『いまのわたしにできること』
滝澤真実
お願いです。
わたしに触れてください。
あなたがわたし触れてくれなくなってから、ずいぶん長い時間がたちました。わたしはずっとあなたのぬくもりに恋焦がれているのに、あなたはもうわたしには見向きもしてくれません。それがなにより、つらいのです。
いっそ、わたしを捨ててください。このままあなたに触れられぬまま、ホコリをかぶり、錆び、朽ちていくことには耐えられません。
だから、お願いです。
わたしに触れてください。
ゴミ捨て場に運ばれるまでのわずかな時間だけでもいいのです。あなたの手のぬくもりを感じるチャンスを、わたしに与えてほしいのです。
どうか、わたしに触れてください。
お願いです。
その日、あなたは男と一緒に部屋へ帰ってきました。
あなたが男と手を握りあっている様子を見て、わたしの心はちくりと痛みました。私に触れてくれることのなくなったあなたの手が、ほかのものに触れているのでます。
羨望が、わたしを責めさいなみます。
でも、わたしは感情を押し殺しました。
わたしは、しょせん傘です。人間と張り合って嫉妬するなど、論外です。わたしが望むのは、あなたがこの男と幸せになり、二人でわたしを使ってくれること。
それ以上は望みません。
わたしはしがない傘なのですから。
あなたの暮らす部屋は、ちいさなワンルームです。わたしの居場所は玄関ですが、部屋の中の様子はよく見えます。もちろん、あなたが男と楽しそうに話しながら缶ビールを飲んでいる様子も、ちゃんと見えていました。
ただ、見ていて、ひとつ気になることが。
男がときおり、ひどく冷たい表情を見せるのです。男の冷たい視線が、わたしを不安にさせます。あなたの注意がそれた瞬間に、室内にすばやく目を配る男の様子も、尋常ではありません。
あなたの好きな男にケチをつけるつもりはありません。でも、男の興味は、あなた以外のものに向けられています。
できるだけ早く、男を部屋から追い出すべきです。
ああ。
わたしに声がだせたら、どれほど良かったでしょうか。あなたに警告してあげられるものを。
でも、わたしにできるのは、ここでこうやって見ていることだけです。
わたしの男に対する不信が間違いであってくれれば、と切に願いながら。
あなたはトイレに入りました。
とたんに、男が本性をあらわしました。
男はあなたの財布を開いて、中から一万円札を抜き取ったのです。それから、クローゼットの引き出しをすばやく物色しています。しかし、あなたがトイレから出てくる直前には、元の場所に座って何食わぬ顔でビールの缶を手にしていました。
ああ。
どうにかして、あなたに男の危険さを伝えたい。
でも、わたしに何ができるでしょうか。
しがない傘のわたしに。
いいえ。ひとつだけ、わたしにもできることがあります。わたしの体は傷んでいて、たばねるためのヒモの周囲がとくにもろくなっています。力を入れれば、切ることができるかもしれません。
わたしは全身に力をこめました。
びりびり、という音とともに、わたしの体に激痛が走ります。そして、もろくなったヒモは切れ、勢いあまったわたしはそのまま玄関でボンという音をたてて開きました。
最後に開いたのは何年前か思い出せないほど昔でしたが、そんな感慨にひたっている余裕はありませんでした。あまりの痛さに、わたしは気が遠くなりそうでした。
痛みに耐えていると、男が近づいてきて、わたしをたたみます。
「おい。このボロ傘、壊れてるぞ。ヒモが切れてるし、ワンタッチのボタンのところが甘くなってる」
「そこに置いといて。あとで捨てるから」
ああ。
そんなことではないのです。
わたしが身を切るような思いをしたのは、この男の危険性をあなたに知らせたいからなのです。開くことだけが、わたしにできるただひとつのことなのです。
でも、わかってはもらえないのですね。
わたしはどうすればいいのですか。
いったい、どうすれば。
まだ痛む体をかかえて、わたしは玄関の隅にたたずんでいました。
部屋の中からは、あなたと男の声が聞こえてきます。体の痛みであなたたちのことを気にする余裕はありませんでしたが、次第に声が大きくなってきたことで、わたしはあらためてあなたたちに注目しました。いつの間にか、あなたと男の会話は、険悪な雰囲気になっていました。
「やめてって言ってるでしょ」
「なに言ってんだよ。男を部屋に入れといて、今さらイヤってことはないだろ」
「服を破るなんて、どうしてそんなひどいことするの?」
「ひどくなんかないだろ。喜んでるくせに」
「喜んでないわよ。だって、服が破れてるじゃないの」
「盛り上がるだろ?」
男が、あなたの服を乱暴に引っ張ります。あなたの服が破れて、あなたの白い肌があらわになりました。
「触らないで! 頭おかしいんじゃないの?」
「うるせえ!」
男があなたを殴りました。倒れこんだあなたの上に、男がのしかかります。しかし、次の瞬間、あなたが突き上げた膝が、男の腹に突き刺さるように当たりました。くぐもった声をあげた男の下から逃げ出したあなたは、玄関のほうに走ってきました。
「このクソアマ!」
搾り出すような怒号を上げながら、男はあなたを追ってきます。
逃げてください。
早く!
はだしのまま玄関のドアを開けて、あなたは部屋から逃げ出そうとしました。しかし、あなたのすぐ後には男が迫っています。
あきらかに男のほうが足がはやくて、あなたは今にも捕まってしまいそうです。
ああ。
逃げ切れません。
あなたを助けなければ。
わたしは反射的に行動を起こしました。
ためらいは、ありませんでした。
わたしは、体に力を込めます。
ぼん、という音をたてて、わたしは開きました。走ってきた男の足元にわたしが開いて転がると、男はわたしに足をとられます。
成功です。
わたしは満足しながら、バランスを崩した男の全体重がのしかかってくるのを感じました。
強烈な痛みが全身に走り、わたしは自分の錆びた骨が砕ける音を聞きます。
あなたが部屋から逃げていく姿を見送りながら、わたしは激痛に耐えかねて意識を失いました。
そして、わたしは今、ゴミ集積所にいます。
事情を聞きに来た警察官が、あなたに頼まれてわたしを捨てました。
結局、あなたには触れてもらえませんでした。
それでもわたしは、今にもあなたがわたしのところに来てくれるのではないかと、淡い希望を抱いているのです。ゴミ収集車が来る前に、わたしをここから救い出してくれるのではないか、と。
いいえ。
もはや、そこまでは望みません。
骨の砕けたわたしが捨てられることは、もはや避けられないことでしょう。
ただ、もう一度だけ、あなたに触れてほしいのです。
ほんの一瞬、触れてくれるだけでいいのです。
あなたと過ごした日々の最後の思い出に。
お願いです。
あなたの指先のぬくもりを、わたしに。
ああ。
ゴミ収集車のエンジン音が聞こえてきました。
もう時間がありません。
後生ですから、最後にもう一度だけ。
わたしに触れてください。
でも、わたしの思いはかなうことなく、軍手をした無骨な手がわたしを持ち上げてゴミ収集車に投げ込みました。悪臭に満ちたゴミ収集車の中で、わたしは自分を押しつぶすであろう巨大な鉄板が、うなりとともに近づいてくるのを見ました。
もう、だめでしょうか?
わたしは、あなたに触れてほしいのです。
ほかには何も望みません。
触れて、ほしいのです。
お願いです。
わたしに触れてください。
お願いです。
(完)
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