『今この瞬間よ永遠に』
                               滝澤真実

 赤ん坊が、わたしを見ていた。
 無垢な視線をうけて、自然とわたしの頬がゆるむ。
 電車のとなりの席にすわっている母親は、赤ん坊を抱いたまま、ぼんやりと窓のそとを眺めていた。赤ん坊は、その母親の腕のなかで身をよじると、ぺたりとわたしの腕にふれた。その手はあたたかく、すこしだけ湿っているように感じられた。
 そういえば、翔一とよく、子供の話をしたっけ……。
 生むなら男の子がいいか女の子がいいか、そんなことを何時間も話していた。でも、最後には決まってこう言ったものだ。
「大丈夫。わたしも翔一も子供が好きだから、子供の性別なんて関係ないよ」
 と。
 わたしは、わたしにふれている赤ん坊のちいさな手を包みこむように握ると、かるくゆすった。
「あー」
 赤ん坊がうれしそうな声をあげる。
 母親が気づいて、微笑んだ。
「アヤカ、おねえちゃんに『こんにちは』しようか」
 母親は娘を抱きなおし、わたしにむける。
「こんにちは、アヤカちゃん」
 わたしが言うと、赤ん坊は母親の顔を見あげる。
「あんま?」
「ほらアヤカ、こんにちは、は?」
「んー」
 赤ん坊は両手をいっぱいにのばし、わたしのブラウスの袖をぎゅっとつかんだ。
 わたしがその子のやわらかい頬にふれたとき、視野のすみをあざやかな薄紅色がかすめていった。見ると、陽光をあびて輝く満開の桜が、次々と電車の窓のそとを通りすぎていく。
 桜は、わたしと翔一がはじめてデートしたときにも満開だった。そのとき翔一は、桜が好きなんだと言った。だから、わたしも桜が好きになった。
 桜。もうそんな季節なのね……。
 そこまで考えて、わたしは、おや、と思った。
 今は冬ではなかっただろうか。
 二月だったはずである。
 しかし、あらためて意識して車内を見まわすと、だれもが春らしい格好をしていた。となりの母親も水色の春物らしいワンピースを着ているし、赤ん坊の服も薄手だった。
 わたし自身、淡いピンクのTシャツの上に白のブラウスを羽織り、スリムジーンズをはいている。
 とても二月の服装とは思えない。
 電車ががたんとゆれて、徐々に速度を落としはじめた。
 車内アナウンスで次の停車駅の名前がつげられたが、その駅名はわたしには聞きなれないものだった。
 不安に駆られて立ちあがると、わたしの膝の上から茶色のトートバッグが落ちて、中身が散らばった。わたしのお気に入りのバッグから飛びだしたのは、財布、手帳、化粧道具、携帯電話、ハンカチ、ノート、筆記用具だった。
 わたしはあわててバッグの中身を拾い集め、ノートを取りあげたところで手を止めた。ノートはうす汚れていて、ページの端がめくれあがっている。ずいぶん使い込んだ感じがあるが、このノートにわたしは見おぼえがなかった。
 しかし、ディズニーのキャラクターが印刷された表紙には、見まちがいようのないわたしの字で、こう書いてあった。
『わたしへ 横山みのり』
 横山みのりは、わたしの名前である。
 わたしが、わたしにあてたノート…。
 不思議な思いでわたしはノートを眺めていたが、ノートを開こうとして、ふと、電車内にいる人々の視線がわたしに集中していることに気づいた。
 電車が駅に到着したのをさいわいに、わたしは電車から逃げるようにおりた。
 いかにも春らしい、あたたかく穏やかな陽気だった。駅のホームから、満開の桜並木を見ることができた。
 やはり、おかしい。
 どう考えても、今は、二月だったはずである。
 わたしは記憶をたどった。
 二月。盲腸で入院したわたしのお見舞いに、翔一が毎日きてくれていた。もうすぐバレンタインデー。退院したらなにを翔一にプレゼントしようかと、いろいろ考えていた。
 わたしは、はっとして自分のおなかを見た。ジーンズのウエストを引っぱり、Tシャツをたくしあげ、右の下腹部をのぞきこむ。白い肌のうえに、青黒く古い傷跡がのこっていた。かなりの時間を経過した手術痕のように見える。
 混乱してきた。
 今は二月。わたしは病院にいて、盲腸の手術を受けたあとで感染症にかかり、入院が長引いていたはず。
 そして……そして?
 わたしは病院にいた。でも、電車に乗っていた。その間の記憶が、完全にぬけ落ちている。どこでどうなって電車に乗ることになったのか、まったく思いだせない。
 まるで、大学のサークルのコンパで、飲みすぎて記憶をなくしたときのようだった。自分は間違いなくなにかをしていたのに、その記憶がぜんぜん残っていない。自分が自分でなくなってしまったような不安感が、わたしの心をわしづかみにした。
 わたしは、この記憶のずれに対する答えを求めて、わたしあてのノートを開いた。

 わたしへ。
 わたしは病気にかかったのだそうです。病名はウェルニッケ脳症。前向性健忘という後遺症が残りました。難しいことはわかりませんが、記憶の障害があるのだそうです。
 二〇〇〇年二月以降のことを、わたしは何ひとつ記憶できないのだそうです。難しい言い方をすると、短期記憶が長期記憶に定着しないため、すべてを忘れてしまうのだそうです。わたしがおぼえていられるのは、今から十五分くらい前のことまでと、二〇〇〇年二月以前のことだそうです。
 これを書いているのは二〇〇〇年の九月二十七日です。翔一に何度も教えてもらいながら、書いています。ほかに頼れる人のいないわたしに、翔一はとてもよくしてくれました。でも、一日に何度も、この病気のことを説明するのに疲れたそうです。病気のことを聞くたびにショックを受けるわたしの姿を、苦しくて見ていられないのだそうです。
 だから、わたしは、これ以上翔一に迷惑をかけないように、このノートを持って翔一のもとを出て行きます。
 残念ながら、これは本当のことです。
 信じられない場合には、新聞で日付を確認してください。
 未来のわたしへ。
 たとえ記憶にも残らないような、ちっぽけな今だとしても、大切な今です。
 大変だと思いますが、がんばって生きてください。
                               横山みのり

 もちろん、わたしには信じられなかった。
 わたしは迷わずに駅のホームにある売店へむかい、店頭にならべられている新聞の日付をのぞきこんだ。

 ――二〇〇三年四月二日――

 わたしは、自分の目をうたがった。
 冗談でしょ。
 二〇〇三年だなんて。
 三年間も、わたしは何ひとつおぼえていないというの? その失われた時間、わたしはいったい何をしてきたというの?
 わたしは記憶からぬけ落ちた空白の時間を思い、ふるえた。売店の四〇歳くらいの女性店員が、奇妙なものを見るような目つきでわたしを見ている。店員に背をむけると、わたしはできるだけ平静をよそおって、ベンチまで歩いた。
 しかし、ベンチまでの距離は、はてしなく遠く感じられた。
 息苦しくて、立っていることさえつらい。
 うそよ。こんなこと、あるわけない。だって、もう二十一世紀になってるなんて。
 世紀の変わり目には、翔一と一緒にどこかに行こうって話してたのに。しかも、翔一のもとを出てしまったなんて……。
 うそよ。
 何も知らないうちに時間だけが過ぎてくなんて、ひどすぎる。
 どうにかベンチまでたどりつくと、わたしは倒れこむように腰をおろした。
 今は西暦二〇〇三年。
 二〇〇三年。
 世界は二十一世紀になり、わたしの体は二十五歳になり、わたしの心だけが二〇〇〇年に縛り付けられている。わたしの中では、二〇〇〇年で時が止まっているのだ。
 昨日のことのように思い出す翔一との幸せな日々も、もはや失われてしまった遠い過去でしかない。
 ああ、翔一!
 わたしは、あなたと一緒にはいられないの?
 わたしは顔を両手でおおった。涙はでてこない。でも、胸がふるえて、うまく息をすることができなかった。
「大丈夫ですか?」
 声がしたので顔をあげると、さきほどの売店の店員が、心配そうな表情をして目の前に立っていた。
「あ、すみません。大丈夫です」
 わたしは息をととのえて言うと、笑顔を作って見せた。
「そうですか……」
 店員はちょっとためらってから、わたしに背をむけて売店へともどっていく。
 彼女といれ違いに、両手に大きな荷物を持った老人がやってきて、ベンチのわたしのとなりに腰をおろした。
「どっこらしょ」
 モスグリーンのポロシャツを着た老人は言うと、荷物をホームの上に置く。
 その体から漂ってきたタバコのにおいが、翔一の思い出をよびさました。ヘビースモーカーだった彼の体からも、老人とおなじようなタバコのにおいがしていた。彼を抱きしめると、いつだって彼の体のぬくもりと、タバコのにおいが感じられたものである。
 そのにおいに包まれているとき、わたしは深い安心を感じることができた。
 翔一。
 わたしが抱きつくと、照れくさそうに笑う表情がいとおしかった。
 なのに、今は――。
「子供は、お好きですか?」
 不意に、となりに腰かけた老人が言った。
 わたしはびっくりして老人を見た。
 老人はわたしを見てはおらず、どこか遠くに目をむけている。深いしわが刻まれた老人の横顔には、どこかさみしそうな笑みが浮かんでいた。
 答えないでいると、老人はつぶやくように言った。
「電車の中で、あなたが赤ちゃんと接する姿を見ていましたよ。あのときのあなたのやさしい姿が、わたしの心に焼きついています」
 なんのことかわからず、わたしは老人の表情をさぐった。
「赤ちゃん、ですか?」
「やはり、おぼえていらっしゃいませんか」
 言うと、老人はノートをわたしに差しだした。
「あ、これ…」
 わたしがわたしにあてたノートである。
「あなたがホームに投げ捨てていったものです。なくさないように、ちゃんとバッグに入れておいてください」
「ありがとうございます」
 わたしは言われるままにノートを受けとり、バッグに押しこんだ。
「さて、お嬢さん。花はお好きですかな?」
 老人はにこやかに笑うと、わたしを見た。
「ええ、まあ」
「でしたら、花見でもしませんか。お茶をごちそうしましょう」
「でも」
 わたしは、この一見すると人のよさそうな老人を信用していいのかどうか、迷った。
「実は、花見は口実でして。本当は、この荷物を持ってくれる人を探しているんですよ。旅行に行ってきたのはいいのですが、すこしおみやげを買いすぎてしまいまして」
 老人は、まるで子供のように目をかがやかせると、おどけた表情を見せた。
 わたしは老人の無邪気な表情につられて、思わずうなずいていた。
「わかりました。お宅は駅から近いんですか?」
「すぐです。すみませんね、無理を言いまして」
「いいえ」
 ずっしりと重い老人の荷物をひとつ持つと、わたしは老人について歩きだした。
 ちいさな駅の改札をでると、そこにはひとけのすくない商店街があった。その商店街をぬけると、ホームからも望むことのできた桜並木にでる。
 桜並木の下に立つと、薄紅色のトンネルの中にいるようだった。
「きれい……」
「お嬢さん、ここですよ」
 桜に見とれていたわたしに、老人が声をかける。
 ふり返ると、老人が大きな邸宅の門の前で立ち止まり、手まねきしていた。
「うわー、豪邸ですね」
 わたしの言葉に、老人は苦笑する。
「年寄りの夫婦には、おおきすぎますよ。娘も息子もでていってしまいましたから」
 言いながら門をぬけると、老人は邸宅の広い庭に入っていく。わたしも、あわてて老人の後を追って、門をくぐった。
 そのわたしの目に、おおきなしだれ桜の木が飛び込んできた。
 通りの桜並木よりもやや色の濃い、紅い花が咲いている。しだれ桜のむこうには古いつくりの家があり、縁側で老女がちょこんと正座して、お茶を飲んでいた。
「あら、おかえりなさい。同窓会は、どうだったの?」
 老女がのんびりとした口調で言う。
「うん、楽しかったよ」
「そのかわいらしいお嬢さんは、どこで見つけてきたの?」
 老女は興味しんしんといった様子で、わたしを見る。
「すぐそこで会ってね、荷物を持つのを手伝ってもらった」
 老人は荷物を縁側に置くと、みずからも腰かけ、わたしをよんだ。
「あなたも座ったらどうです? ここからの眺めが一番なんですよ」
「お邪魔します」
 わたしは、まねかれるまま縁側に腰をおろした。
 目の前にはみごとな枝ぶりのしだれ桜があり、その向こうには表通りの桜並木も見える。その色の華やかさに、わたしは圧倒された。
 桜を見つめながら、わたしは何度かおおきく深呼吸をした。
「すてき。息をすると、肺の中がピンク色になりそうな感じ」
 わたしが言うと、老人はかわいた声で笑った。
「おもしろい表現をしますね」
「お茶をどうぞ」
 老女が明るく言って、いつのまにかいれていたらしいお茶をだしてくれた。
 お茶うけとして、小ぶりのおはぎが添えられていた。
「おいしそう! いただきます」
 竹楊枝でおはぎをちいさく切り、口に入れた。
 しつこすぎないつぶあんの甘味が口いっぱいに広がった。小豆の香りが、ふわりと鼻にぬけていく。
「すごくおいしいです!」
 わたしが老女に言うと、老女はなにも言わずに目をほそめた。
 湯のみを手にすると、わたしは桜を眺めながらひとくちお茶を飲んだ。ほのかな緑茶の苦味が、つぶあんの味の残る舌にここちよく感じられた。
 すてき。
 春の色。
 春の空気。
 どこまでも穏やかで。
 胸いっぱいに、わたしは春を吸いこむ。
 今度、翔一を誘って、ここに来よう。桜が散ってしまう前に。翔一の大好きな桜を、一緒に見よう。
 彼はこの景色を見て、なんと言うだろう。
 ふと風が吹きぬけ、桜の木から、まるで雪のように花びらが舞った。そして、庭のしだれ桜から踊るように飛んできたひとひらが、わたしが手にした湯のみに入った。
 緑茶の上に咲いた、薄紅色の花。
「見てください、ほら」
 わたしはうれしくなって、湯のみを老人に見せた。
「お嬢さんは、今を楽しむ方法をよくご存知ですね」
 老人がタバコに火をつけながら言う。
「そうですか?」
 わたしは首をかしげた。
「ええ。今という瞬間の中に、美しいものを見つけることができる。それがあなたの才能なんですね。だから、あなたなら安心です。これからも、ちゃんとやっていけますよ」
 老人が吐きだした煙が、ゆらゆらと漂う。
 わたしは老人が何を言いたいのかわからず、あいまいに微笑んだ。
「そうですか…」
 これからも、ちゃんとやっていける?
 ちゃんとって、どういうことかしら。
 わたしは桜を見ながら、ぼんやりと考えていた。そして不意に、何よりも重要なことに思い至った。
 なんで今、桜が咲いているの?
 今は二月のはず。
 わたしは病院にいて……。
 この老人といっしょに通りを歩いてきたことは、覚えている。でも、その前は? 老人の名前は? 老人とはどこで知り合ったの? ここはいったい、どこなの?
 わたしは答えを求めて老人を見た。
「あの、わたし……」
 老人はすこし悲しげな表情を浮かべると、わたしのバッグを指さした。
「バッグの中のノートをごらんなさい」
 わたしは驚いて、バッグの中をのぞきこんだ。
 ディズニーのキャラクターが印刷された、ボロボロの見なれないノートが入っている。しかし、その表紙にはわたしの字で、メッセージが書き込まれていた。
「わたしへ 横山みのり」
 横山みのりは、わたしの名前。だから、このノートは、わたしの手で書かれた、わたしあてのノートということになる。
 おそるおそる、わたしはノートを開いた。

 わたしへ。
 わたしは病気にかかったのだそうです。病名はウェルニッケ脳症。前向性健忘という後遺症が残りました。難しいことはわかりませんが、記憶の障害があるのだそうです。
 二〇〇〇年二月以降のことを、わたしは何ひとつ記憶できないのだそうです。難しい言い方をすると、短期記憶が長期記憶に定着しないため、すべてを忘れてしまうのだそうです。わたしがおぼえていられるのは、今から十五分くらい前のことまでと、二〇〇〇年二月以前のことだそうです。
 これを書いているのは二〇〇〇年の九月二十七日です。翔一に何度も教えてもらいながら、書いています。ほかに頼れる人のいないわたしに、翔一はとてもよくしてくれました。でも、一日に何度も、この病気のことを説明するのに疲れたそうです。病気のことを聞くたびにショックを受けるわたしの姿を、苦しくて見ていられないのだそうです。
 だから、わたしは、これ以上翔一に迷惑をかけないように、このノートを持って翔一のもとを出て行きます。
 残念ながら、これは本当のことです。
 信じられない場合には、新聞で日付を確認してください。
 未来のわたしへ。
 たとえ記憶にも残らないような、ちっぽけな今だとしても、大切な今です。
 大変だと思いますが、がんばって生きてください。
                               横山みのり

 なによ、これ。
 こんな冗談みたいな話、信じられるわけないじゃない。
 それに、こんなおかしな名前の病気なんて、聞いたことがない。
「あの……今日は何日ですか?」
 わたしの問いかけに、老人はふりむいて老女に言った。
「今日の新聞、あるかな?」
「はいはい」
 老女が部屋の中へ体をのばし、新聞をひきよせて老人に手渡した。老人からわたしに差しだされた新聞の日付のところには、信じられないような文字が印刷されていた。
 二〇〇三年、四月、二日、水曜日。
 にせんさんねん。
 うそ。
 だって、今は二〇〇〇年の二月で、わたしは病院に……。
 でも、ノートに書かれていた内容が、今の状況を説明する唯一の理由だということは、わかっていた。
 頭では、はっきりと理解できる。
 それでも、心がそれを受け入れてくれない。
 三年。
 なにがおきたのかもわからず、ただ三年の空白だけが存在してるなんて。
 わたしの知らない間に、時間がただ過ぎてしまっているなんて。
 わたしは、時間に、とりのこされている。
 こんなの、いやだよ。
 ねえ、翔一。
 わたしを置いていかないで!
 ふたたび風が吹き、桜の花が舞う。幻想的にふる無数の花びらを見ながら、わたしは悟った。
 三年前の二月に、わたしの時間は止まってしまったんだ。
 そのときに、わたしは死んだんだわ……。
「あの、ごちそうさまでした」
 わたしは縁側から立ちあがると、老夫婦に頭をさげた。
「あら、もう行っちゃうの? まだ――」
 老女が言いかけたのを、老人が止めた。
「気が向いたら、またお寄りなさい。歓迎しますよ」
 わたしは、ただ、頭をさげた。
 そして老夫婦から逃げだすように門の外へ出ると、桜の木によりかかって、花を見あげた。
 もう、翔一には会えないのだろうか。
 彼のはにかんだような笑顔を見ることができないのだろうか。
 あのおおきな腕に抱きしめてもらえないのだろうか。
 翔一……。
 わたしは、これから、どうすればいいの?
 そう思ったところで、わたしは苦笑した。
 どうせおぼえていられないのに、これからどうすればいいのかなんて、考えても無駄じゃない。
 わたしには、今しかないのね。
 ノートによれば、十五分間の今。
 過去を思っても、未来を思っても、仕方ない。
 不意に、桜並木のすぐわきにあった線路を、轟音とともに電車が通過していった。
 電車、か。
 あてもなく、乗るのもいいかな。
 どこか遠くに、わたしを連れていってほしい。
 わたしは近くにあった駅へ入り、一番安い切符を買い、改札を通ってホームに立った。次の電車が来るまで、まだしばらく時間がありそうだった。
 ホームの上で、わたしはぼんやりと空を見あげる。
 光に満ちた青い空。そして、ブラシでさっと掃いたような形の、白い雲。
 深呼吸をすると、まぶしい光と、透明な空気が、いっしょになって体の中に入りこんでくる。
 心の奥のほうでわだかまっていた悲しみが、すこしだけうすらいだ気がした。
 わたしはしばらくの間、胸をそらして深呼吸を繰り返した。
 ホームには人の姿がなく、ただ売店の店員らしい中年女性と、駅員がひとりいるだけだった。
 その売店の店員が、わたしをじっと見ている。
 深呼吸を繰り返すわたしの姿が、彼女の目には奇異なものにうつったのだろうか。わたしはすこし気恥ずかしさをおぼえて深呼吸をやめ、店員から目をそらした。
 ホームからは、満開の桜並木が見える。
 まるで薄紅色の霞がかかったように見える桜を見ながら、わたしは電車の到着のアナウンスを聞いた。
 ホームに滑り込んできた電車のドアが開き、わたしは乗り込んだ。
 とたんに、にぎやかな子供の声が聞こえてくる。
「ママ!」
 見ると、少年が電車の窓に顔をくっつけて、桜並木に見入っている。
「きれいだね」
 母親らしい女性が、少年の肩を抱きながら言った。
「わたあめみたい!」
 にぎやかに言う少年の言葉に母親がほほえみ、わたしもつられて笑った。
 わたしがその母子とは通路をはさんでむかい側の席にすわると、ドアが閉まり、電車はゆっくりと動きはじめた。
 景色にあきたのか、少年は車内に目をむける。
 そこで、わたしと目があった。
 わたしがちいさく手をふると、少年は照れたように母親の胸にしがみついた。そして、母親の腕の陰から、わたしの様子をうかがっている。
 わたしは少年から目をはなすと、窓の外を流れてゆく景色を眺めながら、やっぱり生むなら男の子がいいな、と思った。
 でも、翔一は反対するだろう。
 彼はいつも、「花嫁の父」という役割を演じたがっていた。
 でも、息子と酒を飲みかわす、ということもしたがってたし。
 ようするに、どちらでもいいのだ。
 そう、彼との会話も、いつもそこに落ちついた。
 電車は橋にさしかかり、眼下を緑がかった青い色の川が見えた。いつのまにかまた車窓に顔をおしつけていた少年が、にぎやかに声をあげる。
「バスクリンのかわだー!」
 わたしは、少年の声を聞きながら、翔一ならなんてコメントするだろう、と考えた。
 ちょっと悟ったような口調で、
「子供の想像力は無限だな」
 と言うかな。
 それとも……。
 わたしはにぎやかな車内の雰囲気を楽しみながら、電車の心地よい揺れに身をゆだねていた。
 電車は緑の中を走りつづける。
 わたしを乗せて、どこまでも。

                          今この瞬間よ永遠に・完



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