『闇に消ゆ』
                滝澤真実


序、一四九八年四月六日昼・カルツァグ

「お願い、助けて」
 地面に腰を落とした女は、近寄ってくるボロボロの僧衣を着た男にむかって哀願した。女のスカートは切り裂かれ、血を吸って汚れている。
 男はトルコ風の湾曲したナイフを構えたまま、無言で女に詰め寄った。その首からさげた銀の十字架がゆれて、きらりと光る。
「いやよ。やめて――」
 地面の上をあとずさる女の顔に、木々の間から差し込む太陽の光が当たった。女は悲鳴をあげて顔を覆う。
 その一瞬の隙をついて、僧衣の男は女におどりかかり、ナイフを女の首に突きたてた。女の口から、ごぼごぼという悲鳴にならない音がもれる。しかし男はためらうことなく、湾曲したナイフを器用に使い、女の首と胴を切り離した。
 首の切断面から、どろりと赤黒い血が流れ出す。
 と、そのとき、木陰から大柄な狼が飛び出してきて、男の足にかみついた。
 男がすばやくナイフで狼を切り払うと、狼はおおきく飛びのく。男の足元には、切り落とされた狼の前肢が残されていた。
 三本の肢で飛び跳ねるように、狼が逃げ出す。その後を追って、男は走り出そうとしたが、転倒してしまった。
 首を切られた女が、男の足首をしっかりと握りしめているのだ。
 頭を切り離されて死んだはずなのに、女の手は僧衣の男の足をつかんではなそうとしない。しかも、切断されて地面に転がっているにもかかわらず、女の目がぎょろりと動いて、僧衣の男をにらみつけていた。
 男は舌打ちをすると、腰に下げた皮袋から杭を取り出して、ナイフの柄を使ってその杭を女の胸に打ち込んだ。
 打ち込むたびに女の体がびくりとふるえる。
 男は女が動かなくなるまで杭を打ちつづけ、女が完全に死んだことを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
 女のすぐ脇には狼の前肢が転がっていたが、それは徐々に人間の腕へと形を変えていく。ほどなく、完全に人間の右腕となったそれは、まるで何かをつかもうとしているように指をひくひくと動かし続けてていた。
 僧衣の男は小さく息を吐くと、自分の右手の甲を見つめた。
 そこには、血の色をした十字の刺青が彫りこまれている。
 どくん、と、その十字がおおきく脈打ち、男は顔を苦痛に歪ませた。
「くっ……」
 おもわず喉の奥から絞りだされる声を飲み込むと、男は狼に噛まれた足をひきずるようにしながら、ゆっくりと歩き始めた。
 男が首から下げた銀の十字架が、歩みにあわせてちいさくゆれている。
 その十字架には、小さな字で、こう刻まれていた。

―― 狩人 アントニオ・バリアーニ ――


一、一四九八年四月一〇日夕刻・オラデア

「おおぉぅぅ…」
 華美な装飾のついたベッドから、獣じみた声が響く。ベッドを取り囲む数人の男女は、一様に困惑の表情を浮かべていた。ベッドの上には一七〜八歳の若い娘が横たわっており、苦悶の表情を浮かべている。
 白い寝間着に身を包んだその娘の顔を、頭の禿げあがった老人が熱心にのぞき込んでいた。老人の他には召使と思われる服装の女が四人おり、ベッドの上の娘の手足をしっかりと押さえている。身なりのよい中年の夫婦が、その老人の肩越しに娘の様子をうかがっていた。
「ベハイム、どうなのだ?」
 中年の紳士がじれたように言った。老人は顔を上げ、神妙な面持ちで口を開いた。
「クラウス様、お嬢様は――」
「があぁぅぅっ!」
 身をよじりながら吠えた娘の声に、老人の言葉がかき消された。
「聞こえん。何と言った?」
 紳士は堅い表情で老人に問いかけた。その手は、蒼白な顔をした夫人の細い肩をしっかりと抱いている。
「残念ながら、お嬢様はノスフェランの呪いを受けられたご様子にございます。こちらに……」
 老人は言いながら、娘の首筋を指し示した。そこには何かで刺されたような小さな傷がふたつ、並んでいる。
「こちらに、ノスフェランの牙の跡がございます」
 はあっ、と短く息を吐いた夫人はそのまま気を失い、紳士の手をすり抜けるようにして床に崩れ落ちた。紳士は夫人を助け起こそうともせず、ただ呆然とその場に立ち尽くしている。
 娘の荒い息だけが、静まり返った室内に響いていた。
「……ベハイム…」
 紳士はようやく口を開いた。
「なんでございましょう、クラウス様」
「…その見立てに間違いはないのか?」
「残念ながら、間違いございません」
 その老人の言葉を聞いて、紳士は天を仰いだ。
「ああ、なんということだ。ファーニアが……そんな……」
 と、突然部屋の扉を開き、ぼろぼろの僧衣をまとった男が入ってきた。彼は銀の十字架を高くかざし、室内を油断なく見回す。
「なんだお前は! ここをどこだと思っておる! いったい、誰の許しがあって入り込んできたのだ!」
「狩人、アントニオ・バリアーニ。ノスフェランの血に導かれ、参上しました」
 アントニオと名乗った男に不信の目を向けた紳士は、男の右手の甲に十字の刺青があるのを目にした瞬間、息をのんだ。
「あっ……あなたは…」
 驚愕している紳士を無視し、アントニオはその脇をすばやくすり抜けると、ベッドに近づいた。そこに横たわる娘の容貌を見たアントニオは、一瞬、息を飲んだ。
 この娘、彼女に似ている……。
 彼は感傷からくるためらいを振り切り、娘の胸に手をあてた。
「があぁぁっ!」
 彼に触れられた娘が、苦悶の表情を浮かべながら身をよじる。
 彼の手には、娘の体温と、心臓の鼓動がしっかりと伝わってきた。首筋の傷口も、まだ新しい。
「狩人様、私は医師のべハイムと申します。私に何かお手伝いできることは? 瀉血は有効なのでしょうか?」
 禿頭の老人がアントニオに問いかけた。
「瀉血は無駄です。この症状はいつから?」
 アントニオは手にしていた十字架を娘の胸の上に置きながら老人に尋ねた。十字架を胸の上に置かれた娘は、一度だけびくりと体を震わせてから、おとなしくなる。
「私が呼ばれたのは、つい先ほどなのです。旦那様のお話では、昼頃から様子がおかしかったらしいのですが……」
 おそらく、東のカルツァグで取り逃がしたやつの仕業だろう、とアントニオは推測した。腕を切り落としたはずだが、その腕はもう再生しているに違いない。が、再生のために衰えた力を回復しようと、この娘を狙ったのだろう。
「狩人様、どうか娘を、ファーニアを助けていただきたい」
 我に返った紳士が、アントニオにすがるように言った。
 狩人様、か……。
 アントニオは自嘲ぎみに口元を歪ませると、視線を窓の外に向ける。すでに太陽は沈みかけていて、空は血のような赤色に染まっていた。
 これから、夜がくる。
 夜こそ、ノスフェランがもっとも力をつける時間帯であった。普通の狩人ならば、夜にノスフェランと戦うような愚は避けるはずである。
 しかし――この娘。
 アントニオは、ベッドの上の娘の顔を見た。
 本当に、彼女に、よく似ている。
「狩人様、どうなのですか? ファーニアは、助かるのでしょう?」
 紳士の問いかけに、アントニオは決断した。
 これは感傷じゃない、助かるわずかな可能性があるなら、それに賭けてもいいじゃないか。そう、自分に言い聞かせて。
「助けられるか、やってみましょう。それよりも、奥方様をいつまでも床の上に寝かせておいては、お体に障るのではありませんか? 寝室にお連れして、休ませて差し上げてください」
 アントニオは背負っていた荷物の中からニンニクで作った輪を取り出し、言った。
 紳士は、言われるままに妻を抱き上げて、部屋を出ていく。その姿を見送ると、彼はニンニクの輪を娘の首にかけながら、部屋に残った老人と召使たちに向かって言った。
「さて、みなさんにはお願いがあります。この娘さんが助かる方法はひとつだけ、呪いを与えたノスフェランを夜明けまでに退治するしかありません。これから私はノスフェランの退治におもむきますが、みなさんは娘さんを見張っていてください。もしも私が間に合わず、娘さんが息を引き取るようなことがあった場合には、迷わずやっていただきたいことがあるのです」
 彼は老医師と召使たちの顔を見回しながら、静かに続けた。
「おわかりですね? 胸に杭をうちつけ、首を切り離すのです。これは、彼女と親しいみなさんには、とても残酷なことかも知れません。ですが、娘さんの魂を呪いから解放するためにも、必ずみなさんの手でやりとげてください。ご家族の方がいかに反対しようとも、これだけはやっていただかなければなりません。よろしいですね?」
 誰も、何も言わなかった。
「よろしいですね?」
 アントニオは強い調子で繰り返す。
「…わかりました……」
 ようやく禿頭の老医師が弱々しい声を出し、うなずいた。
「よろしくお願いします」
 アントニオは短く言い残すと身をひるがえし、部屋から出ていこうとした。その背に、老医師が声をかける。
「あの、バリアーニ様とおっしゃいましたか?」
 立ち止まり、ふり返る。
「ご厚情に感謝いたします。どうか、お嬢様をお救いください」
 アントニオは、ベッドに横たわる娘を見た。ニンニクの効き目で、娘は静かな寝息をたてている。
 その娘の姿を見たアントニオの胸の内に、強い感情が沸き上がってきた。しかし、理性がその感情を否定する。
 これは、感傷ではない。
 彼女を助けることが、目的ではないのだ。
 いくらこの娘が彼女に似ているからといっても、それは無関係。ノスフェランを抹殺することこそが、あくまでも最大の目的なのだから…。
「どうかなさいましたか?」
 老医師がけげんそうな表情で、アントニオの顔をのぞき込んだ。
「ご安心ください。最善を尽くします」
 アントニオはうなずいてみせると、屋敷を出ていった。

「旦那様、狩人様が見つかったそうです!」
 そう叫びながら飛び込んできたのは、屋敷の従僕の一人である。
「つい先ほど、北の森のはずれに倒れているところを、農夫に発見されたそうでございます。今、ベハイム様が傷の手当てに向かっていらっしゃいます」
 その従僕の報告を聞いた紳士は、目の色を変えた。
「なんだと? なぜベハイムが手当てに向かっているのだ! 我が家とノスフェランの関わりを公にするようなものではないか! すぐにベハイムを呼び戻せ!」
「は、しかし……」
「しかしも糞もあるか! 前もって申し渡しておいたであろう。狩人と関わりがあったことが世間に知れれば、由緒ある我が家の血筋が呪われたと噂されるに違いあるまい。そのようなことは、絶対にあってはならんのだ! 呼び戻せ!」
「私はお止めしたのでございます。ですが、ベハイム様は『ファーニア様のために尽力してくださった方を見捨てることはできない』とおっしゃいまして…」
「ベハイムめ!」
 紳士は苛立ちまぎれに、近くにあった椅子を蹴った。椅子は大きな音をたてて転がる。それでも苛立ちがおさまらない様子の紳士は、さらに床に転がった椅子を蹴りつけながら叫んだ。
「狩人の尽力だと? 棺桶に片足を突っ込んだバチ当たりの年寄りめ! ファーニアは助かった。今となっては、狩人ごときと関ることなど、もはや何の益もないのがわからんのか!」
 蹴られた椅子が壊れて、木片が飛び散る。従僕は、主人の癇癪を呆然とした面持ちで見つめいた。
「セバスチャン、何を突っ立っておる! はやくベハイムを呼び戻さんか! あのもうろく爺を、引きずってでもここに連れてこい!」
「は、はい、旦那様」
 従僕は慌てて屋敷を飛び出していこうとする。と、それを紳士は呼び止めた。
「いや、待て! やはり行ってはならぬ。ここでお前がベハイムを連れ戻しに行ったりすれば、今度の一件に我が家が関りをもっていることを、完全に認めてしまうようなものだ。ベハイムの行動は知らなかったということにしておけ。いいな? べハイムは独断で狩人の治療にあたっている。この件に関して、我が家は一切関知していない。良いな?」
「承知いたしました、旦那様…」


二、一四九八年四月一四日昼・オラデア

 アントニオは混濁した意識の中で、誰かの話し声を聞いたような気がした。
 誰が近くにいるのかを確認しようとして、彼は目を開けようとする。しかし、全身が石のように重く、まぶたさえ自由に動かすことができない。それでも苦労して目を開けると、ぼんやりとながら人の顔が見えた。
 それは、妻のジュリエッタの顔だった。
「…ジュ……リエ……」
 彼はようやくそれだけ言ったが、力尽きて目を閉じた。
 何やらささやくような声が聞こえて、左手が握られるのを感じた。握り返そうとするが、思うように力が入らない。そのまま誰かの手のぬくもりを感じながら、彼は深い眠りに落ちていった。
 そして、彼は夢を見た。
 妻のジュリエッタが微笑みながら、彼を手招きしている。彼女は昔と変わらず、若々しくて魅力にあふれていた。彼女に近づくと、彼女はキスをせがむように顎をあげ、彼の首に腕を絡ませた。
 彼は彼女にキスしようとして、彼女の口から突き出している鋭い犬歯に気付いた。彼女は口を大きく開け、血なまぐさい息を吐きながら彼の首筋に噛みつこうとする。
 腰の短剣を抜こうとしたが、短剣はどこにもない。胸にかけているはずの十字架も見つからない。彼女の腕を振りほどこうとするが、彼女の力は驚くほど強く、とても逃れられるものではなかった。彼女はアントニオの首に鋭い犬歯を突き立て――。
 そこで、彼は目を覚ました。
 が、目の前には夢の中と同じように、ジュリエッタの顔があった。とっさに腰の短剣を探ろうとしたが、腕に激しい痛みが走る。
「うっ」
 思わずうめき声がもれる。
「まだ動いてはいけません。今、先生をお呼びしますから」
 ジュリエッタの顔をした女はそう言い、彼の視界から消えた。
 一瞬遅れて、彼はようやく状況が飲み込めてきた。ここはトランシルヴァニア公国のオラデアで、彼は追い続けてきたノスフェランを激闘の末に倒したのだ。予想よりもノスフェランが回復していたことが誤算だった。まさか二頭の狼を操れるまでになっていようとは、思いもしなかったのだ。彼は深手を負いながらも短剣で二頭の狼を片付け、ノスフェランにありったけの聖水を浴びせた。聖水を浴びたノスフェランは、煙を上げながら溶けていった。
 朽ちた骨と化したノスフェランを見届けた記憶はある。しかし、その後の記憶はまったく残っていなかった。どうやら他の狼たちが血のにおいをかぎつけて姿を現す前に、助けられたらしい。決着がついた頃には夜が明けはじめていたので、それが幸いして狼に襲われなかったのかも知れない。
 先ほどの娘……彼女はジュリエッタではなく、ノスフェランの呪い受けていた娘だったのだ。彼女は、無事に呪いから解放されたようである。どうやら夜が完全に明ける前に、ノスフェランを倒すことができたらしい。
「お目覚めになりましたか」
 声がして、禿頭の老人の顔が視野に入ってくる。アントニオはそちらに顔を向けようとしたが、体がバラバラになりそうな痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「まだ痛むようですね。もう少しゆっくりとお休みになったほうがよろしいでしょう」
 老人は言った。
「私は、どのくらい眠っていたのですか?」
 横目で老人を見ながら、アントニオは言った。老人は疲れた顔をしており、目の下には黒い隈がくっきりと浮かび上がっている。
「丸三日です。ひどい高熱で、一時はかなり危なかったのです」
「先生は、ほとんど眠らずについていてくださったのですよ」
 娘が言った。そう言う娘の顔も、どこか青白い。考えてみれば、彼女もノスフェランの呪いから解放されて三日しか経っていないのだ。普通ならば、彼女自身がまだ看病されるべき状態のはずであった。
「でも、ご無事でよかった…」
 娘はアントニオの腕にそっと触れながら、やさしく微笑む。
 狩人という仕事柄、助けた女性に好意を寄せられることは、たびたびあった。しかしアントニオは、それが一時的なものであることを知っている。ノスフェランに体を汚された、という思いが、彼女たちを駆り立てているだけなのだ。
 しかし、アントニオには、彼女たちの心の傷を癒すことなどできない。むろん、彼女たちをおのれの代償行為のために利用することは、論外であった。
 アントニオは、その妻に似た娘のぬくもりを腕に感じながら、苦々しい思いで目を閉じた。

 目が覚めると、いつも彼女がそばにいた。
「家では、召使たちが何でもやってくれますでしょう? 慣れないので疲れますけれど、あなたのお世話をするのが、今はとても楽しいのです」
 彼女はそう言いながら、よく働いた。彼女は料理を運んできて、アントニオに食べさせてくれる。体を拭いてくれる。下の世話さえしてくれる。
 そんな彼女のふるまいに心地よさを感じるたびに、アントニオは自己嫌悪におちいった。彼女が妻に似ていなければ、彼は夜中にノスフェランと戦うような危険はおかさなかったはずなのだ。どんなに言い訳を考えたところで、かつて妻を救うことができなかったことへの償いとして、彼女を救おうとした事実は変わらない。
 そんな彼にとっては、彼女は妻の身代わりにすぎなかった。その証拠に、何日も看病してもらっていながら、彼はまだ彼女の名前すら覚えていない。名前を聞くことがおそろしかったのだ。彼は心のどこかで、彼女が妻のジュリエッタであって欲しいと願っていた。ジュリエッタが、帰ってきたと思いたかった……。
 しかし、このままではいけない。
 アントニオがようやく立てるようになったその日、ついにアントニオは決意した。
「お父様ったら、ひどいのですよ。私が命の恩人であるあなたのお世話をするのが、いけないことだと言うのです」
 すねたような口調で、彼女は言った。
「『狩人なんかに関るな』などと言うのですよ。世間の目があるから、とか、そのようなことを理由に挙げて。お父様は、私のことよりも、家の名前のほうが大切なのです」
「いや、お父上は正しい。あなたにはまだ、未来があります。私のような人間と関るのは、あなたのためになりません」
「そんなふうにおっしゃらないでください。狩人さまは……とても立派なお方です」
 彼女は、ふと頬を染めながら、アントニオのほうに身を寄せた。
「ご覧なさい」
 アントニオは自分の右手の甲を見せた。そこには、赤黒い十字の刺青がある。
「この刺青のおかげで、私はノスフェランを感じることができます。この色、どこかで見た記憶はありませんか?」
 娘は首をかしげる。
「血の色です。この刺青は、ノスフェランの呪われた血で入れられているのです」
 彼女は息を飲んだ。
「ノスフェランは、どこにいても互いの存在を確かめ合うことのできる、不思議な能力を持っています。その力を、刺青に封じ込めているのです。だからこそ、私たち狩人はノスフェランのいる場所を知ることができる。よろしいですか? 私たち狩人は、ノスフェランと戦うために生み出された、呪われた人間なのです」
 アントニオは言葉を切り、息を大きく吐き出した。
「私はあなたを助けようとしてノスフェランを倒したのではありません。私のような非人間には、誰かを助けるというような感情は存在しない。私は、ノスフェランを倒すことにしか興味がないのです。ですから、お屋敷へお戻りなさい。私はあなたの好意に興味はないし、立てるようになった今となっては、あなたの助力も必要としていない」
 娘は目を見開いた。彼女はひどく傷ついた表情で何度か口を開きかけた挙げ句、一転して怒りをあらわにした。
「……私があなたに好意を? うぬぼれもいいかげんにしていただきたいものですね。私は、命をお救いいただいたお礼としてお世話したまで。それを好意などとおっしゃられては、迷惑です。義理は果たしました。これにて失礼させていただきます」
 背中を向けた彼女を見ながら、アントニオは歯を食いしばった。
「今の言葉はうそです。あなたには、とても感謝しています。あなたの存在で、私の心は癒されました」
 そう素直に言えたならば、どれほど幸せだっただろうか。
 しかし、沈黙を守り通したアントニオは、ただ彼女が部屋から出て行くうしろ姿を見送ることしかできなかった。
 部屋の扉が、大きな音をたてて閉まる。
 そして、アントニオがオラデアを去るまで、彼女は二度と彼の前に姿を見せなかった。


三、一四九八年四月二五日昼・ビホル山地

 アントニオは左手に短剣を構え、右手には十字架を高々とかかげ、その男に近づいていった。男は弱り果てていて、もはや抵抗する力は残っていないようである。男は精も根も尽き果てた様子で、地面にあお向けになっていた。
「待ってくれ、アントニオ」
 男はアントニオの持つ十字架から身を隠すようにして右腕で顔を覆った。その右腕は、ずいぶん前に切断されているようで、手首から先がなかった。
「残念ですが、待つわけにはいきません。覚悟を決めてください、ロドリゴ」
「頼む、お前に狩人の技の手ほどきをしたのは、この俺ではないか。見逃してくれ」
 アントニオは、無言のまま、首を横にふった。
「畜生。狩人の十字が刻まれた右手を切り落とされた俺は、もう狩人じゃない。それどころか、今は呪いを受けて、ノスフェランと化してしまった。俺はノスフェラン。そしてお前は、ノスフェランを狩る者」
「そうです、ロドリゴ。私は狩人です。ですから、私はあなたを殺さなければなりません」
「わかった。俺もあきらめよう。頼む、アントニオ。あまり苦しまないようにやってくれ」
 ロドリゴの言葉に、アントニオは唇をかみしめた。
「ロドリゴ。私は、あなたをこれから殺そうとすることを、詫びるべきでしょうか? それとも、永遠に生きつづけるという呪われた運命からあなたを解放してあげられることを、喜ぶべきなのでしょうか?」
「好きにするがいいさ。どちらにせよ、事実は変わらない」
「……許してください、ロドリゴ」
 アントニオのつぶやきを聞いて、ロドリゴが笑う。
「俺はお前を許そう、アントニオ。生きるというのは、苦しいものだ。もっとも、ノスフェランの呪いを受けた今の俺が、生きていると呼べるのならば、だがな」
「苦しいのですか? 今でも?」
「ああ。狩人になる決断をして、右手の甲にノスフェランの血で十字の刺青を入れられて以来、一度たりとも狩人の十字がもたらす苦痛は、薄れることはなかった。あの女ノスフェランに捕らえられ、右手を切り落とされてからでさえ、ときおり思い出したように痛むのだ。もはや存在しないはずの右手が」
「なぜ、そうまでしてノスフェランは、狩人のあなたに執着したのでしょうか」
「俺の苦しむ姿を見たかったのだろうよ。狩人がノスフェランになるなんて、こんな屈辱と苦痛に満ちたことはないからな。なぜか知らんが、長い間生きたノスフェランは、人の苦痛をこよなく愛するようになる。おそらく血が冷えきってしまって、人のぬくもりを忘れてしまうのだろうな。いや、もしかすると、ぬくもりを持ちつづけている人間に嫉妬しているのかもしれない」
 アントニオは、ちいさくため息をついた。
「ロドリゴ、いきますよ」
「ああ。ひと思いに、やってくれ」
 目を閉じたロドリゴに、アントニオはナイフを振り下ろした。
 首が切り離され、地面を転がる。
 そして、ロドリゴの胸に杭を打ち込みながら、アントニオは涙を流した。
「偉大なる我が師、修道士ジローラモよ。相手が親しき者であればなおのこと、呪いから解放することをためらってはならぬ、という教えを、私は守れそうにありません。これほどの苦しみを、どうして耐えられましょうか? 教えてください、修道士ジローラモ。どうすれば、あなたほど強い人間になれるのですか?」
 その言葉は、杭を打つ槌音と一緒に、森に吸い込まれて消えていった。
 杭を打ち込み終えると、ロドリゴの体がゆっくりと朽ちていく。
 アントニオは、その脇にひざまずくと、胸の前でちいさく十字を切った。

 ビホル山地から遠く離れた場所にある、大きな屋敷の中の暗い一室に、低く太い男の声が響いた。
「ロドリゴがやられた」
「そのようですね」
 澄んだ女の声が応じる。
「今回の狩人は、なかなか腕の立つ男のようだ。おかげでわれわれの仲間はずいぶんと数を減らされてしまった。まったく、たいした男だ」
「ずいぶん悠長なことをおっしゃいますね。何とかして仲間を増やさなければなりませんのに」
「それは、わかっている。しかし、ここの教会の神父が厄介者なのだ。狩人でもないのに、あの手この手でわれわれの邪魔をする」
「たしかに。神父の教導のせいか、最近はここの住民たちも用心していて、つけいる隙がありません」
「やはり遠出するしかあるまい。クルージュへ行ってくれるか?」
「狩人を迎え撃つのですね」
「そうだ。あの男も、お前になら油断するだろう」
「そうでしょうね」
 女は闇の中でくすりと笑った。
「行け。私はハンスとともに、厄介者の神父を片付ける方策を練ることにしよう」


四、一四九八年五月四日夕刻・クルージュ

 トランシルヴァニア公国の首都に近づくと、街道の両脇には串刺しになった人間の死体が並ぶようになった。死体の多くは褐色の肌からトルコ人であることがわかったが、中には肌の白いヨーロッパ人と思われるものもある。木の棒は尻から口へと突き抜けており、その根元には大量の血の跡が残されていた。串刺しの死体の中には、すでに腐敗して悪臭を放っているものも多かった。
 噂通りだな…。
 アントニオは街道沿いの村で聞いた噂話を思い出しながら、気分が悪くなるのを感じていた。
トルコの暗殺者に妻を奪われたトランシルヴァニア公爵は、その怨みを晴らすためにノスフェランに魂を売ったのだ、という。公爵はトルコの兵士や密偵を捕えるや否や、生きたまま串刺しにする。そして、彼らが流す血液をなめ、それを活力として一睡もせずにトルコの軍勢を迎え撃つ準備を進めているのだ、と。
 誇張された部分は別にして、少なくとも公爵のトルコに対する無慈悲な態度は、串刺しの死体が並ぶこの街道によって証明されたと言える。
 アントニオは死体と腐臭に満ちた街道を、黙々と歩き続けた。
 やがてクルージュの城とその城下町が見えてくる。街道からの入り口には数名の兵士が立っており、近づいていくアントニオの姿を眺めていた。
 アントニオは右手の十字の刺青をかかげると、痛みから方向と距離を探った。どくり、と赤黒い十字が脈打ち、ノスフェランの気配をアントニオに伝える。クルージュの城の方向から、気配が感じられた。
 アントニオは見張りの兵士たちに狩人の十字を向けながら、市門を通り抜けようとした。
「止まれ」
 兵士の厳しい声に、アントニオは足を止める。
「ご覧のように、私は狩人です。このクルージュには、ノスフェランがいます」
 兵士たちは戸惑ったような表情で顔を見合わせたが、その中の一人がアントニオの腰の短剣に目をつけた。
「…あの…狩人様、その短剣を見せていただいても?」
 アントニオは短剣を黙って差し出す。
「なぜトルコの短剣を?」
 兵士は短剣を検分しながら、探るような視線をアントニオに向けた。
「私たちは狼と戦います。接近した時には長い剣など役に立たないことは言うまでもありませんが、その刃の反りが近くの相手を切るのに適しているのです」
「しかし……そう簡単に入手できるものではありますまい?」
「ヴェネツィア共和国は、以前からトルコと交易しています。ヴェネツィアの商人に頼めば、いくらでも売ってくれますよ」
 兵士は押し黙って、短剣を見つめた。
「だいたい、密偵がこんなに堂々とトルコの短剣を持ち歩くと思いますか?」
「…それはそうですが……ここで少しお待ちいただけますか?」
 兵士はそう言うと、おい誰か隊長を呼んできてくれ、と仲間に呼びかけた。

「こんにちは」
 女の声がしたので、カールは振り向いた。と、そこには全裸の女が立っていた。
 右手で股間を、左腕では胸を隠しているものの、一糸まとわぬ姿でカールを見つめているのである。すらりと伸びた長い足、やわらかな丸みのある尻、くびれた腰、ふくよかな乳房、流れるような黒髪、そして、艶然とした微笑み。
「あなたを待っていたのよ」
「……俺を?」
 女の声に、カールは怪訝そうな表情を浮かべた。
「そうよ。ねえ、私を抱いて。私の体はもう、あなたのものなのよ。あなたの好きにしてくれていいの」
 女は言いながら、ゆっくりとカールに歩み寄る。
「あんたは一体…」
 カールは痺れたように、その場に立ち尽くす。女はそのカールの体を壁に押し付けるようにして、服を脱がせはじめた。カールは、時おり触れる女の手が驚くほど冷たいことに気付いたが、その驚きは下半身をまさぐる女の手が醸し出す快感によって薄められていった。
 やがて、欲情に火をつけられたカールは、女を床に押し倒すと怒張した彼自身を荒々しく女の中に突き入れた。女は体の中も冷たかったが、彼自身を強く締めつけてくる女の体が、カールに我を忘れさせた。
 夢中で腰を降り続けるカールの首に両腕をからめながら、女は小さくささやいた。
「すごくいいわ…吸わせてね……」
 女が大きく口を開けると、鋭い犬歯があらわになる。女は、カールの首筋にゆっくりと犬歯を突き立て、にじみ出てくる血を犬のような長い舌でなめ取った。
「…ああ、素敵……」
 女はカールの血で汚れた唇を細い指でぬぐうと、その指をなめた。
「ねえ、私のも吸って…お願い……」
 女は自らの胸の中央、乳房の間に爪をたてる。そして、赤黒い血がどろりと出てくるのを確認してから、カールの頭をそこにひきよせた。
 カールは、導かれるままに女の血をなめる。瞬間、激しい快感が彼の全身を貫いた。彼は女の中に射精し、快感のあまりに体を震えさせながら、獣じみた声を上げた。

「おおぉぅぅ…」
 城のどこかから、獣のような声が聞こえてくる。全裸のアントニオは苛立って、扉を激しく叩いた。
「おい、今の声が聞こえなかったのか! ノスフェランは、この城の中にいるんだ!」
 しかしアントニオの声は、城の地下にむなしく響くだけだった。
「はやくここから出してくれ! ノスフェランが…」
「静かにしろ!」
 独房の外から、見張りの兵士の怒声が響いてきた。
「いいか、お前は明日には処刑されるんだ。外のことを心配するよりも、自分のことを心配しな」
「私はトルコの密偵などではない。何度言えばわかる!」
「うるせえ、俺の知ったことじゃねえ」
「頼む、話を聞いて――」
 アントニオがそこまで言った時、格子の間から突き出された棒が、彼のみぞおちをしたたかに打った。息が詰まったアントニオはその場に倒れこむ。
「あまり騒いでると、明日の処刑の前に俺が殺してやる!」
 アントニオは息を整えようとしながら、牢番の怒鳴り声を聞いた。石の床は裸の彼には冷たかったが、それ以上に、十字の刺青が刻まれた右手の痛みが気になった。
 真上から伝わってくるノスフェランの存在感に、右手が焼けるように痛むのだ。痛みを意識の外に締め出す訓練は積んでいたが、それは近くにいるノスフェランを倒せば苦痛から解放されるという思いがあるからこそ、耐えられるものだった。荷物も衣類も奪われた囚われの身では、ノスフェランと戦うことなど望めない。みじめに打ちひしがれるばかりである。
 アントニオは這うようにして独房の隅まで移動し、そこで体を丸めた。彼は痛む右腕を抱え込むようにしながら、かつて受けた教えを声に出して唱えた。
「苦痛は試練と思え。苦痛は永遠に続く。苦痛から逃れる方法は死のみ。苦痛に耐えることが第一義。逃げぬことが第一義。向かい合うことこそが……」
 アントニオの脳裏に、彼に教えを施した小柄な男の姿がよみがえってくる。よく響く声で語り、ただ語るだけで、その小さな体を何倍も大きく見せた男。狩人の十字架を右手に持ちながら、フィレンツェの街頭で教えを説くことにその生涯を捧げている男……。
「…向かい合うことこそが第一義。苦痛を消すことは考えず、生かすことを考えよ。われわれの武器は魂。魂は、どのような苦痛さえも飲み込むことができる。魂の力を信じて……」
 再び、どこかから獣のような声が聞こえてくる。アントニオは苛立って、冷たい床を左手でぴしゃりと叩いた。
「修道士ジローラモ、私はこの上なく無力です。どうすればいいのですか……」


五、一四九八年五月五日昼・クルージュ

「ファーニアよ、この者に間違いないのか?」
 鷹のような鋭い目をした中年の男が、隣りに立つ若い娘を見た。
「はい、公爵様。私の命を救ってくださった狩人様に間違いございません」
 そう答えるファーニアの視線は、彼女と公爵の前に引き据えられた全裸のアントニオから離れなかった。アントニオは充血した目で、公爵と彼女を交互に見ている。
「そうか」
 公爵は鼻を鳴らすと、鋭い口調で命令した。
「この男に衣服と荷物を返してやれ。それから、この男の逮捕を命じた者をここに連れてこい」
「はっ…しかし、死刑囚の所持品は、通常兵士たちが自由に分けてしまいますので、そう簡単には見つからないかと…」
「口答えは無用だ。はやくしろ」
 公爵は冷たく言い放った。
「はい、承知いたしました」
 駆けていく兵士を見送ってから、公爵はゆっくりとアントニオに近づいた。
「知らぬとは言え、迷惑をかけた。姪が来なければ、処刑しておったところだ」
 言葉とは裏腹に、公爵の声には何の感情もこもっていない。
「姪…とおっしゃられましたか?」
 アントニオはノスフェランの気配で痛む右手をさすりながら、怪訝そうな表情を浮かべた。
「私の母が、亡くなられた公爵様のお妃様の、妹なのです」
 ファーニアがアントニオに言ったが、公爵はその説明を無視して、冷たく鋭い視線をアントニオに向けた。
「それで、ここにノスフェランがいると聞いたが?」
「はい、公爵様。この城にはノスフェランがいます」
「巷では余をノスフェランだと言う者もあるようだが…」
 公爵の頬が緩んだが、目はあいかわらず冷たいままだった。
「公爵様がノスフェランであれば、迷わずお命を頂戴します。ですが、幸運にも公爵様はノスフェランではございません」
 公爵は口を開きかけたが、その時、アントニオの拘禁を指示した市門の警備兵の隊長が連れられてきた。隊長はおどおどした表情でひざまずき、公爵を見上げた。
「公爵様、この者はトルコの短剣を持っておりましたものですから…」
「言い訳は聞きたくない」
 公爵は従者の腰から剣を抜くと、すさまじい速さで振るった。隊長の首が床に転がり、切り口から血が吹き出す。公爵はその鮮血を見て一瞬だけ目を輝かせると、従者に剣を返した。ファーニアはその様子を見て声にならない悲鳴を上げ、目を覆った。
「街道にさらしておけ」
 つぶやくように公爵は言った。その目の中に狂気を見たアントニオは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「狩人よ、余の正気を疑うような目つきだな」
 公爵に氷のような視線を向けられ、アントニオは威圧されて何も言うことができなくなった。
「正気を疑いたければ疑うがよい。だが、余がなぜお前を解放する気になったか教えておいてやろう。それは、お前の目が余の目に似ているからだ。お前も余と同様、かたくなになっている。お前の理由は、なんだ? なぜノスフェランと戦う? お前はノスフェランに誰を奪われたのだ?」
 アントニオは愕然としながら、自分の目も公爵の目と同様に狂気に満ちているのだろうか、と考えた。
「妻か? 子か? 親か? 兄弟か? 誰だ? 誰を殺された?」
 公爵の目だけでなく、口調にも異常な妄執があらわれはじめていた。アントニオは頭を下げて公爵の顔から視線をそらすと、言った。
「……誠に申し訳ございませんが、私個人の問題でありますので、その質問にはお答えいたしかねます。それよりも、私に城内の探索をお許しください。被害が広がる前に、ノスフェランを退治しなければなりません」
 アントニオは頭を下げたまま、公爵の返答を待っていた。と、不意に目の前にあった公爵の足がきびすを返し、遠ざかっていく。
「許す。報告はいらん。用が住んだら、早々に立ち去るがよい」
 アントニオが顔を上げると、公爵はアントニオに背を向けて歩き去るところだった。
「伯父上様は、変わってしまわれた……」
 青白い顔をしたファーニアがアントニオのかたわらに立ち、ぽつりと言った。
 二人の背後では、首を斬られた死体を片づける作業が黙々と進められていた。

 アントニオがその部屋に飛び込むと、寝台の上では一組の男女が、互いの体を絡み付かせながら悶えていた。そしてその脇では、別の女がその行為を眺めていた。
 女は部屋に入ってきたアントニオを見て、満面に笑みを浮かべる。
「アントニオ、待っていたのよ。遅かったじゃない」
「やあ、ジュリエッタ……」
 言いながら、アントニオは短剣を構える。
「まさか…私をそれで切ろうなんて言うんじゃないわよね?」
 ジュリエッタは、すねたように眉を寄せた。アントニオがよく知っている、妻の仕草だった。眉間に寄ったしわも、ゆるやかな弧を描いている眉も、瞳も、鼻も、唇も、すべてアントニオが愛した妻のものだった。
 今、アントニオの目の前には、いとしい妻が立っている。
 しかし、ともすると激情に押し流されてしまいそうになるアントニオを、右手の強い痛みが押しとどめていた。血の色の十字が刻まれた右手は、その痛みで彼女がノスフェランであることを告げている。
 ジュリエッタは死んだ。彼女の魂を呪いから解放するために、彼女の体を切り刻まなければならない。だから……。
「アントニオ、そんなものはしまってちょうだい。私は今でもあなたを愛しているの。あなたはもう、私を愛していないの?」
 ジュリエッタは、アントニオにゆっくりと歩み寄る。
「寄るな…頼む、ジュリエッタ」
 アントニオは顔をゆがめ、震える声で言った。
「怖がらなくていいのよ。あなたもこっちにいらっしゃい」
 二人の距離は、手を伸ばせば触れられるほどにまで近づいていた。
「君を助けるために、僕は君を殺さなければいけない…」
「そんなことはないわ。ちょっと勇気をもてば、あなたも私と一緒になれるのよ。永遠にね」
 ジュリエッタが手を伸ばしてアントニオの頬に触れようとした瞬間、アントニオの持っていた短剣が一閃した。
「ぎゃっ」
 人のものとは思えないような声をあげたジュリエッタは、後方に飛びすさる。そして切られた腕を抱えながら身を低くし、うなり声をあげた。アントニオとジュリエッタの間には、切り落とされたジュリエッタの左手首が転がっている。
「許して欲しい。すぐに、君を呪いから解放してあげるから…」
 アントニオは短剣を構えたまま、ジュリエッタとの間合いを詰めた。
 と、その時。
「狩人様!」
 アントニオの背後から声がかけられた。振り向くと、そこにはファーニアが立っている。ファーニアは自分とそっくりな顔をしたジュリエッタを見て、呆然と立ち尽くした。
 ジュリエッタはその隙を逃さず、すぐ行動にうつっていた。
「カール!」
 ジュリエッタに名前を呼ばれた男は、ベッドの上で女から身を起こすと、アントニオとジュリエッタの間に割って入った。ジュリエッタは男の肩越しにアントニオとファーニアへ鋭い一瞥を向けると、窓から外へ身を躍らせる。
 アントニオが驚きから立ち直った時には、すでにコウモリに姿を変えたジュリエッタが、南に向かってふらふらと飛び去っていくところだった。
「待っているように言ったでしょう! なぜ来たのです!」
 アントニオは背後のファーニアに向かって怒鳴った。
「狩人様の銀の十字架が見つかったので、それをお渡ししようと思って……」
「愚かなことを」
 アントニオは吐き捨てるように言うと、眉間にしわを寄せながら、目の前に立ちはだかった男に短剣で突きかかっていった。


六、一四九八年五月七日夜・シビウ街道

 アントニオの眼前では、焚き火が小さな音をたてながら燃えていた。焚き火の向こうでは、毛布にくるまったファーニアが横になっている。少し離れた場所では、ファーニアがオラデアから乗ってきた馬が、膝を折って眠っていた。
 どこか遠くから、狼の遠吠えが聞こえてくる。
 馬が不安げに鼻を鳴らし、ファーニアはとっさに身を固くした。彼女はややあってから身を起こし、口を開いた。
「今、狼の声がしませんでしたか?」
 アントニオは無言のまま、ただ焚き火の炎を見つめていた。
「ここにやって来たりはしませんでしょうか?」
「気にする必要はありません。ずっと遠くです」
 アントニオのぶっきらぼうな言い方に、ファーニアは表情を曇らせた。
「……狩人様、やはり怒っていらっしゃるのですね?」
「怒ってなどいません。オラデアでも、クルージュでも、命を救っていただきました。感謝しています」
 アントニオは、まるで題目を唱えるような口調で言った。
「ですが、私が一緒に行くことは望んでおられません…」
「当たり前です。危険な旅ですから」
 アントニオはため息まじりに言うと、ごろりと横になった。
 ぱちん、と薪がはじけ、火の粉が舞う。
「……狩人様は、私を避けていらっしゃるのですね」
「お嬢様、私は何も…」
「言い訳は結構です」
 ファーニアがアントニオの言葉を遮った。
「私には、狩人様が私を避ける理由がわかっているのです。クルージュで逃がしてしまったノスフェラン、あの人は狩人様の大切な人だったのでしょう? 私があの人と似ているから、狩人様は無理をして私から遠ざかろうとしているのでしょう?」
「おやめください。何を理由にそのようなことをお考えになったのかは知りませんが、事実無根です」
「事実無根ですって? 傷から出た熱にうなされながら私の手を握り、『ジュリエッタ』と繰り返したこともですか? 狩人様が私の中に別の誰かの面影を見ていることくらい、ずっとわかっていたのですよ」
 アントニオは目を閉じ、唇をかみしめた。
「オラデアで狩人様に冷たい言葉を浴びせかけられた後、いろいろ考えたのです。そして、私は決心しました。狩人様の愛を受けられるのであれば、たとえ身代わりでも構わない、と」
 ファーニアは立ち上がり、アントニオの脇までやってくると、彼の腕にそっと触れた。彼女の手のぬくもりが、じわりと肌の上を伝って広がっていく。アントニオは目を閉じ、必死で首をふった。
「お嬢様、いけません…たとえあなたが良くても、私にはできないのです。あなたはジュリエッタではないのですから」
 ファーニアは、無言のままアントニオのかたわらに腰を下ろし、じっとアントニオを見つめた。アントニオは横になったまま目を開け、ファーニアを見上げる。ファーニアの体から漂ってくる甘い香りが、アントニオの心を激しく揺さぶった。
 一度は失ったものが、そこに存在している気がする。勇気を持って手を伸ばせば、それに手が届くような気がした。しかし、逆に、手を伸ばすことですべてを壊してしまうような気もするのだ。
「申し訳ありません。お気持ちは嬉しいのですが、私の心にはもう、憎しみ以外の感情は残っていないのです」
 心とは裏腹に、アントニオは拒絶の言葉を口にしていた。
 しかし、ファーニアは微笑み、首を横にふる。
「あなたは、嘘をおっしゃっています」
「嘘など――」
 言いかけて、アントニオは自分に勝ち目がないことを悟った。
 ノスフェランの冷たい体ではなく、生きた人間のあたたかな体を、アントニオは求めている。触れられ、触れたいと思っている。
 どんなに自分を欺こうとしても、その事実を変えることはできなかった。
 アントニオはファーニアの手をつかむと、乱暴に引き寄せ、その細い体を強く抱きしめた。
 ファーニアが、はあっと吐息をもらす。
 あたたかな体の弾力を確かめるように、アントニオはファーニアを抱いた。そして、自分の頬を、彼女の頬にこすりつける。
「ああ、あたたかい……」
 彼女のつぶやきに、アントニオは今はっきりと思い出した。
 そう。
人の体は、あたたかい。
 このあたたかさを求めて、このまま溶け合ってしまいたいようなもどかしさを感じながら、人は人を恋するのだ。
「アントニオ」
 ファーニアの声が、耳をくすぐる。
 アントニオは、確信した。
 今ならば、彼女をジュリエッタに似た女としてではなく、彼女自身として見ることができる。
 五年前に止まってしまっていた彼の時は、今ふたたび動き出したのだ。
「このまま一緒にいてください、ファーニア」
 アントニオは、自分の腕の中で彼女がうなずくのを感じながら、彼女を抱く腕に力を入れた。

 その夜、アントニオは過去を思い出した。
 記憶の底からよみがえってくるだけで息苦しくなる、過去。
 彼にすがりつくようにして眠るファーニアの寝息が、長い間意識の外に無理やり追いやっていた記憶を、呼び起こしたのだ。
 ジュリエッタの寝息。ジュリエッタの吐息。ジュリエッタのキス。ジュリエッタの愛撫。愛と平安に満ちた時。そして、それがいとも簡単に破られた時。
 あのノスフェランの顔は、いまだにくっきりと脳裏に浮かぶ。高いワシ鼻、高い頬骨、青白い肌、妖しい光を湛えた黒く大きな目…。あの目で見つめられた瞬間、彼は動けなくなった。ジュリエッタも幻惑され、ノスフェランに言われるまま、アントニオの手足を縛った。そして……。
 五年が経過した今でも、そのときのことを思い出すと、アントニオの心は張り裂けそうになる。
 縛られて無力なアントニオの目の前で、ノスフェランはジュリエッタと交わったのだ。ジュリエッタの小麦色の肌が、ノスフェランの青白い肌の下で、快感のあまりに震えるのを見た。アントニオにさえ見せたことがないほどの激しさで、ノスフェランの体を求めているジュリエッタの姿を見た。ノスフェランがジュリエッタの真っ赤な血をなめ、ジュリエッタがノスフェランの赤黒い血をなめる様子を見た。ジュリエッタがノスフェランの名を叫びながら、何度も絶頂に達する光景を見た。
 アントニオの耳には、その時のジュリエッタの声がこびりついてはなれなかった。
 カイゼル、おおカイゼル、カイゼル……。
 カイゼルめ、いつか貴様を殺してやる。貴様は、無力感に打ちひしがれた俺の姿を見て、喜んでいた。俺は、あの屈辱を絶対に忘れない。貴様を滅ぼしてやる。何に代えても、必ず!
 アントニオは、いつだってそう思っていた。
『君のその妄執は、いつか君自身を滅ぼすことになるだろう』
 アントニオに教えを説いたフィレンツェの修道士ジローラモは、そう言った。
『人は、誰もが妄執を抱えて生きている。しかし、その妄執のためだけに生きるようになった者には、破滅しか待っていないのだ。人は天使の心と悪魔の心をあわせ持っている。弱き者は、何よりその事実に負けるだろう。だからアントニオよ、おのれの中の悪魔を赦す強さを持ちたまえ。神はいつも汝のそばにあるだろう』
 その修道士ジローラモの言葉は、正しかった。今ならば、確信を持ってそう言える。
 以前であれば、アントニオは反論していたはずである。
 偉大なる修道士ジローラモならば、それもできるだろう。しかし、弱いアントニオには、とうてい無理なのだ、と。
 が、今は違う。
 力は、おのれの中にある。おのれの心を鎖でしばりつける力も、その鎖を断ち切る力も、すべてわが身の中にある。
『おのれの力を信じよ。人の意思こそが力なのだ、アントニオよ。君はこの修道院において、祈りを捧げることで聖なる水を生み出す術を学んだ。どこにでもある井戸水を、力のある聖水に変えることができるのだ。どうして君は、自分のその力を信用しないのか。どうして自分が弱いと決めつけるのか。おのれの価値は、おのれが決めるのだ』
 おのれの価値は、おのれが決める。
 寝息をたてているファーニアの髪をかきあげてやりながら、アントニオはみずからに誓った。
 ジュリエッタの魂を、ノスフェランの呪いから解放する。
 そうしたら、ファーニアと……。
 アントニオは、ファーニアの額に口づけをして、彼女の体を抱きしめた。
 まだ、夜明けは遠いようだった。

 シビウのはずれにある屋敷の、闇に包まれた一室。
「ジュリエッタ、戻ったのか?」
 男の声が響いた。
「はい、カイゼル」
 女の声が応じる。
「しくじったようだな」
「まったくの誤算でした。まさか、あの男に私を傷つけることができようとは…」
「しかし、手首ひとつで済んだことで、よしとしておくべきだろう。こちらは、あのいまいましい神父に、ハンスがやられた。これで、残されたのは我々二人だけになってしまった。なんとかして挽回せねばならんが、ジュリエッタ、今は棺に入って休むがよい」
「その前に、ひとつだけお伝えしておきたいことがございます。実は、狩人には同行者がおりまして、その娘が私とよく似ているのです」
「それで?」
「うまくいけば、邪魔な神父もろとも、一気に片づけられるかも知れません」
「罠、か。面白い……」


七、一四九八年五月二一日夕刻・シビウ

 アントニオは馬の手綱をひきながら歩くファーニアを手で制し、慎重に周囲の様子をうかがった。市門を抜けた二人の目の前には、人気のないシビウの街並が続いている。アントニオは用心深く十字の刺青を周囲にかざし、その痛みの変化でノスフェランの位置を探った。
「近いのですか?」
 ファーニアは厳しい表情のアントニオを見ながら、言った。
「ええ、かなり。この街のどこかにいます…こっちか……」
 アントニオはすたすたと歩き出し、ファーニアは慌ててその後を追った。
 やがてアントニオは立ち止まると、短剣を抜いた。
「馬はそこにおいたままで、私の後をついてきてください。絶対に私から離れないように注意して」
「わかりました」
 アントニオは彼女がうなずくのを確認してから、ゆっくりと歩き出した。二人の行く手には小さな教会があり、その屋根の上に黒い影がへばりついているのが見えた。その影は屋根の上を這い回り、中の様子をうかがっているように見える。
 アントニオはファーニアをともなってすばやく教会の入り口に駆け寄り、ドアを開けようとした。しかし、内側から鍵がかけられているようで、びくともしない。アントニオは屋根の上の影に気付かれるのを承知の上で、扉を叩いた。
「どなたかいらっしゃいませんか? 私は狩人です。この教会の屋根の上にはノスフェランが――」
 言いかけて、アントニオは気配を感じて振り向いた。
 まさにその時、黒い影が屋根から飛び降りてきて、アントニオに向かって突進してくるところであった。アントニオはとっさにファーニアを横へ突き飛ばし、向かってきた影に短剣を振るった。
 しかし、影はアントニオの直前でふわりと飛び上がり、屋根の上へ姿を消してしまった。一瞬のことではあったが、そのわずかな間にアントニオは相手の姿をしっかりと見ることができた。相手は黒い衣服に身を包んだ男で、鼻と頬骨の高い、精悍な顔立ちをしていた。
カイゼル…。
アントニオは相手が妻を奪ったノスフェランであることを悟り、体がかっと熱くなるのを感じた。
 彼は、走って建物から離れ、爪先立ちしながら屋根の上をうかがった。しかし、そこにはカイゼルの姿はない。そのひさしの下では、彼に突き飛ばされたファーニアが身を起こしているところだった。
 と、彼女に忍び寄る黒い影が目に入った。
「危ない!」
 アントニオが声を上げた時には、建物の影から出てきたカイゼルがファーニアの体を後ろから抱きすくめ、口を手で覆っていた。ファーニアは体をよじってカイゼルの手から逃れようとしたが、それは無駄に終わった。カイゼルが、強い力で彼女の腕をねじ上げていたのである。
「おのれ、カイゼル……」
 アントニオはゆっくりと歩き、カイゼルとの距離を詰めた。しかし、ファーニアが盾になっている以上、そのまま突きかかることはできない。彼は腰にくくりつけた小ぶりの皮袋に右手を添え、射程距離まで近づくのを待った。皮袋には、前日に作った聖水が入っている。袋の口をノスフェランに向けて強く押せば、聖水がノスフェランにかかるようになっているのだ。聖水ならば、ファーニアの体には何の影響も与えない。
「それ以上近づくな、アントニオ。近づけば、この娘の命はないぞ」
 カイゼルはささやくような声で言いながら、ファーニアの口にあてていた手で彼女の喉をわしづかみにした。ファーニアが苦しさのあまり、顔をしかめる。
 アントニオは足を止めた。
「協力に感謝する。血を吸わずに殺すなど、もったいなくてできぬからな」
 カイゼルはにやりと笑う。その口元から、鋭い犬歯がのぞいた。
 アントニオは距離を目測しながら、あと三歩、と考えた。あと三歩で、聖水の届く距離になる…。
「さて、その聖水の袋を地面に捨ててもらおうか」
 アントニオは唇をかんだ。相手は、狩人の手の内を知り尽くしているのだ。過去に、何度となく、狩人と戦った経験があるに違いない。状況は、明らかに不利だった。
「はやく捨てろ!」
 カイゼルが声を荒げた。
 しかし、アントニオは迷っていた。彼にとっての武器は十字架、短剣、聖水の三種類しかないのだ。ここで脅迫に屈服して聖水を捨てれば、決定的なダメージを与えられるものは短剣しかなくなってしまう。
 いったい、何を迷っているのだ?
 アントニオは自問した。ファーニアを失うことは、できない。どれほどカイゼルが憎くても、その感情に流されてファーニアの身に危険がおよんでしまえば、意味がない。
 狂気に満ちたトランシルヴァニア公爵の目が、アントニオの脳裏をかすめる。あの、復讐のためにすべてを滅ぼそうとしている人間と同じになってしまうわけには、いかないのだ。
「これが最後の警告だ、捨てろ」
 カイゼルの手に一段と力が込められ、ファーニアは苦しげに口を開いた。口の端から舌が見え、目はこぼれ落ちそうなほど見開かれている。
 アントニオは首をふりながら紐を解き、皮袋を足元に落とした。
「ものわかりがよくて助かる、アントニオ。お前には――」
 カイゼルがそこまで言った時、がちゃり、という音がしたかと思うと、教会の扉が開けられた。中から大柄な神父が姿をあらわすと、すぐ脇にいるカイゼルに向かって十字架をかざしながら、大声で叫んだ。
「土に帰るがいい、呪われた者よ!」
 カイゼルが十字架にひるんだ瞬間、神父はその十字架をカイゼルの腕に押し付けた。
 じゅっという音とともに白煙が上がり、カイゼルは悲鳴を上げながらファーニアから離れる。神父は地面に倒れそうになるファーニアをうけとめながら、さらに十字架をカイゼルに近づけた。
「この、くそいまいましい神父め!」
 カイゼルは激しい憎悪の表情を神父に向けると、身をひるがえして夕闇の中へと消えていった。

 ショックを受けて青ざめた顔のファーニアは横になり、その脇に立ったアントニオが神父から受け取った毛布をかけた。
「よくおいでくださいました、狩人様」
 神父が、その様子を見ながら静かに言う。
「いえ、こちらこそ、神父様に助けていただきました。しかし、まだ日没前だというのにノスフェランが我が物顔で出没するとは、まったく厄介なことですね」
 アントニオが言うと、神父は穏やかに笑った。
「私がこの地に赴任してきたのは三年前ですが、その頃は、真昼でも犠牲者がでるようなありさまで、それはひどいものでした。この地に見えられた幾人かの狩人様や住民たちの尽力で、これでもずいぶん良くなったのです。ここ一年というもの、街の中から犠牲者は一人も出ておりません」
「それは、なによりも神父様のご教導のたまものでしょう。それはそうと…」
 アントニオは表情を厳しくして、神父に言った。
「明日にでもノスフェランの根城を探し出して乗り込もうと思うのですが、住民のみなさんの助力を得られるでしょうか?」
「問題ないと思います。明日の朝一番に、街の者に声をかけましょう。先日ここを襲ってきた一匹を退治しましたので、さほど多くは残っていないはずです」
「なるほど。では、明日…」
 アントニオがそう言った瞬間、近くで狼の遠吠えが聞こえた。
「いやな感じですね」
 神父の言葉に、アントニオはうなずいた。
「…今夜あたり、まだもうひと騒ぎあるかも知れません……」


八、一四九八年五月二一日夜・シビウ

 アントニオはゆっくりと体を起こし、装備の点検をはじめた。
「どうかなさいましたか?」
 気配を察知した神父が目を覚まし、不安げに声をかける。
「先ほどから、この教会のまわりをうろついているノスフェランがいます。何が目的かは知りませんが、片づけてしまいたいと思います」
「夜は危険ではありませんか?」
「大丈夫、無理はしません。ただ、もしも奴が単独でうろついているのであれば、今が倒す好機なのです」
 アントニオは短剣を左手に、右手には火のついたたいまつを持ち、立ち上がった。
「お気をつけて」
 神父は扉のところまでアントニオと一緒に行き、掛け金に手をかけた。
「開けますよ、よろしいですね?」
「お願いします」
 神父が掛け金をはずして扉を開けると、アントニオは矢のように飛び出していった。そして、すぐに神父は扉を閉め、掛け金をおろす。
 扉を開けていたのはわずかな時間だったが、湿った冷たい空気が部屋の中に流れ込んできて、神父は思わず身震いをした。
「どうかご無事で、狩人様……」

 アントニオが出ていってからさほど時間は経っていなかったが、教会の扉が激しくに叩かれたため、神父は扉に駆け寄った。
「お願いです、入れてください」
 女の声だった。
「クルージュから妹の後を追ってきたのですが、ノスフェランに襲われてしまったのです。すぐそこで狩人様に助けていただき、この教会に妹が泊まっていると聞きました。どうか、中に入れてください」
 神父は用心のために、のぞき穴から外を見た。扉の向こうに立っているのはアントニオと一緒に来た娘によく似た女性で、不安げな表情でしきりに背後を振り返っている。
「お願いです、はやくこの扉を開けてください。ノスフェランは、まだこの近くにいるのです」
 女の差し迫った悲痛な声に、神父は思わず扉を開けた。
 しかし、扉を開けてみると、そこに立っている女は妖艶な笑みを浮かべながら神父を見つめており、その表情には扉を開ける前までの怯えた様子など、微塵もなかった。
「ありがとう」
 女は言いながら、神父の目を見据える。
 神父が「だまされた」と悟った時には、すでに神父は女の目から視線をそらせなくなっていた。
「入らせてもらうわね」
 ただ立ち尽くすだけの神父の頬を、ジュリエッタはその細い指でそっと触れた。

「食らえ!」
 アントニオが短剣を振るうと、カイゼルは身をひるがえして後退した。さらにカイゼルを追っていって短剣を突き出すと、カイゼルは再び後退する。狙いを定めて皮袋の聖水を放ったが、カイゼルはそれもひらりと身をかわし、難なくよけてしまった。
 気がつくと、アントニオは教会からずいぶん離れた場所まで来ていた。
「さて、それでは、私はここで失礼するとしよう」
 カイゼルは言うと、狼のような声で吠えた。とたんに、アントニオの周囲から狼の声が呼応し、夜の闇の中で銀色に輝く目が、そこここに姿をあらわす。
「罠か…」
 アントニオはカイゼルから発散される強い気配をあえて無視し、教会の方向の気配を探った。別の気配がもうひとつ。間違いなく、教会方面にはもう一匹ノスフェランがいる。
「お前の負けだ、狩人よ。今ごろ、お前の愛するジュリエッタが神父と交わっている頃だろう。それに、ジュリエッタによく似たお前の新しい恋人も、これから私が味見をさせてもらうことになる…」
 カイゼルは勝ち誇ったように、高らかに笑った。
「彼女は恋人などではない。手を出すな!」
 アントニオは思わず口走ったものの、その声はむなしく夜の闇に吸い込まれていっただけだった。
「それは、この際どうでもいい。しばらく若い娘の血を飲んでいないのでね、今夜はとても楽しみだ…」
 アントニオは敗北感にうちひしがれながら、周囲に集まってきた狼たちの数を数えた。全部で五頭。ノスフェランに操られて狂暴になった狼は、ノスフェラン以上に手強い。
「感情に流されるのは、人間の最大の弱点だ。お前は私が憎いのだろう? その愚かしい感情に身をまかせ、われわれの望む通りに行動してくれた。お前には、本当に感謝しているよ…」
 哄笑しながら、カイゼルは教会に向かって駆け出す。と同時に、カイゼルが集めた狼たちが、アントニオに殺到してきた。
 アントニオは歯を食いしばると狼の一頭に右腕をわざと噛ませ、その首筋を短剣で切り裂いた。足を噛まれたために地面へ倒れてしまったアントニオは、その足に食らいついている狼の目に短剣の切っ先を叩き込む。が、そこへ残る三頭が牙をむき出しにして、いっせいに飛びかかってきた。
 苦痛のためというよりは、自分自身を鼓舞するために、アントニオは大声で吠えた。

 神父は、目を開き、朦朧とした意識の中で状況を把握しようとしていた。周囲の景色がひどくゆがんで見え、焦点が定まらない。
 邪淫の罪だけは犯すまいという強い意思によって、女ノスフェランの幻惑の呪縛から逃れたところまでは思い出せた。その時の女ノスフェランの顔は、脳裏に焼き付いている。呪縛が効かなかったことに腹を立てた女ノスフェランは、悪鬼の形相で神父をにらみつけると、彼を張り倒したのだ。
そして。その後の記憶は、ない。
 神父は何度かまたたいて、意識をはっきりさせようとした。目の前には、彼が食卓に使っていたテーブルの足が見える。が、その足は、神父の頭の上で床に接していた。上下が逆転しているのだ。
 景色の上下が逆転しているのではなく、神父自身がさかさまになっているという事実に気付くまで、しばらくの時間を要した。神父は慌てて床に手をつこうとして、両腕の感覚がないことに気付いた。苦労して横目で見てみると、神父の手は壁に木の棒のようなもので打ちつけられていることがわかった。真っ赤な血に染まった手は、神父がどれほど動かそうとしても、ぴくりともしない。
 足を見ようとしたが、自分の頬骨が邪魔をして、見ることはできなかった。が、わざわざ見なくても、自分がどのような状態になっているのかは、容易に想像することができた。
「…おお、神よ……」
 かすかな声が、神父の口からもれた。

 その声は、かろうじてアントニオの耳に届いた。アントニオは足を引きずりながら、声のしたほうへ歩いた。彼の頬は裂け、耳は半分ちぎれている。全身が血まみれで、左足のふくらはぎの肉は、大きくえぐれていた。
 アントニオは、ファーニアの寝室としてあてがわれた部屋で、壁に逆さはりつけにされた神父を見つけた。神父は無造作に折られた木片で両手両足、それに腹部を刺され、それが板張りの壁を破って食い込んでいるために、体が固定されているのだった。
 アントニオが苦労して木片を抜くと、神父は大きな音をたてて血だまりのある床に落ちた。しかし神父は苦痛の声ひとつ上げず、ただぼんやりとした目をアントニオに向けた。
「あなたも、ひどく、やられた、ようですね…」
 神父はかすれた声で、途切れ途切れに言った。
「申し訳ありません。私が無謀にも外に出たために、神父様まで、こんな……」
 後悔の念から、アントニオは涙があふれて来るのを止めることができなかった。
 妄執は、その身を滅ぼす。
 修道士ジローラモの言葉のとおりだった。憎しみに支配された心では、人は幸せになれないのだ。
「申し訳ありません、神父様」
「はやく、行きな、さい。娘さんは、まだ」
 神父はそこまで言い、ふと目を閉じた。
 慌ててアントニオが神父の肩を叩くと、神父は再び目を開けた。
「神父様、どうか、お気を確かに」
「私は、ノスフェランに、勝ちました。幻惑を、退け、呪いを、拒絶した、のです」
 アントニオは信じられない思いで神父を見た。狩人には、十字の刺青がある。ノスフェランの存在で苦痛を感じるために、その痛みによって幻惑を退けることができるのだ。それを、この神父は、意思の力だけでやってのけたと言うのである。
「おのれの、力を、信じる、こと………あなた………勝てます……」
 神父の声はいよいよ小さくなり、聞き取りにくくなってきた。
「神父様!」
「行きなさ……あなたに……神の御加護………」
 神父は長く、ため息のような息を吐き出したが、そのまま二度と息を吸うことはなかった。
 アントニオは目を閉じ、床を拳で殴りつけると、ゆっくりと立ち上がった。
 彼は思うように動かない左足を引きずりながら、教会の裏手にある井戸まで行き、水を汲んで頭からかぶった。そしてさらに水を汲み、その桶の前で静かに祈りを捧げる。
「神よ、我に力を与えたまえ。この貴き水に、その御力を宿らせたまえ。邪悪なるものを破る、大いなる力を与えたまえ…」
 祈りが終わると同時に、桶の中の水がやわらかい黄金色の光を放ちはじめる。光はしばらく揺れるように輝いていたが、やがて消えた。
 アントニオは腰の皮袋に作ったばかりの聖水を補充しながら、ノスフェランの気配のする方角をにらんだ。
「ファーニア、すぐ助けにいくからな……」
 口をついて出たアントニオの声は、墨を流したような闇夜に吸い込まれていった。


九、一四九八年五月二一日深夜・シビウ

 その街はずれにある古い屋敷は、まるでアントニオの来訪を待っていたように、玄関の扉が開かれていた。片手にたいまつを持ったアントニオは、足をひきずりながらも迷わずその中へ入っていく。
「ようこそ、わが館へ」
 暗闇の中から、カイゼルの声が聞こえた。たいまつをかざすと、玄関ホールには黒い礼服を着たカイゼルと、純白のウェディングドレスを身にまとった女が立っていた。
「アントニオ、君を待っていたのだ。このとおり、ジュリエッタの準備は、もう整っている」
 アントニオは用心深く腰の短剣を抜いた。
「そのような物騒なものはしまうがいい。こんなに美しい花嫁を傷つける気かね?」
 カイゼルは花嫁衣装にそっと触れ、満足げに微笑んだ。
「さあジュリエッタ、花婿のところへ行くがいい」
 カイゼルに背中を押され、花嫁はゆっくりと歩きはじめる。一歩進むごとに、白いベールがゆるやかに揺れた。
 アントニオの脳裏に、ジュリエッタとの結婚式の記憶がよみがえってくる。ベールの向こうに見えたジュリエッタのはにかんだような笑み。夫婦の誓いと指輪の交換。そして、ベールを引き上げ、キスをした。ジュリエッタの柔らかい唇……。
「ジュリエッタ…」
 花嫁は、アントニオの手の届くところまでやってきた。
「さあ、キスをしたまえ。君たちは、それで夫婦だ」
 カイゼルが、まるで神父のようなせりふを言った。
 花嫁は、たいまつを持つアントニオの右手の内側にすっと入り込むと、キスを待つように、顔をアントニオに向けた。
「ジュリエッタ、ゆるしてくれ…」
 アントニオは短剣を花嫁の首にあて、一気に引き切ろうとした。
 が、花嫁の首に触れた指先が、体温を感じた。
 彼女は生きている。
 このぬくもりは、ノスフェランと化したジュリエッタのものではない。花嫁は、ファーニアなのだ。アントニオはベールをめくると、彼女の首筋をあらためた。真新しい傷跡があり、まだ血がにじんでいた。
 アントニオは、カイゼルをにらみつけた。
「私に、ファーニアを殺させるつもりだったのか?」
「はっ、気づいたか。馬鹿ではないようだな」
 カイゼルがせせら笑う。
「いいかげん、お前のお遊びにはうんざりしてきたよ、カイゼル」
「だが、まだ付き合ってもらうぞ、アントニオ。次は、隠れ鬼だ。その娘には、私の血を飲んでもらった。夜明けまでに俺を見つけて、倒せるかな? さもなければ、その娘もわれわれの仲間入りをすることになる。お前が何よりも憎む、ノスフェランの仲間入りをすることに、な。さあ、俺を捕まえてみせろ。夜明けまで、あまり時間はないぞ」
 カイゼルは身をひるがえすと、屋敷の奥へ消えていった。
 アントニオは、意思のない人形のように立ったままのファーニアを抱くと、屋敷の外へ出た。そして、無抵抗な彼女の体を屋敷から離れた場所に寝かせ、屋敷をふり返る。
「そんなに遊んでほしいなら、相手をしてやるよ、カイゼル……」

 ぽつり、と雨がアントニオの頬にあたった。彼は空を見上げ、それから燃えさかる屋敷に目をやった。アントニオは放った炎は、いまや完全に屋敷を包む込み、周囲を明るく照らし出している。
 雨が強くなる前に、燃え尽きてしまえ……。
 アントニオは獲物が焼け出されてくるのを、今か今かと待ち構えている。手にした短剣が、炎を反射してぎらぎらと輝いていた。
 しばらくして、カイゼルが屋敷の外に飛び出してきた。
 と、その直後に屋敷の中で何かが崩れる音がして、女の悲鳴が上がる。カイゼルが屋敷の中に向かって何やら叫んだ。ややあってから、全身を炎に包まれたジュリエッタが、転がるように出てくる。カイゼルはジュリエッタの体を叩いて、どうにか火を消し止めた。しかし、ジュリエッタは、その場に倒れたまま動かない。
「隠れ鬼は終わりだ」
 アントニオが静かに言うと、カイゼルは体を起こして、まっすぐにアントニオを見据えた。
「お前を少し見くびっていたようだな。どうやら、遊びが過ぎたらしい」
 カイゼルは、ゆっくりとアントニオに近づいてくる。
「感情に流されるのが人間の弱点ならば、お前の弱点は人間を過小評価することだ」
 アントニオは身じろぎひとつせず、カイゼルを見返して言った。
「ほざけ、今ここで、力の差を見せつけてやる。五〇〇年の長きにわたって生きてきたノスフェランの力を、思い知るがいい」
「生きてきた? ただの死にぞこないが、偉そうな口をきくな」
「黙れ!」
 言うがはやいか、カイゼルはアントニオとの距離を一気に詰めてきた。しかし、アントニオは棒立ちのまま、カイゼルの足元を見つめている。
 あと三歩、あと二歩、あと一歩……。
 瞬間、カイゼルが踏みつけた地面が沈み、地面から水が吹き出した。アントニオが埋めておいた聖水の袋を、カイゼルが踏んだのだ。カイゼルは転倒し、苦痛の声をあげた。
「五〇〇年が聞いてあきれるな。溶けてなくなるがいい!」
 アントニオは左足をひきずりながらカイゼルに一歩近づいたが、そこで足を止めた。
 作戦は失敗だった。
 カイゼルは無傷ではなかったが、踏んだ場所がずれていたのか、アントニオが意図していたほど完全に聖水を浴びたわけではなかったのだ。少量の聖水が片足にかかって煙をあげているが、それでもカイゼルは平然と立ち上がる。
「小癪な真似をしてくれる。だが、運は私に味方してくれているようだな」
 カイゼルは不敵な笑みを浮かべ、片足をひきずりながらもアントニオに歩み寄ってきた。
 アントニオは黙って、首にかけていた銀の十字架をカイゼルに向かってかかげた。
 カイゼルは一瞬だけ顔を歪めたが、無造作にその十字架へ手をのばすと、握り潰す。じゅう、という音とともにカイゼルの手から煙がたちのぼったが、それ以上のことは起こらなかった。
 カイゼルは食いしばった歯の間から絞り出すように言った。
「十字架など、たかがシンボルにすぎん。その気になれば屁でもない」
 握り潰されて変形した十字架をアントニオの手から奪い取ると、カイゼルはそれを投げ捨てた。
 アントニオは驚きから立ち直ると、すぐさま短剣を突き出した。短剣はカイゼルの腹を深くえぐる。カイゼルは歯の間から苦痛の声をもらしたが、短剣を握るアントニオの手を強く握り締め、鋭くねじった。
 アントニオが苦痛のあまりに手を引くと同時に、短剣はぽっきりと柄の部分から折れ、刃の部分だけがカイゼルの腹に残された。
「なんてことだ…」
 アントニオは唖然として、目の前のカイゼルを見た。
「もう、武器は終わりか? 武器がなければ何もできないのか? 愚かな狩人よ…」
 カイゼルの目は邪悪な喜びに満ち、その手がアントニオの首をわしづかみにした。アントニオはその手を振りほどこうとしてもがいたが、カイゼルの腕力は恐ろしいほど強かった。
「死ぬがいい、アントニオ!」
 カイゼルは吠えながら、よりいっそう力を込めた。アントニオは苦痛に必死で耐え、カイゼルの目に指を突っ込む。
 しかしカイゼルはひるまず、アントニオの首を絞めつけてくる。
 何か武器は……。
 かすんできた目に、自分の右手の甲が映った。そこには、血の色をした狩人の十字が、はっきりと刻まれている。
 アントニオは何も考えず、反射的にその刺青の十字架をカイゼルの額に押し付けた。
 じゅっ、という音がして、カイゼルの額から煙が上がる。
「うおぉっ」
 不意をつかれたカイゼルは、声を上げてアントニオの首から手を放し、腰くだけに地面へ倒れた。アントニオはそのカイゼルの体に馬乗りになって、さらに右手甲の十字を額に押し付ける。カイゼルは苦痛に悶えながらその腕を両手で強く握った。アントニオは自分の腕の骨がきしむ音を聞きながら、左手でカイゼルの腹を探り、折れて残された短剣の刃を握った。
 左手の指を切りながらもアントニオは刃をカイゼルの腹から抜き取り、それをカイゼルの首にあてる。
「くたばれ!」
 アントニオは絶叫し、刃を何度も動かした。自分の手から出る血とカイゼルの首から出る血とで、刃がすべってしまう。しかし、自分の指が切れる痛みに耐えながら、アントニオはカイゼルの首を切る作業を続けた。
 やがて、刃がカイゼルの首の骨にあたり、止まる。アントニオは首の骨の間をさぐって、そこに刃をこじ入れた。
 カイゼルはごぼごぼと声にならない音をたてながら、アントニオの腕を握る手に力を入れる。
 ぼきっ…。
 鈍い音をたててアントニオの右腕の骨が砕けるのと、カイゼルの首の骨が切り離されるのとが、同時だった。カイゼルは大きく身震いをし、その体からはゆっくりと力がぬけていく。
 アントニオはさらに首を切る作業を続け、胴と頭を完全に切り離すと、刃をカイゼルの心臓の位置に叩き込んだ。
 アントニオの体の下で、カイゼルの体がゆっくりと形を失っていく。本来ならば五〇〇年前に朽ちていたはずの肉体が、今、その本来の姿に返ろうとしているのだ。
 アントニオは勝利を確信して、地面に倒れ込んだ。


跋、一四九八年五月二二日早暁・シビウ

 空が白みはじめた頃、強くなった雨足が、屋敷から上がっていた炎を消し止めた。屋敷は大半が燃えてしまい、黒い無残な姿をさらしている。
 地面に仰向けになっているアントニオの右腕は、関節のない場所で折れ曲がっていた。左手は、短剣の刃を直接握ったことで幾筋もの平行した傷がつき、白い骨が露出している。雨のせいで出血が止まらず、彼はひどく衰弱していた。
 そんなアントニオに、這うようにして近づくものがあった。全身が焼けただれた、ジュリエッタである。かつては美しかった容貌など見る影もなくなっている彼女は、アントニオの上に覆いかぶさり、ケロイド状に焼けただれた顔をアントニオの耳もとに近づけた。
「アンホニオ。あなハのヒ、飲アせヘね……」
 彼女は炎で舌をやられたらしく、言葉がうまく発音できていない。
 アントニオは薄目を開け、変わり果てたジュリエッタの姿を見た。しかし、不思議と嫌悪感はない。体中がしびれたようになっていて、右手の十字の痛みも感じられなかった。
 ただ、ジュリエッタの冷たい体が、アントニオの心をわしづかみにした。
 ジュリエッタは、冷たい。
 彼女はもう、死んだ人間なのだ。だから、彼女を解放してあげなくては――。
 ジュリエッタはアントニオの首筋に噛みつくと、血を吸いはじめる。アントニオはカイゼルを倒した短剣の刃を拾おうとしたが、すでに彼の左腕は思うように動かない。狩人の十字が刻まれた右手も、まったく感覚がなくなっており、もはや彼にはなす術がなかった。
 彼の体の上で、ジュリエッタの体が再生していく様子が感じられた。まず、舌が再生し、彼の血をなめとるようになった。次に唇、そして顔……。
 それとは対照的に、アントニオは血を失って朦朧としてきた。
「…ジュリエッタ……それ以上、血を奪わないでくれ。死んでしまう……」
「大丈夫よ、あなたも私の血を飲めばいいの。そうすれば、死ぬなんてことはなくなるのよ」
 アントニオは力なく目を閉じた。
 どうすればいいのだ? どうすれば? やるだけのことはやった。もう終わりにしてもいいじゃないか……。
「さあ、アントニオ。私の血を飲んで。一緒に永遠の命を手に入れましょう」
 アントニオはジュリエッタの声を聞きながら、冷たい雨が顔を叩くのを感じていた。
 もう、いいじゃないか。武器は、残っていない。戦う手段など、どこにも残されていないのだから。
 諦めが心に満ち、意識が遠のきかけたそのとき、ふと逆さはりつけにされて死んだ神父の言葉がよみがえってきた。
『おのれの、力を、信じる、こと』
 そして、恩師である修道士ジローラモの言葉もよみがえってくる。
『人の意思こそが力なのだ、アントニオよ。君はこの修道院において、祈りを捧げることで聖なる水を生み出す術を学んだ。どこにでもある井戸水を、力のある聖水に変えることができるのだ。どうして君は、自分のその力を信用しないのか』
 アントニオの頭の中に、途方もない方法が浮かんだ。
 それは、とても不可能に思える方法だった。しかし、彼は自分の力を信じることにした。ジュリエッタの魂を呪いから解き放つには、もはやその方法しか残されていないのだ。
 アントニオは、静かに唱えはじめる。
「神よ、我に力を与えたまえ。この降り注ぐ恵みの雨に、その御力を宿らせたまえ。邪悪なるものを破る、大いなる力を与えたまえ」
「アントニオ、何を……」
 驚愕の表情を浮かべたジュリエッタが、アントニオの首筋から口を放して言った。
 しかし、アントニオはジュリエッタを無視して、祈りに集中した。
「神よ、我に力を与えたまえ。この降り注ぐ恵みの雨に、その御力を宿らせたまえ。邪悪なるものを破る、大いなる力を与えたまえ!」
 アントニオは、再度祈りの言葉を繰り返す。
「神よ! 我に力を!」
 力のこもった言葉と同時に、辺り一面がまばゆい光に包まれた。夜明け前の空が、光輝く雨に照らされて黄金色に染まる。
「あああぁぁ……」
 苦しげな声を上げるジュリエッタの体が、しゅうしゅうと白煙を上げながら、ゆっくりと溶けはじめた。彼女の肉体のすべてが流れだし、アントニオの体の上に落ちてくる。
「ジュリエッタ、これで君は呪いから解放されるんだよ…」
 アントニオは目を開け、溶けていくジュリエッタを見つめる。溶けていく彼女の顔に、一瞬、感謝の色が浮かんだように、アントニオには思えた。
 やがてジュリエッタは骨だけになり、アントニオは雨の降り注ぐ大地に、ただ一人とり残された。アントニオは、すべてが終わったのだと自分に言い聞かせた。
「アントニオ、アントニオ!」
 細い女の声が、彼の名を呼んでいる。
 ファーニア!
 気がついたのだ。
 彼女は無事に呪いから解放されたのだ――。
 彼女が近づいてくる音と、そっと彼の体に触れるぬくもりを感じながら、アントニオは満足して微笑んだ。
「死んじゃいやよ、アントニオ」
 という声が、聞こえる。
 死ぬもんか。
大丈夫。まだ、諦めない。
心配してくれてありがとう、ファーニア。
でも、少しだけ、休ませて欲しい。君の腕の中で。
いいだろ?
 アントニオは心の中でつぶやきながら、静かな眠りに落ちていった。

            『闇に消ゆ』・完



著者あとがき ―吸血鬼の真実―

 一八一一年。
 ナポレオンの軍勢がヨーロッパ全土を席捲していた折、戦火から逃れるために家財道具の整理をしていたライプツィヒ近郊の貴族が、古い羊皮紙の束を発見した。それはラテン語で書かれた、アントニオ・バリアーニなる人物の回想録であったという。
 その驚愕すべき内容から歴史学者たちの間で議論の的となった回想録は、発見者の名から「メルゼブルク文書」と呼ばれた。
 残念ながらメルゼブルク文書は第二次世界大戦の際に焼失してしまい、現存しない。
 メルゼブルク文書が実話だったのか創作だったのか、それはいまだに議論されているところである。むろん、吸血鬼など科学的に存在しえないという論拠から、メルゼブルク文書創作説が主流になっていることは、言うまでもあるまい。

 現代の科学的解釈では、吸血鬼は狂犬病患者であったと言われている。
 吸血コウモリや狼が伝染媒体となり、狂暴化、恐水などの症状を呈する狂犬病は、確かに吸血鬼の伝承と一致する部分が多い。
 一五世紀末、まだ医術が発達していなかった時代のヨーロッパでは、教会の神父がおこなう祈祷などが病の主な治療法であった。聖水や十字架といったキリスト教の道具が登場するのも、そのあたりに理由があるとされている。この説明は、我々には納得しやすい説明である、と言えるだろう。
 しかし――。
 ウィルヘルム・レニッヒというドイツの歴史学者は、トランシルヴァニア公爵家に残された年代記を研究し、ある記述を発見した。
 それはメルゼブルク文書に書かれた最後の日に関するものである。
「一四九八年五月二二日の夜明け前、シビウでは突如として空が明るくなり、光が満ちあふれた。降り注ぐ雨が金色の光に包まれ、人々はこれぞ神の奇跡とひれ伏した」
 これが、メルゼブルク文書実話説を唱える学者たちの、大きな論拠となっている。

 むろん、他にもメルゼブルク文書を裏付ける史料は残されている。
 光る雨が降った翌日、トランシルヴァニアから遠く離れたイタリアのフィレンツェで、一人の人物が命を落とした。一見すると無関係に見えるこの人物は、名前をジローラモ・サヴォナローラといった。修道士サヴォナローラは峻烈な説教をおこない民衆の支持を得ていたが、教皇庁の反感を買ったために宗教裁判にかけられた末、焚刑に処せられたのである。この事件は宗教改革の弾圧の一例として有名であるが、修道士サヴォナローラがフィレンツェのはずれにあった特殊修道院の出身であることは、あまり知られていない。
 一五一一年に閉鎖されたこの修道院が、どのように「特殊」だったのかを知ることはできない。しかし、メルゼブルク文書に登場する「フィレンツェの修道士ジローラモ」がサヴォナローラであるとすると、このサヴォナローラを輩出した特殊修道院こそが「狩人」の養成の場であった、と推測することができるだろう。
 特殊修道院の所属修道士名簿の末尾には「アントニオ・バリアーニ」という名が記されているが、これは、メルゼブルク文書に登場する狩人の名と一致している。また、末尾から三番目には「ロドリゴ・オルシーニ」という名もあり、こちらはアントニオがビホル山地で倒したという兄弟子の名と一致する。

 これらの事実を総合すると、次のような解釈ができないだろうか。
 フィレンツェの特殊修道院が生んだ狩人たちの活躍により、一五世紀末までに吸血鬼はそのほとんどが駆逐されていた。そして、最後の狩人アントニオ・バリアーニの手によって最後の吸血鬼が倒されたため、その役目を終えた特殊修道院は閉鎖。やがて、科学万能時代の到来により、非科学的な吸血鬼伝承は失われていった、と……。
 むろん、真実は誰にもわからない。
 すべては歴史の闇の中へ消えてしまっているのだ。

付録・参考文献

○「メルゼブルク文書」
 クルト・マイヤー著
 ライプツィヒ大学出版 一八九五年

○「光る雨」
 ウィルヘルム・レニッヒ著
 ハンガリー国立大学出版 一九五〇年

○「現代伝承学考証」
 オットー・アムシェル・ハルツ著
 オックスフォード大学出版 一九五四年

○「フィレンツェ特殊修道院」
 パオロ・ロッシ著
 ボローニャ大学出版 一九八七年

○「特殊修道院所属修道士名簿」
 フィレンツェ市立図書館蔵



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