『生きることをやめてしまいたいこんな夜に』
滝澤真実
世界は、無慈悲だ。
ケイは男たちに腕をつかまれ、通りを引きずられるように歩かされていた。道行く人々は、男たちがゾフ一家の者だとわかるやいなや、知らぬ存ぜぬを決め込んでしまう。
すでに、「はなして!」とか、「たすけて!」などと叫ぶことは、あきらめてしまった。叫んでも男たちがケイをはなすはずもなく、また、人々がケイを助けてくれるわけでもない。彼女はこのまま、あのいやらしいアーマン・ゾフのもとまで連れていかれるだろう。それを止めることができる者など、いるはずもない。
アーマン。
あの薄ぎたない豚野郎は、あたしがお気に入りだ。でも、言いなりになんか、ぜったいになるもんか。
ケイは、そう思っていた。
はじめてケイがアーマンと会ったとき、アーマンはケイの客だった。客だから、いろんな奉仕をしてやったし、請われるままに穴という穴を犯されてやりもした。アーマンが、自分の屋敷の使用人たちにケイを次々と犯させたときにも、従った。だが、仕事以外ならば、話は別だ。
結婚だって?
とんでもない。
ケイにだって選ぶ権利はある。
他に稼ぐ方法を知らないから、娼婦をやっている。売れるものは、なんだって、売る。彼女の客になる男たちは、みな口をそろえて彼女の肉体を誉めるが、そんなことはどうでもよかった。
ケイは、どれだけ肉体を売ろうと、心まで売るつもりはなかった。
いつの日か、彼女の心を誉めてくれる男があらわれたら、自分はその人だけのものにろう。肉体はもちろんのこと、心も、すべてを捧げよう。これまで稼いだ金は、娼館の女主人・エリーがあずかってくれていて、必要に応じて引き出すことができる。ケイは人気があって、かなり稼いでいるはずだから、その金で愛する人と二人で暮らす家を買う。
それが、ケイの夢なのだ。
しかし、彼女の前にあらわれる男どもは、どいつもこいつもろくでなしばかりだった。彼らがケイに求めることは、ただひとつ。
「穴に突っ込ませろ」
そんなろくでなしの中でも、アーマンはとくに最低の男だった。
彼はゾフ一家の三代目の当主で、このリノの町で一番の金持ちだ。最近は対立していたトーリ一家の縄張りをおおきく奪い、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いである。彼はリノにあるすべてのものが、自分の思い通りになると信じているようだった。そして、思い通りにならないものは、暴力で支配しようとする。
ケイも、殴られたことがあった。
気分を盛りあげるために、軽く拒絶するそぶりを見せることは、娼婦たちがよく使う技巧のひとつである。もちろん、客を相手に本気で拒絶することは、ない。しかし、その拒絶のふりをしたときに、アーマンは突然怒り出してケイを殴った。
以後、従順に、言われるままに奉仕するようになったケイを、アーマンは気に入ったらしい。ようするに、人形がほしかったのだ。彼の言いなりになる、美しい人形が。
悪いが、ケイは、アーマンの人形という身分に甘んじるつもりは毛頭なかった。だからこそ、彼女はアーマンに結婚を申し込まれたとき、きっぱりと拒絶したのだ。
その結果が、これである。
娼館から連れ出されたケイは、アーマンの屋敷まで引きずられるように歩かされていた。
ケイは、いつかあらわれるだろう運命の男と幸せに暮らしたいだけなのに。
それなのに、どうして、アーマン・ゾフのようなろくでなしの悪党に夢を奪われなければならないのだろうか。どうして、こんな理不尽なことを人々は放置しておくのだろうか。
どうして?
世界は、無慈悲だ。
ケイは絶望に覆われながら、無気力に歩きつづけていた。
「おい、なんだ、てめえは!」
男たちの中の一人があげた声で、ケイは我にかえった。
ぼろを身にまとった半裸の男が、通りの中央をゆっくりと近づいてくる。男は均整のとれた筋肉質の体をしていて、まともな格好をしていれば見栄えのする男なのかもしれなかった。しかし、腰にぼろを身につけただけの格好で、伸び放題の黒い髪と髭はツタのようにからまりあっている。遠くはなれていても、鼻の曲がりそうな体臭を容易に嗅ぎとることができた。
乞食男は、道の中央で立ち止まり、ケイを連れて道いっぱいにひろがったゾフ一家の者たちを見た。すくなくとも乞食男は、ゾフ一家の者たちに道をゆずるつもりは、まったくないらしい。
「どきな。邪魔だ」
ひとりが短剣を手に、乞食男につめ寄った。
しかし、乞食男は動じる様子もなく、通りの中央に立ちはだかっていた。ぼさぼさの髪の向こうで、目が鋭い光をはなっている。
「おい、聞こえねえのか!」
「聞こえてますよ」
外見からは想像できないような涼やかな声で、乞食男はおだやかに言った。
「どけ、邪魔だ」
繰りかえし言った男の言葉を無視して、乞食はケイを見た。
「お嬢さん。助けてほしいですか?」
ケイは、一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。その意味が徐々に心に染み込んでくるにしたがって、彼女は失望した。
なにを言ってるのかしら、この乞食は。
素手の乞食一人が、武装した一〇人の男たちに勝てるはずがない。
しかし、これが唯一のチャンスなのだ。このままアーマンの屋敷に連れ込まれるよりは、だめでもともと、助けを求めてみたほうがいい。
「お願い、助けて」
「わかりました、お助けしましょう」
言うが早いか、乞食は目にもとまらぬ早業で、目の前にいた男の首筋を手で打った。男は声もなく崩れ落ち、乞食の足元にうずくまる。
ケイの腕を捕まえている男ひとりをのぞいて、残りの男たちがいっせいに色めき立った。男たちはそれぞれに得物を手に、乞食に襲いかかっていく。
しかし、乞食は、強かった。
身軽にゾフ一家の男たちをかわすと、拳と手刀を的確に相手の体へ打ち込んでいく。一人、また一人と打ち倒されていくうちに、次第に男たちの動きが慎重になってきた。無計画に向かっていったのでは勝ち目がない、と悟った様子で、残った四人が乞食のまわりを囲み、じりじりとつめ寄っていく。
「今だ!」
掛け声とともに四人が同時に襲いかかる。正面から突進していった一人が、やはり打ち倒された。しかし、残る三人の持つ得物は、ことごとく乞食の体に突き刺さった。
苦痛に表情をゆがめ、乞食は膝をつく。その腹には短剣が二本突き立てられたままになっていて、右肩から腰のあたりにかけて、深い刀傷がついていた。
ああ、やっぱり、だめだった…。かわいそうな乞食さん。あたしを助けようなんてしなければ……。
ケイはそう思った。
ところが、乞食はそのまま力尽きて倒れることなく、再び立ちあがったのである。そして、腹に残された短剣を抜き、投げ捨てる。
「この野郎!」
剣を持った男が、再び乞食に切りつけた。その一撃は乞食の横腹を裂き、乞食は苦しげに膝をつく。しかし、それでも彼は立ちあがろうとした。
男たちの顔に、恐怖の表情が浮かんだ。
乞食を見てみると、短剣で刺された傷跡も、背中を切りつけられた傷跡も、すでにほとんどふさがってしまっている。
「なんなんだ、おまえはっ!」
剣が、乞食の首めがけて振り下ろされる。剣は狙い通りに乞食の首をとらえ、首を半分まで切りさいた。ごぼごぼという音をたてながら血が乞食の首から飛び散ったが、その血はすぐに止まってしまう。
「死ね! 死ね!」
男は悲鳴にも似た声で叫びながら、何度も何度も乞食の首に切りつけた。ついに切断された乞食の頭部が、ごとり、という重い音をたてて地面に落ちる。
が、それでも乞食は倒れなかった。一瞬、首から噴水のように吹きあげた血も、すぐに止まってしまう。
頭と胴が切りはなされてしまったにもかかわらず、乞食はのろのろとした動きで地面に落ちた自分の頭部を拾いあげると、首の上に乗せる。切りはなされたはずの首はもとどおりにつながり、乞食はせき込んで少量の血を吐きながら、自分の首を切断した男をゆっくりとにらみつけた。
男は剣を投げ捨て、逃げた。
他の男たちも、散り散りに逃げ出す。最後まで残ったのはケイの腕をつかんでいた男だったが、彼もしばらく迷ってから、ケイをはなして逃げていった。
ケイは、逃げていく男たちを見送っている乞食を見て、自分も逃げるべきかどうか、迷っていた。
今、たしかに一度、乞食の首は切りはなされた。それでも乞食は、何事もなかったように平然と立っている。
いや、平然と立っている、というのは、間違いだ。乞食は苦しげに、あえいでいる。間抜けな言い方だが、首を切られたにしては平然としている。しかし、それなりに苦しそうでもあるのだ。
乞食はもう一度せき込むと、また鮮血を吐いた。彼は真っ赤に染まった口を手の甲でぬぐいながら、ケイに言う。
「お嬢さん、今のうちに逃げなさい。この男たちも、そのうちに目を覚ますでしょう。そうなると面倒ですから、はやく」
乞食は、気絶して道の上に転がった数人の男たちを指した。
ゾフ一家の連中に連れ去られるのもいやだが、首を切りはなされても死なない化け物と一緒にいるのも、気持ちのいいものではない。乞食はケイの恩人かもしれないが、彼女はとても彼と一緒にいたいとは思えなかった。
ケイは、逃げろと言う乞食の言葉に、喜んで従うことにした。
「なんで戻って来たんだい?」
ケイが娼館に戻るやいなや、エリーが驚いた顔で言った。でっぷりと太ったエリーは、かつては売れっ子の娼婦だったが、今は娼館の女主人の座に収まっている。彼女は太った体をもてあまし、いつもだらけた格好で椅子に座っていた。
そのエリーが、ケイが帰ってきたと聞いて、駆け寄ってきたのである。まさに前代未聞の出来事だった。
「なんでって、当たり前じゃない。連中は、あたしを誘拐したんだよ。逃げ出さなくて、どうするのさ」
「ばかだね、ケイ。誘拐なんかじゃないよ。おまえは、アーマン・ゾフさんの家に嫁入りするんだ。あんな金持ちの奥さんになれるチャンスなのに、どうして逃げ出したりするんだい」
「なにを言ってるのよ。あたしは、あいつのところになんか行きたくないって、言ったじゃない」
ケイは腹が立って、エリーに反論した。
「仕事だよ。ゾフさんは、おまえを一生分買うだけの支払いをしてくれるんだ。おまえだって、一生、好きなものを買ってもらえるだろうよ。報酬としちゃ、最高だろ。つべこべ言わずに、ゾフさんのところに行きな。今なら、まだ謝れば許してもらえるよ」
そのエリーの言葉に、ケイは唖然とした。
時間いくらで体を買われるのと、一生のすべてを買われるのとでは、わけが違う。金にうるさいところはあるが、エリーは娼館の女たちを人として扱ってくれていた。だからこそ彼女を信頼して、多くの女が働いているのだ。
ケイも、エリーは味方だと思っていた。
そのエリーが、ケイの身を金で売り払うような真似をしようとしている。しかも、エリー自身が受け取る金のことしか考えていない。
いったい、あたしはいくらで売られたのだろう?
そう考えて、ケイは悟った。
もう、この娼館からも逃げ出すしかないのだ。
エリーがいくら受け取るのか、などということを心配している場合ではないのだ。このリノの町でゾフ一家に歯向かえる人間は、ほとんどいない。ゾフ一家と抗争をつづけてきたトーリ一家も、今は落ちぶれてしまった。唯一、ゾフ一家にもトーリ一家にも女を抱かせていたエリーの娼館が中立地帯であったのだが、その均衡もトーリ一家の衰退によって崩れ去ってしまったようだ。
このままエリーのところにいれば、アーマン・ゾフに売られてしまうのは間違いない。かといって、逃げる先は、どこにもない。落ち目のトーリ一家を頼って逃げたところで、どうにもならないだろう。すると、町を出るしかないのだろうか。
リノを出る。
この町で生まれ、この町で育ち、この町で働いてきた。そんなケイが、町を出て生きていけるのだろうか。町の外の世界がどうなっているかも知らず、なんのあてもないケイが、どうやって生きていけばいいのか。
しかし、やらなければならない。
ここでアーマンの奴隷にされるくらいなら、未知で不安な町の外へ飛び出したほうがいい。そう決意したケイは、エリーに向かって鋭く言った。
「エリー、あたし、この仕事を辞めるわ。辞めて、町を出る。だから、預けているお金、まとめてかえしてくれる?」
瞬間、エリーの表情が一変して凶悪なものになった。
「ふざけるんじゃないよ! ゾフさんとのもう契約は、もう済んでるんだ。最後の仕事を、きちんと済ませな! ゾフさんのところの仕事を済ませたら、おまえの取り分を渡してやるよ。そうでなければ、おまえが溜め込んでた金は、ぜんぶ違約金として没収させてもらうよ。いいね!」
なんてこと。
そんな理不尽なことが許されていいの? あたしの稼いだお金。あたしの未来に使うための、大切なお金。それが、勝手に決められた仕事を断っただけで、没収だなんて。
ケイは、怒りでなにも考えられなくなった。
「この強欲ババア!」
気がついたときには、ケイは怒鳴りながらエリーの頬を張っていた。エリーは驚いた表情で、たたかれた頬を押さえている。そのエリーの、自分はなにもしていません、わたしは被害者です、と言いたそうな顔が、ケイの怒りをさらに加速させた。なにか言おうとして口を開きかけたエリーの頬を、もう一度ひっぱたく。
そして、さらにもう一度。
エリーが金切り声をあげて、ケイにつかみかかってきた。ケイはエリーをぶとうとして空振りし、逆に髪をつかまれて引っ張られる。痛みに悲鳴をあげながら、ケイはエリーの髪を引っ張りかえした。
「このあばずれ! 恩を仇でかえすような真似しやがって!」
「あたしの稼ぎをピンハネして、ぶくぶく太ったブタのくせに、なにを偉そうに!」
痛みに耐えかねたのか、エリーがケイの手をふりほどいて一歩後退する。ケイの手には、エリーの髪の毛が残されていた。
「誰か来ておくれ! ケイがおかしくなっちまったよ!」
叫び声をあげるエリーを見て、ケイは手近にあった木の椅子をつかむと、エリーのおおきな体めがけてたたきつける。椅子が壊れて、ケイの手にはちいさな木片だけが残った。木片を投げ捨てると、たまらず転倒したエリーに馬乗りになって、顔を殴りつけた。
「あたしの金を渡しな! このごうつくばり!」
「誰か! 誰か来て!」
なおも悲鳴をあげつづけるエリーの口をふさごうとしたら、ケイは指を噛まれた。
「殺される!」
ケイは、完全に頭に血がのぼった。
殺されるだって? あたしは自分の金をかえせと言ってるだけじゃないの。そうやって、悪いのは全部あたしのせいにしようとしてるんだ。自分はなにもしてないふりをして、あたしが一方的に襲ったことにするんだ。
もう、完全に頭にきた。
あたしが殺そうとしてると思いたいなら、そう思えばいい。その通りに殺してあげるわ!
ケイはエリーの首をつかんで、きつく締めあげた。
エリーは必死に抵抗して、ケイの腕に爪を突き立てる。
「死ね! くそババア!」
首をつかんだまま、ケイはエリーの頭を床に何度も打ちつけてやった。ゴツ、ゴツと鈍い音をさせながら頭を床にぶつけているうちに、エリーがぐったりとしてくる。ケイの手をふりほどこうとして爪を立てていたエリーの腕が、力なく床にのびた。
そこで、ケイは我にかえった。あわてて手をはなし、エリーの体からはなれる。
しかしエリーは、床の上に転がったまま動かない。
本当に殺しちゃった!
ケイは、急いでエリーの部屋を飛び出した。騒ぎを聞きつけて部屋の近くまで来ていた同僚の娼婦たちを突き飛ばし、彼女たちの悲鳴を聞きながら、ケイは娼館から外へ駆け出した。
どうしよう。
エリーを殺しちゃった。
逃げなきゃ。
でも、どこへ?
お金もないのに。
どこへ行けばいいの?
リノを出る道は東西に伸びている。東にずっと行くとライの都がある、という話を聞いたことがあった。行くなら、東だろうか。
いや、だめだ。
東にはアーマン・ゾフの屋敷がある。ゾフ一家の手下たちがうようよしているのだ。そんなところに行ったら、すぐにつかまってしまう。選択の余地はなく、西に行くしかなさそうだった。
いや、西もだめだ。
最近、西の街道に盗賊が出没しているという。盗賊につかまったりしたら、きっと、アーマンと結婚したほうがましだった、と思いたくなるような目にあわされるだろう。
リノの町を抜け出す道は、もう残されていないのだろうか。
ケイは途方にくれて、立ち止まった。
身内はいない。味方はエリーだけだったのに、そのエリーを殺してしまった。
頼れる人もいない。逃げ道もない。
もう、だめだ。
誰か助けて!
「お困りですか、お嬢さん?」
ケイの心の叫びが聞こえたのか、男の声が聞こえた。声のしたほうを見ると、地面にだらしなく座った半裸の乞食の姿が見える。
あの、乞食だった。
首を切られても、死なない乞食。
乞食はケイの表情を見ると、機敏に立ちあがった。
「また、追われてますね? 助けてあげましょう」
有無を言わせず、乞食はケイの手をとって走り出した。
リノは、ライの都と西の大都市・ホールを結ぶ街道にできた山あいの町である。周囲は岩山と荒野に覆われているが、銀鉱山が見つかったおかげで栄えることになった。
という話を、ケイは客から聞いたことがある。彼女は孤児で、エリーに拾われるまでは道端で寝起きしていた。もちろん、文字など読めないし、歴史だとかそういったものにも詳しくない。彼女の知識は、男を喜ばせる方法と、男たちが寝物語に語って聞かせてくれた話に限定されている。
リノの北にある荒野を歩きながら、ケイはリノの由来を話してくれた男のことを思い出していた。彼はとても教養があり、やさしい男だった。もしかしたら、彼が運命の人なのではないか、と期待したこともあった。しかし、彼はライの都へと旅立ち、二度とリノには戻ってこなかった。
その彼が、リノの北に広がる荒野を、なんとか、と呼んでいた。
なんだったろう。
古い言葉で、乾いた土地、という意味の言葉だと言っていたが。グラダだか、ガラダだか、そのような響きだったようにおぼえている。
その荒野を、ケイは乞食のあとについて歩いていた。もしも逃げるならば街道沿いに東か西か、としか考えられなかったケイと違い、乞食は北の荒野も選択肢に入れていたのである。外見とは裏腹に、この乞食は頭のいい人間なのかも知れない。
そう、ケイは感じていた。
実際のところ、乞食はいたって普通の人間であった。おだやかで丁寧な言葉を話し、言葉のなまりもない。身のこなしは俊敏で、格闘の心得もすくなからずありそうである。
しかし、首を切られても、死なない。
「あの……」
「なんですか?」
「あんたは、何者?」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。ルーです」
「ルーって言うんだ。あたしは、ケイ」
「よろしく、ケイ」
ルーはゆったりとした口調で言った。
「あのね、ルー。あたし、あんたの名前を聞きたいわけじゃなかったんだけど」
「なにを聞きたいんです?」
「なにをって……」
ケイは、困った。
どうして首を切られても死なないの? ということを聞きたいのだが、その質問自体がひどく滑稽で奇妙なものに思える。首を切られたように見えたのは、ケイの錯覚だったのかもしれない。すくなくとも、首を切られても死なない男が存在するよりは、そういう男がいるように錯覚した、というほうが、まだ説得力がある。
ケイは、もうひとつの関心事を質問してみることにした。
「どうして、あたしを助けてくれたの?」
「理由ですか……」
ルーは困惑した表情を浮かべて、なにやら考え込んだ。
その顔を見ながら、ケイは思った。この男は、ケイの体が目当てだったのかもしれない。しかし、ケイは覚悟を決めた。きたならしくてくさい男だが、もしも彼がケイを抱きたがっても、拒むまい、と。誰も味方がいないよりは、たとえ乞食でも味方をしてくれているほうが心強い。ましてや、彼は格闘にも強いのだから、ぜいたくは言っていられない。ルーを味方にするためならば、体を許すことなど、どうということはない。
しかし、ルーはケイの問いに答えず、逆に質問してきた。
「ケイ、あなたは『光のかけら』というものをご存知ですか?」
「光の、かけら?」
「やっぱり、知りませんか……」
ルーは、がっかりした様子で、ちいさくため息をついた。
「その光のかけらが、どうしたの?」
「探しているのです」
「なんなの、それは?」
「わかりません。『よきもの』とだけ聞いていますが」
「それしかわからないのに、どうやって探すの?」
「手に入れるためにすべきことは、『よきこと』だそうです。だから、あなたを助けようとしました」
それを聞いて、ケイはどきりとした。
ルーは、ケイが被害者だと思ったから、助けたのだ。もしもケイがエリーを殺して逃げている、ということがわかったら、どうするのだろうか。『よきこと』のために、ルーはケイを役人に突き出すかもしれない。
その思いは、ケイを不安にさせた。ルーは、ケイという人間の味方をしてくれているわけではないのだ。せめて、ケイの体が目当てだったとすれば、どんなに気楽だろうか。求めるものを与えていれば、それで済むのだから。
とっさに、エリーの首をしめたときについた爪あとを見る。ケイの腕に残された傷は、まだ血が乾ききっていなかった。
人殺しの傷跡……。
ケイは助けるべき価値のない人殺しだ、とルーに知られたら、それでおしまいなのだ。
「どうしました?」
足を止めて黙りこんだケイの顔を覗き込み、ルーが言った。
「なんでもない。光のかけらって、どんなものなんだろうなぁ、って思って。きれいな宝石みたいなものなのかな?」
「かもしれません」
「それで、ルー。あんたはなんで、光のかけらを探してるの?」
本来聞きたかった話から、どんどん話題がそれていっていることに気づいていたものの、ケイは話の流れでたずねた。
ところが、ルーのこたえは、まさにケイの聞きたかったことだった。
「不老不死の呪いを解くためです。光のかけらは、わたしが死ぬために必要なのです」
「死ぬためって……どういうこと?」
ケイの問いに、ルーは淡々とした口調で話し始めた。
できるだけ簡潔に、お話ししましょう。
わたしはライの都の裕福な家で生まれました。父は国王の信頼の厚い武官で、母親は国王の遠縁にあたる人でした。
わたしは、なにも不自由なく育ちました。ただひとつのことを除いては。
兄。
兄のマールは、容姿も、頭脳も、体力も、なにをとってもわたしより秀でた存在でした。両親の期待を一身に背負い、兄は心身ともに立派な男に成長しました。
逆に、わたしには誰も期待していませんでした。わたしはいつでも兄と比較されつづけ、劣った存在だと言われつづけ、兄の添え物のように扱われつづけました。
『マールなら、うまくできるのに。どうしてルーにはできないんだろうね』
『仕方ないよ。ルーにはこれが限度なんだから』
『ルーは、そんなことしなくていいんだよ』
『どうせルーなんだから』
『ルーのくせに』
そんな言葉を毎日言われつづけたわたしの気持ちは、普通の人にはきっと理解できないでしょう。その頃のわたしにとって、わたしがわたしであることが、罪に思えていたのです。わたしは存在する意味のない人間で、事実、周囲の人間たちの言葉がそれを裏づけているような気がしました。
そして、わたしは他人を憎むようになりました。
わたしを軽んずる人間たちすべてを憎むことで、わたしは自分を正当化しようとしたのです。わたしは、それこそ手当たり次第に、ありとあらゆる人に憎悪の矛先を向けました。
ええ。
それが間違った行動だったことは、今はわかります。
ですが、あの当時のわたしに、いったいなにができたでしょうか。
わたしはまだたったの十四歳で、なにもわからず、ただ理不尽に自分へ向けられた蔑視を、反射的に憎悪することでもって抵抗していただけだったのです。
そう、十四歳のとき、わたしははじめて人を殺しました。
え? 人を殺すような悪党にしては、言葉遣いが丁寧ですか?
べつに、言葉遣いの違いで、人間の価値が決まるわけではありませんよ。今だって、ケイ、あなたという未知の人と話をしているから丁寧にしゃべっていますが、わたしは実際にはもっとがさつな話し方をする人間なんですよ。
…それで、なんの話でしたっけ? そうそう、十四のときに人を殺した話でしたね。
それ以前から、わたしは仲間と一緒になって、悪さを繰りかえしていました。たった四人の仲間たちでしたが、その中ではわたしは『マールの弟』ではなく、『ルー』になれたのです。そのちいさな集団が、わたしの居場所でした。
そのときは、たしか、屋敷の使用人が腹の立つことを言ったのだと思います。一緒になって悪さをしていた仲間のことをけなし、そしてわたしをけなしました。さすがに面と向かって言うような真似はしませんでしたが、その日、わたしは偶然に使用人たちの話を立ち聞きしてしまったのです。
わたしは怒り、その使用人を殴って、突き飛ばしました。
屋敷の階段を転げ落ちたその使用人は、首の骨を折って死にました。
わたしは、使用人の死体の脇に立ち、人というものがいかにあっさり死んでしまうものなのか、痛切に感じていたことをおぼえています。人は簡単に死んでしまい、死んでしまった人はただの肉のかたまりになるものなのだ、と。
偉そうにしている父も、いつか死ぬ。
優秀な兄も、死ぬ。
わたしも、死ぬ。
死んでしまえば、皆おなじ。どんなにわたしが劣った存在で、皆がどれほどわたしをさげすもうとも、結局は一緒なのです。
ならば、わたしをコケにする連中に、思い知らせてやろうと考えました。人は死ぬものなのだ、という事実を教えてやろう、と。どんなにわたしをばかにしていても、死んでしまえば野良犬でさえ食いたがらないような、ただの肉のかたまりになり果てるのだ、ということを。みんな、わたしとなにひとつ変わらない、くだらない存在であるということを、身をもって思い知らせてやろう、と。
ええ。
それが愚かで間違った考え方であった、ということは、今ではわかります。ですが、当時は、正しいとか間違っているとか、そういうことは無関係でした。わたしは無差別に他人を憎み、憎い人間たちを苦しめることに、喜びを見いだしていたのです。
結局、わたしが死なせた使用人は、父が手を回したおかげで「あやまって階段を落ちて死んだ」ということになりました。それ以前からどことなくわたしを敬遠するようなそぶりを見せていた周囲の人間たちは、以来、はっきりと腫れ物にさわるような態度でわたしに接するようになりました。
わたしは以前にもまして仲間たちと一緒にいる時間が長くなり、家には帰らなくなり、盗み、壊し、他人を傷つけ、時には死なせて、それで有頂天になっていました。わたしはなんでもできて、しかも処罰されることはありませんでした。
そう、わたしは、父の息子であるという事実によって、なにひとつ罪をつぐなう必要がなかったのです。
情けない話です。
わたしがどんなに父を憎んでいても、結局は父の庇護のもとにいたのですから。
そんな簡単なことにも気づかず、わたしは傍若無人なふるまいをつづけていたのです。ところが、暴虐の限りを尽くしていたわたしと仲間たちのと間に、次第にきしみのようなものが生まれました。
おそらく、仲間たちは、他人を傷つけるばかりの生活をつづけるうちに、未来に不安を感じるようになったのでしょう。
本当にこのままでいいのか、と。
残念ながら、わたしはそのことに気づくことなく、次第に仲間たちの間でも孤立しながら、それでもまるでなにかに憑かれたように、他人を憎みつづけました。憎みつづけることが、わたしの生きる活力になっていたのです。それは、あまりにもゆがんだ情熱でしたが、もはや今となっては後悔しかできません。
ある日、わたしは、禁断を破りました。
ライの都の北西の森に、魔法使いたちが住んでいるのはご存知でしょう。いいえ、おとぎ話ではありません。本当に住んでいるのです。彼らは森の中で暮らし、いろいろな魔法の研究をしていました。その魔法使いの一人を、わたしは襲ったのです。
きっかけは、ささいなことだったはずです。今ではおぼえていません。仲間からも孤立していたわたしは、自暴自棄になっていたのでしょう。魔法使いに殺されるならば、それはそれでいい、と考えていました。自分でも、人間を憎んでいて、それでもその憎むべき人間から認められたいとも思っている、そんな矛盾した生活にうんざりしていたこともあります。
なにもかも、どうでもいい。
そんな気持ちで、わたしは魔法使いを襲いました。
魔法使いは、片手を振るだけでわたしたちをカエルに変えたり、稲妻を呼んだりできるものと思っていたでしょう? そんな魔法使いを普通の人間が殺せるはずがない、と、誰でも思いますよね。わたしもそう思っていました。
でも、意外に簡単でしたよ。
その魔法使いは、抵抗もせず、わたしの手にかかって死んでいきました。ただひとつ、こう言い残して。
『おまえに呪いを与えてやる。おまえがもっとも恐れるものを、与えよう』
もちろん、わたしは魔法使いの言葉など意に介しませんでした。ただの脅し文句だと思っていたのです。わたしは、魔法使いの胸に短剣を突き立てました。
その瞬間、空から闇が降ってきたのです。
黒いもやのようなものが、わたしを取り囲み、わたしの中に入ってきました。
怖くなかった、と言えば嘘になります。あの闇は、怖かった。でも、どこかで諦めていました。いつかそうなるだろう、と思っていましたから。なにかでしくじって、命を落とすだろう、と。
魔法使いの言葉をこけおどしだと思って軽んじたことで、わたしは死ぬのだ、と。
わたしは闇に包まれ、意識を失いました。
どのくらい倒れていたのか、わかりません。目覚めたとき、わたしは、自分が生きていることに気づき、魔法使いの呪いが効かなかったのだと思いました。事実、それ以後のわたしは、体調もよく、前よりも体力がついたようにも思えたのです。
でも、それは甘かった。
悪事を働けば、報いを受けます。
わたしは、ついに捕らえられました。複数の盗みと殺しの罪で。父は、過去に自分の息子がおかした罪を隠してきたことを認め、罷免されました。そして、わたしは死刑を申し渡されたのです。絞首刑が、わたしに与えられた刑罰でした。
刑場でつるされた瞬間ことは、はっきりとおぼえています。
うしろ手に縛られていたために、まったく抵抗ができません。自分の体重で首に縄が食い込んでいくのを、ただこらえていることしかできないのです。息ができませんでした。苦しいのです。息をしたい。なのに、できない。
苦しい、苦しい、苦しい……。
それは拷問のように、ずっとつづきました。そんなに長時間、息をせずにいられるものだとは、思いませんでした。
やがて、いつまでたってももがき苦しみつづけているわたしを不審に思った処刑人が、わたしを一度絞首台からおろし、縄の結び具合を確認して、もう一度つるし直しました。しかし、それでも、わたしは死にませんでした。
呼吸のできなくなった苦しみに耐えながら、わたしは祈りました。
お願いです、一刻も早く、この苦しみから解放してください。
わたしを死なせてください、と。
朝から始まった処刑は、結局日暮れまでつづきました。わたしは何度もつるされ、おろされ、またつるされました。おろされている間、わたしは苦しさのあまりに泣きながら、処刑人にはやく殺してくれと嘆願しました。
さすがに処刑人もわたしをあわれに思ったのでしょう。判事の許可を得て、わたしの刑罰は絞首刑から斬首刑に変更されることになりました。
わたしは涙をながして、礼を言いました。
ありがとう、これで死ねます、と。
ところが、それも甘かった。
首を切り落とされたときの激痛は、絞首刑の比ではありません。激痛、そして、絞首刑のときとおなじく、息のできない苦しみもありました。
そのとき、ようやくわたしは気づいたのです。
これが、呪いなのだ、と。
わたしが恐れるもの。
それは、わたしが憎む人間たちの中で、苦しみながら永遠に生きることだったのです。不老不死こそが、魔法使いがわたしに与えた呪いだったのです。
ケイは、恐ろしさのあまり、身ぶるいをした。
普通ならば死ぬほどの苦痛を、死なずに耐えつづけなければならない。なんと残酷な呪いなのだろう……。
話を終えたルーの表情は暗く、つらそうだった。しかし、ケイはさらに聞かずにはいられなかった。
「それで、『光のかけら』はどこで出てくるの?」
「わたしは釈放されました。わたしが死なない、ということがわかったからです。首を切りはなしたままずっとさらしておけ、という声もあったのですが、わたしの姿をあわれに思った人のほうが多かったようです。次に悪事をはたらいたら首を切りはなして永遠に放置しておくぞ、と脅されて、わたしは釈放されました。そして、呪いを解く方法を探すために放浪をつづけるうちに、わたしはホールに住む賢者のうわさを耳にしました。賢者は未来と過去をすべて知っていて、賢者の求める報酬さえ払えば、質問に答えてくれるというのです」
「その賢者の話なら、聞いたことがあるよ。それもおとぎ話だと思ってたけど。本当にいるの?」
「ええ。わたしは、その賢者に会いにホールまで行きました。そして、わたしにかけられた呪いを解くのに必要なものはなにか、と質問したのです。その答えが、『光のかけら』というものでした」
「ちょっと待って、その賢者って、すごく高い報酬を求めるって聞いたことがあるけど。質問に答えるための報酬として、なにを支払ったの?」
「賢者の研究材料になること、でした。質問ひとつあたり実験を一種類、という約束で。本来ならば、おなじ事柄に関する質問は重ねて受けつけないのだそうですが、不老不死の呪いが実際にどうはたらくのか見てみたいから特別に、ということでした」
実験。
ケイは、もう一度身ぶるいした。
「実験って、どんな?」
「呪いを解くのに必要なものは? という質問の報酬は、腕を切り落として、切り落とされた腕にいろいろな刺激を加えてまる一日観察する、というものでした」
「いろいろな刺激って?」
「切られた腕の指先に針を刺して、痛みをどう感じるか。指を切って、どのように再生するのか。火で焼いて、どのように再生するのか……」
「感じたの? その……痛みとか、熱さとか」
ルーは、うなずいた。
「わたしは、苦痛に耐えました。それで答えが得られるのであれば、いくらでも耐えるつもりでいました。ところが、賢者はひとこと、『光のかけら』と言っただけだったのです。
『なんですか、それは?』とたずねると、その質問に答えのために賢者はさらに別の実験を要求しました」
「ひどい」
思わずケイは言った。まるで、娼婦が愛撫はいくら、入れさせてあげるのはいくら、とばら売りしているようなものではないか。詐欺としか言いようがない。
「わたしは、それでも実験を受け入れました。次の実験は、飲まず食わずで一ヶ月間暮らすこと、というものでした。……ああ、あの渇き。空腹はまだしも、渇きは最悪です。涙の出なくなった目は、ひどく痛みました。渇ききった喉からは、声も出せません。喉が苦しくて咳をすると、切れて血が出ました。ところが不老不死の呪いのせいですぐに傷は治り、血は止まります。そしてまた咳をして血を吐き、また治り、その繰りかえしでした。しかし、それでも、わたしは死ぬことができません。わたしは耐えました。そうすることしかできないのですから。そして、苦痛に一ヶ月耐えた結果、賢者から得られた答えは『よきもの』という言葉でした」
「そんなの、答えになってないじゃない!」
ケイは怒りを感じて、声を張りあげる。
「ええ、わたしもそう感じました。わたしも腹が立ち、賢者につめ寄りました。そして激しい調子で、賢者をののしりました。しかし、賢者は平然としてこう言っただけでした。『未来に属することを明確な言葉で語ることはできない。未来に発生することを正確に知ったら、人は未来を変えようと努力し、結果として未来は変化してしまうだろう。未来が変わってしまったら、予言が当たらなかったと騒ぐ者が出てくる。それを避けるために、なにが起きても変わることのない、本質の部分だけを語っているのだ』と」
「でも、ひどすぎる」
ケイは自分のことのように腹を立てていた。
きっとその賢者は、くそったれアーマンみたいに他人の苦痛を眺めるのが好きなんだ。
ひどいやつ。
「わたしに、なにができます? 怒りにまかせて賢者を傷つければ、わたしは首を切られて放置されてしまうでしょう。だから、わたしは未来の死を手に入れるために、今この瞬間の苦痛に耐えようと思ったのです。わたしは、慎重に質問を考え、言いました。『その光のかけらを手に入れるためには、わたしはなにをすればいいですか?』と。その質問の答えに対して、賢者はさらなる実験を求めました」
「今度は、どんな実験だったの?」
ルーは眉間にしわを寄せると、ゆっくりと言った。
「わたしの頭を跡形もなくすりつぶす、という実験でした。頭がなくなってしまっている間、意識がどのようになっているのかを観察したい、ということで」
吐き気がしてきた。
ケイはつばを飲み込み、言った。
「賢者なんだから、実験なんてしなくても、どうなってるのか知ってるんでしょ? なんでわざわざそんなひどいことするの?」
「知識として知っているのと、実際に観察するのとでは、違うのだそうです。もちろん、わたしは実験を受け入れました。ああ、あの痛み! なにも見えず、なにも聞こえず、なにも考えられず、ただ痛みだけがあるのです。わたしは狂ってしまうかと思いました。完全に再生するまでにまる一日かかりましたが、口が再生してからは泣き叫びつづけていました。死なせてくれ、と、何度も。わたしは――」
「お願い、それ以上言わないで。それで、ルー、答えはなんだったの?」
ケイは本当に気分が悪くなってきて、ルーの話をさえぎった。
「『よきこと』でした。わたしはさらに、賢者に『よきこと』とはなにかを問いました。こうなったら、もうとことんまでやってやろうじゃないか、という気分で。ところが賢者は、もう報酬としてもらえるものはなにもないから質問には答えない、と言ってわたしを追い払ってしまいまったのです。仕方なしにわたし自分なりに考え、善行を積めばよいのだ、と判断しました。そうすれば、死ねる、と。以来、わたしは二十年にわたり国内を放浪して、わたしのできる限りの『よきこと』をしてきました。ですが、いまだにわたしには死が与えられないのです」
二十年。
死にたくて生きつづける、二十年。
ケイはその苦悩を思い、心を痛めた。
それは、ルーの悪事の報い? ちがう。ルーひとりが悪いわけではなく、ルーを兄より劣るものとして扱った周囲にも原因があるのではないか。ルーひとりがつらい目にあうのは、間違っている。
ルー、かわいそう。
彼は、『よきこと』のためにあたしを助けようとしてくれた。
こんなあたしを。
感謝、申し訳なさ、怒り、哀しみ、といった無数の感情に駆られ、不意にケイの目から涙があふれ出す。
突然泣きだしたケイを見て、ルーが困ったような表情を浮かべた。
「どうして泣くのですか?」
「どうしても!」
ケイは言い、さらに泣いた。
「どうしても、って言われても……」
ルーは戸惑いを隠さない。
ケイは涙もふかず、ルーをにらみつけた。
「決めた。あたし、手伝ってあげる。あんたが死ねるように、手伝ってあげる」
リノの北の荒野には、赤茶けた砂礫ばかりのごつごつとした土地が広がっていた。
遠くから荒野の方角を望んだことはあったが、実際に荒野に足を踏み入れたのはケイにとってはじめての経験である。遠くから見ると平坦に見えた土地も、実際にその場所に立ってみると、驚くほど起伏に富んでいた。
容赦なく照りつける日差しは強烈で、ケイの体力をどんどん奪っていった。加えて、足場のよくない荒野を歩いているため、よけいに彼女は消耗していった。
疲労は次第に喉の渇きに変わっていき、その渇きは耐えがたいものになっていく。
「ねえ。ルー、喉が渇いたよ」
ケイの言葉に、ルーはおだやかに応じた。
「そうですか。もうすこし我慢してください」
そう言われると、辛抱するしかない。事実、周囲を見まわしてみて、飲み水がありそうな景色ではない。植物がないわけではないが、緑のすくない、枯れ木のような低木が散在しているだけである。
しかし、もうすこし我慢しろ、と言うからには、ルーには水のありかに心当たりがあるのだ。そう信じて、ケイは渇きと疲労をこらえながら、ルーのうしろを歩きつづけた。
渇きと熱さと疲労の中を黙々と歩くうちに、ケイの意識は自然に過去へとさまよっていく。
「この強欲ババア!」
そう怒鳴って、ケイはエリーをたたいた。
ずっと面倒をみてくれたエリーを、ケイはののしり、たたき、その挙句にしめ殺してしまった。
ごめんね、エリー。
エリーに拾われたのは、もう十五年ちかく前のことだ。以来ずっと、エリーが親がわりだった。エリーはお金にはうるさかったが、とても陽気で、一度笑い出すと止まらなかった。ちょっとしたことで大笑いをし始めると、涙を流して息も絶え絶えになりながら、長い間笑いつづけたものだ。ケイもつられて笑い、ほかの女の子たちに奇妙なものを見る目つきで見られたことが、すくなからずあった。
ごめんね、エリー。
首をしめていた瞬間に感じた、エリーの体温。エリーの首の肉にめりこんでいく指の感触。床に頭を打ちつけたときの、ごつごつという音。腕に残されたエリーの爪跡。
エリーは、あたしに首をしめられて、苦しかったんだろうな……。
でも、自業自得なのよ。
エリーはお金に目がくらんで、アーマンにあたしを売ろうとしたんだから。そんなふうに、あたしの未来を決めてしまう権利なんて、エリーにはなかったのよ。
でも、そういうあたしにも、エリーを殺して未来を奪う権利なんて、なかった。
エリー、ごめんね。
本当に、ごめん。
エリーを死なせてしまうくらいなら、あたしがアーマンに売られてしまえばよかった。あたしみたいな娼婦は、夢を見ちゃいけないの。いつか運命の人が現れて、すべてのいやなものから救い出してくれる。すべてを幸せで満たしてくれる。そんな夢は、かないっこないんだから。
あたしはアーマンに拾ってもらえるだけで、喜ばなくちゃいけない。
それがあたしの運命なの。
それを、無理に逃げ出そうとして、人殺しになってしまった。
こんなあたしのために、ルーに迷惑をかけちゃいけない。なにが『手伝ってあげる』よ。ルーの『よきこと』のためには、人を殺したあたしの存在が邪魔なんじゃないの。
いや、ひとつだけ、ルーの役に立つ方法がある。
「ねえ、ルー?」
「なんですか?」
「あたしね、人を殺して逃げてたんだ」
ルーはぎょっとした表情で立ち止まると、ケイの顔を見た。
ケイは、包み隠さずにすべてを話した。
アーマンとのこと。
アーマンに連れて行かれるところをルーに助けられたこと。
そのあとエリーと言い争いになって、エリーを絞め殺してしまったこと。
「だからね、ルー、あたしを助けることは、『よきこと』じゃないと思うの。あたしをリノに連れ戻して、人を殺した罰を受けさせるべきなのよ」
ルーは黙っていた。
「なんでなにも言わないの? あたし、あんたを手伝うって言ったけど、あんたの手助けができるような力なんてない。あたしは男をいかせることしかできないくだらない娼婦だし、人殺しだし、こんなあたしなんか誰かに助けられる価値もないし、誰かを助けるだけの価値もないんだよ。だから――」
「もういい!」
ルーが鋭い口調でケイの言葉をさえぎる。今度はケイが驚いてルーの顔を見つめる番だった。ルーは、これまでにないきびしい調子で、ケイに言う。
「なにも言うな。『よきこと』を求めていて俺が気づいたのは、完全に正しい人も、完全に間違っている人も、どちらも存在しない、ということだ。間違いをおかしたことのある人間を助けることが悪いことならば、『よきこと』などどこにも存在しないことになる。そうだろう? 立場の弱い人を助けることは、正しいと俺は思っている。だから、俺は君を助ける。誰にも、文句は言わせない」
ケイの胸に、その言葉はあたたかく響いた。
『俺は君を助ける』
でも、どうして?
どうしてあたしなんかを?
あたしなんか、こんな、こんな……。
次々とわきあがってくる感情で胸がいっぱいになり、声にならない。
「ごめんね、ルー」
ケイはかろうじて、それだけ言った。
もっとたくさんの言葉を言いたいのに、声と一緒に涙もあふれてしまいそうで、ケイは歯をくいしばった。
変だな。あたし、こんなに泣き虫じゃなかったはずなのに。いつからこんなに弱くなっちゃったんだろう…。
こらえようとすればするほど、感情が揺れる。耐えきれずにあふれた涙が自分の頬を伝い落ちるのを、ケイは感じた。
「行こう、ケイ。もうすぐ水にありつけるはずだ」
ルーは彼女に背を向けると、歩き始める。
ケイは手の甲で涙をぬぐうと、彼のあとを歩いた。
川が流れていた。
赤茶けた大地に忽然と姿をあらわした川は、周囲に緑をともないながら、うねうねと流れくだっていく。
ケイは両手で水をすくい、喉をうるおした。
「さて、これからどこに行く?」
ルーがケイの脇に立ち、言った。
「どこって?」
「川に沿って下っていくと、リノの西の街道に出る。川に沿ってさかのぼっていくと、山間のちいさな村に行くことができる。川を越えてまっすぐ北に行くと、人の住んでいないオアシスがある。どこに向かうかは自由だ、ケイ」
「人のいないオアシス? そんなところに行って、どうするのよ」
「いや、選択肢として、言っただけだ」
「ルーは、どこだと『光のかけら』が見つけられると思う? 一番見つかりそうな場所に行こうよ」
「それよりも、どこだとケイが追っ手に見つからないか、ということを考えたほうがいいんじゃないか?」
そうルーに言われて、ケイははっとした。
もうすっかり逃げ切ったつもりでいたのだが、実際には状況はなにも変わっていない。ケイが相変わらず人殺しの逃亡者であることには、違いがないのだ。どこかに存在しているはずの追っ手のことを考えると、背筋が寒くなる思いがする。
ケイは自分が歩いてきた方角をふりかえった。
「ねえ、ルー。あたしたちの足跡って、追いかけてくる人たちは見つけられるのかな?」
「追跡の達人なら、簡単に見つけるだろうね」
「川の中を歩いても見つかる?」
「おそらく」
「じゃあ、逃げられっこないじゃない。どうすればいいと思う?」
「普通に考えたら、まず追っ手は街道沿いにケイを探すだろう。そして、街道沿いに東西どちらかに逃げたのではない、と判断して、次にリノの南北を探し始める。すぐにリノから北にのびている二人の人間の足跡が発見されて、やがてここまで追いかけてくるはずだ。そのときまでに……」
ルーは首をめぐらせると、下流を指した。
「そのときまでに、西のホールへ向かう街道に出ていることができれば、たぶん逃げられると思う。彼らが街道を探すことをいったん諦めたあとで、街道に出るんだ。古いことわざで、針を隠すときには針の中に、人を隠すときには人の中に、という言葉がある。街道を行く旅人や隊商にまぎれることができれば、ホールまで行くことができるはずだ。そして、ホールまで行くことができれば、大都会の雑踏にまぎれて、見つかる可能性はぐっと低くなる」
なるほど。
ケイは感心しながらルーの話を聞いていた。
やっぱり、あたしなんかとは、頭のできが違うんだ。話に筋道が通っていて、無駄がない。やっぱり、都で育った人は、すごい。
「上流の村からは間道を抜けてライの都に、北のオアシスからは古い交易路を通って異国クルダニアの都市に、それぞれ行くことができる。そこまで行きつくことができれば、ホールに隠れるのと一緒で見つかりにくいはずだ。ただし、ライもクルダニアも、とても遠い。ライへは、リノからホールの間の距離の倍。クルダニアへは、さらにその五倍の距離がある。だから、俺ならばホールへ行く道を選ぶだろうな」
「クルダニア! ルーは行ったことがあるの? クルダニアでは、家が宝石でできてるって言うけど、本当?」
ケイが遠い異国について聞いたことのある噂を口にすると、ルーは苦笑した。
「行ったことはあるけど、家は宝石ではできていなかったよ。家は、普通の日乾しレンガでつくられていた。宝石をたくさん持っていて部屋を飾り立てているのは、クルダニアの王様だけだそうだ」
「宝石で作られているなんていう嘘を言ったのは、誰よ」
ケイは夢をこわされてがっかりしながら言ったが、ルーはその言葉には返事をしなかった。
「それで、どうする? 上流に行くのか、下流に行くのか、それとも北に行くのか」
「ルーの言う通り、下流に行ってホールに行くことにする。でも、その前に――」
「その前に?」
口を閉じたケイの顔を、ルーが不思議そうに見た。
その顔をめがけて、ケイは川の水を跳ねあげる。
「体、洗ってよ。ルー、くさいんだもん」
ルーはなにも言わず、表情をゆがめた。怒りとも、自嘲ともとれる、なんとも不思議な表情だった。その表情のまま、ルーはケイにかけられた水を髭からしたたらせながら、立っている。
「ほら、洗ってあげるから」
ケイはルーの腕をとって、水の中に引き入れようとする。しかし、ルーは抵抗して、水に入ろうとはしなかった。
スカートをたくしあげて膝のあたりまで水につかっているケイと、川べりで立っているルーは、手を取り合った状態で見つめあった。
川を流れていく水の音だけが、静かに聞こえている。
ケイは握ったルーの手から感じられるぬくもりを意識して、すこしだけ息苦しくなった。
「水が怖いの?」
ケイが言うと、ルーは首を振った。
「いいや。そんなんじゃない」
「じゃあいいじゃない」
強く手を引くと、ルーはしぶしぶ水の中に入ってきた。
ケイはルーをしゃがませると、背中に水をかけて両手でこすった。すぐにルーもあきらめたようで、自分の腕や腋を洗い始める。
ルーの肌は垢でねばつくような感じがしたが、筋肉質で張りがあり、とてもあたたかかった。ケイが一生懸命こすると、黒い垢がぼろぼろと出てくる。そこに水をかけて垢を流し、さらにこする。それを繰りかえすうちに、ルーの背中は次第になめらかな感触になってきた。
ルーの背中は広く、あたたかい。
ケイは彼の背中をこするのをやめて、うしろからルーの胸に手をまわした。背中とおなじようにこすって垢を落としているうちに、ルーの体に変化があらわれた。
乳首が立ってきた…。
ケイは、ルーをうしろから抱きしめて、背中に唇をおしあてる。まだ落としきっていない体の汚れからにおいがしたが、あまり気にならなかった。ルーの硬くなった乳首を指先でもてあそびながら、ケイはみずからの乳房をルーの背中におしつけた。ケイの乳首も服の下で硬くなっていて、ルーの背中に当たっている。
体の芯が熱くなるのを感じながら、ケイは彼の背中に舌をはわせた。
「なにをしてるんだ?」
ルーは静かに言ったが、その声はすこしだけ緊張しているように聞こえた。
「こういうの、嫌い?」
「いや、そんなことはない」
「じゃあ」
ケイはルーのたくましい胸から平たい腹、そして下腹へと手をすべらせる。が、ルーの腰に巻かれていたぼろに指が触れた瞬間、ルーはケイの手をつかんでひきとめた。
「はなれて、ケイ」
きびしい口調で言うルーに、ケイはしがみつく。
「いや」
「はなれろ。こんなことをしている場合じゃない」
「いや。はなれたくない」
ケイは、ルーを抱く腕に力を入れた。
と、どうやったのか、ルーはケイの腕をするりと抜けて、彼女を水の中に投げ込んだ。
「なにすんのよ!」
怒鳴りながら水の中で立ちあがると、ケイはルーをにらみつけた。拒絶された、という思いが、ケイの怒りを増幅させる。しかし、ルーはそんなケイの気持ちとは裏腹に落ち着き払っていて、ゆっくりと指を川の下流方向に向けた。
「見ろ」
言われるままに目をこらすと、下流のほうには土煙が見えた。
「あれは?」
「馬だ。たぶん、十頭ほどいるだろう」
ケイは息をのんだ。
もしかして、追っ手?
そのケイの考えを察したように、ルーはきっぱりと言い切った。
「追っ手が下流から来るのは、変だ。たぶんあれは、西の街道に出没しているという、盗賊だろう」
盗賊?
追っ手よりも、なお悪い。
盗まれるものはなにもない。命以外は。その意味では、死ぬことのないルーは安心かもしれないが、ケイは不安だった。
輪姦された末に、殺される。
そんな想像がケイの脳裏をよぎり、膝がふるえた。
「どうしよう…」
ケイがルーの腕をつかんで揺すると、ルーはそのケイの手を包み込むように握った。
「大丈夫、俺がなんとかする」
ルーはケイの手をひいて水からあがり、近づいてくる騎馬の一団を待ち受けた。
一団は砂煙を巻きあげながら、近づいてくる。次第に姿がはっきりしてくると、彼らは総勢で十二人いることがわかった。十二人はいずれも髭面で、獰猛そうな顔つきをした男たちだった。
盗賊たちは馬にまたがったまま、ケイとルーをぐるりと取り囲むように立った。
ルーは盗賊たちの中でも年長の、白髪の男に向かって一歩足を踏み出す。どうやら、ルーは白髪の男が頭目だと考えたらしい。ルーが白髪の男に近づく様子を見て、盗賊たちの数人が馬にまたがったまま弓を構えた。
「なにかご用ですか?」
ルーの言葉に、白髪の男が笑う。男の声は、乾いてがさついていた。
「乞食と女。これはいったい、どういう取り合わせだ?」
「逃げています。アーマン・ゾフから」
「リノの、ゾフ一家に追われてるのか?」
「そうです」
「なにをやらかしたんだ?」
「アーマンが彼女に惚れたのですが、彼女はアーマンが嫌いだった、というわけで」
「ああ、なるほど。ってことは、このお嬢さんが、アーマンがいれあげてるって噂の娼婦なわけだ」
白髪の男は吐き捨てるように『娼婦』という言葉を言った。
なによ、盗賊が偉そうに。
頭にきたケイは、男をにらみつける。ケイと目のあった白髪の男は、嬉しそうに笑った。
「なるほど。いい女だ。性格もほどほどにきつくて、よさそうだ。こういう生きのいい女なら、アーマンじゃなくても惚れるな。どうだ、俺がおまえを買ってやる。一緒にアジトまで来ないか?」
「馬とやってな!」
考えるよりも先に言葉が飛び出し、ケイは言ってからあわてた。女を物扱いする男が一番嫌いなのだが、よりによってこんな状況で言うべきではなかった。相手を怒らせたらそれこそ大変なことになってしまうかもしれない。
「なんだと、このクソアマ!」
案の定、盗賊たちの数人は激昂して、怒声をあげる。が、白髪の男は怒るふうでもなく、大爆笑した。
「いいねぇ。名前はなんてんだい、お嬢さん」
「ケイよ」
「そうか、ケイ。俺のことはアルと呼んでくれ。で、乞食、あんたは?」
白髪の男はルーに向き直った。
「ただの通りすがりの、名無しの乞食」
「通りすがりにお姫様の救出を、ってわけか?」
アルが白髪をかきあげ、ルーをにらみつける。
「そうです」
「まあ、それを信じるほど俺もおめでたくないが、問いつめたところで言うわけもないだろうな。まあいい、俺たちの目的は、金だからな」
「金はありませんよ」
ルーが言うと、アルはすごみのある笑みを浮かべた。
「そりゃあ、見ればわかる。となると、俺たちは別なものを頂くしかねえな。よし! 乞食を殺して、女を連れてこい!」
アルが命じると、弓を構えていた盗賊たちが一斉に矢をはなった。矢はすべてルーの体に突き刺さり、ルーは苦しげなうめき声を出して倒れた。倒れ込んだ先は川の中で、ルーは水面に浮かびながらゆっくりと流されていく。
「ルー!」
ケイは川に入ってルーを引きあげようとしたが、駆け寄ってきた盗賊たちに捕まって、身動きが取れなくなった。
ルー、死なないよね?
不死身なんだから、矢が刺さっても生きてるよね?
痛くて苦しいかも知れないけど、大丈夫だよね?
約束してくれたじゃない。『大丈夫、俺がなんとかする』って。だからお願い。生きて、あたしを助けに来て……。
盗賊たちに押し倒され、衣服をはぎとられながら、ケイは祈った。
「いい体をしてるじゃねぇか、ケイ。こりゃあ楽しみだ」
白髪のアルがいやらしい笑みを浮かべながら近づいてきて、言った。彼はむきだしにされたケイの乳房を荒々しくつかむと、体をあわせてくる。アルの甘ったるい息をかぎながら、それでもケイは川を流されていくルーの姿を目で追っていた。
そして、股間にアルの男根が杭のように打ちこまれた瞬間、痛みに耐えながらケイは叫んだ。
「ルー!」
あたりは夜の闇に包まれていた。新月なので、月明かりもない。ただ、雲の切れ間から見えているわずかな星の明かりが、あたりをぼんやりと照らしていた。
ケイは裸のまま縛られ、低木にくくりつけられている。昼間とはうってかわって夜は冷え込み、弱い風が吹いただけで身ぶるいするほど寒く感じられた。
盗賊たちは入れかわり立ちかわりにケイのところにやってきて、男根を突っ込んでいった。男たちの精液でべとついていた股間も、今はかわいてひきつれるような感覚になっている。無理やり押しこまれたせいで、どこか切れたのかもしれない。痛みが残っていた。
しかし、体の痛みよりも、心の痛みのほうがおおきい。
ルーは死なないはずではなかったのか。その彼が助けに来なかったということは、ケイは彼に見捨てられた、ということになる。
見捨てられた。
仮に見捨てられたわけではないとしても、言いようのない喪失感からは逃れようがなかった。ルーが彼女を見捨てたのではない、とすれば、ルーは本当に死んでしまったことになる。死ぬことを求めていたルーは、望みどおりに死ぬことができたのである。
それはルーの助力を申し出たケイにとって、喜ぶべきことなのだろう。しかし、唯一の味方だったルーを失ってしまったことは、悲しむべきことだった。ましてや、ケイはルーを好きになりかけていたのである。彼の助けを必要としている今この瞬間に、近くにいてもらえないことが、なにより悲しい。
いずれ、盗賊たちがケイの体に飽きたら、ケイは殺されてしまうだろう。
ああ、こんなことになるんだったら、おとなしくアーマンのものになっていればよかった。アーマンにぶたれようが、なにをされようが、こんなところで死ぬよりはまし。
本当に?
あのアーマンの近くにずっといなければならない嫌悪感に、耐えられるの? あのくそったれの豚野郎に、一生飼い殺しにされることに、耐えられるの? 無理。耐えられない。あたしには夢がある。もちろん、アーマンなんかに邪魔されずに、幸せになる権利があって――。
ばかみたい。
アーマンから逃げ出そうとして、どうなった? エリーからお金を取りかえそうとして、どうなった? すべてが、悪いほうへ、悪いほうへと転がっていく。
どうせなにをやったって、おなじなんだ。いやなことばっかり。どう転んでも、あたしの人生はだめなまんま。
夢も希望も、なにもない。
あたしなんか、死んでしまったほうがいい。
ケイは自分が情けなくて、腹が立って、ルーの広い背中が恋しくて、泣いた。
そして、めそめそしている自分にいらだって、ケイは木に後頭部を打ちつける。
死んじゃえ。
あたしなんか、死んじゃえ。
何度もぶつけたが、痛いばかりで死ねそうもない。ならば、舌を噛み切って死のう、とケイは思った。前歯で舌をはさんでみたが、舌は思っていたよりも弾力があって、なかなか噛み切れない。顎に力を入れれば入れるほど、逆に舌のほうにも反射的に力が入り、余計に弾力を増す。ただ、歯に強くはさまれていることの痛みだけが、増していった。
どこかに傷がついたのか、血の味がした。しかし、それでも、噛み切ることだけは、どうしてもできなかった。
死ねない。
どうせろくな死に方ができないのなら、今すぐ死んでしまったほうがいいのに。
なのに、死ねない。
舌を噛むのをやめて、自分の血を味わいながら、ケイは自分を笑った。そして、再び後頭部を木に打ちつける。
もう、いや。
いやなのよ、こんな人生!
音を聞きつけたのか、寝静まっていた盗賊たちの中から白髪のアルが立ちあがり、ケイのところに近づいてきた。
「どうした、ケイ」
頭を木にぶつけているケイに向かって、アルが言った。しかし、ケイはアル無視して、頭を木に打ちつけ続けた。
「おい」
アルは言うと、ケイの髪をつかんで顔を近づけてきた。アルの甘ったるい口臭が嗅ぎとれる。
くさいから、はなれてよ。
ケイは、そう思った。
「どうしてほしい? 助かりたいか?」
そうね、それが可能なら、助かりたいわ。
「助かりたいなら、俺の女になれ。部下たちには二度と抱かせない。どうだ?」
みんな、あたしをほしがる。あたしの体だけ。男って、どうしてこんなにばかなんだろう。この男は、それであたしが『助かる』と、本気で思っているのだろうか?
「今はまだ十二人だが、いつかはもっとでかくなる。大盗賊団になるんだ。おまえは、その頭領の女になる。いい話だろ?」
ぜんぜん。ばかじゃないの?
「見れば見るほど、いい女だ。本当に、お前は最高だ」
アルは、またケイの体内に押し入ってきた。ケイの体は冷えきっていたが、なまあたたかいアルの肌に触れられて、逆に体がふるえた。
「こんなに冷え切って、かわいそうに。どうだ、あたたかくて気持ちいいだろ?」
ぜんぜん。
ケイの上でのアルの体の動きが、激しさを増してきた。
「ほら、いいって言えよ」
ぜんぜんよくない。
「くそ、なんとか言え」
ケイは無視して、自分の頭を木にぶつけつづける。
「おもしろくねぇな、もう壊れちまったか。お払い箱にする頃合だな……」
アルは不意に、ケイの首をわしづかみにした。
「知ってるか? 首をしめると、下もしまって気持ちよくなるって」
ケイはアルにされるがまま、喉への圧迫感に身をゆだねた。息が苦しいというよりは、喉がつぶれそうになっていることが苦しい。無意識のうちにケイは喉の圧迫に抵抗して力を入れ、歯をくいしばって耐えていた。
いけない。力を抜かなきゃ。
これで死ねるかな? もうすこし苦しいのを我慢していれば、楽になれるのかな?
しかし、なかなかその瞬間は訪れない。喉への圧迫感は耐えがたい痛みをともない始めた。記憶の片隅に、自分がエリーの首をしめている姿がよみがえってくる。エリーもおなじような苦痛を感じていたのだろうか、とケイは思った。
やがて、目がちかちかして、周囲のできごとが断片的に見え始める。
もうすこし!
しかし、不意にアルの動きがにぶくなった。ケイの体の上にのしかかったまま腰の動きが止まり、ケイの首をしめていた手がゆるむ。
ばか、なんでやめるの!
怒りを感じるのと同時に、ケイは激しくせき込んだ。咳で息を使いきり、あえぎながら息を吸おうとする。しかし、喉がつまったようになっていて、うまく息を吸うことができなかった。無理に吸おうとすると、喉がひゅう、と奇妙な音をたてて、すこしだけ空気が流れ込んできた。
なにか、変わったにおいの空気だった。
こげくさいような、甘いような、変なにおい。
首をしめられると、においまで変に感じるのかしら。
何度もせき込みながら、ケイがぼんやりとそんなことを考えていると、夜の闇の中から魔法のように半裸の男が姿をあらわした。男は口元を布切れのようなもので覆い隠し、ケイのところに近づいてくる。男はぐったりとしたアルの体をケイの上からどかすと、彼女の縛られた腕を解き、抱きあげた。
せき込むうちに意識がうすれてきたケイだったが、心のどこかで半裸の男がルーであることを確信していた。
ルー。
嬉しい……。
声を出そうとしたが声は出ず、しがみつこうとしても体は動かず、顔をよく見ようとしても目を開けていられない。
ケイは、ゆっくりと意識を失った。
とぎれとぎれの記憶の中で、ケイはあたたかな毛布にくるまれ、力強い男の腕に抱かれ、馬の背で揺られていた。
ケイが周囲の状況をはっきりと認識できるようになったときには、日は高く上っていて、地面の上で毛布にくるまっていた。目の前を、川が流れていた。そして、その川の水を馬に飲ませているルーの姿が見えた。
まるで二日酔いの朝のような、視界にもやがかかったような、なんとも不快な気分だった。
「ルー」
と言ったつもりだったが、声がかすれて出ない。
それでもケイの気配に気づいたルーは振りかえると、真面目な表情で言った。
「寝ていろ、ケイ。オオタカネムリソウの葉をいぶした煙を吸ったんだ。まだ体がだるいだろう。盗賊たちもたっぷり吸ったはずだから、追っては来られない。安心していい」
オオタカネムリソウ?
よくわからないが、助かったんだ、と感じた。
ルーは死ななかった。ケイを助けに来てくれた。そして、盗賊たちから逃げ出すことができた。
安堵感から、涙があふれてきた。
「ルー」
もう一度、ケイは言おうとしたが、やはり声にはならなかった。
ルーは彼女のところに歩み寄ってくると、毛布の上から肩をつかんで、軽く揺すった。
「眠れ。心配はいらない」
心配なんかしてない。
ありがとう、ルー。
ケイは、嬉しくて泣いた。泣きながら、眠りに落ちた。
その次に彼女が目覚めたときには、だいぶ気分がよくなっていた。彼女は馬の上でルーに抱きかかえられていて、手綱をにぎるルーの真剣な顔がすぐ近くに見えた。
「具合はどうだ?」
ルーの髭が、ケイの頬をくすぐる。ずっと黒だと思っていたが、近くで見るとところどころに褐色の髭が混ざっていることがわかった。
ケイはなにも言わず、ルーの胸に顔をおしつけた。
あたたかで張りのある肌の奥で、ルーの心臓の力強い拍動が感じられた。
「喉がかわいた」
思いつくままに希望を言ったが、声がかすれていて、まるで男のような低音の声になっていた。ルーが手綱を引き、馬は立ち止まった。ルーはひらりと馬から下りると、ケイを抱き下ろす。
「歩けるか?」
ルーの腕につかまりながら立とうとして、改めてケイは自分の体の状態を知った。まず最初に気づいたのは、はだしになっていたこと。足の裏にこまかい石が当たって、痛い。そして、股間の違和感。性器の外側がじりじりと痛み、内側にもなにか異物が残っているような感じがある。立とうとして足をふんばると、腿の内側も痛んだ。全身がだるく、しっかりと力が入らない。
水を飲もうとかがみこむと、性器の痛みは鋭いものに変わった。
不意に、ケイは盗賊たちに犯された事実を強く意識して、嫌悪感にとらわれた。性器だけではなく、盗賊たちが舌をはわせた場所や、盗賊たちに精液をかけられた場所が、不潔この上ないように感じられる。
ケイは体に巻いていた毛布を投げ捨てると、川に入っていった。川の中央まで行くと、深さは膝のすこし上くらいだったので、ケイはそのまま川底に腰をおろした。水を手ですくってひとくち飲むと、舌を噛んだときに傷がついていたらしく、水がしみて痛かった。痛みに耐えてもうひとくち水を飲んでから、ケイは自分の体を洗い始めた。
とくに性器の周辺は、自分でよく見ながら丁寧に洗い、状態を調べてみる。
二ヶ所にちいさな傷があったが、それほど深くないので洗ってきれいにしておけば大丈夫そうだった。性器の内側は、指を入れて触って確認してみる。とくに痛みもなく、傷があるような感じではない。
ふと顔をあげると、ケイが自分の性器に指を入れている姿を、ルーが見ていた。
目が合うと、ルーは困惑した表情を浮かべて目をそらせた。
「じろじろ見ないで」
「すまない」
ケイはルーが馬のほうに戻っていく姿を目で追いながら、すばやく全身を洗った。体のあちこちに痣やこまかい傷ができていたが、さほど深刻な状態ではないようだ。揺れる川面に映して、顔もよく見てみる。唇がすこし切れていて、口元と頬と目元に痣があるくらいだ。十二人の盗賊たちに犯されたわりには、悪くない。
しかし、腹は立つ。
いつもはお金をとって、この体を触らせてあげているのだ。その商品を、金も払わずに好き放題にするなんて、許せない。だいたい、ルーはなぜもっと早く助けに来てくれなかったんだろう。あんなひどい目にあわされる前に、助けにきてくれることだってできたはずだ。
ケイはそう思って、ルーを見た。ルーは律儀に言いつけを守り、ケイに背中を向けている。
「ねえ、ルー。どうしてあのとき、すぐ助けてくれなかったの?」
「いつ? 十二人に囲まれたときに? 俺一人ならなんとかできたかもしれないが、もしも君を盾にとられたら俺はなにもできなかった」
ルーはうしろを向いたまま、言った。
「あのときは、いいよ。そのあと。あんなに遅くまで来ないなんて、ひどいよ。あたし、見捨てられたと思った」
「十二人を相手に、君を人質にされない方法を考えていたんだ。オオタカネムリソウは、この荒野に生える麻薬の一種で、催眠効果があることを思い出した。十分な量を集めるのに時間がかかってしまった」
「だって、その間、あたしはあいつらに繰りかえし犯されていたのよ!」
声に出して言ってみてはじめて、ケイは自分がどんなに傷ついているのかを悟った。
腹が立っているんじゃない。
くやしいんだ。
あんなふうにされて、なにも手出しできなくて、自分の無力さがくやしくて仕方がないのだ。ルーを責めてもなんの意味もないし、本当はルーに感謝をしなければならないことはよくわかっているのに、ケイは自分の感情をおさえることができなかった。
なんとか言ってよ。
黙ってないで、なんとか言ってよ、ルー!
しかし、ルーは背中を向けたまま、押し黙っていた。
くやし涙があふれてきて、ケイはそれを隠すために川の水を顔にかけた。
川面に映って揺れている自分の顔が、どうしようもなくゆがんで醜く見えた。
最低。
ケイは揺れる自分の顔めがけて手のひらをたたきつけた。水音と一緒に、ちいさな水しぶきが周囲に飛び散る。
しかし、あいかわらずケイの顔は川面で揺れていた。
あたし、最低。
ケイはうんざりして、目を閉じた。
二人は川沿いに進んで街道に出ると、そのまま西の大都市・ホールに向かった。
毛布を体に巻いて、ケイはルーの前に乗っていた。彼女はルーの息も体温も感じられる場所にいたが、会話はなかった。
ルーは、ケイに非難されても、なにも言わなかった。
その無反応さに腹が立って、ケイは余計にきびしい言葉をルーにぶつけた。そんなことを繰りかえすうちに、二人の間には言葉がすくなくなり、気づまりな沈黙が増えた。
空腹も、ケイをいらだたせる。
ルーが川沿いや道端に生えていた草の中から食べられるものを選んでくれたが、とてもわずかな量で、しかも苦くて最悪の味だった。
「まずいよ、これ」
ケイが文句を言うと、ルーはこう答えた。
「味は悪くても、体にはいいんです。疲れもとれますよ」
むろん、それっきり会話は途絶えてしまったのだが、言葉がつづかないことよりも、ルーの口調がひどく丁寧なものに戻ってしまったことが、ケイの心を苦しめた。彼と会った最初のときもそうだったが、ルーはなにかに怯えるように自分の感情を押し殺して、過剰なまでに丁寧にケイに接していた。
あらためて、ケイに変な気をつかわず素直に話をしていたときのルーが、いかに生き生きとしていたのかを痛感させられる。
あたしのせい。
あたしがルーを責めたせいで、彼は殻の中に閉じこもってしまった。まるで鉄仮面をかぶっているように、無表情になっている。
助けてもらったことに、感謝してるのよ。
あたしを物としてじゃなく、人として扱ってくれるから、好き。
なのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。
すごく近くにいるのに、どうしてこんなに遠く感じるの?
あたしが素直じゃなくて、いやな女だから、なんだよね。
ごめんね、ルー。
あたしなんか、見捨ててくれればよかったのに。
こんなあたしなんか助けても、『よきこと』にならないよ。
そこまで考えて、ケイは現実に引き戻された。
ルーは、『よきこと』をするために、ケイを助けている。それは、ルーにかけられた不老不死の呪いを解くため。そして、ルーが、死ぬため。
最初は、ルーがかわいそうだと思った。ひどい苦しみに包まれながらも死ぬことができないルーを、生きることの苦しみから解放してあげたいと思った。しかし、本当に自分はルーに死んでほしいと思っているのか、ケイには判然としないのだ。
馬を操るルーの顔を、ケイは見あげる。
ほんの短い間で、すっかり見慣れてしまった汚れた顔。きれいにしていれば、けっこう見栄えのいい男になれそうなのに、彼はわざわざ乞食の格好をしている。ぼさぼさの黒髪と髭もあいかわらずで、けっきょく最後まできちんと洗うことのできなかった体は、すえたようなにおいが残っている。
他人を憎んで、人を殺して、その代償として不老不死にされてしまったルー。永久に死ねないことをおそれて、『よきこと』にがんじがらめに縛られて、身動きができなくなっている、そんなルー。
「どうかしましたか?」
ルーは、ケイが自分を見つめていることに気づいたらしく、言った。
「もしかして、ルーは『よきこと』のために盗賊たちを殺さなかったの? ゾフ一家の連中からあたしを助けてくれたときも、できるだけ相手を傷つけないように心がけていたみたいだけど」
ふと思いついて、ケイはたずねてみた。
「そうです。でも、そのせいで、ケイが苦しむことになってしまいました。『よきこと』をしようと二十年間ずっと努力してきましたが、今はもうなにが『よきこと』なのか、わからないのです」
ケイにも、わからなかった。彼女は話を変えた。
「あたしね、盗賊のアルに首を締められてるとき、はやく殺してほしいって思ってた。一刻もはやく死んで、ひどい目にあわされないように、って。でもね、ルーが来てくれて、助けてくれて、嬉しかったよ。死なずにすんで、よかったって思った」
「そうですか」
沈黙。
ケイは黙ってしまったルーの顔を見つめる。彼の顔はあいかわらず無表情のままだ。
「ルーは、ほんの一瞬でもいいけど、生きててよかったと思ったことはない?」
「ないですね」
また、沈黙。
「どうして?」
ばかな質問だと、ケイ自身思った。しかし、ほかに言葉が浮かばなかったのだ。それでも、ルーは真面目に答えてくれた。
「人間が嫌いなんですね、きっと。もともと嫌いだったのは兄であり、両親であり、使用人たちだったのですが、そのうちに広い意味ですべての人間がみんな嫌いになってしまったのです」
「あたしのことも、嫌い?」
「嫌いですね」
悲しすぎる。
ルー、悲しすぎるよ。
「ルー自身も人間だけど、それでも嫌い?」
「大嫌いです」
胸が張り裂けそうだった。どうしたら、そこまで心が傷んでしまうのだろうか。どうしたら、ルーは人を好きになることができるのだろうか。しかし、それはルーの問題で、ケイの問題ではない。ケイがなにか言ったところで、なにひとつ解決しないだろう。
それが、ケイには苦しかった。
ねえ、ルー。そんな気持ちのままでいたら、ぜんぜん『よきこと』じゃないよ。嫌いな人を助けるのが、本当にいいことだと思う?
そう問いかけたい気持ちをおさえて、ケイはつづく言葉を探した。
「残念ね。あたし、嫌われてるんだ」
ルーはなにも答えなかった。
「誰かを好きになったことは、ないの? 誰か、この人は特別だ、って思えるような女の人に出会ったこととか、そういうことは?」
この日はじめて、ルーの鉄仮面のような表情が揺れた。
「いませんね」
表情と口調から、ケイはルーが嘘をついていると察した。
好きな人がいたのだ。なにかの理由で、別れなければならなかったのだ。そして、心には傷が残ったままになっている。不老不死の呪いは、体の傷はどんなに回復することができても、心の傷は消せない。
ルーの抱える傷の痛みが、ケイにも感じられるような気がした。
ケイの目には、ルーは、傷つくことに怯えたか弱い子供のように映った。
そんなに閉じこもっちゃだめ。怯えることなんかない。そこから出てきて、あたしを見て。
そう言ってルーを抱きしめたい思いに駆られたが、ケイの両腕は毛布にくるまっていて、外には出せない。
ケイはルーの胸に頬をそっと寄せると、つぶやいた。
「不器用だね」
頬にルーの体温を感じながら、鼻ではルーの体臭をかぎながら、耳にはルーの静かな息を聞きながら、ケイはもう一度言った。
「不器用だね、あたしたち」
しばらく沈黙があったあと、ルーがうなずく。
「…そうですね」
馬は二人を乗せて、西へと向かっていった。
街道沿いには、ちいさな宿場街が点在していた。普通の旅人たちは、そこで旅の疲れを癒し、先の道のりを行くための英気を養う。しかし、ここのところ相次いでいた盗賊さわぎのせいか、街道には人の姿がほとんどなく、宿場街も閑散としていた。
ケイとルーが通りがかると、客引きが熱心に二人に声をかける。が、もちろん、ケイとルーには宿に泊まるなどという贅沢は許されなかった。
全裸で毛布を体に巻きつけているだけのケイ。腰に布切れを巻きつけているだけのルー。二人とも、金はまったく持っていない。唯一の財産らしい財産は、ルーが盗賊から奪ってきた毛布と馬だけである。馬を売って衣類を買い、ちゃんとした食事をとり、あたたかなベッドで眠る、という選択も、できないわけではない。
しかし、そうする気には、なれなかった。
盗賊たちが追ってくるかもしれない。
リノでエリーを殺してしまったことで、ケイを捕らえようと街道を追ってくる者がいるかもしれない。
あのしつこいアーマン・ゾフが、簡単にケイを見逃すとも思えない。
そして、その三者のいずれからも、ケイは逃げなければならなかった。当然、彼らは馬を持っているので、徒歩で逃げていたのでは追いつかれてしまう可能性が高くなる。だからこそ、ケイたちも馬を手放すわけにはいかないのだ。
にがい草を噛んで空腹をまぎらわせながら、二人は休むことなく、街道を西へと移動していた。
沈んでいく太陽の光で、すべてが茜色に染まっている。
そんな中で、ケイは前方にちいさな建物と人影をみつけた。建物は農民の住むのあばら家といった風情で、その前には小柄な老婆が立っている。沈みかけた夕日に照らされて、老婆の影がどこまでも長くのびていた。
その老婆が、二人に向かって呼びかける。
「あんたがた、どうしたね?」
ルーは老婆の前で馬を止めた。
「どうした、というのは、どういうことですか?」
「そんな格好して、着るものはないのかね」
ふと、ルーは気遣うようにケイを見た。彼自身は半裸でいることに慣れていて気にならないものの、ケイが毛布を体に巻いているだけ、という状況を気にしているらしい。
「盗賊に襲われて、とられちゃったの」
隠す理由がなかったので、ケイは正直に言った。
「それはかわいそうに。うちにある着古しでよければ、あげるよ。もっていきな」
「でも…」
突然の申し出に戸惑って、ケイはルーを見た。
ルーは無言で、首を横にふっている。
「気にしないでいいよ。毛布を体に巻いているよりはまし、という程度のボロしかなから」
老婆は言うと、あばら家に入っていく。
「ルー?」
「のんびりしている時間は、ありませんよ」
「わかってる。でも、服があったほうがいいよ」
「『ただのものが一番高価なもの』ということわざを知っていますか? 施しを受けるのは簡単ですが、それに甘えてはいけません。いつか、その借りは自分にはねかえってきます」
「わかってるけど」
「二人とも、入ってらっしゃい。服を選んでおくれ」
あばら家の中から老婆が声をあげる。
「服、もらっておこうよ。ルーも、その格好に慣れたって言っても、夜は寒いでしょ?」
「しかたないですね」
ルーはため息をついて、馬から下りる。そして、ケイに手を差し伸べて、彼女が馬から下りるのを手伝った。
ケイはずっと馬に乗っていたせいで痛くなっていた腰をのばして、おおきく息を吐く。その様子を見ていた老婆が、微笑んだ。
「疲れたのかい? なんなら食事も出すし、一晩泊まっていってくれてもいいんだよ」
なんて親切な人だろう。
ケイは久しぶりに人のあたたかさに触れた気がして、嬉しくなった。
「ねえ、ルー…」
泊めてもらおうよ。そう言おうとしたケイをさえぎるように、ルーはきっぱりと老婆に言った。
「それは遠慮させていただきます。先を急いでいますので」
「そうかい。なら、服だけ、ね」
老婆が、二人をあばら家に招き入れる。
あばら家は、ずいぶん痛んでいて、かびのにおいが満ちていた。暗くてこまかいところまでは見えなかったが、よほど貧しい生活をしているのか、家財道具もほとんどない。
「あの奥の棚に服が入ってるからね。好きなものを選んで着替えとくれ。あたしゃ、外に出て着替えが終わるのを待ってるよ」
老婆はあばら家を出ていった。
ケイはルーと顔を見合わせると、あばら家の奥に向かって足を踏み出す。と、馬のいななきとともに、馬が走り出す音が聞こえた。
あわてて二人があばら家から飛び出すと、二人が乗ってきた馬にまたがった老婆が遠ざかっていくところだった。
いったい、なんなの?
状況がのみこめずに、ケイはルーの顔を見る。ルーは怒りに満ちた顔で、つぶやくように言った。
「やられた。あのババアは、盗人だ」
「でも、だって、服をくれるって言ったよ? すごくやさしそうなおばあさんだったし…」
言いながら、ケイは自分の言葉がひどくむなしいことに気づいた。
「まあ、人間なんて、信じるもんじゃないってことさ。いい教訓だ」
ルーが吐き捨てるように言うのを聞きながら、ケイはその言葉を否定できない自分に気づいて、気が重くなった。
「あまり期待できないが、服がないかどうか見てみよう」
ルーがあばら家に戻る様子を眺めながら、ケイはこれから先のことを考え、途方に暮れていた。
馬に乗った追っ手があとから来るかもしれないのに、歩いていかなければならない。
人を信じた、その結果がこれ。
あの老婆もだまし、奪う。盗賊たちも、奪う。エリーでさえ、だまし、奪う。
世界は、そういうふうにできてるんだ。
ばかみたい。
本当に、うんざり。
「ちくしょう!」
ケイは叫んだ。
あの老婆の笑顔が、腹立たしくて仕方ない。盗賊たちも、エリーも、なにもかもが、許せない。簡単にだまされた自分が、憎くて仕方ない。どこにも怒りをぶつけられないことが、情けなくて仕方ない。自分とあのろくでもない連中が、おなじ太陽の下でおなじ空気を吸っておなじように存在しているという事実が、どうにも我慢ならない。
「ちくしょうっ!」
もう一度、ケイは叫んだ。
物があったらたたき壊したい心境だったが、壊せるものすらない。
ケイは目を閉じ、おおきく息を吐いた。
結局、あばら家はただの廃屋で、めぼしいものはなにも残されていなかった。
二人は裸足のまま西のホールに向かって歩く。裸足で歩きなれないケイのために、ルーは毛布の端を切り裂いて包帯のようにして、彼女の足に巻いてくれた。おかげで、小石を踏むたびに痛くて足を止めてしまうことはなくなった。
しかし、どうにか普通の速さで歩けるようになったというだけで、状況はなにひとつ好転していない。いつ追いついてくるかわからない追っ手の存在におびえながら進む道のりは重苦しく、神経のすり減るものだった。
「ルー、あとどのくらい歩くと、ホールにつくの?」
「十日くらい、かな」
すでに、馬を奪われてから丸一日、ほとんど休みなく歩いていた。再び日が沈んでいく様子を眺めながら、ケイはあと十日の歩きを想像して、目の前が暗くなる思いがした。
ただひとつ、ケイにとっての救いは、馬を奪われて以来、ルーの口調が以前のようなぶっきらぼうな話し方に戻っていることだった。気持ちを押し殺して変に丁寧な話し方になっていたときと比べて、ずっと気軽に話をすることができる。
まだ十日もかかることの愚痴を言おうとしたとき、ケイの腹が鳴った。
音に気づいて振りかえったルーに、ケイは照れ笑いをかえした。
「大丈夫。気にしないで」
「気になる」
「がまんするから」
「まだ先は長い。食べられるときに食べておこう」
ルーの言葉に、ケイは考え込んだ。
すでに、この上ないほど疲れている。踏み出す足はひきずりがちだし、膝もがくがくしている。ふくらはぎは張っていて、腰も痛い。今もし休憩のために座り込んだら、とても立てそうになかった。
こんな状態で、さらに十日も歩けるだろうか。
無理にも思えるが、歩きつづけるしかないことは、彼女自身がよく理解していた。
「大丈夫」
「休憩しよう」
「休みたくない」
「俺が休みたいんだ」
ケイを休ませようという意図が見え見えの言葉に、ケイは思わず言いかえした。
「不死身の人間が、そんなに疲れるわけないでしょ」
ルーはケイを見る目をふと細めると、ため息をついた。
「俺だって疲れる。ケイとおなじように腹も減るし、喉だって渇く。切られたり刺されたりすれば、痛い。俺が特別なのは、『死なない』という点だけだ」
そうだった。
わざと突っかかるような言い方をしてしまったケイは、自己嫌悪におちいりながら、ルーの顔から視線をそらした。
「ごめん」
「すこし休もう。疲労は人の心をとがらせる」
街道からはずれて、木々の間に分け入っていくルーのあとを追いながら、ケイは声をかけた。
「ルーも疲れてるんだよね?」
「もちろん」
「でも、心はとがってない。やさしいよ」
ルーは鼻で笑うと、なにも言わずに地面から雑草を引き抜いた。あの草が、今日の夕食になるらしい。
あの草はひどく渋いのだが、なにもないよりはましだった。
できる限り最善の方法で、ルーはケイを守ろうとしてくれている。光のかけらを見つけるため、という動機があるのかもしれないが、それでもルーは誰よりもやさしかった。
ルーはなによりも、自分のために行動している。それを、隠そうともしない。光のかけらを手に入れるためにケイを助けるのだ、と言ってはばからない。『ケイのために』と言って勝手にあれこれ押しつけてくるようなことは、しないのだ。それが、ケイにとってはなによりも嬉しいことだった。
むろん、ケイを助けることが『よきこと』ではない、と判断した瞬間に、ルーは彼女を見はなすだろう。そうなってしまうかもしれない、という恐怖感は、いつも存在している。しかし、その瞬間までは、ルーはぜったいに彼女を見捨てることはない。
ケイは、そう確信していた。
その愚直さこそがルーの魅力でもあり、ケイがこれまでに出会ったことのなかった『やさしさ』の形なのだ。
やさしくて、強い、ルー。
そんなケイの気持ちが伝わったのか、ルーは首を横にふりながら、ため息まじりに言った。
「俺はやさしくなんかない。臆病なだけだよ。光のかけらがずっと見つからないかもしれない、という可能性におびえて、逃げ回っているだけだ」
そう、ルーは弱くもあるわね。
ケイは思わず微笑んだ。
やさしくて、冷たくて、強くて、弱い、ルー。
腰をかがめて食べられそうな草を摘んでいるルーの背中を見ながら、矛盾に満ちた彼という存在を思い、ケイは胸をしめつけられるように感じた。
心が、くるしい。
男をその気にさせて、自分を抱かせるように仕向けることは、得意だ。その気になった男を翻弄して、より気持ちを昂ぶらせることにも長けている。感じているふりをして、男を満足させることだってできる。
でも、考えてみたら、ケイはただの一度も、自分の意志では行動していなかった。相手の反応を見て、それに応じて相手がより気に入るように行動するだけ。ケイ自身がどうしたい、という意思など関係なしに。
それが今、ケイは心の底からルーを抱きしめたいと感じている。
ルーになにかをしてほしいわけではなく、ただ、抱きしめたい。
彼の強さも、弱さも、すべてをこの腕に受け止めたい。
「ルー?」
ケイは声をかけたが、その声はすこし上ずっていた。
「ん?」
ルーは首をかしげた。その顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。
その表情が、いとおしくて仕方ない。
ケイは体に巻いていた毛布を投げ捨てると、ルーにしがみつく。疲労のたまった足がもつれて、全体重を彼に預けるような格好になった。
体勢を崩したルーは、そのまま地面に倒れこむ。ケイはルーを強く抱きしめて、その肌を唇で吸った。
くさい。
しょっぱい。
でも、あたたかい。
やわらかくてしなやかで、かたくてゴツゴツしてる。
いいところと、悪いところ。
強いところと、弱いところ。
それが、すべてなんだ。
ケイは五感のすべてを使ってルーを感じながら、胸いっぱいに彼のにおいを吸い込んだ。
「どうしたんだ?」
「別に」
言いながら、ケイはルーを抱く腕に力を入れる。
こんなに満ち足りた気分になったのは、はじめて。
ルー。
ずっと、こうしていたい……。
眠らずに歩きどおしだった疲労が、ルーと一緒にいられることの満足感と重なって、ケイを夢の世界に引き込んでいく。
眠りに落ちる直前、ケイが最後に感じたのは、ルーの力強い心臓の鼓動だった。
ケイが目をさましたとき、ルーはまだ眠っていた。
そのおだやかな寝顔を見ながら、ケイは心が熱くなるのを感じた。
一緒に眠ることだけで満足できた、はじめての男。
ルー。
唇は荒れているが、やや厚くおおきく、やわらかそうに見える。髭は黒く長く伸びていて、握りこぶしひとつ分ほどの長さがあった。鼻はすこしだけ横に広がった形をしていて、鼻の穴からは太い鼻毛が数本飛び出している。頬はこけ、えらがわずかに張っているように見えた。目を閉じていても、二重まぶたであることをしめすシワがしっかりと刻まれていた。思いのほか、まつげは長い。きれいにそりかえっているところなど、女の子のようだ。顔は汚れているが、顔立ちそのものは女性的で整っている。
なんて魅力的なんだろう。
とくに、安らかに眠っている顔は。
まるで子供のように無邪気な寝顔。
ケイはもっとよく彼の顔を見ようとして体を動かした。その拍子にルーが起きて、目を開ける。
ルーの目は濃い茶色をしていて、濡れていた。
「おはよう、ルー」
「おはよう」
ふとルーの目頭に目やにがついているのを見つけたケイは、それを舐めとった。しょっぱくて、すこしだけ渋みのある目やにの味が口の中にひろがる。
突然に目を舐められて戸惑いの表情を浮かべたルーを、ケイは抱きしめた。
「好きだよ、ルー」
ルーは無言のまま、表情を曇らせる。
ケイは不安に駆られた。
あたしのことを、ルーは好きじゃないのだろうか?
かつて愛して、でも、別れなければならなかった人のことを忘れられないのだろうか。
そういえば、彼は人間が嫌いだと言っていた。
あたしのことも、嫌いだと。
じゃあ、どうしてこんなことを許すの?
どうしてあたしを遠ざけようとしないの?
どうして?
しかし、ケイの思いは言葉にならなかった。
「ルー……」
ケイは彼の名を呼び、強く抱きしめた。このままひとつになりたい。彼を包み、溶け合いたい。
「俺は怖い」
ルーはケイの耳もとで、そうささやいた。
「なにが?」
「俺は死なない。それは、愛した人が老いて、死んでいく姿を見なければならないということだ。俺は不変で、周囲だけが変わっていく。取り残されるのが、怖い」
ケイは抱きしめる腕に力を入れた。
「誰を愛しても、一緒よ。どちらかは、どちらかより長生きするじゃない。誰かは、誰かに取り残される。そういうふうに世界はできているのよ。それを怖がっていたら、なにもできないよ。勇気を出して」
ルーは再び沈黙した。
「ねえ、ルー。聞いてる?」
「ああ、聞いてる」
「あたし、ルーのことが好きだよ」
「ありがとう」
「そうじゃなくて、ルーの気持ちは?」
また、沈黙。
その沈黙を破ったのは、聞きなれない男の声だった。男の声は、ケイの背後から聞こえた。
「お楽しみのところすまないが、起きてくれ」
驚いて振りかえると、そこには浅黒い顔色の坊主頭の男が立っていた。近づいてくる足音もなにも聞こえなかったが、男はケイとルーのすぐ脇に立ち、手にした山刀の切っ先をケイに向けている。
盗賊?
ケイは、自分を犯した盗賊たちの中に、この坊主頭の男がいたかどうかを思い出そうとした。しかし、大半の時間を苦痛から逃れるためになにも見ず、なにも感じないようにしていたため、思い出せない。
「男は寝たまま、女は立て」
言われるままに立ちあがったが、すぐにケイは自分が裸であることを思い出した。乳房と股間を手で隠してみたが、坊主頭の男はケイの裸には興味がないようだった。
「おまえは立つな」
鋭い声で、ルーに向かって言う。
しかし、ルーは男の言葉に反して立ちあがると、男に一歩近づいた。男は目にも止まらない動きでケイをつかまえると、山刀を喉にあてた。
「おまえは、切っても死なないと聞いた。しかし、彼女が傷つくのは困るだろう? おとなしくしていてくれれば、無用の流血は避けられる。だから、下がれ」
男の口調は淡々としていた。
ルーは足を止めたが、引き下がろうとはしなかった。
「彼女が傷ついて困るのは、そっちもおなじじゃないですか? あなたはゾフ一家の人間でしょう。あなたのボスは、彼女が傷つくことを望んでいないはずです」
そのルーの言葉を聞いて、男は笑いながら山刀をおさめた。
「そこまで読まれてるんじゃ、しょうがないな。おまえは死なない、その上、格闘にも強いという話だ。喧嘩して勝てる相手じゃない。俺にできるのは、足音を忍ばせて、他人の足跡を追うことだけだからな」
ルーは、黙ったままケイの腕をつかんで自分のうしろにかくまい、男と向かい合った。
「なぜ、仲間を呼ばないんです?」
「仲間? あんな連中、仲間でもなんでもないね。一緒にされたら、こっちが迷惑だ」
「答えになっていません。一緒に追ってきたゾフ一家の人間がいるんでしょう? どこにいるんです?」
「ちょいと抜け出してきたのさ。足跡が新しかったんでね。このへんで捕まえられそうだと思った。だが、連中に引き渡す前に、確認したいことがあった」
「確認したいこと?」
「そう。おまえが本当に死なない人間なら、どうすればそうなれるのか、知りたい」
今度はルーが笑う番だった。
「やめたほうがいいですよ。あなたが思っているほど、不老不死はいいものではありません」
「その判断は、俺がするよ。どうしたら不老不死になれる?」
「わたしは魔法使いを殺し、その魔法使いが死に際に残した呪いによって不老不死にされました」
男は苦笑しながら頭をかいた。
「おいおい…そんなに厄介なんじゃあ、俺が手に入れることはできそうにないな」
「『神は、望む者には与えず、望まない者に与え賜う』という言葉、ご存知ですか?」
「ロークの詩か。おまえ、きたないなりをしているが、意外に学があるな」
「そっちこそ、野蛮な連中と一緒にいる人間にしては、まともですよ。アーマン・ゾフのために働くようになった特別な理由があるんじゃないですか?」
「おまえの知ったことじゃあるまい? よく聞け。俺は、おまえたちが逃げようと、捕まろうと、正直なところどっちでもいいと思ってる。ゾフから俺に与えられた命令は、女を生け捕りにしろ、ではなく、女を捕まえる手伝いをしろ、ということだった。俺もたまには失敗して、あんたらの足跡を見失うことだってある」
「見逃してくれるの?」
思わずケイが二人の会話に割り込んだ。
「人聞きの悪いことを言うな。俺は足跡を見失った。そういうことだ」
ケイは嬉しさのあまり、男に駆け寄って手を握った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
男が、はじめてケイが裸であることを意識したように、戸惑いの表情を浮かべた。
次の瞬間、ケイはなにかが風を切る音を聞いた。
一瞬遅れて、その音の正体が矢の音であることに気づいたときには、すでに矢はルーの胸に深々と突き刺さっていた。ルーは苦痛に顔をゆがめ、矢を引き抜こうとしたが、すぐに別の矢が飛んできて、今度は腹に刺さった。ルーは地面に膝をついた。
「ルー!」
助けに行こうとするケイの手を、坊主頭の男がつかむ。
「だめだ。あんたに矢が当たる」
「はなして!」
ケイは男の手を振りほどくと、ルーをかばうように立った。矢をつがえている男と、その周囲に集まっている数人の男が見える。何人かは、ケイにも見おぼえのある、ゾフ一家の男たちだった。
「ケイ、逃げろ」
ルーが苦しげに言う。
「いやよ」
ケイは、ルーの体から矢を引き抜こうとつかんだが、矢はルーの胸にしっかりと刺さっていて、びくともしない。
「毒矢だ。俺は死ぬことはないが、しばらくはケイを守ってあげられるほどの力を出せそうもない。逃げろ」
ルーがあえぐ。
「いや」
ケイの答えを聞いて、ルーの表情に失望の色が浮かんだ。彼は、坊主頭の男に目を向けて、声をかける。
「お願いです、彼女を逃がしてやってください」
「悪いな。俺にも都合ってものがあるんだよ」
「ひとりで抜け出して、勝手にわたしたちと接触したことで、じゅうぶん困った立場に置かれているのでは? それなら――」
「まあ、できるだけ言い訳してみるさ」
ケイは、あきらめずに矢をつかみ、全身の力をこめて引き抜いた。ルーは苦痛のあまりうめき声をもらしたが、それでも矢は抜けた。
黒光りしている矢尻には、かえしがついていて、それが矢を引き抜きにくいようにしていたらしい。かえしの部分には、ルーの体からとれてきたちいさな肉片がついていた。肉片はみるみる皮膜のようなものに覆われて、丸くなった。ルーの胸の傷口にもおなじような皮膜ができて、ちいさなくぼみになっている。
ケイはすぐに状況を理解して、その肉片をルーの胸の傷口に押し込んだ。肉片はルーの体に吸い込まれるように消え、胸は元のようになめらかになる。
さらに彼女はもう一本の矢を引き抜こうと手をかけたが、ルーに手を払われた。
「行け、ケイ。逃げろ」
「いやよ。ぜったい」
ケイは駆け寄ってくる男たちの足音を聞きながら、矢を引き抜こうと躍起になっていた。しかし、矢が抜けるよりもはやく、男たちに捕まえられてルーから引きはなされる。ケイは完全に頭にきて、自分の腕をつかんでいる男の手に、力いっぱい噛みついた。血の味が口にひろがり、男の罵声が聞こえて、片手が自由になる。
ケイは自由になった手をルーに伸ばした。
しかし、彼女の手はルーに届かず、二人は引きはなされた。
「はなして!」
ケイの叫びだけが、むなしく辺りに響いた。
猿ぐつわをかまされてうしろ手に縛られたケイは、男たちのやりとりを不安な気持ちで聞いていた。
すこしはなれたところでは、おなじように縛られたルーの姿も見える。
「やったっていいじゃねえかよ」
やる、とは、ケイを犯す、という意味だ。
「ばか言え、ゾフの旦那になんて言うつもりだ?」
「別に。ひとこと言えば済むさ。淫売に誘われたから抱いただけだ、ってな」
「女が否定したら?」
「誰が淫売の言うことを信じる? しかも、過去にゾフの旦那をだまして逃げ出した女だ。旦那だって信じるはずもないさ」
あたしがだました? だましたのはアーマンのほうじゃないのさ!
ケイは反論したい気持ちでいっぱいだったが、猿ぐつわのせいでなにも言えなかった。
「それに、見ろよ。いい女じゃねえか。エリーの娼館でも最高級の女だ。俺たちが持ってる程度の金じゃ、こんな女を抱ける幸運には一生恵まれねえぞ」
「……やるか?」
どうやら話はまとまりつつあるようだった。
まったく、男どもときたら、みんなどうして考えることが一緒なのだろう。女を見れば、犯すことしか考えない。すこしはルーの高潔さを見習ったらどうなの?
そう思いながら、ケイはルーを見た。ルーはすでに毒からは回復しているようだったが、沈んだ表情をしてうなだれている。なにが彼の心を苦しめているのか、ケイにはそれが心配だった。
もっとも、彼女は自分の身を心配しなければならなかった。男たちがゆっくりと近づいてくる。
「やめねぇか、てめえら!」
そう怒鳴ったのは、あの坊主頭の男である。彼もまた手を縛られていて、すこしはなれた場所に立たされていた。
「ドニ、おまえは自分の立場ってものをわかってるのか? おまえは裏切った。こっそり抜け出して、勝手にこいつらと接触したんだ。おまえの様子が怪しいと思って見張っていたのが正解だったよ。戻ったら、女房ともども地獄行きだな」
「妻は関係ないないだろう!」
ドニと呼ばれた坊主頭の男は、色を失った。
「それは、ゾフの旦那が判断することさ」
男は残酷な笑みを浮かべると、ケイに近づいてきた。どうやら彼がリーダー格のようで、最初にケイの味見をしよう、ということらしい。
「さて、どうされるのが好みだ?」
このクソ野郎、どうしてやろうか。
ケイは一瞬考えて、最高のアイデアを思いついた。猿ぐつわをはずすように男に目でうったえると、男は嬉々としてケイの猿ぐつわをはずした。その男に、なるべく媚を含んだ口調で、言ってやる。
「ねえ、あたしの口に入れて。あんたのをなめさせて」
「おい、聞いたか?」
男はあわれなくらいに無邪気に喜び、着衣を脱ぐと、半分勃起しかけの男根をケイの口もとに突き出してきた。ケイは陰部独特の悪臭に耐えながら顔を近づけ、男根に渾身の力を込めて噛みついた。
「ひぃっ」
男は情けない声を出して、腰を引こうとする。
しかし、ケイは噛みついたまま意地になってはなさない。男の血の味が、ケイの口の中に広がる。
噛み切ってやるから、覚悟しなよ。
ケイはそう思いながら、なおも顎に力を入れつづけた。
男がケイの顔を殴る。
ケイはそれでもはなさない。
男の仲間たちが集まってきて、ケイの口を無理矢理こじあける。ようやくケイの歯から解放された男は、男根から大量の血を流しながら泣き叫び、その場にうずくまった。
ケイは口の中にたまった血を吐き捨てると、男を怒鳴りつけた。
「あたしとやりたいなら金を持ってきな、このゲス野郎!」
口の中に残った血の味が不快で、ケイはもう一度つばを吐く。
誰かに頬を張られて、今度はその手に噛みつこうとした。近づいてくる男を、縛られた両足で蹴って突きはなす。
「さあ、来なよ。いつでもあたしが相手してあげる!」
ケイの剣幕に、男たちが半歩下がった。
遠巻きにした男たちを、ケイはまんべんなく見回す。
「あたしとやりたい男は、まだいるの?」
男たちは明らかに気おされた様子で、黙り込んでいた。ただ、男根をケイに噛まれた男だけが、悲鳴とも嗚咽ともとれない細い声を漏らしている。
不意に一人の男が動くと、ケイの首をうしろから抱え込み、口に猿ぐつわをしようとした。ケイは口をしっかり閉じて抵抗したが、無理矢理に口をこじあけられ、猿ぐつわを押し込まれる。
「あんまり騒ぐんじゃねえ。このくされまんこ!」
男の言葉に腹を立てて、ケイは体をよじって暴れた。そこに、別の男がやってきて、ケイの頬を張った。
なにすんのよ!
怒ったケイが、自分の頬を張った男をにらみつける。すると、今度はケイの腹を強く殴りつけてきた。
息がつまり、ケイは体を折り曲げる。
苦しくて、なにも考えられない。
息が。
息ができない。
息を吸い込みたいのに、どうしても体の中に空気が入ってきてくれない。
「おい、誰かこいつの足を押さえてろ!」
どこかで男が怒鳴るのを聞き、足を強引に広げられるのを感じた。性器に硬い男根が押し込まれたときも、ケイには空気を求めてあえぐことしかできなかった。
世界は、無慈悲だ。
男たちはひどく攻撃的で、横暴で、利己的で……どんな言葉を使っても表現しきれない邪悪さをもって、ケイに接した。
ケイが抵抗すると、男たちはケイを殴る。
腹を殴ることが効果的であることを学んだ男たちは、ケイがもっとも苦しむみぞおちを殴って、彼女が動けなくなったところを犯した。
やがて、ケイは抵抗する気力を失い、すべてを受け入れた。
世界は無慈悲にできているのだ。
ケイは、殴られ、犯されるように生まれついた。
幸福など、どこにもない。
邪悪なものが勝つように世の中はできている。
弱いものはいつでも負けるように、世の中はできている。
ケイにできることは、男たちを受け入れることだけなのだ。
リノの街に連れ戻される間ずっと、ケイは繰りかえし犯された。数すくない『まともな男』であるルーとドニは、縛られて無力なまま、ただ遠くからケイが犯されるさまを見ていた。
二人はどんなことを考えているのだろうか。
自分の体の上で男たちが息を荒くしている音を聞きながら、ケイはそんなことを考えていた。
ドニは、あまりケイを見なかった。たまに目が合うと、悲しげな表情を浮かべて目をそらした。彼には妻がいて、その妻がらみでなにか訳があって、アーマンのために働いていたらしい。きっと、どうすれば自分と自分の妻が助かるのかを考えているに違いない。
一方、ルーは怒りのこもった表情で、男たちを見ていた。そして、苦しげな表情でケイを見る。その表情が、ケイの心をひどくしめつけた。
あたしのために、そんなに苦しそうな顔をしないで。
あたしは、いいから。
これで、いいから。
ルーは自分のために、光のかけらを探しつづけて。
あたしなんかのことは忘れて、逃げて。
お願い。
そう、ルーはアーマン・ゾフの残酷さを知らない。きっと、アーマンがルーの不老不死の呪いを知ったら、喜んで彼の体を切り刻むだろう。リノに着くまでに逃げなければ、ひどい目にあわされるに違いない。
だから、逃げて。
そんなケイの思いは、もちろん届くわけもない。
ルーは、ドニとともに縛られたまま罪人のように、リノまで歩かされた。ケイはリノのすこし手前で男たちがはなった精液を落とすために体を洗わされたあとで、リノの街に入った。
ゾフ家の巨大な屋敷は、リノの東に位置している。門をくぐり、広い前庭を進んでいくと、屋敷の前ではうしろに三人の用心棒を控えさせたアーマンが、腕を組んで待ち構えていた。醜く豚のように太った体からは、汗まじりの強烈な体臭が漂ってくる。その体臭を消すために香水をたっぷりと使っていたが、むせかえるような悪臭は決して消えることがなかった。
「どういうことだ? なぜケイは裸なのだ?」
アーマンが甲高い声を張りあげた。怒りで、目が釣りあがる。男たちの中から一人が前に出て、アーマンに言う。
「逃げている途中で、盗賊に襲われたようです、アーマン様」
「まさか、おまえたちが手をつけた、などということはないだろうな?」
男が答えるよりも先に、ケイが口をはさんだ。
「みんなで、順番にあたしを犯してくれたよ。そこの奴は四回、向こうの男は五回。あたしを犯さなかったのは、向こうで縛られているドニとルーだけ」
「貴様ら!」
怒りに満ちた顔を向けられた男は、しかし、動じなかった。
「この女は、捕まった腹いせに嘘をついています。事実は違います。あのルーという男が、この女を犯していました。ドニは、女を逃がそうとしました」
「嘘つきは、どっちよ! あたしの口に突っ込んで、竿を噛み切られそうになった男はどこにいったのさ。隠したって、すぐにばれるんだよ!」
アーマンはなにやら思案している様子だったが、やがて男たちをじろりとにらみつけると、おもむろに口を開いた。
「今日はケイが戻ってきてくれたので、わたしは機嫌がいい。今回は特別に見逃してやる。すぐにこの屋敷から出て行け。リノからも、出て行け。命までは取らん。二度と、わたしの前に姿を見せるな」
男たちは困惑して互いの顔を見合ったが、なかなか出て行こうとはしなかった。アーマンは用心棒に向かって、大声で命令する。
「ゆっくり十まで数えて、それでもここに残っている奴は全員殺せ」
用心棒は無言でうなずいた。
男たちはようやく状況を把握したらしく、あわてて屋敷の門のほうへと走り出した。アーマンは男たちの背中を見送りながら鼻で笑うと、残されたルーとドニに目を向ける。
「さて、ドニ。女房の具合はどうだ?」
「薬が効いているようで、最近は具合がよくなっています」
ドニはうつむいたまま小声で答えた。
「そうか。高価な薬を買うのは、大変だな。だが、おまえがわたしを裏切った以上、わたしはおまえに貸している金を即刻かえしてもらわなければならない」
「ですが、ご存知の通り、貸していただいたお金はすべて妻の薬に――」
「金がないのなら、別の形で払ってもらうだけだ。ドニ、おまえの女房はたいそう美しいそうだな。わたしの屋敷で下女として雇ってやろう。まあ、安心しろ。あまり重労働はさせんよ。夫のおまえでは得られない満足感を得て、かえって体調がよくなるかもしれん」
アーマンが冷たく笑った。ドニの顔面が紅潮して、憎悪の色が浮かぶ。
「この豚野郎! 貴様なんかには指一本触れさせないからな。ぜったいに!」
アーマンはぞんざいに手を振ると、用心棒に声をかけた。
「奴を地下室に閉じ込めておけ。そして、おまえはドニの家に行って、女房を連れて来い」
三人いた用心棒のうち二人が、アーマンに言われた通りに行動した。一人は呪いの言葉を叫びつづけるドニを屋敷の中へ引きずっていき、もう一人は屋敷から出て行く。
そして、前庭にはアーマンと用心棒一人、ルーとケイの四人だけが残った。
「さて、ルーと言ったな。おまえは、俺の大切な婚約者に手を出したのか?」
ルーがなにか答えるよりも先に、ケイが否定する。
「あんたと婚約したおぼえはないよ、アーマン」
「まあ、いい。わたしは疑わしい人間はすべて罰する主義だ。おまえにはどういう罰を与えようか…」
ルーは無表情のまま、黙ってアーマンを見た。アーマンは悠然と笑う。
「おまえだろう? 最初にケイを迎えに行かせたとき、わたしの使いの人間をたたきのめしてくれたのは。ずいぶん腕が立つそうじゃないか」
ルーは沈黙している。
「それに、ひとつ面白い話を聞いた。おまえは首を切られても死なない、と。それは本当なのか?」
なおも、ルーは沈黙を守っていた。
「ぜひ、その力を見せてもらいたい。もしも、こいつに勝てたら、ケイと一緒に解放してやろう」
アーマンはそう言うと、残った最後の用心棒にうなずいて見せた。
男は手に持っていた長剣を鞘から抜きはなち、鞘を投げ捨てた。そして、ルーに近づいていくと、彼の手足を縛っていた綱を断ち切る。
男はルーから数歩はなれた位置に立ち、剣を構えて、ルーが立ちあがるのを待った。
「さあ、立って、戦いを始めてくれ」
アーマンが楽しそうに言い、ケイはその口調に心底腹を立てた。
異常者。
殺し合いを楽しんで見るなんて、どうかしてる。それに従うあの男も、おかしい。でも、ルーは戦うだろう。ルーは、そういう人だ。
お願い、ルー。負けないで。
あたしは、ルーがすごく強いことを知ってる。武器を持った相手でも互角以上に戦えることを、知ってる。
だから、負けないで。
勝って、あたしをここから救い出して。
ケイは祈りながら、ルーが立ちあがって男と対峙する様子を見つめた。
「さあ、始めろ」
アーマンの声とともに、男が一歩、足を踏み出した。
ほとんど同時に、ルーは一歩下がる。
そして、そのまま二人とも動かなくなった。
ケイにも、二人の間の緊張感がはっきりと伝わってきた。剣は長く、素手のルーは踏み込めずにいる。逆に用心棒のほうは、安易に距離をつめることで、ルーに懐へ飛び込んまれることを警戒しているようだった。
息がつまるような緊張感の中、ルーは足を擦らせるように右に半歩、動いた。男は体をわずかに回し、ルーに剣の切っ先を向ける。
そしてまた、動きが止まった。
見ているだけで息苦しくなって、ケイは目を閉じて祈った。
ルー、負けないで!
人の動く気配を感じて、ケイは反射的に目を開けた。
用心棒が踏み込み、同時にルーも踏み込んでいた。二人は接近していて、すでに剣では切りかかれない距離になっている。ルーは男の剣の柄をつかみ、引き寄せていて、空いたほうの手で男の腹を殴ろうとしていた。しかし、男のほうは剣から片手をはなし、その手をルーの腹に打ちつける。
ケイの目には、一瞬のことでなにが起きたのかわからなかった。
だが、男の手にはいつのまにか短剣が握られていたらしく、よろめいてうしろに下がったルーの腹には短剣が突き刺さったままになっていた。
苦痛に顔をゆがめながら短剣を抜こうとしているルーに、男の長剣が容赦なく振り下ろされる。鈍い音とともにルーの腕が切りはなされ、血が飛び散った。すぐに傷口がふさがって血は止まり、ルーは歯を食いしばりながら切り落とされた自分の腕を拾おうと手を伸ばす。
その首筋に、剣が静かに押し当てられた。
動けば切られると理解したらしいルーは、動きを止めた。
「なんだ、もうおしまいか?」
アーマンが声を張りあげる。
「アーマン様、どうします?」
用心棒が、ルーから目をはなさずに言った。
「首を切れ。首を切りはなされても死なない男というものを、実際に見てみたい」
「待って、アーマン。彼を助けてあげて」
ケイはアーマンに懇願する。
「ほう? 奴を助けてほしい? 切っても死なないなら、助けるもなにもないじゃないか」
「違うの。あたしは、彼が切られるのを見たくないの」
「ケイ、おまえの頼みを聞いてやることで、わたしはどんな得をするんだ?」
アーマンの目が、ぎらぎらと光った。
ケイはアーマンを見て、首に剣を突きつけられているルーを見て、目を閉じた。
あたしにできることは、たかが知れている。
ルーのために、あたしがしてあげられること。
それは……。
「あたし、アーマンの言うことなら、なんでも聞くから」
「なんでも?」
「うん。そのかわり、ルーを助けてあげて」
「そうか。ではひとつ質問がある。ケイ、おまえはわたしを愛しているか?」
ひどい男。
こんな奴のために、あたしたちは――。
「どうした、ケイ。口がきけなくなったか。ならいい。おい、そいつの首を切れ!」
「待って!」
ケイは、泣きたかった。
こんなことって、ないよ。ひどすぎる。
「どうした、ケイ。なにか言いたいことでもあるのか?」
「愛しています…」
「よく聞こえないな」
「あたしは、アーマン・ゾフを愛しています」
「感情がこもってない」
「アーマン、愛してるわ」
「おい、聞いたか?」
アーマンはゆがんだ笑みを浮かべると、ルーと用心棒のほうに声を投げかける。
ケイは屈辱感に押しつぶされそうになりながら、あふれそうになる感情を必死で抑えていた。
「なあ、ケイ。俺を愛しているというのなら、その証拠を見せてくれ」
「どうすればいいの?」
「久しぶりに、おまえの口でいかせてくれ」
「今、ここで?」
「そうだ」
アーマンは下半身だけ服を脱ぎ始める。
いっそ、噛み切ってやろうか。
そんな考えが頭に浮かんだが、すぐにケイはその考えを意識の外に追い出した。あっさりとルーに勝ってしまったあの用心棒がいては、勝ち目がない。
べつに、アーマンの男根をしゃぶってやることくらい、仕事だと思えばどうでもよかった。でも、ルーにだけは、自分のそんな姿は見てほしくない。
黒ずんでしなびたアーマンの男根を前に、ケイはためらった。
でも、ここでアーマンに従わなければ、ルーは首を切られ、また苦しい思いをしてしまうだろう。どのみち、ケイは縛られたままで、逃げ出すこともできない。ルーが助かっても、助からなくても、ケイの運命は決まっている。
ならば、ルーが助かる道を選ぼう。
ケイは意を決して、アーマンの股間に顔を近づけた。
悪臭がひどい。
吐きそう。
でも、ルーのため。
しなびたアーマンの男根を、口に含み、舌で転がす。徐々に勃起し始めると、今度は唇でしごくようにしてやる。
ケイはアーマンがどうされると喜ぶかを、よく知っていた。ケイは充分に勃起した男根から唇をはなすと、亀頭からつけねに向かって、ゆっくりと舌先をはわせる。アーマンは、亀頭が一番感じるのだ。ケイが何度も繰りかえし舌を動かした。亀頭に舌が軽く触れるたびに、アーマンの体がぴくりと動く。
「ケイ、どうだ?」
どうもこうもあるもんか。くさくて仕方ないんだよ。
「すてき」
「わたしのことを愛しているか?」
そんなわけない。
「愛してるわ」
ケイは陰嚢にまで舌をはしらせる。勃起した男根が頬や額に当たるのが、不快でならない。それでも、ケイはアーマンの息遣いの変化に気づいた。
そろそろ頃合だ。
男根を再び口にふくみ、唇でしごいてやる。しごき、舌先で亀頭を転がし、またしごく。
明らかに感じているアーマンは、息を荒げながら腰を動かし、ケイの喉の奥まで男根を突っ込んできた。
さあ、はやくいきなよ。
アーマンの体臭と、男根が喉の奥に届く嘔吐感に堪えながら、ケイは唇でしごく速度をはやめた。
さあ、はやく。
一刻もはやく終わってほしい、というケイの思いとは逆に、アーマンはなかなかいかなかった。首を前後に激しく振るケイは、いらだってアーマンの顔を見あげる。しかし、おおきく垂れ下がった腹に隠れて、アーマンの表情は見えなかった。
ちくしょう。アーマンのやつ、また太りやがった。
ルーが自分の姿を見ているだろうこと、アーマンが悦に入っているだろうこと、すべてが腹立たしい。
怒りに満ちて首をふるうちに、ついにアーマンはいった。体をふるわせて、ケイの口の中に射精する。甲高い悲鳴のような声が、アーマンの口からもれた。
最後に数度、ケイは精液をしぼり出すように男根をしごくと、口をはなした。口の中にたまった苦くてしょっぱい味のどろどろしたものを、ケイは飲み込む。
「おまえは最高だよ、ケイ」
満足げに言うアーマンとは反対に、ケイは屈辱感にまみれてルーのほうに目をむけた。ルーの腰に巻かれたぼろ布の下で、明らかに彼も勃起しているのが見てとれる。
なんてこと。
このあたしの姿を見て、ルーが興奮している。
こんなあたしの姿を見て。
ちくしょう!
ケイは叫びたいのをこらえながら、アーマンに目を向ける。この屈辱感は、耐えがたい。
「おまえはどうだった、ケイ?」
ちくしょう!
この薄ぎたない豚野郎め。
「おいしかったわ」
「そうか。わたしを愛しているんだな」
「そうよ」
「ならば、わたしと結婚してくれるな?」
くそったれ。
「…ええ」
「本当におまえは、それを望んでいるのか?」
そんなはず、ないだろう。
「望んでいるわ」
「誰が誰とどうすることを望んでいるのか、はっきり言ってくれ」
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
「あたしは、アーマンと結婚することを望んでいるわ」
アーマンの顔に、勝ち誇った笑みが浮かんだ。
最悪。
本当に、最悪。
「よし、では一緒に屋敷の中に入ろう」
「ルーは助けてくれるんでしょ?」
ケイが問いかけると、アーマンの勝ち誇った笑みは、残酷な笑みへと変化した。
「そうだ、すっかり忘れていた。そいつをバラバラに切り刻んで、首だけ持ってこい。あとはてきとうに埋めておけ」
アーマンの言葉の意味するところが理解できないまま、ケイは用心棒の返事を聞いた。
「わかりました、アーマン様」
用心棒の剣が振り下ろされる。ルーの首が重い音をたてて地面に転がった。
自分の首を拾おうとしてルーの体が動いたが、用心棒の剣が背中に突き立てられ、動きを止められた。身動きの取れなくなった虫のように、ルーの首なしの体が手足だけをばたばたと動かしつづける。
「これは面白い。本当に死なないんだな」
なんてこと。
あたしは、なんのためにアーマンの男根を噛み切らず、精液を飲み干したの?
この、人でなしめ!
ケイは怒りにまかせて、アーマンに飛びかかった。しかし、両手両足を縛られたままでは、思うにまかせない。彼女はアーマンに殴られ、地面に突き転がされた。
「ルーは解放するっていう約束よ!」
ケイは叫んだが、アーマンはすずしい顔で言いかえす。
「あの男を助けないのなら、もっとわたしに奉仕しろ。心の底から、わたしを愛せ。そうしたら、約束どおりにあいつを解放してやる」
ケイは、無力だった。
アーマンのような男の横暴に、ただ屈することしかできない。
それが腹立たしく、むなしく、悲しかった。
そして、首を切られた状態で苦しんでいるルーのつらさを思い、なにもしてあげられない自分に絶望した。
ごめんね、ルー。
あたし、大好きなあなたのことを、守ってあげられない。あなたが苦しむような目にばかり、あわせてる。
ごめんね。
こんなあたしなんか、生まれてこなければよかった……。
丸一日、アーマンは飽くことなくケイの奉仕を求め、ときに暴力をふるい、支配下に置いた。しかし、なによりもケイに耐えられなかったのは、その寝室にルーの首が飾られていたことだった。
当初、ルーは顔をゆがめ、涙と唾液をたれ流しつづけていた。しかし、やがて涙も唾液も出つくしてしまったのか、目をしっかりと閉じたまま、ときおりなにかを言いたげに口を動かすだけになっていた。
その様子を見て、アーマンは笑っていた。
「たとえ首だけになっても、目は見えるんだろう? 目を閉じていても、耳は聞こえるんだろう? だったら、わたしたちが楽しんでいる様子を見て、聞いて、おまえも楽しんでくれよ。他人がしているのを見るのが、好きなんだろう?」
アーマンはルーに向かってそう言って、笑いながらケイを犯した。
ルーは、どんな思いでいるのだろうか。苦しみに耐えることで精一杯で、まわりでなにが起きていても気にならないのかもしれない。
それならば、なおのこと一刻もはやく、ルーを助けてあげたい。
首を切りはなされた痛み。
呼吸のできない苦しみ。
想像するだけで頭がおかしくなってしまいそうな苦痛から、ルーを救ってあげたい。
アーマンは、約束を守るだろうか?
このままケイがアーマンの気に入るように振る舞いつづけていれば、ルーを助けてくれるだろうか?
わからない。アーマンはすでに一度、約束をやぶっている。アーマンの約束など、まったく信用することはできないのだ。でも、これ以上さらにルーが苦しむようなことだけは、避けたい。考えたくないことだが、残酷さに狂ったアーマンが、ルーの頭をさらに切り刻もうと思ったら?
そんなことにだけは、なってほしくない。
だから、ケイはアーマンの言いなりになっていた。アーマンが満足するように。そして、ルーをさらに傷つける口実をアーマンに与えないように。
いつかきっと、機会を見つけて、ルーを助けよう。
絶望的な奉仕をしながら、ケイはそう思っていた。
そして、その機会は、意外にはやくめぐってきた。アーマンが、ケイを残して外出したのだ。ケイはアーマンが屋敷を出ていくところを、窓から眺めていた。随行として、アーマンはドニを屋敷の地下室に閉じ込めた用心棒を連れて行った。
ケイは、棚の上に置かれたルーの首に近づく。
ルーは目を閉じて、歯を食いしばっていた。首の切断面には薄い皮膜のようなものができていて、血が流れ出すようなことはない。が、その表情はひどく苦しげだった。
ケイは、ルーの頬にそっと触れる。その肌は、驚くほど熱かった。
「ルー、聞こえる?」
ルーの口がわずかにふるえる。
彼はまだ生きていて、耐えている。
かわいそうに。
ケイは思わず、ルーの首を抱きしめた。裸の胸に、彼の熱い体温が痛いほどに感じられる。
助けてあげる。
ぜったいに、このあたしが。
ルーを切り刻んで埋めるように言いつけられた用心棒は、屋敷の中にいるはずだった。ケイはルーの体がどこにあるかをその用心棒に聞き出すため、シーツを体に巻きつけると、部屋を出た。
「どこに行くんだ?」
部屋を出ると、扉の脇に立っていた用心棒が言った。残念ながら、ルーを埋めに行った用心棒ではない。これまで一度も見かけたことのない男だった。
「トイレよ」
そう言って用心棒の前を通りすぎようとしたが、ケイは思いついて立ち止まった。
「ねえ、あんたも強いの?」
「まあな」
男は肩をすくめた。
「あたし、強い人が好きなんだ」
ケイは用心棒に近づき、顔を見あげながら男の胸に手を置いた。
「そうか」
無関心を装っているが、まんざらでもなさそうな様子だ。
「あんたたちは、普段はどこにいるの? 今度、その……部屋に遊びに行ってもいい?」
「廊下のつきあたり、階段の手前の右の部屋が、俺たちの控え室になっている。でも、俺のほかにも何人かいるぞ」
「いいわよ。たくさんの男の人にいっぺんにされるの、好きだから」
そんなこと、好きなわけがない。
でも、ルーを助けるためなら、なんだってできる。
「ちょっと、お部屋をのぞいてくるね」
ケイは、すたすたと歩き出す。彼女を見張る役目を言いつけられている男は、あわてて追ってきた。
「あんまり勝手に歩き回られたら困る」
「いいじゃない、アーマンは留守なんだし」
ケイはとびっきりの笑顔をつくり、男に流し目を向けた。
「でも―」
ケイは男の口に人さし指を押しつけて黙らせ、首に腕をからませると耳元でささやいた。
「部屋の前で待ってて。今度あんたが非番のときに、しようね」
男は、生唾を飲み込むと、黙ってうなずいた。
他愛もない。
男なんて、本当に、くだらない。
ケイは男から体をはなすと、用心棒たちの控え室になっているという部屋に滑り込んだ。
ケイが予想していた通り、部屋の中にはルーを埋めに行った用心棒が一人で座っていた。男は、剣を手にして、一心にその切っ先を見つめている。
「こんにちは」
「なんの用だ?」
男は剣から目をそらさずに、言った。
この男がルーと戦ったときにも感じたのだが、やはり、彼は頭がおかしいようだ。戦うことや剣への執着は、尋常ではない。
ケイの心に男への恐怖心が芽生えたが、それでも彼女はルーのために恐怖を飲み込んだ。
「あんたと取引がしたいの」
ケイが言うと、男はようやく目をケイに向けた。
「取引? ならば今すぐここから出て行け。そうすれば、この剣でおまえを切らずに済ませてやろう」
「あたしがほしいのは、情報なんだけど。切っても死なない男の体を、あんたがどこにやったのか。教えてくれない? 代わりにあたしがあげられるのは、このくらいだけど」
ケイは芝居がかった動作で体に巻いていたシーツを取り払った。彼女の体にはあちこちに痣できている上に、ここ数日の粗食のせいで、やや痩せすぎたきらいがある。しかし、それでも男たちを魅了するには十分な肉体だという自信があった。
「いらん」
男は、ケイの裸体から目をそむけ、再び剣に目を向けた。
この男には男色の趣味でもあるのだろうか?
そんな疑問が頭に浮かんだが、それでもケイは男に近づいた。
「女は、嫌い?」
「嫌いだ。剣の鍛錬には、なんの役にも立たない」
男は吐き捨てるように言う。
ケイは目の前の男の顔を見つめて、彼が女嫌いになった原因に想像をめぐらせた。見た感じでは、年齢は三十歳前後だろうか。その三十年ほどの人生の中で、男の心を決定づけるなにかが起きたに違いない。
「これまでにあんたが見てきた女は、そうかもね。でも、あたしは違う」
ケイは思い切って男の剣を手のひらで押しのけると、男の首に手をまわした。
男がその気になれば、ケイを刺し殺すことは簡単だった。
緊張しながらも、ケイは怯えを隠して男の目をのぞきこむ。男の目の中で、強い感情が揺れた。男はそのまま目をそらす。
ケイは、悟った。
この男は、女を恐れている。ケイが近づいてきたことに、怯えているのだ。
「心配しないで」
ケイはできるだけやさしく言うと、男の唇に自分の唇を軽くおしつける。男は体を硬直させて、ちいさな吐息をもらした。
もう大丈夫。
このまま、いける。
ケイは確信して、男の膝の上に腰をおろした。そして、唇が触れあう距離で、ささやく。
「お願い。不死身の男の切り刻んだ体をどうしたのか、教えて」
結局、男は剣に没頭するあまり、女に触れるきっかけがなかったのだ、とケイは理解した。彼の三十年間に女を嫌いになるなにかがあったのではなく、なにもなかったからこそ女を忌避するようになったに違いない。
ケイは、疲れ果てて自分の胸に顔をうずめている男を軽く抱きしめながら、思いをめぐらせていた。
すでに目標は達している。胴体・両足・両腕の五つに切られた体は、ライの都へ向かう東の街道の途中に、ばらばらに埋めたという。埋めた場所の目印になる岩や木の特徴も、聞き出した。
その情報を聞き出したケイとしては、一刻も早くルーの体を拾い集めに、ルーの首を持って屋敷から抜け出したかった。
しかし、男はなかなかケイからはなれようとはしなかった。余韻を楽しむように、ケイの肌を口で吸う。
男から体をはなす機会をうかがいながら、ケイはそっと男の背中を手でさすった。無駄な肉のない、筋肉質でなめらかな背中である。
悪くない。
剣で強くなることを追求しすぎて、逆に心に弱さを抱えるようになった男。感情を押し殺した冷たい表情の奥に、人一倍の孤独と愛情を秘めた男。もしも今、ルーに心を奪われていなければ、ケイはこの男のことを好きになってしまったかもしれない。
男の名前を聞けば、それだけここをはなれにくくなる。一緒にいる時間が長ければ長いほど、彼を利用している自分を許せなくなるだろう。
だから、そろそろ、ここを出よう。
ケイがそう思った瞬間、屋敷の中があわただしくなった。だれかが屋敷にやってきたらしい。息をひそめ、耳をすませると、アーマンの声が聞こえた。
いけない。
もう、帰ってきてしまった――。
「戻らなきゃ」
ケイは男から身をはなし、部屋の扉をちいさく開けて、外をうかがった。ケイの見張り役の男の背中が見え、その向こうからアーマンが用心棒を連れて近づいてくる姿が見える。
だめだ。
もう、まにあわない……。
「おい、なんでそんなところに突っ立ってるんだ? ケイを見張っていろと言っておいたはずだ」
アーマンの怒鳴り声を聞いて、ケイはあわてて扉を閉め、部屋を見回した。用心棒たちの控え室になっているこの部屋には、他に出口はない。
「彼女がこの中にいるものですから」
「ばか者! 見張るというのは、ただ彼女がなにをしているのかを把握していればいい、というものではないのだぞ!」
「申し訳ありません」
荒々しく扉が開けられて、アーマンが入ってきた。アーマンは怒りに満ちた表情で、ケイをにらみつける。ケイも男も裸のままで、ここでなにがあったのかは、言い訳のしようがない。
「ケイ、どういうつもりだ? わたしのいない間に、もう別の男をたらしこんだのか? このあばずれめ――」
そこまで言ったところで、アーマンの表情が変わった。
ケイの背後から、剣を手にした男がゆらりとアーマンへ近づく。
なんてこと。
彼はあたしのために、アーマンに歯向かおうとしてる。
あたしは彼を利用しただけなのに。
「くそっ」
アーマンは小声で悪態をつくと、その肥満した体には似合わない敏捷さで、部屋から逃げ出した。
「裏切りだ! おまえたち、あの男を殺せ!」
逃げながら叫ぶアーマンの背中めがけて、男は剣を振り下ろす。しかし、アーマンの動きが一瞬早く、剣はアーマンの服をかすめただけだった。
「殺せ!」
アーマンが再び叫ぶのと同時に、剣を抜いた用心棒二人が部屋に飛び込んできた。二人は男を挟み込むようにして立ち、同時に切りかかる。
男は、右側から襲いかかってきた用心棒の剣を跳ねあげると、振り向きざまにもう一方の用心棒の胴をなぎ払った。用心棒はかろうじて身をかわしたが、さらにつめ寄ってきた男の剣を避けることができず、腕を切られた。
血が飛び散り、切断された腕が床に落ちる。
しかし、男がもう一方の用心棒に向き直るよりも先に、男の裸の背中に用心棒の剣が振り下ろされた。剣はしっかりと男の背中をとらえ、肉をえぐった。
男が苦痛に身をそらせながら振りかえったところに、剣が突き立てられる。
剣は男の胸を貫通して、背中へと突き出した。
男は泣きそうな表情でケイを見て、ゆっくりと崩れ落ちる。そして、そのまま動かなくなった。
ケイは、涙をこらえるのに必死だった。
利用しようとしただけのケイを助けようとして、彼は死んでしまった。
あたしは、彼の名前さえ知らないのに。
かわいそうなひと……。
ケイの悲しみとは逆に、アーマンは怒り始めた。
「このクソ野郎が!」
すでに死んでいることが明白な男の頭を、アーマンは怒鳴りながら蹴りつける。
ごつ、という鈍い音がして男の首が捻じ曲がった。
腕を切られた用心棒が、うめきながら部屋から連れ出されていく間も、アーマンは死人を罵倒しながら、その頭を蹴りつづける。
ケイの目には、なにもかもが現実ばなれして見えた。
あたしのせい。
ぜんぶ。
あたしは、エリーを絞め殺しました。あたしは、自分の問題にルーを巻き込み、今この瞬間も苦しめつづけています。あたしは、ドニも巻き込み、ドニと彼の奥さんは今どんな目にあっているのか想像さえできません。あたしはアーマンの用心棒の一人が片手を切り落とされるきっかけを作りました。あたしは無関係で純粋な男を誘惑して、破滅させました。
すべて、あたしが悪いの。
もう、本当に、うんざりだよ。
ルー。
自分の幸せのための足掻くたびに、誰かが傷つき、苦しみ、命を落とす。
こんなの、もう、いやだよ。
「ケイ、わたしは完全に頭にきたぞ」
アーマンが目の前に立ち、ケイに言っていた。アーマンの体臭は気にならず、ただ部屋に満ちた血の生臭さだけを、彼女は意識していた。
「なんとか言ったらどうだ?」
アーマンがケイの頬を張ったが、ケイはなにも感じなかった。
「もうわたしは、ぜったいにおまえを信用しない。二度と勝手に動き回れないようにしてやる」
好きにして。
もう、どうでもいいから。
「おい、おまえ。ケイの足の腱を切って、歩けないようにしろ。切ったら止血をして、地下室の鎖につないでおけ。いいな!」
アーマンの声に、用心棒は無表情にうなずく。
用心棒はケイに近づき、剣を彼女の右足首のうしろに押し当て、ゆっくりと引いた。ケイは自分の足首に刃が食い込んで血があふれてくる様子を見ながら、歯を食いしばって激痛に耐える。
左足首も切られ始めたとき、ケイは痛みよりも悲しみに駆られて、涙を流した。
いいきみよ、ケイ。
当然の報い。
涙を流しながら、ケイは自分自身に向かって呪いの言葉を吐いた。
「ケイ、あんたみたいなやつは、とっととくたばっちまいな」
暗闇の中で、ケイは日付の感覚を失っていた。
部屋の隅に置かれた便器からにおう悪臭が、地下室に満ちている。光のない地下室の中で、ケイ自身は両腕を鎖で壁につながれていた。
すでに、自分の足で立とうという試みは、放棄していた。
足の腱を切られたせいで膝から下に力が入らず、ふんばることができない。切られた傷の痛みがひどく、立とうという努力をつづけることも難しかった。
ただ、両腕を拘束されたままの状態で石の床の上に寝転がり、脱力していることしかできない。
痛みと、渇きと、空腹。そして後悔と、あきらめと、絶望。
ケイにできるのは、ただそれらを感じながら、暗闇の中に意識を漂わせることだけだった。背中に触れる石の床と両腕を縛りつけている手枷が冷たく、体がふるえる。
しかし、ふるえるのは体だけではなかった。
閉じ込められてから二度、アーマンの寝室に連れていかれた。
そのときに見た、ルーの首。
ルーの首は縦に真っ二つに切断されて、左右ばらばらに飾られていたのだ。はなればなれになった左右の目が、向かい合わせに置いてあった。
そういうことをしようと考えるアーマンの異常さと、ルーの身に降り注いでいるだろう苦痛を想像して、心が寒くなる思いがした。
ルーが死ぬことを求めてきた二十年間で、彼はなにひとつ得られなかった。それどころか、死ぬよりもひどい状況に置かれて、苦しんでいる。
ケイが幸せになりたいと願ってきた二十年間でも、彼女はなにひとつ得られなかった。孤児として通りで寝起きをしていたときから、ずっと願っていた。
おなかいっぱいに食べること。
あたたかいベッドで眠ること。
きれいな服を着ること。
そして、女として目覚めてからは、運命の人と出会い、その人と愛し合うこと。
そんな夢は、すべて打ち砕かれた。
ろくに食べ物も与えられず、壁に鎖でつながれたまま、裸で、アーマンのような異常者に奴隷として扱われる。足の腱を切られたせいで、自分の力で歩くことすらままならない。
これも運命と、受け入れることしかできない。
なんて、無力なんだろう。
こんなにもうんざりしてるのに、どうして、あたしは死なないんだろう。
ケイは壁に後頭部をぶつけた。
ごつり、という音が、地下室の中に響く。
頭をぶつけて死ぬ? それとも舌を噛んで死ぬ? 盗賊たちに捕まった夜に試みて、自分で自分の命を奪うことができないことは、よくわかっているのに。
あのときだって、ルーが助けにきてくれなかったら、なにもできなかった。
ああ、ルー。
ルー!
ちくしょう。
あたしがこのままだったら、誰がいったいルーを助けてあげられるの?
他に、誰が?
あたしが死ぬのは、彼を助けてからでいい。
だって、あの夜、盗賊のアルに首を締められているところをルーが助けてくれなかったら、あのまま死んでいたはずだから。
だからこそ、ルーにもらったこの命を、ルーのために使わなければならない。
あたしには、こんなところで絶望している暇は、ないのよ。
ケイは歯をくいしばり、足を突っ張った。足首の痛みをこらえ、自分の足で立とうとする。しかし、膝から下にまったく力が入らない足が、石の床の上をずるりとすべる。
鎖がじゃらじゃらと音をたてた。
ちくしょう。
手枷の鎖をつかみ、もう一度体を起こす。
また、足がすべる。
ちくしょう。
このばか足。なんでちゃんと動いてくれないのよ。
足の力には頼らず、鎖をつかんだ両腕の力だけで立とうと試みる。腕に渾身の力を込めるが、自分の全体重を支えることはできなかった。
「ちくしょう!」
殺せ!
記憶の中に、アーマンの叫び声がよみがえってきた。
殺せ!
アーマン。
そうだ、殺してやる。あたしは、もうエリーを殺しているんだ。殺す人間がもう一人増えたところで、かまうもんか。アーマンだけはぜったいに許さない。あの狂った男をこの世から消し去ることが、『よきこと』なんだ。
殺してやる。
怒りに駆られたケイは、手枷の鎖をがむしゃらに引っ張った。
次にアーマンの寝室に連れて行かれたとき。
その日を、アーマンの命日にしてやる。アーマンを殺して、ルーを助け出す。
ぜったいに!
「ちくしょう!」
ケイが怒鳴る。暗く湿った地下室に、その声がうつろに響いた。
その声の残響が消えるか消えないかのところで、誰かが地下室に近づいてくる足音が聞こえてきた。扉が開き、ろうそくの明かりが汚れた地下室を照らし出す。
暗闇に慣れた目にはまぶしすぎるろうそくの光に、ケイは目を細めた。
ろうそくを手に入ってきたのは、あのかわいそうな男を刺し殺した用心棒である。そして、そのうしろからは太った二人の人物が姿をあらわした。一人は見間違いようもない、憎むべきアーマン・ゾフその人で、もう一人は――。
エリー。
ケイは目を疑った。
エリーが、いる。
幽霊でもなんでもなく、本物のエリーが立っていた。
でも、あたしはエリーがぐったりするまで、首を締めたのに。どうして? 死ななかったの? あたしが逃げ出したあとで、誰かがエリーを助けたの?
しかし、何度見直しても、地下室にやってきたのはエリー本人に間違いなかった。
エリーは、死んではいなかったのだ。ケイは彼女の首を締めたが、殺すまでには至らなかったのだ。
ケイの心の中に、なんとも言えない安心感が浮かんできた。
よかった。
生きててくれて、よかった。
エリー、ひどいことをして、ごめんね。
ケイはエリーに謝ろうとして口を開いたが、言葉にならなかった。目からは涙があふれ出し、喉の奥からは嗚咽がもれた。
「いいざまだね、ケイ」
冷たい目でケイを見ながら、エリーが言った。
「よりにもよって、このあたしを殺そうとしたんだからね。普通なら縛り首にされても文句は言えないんだよ。そんなふうに泣いて見せたって、誰も同情なんかしないよ」
違うんだよ、エリー。
そんなんじゃない。
「…生きてて……よかった……」
ケイは必死にしゃくりあげながら、どうにか言った。
ろうそくに照らされたエリーの表情が、一瞬だけ揺れた。
「いまさら後悔したって遅いよ」
そう。死はとりかえしがつかない。エリーが生きていて、よかった。ルーだって、生きている。どんなに苦しい思いをしても、生きている。彼の苦しみは、ケイには想像してあげることしかできない。ルーの苦しみを軽減することも、ケイが彼の苦しみを肩代わりしてあげることもできない。
それでも、ルーは生きている。それこそが、なによりも素晴らしいことなのだ。
「エリー、生きててくれて……ありがとう……」
ケイは心の底から感謝して、言った。
そのケイの言葉に、エリーは困惑したようにアーマンを見た。アーマンは黙ったまま、肩をすくめる。
エリーは自分を殺そうとしたケイを罵倒しにきた様子だったが、ケイの様子を見て怒りが薄れてしまったようで、不意に地下室を出て行ってしまた。
「まったく、なんてくさい場所だ! やってられないよ!」
アーマンがエリーのあとを追い、さらにろうそくを持った用心棒がつづいて出て行った。
扉が閉められ、地下室は再び暗闇に包まれる。
よかった……。
ケイは、微笑んだ。
エリーが生きていて、本当によかった。
何日が経過したのか、ケイにはわからなかった。
ケイは一度もアーマンの寝室に呼ばれることなく、ただ地下室に閉じ込められたまま、時間だけが過ぎていった。粗末な食事が出される頻度が一日に一度だとすれば、十日ほどが過ぎたのだろうと推測できる。
もっとも、食事は出されたが、ケイは食欲がなく、ほとんど手をつけていなかった。今ではひどくやせ細ってしまい、手首の肉が落ちて、いつのまにか手枷と手首の間にはおおきな隙間ができるようになっていた。
もしかしたら、やせた手を手枷から引き抜くことができるかもしれない。
そう思って右手を引くと、親指のつけねが手枷のふちに引っかかる。しかし、頑張れば引き抜けそうな気がしてきた。
力をこめて、手を引く。
手は、動かない。
もっと力を込める。
皮膚が切れる鋭い痛みが走った。
それでも、全身の力を込めて、ケイは手を引いた。激痛とともに、右手が手枷から抜ける。
やった!
右手から血が滴り落ちるのを感じながら、今度は左手を引き抜きにかかった。左手もおなじように皮膚が切れて痛みが走ったが、右手が自由になっているぶん、引き抜くのは楽だった。
左手が解放された瞬間、勢い余ったケイの体は、床の上に倒れてしまった。ケイは一度だけ立ちあがろうと試みたが、膝から下に力が入らないために立てない。彼女はそのまま、はって扉のある方向へ進んだ。
扉があると思われるあたりに手をのばすと、石壁の手触りではない、木のあたたかな感触が伝わってきた。
ケイは膝立ちになって扉の取っ手をみつけた。手枷からは抜け出すことができないと思っていたのか、扉には鍵がつけられていないようである。その扉を、ケイはそっと押し開けた。
かすかに、扉がきしんだ。
地下室の外も暗闇に包まれていて、なにも見えない。それでもケイは、はうようにして手探りで前に進みつづけた。
石壁。
そして、別の扉。
新しく見つけた扉を開けると、さっきよりもおおきな音できしみ、ケイはその音に驚いて息をひそめた。
部屋の中からは、誰かの息遣いが聞こえる。
「誰だ?」
かすれた男の声が聞こえた。
「あんたは、誰?」
ケイが問いかえす。
「俺はドニだ。ケイなのか?」
ああ、ドニ。
信用に足る人が見つかって、よかった。
ケイはほっとして、地下室内に入っていった。
「そうよ。あんたはあれからずっと閉じ込められてるの?」
「ああ。おまえはどうやって抜け出したんだ?」
「やせて手枷がゆるくなったから、手を引き抜いたのよ」
「そうか。俺もやせたが、俺の手はおおきすぎて抜けそうにない」
暗闇の中で、鎖がじゃらじゃらと鳴った。
「あたしになにかできることは?」
「この部屋の左隣の部屋に、拷問用の道具が入っている箱が置いてある。その中から、なにか細くてとがったものをふたつ見つけて、持ってきてくれるか?」
「わかった」
ケイは四つんばいのまま向きを変え、部屋の外に出た。
「おい、ケイ。どこか怪我でもしたのか?」
ケイはう音を聞いて、ドニは普通と違うことに気づいたらしい。隠す理由もないので、ケイは素直にこたえた。
「足首の腱を、切られたの」
「くそ! アーマンのやつ、なんて野郎だ。立てないのか?」
ドニの声に、怒りがこもった。
「ええ。でも大丈夫。もう傷はふさがっているから」
ケイは壁ぞいに手探りで別の部屋を見つけ、中に入った。やはり手探りで道具箱らしいものを見つけ、その蓋を開ける。暗闇の中では具体的にどんな形のものなのかわからないが、玉のようなもの、棒のようなもの、でこぼこしたもの、なめらかなもの、などがケイの手に触れた。その中から細くてとがったものをふたつ見つけ出すと、ドニのいる部屋へ戻っていく。
「あったか?」
ケイが戻ってきた音を聞きつけて、ドニが言った。ケイはドニの声がするほうにはっていき、壁際に立っているドニの足をみつけた。そして、膝立ちになって箱から出してきた棒状のものを手渡す。
「これでどう?」
「ちょっと待て」
鎖が音をたてる。金属同士がこすれるちいさな音と、ドニの息遣いが聞こえる。
やがて、がちゃり、という音がして、ドニはおおきく息を吐いた。
「手枷がはずれた」
「すごい。あんな道具で鍵をはずせるの?」
ケイは尊敬の念を込めて、ドニにささやいた。しかし、ドニは彼女の褒め言葉には反応せず、きびしい口調で言う。
「俺はこれから、妻を助けに行かなけりゃならない。アーマンの野郎、俺を人質にして、妻を言いなりにさせてやがるんだ」
「あたしも、ルーを助けに行かなきゃ。アーマンの寝室に、首が飾られているの」
「君は歩けないんだろう? ここで待っていてくれれば、俺が――」
「いやよ。あたしは、はってでも行くから」
ドニは、短くため息をつくと、ケイの顔に触れた。彼の手は、とてもあたたかい。
「仕方ない、抱いて連れて行ってやる」
「いいの?」
「あたりまえだ。もしここから無事に逃げ出すことができたら、君は俺の命の恩人ってことになる。置いていくわけにはいかないからな」
「ありがとう」
ドニはケイの足と腰に手をまわすと、軽々と抱きあげた。
「しっかりつかまっていろよ」
ケイはドニの首にしがみついて、うなずく。
「ありがとう、ドニ」
ドニは、前に自分でそう言っていた通り、こっそりと動き回るのが得意なようだった。ケイを抱きながらでも、足音をさせずに屋敷の中を動き回る。夜だったが、地下室の暗闇と比べると、窓から差し込んでくる月明かりだけでじゅうぶんに明るく感じられた。
その明かりの中で見ると、ドニの体は傷だらけだった。細かい傷は数え切れないほどあり、両手の爪は一枚も残っていない。ケイも、手枷から抜け出すときにつけた両手首の傷は深く、皮がおおきくめくれあがっている。
屋敷の使用人たちの目を避けながら、ドニは地下室から二階にあるアーマンの寝室の前までやってきた。ここしばらくつづいたごたごたのおかげで、用心棒の人数が減っているのだろう。部屋の前に見張りが立っているようなこともなく、中からはアーマンの声と、女の細い声が聞こえてくる。
ドニは苦い表情をして、唇をかんだ。
「奥さんの声なの?」
ケイは小声でたずねると、ドニはうなずいた。
「君を、ここに下ろす。俺は扉を開けて中に飛び込み、アーマンをつかまえるから、君は自力で中に入って扉を閉めてくれ。いいな?」
「わかった」
ドニはケイを廊下におろすと、扉の取っ手をつかんだ。鍵がかかけられているらしく、扉は開かない。ドニは、地下室で手枷をはずすのに使った道具を鍵穴に差し込む。
金属同士がひっかきあう音が響いたかと思うと、おおきな音をたてて鍵が開いた。間髪を入れずにドニが扉を開けて、部屋に飛び込んでいく。ケイはドニにつづいて、膝立ちのまま部屋に入り、扉を閉めた。
ケイが振りかえってドニを見ると、彼はすでに寝台の上のアーマンにつめ寄り、首にとがった道具をつきつけていた。
「大丈夫か?」
アーマンの体の下から抜け出した女に、ドニが言った。
「来てくれると信じてたわ、あなた」
ドニの腰に、女がいつくしみをこめて手をまわし、肩に口づけをした。
「この野郎に猿ぐつわをかませて、両手を縛る必要がある。手伝ってくれ」
ドニの妻は周囲を見回して、窓にかけられたカーテンのほうに向かう。
「きさまら、こんなことをして――」
アーマンが口を開きかけたところを、ドニは思い切り殴りつけた。
「この豚畜生め。いますぐ殺さないだけ、ありがたいと思え」
ドニと彼の妻がカーテンを裂いてアーマンを縛りあげている間に、ケイは部屋の隅にある棚の前まで移動した。縦に真っ二つに切られたルーの首が、ばらばらに飾られている。
ケイは半分になっていても重い首をそれぞれ持ちあげ、切断面を合わせるようにして重ねた。切断面にあった皮膜のようなものが一瞬で溶け合い、半分にされていた顔は、再びひとつになった。
ルーの唇から一筋の血が流れ出し、彼はわずかに口を動かした。
ケイはあいかわらず熱をもっているルーの頬を両手で包み、彼の唇に自分の唇を押しつけた。ルーの唇はかさかさに乾いていて、血の味がする。その血の味を感じながら、ケイは心に誓った。
ぜったいに、助けてあげるから。
もうすこしの辛抱だからね。
「ケイ、どうだ?」
ドニの声がして、ケイは我にかえった。
「ルーの首は、あるわ」
「よし。これから、アーマンを盾にして、この屋敷から出る。首は、これに包んで背負え。両腕は自由になるほうがいい」
言いながら、ドニがカーテンの切れ端をほうり投げてよこす。
「わかった。ルー、窮屈かもしれないけど、我慢してね」
ケイはルーの首にそう語りかけると、カーテンで包み、それを背負って胸の前で結んだ。
「アン、体の具合はどうだ?」
ドニが妻に問いかける。
「大丈夫よ」
アンと呼ばれたドニの妻はちいさくうなずいたが、月明かりに照らされた顔は青ざめているように見える。
「よし。ケイ、俺の背に乗れ」
腰をかがめたドニの背に、ケイがしがみつく。
ドニもケイも裸で、アンは嫉妬したりしないのだろうか。そう思って彼女を見たが、彼女はまったく心配していないらしい。アンはドニがケイを背負いあげるのを黙って手伝ってくれた。
「アンは俺のうしろを見張ってくれ。アーマン、立ってゆっくり歩け」
ケイを背負ったドニは片腕でアーマンの首に得物を突きつけ、そのうしろにアンが立つ格好で、四人は部屋を出た。
四人は慎重に屋敷の中を進み、誰にも気づかれず、屋敷の外へ出ることができた。ドニの指示で屋敷の横手にある厩舎に向かい、馬車の準備をする。
ドニが馬車に馬をつないでいるあいだ、ケイはアンとともに馬車に乗り込み、アーマンの首に得物を突きつけていた。
月明かりに照らされて、アンの顔が青白く浮かびあがる。
アンは貴婦人のような上品な顔立ちをしていたが、体の線が細く、どこか病弱な印象を見る者に与えた。今も、屋敷から逃げ出そうとしただけで疲れてしまったのか、目を閉じて苦しげに息をしている。
と、見る見るうちに、アンの額に汗の粒が浮かんできた。
ケイは驚いて、アンの額に触れた。彼女の額は、氷のように冷たい。
アンの様子に気を取られてしまったため、ケイはアーマンが彼女を突き飛ばして馬車から飛び出して行っても、声をあげることさえできなかった。
物音を聞きつけて、ドニが馬車の中をのぞきこむ。
「くそっ、アーマンに逃げられたのか?」
「そんなことよりも、アンが…」
「どうした、また胸が苦しいのか?」
ドニがアンに問いかけると、アンはちいさくうなずいた。
「我慢してくれ。ケイ、すまないが、アンを――」
「見てるわ」
ケイはアンの冷たい体を抱き寄せる。ドニはアンの頬にそっと触れると、馬車を出て行った。彼は厩舎の中にいた馬たちをすべて解きはなち、大急ぎで御者の席に乗り込む。掛け声と同時に、鞭の音が響いた。
そして、馬車は走り出す。
馬車の車輪がガタガタと鳴る音の向こうから、男たちの怒号が聞こえてきた。その中の一人の声は、アーマンのものだった。ひときわ声高に叫ぶアーマンの声が、ケイにははっきりと聞きとることができた。
「殺せ! やつらを皆殺しにしろ!」
かわいそうなアーマン。
どうして、あそこまで憎悪に満ちているのだろう。
どうして、他人を攻撃することしかできないのだろう。
かわいそうな人……。
ケイは悲しくなって、馬車の窓から振りかえる。月明かりの下で男たちがあわただしく動いているのが見えたが、それもすぐに見えなくなってしまった。
あとには満月と、その光に照らされたアーマンの屋敷の輪郭だけが、ぼんやりと浮かびあがっていた。
満月。
その意味するところがゆっくりと理解できて、ケイはどきりとした。
もう、そんなに日数が経っていたのだ。最後に月経があったのは、前の満月のさらに前の半月の頃だった。
月経が、遅れている。
遅れることがある、というのはわかっている。しかし、不安だった。もし妊娠してしまったのだとしたら、いったい誰の子なのだろう? 盗賊たちの誰かの子か、用心棒たちの誰かの子か、それともアーマンの子か。
誰の子だとしても、望まれない子であることには違いがない。
いやよ。
ただ、遅れているだけ。
妊娠だなんて、そんな……。
考えているうちに怖くなってきて、ケイは自分の下腹部を殴り始めた。
お願い。
お願いだから、流れて。
ケイは片腕でアンを抱いたまま、自分の腹を殴りつづけた。
ドニの家に寄って、衣類と若干の水と食料、わずかな金とアンの薬を馬車に積み込み、三人はすぐに出発した。行き先にあてがあるわけではなかったが、ルーの体が埋められている場所へ行きたいとケイが強く望んだため、三人を乗せた馬車は東のライの都へ向かう街道を走っていた。
進行方向の地平線から太陽が顔を出し、光が馬車の中に差し込んできた。
薬を飲んだおかげか、光に照らされたアンの顔色は、ずいぶんよくなっているように見えた。
「痛そう」
そう言って、アンはケイの手首の傷を指した。両手とも、とくに親指のつけね付近の皮膚が、おおきく傷ついていた。すでに血は止まっていたが、皮膚の一部がめくれあがったままになっている。
「大丈夫。こんな傷、たいしたことないから」
「でも、きれいにしておかないと、傷が膿んだりするかもしれないわ」
「平気よ、体だけは丈夫だから」
そう言ってから、ケイはまずいことを言ったかもしれない、と後悔した。体の弱いアンを前にして、すこし無神経だったかもしれない。
しかし、アンは気にする様子もなく、にこやかに笑った。
「あんまり元気なのも、考えものよ。わたしみたいに体が弱いと、みんなとってもやさしくしてくれるわ」
「じゃあ、あたしもこれで、すこしはみんなにやさしくしてもらえるかな? これまでが、ちょっとひどすぎたから」
ケイはアンの晴れやかな笑みつられて笑いながら、自分の足首を指して見せた。
「そうかもね。でも、やっぱり、治せるものなら治したほうがいいと思うわ。歩けないよりも、歩けるほうがいいでしょ?」
アンの言葉に、ケイは考え込んでしまった。
この足は治るのだろうか。それとも、二度と歩くことはできないのだろうか?
どこの誰かもわからない男の子供を身ごもり、歩くことのできない、娼婦。そんな女を、いったい誰が愛してくれるだろうか?
考えれば考えるほど、うんざりしてくる。
熱くほてったルーの首を抱きしめながら、ケイは自分の未来を思った。
ルーを助けるのが、今の目的。そのあとは? ルーと一緒にいたい。でも、ルーはこんなあたしを愛してくれるだろうか? あたしとい一緒にいてくれるだろうか?
すこしでも障害になりそうな要素を減らしておきたい。だから――。
無意識のうちに自分の腹に触れていたケイは、拳をにぎって腹を殴った。
「ケイ?」
アンがケイの手に触れた。
「なに?」
「子供、ほしくないの?」
ケイは黙ってうなずいた。
「じゃあ、わたしにちょうだい。わたしはこんな体だから、出産には耐えられないらしいの。でも、子供はほしい。もしもあなたがいらないなら、産んで、わたしにちょうだい」
アンはにこやかに、しかし、とんでもないことを言う。
「なに言ってんの? どこの誰の子かもわからないのに――」
「親が誰かなんて、子供に関係あるの? 産まれたときから悪い子なんて、いないの。わたし、きっと、いい子に育てるから。ね、いいでしょ? わたしにその子をちょうだい」
「そんなこと――」
「それにね、ケイ。聞いた話だけど、自分のおなかを痛めて産んだ子は、どんな理由があっても最高にいとおしいんだって。きっとケイも、わたしにくれるつもりで産んだとしても、いざ産まれたら、手放したくなくなるんじゃないかしら」
そう言って、アンはくすくすと笑う。
「でも……」
アンの言葉が冗談なのか本気なのかわからないまま、ケイは首をかしげた。アンは笑顔をくずさず、ケイが抱いているルーの額にそっと触れる。
「命がとても尊いものだって、あなたもよくわかっているでしょ? 生まれてからも、そう。生まれる前も、そう。みんな大切なの」
アンの言葉が、ケイの心にゆっくりと染み込んでくる。
そう、誰にでも生きる権利がある。
もしもお腹に誰かの子供がいるとしたら、その子だって生きる権利があるのだ。
「ありがとう、アン」
ケイはアンの前向きさに心から感謝して、彼女の手を握った。
「どういたしまして」
アンは話をして疲れてしまったのか、目を閉じた。
「おい、ケイ。目印の岩があるぞ」
御者の席から、ドニが声をあげた。ケイは馬車から身を乗り出して、前方に転がる丸い岩を見た。
「本当に、あの岩かな?」
「間違いない。あの近くに、なにかを埋めたような痕跡が残っている」
ケイの目にはなにも見えなかったが、ドニにはわかるようだ。ケイとルーの足跡を追って二人を見つけることができた人なのだから、当然だとも言える。もしもケイがひとりで探そうとしたら、見落としていたかもしれない。
馬車を止めると、ドニはケイを抱きあげて岩の下に歩み寄った。
「見ろ、ここだけ地面がならされている。誰かがなにかを埋めた跡だよ」
ドニは説明してくれたが、それでもケイにはどことなく周囲と違う感じがする、というくらいしかわからなかった。しかし、二人でその場所を掘り始めてすぐに、ルーの胴体の一部が見えてきた。
最初に見えたのは、肩の部分だった。掘るにつれて、胸、腹、下腹部までがあらわになる。もちろん首はなく、両腕は肩のやや下、両足は腿の上部で切断されていたが、それでも胸に手をあてると心臓の鼓動が感じられる。
周囲の土をどかし、重い胴体を埋められていた穴から引きあげると、ドニが言った。
「首を」
「ええ」
ケイはかたわらに置いていたルーの首を、慎重に胴体の上にのせる。見る見るうちに首と胴がつながり、ひとつになった。
ルーはおおきくせきこみ、血を吐きながら、のどをぜいぜいと鳴らした。
「ドニ、水を」
ケイは言って、ドニが腰に下げていた皮の水袋を受け取ると、飲み口をルーの口に近づけ、水を与える。
「ルー、すこしは楽になった?」
水を大量に飲んで、いくぶん落ち着いた様子のルーに、ケイがたずねる。ルーは力なく首を横に振ると、かすれた声でつぶやくように言った。
「頼む、俺を、殺してくれ……もういやだ…こんなこと……死にたい……」
その苦しげな言い方が痛々しくて、ケイは思わずルーを抱きしめた。
「お願い。生きて。あたしはルーと一緒にいたい」
ケイの言葉にはなにも答えず、ルーはただ泣いた。最初はすすり泣きだったが、それはやがて激しい嗚咽に変わる。
ルーの頬を伝い落ちた涙が、ケイの肩をぬらした。その涙の熱さが、ケイの心に突き刺さってくる。
苦しかったんだよね、ルー。
ルーの苦しみは、ルーにしかわからない。あたしには想像することしかできない。でも、理解しようと努力はしてるよ。
だから、死にたいなんて、言わないで。
あたしにできる限りのことをするから、生きて。
「神は無情なり」
不意にドニがおおきな声を出して、歌うように言った。
「
手に入るは 我が望まぬもの
手に届かぬは 我が望むもの
神は望む者には与えず
神は望まぬ者に与え賜う
」
「ルー。おまえにはわかるだろうが、リオン・ロークの古い詩だ。生を望む者が死に、死を望む者が生きる。まったく、この世界は無情にできている」
ルーは子供のようにしゃくりあげながらドニを見あげた。ドニはつづける。
「ケイは、おまえがよりおだやかに生きられるように望んでいる。しかし、おまえはそれを望まない。おまえはただ死ぬことばかりを望むが、死は与えられない。すべてがすれ違っていて、なんとも滑稽な話だ」
「笑いたければ…笑えばいい……」
そう投げやりに言うルーを、ケイは強く抱きしめた。
そして、こんな状況でわけのわからない議論をルーにふっかけてきたドニに腹を立て、にらみつけた。
「そんな話、どうだっていいでしょ? ドニ、あんたの服をちょうだい。ルーに着せてあげたいの」
「待ってな。今、馬車からとってくる」
ドニはゆっくりと馬車に戻っていき、馬車に入った。
しかし、そのままいつまでたっても出てこない。
「どうしたの、ドニ?」
ケイは馬車に向かって呼びかけたが、返事がない。ケイはルーの涙をぬぐってあげてから、彼に口づけをして、体をはなした。
「あたし、ドニの様子を見てくる。待っていてね」
ルーは黙って、ちいさくうなずいた。
四つんばいになって馬車へ近づき、車内をのぞき込んだ。
馬車の中で、ドニはアンを抱いて体を揺らしていた。アンは目を閉じたままで、彼女の手はだらりと力なく伸びているだけだった。
即座に、ケイはなにが起きたのかを悟った。
「うそでしょ?」
「いや、死んだ」
わずかな希望込めて言ったケイの言葉は、ドニの静かな声にあっさりと否定される。
「だって、さっきまで話をしてたんだよ」
「アーマンの野郎に、だいぶ無理をさせられたんだろうな。かわいそうに。いつかこうなるとはわかっていたんだが……息を引き取るときに、そばにいてあげられなかったのが、なによりもつらいよ」
ドニの声は淡々としている。
「どうして、アンみたいないい人が、こんなふうに死んじゃうの? 変だよ。おかしいよ。だって――」
「なにも変なことはない。世の中は、そういうふうにできているんだ。死ぬやつは、いいやつばかり。生き残るのは、いつだって俺みたいなろくでなしばかり。それが、普通なんだよ」
「そんなことない。違うよ」
ケイの言葉を無視して、ドニは不意に陽気な声を出した。
「さて、俺には用事ができちまった。悪いが、これ以上おまえとルーの体探しにつき合うわけにはいかない。アンを連れて、リノに帰らなきゃならない」
「帰るって、アーマンが追ってるんだよ?」
「だからこそ、帰るのさ。やつとは、いろいろ話したいことがある」
一瞬だけ、ドニの目の奥に強い感情が動いて見えた。
その目を見て、ケイはドニがなにをしようとしているのか気づいた。
「だめよ。復讐なんて」
「そうだよな。きっと、アンもそう言うだろう。だからこそ、俺はこれまで人の命を軽々しく扱わないように務めてきた。でも、もうアンはいない。俺にとって唯一の良心は、死んでしまった。あとは、俺のやりたいようにやる」
「お願い、ドニ。あたしとルーには、まだあんたの力が必要なんだよ」
「悪いな。自分の道は、自分で切り開いてくれ。俺は、俺の決めた道を行く。とにかく、俺はあの野郎に、俺とアンの人生をさんざんに振り回してくれた礼をしてやらなければ気がすまないんだ」
硬い決意を秘めたドニの口調に、ケイは沈黙した。
「馬車は、置いていく。おまえたち二人には、必要だろう。俺はアンを背負って、歩いてリノに戻るよ」
「ばかなこと言わないで。今のあたしのこの体で、御者の席への乗り降りができるわけないでしょ。馬車はあんたが使って。それに……きっと必要になるでしょ、用心棒たちの中を突っ切るときに」
ドニは、悲しげに微笑んだ。
「すまんな、ケイ」
「お礼なんていいから。とっとと支度をしようよ」
ドニはリノの街へと戻って行った。
ケイは、ルーにドニからもらった服を着せ、カーテンの切れ端で自分の体にしっかりとしばりつけた。手足のないルーと、ちょうど胸を合わせて抱き合うような格好になっている。ルーの体は非常に重く、その状態では体を起こすことさえ難しい。
それでもケイは、四つんばいになって街道を進みながら、次の目印を目指した。殺されてしまった男から聞き出した目印は、倒れた木。そこに、ルーの左足が埋まっている。
しかし、四つんばいで、しかも重いルーの体をしばりつけた状態では、思うように進むことができない。すぐに両腕は重さに耐え兼ねてぶるぶるとふるえ始め、体からは汗が吹き出し、膝と手の皮がすりむけて血がにじんだ。
疲れ果てたケイは、道端であお向けに横になった。
はい進んできた方向に目を向けたが、ルーの胴が埋まっていた場所の目印の丸い岩が、まだすぐ近くに見える。
いったい、ルーの体を拾い集め終わるまでに、どれほどの時間がかかるのだろうか。そのことを考えてうんざりしたケイは、ため息をついて目を閉じた。
ルーの重さを感じる。しかし、それは重荷ではなく、愛すべき重さだった。ケイは両腕をルーの背にまわして抱き、ルーの耳に口づけをした。彼女の耳にはルーの息遣いが聞こえ、鼻にはルーのにおいが満ちる。
ケイはルーの息遣いに合わせて、ゆっくりと呼吸をした。今、こんなに近くにいて、お互いの息を聞きながら、休んでいる。
なんて、幸せなんだろう。
ケイがルーを強く抱きしめると、不意にルーが口を開いた。
「なぜ……なんだ? 教えてくれ、ケイ」
「なぜって、なにが?」
「どうして、俺を助ける?」
「ルーが好きだからだよ」
「そこがわからない。どうして俺のような人間を好きになるんだ?」
「理由がなきゃ、いけない?」
「理由がなくて誰かから好かれるのは、ひどく不安だ」
「どうして不安なの?」
「……わからない。なぜだろう?」
「変なの、人に理由を聞いておいて、自分のほうに理由がないんじゃない」
「きっと、誰かから好かれるというのは、とても心地いいことだからだろう。その状態を維持したいのに、どうすれば好かれるのかがわかならいと、いったい自分がどうすればいいのかがわからなくなる」
「難しすぎて、わかんない。いろいろ考えすぎだよ、ルー。もっと単純に考えようよ。あたしはルーが好き。ルーはあたしのことをどう思ってるの?」
ルーは黙り込んでしまった。
ルーの耳と髪の毛は見ることができるが、彼の表情を見ることはできない。ただ、何度か、なにかを言おうと息を吸い込み、そのまま息をつめてしまうような息遣いだけが、ケイには感じられた。
「なにをためらっているの?」
ケイの問いに、ルーはささやくように言った。
「俺は、死なない。愛した人の死に、二度立ち会った。それがいやで、誰かを愛することに怯えている」
「そういう子供みたいなことを言ってるルー、好きだよ」
「子供みたいか?」
「うん。ばかみたい。でも、ばかで頭がよくて、弱くて強くて、子供みたいで大人みたいで、そういうわけのわかんないところがいいんだよね」
ルーは、ちいさく笑った。
ケイは彼がどんな顔をしているのか見てみたくなり、ルーの顔をつかむと自分の目の前に移動させて、表情を見た。
落ち着いた、いい表情をしている。なにかにとりつかれたような顔でもなく、苦しそうでもない。ルーと出会ってから、こんなに明るく輝いた表情を見たのは、はじめてだった。
「手や足は痛くないの?」
「痛いけど、首を切られていたときの苦しみに比べれば、どうってことない。それに…」
「なに?」
「もうしばらく、このままでもいい。ケイに抱かれているのも、悪くない」
ルーは、笑った。
ああ、ルー!
ルーがそんなことを言うなんて。まるで……そう、まるで生きていたいと思っているみたい。
ケイは感情をおさえきれなくなり、ルーの唇を吸った。ルーは、ケイの下唇をやさしく噛む。ケイの胸は高鳴り、体が熱くなった。ルーの口の中に舌をねじこむと、彼の弾力のある舌が押しかえしてきた。
ルーが、こたえてくれている。
ケイはそれだけで、気を失ってしまいそうなほど嬉しかった。
しかし、不意に、未来が不安になる。
もしもルーが『光のかけら』を見つけたら? 彼は死んでしまうのだろうか。彼が死んだとき、ケイはドニがそうだったように、愛する人の死に接して毅然と振舞うことができるのだろうか。
考えるだけで、おそろしい。
それでも、彼が『光のかけら』見つけられるように、手伝ってあげなければならない。死んでほしくない人が死ぬためのものを探す。なんという矛盾だろうか。
「ねえ、ルー」
「なんだ?」
「もしもルーが『光のかけら』を見つけたら、どうなるの? すぐに、死んじゃう?」
「わからない。でも、普通なら死ぬような経験をたくさんしてきたから、すぐに死ぬんじゃないかな」
「そう…」
「いいじゃないか。それは、そうなったときに考えれば」
そう言うルーの顔は、生き生きと光り輝いて見える。
ケイは不安を消し去ることができないまま、体を動かして再び四つんばいの体勢になった。
「行くのか?」
「うん。はやく足を見つけよう」
ケイは両手と膝の痛みをこらえながら、はい進む。
朝も早かったせいで、これまでは誰の姿も見かけなかった。しかし、もうすこし昼に近くなったら、この街道も人通りが増えてくるだろう。そうしたら、誰かに力を貸してもらえるだろうか?
それとも、アルのような盗賊か、馬を盗っていった老婆のような泥棒か、アーマンの手下たちか、とにかくケイとルーにとってはありがたくない人たちと出会うことになるのだろうか。
そう考えると、不安なことのほうが多い。
しかし、それでもケイは進まなければならない。
彼女の決意は、まったく揺らがなかった。
その日の夕方までに、ケイはルーの両足を見つけることができた。
途中、はい進むケイの脇を何人もの旅人たちが通りすぎていったが、二人の様子があまりにも奇異であるせいか、誰ひとりとして声をかけようとするものはいなかった。助力を得られないことは苦しかったが、それでも疑心暗鬼に陥って相手を信じてもいいのかどうか迷うよりも、ケイには気楽に思えた。
太陽が赤くおおきくなり、ゆっくりと沈んでいく。
その赤い光を受けながら、ケイは疲れきった体を横たえた。両足がつながったルーは、ようやく自分の力で体を動かせるようになっていた。今は身を起こして足を投げ出し、腿をケイの枕がわりに提供していた。
「苦労をかけたな。これからは、俺がケイを背負って歩こう。ケイは、俺のかわりに俺の腕を探して、地面を掘ってくれ」
「うん」
ケイはルーの腿に頬をすりつけ、両腕で彼の腰を抱いた。
「その手。ずいぶんひどいことになってる」
ルーに言われて、ケイは自分の手を見た。
手枷から逃れたときにできた手首の傷は、あいかわらず皮がおおきくむけたままだった。加えて、手のひらには土と血が混ざってべっとりとこびりついている。
「平気よ。たいしたこと、ない。それよりも、ルーは腕が痛くない?」
「痛い。でも、俺も平気だ」
アーマンの手下たちは、追ってきていない。いや、まだ追いついていない、と言うべきだろうか。それとも、戻っていったドニが、追い払ってしまったのだろうか?
ドニ。
「無事だといいんだけど」
「ドニか? そうだな。やつほどの男なら、そう簡単にやられることはないと思うが」
「アーマンにはお仕置きをしてほしいけど、でも、これ以上誰にも死んでほしくないよ」
「ケイ、君はやさしい人だ」
「そんなんじゃない。ただ――」
気持ちがうまく言葉にできず、ケイはそのまま口を閉じた。
ルーが体を曲げて、ケイの手に口づけをする。
ケイはルーの腹と腿に顔をはさまれて、幸福感に満たされた。
「ルー」
「なんだ?」
「なんでもない」
ケイは、この幸福感が永遠につづくはずがないことを、知っている。だからこそ、過去になにがあったとしても、未来になにが起きるとしても、今を楽しんでいたい。
ケイはルーの腿に口づけをした。
「ケイ」
「なに?」
「君は最高だ」
「なに言ってんのよ」
ケイはルーの顔を見あげた。ルーは真剣な表情で、ケイを見ている。
「早く腕を見つけて、君を抱きしめたい」
「楽しみにしてるよ。でも、いいの? あたしは、このまま一生歩けないかもしれない。それに、どこの誰かわからない人の子を身ごもっているかもしれない。こんなあたしでも、本当にいいの?」
「それで君の価値が変わるわけじゃない。俺は君を、愛しつづけるだろう」
ルーがもう一度、手に口づけをしようと体を曲げた。腹と腿にはさまれる圧迫感が嬉しくて、ケイはくすくすと笑った。
不意に、ルーは身を起こして、ケイをまじまじと見つめる。
「ルー、どうしたの?」
「……まさか、そういうことなのか?」
「なんの話?」
「『光のかけら』のことだ。今、気づいた。俺にとっての『よきもの』のこと。かんたんなことだったんだ! 俺は人を憎むことで呪いを受けた。自分が生まれてきたことを憎悪して、呪いを受けた。とすれば、呪いはその逆のことで解けるはず……」
突然の言葉に、ケイは息をのむ。
「そうか。ホールの賢者は、本当のことを言っていたんだ。俺は、とうとう見つけた」
ルーは言って、微笑んだ。
「待って、そんな――」
いやだよ。
まだ、いや。
やっと一緒にいられるようになったのに。
そんなケイの思いと無関係に、ルーは話しつづける。
「俺がこれまで持っていなかった『よきもの』は、人を愛すること。そして、その人とできるだけ長く生きていたいと思うことだ」
あたしは、喜ばなければいけないの?
嬉しいけど、いやよ。
お願い、その答えは間違っていて!
「俺の『光のかけら』は、ケイ、君へのこの気持ちだ」
ルーは、はっきりと宣言した。
あたりには、静寂が訪れる。音もなく荒野を通りぬけていく弱い風は、焼けた土のにおいがした。もう沈んでしまった太陽の残光が、西の空だけを深い茜色に染めている。
そして、二人の息遣いだけが、あたりに響いていた。
ふと、ちいさな光の粒が、空から舞い降りてきた。光の粒は二人の上で浮遊しながら止まり、光を増し始める。
「だめ!」
ケイは光の粒を追い払おうとして手を振ったが、ケイの手はただ光の粒を素通りしただけで、何にも触れなかった。
「いいんだ、ケイ」
「よくない」
ケイはさらに明るさを増していく真っ白な光からルーを守るように、彼の体に覆いかぶさった。
「いいんだよ。ありがとう、ケイ」
白い光に包まれてなにも見えなくなる直前、ケイはルーがおだやかに微笑みながら、顔を近づけてくるのを見た。
そして、口づけ。
なにも見えないまばゆい光の中、ケイはルーの唇を吸いながら、強く抱きしめた。
ケイの腕の中で、ゆっくりと、ルーの体から力が抜けていく。
いや!
いやだよ、ルー。
お願い。
いかないで!
ケイの願いもむなしく、ルーは力なく横たわった。
光の中でルーを抱きしめながら、ケイは思う。
やっぱり、世界は、無慈悲だ。
* * *
ルーが死んでから、ちょうど二年になる。ルーの命日に、ケイは安楽椅子に座りながら、いまだ愛してやまない人に想いをはせていた。
ルーと出会ってからのわずかな間に、非常に多くのことがあった。多くの人と出会い、多くのものを学んだ。
アーマン。
彼はあの日、戻っていったドニと対決する前に、以前から対立していたトーリ一家の殺し屋に襲われて、用心棒ともども殺されてしまっていた。
かわいそうなアーマン。
彼は結局、彼にとっての光のかけらを見つけることなく、死んでしまったのだ。
エリーも、それからまもなくして、ぽっくり死んでしまった。太りすぎで、心臓に負担がかかりすぎたのだろう、という噂だった。彼女は、最後までお金に執着しつづけたままだった。それでエリーが幸せだったのか、今となっては誰にもわからない。
アルを首領とした十二人の盗賊たちは、エリーが死んだ半年後くらいに捕まり、処刑された。
盗賊たちを捕まえるために、たくさんの兵士がライの都から派遣されてきた。この兵士たちを率いていたのがルーのお兄さんのマールだったということを知ったのは、彼らがライの都へ引きあげたあとになってからだった。
ドニは、元気で生きている。再婚して、子供ができて、今では孫までいる。ケイとはよき友人として、あれ以来ずっと親しいつきあいがつづいていた。
ケイは、あれからずいぶんと勉強をして、文字が読めるようになった。ドニに薦められて読んだリオン・ロークの詩集のことが、今でも記憶にはっきりと残っている。あの日、ドニが歌うように聞かせてくれた『神は無情なり』という詩は、あれがすべてではなく、つづきがあったのだ。
手に入るは 我が望まぬもの
手に届かぬは 我が望むもの
神は望む者には与えず
神は望まぬ者に与え賜う
こぼれ落ちるは 我が愛するもの
積もりゆくは 我が憎むもの
神は愛するものを奪い
神は憎めるものを残し賜う
憎めるものを 愛せよ
無情なる神を 愛せよ
そして 愛せよ 人を
人よ 愛せよ
もっとも、ケイには、その詩の意味はよくわからない。どことなく悲しげな雰囲気と、あたたかな雰囲気の混ざった言葉が、なんとなく忘れられないだけだった。それよりも記憶に残っているのは、リオン・ローク本人がこの詩のために書いたという、挿絵のほうだった。
まだ幼さの残る少女が、空を見あげて手をのばしている。空には星が輝いているが、少女の手は星には届かない。少女の足元には、一輪のきれいな花がひっそりと咲いている。その少女の表情としぐさがなんとも愛らしく、見ているだけで頬がゆるんでしまったことを、ケイははっきりとおぼえている。
挿絵の少女を思い出しながら微笑んでいると、女の声がした。
「お母さん、ただいま」
そう言って家の中に入ってきたのは、長女のアンだ。アンは結婚して息子を産み、その孫息子は今がわんぱくの盛りだった。
「おばあちゃん!」
細身ですばしっこい孫息子は、ケイに駆け寄ってくると彼女の膝の上に乗り、力まかせにしがみついてきた。
「来たな、わんぱく小僧。また背が伸びたね?」
言いながら、孫息子の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱してやる。孫息子はおおきくなるにつれて、顔だちがだんだん盗賊のアルに似てきたようだった。父親よりも祖父に似ることは、さほど珍しいことではないのだろう。
「ああ、姉さん。おかえり」
奥から出てきたのは、長男のカルだった。カルの妻は今夜の料理の材料を孫娘と買いに出ている。もうじき、家を出て暮らしている次男夫婦も帰ってくるはずだった。
ルーの命日が、今では一家が集まる大切な記念日になっている。
そう、ルー。
いとしい人。
あの日、光に包まれて気を失ったあとで、ルーは不死身ではなくなった。しかし、彼は両腕を失ったものの、それから三十年にわたって生きつづけ、ケイとともに暮らし、家庭を築いた。腕のないルーをケイが助け、膝から下に力の入らないケイをルーが助ける。不便も多かったが、それでも素晴らしい年月だった。
すべてが、大切な宝物。
ルーと過ごした時間も、おそらくは盗賊のアルの子であろう長女も、そのあとルーとの間にもうけた長男と次男も、子供たちの家族も。
両足首に刻まれた傷も、両手首の傷跡も、大切な記憶。
神は無情にもケイからルーを奪ったが、生きていたときのルーと死んでしまったあとルーのどちらもが、ケイにとっては大切なものなのだ。
そう、なにもかもが、素晴らしい。
ケイは、にぎやかに近況を報告しあっている家族たちの会話を聞きながら、思った。
思うほど、世界は無慈悲じゃない、と。
完
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