『恋するエレベータ』
滝澤真実
「このオンボロがぁっ!」
中年男の蹴りが俺に入った。ヤワな蹴りだった。相手をするまでもなかった。
男は苛立たしげに、俺の『1』ボタンを連打する。むろん、ボタンを連打されたところで、一階に着く速度を変えるつもりは俺にはない。
「ぴんぽん」
一階に着くと、男は扉に手をかけてこじあけるようにして、降りていった。
さようなら、ミスタ・イラチ。何の用事があるのかは知らないが、そんなに急いでいるなら、次からは階段を使うといい。
俺が一階でしばらく客待ちをしていると、ひとりの女が外から帰ってきた。赤いジャケットに包まれた彼女の背中には、疲労感がにじんでいた。
彼女は、五階に住むミス・スカーレットだった。
三階に住むミスタ・イラチは嫌いだが、彼女のことは好きだ。俺はしがないエレベータだが、好悪の感情に行動が左右されてしまうことは避けられない。エレベータ労働基準局の規定違反であることは十分にわかっているが、彼女が郵便受けをチェックしている間に、俺は扉を開けてあげることにした。
「ぴんぽん♪」
俺の声に、彼女は驚いたように振り向いた。そのときはじめて、俺は彼女の大きな目に涙が浮かんでいることに気付いた。
彼女は、郵便受けに入っていたチラシを手に、俺の中に入ってきた。彼女が『5』ボタンを押すのを待ってから、俺はそっと扉を閉じた。
彼女は、俺の壁にもたれて、泣いた。
俺は彼女を抱いて、いつもよりゆっくり五階までのぼった。
「ぴん、ぽん」
ミス・スカーレットは俺から出ていくと、うつむいたまま部屋に入っていった。彼女がもたれかかっていた場所には、かすかなぬくもりが残っている。そして、彼女が立っていた場所には、彼女の涙のしずくが落ちていた。
と、不意に一人の男が階段を駆け上ってきて、エレベータ・ホールに飛び出してきた。ミスタ・イラチだった。ミスタ・イラチは大きく息をはずませながら、周囲を見回していた。その様子は、何かを探しているように見えた。
彼はいったい何を探しているのだろう、という疑問が浮かんだが、俺は仕事に戻らなければならなかった。
誰かが一階で、俺を呼んでいた。
* * *
俺は人を見て、人を思って、そして、忘れる。
ほかに何ができるだろうか。俺は、人がとどまる場所ではないのだ。誰もが、俺の前を通りすぎていくだけ。俺は人に利用される以外のことを期待していないし、人も俺には感情など期待していない。
だから、ミス・スカーレットがなぜ泣いていたのかも、ミスタ・イラチが五階で何を探していたのかも、俺は詮索しないことにした。
「ぴんぽん」
一階に着いて扉を開けると、二人の少年が乗り込んできた。二人は回数ボタンを押さずに、リュックの中からスプレー缶を取り出すと、俺に文字を書きはじめた。
女性の名前、その下には電話番号。そして、誰とでも性的関係を持ちたがる、という内容の卑猥な言葉。
少年二人は書き終えると、げらげらと下品に笑いながら『開』ボタンを押した。
俺は、扉を開けなかった。
少年はボタンを叩きながら、荒々しい声をあげた。
「なんだよっ!」
と言ったつもりらしいが、俺には「ぁんだぉ」と言ったように聞こえた。あくまでも俺が無視をしていると、少年たちは俺を罵り、殴り、蹴った。何発かは、かなりいい蹴りをもらってしまった。しかし、俺は耐えた。
「ぶー」
俺は声を上げると、彼らを乗せたまま一階と二階の中間まで移動した。そこで停止して、照明を消す。とたんに、威勢の良かった少年たちの声が恐怖へと変わった。
やがて、少年の一人が手探りでインターホンのボタンを押した。
チェックメイト。少年たちは、自滅した。
しばらくして、緊急メンテナンス要員の樋浦さんが来てくれた。樋浦さんは俺の中のいたずら書きを見て、すぐに警察に連絡し、少年たちを警察に引き渡した。警察は俺の写真を撮って、去っていった。
野次馬も去り、後には樋浦さんと俺だけが残された。
「おい、おまえ、やったな?」
樋浦さんが手持ちの道具で電話番号を消しながら、渋い顔で言った。
「ぴんぽん」
俺の返事に、樋浦さんはため息をつく。
「気持ちはわかる。でもな、エレベータ労働基準局にこのことが伝われば、一発で廃棄処分になっちまうぞ。今日のことは、作業報告書にはてきとうな理由をでっちあげて書いておく。だから、気をつけてくれよ」
「ぴん…ぽん…」
まったく、言い訳のしようがない。しかし、俺は自分の行動が正しかったと確信していた。世の中には、やっていいことと悪いことがある。あの場面で少年たちの行動を容認することは、断じてできなかった。
「こんなに蹴られて、こまかいへこみがいっぱいできてるじゃないか。すこしは自分の体のことを考えろ。おまえのようなタイプのエレベータは、もう残り少ないんだ。あんまり俺に心配をかけないでくれ」
「………ぽん……」
樋浦さんは、数少ない俺の理解者だった。俺がエレベータ労働基準局の方針に反するたびに、かばってくれてきた。そんな樋浦さんの言葉だからこそ、俺の心に突き刺さってくる。
樋浦さんは、どうにか電話番号の部分だけを消し終えると、言った。
「清掃は、明日の午前中には来るはずだ。それじゃあ、俺は帰るからな」
去っていく樋浦さんの背中は、すこし曲がって見えた。
* * *
エレベータとして生まれた以上、いつかは必ず廃棄される日が来る。
それは、避けられない現実だった。俺も歳をとった。俺の存在そのものがなくなってしまう日も、そう遠くはないだろう。しかし、理屈ではわかっても、なかなか感情を整理することはできなかった。
やはり、廃棄は怖い。
実際に自分が廃棄処分になり、この世から消えてなくなる日のことを考えると、ケーブルの縮むような思いがする。
翌日、俺はいつか来る末期の日を思いながら仕事をしていた。もの思いにふけりながらも惰性で仕事ができたのは、やはり歳をとって経験を重ねたおかげと言えるだろう。なんとなく仕事をこなすうちに、いつの間にか夜になっていた。
仕事に対する集中力をとり戻したきっかけは、ミスタ・イラチの登場だった。俺が一階で客待ちをしていると、彼は階段から飛び出してきた。
ミスタ・イラチはエレベータホール脇の集合ポストの前に立つと、自分の郵便受けの中をのぞいた。
不自然なほど長く、郵便受けをのぞいていた。
しばらくして、女性の靴がたてるコツコツという高い音が聞こえてきた。外から帰ってきたのは、ミス・スカーレットだった。今日の彼女は明るいグレーのスーツ姿だった。赤が好きな彼女としては、珍しい服装だった。
彼女が帰ってきてすぐに、ミスタ・イラチが郵便受けを離れ、俺に乗り込んでくる。彼は『3』のボタンを押してから『開』ボタンを押し、ミス・スカーレットが郵便受けの中をのぞく姿を見ていた。
「あ、すみません」
ミス・スカーレットが言いながら、俺の中に駆け込んできた。
「何階ですか?」
「五階、お願いします」
ミスタ・イラチが『5』のボタンを押した。俺は三階まで上がり、ミスタ・イラチをおろした。引き続き五階に向かって移動をはじめた俺の視界の隅で、ミスタ・イラチがちらりと振り返る姿が見えた。
俺の中で一人になったミス・スカーレットは、昨日も見せたような悲しげな表情をしていた。彼女の身に何が起きたかのかは知りようもないが、まだその痛手から立ち直ることができていない様子だった。
五階でミス・スカーレットは降りると、自分の部屋へ入っていった。と、すぐに階段からミスタ・イラチが姿をあらわして、彼女の部屋の前に立った。
そして、ミスタ・イラチは彼女の部屋の扉に耳を押し付ける。
ミス・スカーレットの部屋は、エレベータホールに一番近い場所にあるため、俺にもミスタ・イラチの異様な姿がよく見えた。
これが、噂に聞くストーカーというやつだろうか。
しばらくしてミスタ・イラチが俺に乗り込んできたときには、正直、俺はよほど搭乗拒否をしてやろうかと思った。しかし、樋浦さんの曲がった背中が思い出された。二日連続で「事故」を起こして、樋浦さんに面倒をかけるわけにはいかない。
俺はおとなしく、ミスタ・イラチを三階へ運ぼうとした。
しかし、それができなかった。
自分は扉をしめたつもりなのに、どうもきちんと閉まっていないような感じがする。その残扉感が、安全装置にひっかかっているようだ。
どうにも動けないまま、俺は残扉感を解消すべく、扉の閉まり具合を何度も確認した。もちろん、扉はしっかりと閉じているように見える。しかし、残扉感はいっこうに解消されなかった。
ミスタ・イラチはため息をつくと、『開』ボタンを押した。俺は扉を開けた。
「ほんっとにボロだな」
ミスタ・イラチは、毒づきながら俺から降りていった。
一人になった俺は、何度か扉の開け閉めをしてみた。しかし、やはり残扉感はなくならなかった。もちろん、安全装置がはたらいていて、俺は動けない。長年エレベータをやってきたが、こんなことは初めてだった。
その後、いろんな階で呼ばれるものの、俺はまったく移動することができなかった。残扉感にさいなまれながら、俺はただ樋浦さんの到着を待った。
* * *
二日続けて夜に呼び出された樋浦さんは、最初は不機嫌だった。しかし、俺の扉の調子が本当に悪いことを知って、顔色を変えた。
「すまん。昨日もっときちんと調べていれば、気付いたはずなのにな」
樋浦さんに謝られると、俺のほうがつらくなる。そもそも、どこにも不調がないのに、昨日樋浦さんを呼ぶようなことをしでかした俺が悪いのだ。
「アパートの管理会社の人に、いろいろイヤミを言われたよ。今日は住人からの苦情が多かったらしくてね。新しいエレベータに交換することを検討するから、見積書を出せと言われた」
廃棄、か。
「もちろん俺は、メンテナンスだけでもまだ充分に働ける、とは言っておいた。今日のことは、昨日の俺のメンテナンスが手抜きだったということにする。もちろん、今日の臨時メンテナンスの費用は、請求しないつもりだ」
「ぶー」
俺は思わず言った。樋浦さんにそんなことまでさせるわけにはいかない。あくまでもこれは、俺の責任であるべきだ。
「文句を言っても、何も変わらないからな。俺が、ミスをした。それが事実だ」
「ぶー」
俺の反論を無視して、樋浦さんは言った。
「さあ、扉を閉めてみてくれ」
閉めた。残扉感はなかった。安全装置にひっかかることもなく、動けた。
「いいようだな」
「ぴんぽん」
「よし。じゃあ、他のところも問題ないか、きちんと調べておこう。また故障が起きたら、今度は俺のクビも危なくなるからな」
本当に、申し訳ない。こういうときに、ぴんぽん、と、ぶー、しか言えないことがもどかしくなる。
「なあに、心配するなって。おまえみたいにハートのあるエレベータは、珍しいんだ。俺の目の黒いうちは、おまえを廃棄処分になんかさせるもんか」
ハートのあるエレベータ。
自分では、よくわからない。もともと、好きでエレベータになったわけではない。エレベータとして生まれたから、エレベータであり続けているだけなのだ。ハートがあろうがなかろうが、俺は俺だ。変えようがない。
その夜、樋浦さんは扉のほかに何ヶ所か調整をして、去っていった。
それからの長い夜の間、俺は一人でずっと考えていた。
俺は本当にハートのあるエレベータなのだろうか。ハートのあるエレベータとは、何なのだろうか。そもそも、仕事をこなすだけならば、エレベータにハートなど必要ないのではないか。
あれこれ俺は考えつづけたが、結局は迷いが増えただけだった。
* * *
翌日の仕事は、順調だった。
夜までは。
三階に呼ばれて行くと、ミスタ・イラチが乗り込んできた。行き先は、五階。のぼる間、彼は手に持っていた紙バッグの中を何度ものぞきこんでいた。紙バッグの中にロープやガムテープなどが入っているのが見えた。
「ぴんぽん」
五階に着いた。
ミスタ・イラチは俺から降りると、ミス・スカーレットの部屋の前に立った。彼は玄関チャイムを鳴らしてしばらく待った後、周囲を見回す。そして、おもむろに紙バッグの中から小さな道具を取り出した。
ピッキングの道具だった。
ミスタ・イラチは手早く鍵を開けると、ミス・スカーレットの部屋の中に入っていった。
俺は、しばらく呆然としていた。
盗聴器でもしかけるつもりだろうか? それとも……。
紙バッグの中には、ロープとガムテープが入っていた。盗聴器をしかけるだけならば、ロープが必要になるはずはない。
ロープは、縛るもの。
俺は気分が悪くなった。
ミス・スカーレットが危険を逃れられるように、どうにかしなければ。しかし、何をすればいいのか、アイデアはまったく浮かばない。
思考が空回りして、ただ時間がだけが過ぎていく。やがて、俺は一階で呼ばれた。一階にいたのは、ミス・スカーレットだった。彼女の指示どおりに五階へ向かって移動しながら、俺はなかばパニックに陥っていた。このまま五階で彼女をおろしてはいけない。停止して、彼女を俺の中で保護しておくべきだろうか。
三日連続で故障のために停止などしたら、廃棄処分は間違いない。
ミス・スカーレットのために、俺は死ねるのか?
もうすぐ五階に着く。
決断しなければ。
ちくしょう。
俺は、止まった。
ミス・スカーレットは驚いて、小さな声をあげた。ちょうど、彼女の腰の高さに五階の床が見えた。
「やだ、もう…」
ミス・スカーレットが、つぶやいた。彼女はため息をつくと、緊急用インターホンのボタンを押した。
しまった。
どうして気付かなかったのだろうか。緊急用インターホンは、俺には制御できない。インターホンで緊急連絡をされれば、すぐにメンテナンス要員がやって来る。俺の扉はメンテナンス要員によってこじ開けられて、彼女は解放されるだろう。
みずからの廃棄を賭けて止まったのに、稼げた時間はほんのわずかだった。そのわずかな時間に、ミスタ・イラチが短気なところを見せて、彼女の部屋から出てきてくれればいいのだが……。
もちろん、そんなことにはならなかった。
樋浦さんがやってきて、ミス・スカーレットは無事に救出された。そして、彼女は自分の部屋に入ろうとする。
だめだ、部屋に入ってはいけない。
「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
俺は、声の限りに叫んだ。
ミス・スカーレットは、一瞬いぶかしげな表情を俺に向けてから、部屋に入っていった。
「ぶー!」
「どうしたんだ? どこか壊れたのか?」
樋浦さんが、俺に言った。
「ぶー」
「さては、またわざと止まったのか?」
「ぴんぽん」
「何やってるんだ。廃棄になってもいいのか?」
そんなことは、承知の上だ。
「ぴんぽん」
俺の覚悟を知って、樋浦さんの表情が変わった。
「彼女を閉じ込めておきたい理由があったんだな? まさか、泥棒か何かが――」
「ぴんぽんぴんぽん!」
たのむ、樋浦さん、はやく彼女を助けてやってくれ。
樋浦さんは彼女の部屋のチャイムを押し、返事がないので管理会社に連絡した。しばらくして現れた管理会社の担当者が、部屋に入っていく。
俺は、ミス・スカーレットの無事を祈った。
ただ、祈りつづけた。
* * *
廃棄が、決まった。
今、俺の扉は封印されて「故障につき使用禁止」という札がかけられていた。明日にも、俺は長年慣れ親しんだこの場所から撤去されるだろう。
人々は、動かなくなった俺に不満そうな視線を向けながら、階段を上っていく。
冷淡な無視だった。しかし、それでもいいと思った。オンボロのエレベータ野郎には、そのくらいの扱いが似合っている。
「こんにちは、エレベータさん」
声がしたので見ると、ミス・スカーレットが俺の前に立っていた。
俺は、黙っていた。
「樋浦さんから、聞きました。心のあるエレベータが、助けてくれたんだ、って」
まったく、樋浦さんも余計なことを言ってくれたものだ。
「ここのところ、ふられたり、職場の先輩にいじめられたり、なんかついてなかったんです。本当に、もう、いろいろ嫌になっちゃってて。でも、今思うと、あなたは私を見守ってくれていたんですね」
上目づかいに俺を見るミス・スカーレットに、俺は引き続き沈黙を返した。
「おかげで、あのいやらしいストーカーからも、助かりました」
俺は、なおも沈黙を通した。
「……でも、こんなことになって、ごめんなさい。私のせいで――」
「ぶー」
俺は、反射的に否定の声をあげた。
それは違う、ミス・スカーレット。今回の件で誰かに何かを謝罪すべき者がいるとしたら、それはミスタ・イラチにほかならない。
「本当に私の言葉がわかるんですね?」
ミス・スカーレットの表情が明るくなる。
俺は、声を出してしまったことを後悔した。エレベータに感情があるなんて話は、彼女には忘れてほしかった。
「とにかく、あなたにお詫びをしなくちゃいけないと思って――」
「ぶー」
ちくしょう。何度も言わせるな。詫びなど必要ない。
「ああ、もう」
ミス・スカーレットは、自分のおでこをぴしゃりと叩いた。
「樋浦さんにも言われたんです。お詫びをする必要はないんだ、って。こういう時は、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』と言いなさい、って」
その通りだ。樋浦さんも、いいことを言うじゃないか。
「だから、ありがとう、エレベータさん」
ミス・スカーレットは、俺の反応を待って、しばらく立っていた。しかし、俺は何も言わなかった。彼女はもう一度つぶやくようにお礼の言葉を口にすると、俺の前から去っていった。
こちらこそありがとう、ミス・スカーレット。俺は、あなたの『ありがとう』を抱いて、逝くことができる。
本当に、ありがとう。
(完)
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