように動いた。接近してくる小久保の目は殺意に満ち、らんらんと輝いていた。
 アキナスは反射的に体をひねり、右手に持っていた剣を振るった。剣が骨を砕く手ごたえがあったのと、左下腹部に鋭い痛みが走るのが同時だった。小久保の体から赤いしぶきが飛び、彼の顔面にかかる。小久保の血は生臭く、どろりとしていて鉄の味がした。
 小久保はアキナスの足元に倒れ、そのまま動かなくなる。辺りは静まり返り、アキナスの呼吸音だけが響いた。
 彼は痛む腹部を見て、そこにナイフを発見した。ナイフは左足のつけねの少し上、へその左下に突き刺さっている。血はそれほど出ていない。
 アキナスは、改めて室内を見回した。部屋の四隅に立てられた燭台の蝋燭が、室内を照らしている。不自然な体勢のまま動かない小久保の体。そして、正面の壁には扉がひとつ。
 刺さったナイフのおかげで硬直して動かない左足を引きずりながら、アキナスは扉へ一歩近づいた。
「ビベロの言う通りだ」やや高めの男の声が、扉に近づこうとした彼の背後から響く。
 振り返ると、そこには船岡健一が立っていた。GSA社の音楽担当。歳の上下に関係なく、誰にでも言いたいことを言う男…。
「俺だって、仲間に加わる予定だったんだ。反魔法波動発生装置の効力から逃れるネックレスは俺があんたに渡して、一緒に邪神召喚を阻止することになってたんだぜ。それを、無茶苦茶にしちまって。結局、ろくな出番がないまま終わっちまうじゃないか…」
 船岡がゆっくりと近づいて来る。その表情には殺気があふれていた。
「やめてくれ。君とは戦いたくない!」アキナスは悲痛な声を上げた。
「甘えるな!」
 船岡は、怒声とともに剣を振り下ろす。よける余裕さえなかった。耳元で剣が空気を切る音を聞いた直後、アキナスは左肩へ激しい衝撃を受けた。その痛みに悲鳴を上げながら、アキナスは右手に持った剣を突き出す。
 手ごたえがあって、船岡はゆっくりと床に崩れ落ちていった。アキナスは、船岡の体から苦労して剣を抜くと、それを杖がわりにして一息ついた。
 肩の傷が痛くて、気が遠くなりそうだった。傷の状態を調べる余裕さえない。ただ、もう何もかもを放りだして、ゆっくりと休みたかった。
 しかし、新たな人物が登場して、アキナスに声をかける。
「ビベロやトロンメルはまだいい」かすれ気味の低い声に、アキナスは顔を上げた。
 今度は砂田治だった。GSA社のプログラマー。温厚だが人付き合いのあまりうまくない、天才肌の職人である。
「私はどうだ? 最初からまともな役さえ与えてもらっていないじゃないか。科学で魔法を分析しようとする組織のリーダー? 聖剣を調べたいという理由だけで、部下のトロンメルに君をスパイさせた男? 反魔法波動発生装置の発明者? それがどうした。全部、言葉でそう語られているだけだろう? 中身のない、うすっぺらでどうでもいい存在じゃないか。しかもその挙げ句に、私は邪神に殺される役でしかないんだ…」
「……もう…やめてくれ…」アキナスの声が虚しく響いた。
 殺気のみなぎった表情をした砂田が、手にした棒きれを振り上げる。
 アキナスは剣を振るい、砂田の腹を切り裂いた。同時に、砂田の振り下ろした棒きれが彼の顔面を打つ。眼前に火花が散ってアキナスは大きくよろめいたが、辛うじて転倒はしなかった。砂田が倒れる音を聞きながら、彼は頭を振る。もう、体のどこが痛くてどこが痛くないのか、正確に把握することなどできなかった。
「まったく、その通りだ」舞台俳優としても通用しそうな、深みのある男の声がした。かすむ目で見ると、そこには長身で肩幅の広い男が立っている。
 山賀明。父の友人で、東京での一人暮らしの面倒をいろいろと見てくれた人物だ。
「おじさん…なんでこんなところに?」
「国王アルフォンスの役をもらったが、しょせんは肩書きだけだ」山賀はアキナスの問いには答えず、厳しい口調で彼を非難する。「問題が起きた時だけ頼ってきて、それ以外の時には見向きもしない。俺は、お前の道具か?」
「…そうじゃないんです……」アキナスは絶望的な気持ちで反論しようとした。しかし、言葉が浮かんでこない。「……待ってください、おじさん…」
「待てない」山賀は血走った目を大きく見開きながら、近づいてくる。「お前はすべてを精算しなければならないんだ」
「いやだ…おじさん……もうこれ以上…」アキナスの首に、山賀明の力強い腕がつかみかかり、彼の言葉を途切れさせた。
 首が締められ、気管が押し潰されそうになる。
 いやだ!
 心の中の叫びとともに、アキナスは剣を突き上げた。ぐっ、というくぐもった声がして、彼の首から手が離れた。崩れ落ちる相手の体から剣が抜けず、アキナスの手から剣がすりぬけていく。
 なぜ? なぜだ? どうして?
 アキナスは、ただ問い続けた。戦わなければならない理由がどこにあるのか。傷つかなければならない理由がどこにあるのか。そうまでして前に進まなければならない理由がどこにあるのだろうか。
 畜生!
 そもそも理由が存在すべき理由があるのか?
 答えはない。かわりに、ささやくような声が聞こえてきた。
「見捨てられるの、嫌っすよ」
 見ると、そこにはGSA社のアルバイト・菱沼登が立っていた。しかし、その胸には大きな切り傷があり、砕けた肋骨が露出している。
「…ああ……そんな……」アキナスは硬く目を閉じた。
 これは悪夢だ、悪夢なんだ……。
「知ってたんでしょ、僕が殺されるの。見殺しにするのって、やっぱひどすぎません?」うらめしそうな菱沼の声が聞こえる。
 アキナスには返す言葉がなかった。
 風を切る音がして、左足に何かが当たった。目を開けると、腿に深々と突き刺さったナイフが見えた。
「ずるいっすよ」菱沼が言い、手にしたナイフを投げた。風を切る音がして、頬を何かがかすめていく。「ほんと、やってらんないっすよね」菱沼はもう一度ナイフを投げる。ナイフは、すでに感覚のほとんどない左肩に刺さった。
 畜生、いい加減にしろ!
 彼は左肩に刺さった短剣を無雑作に引き抜き、投げ返した。ナイフは菱沼の喉を貫き、菱沼は声もなく倒れる。
 また、殺した…。
 アキナスはうつむきながら、震える息を吐き出した。
「よくもベケットを殺したわね」透明感のある女の声がして、声同様に長身で細身の女が姿を現す。
 GSA社の社長秘書・小原映子。
 アキナスは言うべき言葉を捜したが、何も見つけることはできなかった。
 小原は、ゆっくりと弓に矢をつがえる。それが意味することに気付いたアキナスは、激しい恐怖を感じながら逃げようとした。しかし、手遅れだった。
 気付いた時には、彼は仰向けに倒れていた。長い棒が、顔から突き出しているように見える。手で触れてみると、ちょうど左目のあたりに棒が刺さっていた。矢の先端は眼球を貫き、アキナスの眼窩の奥へ消えているのだ。
「馬鹿な男」言いながら、小原が近づいてくる。「みんな、あなたの欲望を満足させるための道具なのよね。やってられないわ」
 どんなに気があせっても、傷つき疲れ果てた体は、もはや動こうとはしなかった。
 もう、どうでもいい…。
 ゆっくりと、意識がアキナスの肉体から離れていこうとした。しかし、その途端に、股間を蹴り上げられる。それまでとは異質な苦痛のおかげで、遠のきかけた意識がいくぶんはっきりとした。
「どうしたの? 他の人たちと同じように、私も殺しなさいよ」小原は、横たわったままのアキナスを、軽蔑の表情を浮かべて見下ろしていた。「それとも、私が女だから殺せない? そうよね。女は殺す対象じゃなくて、甘えたりセックスしたりするための道具だもんね」
 違う…。
 アキナスは心の中でつぶやく。しかし、意識の奥には小原の言葉を否定しきれない彼自身がいた。
「どう? 私と、したい?」小原の顔に、妖艶な、しかし作為的な笑みが浮かんだ。
 それだけの意味しかないのか?
「ずっと、したかったんでしょ?」小原は意味ありげに唇をなめる。
 自分にとって、女というのはそれだけの意味しかないのか?
「いいわよ、好きにして」小原はゆっくりと着衣に手をかけた。
 本当にそれだけの意味しかないのか?
「動けないのね? じゃあ、私がしてあげる」小原は片手で服を脱ぎながら、アキナスの下半身に覆いかぶさった。
 …違う……。
 ズボンの布を通して、アキナスの股間にひんやりとした手が触れたのがわかる。手は、ゆっくりと彼の股間をなでさすった。
 ……やめろ!
 アキナスは、小原の手を払いのけようとした。しかし、もはや無傷のはずの右腕さえ、思うように動かせない。
「その体で、何をしようとしてるの?」小原が股間をまさぐる手を止め、笑った。「今のあなたがどんな格好をしているのか、見せてあげたいわ。腿にはベケットのナイフ…」小原は、腿に刺さっていたナイフをひねりながら、さらに深く押し込んできた。
 激痛。アキナスは歯を食いしばってその痛みに耐えた。
「そして、お腹にはビベロのナイフ」腹に刺さっていたナイフも、同様に押し込まれる。
 鋭い痛みが腰から背骨へ駆け抜けるように感じ、アキナスはその苦痛にのけぞった。
「左手はルバートに切られたし…」左腕の切断面を、小原は拳で強く打ちすえた。衝撃とともに、鈍痛が走る。
「肩はトロンメルに切られたのよね」肩に激痛。小原は傷口に指を差し込んでいるようだ。
「それに、左目には私の射った矢が……」小原は、アキナスの左目に刺さっている矢をつかみ、ゆっくりと押し込んでくる。
 彼は残っている力のすべてをふりしぼって右腕をもちあげ、小原の細い首をつかまえた。
 そして、迷わずその首を締める。左目から全身を突き抜けていくような苦痛に耐えながら、アキナスはただ小原の首を締め続けた。彼女の喉に親指がめりこんでいき、気管を押し潰していく。今まさに人を殺そうとしている、生々しい感触が手に感じられた。
「…そう」首を締められたことで、小原はそれまでとは別人のような、押し潰された平たい声で言った。「その調子よ。いいわ……」
 やがて、小原の体から力が抜けていき、アキナスの体の上にのしかかったまま動かなくなった。彼はその体をどかそうとしたが、重くて動かない。
「ひどい…」丸みのある女の声。優しい声。岩永めぐみの声。「可愛そうに…こんなにひどい怪我をして……」
 視野の隅に、岩永の姿が見えた。彼女は駆け寄ってくると、彼の体の上にのしかかっていた死体をどかした。そして、彼女のあたたかな手が、アキナスの頬を撫でる。
「…あぁ……」彼の口から、言葉にならない声が漏れた。
「何も言わなくていいんですよ。今、治してあげますから」
 全身が、何かあたたかいものに包まれていくように感じた。とても気持ちがよく、彼はゆっくりと目を閉じた。
 左目から矢が取り除かれるのが感じられた。腹と腿からナイフが取り除かれるのも感じられた。苦痛は減少し、平安が満ちていく。
 この安らぎは、何だ?
 とてもなつかしい、かすかに甘い香りがする。
 この香りは、何だ?
 彼は、誰かの腕に抱かれていた。彼を抱いている腕は、彼の背中を優しくリズミカルに叩いている。静かな子守歌が聞こえてきて……。それは無条件で彼を受け入れてくれる存在。どんなに駄目な息子でも、許してくれる存在。
 母さん…。
「ゆっくり休みなさい。お前は疲れているんだから」
 ごめん、ここ二年、ろくに連絡もしてなかった……。
「何言ってんの。そんなことは気にしなくていいんだよ」
 母さん!
 アキナスは目を開けた。そこには岩永の丸い顔があって、母の姿はどこにもない。
「少しは楽になりました?」岩永が言う。「左目と左腕はどうしようもなかったけど…」
 岩永と大学時代に付き合っていた女、そしてヘスティアと母親の四つのイメージが交錯した。岩永=初めての女=ヘスティア=母親。アキナス=高沢敏彦。すべては必然で結ばれていたのだ。
 その瞬間、アキナスは無意識のうちに覆い隠されてきた自分自身の一部を垣間見た。
「なんてことだ…僕は……畜生、ここで休んでいるわけにはいかない…」
 アキナスは岩永の腕の中で、ゆっくりと体を起こす。
「駄目です。まだ休んでなきゃ」岩永は、彼の肩にそっと手を置いた。
「…行かなきゃならない。休んでなどいられないんだ……」アキナスは言った。
「行くって、どこへ?」
「向こうへ」アキナスは扉を指した。
「ここ、気に入らないんですか?」岩永の表情が曇る。
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「やるだけのことはやったと、思いたいじゃないか」
「そのために、どれほど辛い目に遭うとしても?」
 答えるまでもなかった。
 岩永がため息をつくのが聞こえた。アキナスは彼女の柔らかな腕に多少の未練を感じながらも、決然として起き上がった。痛みは薄れていたが、まだ左足はひきつったように硬直している。肘から先のない左腕が、体のバランスをたもとうとして宙をかいた。
「行くなら、私を殺してください…」岩永はうつむいたまま、悲しげに言った。
「…なぜ?」アキナスは問いかける。
「行ってしまったら、二度と帰ってこないんです。私にはわかります」そう言う彼女の声は、涙声になっていた。
「何を根拠にそんなことを?」アキナスは苦笑した。「用事を片付けたら、すぐに戻ってくるよ」
 その時、扉の向こうから荒れたガラガラ声が聞こえてきた。
「おい……」聞き覚えのある、父の声だ。
 アキナスは左足を引きずりながら、扉に向かって進んだ。
「いったい、いつまでかかっとるんだ…」父が、扉の向こうで言っている。
 アキナスの背後では、すすり泣く声が聞こえた。
「きっと、戻ってくるさ…」アキナスは、うつむいたままの岩永に向かって言うと、ドアノブに手をかける。
「父さん、今行くよ。待たせたね」彼はドアノブを回し、扉を勢い良く引き開けた。

     一三
 瞬間、彼の体はまばゆいばかりの白光に包まれた。
 そこは、床も壁も何もない空間だった。ただ漠然と広がるその白い光に包まれた空間の中に、彼は立っている。白く清潔な感じのその空間では、彼の汚れた姿はとても異質なものに見えた。血がこびりついて、ところどころ裂けた衣服。傷だらけの体…。
 彼から少し離れた場所には一人の男が立っており、彼のほうを見ていた。男は体格が良く、いかつい顔をしており、白髪頭だった。
 父・高沢和男に間違いなかった。
 彼は左足をひきずりながら、父に近づいていった。父は息子の顔をまっすぐに見つめ、息子は父の顔を見返す。
 どちらも、何も言わなかった。
 息子は傷ついた体を必死に動かして父に近寄ろうとし、父はそんな息子を見つめながら目を細めた。
「…やあ……」沈黙に耐えられなくなった息子が、声を出した。「久しぶり…」
 父は無言のまま、小さくうなずいた。
「どうしてた?」
「どうもしとらん」父は短く言った。
「元気?」
「それなりに、な」父は苦笑した。「死ぬと、それまで見えなかったものが見えるようになる。いろいろ勉強にはなるが、この経験を次に生かすチャンスはない」
 やはり父は死んでいたのだ、という思いが胸中にあふれ、彼は言葉を失った。
「それにしても」父はため息をついた。「まったく、お前は世話を焼かせる奴だ」
「そう?」彼は首を傾げた。「…そうかもね……」
「ふむ…」父は鼻を鳴らすと、息子に背を向けて歩きはじめた。「これだけは憶えておけ。決めるのはお前なんだ」
「待って、父さん!」彼は父を追おうとしたが、傷ついた体が思うように動いてくれない。
 父は振り向かず、白光の中をゆっくりと遠ざかっていく。
「父さん、僕はもっと話をしたいんだよ!」
 父は足を止めた。
「ずっと、言いたかったんだ…」しかし、肝心の言葉が出てこなかった。
「なんだ、いまさら」父が小さく笑うのが聞こえた。「わかっとる。もう、何も言うな…」
 背中を向けている父の顔に浮かんだ表情が、彼にはなんとなく見えたような気がした。
 と、アキナスは何かにつまずいて、倒れた。
 うつ伏せになった彼の眼前には、柔らかい濃褐色の地面があった。周囲を包んでいた不思議な白光は消えており、その代わりに頭上から弱い光が降り注いでいる。誰かが遠ざかっていく足音が聞こえ、薪のはじける音がした。
 アキナスは顔を上げた。
 そこは、直径百メートルほどの円形の空間だった。その中央には、つやのある青い石で組み上げられた、腰ほどの高さの台がある。台の上には、直径一メートルほどの黒い玉が鎮座していた。玉は光沢のある台座とは対照的に、何も反射しない深い黒色を湛えている。玉の両脇にはかがり火が燃やされており、煙がゆっくりと立ちのぼっていた。
 アキナスはその玉に歩み寄っていく、高沢和男の外見をした父・ボーデルの姿を見た。
「父さん!」
「見ろ、もう手遅れだ」ボーデルは玉の前に立ち、両腕を広げて天を仰いだ。「時は満ちようとしている。偉大なるヴェーリ神の降臨は、もうすぐなのだ!」
 アキナスは傷ついた体を酷使しながら立ち上がると、ボーデルの視線を追って天を仰いだ。そうして初めて、彼はそこが穴の底であることに気付いた。
 アキナスとボーデルのいる円形の空間を取り囲む高い壁は、遥か上方まで続いている。その頭上にのしかかってくるような壁の途切れた先に、穴の入り口が丸く見えていた。そこから見える小さい空の中央には、光を失いつつある太陽が浮かんでいる。
 皆既日食。
 すでに太陽の大半は黒い影に隠れてしまっており、肉眼での直視が耐えられる程度の光しか放っていない。
 祈り重ねて時は満ち、破壊の黒竜よみがえる……その伝承が、まさに実現しようとしているのだ。「祈り重ねて」は台の上の黒い玉を意味し、「時は満ち」は皆既日食を意味する。台上の黒い玉には邪神の降臨を求める人々の思いが込められており、皆既日食の時にその祈りが実を結ぶのだ。
 阻止するには、玉を破壊するしかない。しかし、破壊するためには聖剣が必要だった。もちろん、今のアキナスには、聖剣どころか武器になるべきものなど何もない。それに、たとえ何か持っていたとしても、それを満足に扱えるような状態ではなかった。
 何もできないとわかっていながら、それでもアキナスは無我夢中で台に近づく。
「見ろ、アキナス!」ボーデルは声高に叫んだ。「降りてくるぞ、神が!」
 アキナスは再び天を仰ぐ。もはや、太陽は黒い影に覆われてしまっており、リング状の光の帯にしか見えない。
 だめだ……。
 アキナスが自分は間に合わなかったのだということを確信するのと、黒い太陽から赤熱した光が降り注ぐのとが、同時だった。轟音とともに、周囲は赤一色に染まる。
「与え給え、強き力を!」
 ボーデルの叫びと同時に、天と台上の黒い玉をつなぐ赤い光の筋から稲妻が弾け、ほとばしり、すべてを震わせる。玉の近くに立っていたボーデルの体は、黒い玉からほとばしる無数の細かい稲妻に貫かれ、火を吹いた。
 父さん!
 アキナスは口を開けたが、声にはならなかった。
 激しい炎に包まれたボーデルの体は、両腕を広げて直立した姿勢のまま、原形を失っていく。まず手が焼け落ち、次に足が折れ、頭が砕け、腰が崩れる。
 ボーデルの体が焼けて黒い残骸になり、炎が完全に消えたところで、天から轟音とともに落ちてきていた赤い稲妻も消えた。稲妻に激しくうたれていた黒い玉は変形しており、色も変わってしまっている。
 アキナスがボーデルの残骸に近寄ろうとした瞬間、その変形した黒い玉が動いた。思わず息を詰めて見ると、それがうずくまった人間の形をしていることがわかった。そして、その人物が今まさに起き上がろうとしていたのだ。
 ゆっくりと立ち上がったのは、一人の男だった。
 中肉中背のその男はあまり健康的そうには見えず、どこかやつれたような印象を与える。身に付けている緑がかった灰色のシャツは、くたびれて皺だらけだった。色あせたジーンズは、汚れているせいで薄茶色がかって見える。唇は薄く、しっかりと結ばれていた。鼻は不格好に大きく、目は細い。
 男は起き上がると、アキナスを見据える。アキナスはそれが誰であるのかを悟って、言葉を失った。
「やあ、アキナス」男は言った。
 男は、高沢敏彦だった。
 嘘だ!
 アキナスはその光景を必死で否定しようとした。そんなはずはないのだ。高沢が「彼」として、アキナスの眼前に存在することは不可能なのだ。アキナスと高沢は同じなのではなかったのか?
 しかし、たしかに高沢はアキナスの目の前に存在している
「ずいぶん痛めつけられたようだな」アキナスの困惑をよそに、高沢は冷静な口調で言った。「でも、俺のせいじゃないからな。君が招いた結果だよ」
 アキナスは言うべき言葉が思い付かなかった。
「君は、俺の作った話を台なしにしてくれた。その報いだ」高沢はよれよれのシャツの胸ポケットから、折り畳んだ紙を取り出し、アキナスに向かって放った。「見ろよ」
 アキナスは言われるままに紙を拾い上げ、広げた。それは四枚のA4サイズの紙で、高沢が自宅のパソコンで入力した文字がびっしりと印刷されている。一枚目の紙の一番上には「ラスト・ソーサラー」とあった。
 そして、一行あいて本文が始まる。
・世界の名前 ― VIRTUALのアナグラムVURLTIA「ヴァルティア」
・舞台 ― 魔法文明の栄えた王国 大きな内戦による魔法王国の      衰退〜科学文明の萌芽〜世紀末思想を持つ狂信者集団      の登場
・各勢力の動向
 魔法王国 ― SORCERERのアナグラムCERROSER        「セローザ」
  セローザ王国は、内戦の余波で崩壊しかけている。すでに魔法  使いと呼ばれるほどの魔力を持った者は国王をはじめとして若  干名しかおらず、統治能力は著しく低下している……
 延々と続く設定。新興科学集団と狂信集団の設定に続いて、五十音順に並んだ主要登場人物の設定。アキナス、アルフォンス、ドーデ、トロンメル、ビーナ、ビベロ、ベケット、ヘスティア、ボーデル、ルバート。
 そして、物語の筋。聖剣の洞窟で罠にかかったアキナスは、トロンメル、ヘスティア、ビーナ、ベケットなどを同行者として旅をし、記憶を徐々に取り戻していく。その旅の過程で発生するのイベントについて。ルバートの襲撃を受けてベケットが命を落とすこと。そして、捕えられるヘスティア……。
 ヘスティア救出のためにゾルティの本拠に乗り込むが、ヘスティアは洗脳されていて救出に失敗、一端退却する。国王、ビベロ、トロンメルらの助力を得て、再度本拠地ラフテックへ潜入。ルバートとの決戦。ボーデルとの対面。そして、邪神の降臨。
 邪神はドーデとボーデルを殺す。父・ボーデルの手から聖剣を委ねられたアキナスは、反魔法波動発生装置によって力を半減させられた邪神を倒す。彼らは崩壊をはじめる召喚の場から脱出するが、瓦礫の中では装置が稼働し続け、魔法は永遠に失われてしまう。ただ二人、反魔法波動を無効にするネックレスを持っているアキナスとヘスティアだけが、最後の魔法使いとして残る……。
「これが、何?」設定資料にざっと目を通したアキナスは、紙を元のように折り畳んで高沢に投げ返した。「こんな紙切れ……」
「本来、こうなるべきだったんだ」高沢は足元に落ちた紙を拾い上げ、大切そうに胸ポケットにしまい込んだ。「君が、俺の話をメチャクチャにした。とくに話の後半なんて、跡形もないじゃないか。君さえちゃんと役割を果たしてくれれば、こんなことにはならなかったんだよ」
「あなたに『こうなるべきだ』なんて決める権利があるのかな?」アキナスは高沢を鋭くにらみつけた。
「あるさ」高沢は笑う。「この世界は俺が作ったんだ。すべてが俺のものなんだよ。俺の好きなようにして、何が悪い?」
 アキナスは何も言わず、ただ鼻先で高沢を嘲笑した。
「証拠を見せてやるよ。俺がここの『神』だという証拠をさ」高沢はおもむろに右手を上げ、パチンと指を鳴らした。
 途端に、アキナスの左腕の切断面から、ズルズルという音をたてながら左腕が生えてきた。生えてきた腕は以前の腕と違うところがなく、アキナス思い通りに動く。続いてビーナの矢で射抜かれたはずの左目がうずいたかと思うと、突然視力が戻ってきた。そして動かなかった左足も動くようになり、アキナスの体の機能はすべて完全に回復した。
「それで?」アキナスは無表情に高沢に見つめる。
「君は、この俺が作ったんだ。すべては俺の思い通りさ」高沢はもう一度指を鳴らす。
 瞬間的に左目の視力が失われ、左腕が失われ、左足の自由が失われた。
「…あなたは間違ってる」アキナスは言った。
「どこが間違ってるんだ?」高沢はあざ笑うように言う。「何なら、右目と右腕と右足も、同じようにしてやろうか?」
「やりたければ、やればいい」アキナスは微笑んで見せた。「体をどうされようが、あなたに僕の心を変えることはできない」
「できるさ。お望みなら、君をルバートのような悪党にしてやってもいい。女と見れば相手かまわず犯したくなるような、どうしようもない色情狂にしてやってもいい」
「やれよ」アキナスは冷然とした態度で言い放った。
「よし」高沢は指を鳴らす。
 アキナスの脇に、全裸の美女が現れた。女はアキナスにしなだれかかり、甘い吐息をアキナスの耳に吹きかけながら、アキナスの股間をまさぐった。
「色情狂に、なれ」高沢はもう一度指を鳴らした。
 アキナスは、直立したまま動かない。
「アキナス、女を犯せ!」高沢は怒鳴りながら指を鳴らす。
 しかし、やはりアキナスは動かなかった。
「そんな…」高沢の表情に狼狽の色が浮かぶ。
「もう、気がついてもいいんじゃないかな」アキナスはつぶやくように言った。「あなたが僕を自在に操れるなら、僕にはあなたの物語を壊すような行動はとれなかったはずなんだよ」そして、次の言葉は全裸の美女に向けられた。「あんな男の命令に従うことはないよ。頼むから、服を着てくれ」
 女の体の上に、突然衣服が現れた。
「馬鹿な!」高沢は絶叫する。「アキナス、お前なんかにそんなことができるはずはないんだ! 俺はお前にそんな力を与えた憶えはない!」
「あなたの作った幻想世界は、もともと不完全だったんだ」アキナスは微笑んだ。「夜は来ないし、雨は降らない。なのに皆既日食だけはちゃっかり存在する。僕には父親が存在しても、母親はどこにも出てこない。ヘスティアもそう。父親はいても、母親はいない。考えてみれば、おかしな話だろ? まあ、最初から矛盾だらけなんだから、何が起きても不思議じゃないさ」
「黙れ!」高沢の声とともに、アキナスの傍らにいた美女が消えた。「こうなったら、お前なんか抹殺してやる!」
「やれば?」アキナスは、あくまで落ち着き払っている。「後悔するのは、あなただ」
「後悔? 笑わせるな!」高沢は口許をひくつかせた。「なぜ後悔なぞしなければならないんだ?」
「まだわからないのか…」アキナスは高沢を見据えた。「…いや、わかっているはずだよ。わかっていて、それを認めたくないだけなんだ」
「認める? 何を?」
「あなたは幻想なしでは生きていけない現実。僕は現実なしでは生きていけない幻想。あなたも僕も、とても中途半端な存在なんだ。でも中途半端ながら、実際に存在していることは確かだ」
 アキナスはここで一息つき、少し間をおいてから続けた。
「あなたが僕を殺すことはできない。アキナスは死んでも、僕は他の名前で蘇る。逆に、僕にもあなたを殺せない。あなたの死は、僕の死でもあるから。あなたと僕は別人だけど、別人じゃないんだ。あなたは僕で、僕はあなただから。僕はあなたの中にいて、あなた自身はさらに僕の内側にいるんだ。わかるよね?」
「わかるもんか…そんなこと……」高沢は声を震わせ、目を閉じた。
「そうやって逃げるのにも、疲れたでしょ? いいかげんに逃げ回るのをやめたら?」
 高沢は何も言わなかった。
「言ってみなよ。何が怖いのさ?」
 高沢は表情を雲らせたが、しかし何も言わない。
「君が言わないなら、僕が代わりに言ってあげようか?」
「…俺の…………」高沢は苦々しい表情を浮かべながら、唇を噛みしめた。
「聞こえないよ」
「……俺の中に、お前がいることだよ…」
「なぜ?」
「お前が幻想だからさ」
「なぜ僕が幻想だと怖いの?」
「幻想は逃避だからだよ。逃避しなければならない自分の弱さが嫌なんだ!」
「逃避しなければならない弱さなんて、みんなが持っているものじゃないの? べつに恥ずかしがることじゃないよ。恥ずかしがったところで、その弱さがなくなるわけじゃないんだし」
「でも、嫌なんだ!」
「なぜ?」
「嫌だから嫌なんだよ! 他に理由なんかあるもんか!」
「嫌でも付き合っていかなきゃ。こればかりは、嫌だからと言って逃げられるものじゃないんだから」
「それでも、嫌だ!」
「自分が理想とする完璧な人間になりたいんだよね。誰だってそうさ。それで、理想と合わない部分を嫌悪するんだ。でも、完璧なんて不可能だよ。どこかで妥協しなきゃ。穴だらけで不完全だからこそ、人間なんだ。長所も短所も全部ひっくるめて、一個の人間になるんだから」
「…畜生……俺は、どうすればいい?」
「それは、あなたがどうしたいかによる。父さんが最後に言った言葉、憶えてる?」
「どの言葉?」
「決めるのは……」
「…俺?」
「現実の世界で存在しえない幻想を夢見るのがいいか、幻想の世界に閉じこもって存在したかもしれない現実を夢見るのがいいか。決めなきゃ」
「……どっちにしよう?」
「僕に聞かないでよ」
 どちらがいいのだ? 俺は何を求めているのだろうか? なぜ幻想を必要としているのか? なぜ完璧でありたいのか? なぜ不完全な自分が嫌なのか? 何が必要なのか? 何を求めているのか? 何を渇望しているのか? 何を……。
「誰かから、褒めてほしいのさ。簡単に言えば、モテたいんだ」
 誰に? 岩永めぐみに? 小原映子に? 菱沼登に? 山賀明に? 砂田治に? 船岡健一に? 小久保秀明に? 安岡弘典にでさえ?
「彼らと、その他の全員にさ」
 ヘスティアではなく? ビーナでも、ベケットでも、アルフォンスでも、ドーデでも、トロンメルでも、ビベロでも、ルバートでもなく?
「そりゃそうだよ。彼らはあなたが作ったものなんだから。彼らはあなたの分身であり、僕の分身でもある。だから、彼らにいくら褒められても、それは自分自身で褒めていることにしかならないんだ」
 と言うことは、登場人物たちは全員が俺自身なのか?
「そうだし、そうじゃない」アキナスは微笑んだ。「直接イコールでは結べないよ。みんな、高沢敏彦という大きな集合の一要素に過ぎないんだから」
 待て。お前はどうしてそんなことを知ってるんだ?
「だいたいの質問は、その中に答えを含んでいるものさ。ちょっと考えれば、すぐに答えは出るよ」
 ……。
「じゃあね」アキナスは穏やかに言い、その姿はゆっくりとぼやけていく。
「おい、行くな!」高沢は思わず大声を出した。
「大丈夫、どこへも行きはしないさ…」アキナスの体は徐々に透明になり、空気中に拡散していく。「あなたは僕から離れられない。そして、僕もあなたから離れられない。そうでしょ?」
「……」高沢は空気に溶けていくアキナスの姿を見ながら、静かに言った。「そうだな…」
 そして、アキナスの姿は完全に消えた。アキナスの消えたあとには、銀色のオイルライターが宙に浮いていた。
「また呼んでくれるまで、僕たちはここで待ってるよ……」アキナスの声だけが周囲に響き、高沢は思わず微笑んだ。
「ああ、そうしてくれ。次はきっと、もっとましな話が作れると思うよ…」
 その言葉に対する返事のかわりに、宙に浮かんでいたライターが地面に落ちる。ライターのフタが壊れて飛び、カラカラという音をたてた。
 高沢は、そのライターを拾い上げる。
 壊れたライター。父のライター…。
 高沢はライターをしっかりと握り締め、大きく息を吐き出すと、天を見上げた。
 のしかかってくるような壁。そして、はるか上方に見える丸い出口。その向こうには、白い何かが見えた。遠くて確認はできなかったが、以前見たものと同じだという不思議な確信があった。父が最初に帰るべき道を示してくれた時、扉の向こうに見えたもの。病室の白い壁だ…。
 もう逃げ出すまい、と彼は自分に言い聞かせた。
 帰ろう……。
 高沢は地面を力強く蹴り、飛んだ。
 彼の体は高々と舞い上がり、風を切る。周りを取り囲む壁が後方に遠ざかっていき、高沢はぐんぐんと穴の出口に近づいていった。
 近づくにつれて、そこが彼の確信したとおりの場所であることがわかった。白い壁、小さな木製の棚、その上には薄い青色をした焼き物の花瓶、花瓶にはあふれんばかりのカスミソウ、白く清潔そうなベッド、その上に投げ出された腕、その手首に指をあてて脈をとっている白衣の女……。
 その視点と高沢の視点が重なり、その腕と高沢の腕が重なった。
 瞬間、高沢の全身には電気が流れたようなショックが走り抜け、彼は大きくのけぞり、そしてその次には前のめりになった。
 バランスを失った高沢は必死の思いで白衣の女にしがみつく。
 花瓶が倒れて、派手な音をたてて割れる。
 それとほぼ同時に、耳をつんざくばかりの悲鳴が室内に響いた。

     跋
 坂上という名前の初老の医師は終始穏やかな表情を崩さず、非常に丁寧な口調で高沢を問診した。医師は高沢に、彼が丸四日間、目を開いていながら外界からの刺激にまったく反応しない状況にあったことを告げ、その間の記憶はありますかと尋ねた。
 高沢は、夢を見ていましたと答えた。夢の内容を尋ねられたので、高沢は自分の作ったゲームの主人公になった夢でした、と言った。医師はその答えに満足したようで、その後いくつかの質問をした後で診断を下した。
 その内容は夢の中で彼が岩永と話した内容とほぼ同一だった。一時的な神経伝達物質の分泌異常、原因は鎮痛剤とヴァーチャル・ステーションの併用、そして高沢個人の心理的なストレスによるもの、ということだった。夢の中でその話を聞いたことを告げると、医師はうなずいた。高沢は完全に意識を失っていたわけではないので、その間の外部からの刺激をまるっきり受け付けていなかったのではない。最初の段階から高沢の病因は推測できていたので、おそらく誰かがその病因について話した言葉を耳にしたのではないか、と言った。しかし、むろん推測の域を出ないが、と医師は付け足した。
 しばらく高沢がためらった後、ひょっとしてここは精神科ですかと尋ねると、坂上医師は穏やかにうなずいた。しかし、高沢の心中を察したのか、医師は微笑みながら言った。誰にでもストレスがあり、その意味では高沢のストレスはいたって平均的なものである。精神病的な症状に到ったのは偶然が重なった結果であって、高沢の運が悪かっただけだ。今後の生活に支障が出るような心配は、まったくない。とりあえずストレス以外には病名のつけようがないのでそうしたが、実際はいたって健康である。最近の医学は健康な人間にも何かしら病名をつけてしまう傾向があるが、実はそういうのはあまり好みじゃないのだ、と。その言葉で、高沢の気持ちもいくぶん軽くなった。
 そうそう、小柄で可愛らしい女性がずいぶん心配そうな様子で何度もお見舞いに来ていた、と坂上医師は最後に言った。何でも鎮痛剤を飲ませたのが自分だということで、ずいぶん気に病んでいたようだ。高沢が意識を回復したことは電話で伝えたので、そろそろ来る頃だろう。元気なところを見せて恋人を安心させるといい、と医師は微笑む。
 高沢は口では老医師の邪推を否定したが、悪い気分ではなかった。
 岩永めぐみが見舞いにきたのは、それから三十分ほど経ってからだった。
「良かった、元気になったんですね」病室に入るなり、岩永は心の底から安心したように言った。「私、責任を感じてたんです」
 岩永のその気持ちが嬉しくて、高沢は微笑んだ。
「ゲームは、予定通り今日店頭に並びました」聞いていないのに、彼女は喋る。「社長が、ハードにもソフトにも原因がないのなら、予定通り完成させろって言ったんです。だから、みんなでチェックをしたんですよ。いちおう長時間の連続使用は怖かったので、三十分交替で。それでなんとか間に合ったんです。でも信じられないですよね、こんなことがあったのに、平気で発売しちゃうんですから…」
 高沢は黙ってうなずく。
「ゲイズでは、ヴァーチャル・ステーションの取り扱い説明書に、長時間の連続使用や鎮痛剤・鎮静剤・アルコールなどとの併用は危険ですという内容を加えたんです。でもそれだけで、予定通り発売しちゃったんですよ。そういうお金儲けの優先って、やっぱり私は嫌いです」
 高沢は黙ってうなずく。
「黙ってないで、何とか言ってくださいよ」岩永は高沢をなじるように言った。
「ナントカ」高沢は言った。
 岩永は笑った。その笑顔を見ているだけで、高沢は楽しかった。
「…あの、携帯電話に連絡しておきましたから、もうすぐみんなも来ると思いますよ。販売店での商品の売れ行きを、秋葉原まで見に行ってるんです」
「それは残念だな」高沢はわざと真剣な表情を作って、言った。
「え?」岩永は、大きな目をよけいに丸く大きく見開いた。
「せっかくGSA社のアイドルと二人きりになれたのに、邪魔者が入ったらつまらないだろ?」高沢は一転して、笑顔で言った。
「やだ、何言ってるんですか」岩永も、彼につられたように笑う。
 彼女の笑顔は、とても魅力的だった。
「来てくれて、ありがとう」高沢は言った。「正直な話、すごく嬉しかったよ」
「…そんな、こうなった責任は私にあるんだし…」岩永はうつむいた。
「理由はそれだけ?」高沢はにやりと笑った。
「あ、何か誤解してません?」岩永は冷たい視線を高沢に向ける。「期待しても駄目ですよ。私には、愛するダーリンがちゃんといるんですからね」
「そうこなくちゃ」高沢は満足してうなずいた。「これで話がうまく進んだら、まだ夢の中にいるのかも知れないと疑わなきゃならないところだったよ」
「話がうまく進んだらって、もしかして、夢の中で私と何かしたんですか?」岩永は探るような視線を高沢に向けた。
「もう、ばっちり」高沢が笑顔でうなずく。「いくところまでいっちゃった」
「この幸せ者」岩永は陽気に笑い、高沢の肩を小突いた。「一人でいい思いをして!」
 ひとしきり笑い合ってから、岩永の視線がベッド脇のテーブルの上で止まる。
「何ですか、それ?」彼女が指差したものは、壊れたライターだった。
 傷ついて、フタのはずれた、銀色のオイルライター。
 高沢はハッとして、そのライターを手に取った。間違いない、あのライターである。
「ライター? ずいぶん傷んでますね」岩永は高沢の手の中にあるライターをのぞき込みながら、言った。
 なぜ夢の中で出てきた父のライターが、ここにあるのだ? まだ夢の中にいるのか? いったいこれは…。
 困惑した高沢の脳裏に、父の姿がよみがえってきた。常に道を示してくれていた父。彼を激励してくれていた父…。
 そうか…そういうことだったんだ……。
「何か、いわくのある品物なんですか?」岩永が怪訝そうな表情を浮かべて、高沢の顔を見ながら言った。
「いわく? そうだな…」高沢は、ふと微笑んだ。「父親の形見でね、ちょっと借りていたんだ。今度、田舎の家の仏壇に返しに行かなきゃ。しばらく母親の顔も見てないし……」
 父さん、ありがとう……。
 ようやく、言えた。
 ずっと言えなかった言葉。
 ありがとう、父さん。
 高沢は壊れたライターを、無言のまま握りしめた。
 と、数人の足音が病室に近づいてくる。話し声から、それが職場の同僚たちだということがすぐにわかった。
「よっ、いきなり看護婦に抱き付いたんだって?」先頭を切って病室に飛び込んでくるなり、いきなりそう言って高沢をひやかしたのは船岡だった。「やるじゃん。俺も入院する機会があったら、その手を使おうかな」
「無理よ」岩永が笑った。「船岡君が入院するはずがないじゃない。ほら、何とやらは風邪をひかないって言うでしょ?」
「失敬な。俺のような天才は病弱で早死にすると決まってるんだ。美人の看護婦に抱き付いて死ねるなら、本望だぁっ!」船岡が拳を振りまわしながら叫ぶ。
「しかし、耳が早いな。どこからそんな話を聞いたんだよ」高沢は苦笑した。「俺でさえ混乱しててどんな相手に抱き付いたのか憶えてないってのに」
「船岡さん、地獄耳っすからねぇ」菱沼が呆れ顔で言う。「船岡さん、高沢さんに言ってあげたらどうです? 抱き付いた相手がどんな人だったのか」
「おう、聞きたいか?」船岡はいたずらっぽい笑みを浮かべながら高沢を見た。
「ちょっと待った!」高沢は船岡の目の奥の表情をのぞき込み、顔をしかめる。「言わなくてもわかるぞ、四十過ぎのおばさんだったんだろう?」
「おお、惜しい。正解は、五十過ぎでした」
「げぇーっ」高沢は大袈裟に驚いて見せた。
 船岡が笑い、岩永が笑い、菱沼が笑い、高沢も笑い、その後ろで一言も発していなかった砂田も笑った。
「具合は、良くなったようだな」笑いがひと通り収まったところで、砂田がようやく口を開いた。
「チーフ、今回はご迷惑をおかけしてしまったようで…」高沢は頭を下げた。
「本当に心から済まないと思っているのか?」砂田はいつになく真剣な口調でいった。
「もちろんです」高沢としては、そう答えるしかない。
「じゃあ、今度飯でもおごってくれ」砂田は歯をむき出しにして笑い、大きくせり出した自分の腹をポンと叩いた。「さあ、食うぞ!」
「あ、俺、焼き肉でいいから」船岡が高沢の肩に手を置く。
「僕は寿司がいいっす!」菱沼が嬉しそうに両手を上げた。「バンザーイ、寿司だぁっ」
 砂田・船岡・菱沼の視線が、一斉に岩永に向けられる。岩永は少し戸惑ったような表情を見せた。
「高沢さんに鎮痛剤を飲ませたのって、私なんですよね」彼女はうつむき加減で、時折ちらりと高沢の表情をうかがいながら、申し訳なさそうに言った。「今回の責任の一端は、私にもあるような気がしちゃって……」
「気にしない気にしない。せっかく高沢さんがおごってくれると言ってるんだから」船岡が岩永の背中を叩いた。
「おい、俺はそんなこと言ってないぞ……」
「うーん…」非難の声を上げる高沢をちらりと見てから、岩永はおもむろに笑みを浮かべた。「私、ダイヤモンドなら受け取ります」
 高沢は、大袈裟な身振りでベッドに倒れた。
「大変だな。これからもっともっと稼がないと」砂田がにこやかに言う。「頑張れよ」
「頑張ります…」高沢は体を起こし、ため息をついた。「でも、普通は逆でしょう? 入院している人間に差し入れを持って来るって話はあっても、入院してる人間にたかるなんて話、聞いたことないですよ……」
「で、焼き肉はいつ行く?」船岡は高沢の反論をあっさりと聞き流し、にやりと笑いながら言った。「お金さえ渡してくれれば、みんなで勝手に行くけど。まあ、十万もあれば足りるかな…」
「僕は高沢さんが退院するまで待ってますよ」菱沼が笑う。
「私は誕生日でいいです。四月二十一日ですから、よろしくお願いします」岩永も笑った。
 砂田は何も言わず、ただくっくっと低く笑っただけだった。
「助けてくれ!」高沢は両手で自分の耳をふさぎ、ベッドにもぐりこむ。
 そのふさいだ耳にもれ聞こえてくる楽しげな笑い声を聞きながら、高沢は心の底から思った。
 俺は、幸せ者だ……。
                              (完)



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