2005年3月21日(月)

濡衣の年頃

「偽りの。文字を分くれば。人の為」。
近松半二「本朝廿四孝」四段目・「道行似合の女夫丸」冒頭の詞章だが,この複雑にして錯綜、雄渾にして長大な浄瑠璃の本質を一言で言い当てると同時に、同じ作者の「子という文字に死の声の」(妹背山「吉野川」)と並んで、義太夫の名詞藻の屈指たるを疑わない。
偽り。
確かに「本朝廿四孝」の登場人物たちの人物設定と背負う世界には偽りが満ちている。しかし、冒頭の詞章の通り、「偽り」とは大目的を隠す為の手段であって、「偽り」のスケールが大きければ大きい程、その背後に隠れた「真実」の意外性への驚嘆、彼ら登場人物のこれまでの行動の正当性への畏敬が見えて来る。
偽勝頼は、最後まで自分を勝頼と信じて死んで行く。その首は、結果的には「偽首」として、本物の勝頼への忠、我が子として隔て無く育ててくれた信玄への孝になる。
この偽勝頼が、本物の勝頼と生まれて直ぐすり替えられたのも、父である家老板垣兵部の悪心からであった。
しかし信玄は当初からその陰謀を察知し、乳母に命じて本物の勝頼を百姓簑作として育てさせ、折々対面しては将来を言い含めていた。思えば、百姓簑作が本性を顕すまでの17年の生も、偽りの生であった。
とすれば、諏訪明神の力石に座り、車遣い達に因縁をつけられ困惑している簑作を兵部が助け、偽勝頼(すなわち我が子)の身替わりにしようと連れ帰るのも、裏を返せば勝頼切腹の期日を契機に、兵部の悪行を暴き、簑作を勝頼として新生させようという、信玄・簑作言い合わせての大芝居と取れないこともない。

哀れなのは濡衣である。
彼女は偽勝頼と相愛の仲。その不義を、信玄の室・常磐井御前は敢えて許し、夫婦としてこの場を立ち退けとすら言う(常磐井は、まだ勝頼が偽者とは知らない)。
結局兵部の帰館も間に合わず、偽勝頼は切腹、更に兵部の悪業まで暴露される。
申し訳に濡衣は兵部の刀で自害しようとするが、瀕死の兵部に「謙信のもとにある諏訪法性の御兜を奪取することこそ、偽勝頼の死後の言い訳」と説かれ、常磐井(知らぬながらも偽勝頼を通じて嫁姑の関係になる。つまり濡衣にとっては「母」である)に諭されて、死を思い止まる。
思えば、濡衣が愛した男は「武田勝頼」ではなく「板垣兵部の息子」であった。
たしかに、この若者の勝頼としての生は虚構であったかも知れない。
作者が敢えてこの若者を盲目に設定したのも、悲運の貴公子という以上に、武田家嗣子としての欠格性を暗示したのである。
しかし、「兵部の息子」としての17年の生はあくまで実在した。そうでなければ、濡衣の愛も、これまでの人生も、全て虚構ということになってしまう。
「命に代えて取返さん」。
諏訪法性の御兜の奪還 は、いわば濡衣にとって自分が愛した男の「実在」を証明する作業であり、後半生の人生目標であった。
「十種香」で八重垣姫に兜を盗めと迫る、ズッケリとした口のききようは、それを読み解かなくては理解出来ない。
しかし、濡衣には、哀しく辛い旅が待っていた。
亡き夫とそっくりの、主人武田勝頼(簑作)との信濃路さしての探索の旅が。
それを「道行似合の女夫丸」とわざわざ名付けた近松半二も、相当皮肉な人だったのだろう。

3月16日付の読売新聞夕刊での国立「本朝廿四孝」評で、私は、今回三十四年振りで「信玄館」が出るので、「十種香」の複雑な人物関係が良く判る、と書いた。
確かにその通りなのだが、約600字という紙幅の制約を超えて敢えて敷衍すれば、やはり「信玄館」を出すなら、その前の足利御所、せめて諏訪明神を補綴すべきであったと思う。
勝頼が何故切腹しなければならないかと言えば、三年前京都室町御所で、時の将軍足利義晴が井上新左衛門という謎の侍に鉄砲で暗殺され、武田長尾に疑いがかかり、両者に下手人詮議が命じられ、将軍三回忌にまで事件が解決しなければ、双方の嫡子・勝頼・景勝の首を差し出すことになっているからである。このサスペンスが無ければ、「信玄館」は生きて来ない。
二段目の口が「諏訪明神」。
ここでは、前述した兵部に助けられる簑作をはじめ、勝頼の為にお百度を踏む濡衣、景勝の家来を殺し奉納の太刀を盗んだ横蔵を、一旦切ろうとして助ける景勝、力石を押し上げて登場する異形の老人と横蔵の出逢いが描かれる。
つまりこの場は、三段目「桔梗ヶ原」「勘助住家」という山本勘助・直江山城の物語と、二・四段目の勝頼・濡衣・八重垣姫の物語へと繋がる伏線の交差点なのである。
確かに、今回の様に後者の筋のみで通すと、「諏訪明神」を例え出しても隙だらけになってしまうが、だんまりなどを使って視覚的に処理する方法があろう。
少なくとも、兵部が勝頼そっくりの若者を何らかの理由で連れ帰る、という発端は見せておいて損はない。

余談だが、三段目「筍掘り」こそ、この物語の「偽り」と「真実」を雄弁に語る場といえよう。
浄瑠璃でも屈指の難解さで知られるこの場を何とか読みこなせたのも、内山美樹子「『本朝廿四孝』論」のおかげである。
謎解きのサスペンス以上に、浄瑠璃とは、ここまで行間をくみ取らねばならぬのか、という一種の感動すら覚えた。
「浄瑠璃史の十八世紀」(勉誠社)という浩瀚な研究書に収められているが、先年團十郎・鴈治郎・徳三郎が国立で演じた時(1999年11月)の上演資料集413 で読むことが出来る。未読の方には是非ご一読を薦めたい。

さて、以前劇評で濡衣を「年上女房」と書いたら、その根拠は、とのお尋ねがあった。
まず、勝頼と八重垣姫であるが、
初段に将軍北の方の詞として「景勝の妹に八重垣姫とて聞ゆる美人。武田には勝頼とて年頃同じ子のある由」と、将軍の仲立ちで二人の婚儀が約される。
つまり二人は同年配。
続く三年後の二段目で、濡衣が明神にお百度を踏み、鈴の綱が切れて落ちる。「不吉な」と拾い上げると、綱には「十七歳の男子。息災延命」と記されていた。濡衣は「お主のお年も丁度十七」、これ吉左右と喜び勇んで帰って行く。
つまり、偽勝頼と、同時に生まれた簑作、そして八重垣姫は十七歳である。
では濡衣はいくつか。
夕暮れ時、参詣人も途絶え、神寂びわたる諏訪明神の神前に現れた一人の女を、半二はこう記す。
「年も漸う十七か破竹草履も足軽に見ゆる。所体もぼっとり風」。濡衣である。
破竹は「淡竹」。竹の一種で、その皮で作った草履を「淡竹草履」と言う。
「ぼっとり」はあどけなくしなやか、という感じであろうか。
しかし言うまでもなく大切なのは「十七か破竹」という件で、「十七か八、九」に「破竹草履」を掛けていることである。
明らかに作者は濡衣を勝頼より年上に設定しているのだ。
その上でドラマを読んで行けば、腰元という立場 を超えて主人と契る熱情が理解できる。

そして「十種香」。
勝頼の絵像(そのモデルは偽勝頼)を前に香を焚きしめ、いわば「バーチャルリアリティ」の世界で恋を成就しようとする八重垣姫。
一年前に亡くなった亡夫の位牌に寂しく合掌する濡衣。
その二人の間に、忽然とかつての勝頼そのままの衣服大小の簑作が現れる。
八重垣姫にとってはそれは本物の勝頼であるが、濡衣にとっては、亡夫とそっくりであってもそうではない。その苦悩、煩悩、寂寥が、「後ろにしょんぼり」という表現に集約され、亡夫の形見の小袖を媒介として、あの恋の思い出が、再び 身体に甦って来る。
その上、深窓の姫君とは思えぬ八重垣姫の大胆な言動が、濡衣の情念を突き動かす。
「まだお子達と思いの外」という濡衣の一言に、年下の女に先を越されたという彼女の思いを読むことが出来るし、姫に「諏訪法性の兜を盗め」というのも、女の嫉妬のなせる悪意が透けて見える。姫にとって、兜を盗めば夫への功になるが、父謙信への孝に背くことになるからである。濡衣は、姫に究極の選択を迫ったのだ。
結局、謙信に奥に引き立てられた濡衣は、将軍奥方手弱女御前の身替わりとなって、父斎藤道三の鉄砲で果てる。
道三こそ将軍暗殺の真犯人であり、花守関兵衛と身をやつして、長尾館に潜伏していたのだ。

濡衣が何故身替わりに立ったのか、謙信の強制だったのか、そこまでは半二は書いていない。
しかし、八重垣姫も夫の為に、兜を手に諏訪の湖を女の一念で越えた様に、濡衣も亡夫偽勝頼切腹の原因を作り、天下を狙う謀反人の大望を阻止するという大義のもとに、父道三への「孝」に進んで背いたと思いたい。
八重垣姫が兜を盗んだ以上、彼女の本来の目的は達せられた。彼女は、あとは自らの死によって、夫偽勝頼の死を、偽りから意味のある「真実」に変えようとしたのである。
結局道三は天運を悟って自害、道三と手を結んでいた北条氏時も、武田・長尾に討たれる。
信玄・謙信の確執も、実は謀反人の謀略という真実をあぶり出す、巨大な「偽り」であった。
その壮大な虚構の中で、多くの登場人物が抗い、斃れ、生きた。
「偽りの。文字を分くれば。人の為」。
近松半二、よくぞ言ったりというほかはない。

勘三郎襲名については、次号「テアトロ」に詳しく書く。
一条大蔵長成という人物については、既に別項「梶原・大蔵卿のことども」で詳しく記したし、「盛綱陣屋」については、2003年11月24日の「余滴」に「篝火というおんな」として書いたので、詳しくは繰り返さない。
「本朝廿四孝」「鬼一法眼三略巻」「近江源氏先陣館」。
何十回と観た芝居でも、本文にあたれば、いつもなにがしかの新しい発見の喜びがある。
歌舞伎の面白さ、手ごわさはそこにある。


2005年3月19日(土)

灯籠の行方〜万太郎劇と「求塚」〜

儚い命を精一杯繋ごうとするかの様に、隅田川畔の川面をたゆたう無数の灯籠のほむら。
その行方を万感の想いを込めて見つめる人々。
18日夜、会社を終えた後観た、みつわ会公演・久保田万太郎作「くさまくら」(北品川・六行会ホール)の終幕は、余情溢れる好舞台であった。
みつわ会は、文学座・演劇集団円・劇団新派の有志が集い、それぞれの劇団に由縁深い久保田万太郎の掌編を毎年上演して、今年で8回目になる。地道だが、もっと取り上げられても良い企画だ。
かく言う私も、昨年の「四月盡」「鶴亀」で、前者に「一条久枝が出る」というただその一点で駆けつけて、その存在を初めて知ったのだから、偉そうなことは言えない。

今回取り上げられたのは「通り雨」(大正十五年四月「中央公論」発表)と「くさまくら」(昭和二十二年九月・有楽座公演書下ろし)の二作である。
両者の物語には全く脈絡がない。
しかし並べて観ると、その間の二十二年間に東京を襲った激変が、社会と世情を如何に変化させ、人間の運命を弄んでいったかという、「隠れた主題」があぶり出されて行く。

「通り雨」の冒頭では、今では全く失われてしまった「無盡」「頼母子講」の風景が生き生きと描かれている。
近所の人々が寄り合って、掛け金を出し合い、籤を引き、金を分配しあう。
その場に遅れて来た新井。出席者の話から、新井がつい数日前一人子を喪ったことがわかる。
つれないじゃないかと言われ、「子供のことですから」と頭を下げる新井。町内共同体の連帯と、奥床しさがさらりと描かれる。
そこへ町内の榎本が現れ、新聞を示して、今日不在の喜之助が、歌舞伎の大名題の娘と結婚すると知らせる。
思わず紙面に見入る面々。その中で、新井の顔がサッと変わる。講の代表を勤める慶蔵はそれを見逃さなかった。
喜之助の慶事の話題を避ける様に、一人席を立つ新井。皆も三々五々帰って行く。
一人残った慶蔵に、女房のおのぶが、喜之助の結婚を、あの人はどう思っているでしょうね、と呟く。

あの人とは、新井の女房おさとのことである。
おさとは、以前喜之助と付き合い、そのあと新井の妻となった。
喜之助と新井は正真の友人だ。新井も喜之助とおさとのことを知っての上で結婚した。
喜之助自身、後ろ暗さも無く、分け隔て無くおさととも付き合う。子供の通夜ともなればかけつける。
しかし、新井の中には、わだかまりの渦が静かに渦巻いていたのだった。
遅れてやってきた喜之助に、慶蔵は人生の先輩として、新井の胸のうちを諄々とぶつける。
黙って聞く喜之助。
実は、喜之助は直前に新井の家に弔問に訪れ、おさとと話込むうち、帰宅した新井と鉢合わせしていた。
一言も口をきかない新井。
そんな不機嫌な友人の姿を見たのは喜之助には初めてだった。
わだかまりを胸に秘めながら、子を喪った哀しみに耐える新井の翳りと、慶事で一躍時の人となった喜之助の運命の岐路。
二人の対面と新井の様子を聞いた慶蔵は呟く。
それでいいんだ、ふっきれればいいんだ、と。
おのぶがお汁粉を運んで来る。黙って箸を運ぶ喜之助。静かに幕が下りる。
ここで良いのは、野村昇史演じる慶蔵の存在感である。
人生の機微を知り尽くした老人が、町の若者たちにさり気なく意見し、導いていく知恵の尊さというべきだろうか。

そうした無辜の人々の知恵・人生の集積は、それから二十年後の東京大空襲によって焼き尽くされた。
まるで「無盡」の籤を引く様に、ある人は辛くも助かり、ある人はぼろ切れの様に猛火に焼かれ、隅田川の川面に無惨な亡骸を曝した。
それを分けたものは、運命というしか言うほかはない。

「くさまくら」は、昭和二十二年八月中旬、浅草隅田公園近くを舞台にしている。
土木建築請負「中村組」の徳之助は、九州から訪ねて来た幼なじみで吉原の元名妓・おさとを居候させている。
徳之助とおさとは、両親同士肝胆相照らす仲。おさとは二十年前九州の金持ちに身請けされ、夫が亡くなったので東京に舞い戻って来たわけである。
それが徳之助の女房おしんには面白くなく、嫉妬の炎を燃やしている。
この主筋に、以前は軍需事業で飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが戦争で零落し、挙げ句に愛人の父を過失で殺し、明日から四年服役する 徳之助の仲人半造、以前は売れっ子噺家だったのが今は寺男の惣介が脇に絡む。

おさとは、流石に元名妓らしく華やかで、開けっぴろげで、翳りが無く、いつまでも若々しい。
それが徳之助にとって嬉しくて堪らない。
徳之助にとっておさとは、青春の、いや灰燼に帰した東京の幻影なのだ。
おさとが、九州に行っていてこの20年間の東京を知らない、というのも大切な設定だろう。
遂に怒りを爆発させたおしんを、徳之助は外の隅田川岸に連れ出す。
おしんは言う。おさとは万事「昔はああだった、こうだった」。
でも、今はそんな世の中なんて影もかたちも無いんだ。時勢はみんな変わっているというのに…。
ついにおしんは言ってはいけないことを口にする。
「あなたはあの人が好きなんです」。
徳之助の平手が、おしんの頬に飛ぶ。

隅田川を、ゆっくりと灯籠の群れが流れて来る。鎮魂の灯火が。
いつのまにか、半造も、惣介も、そしておさとも無心に灯火を追っている。
おさとは言う。やはり東京に帰ってこられないと。

「東京へ帰って来たら、灯籠が消えますわ、あたしのゆめの…」
「…あたし、今度、東京へ来て、観音さまの焼けたのをみましたわ、…吉原の焼けたのをみましたわ。…でも、あたし、焼けたあとに立って、どうしても焼けたと思えませんでした。どッかにまだ、むかしのまんま、観音様でも、吉原でも残つてるにちがひないといふ気がしました。…でも、矢っ張、それはうそ、あたしの勝手なゆめでしたわ。…ですから、あたし、そのゆめのいくらかでもまださめないうちに九州へ帰りますわ。…九州へ帰って、いつまでもそのゆめを抱いて、音無しく九州の土になりますわ」。

見送る者それぞれの万感。灯籠はゆったりとかすかな明かりをたたえながら、川面を流れて行く。
昭和二十二年という占領下であるから、作者は正面切って描けなかったものの、この作品の背後に、東京大空襲で喪われた都市文化への痛切なレクイエムが流れているのは明らかであろう。
おさとの中に、その父・吉原の辰頭(「通り雨」の慶蔵と同様の、人生の達人)の面影を見る徳之助。
かつての観音と吉原の幻影を必死に引き戻そうとするおさと。
冷徹な現実に日々直面する生活者としてのおしん。
世情の変化から芸を捨てた惣介。
まさに戦争によって零落した半造。
そして舞台である隅田公園自体、言問橋をはじめ、筆舌に尽くしがたい地獄絵図の舞台となった。
登場人物は皆、「昭和20年3月10日」を負っている。
その思いの全てを、灯籠流しの詩情に収斂させた浅草っ子万太郎。技巧を超えた、痛恨と愛惜を私はそこに読む。

これとは別に、「通り雨」と「くさまくら」を比較してみると、僅か20年ながら、時代の変化が何とも面白い。
例えば、前者では喜之助と役者の娘の縁談が新聞に乗るなどごく普通の話である。
おそらく、登場人物たちが読んでいたのは「都新聞」だろう。
ところが、後者で惣介が中村組の若い者勝次郎に、昔は名妓や花柳界の話題を競って新聞が書いたといっても勝次郎にはピンと来ない。
60代の惣介が、昭和二十二年の段階で「ファン」「コンビ」という言葉を使っておさとにハイカラとからかわれるのも時代相である。
徳之助が、おさとの九州での生活を「金襖」、半造の零落を「紙子を着る」と表現するのも、万太郎独自の芝居趣味もあろうが、当時はそうした言葉がごく自然に口をついて出たということだろう。
今から見れば、遠い昔の話である。
六行会ホールは京急新馬場駅前。地下の、こじんまりとしたホールである。
伯母の片岡静香(演劇集団・円)が「通り雨」のおのぶに出ていたからであろうか、18日は孝太郎夫妻に千之助、愛之助、仁左衛門夫人、門弟の當十郎が客席にいたのが目を惹いた。

19日は、 渋谷のセルリアンタワー能楽堂で久々に能を見た。
演目は、山本則俊・則直の狂言「伊文字」のあと、喜多流・塩津哲生による「求塚」。
これもまた、凄まじい運命と業火の物語である。
元々は万葉集から「大和物語」に摂取された説話を、観阿弥が劇化した。

摂津生田の里に、一人の処女(おとめ)が居た。
そこに、同日同時に二人の男から求愛の文章が届く。しかも文面まで全く同じ。
処女は「あなたへ靡けばこなたの恨みとなるべければ」、どちらとも決めることが出来ず、結局「生田川の鴛鴦を射たら」と条件をつけたところ、これもまた二人の男の矢が同時に鴛鴦のつがいの片方を射殺してしまった。
「無慚やなさしも契りは深緑の、水鳥までもわれゆえに、さこそ命も鴛鴦の番い去りぬるあわれさよ」。
 世をはかなんだ処女は、「思い侘び、我が身捨ててん津の国の、生田の川は、名のみなりけり」の歌を残して入水、亡骸は塚に葬られる。
その塚を求めて(それゆえに「求塚」)やってきた男二人は、もはや生きる甲斐なしと刺し違えて自害。塚の左右の葬られる。

前半、若菜摘みの女たちにまぎれて登場する前ジテは、旅の僧にさり気なく素性を暗示して、造り物の塚に消える。典型的な夢幻能である。
里の男の物語が例の如くあり、塚から再び姿を見せた後ジテは「痩女」という悽愴な面を付け、地獄の業苦を語る。
処女は、両親に先立ち自害した罪、鴛鴦の番いの一羽を殺した罪、男二人を死に追いやった罪で業火に焼かれている。そこには、終わりも救いも無い。
「あなたへ靡けばこなたの恨みとなるべければ」という消極性、不決断の罪もあるだろう。
しかしそれは、同時の恋文という偶然の「運命」であった。
もしどちらかが先であったなら、鴛鴦も、女も、男たちも死ぬことはなかった。
卑小な人間を突き動かす運命の力。そこに、能の現代に通じる劇作術の卓抜性がある。
塩津は、前ジテよりも八大地獄を語る後半、「無間の底に」と下を覗き、「足上頭下と落つる間は」で中啓をトンと突くあたり、生々しい実感があった。

久保田万太郎と観阿弥。600年の隔たりはあるものの、そこに共通するのははからずも「運命の力」であった。



2005年2月19日(土)

勘三郎余香〜安宅丸考〜

○さる雑誌に依頼され、三月からの勘三郎襲名に因み、中村座の由緒を書くことになった。
調べはじめて、はたと困った。
まず、江戸三座の由緒・歴史資料を集大成した関根只誠纂録・関根正直校訂「東都劇場沿革誌料・上下」(国立劇場芸能調査室 以下「誌料」)を開いてみる。
只誠は、天保の三升屋二三治、幕末の石塚豊芥子と、近代の青々園伊原敏郎の間を繋ぐ歌舞伎史家であり、その博覧強記と資料への目配りの確かさで知られる。
「誌料・上」に引く中村家の「家伝」によると、初代(猿若)勘三郎は、元和八年(1622)山城から下り、寛永元年(1624)二月、幕府官許により江戸中橋南地に芝居小屋の櫓を上げたのが、中村座のルーツとしている。
このあたりは、青々園の「日本演劇史」も同様であり、いわば江戸歌舞伎の創世記、「天地創造」として書くほかはない。
問題は、勘三郎の名跡の権威を不動のものとしたとされる、以下の事蹟である。

「同十癸酉年(1633)九月、阿武丸御船従伊豆国入津に付、勘三郎の大声美音の聞え有しかば、御船手頭向井将監殿御差図を以被召出、右御船の*(舟扁に益)先に立て艪拍子船唄の音頭を執り相勤、其賞として目録并金の麾、御陣羽織を拝領す」

「右御船御小屋入の節に、右船覆に用ひられし三布白木綿一張、向井将監殿より下さる、後此舟覆布を以舞台場の幕に用ゆ、それ迄は能舞台の如く引幕はなかりし也、又三布白幕の染分は、白三布黒二布也、依て『三の白』と唱へ、徳川家にては御用幕にして、安宅丸の舟覆の用具なりしを、勘三郎拝領後是をかたどりて引幕に用ひし也、然れ共憚りて、紺と柿と白の三色にかゆる、之を『狂言幕』と云ふ」(「誌料・上」所収「家伝」)。

阿武丸とあるのは、将軍家光が威信をかけて建造した巨大戦艦。「安宅丸」が正しく、「あたけまる」と読む。
これがどれだけの豪奢な巨艦だったかというと、

「竜骨に多数の肋材を配し、外板を張って、船梁と柱で補強した船体の上部に二層の総矢倉を設けて、その船首寄りに城郭同様の二層の天守をあげ、防火と防食のために船体と上廻りを銅板で包んでいた(略)。
しかし、軍船としては装飾過剰であり、船首の竜頭などのさまざまな彫刻や飾金物で豪華に装飾されていた(犬丸註 この豪奢さが、後の一騒動の伏線となる)。
上口長さ一五六.五尺(四七.四メートル)、肩五三.六尺(十六.二メートル)、深さ十一尺(三.三メートル)、二人がかりの大櫓100挺立て、推定排水量は一七〇〇トンに及ぶ。
未曾有の巨船ぶりは『ふじの山か、しゆみの山かとうたかはる大舟』(「色音論」)と言われ、その豪華さは『日本無双の結構は日光山御宮とあたけ丸』(「元正間記」)と称えられて、江戸の名物の一つとなった」(平凡社「日本史大事典」1992・安達裕之氏解説)という記述でも判る。

話を戻すと、この勘三郎の出世芸である艪拍子船唄は、後世の記述になると更に具体的になる。

「(略)余りの大船ゆゑ、水夫(かこ)の艪拍子揃はずして、船左右へ震れて思ふが儘に進まず、この時お船手頭、向井将監殿種々工夫を廻らされ、ふと勘三郎が事を思ひ付けられ、早速屋敷に召されて、『云々(しかじか)の御用につき、汝多人数の水主(かこ)の者へ、木遣を教へてくれよ』とのお頼み。それより日々勘三郎お屋敷に出、水主の衆へ教授す。皆熟練の後、勘三郎お船の舳先にて木遣の音頭を取る。生来の妙音なれば三十五間の船中に声満ちて、多人数の水夫木遣につれ、裏表の艪拍子、法に叶ひければ、日ならずして江戸へ着す。将軍家はこの船隅田川において御覧あるべき旨を仰せ出され、当日は公方様、小具足お陣羽織にて、お供の面々と共に霊岸島より御乗船遊ばさる。この時も将監殿お差図にて、勘三郎は赤き袖なし羽織に上帯をしめ、赤き手拭を頭にいただき、五色の采配をふり立て、舳先に立ち、船唄一遍あって木遣になり、音頭を取る。十六人の水主、これを受けて声を発し、艪をおして乗り出す。公方さまはじめ諸役人衆、その勇ましきを悦びたまひ、かつ勘三郎が妙音、天下一と御称美を蒙り、御前近くへ召させられ、御手自らこれをもって音頭を取るべしと、金の麾を賜りければ、あまりの事に勘三郎、ハッとひれ伏して頭もあがらず恐縮す。この時お町奉行『勘三郎冥加の至り、ありがたく謹んで頂戴致せ』と、取り次いで与へらる。勘三郎やうやくこれを拝領し、これより金の麾をもって音頭を取り、品川沖を乗り廻し、夕七ッ時、もとの地に着岸す」。

これは、幕末明治の名優・三代目中村仲蔵(1809〜1886)の自叙伝「手前味噌」(青蛙房 昭和四十四)の一節。「源氏店」蝙蝠安の初演は彼である。五代目伝九郎、後の十二代目勘三郎の女婿であり、座元名義上仲蔵を「十四代目勘三郎」と数えている。
 いわば身内だから、中村家の言い伝えをもとにした記述だろうが、寛永から二世紀経ているだけに、信憑性には疑問がある。

勘三郎が拝領した金の麾、陣羽織(一説に万治年間の城造営の際の赤い絹の猿若装束とも、禁中から賜ったとも言う)、舟覆布。
これがいわば中村座の「三種の神器」であり、勘三郎家では家の祝賀の節目ごとに菩提寺の押上大雲寺に預けたこれらの品々を取り出して見物に披露し、團十郎が口上を述べたのであった。
ちなみに、鶴屋南北の絶筆、文政十二年十一月江戸中村座「金幣猿島郡」(きんのざい・さるしまだいり)というのは、中村座の金の麾、幣帛を持った日枝山王の神使・猿、猿若、将門が新皇として君臨した猿島郡(だから、わざわざ だいり=内裏と読んでいる)を掛けている訳である。

「中村勘三郎」にとって、エポックメーキングであるこの晴れの舟唄。
「困った」というのは、前述した安宅丸について、念のため更に調べていく過程だった。
百科事典など、各書によって、安宅丸が「いつ完成し」「いつ江戸に曳航されたか」がまちまちなのである。
完成説でも寛永九年、十年。
江戸入港も斎藤月岑「武江年表」(東洋文庫)は寛永十二年としながら、但書きで十一年説を併記している。
中村家の縁者にあたる狂言作者・二代目中村重助の「芝居乗合話」(寛政12年成立)に、江戸入港・船唄を「寛永九年」としてあるからややこしい。

ちなみに船唄・寛永十年説は「家伝」のほかに「歌舞伎年表」「花江都歌舞妓年代記」。
寛永九年説は「芝居乗合話」「落穂集追考」「手前味噌」。

安宅丸についての公式記録は、「徳川実紀」(「国史大系」所収)の「大猷院殿(註・家光)御実紀巻廿八」、寛永十二年六月二日条で、この日家光が、譜代の諸大名を引き連れて品川に繋留してある安宅丸を初めて上覧、乗船したとある。
同条に「この安宅丸といふは。一昨年より向井将監忠勝に命ぜられ。相模国三浦三崎にて作らしめられしに。今年に至て成功せり」とある。
つまり、この記述に従えば、一昨年則ち寛永九年は向井に造船を命じた年であり、江戸入港はありえない。
では、「家伝」の通り、寛永十年九月なのか。しかし、折角完成曳航された念願の巨船を、家光は1年9ヶ月も閑却して視察に訪れなかったとは考えにくい。
吉川弘文館の「国史大辞典」(1979)の石井謙治氏は「十一年伊豆の伊東で完成」、平凡社の「日本史大事典」(1992)で安達裕之氏は、「三四年(註・寛永十一)夏に完成し、江戸に回航、十月に将軍徳川家光が上覧して向井に預けた」としている。
これらの典拠となる一次史料は不明だが、寛永十二年に家光による壮麗なデモンストレーションが行われている以上、やはり寛永十年回航には首を傾げざるを得ない。
悩んだ末、私は寛永十一年の夏安宅丸が完成し、九月江戸に回航、その際勘三郎が船唄を唄ったと推定した。
寛永十二年の将軍上覧の時に勘三郎が船唄を唄い、家光から愛でられて金の麾を賜ったというのが一番座りが良いのだが(仲蔵の「手前味噌」。ところが仲蔵はこれを寛永九年としているから始末が悪い)、ではなぜ中村家は「家記」に麗々しく「将軍自ら」と書かなかったか、ということである。何ら記述して憚ることではあるまい。やはり、寛永十一年が妥当なのではあるまいか。
本職の歴史家でも考証家でもないから、こうした判断を迫られる際は実に悩ましく、自分の史料渉猟力の限界にうんざりもするが、限られた材料の中で、安楽椅子探偵として想像の翼を広げて見るのも、また愉しいものである。

勘三郎が拝領した宝物はその後どうなったのだろう。
慶應元年(1865)九月、中村座で寿狂言の披露があった。
中村座では、寛永元年甲子の年に中橋に櫓を上げたのを記念して、甲子の年ごとに祝賀の寿狂言を演じていたのである。こうした祝儀には、本来團十郎が口上を述べるべきところ、当時空位であったので、四代目市川小團次が口上と同時に宝物を披露した。
それらは、金の麾、勘三郎が禁中で猿若を舞ったとき拝領した御翠簾のひも、同時に賜った赤地金襴の陣羽織、安宅丸の絵図面であった。
少なくともその時点では金の麾は存在した。
それから一四〇年。
その後中村座は維新・明治の激動の中で衰微してしまったし、相次ぐ火災・震災・戦災。
五代目中村明石(十五代目勘三郎と数える)、その娘勝子(十六代目勘三郎と数える)と経るうちに、或いは散逸してしまったのかも知れない。
あるいは大谷竹次郎の勧奨により、もしほが十七代目を復活した際に継承したのだろうか。
いずれにせよ、何かの機会に更にその顛末を調べて見たいと思っている。

安宅丸には後日談がある。
家光の乗船後、安宅丸は深川に繋留されていたが、何しろ巨大な上に泰平の世には無用の長物、全く顧みられることがなかった。
ところが、この御船蔵の周囲で、夜な夜な「伊豆へ行こう」という不気味な声がする。
これは不吉と、天和二年(1682)遂に解体されたが、実はこの奇怪な声は、時の堀田大老が仕組んだ陰謀で、船材の金具純金を私せんとする企み(なにせ、前述通り日光東照宮と比肩する豪奢さというのだから)と判り、若年寄稲葉石見守が殿中で大老に刃傷に及んだ、と松浦静山が随筆「甲子夜話」に書いている。
このエピソードを作品に巧みに採りいれたのが、河竹黙阿弥。
明治十年の「黄門記童幼講釈」、俗称「黄門記」は水戸光圀(九代目團十郎)が、大老織田筑後守(初代左團次)の陰謀に組した藤井紋太夫(五代目菊五郎)を手討にするのが主筋だが、脇筋にやはり織田に唆されて、船頭河童の吉蔵(五代目菊五郎)が、安宅丸の船底で「伊豆へ行こう」と叫ばせる趣向を配している。
平成九年(1997)十月の国立劇場で久々にこの「黄門記」が出た時、菊五郎が紋太夫と吉蔵を演じている。

○12日、家内を連れて上野の「唐招提寺展」へ。
内覧会に続いて二度目。大変な人出だが、それほど苦にならないのは、廬舎那仏はじめ仏像群が、我々の目線以上の高さに配置され、見易いことと、金堂内の仏像配置を再現した空間が如何にもゆったりして、一種の浮遊感に誘うことだろう。
東山魁夷の障壁画、鑑真和上像と、展示物の「数」はそれほど多くないのだが、それでも満足感を得るのは、贅沢な空間の使い方によるところが大であろう。
上野の東京国立博物館へ足を運ぶもう一つの楽しみは、本館地下のミュージアムショップ。
全国の美術館での展示図録が販売されており、眺めるだけで愉しい。
この日購入したのは、「日本民藝館所蔵 大津絵」(東方出版)と、平木浮世絵財団の「役者夏の富士 - けしょうをおとしたやくしゃのすがお -」。
大津絵というと、「逆櫓」とか、「傾城反魂香」の「大津絵描いて世を送れ」でお馴染みだが、藤娘から鷹匠の若衆、様々な絵柄をこうして集大成して見ると、何とも微笑ましく、おおらかで、イノセンスで、心洗われる。 掘り出し物であった。
「役者夏の富士」は、周知の安永九年の勝川春章版、文政十年の国貞版だけではなく、歌川派中心に役者の楽屋図、日常図を集めたもの。
初見の作品は少なかったが、文化十二年の河原崎座顔見世「大和名所千本桜」で、女暫を演じる五代目半四郎の筋隈を七代目團十郎が手伝っている図とか、三代目菊五郎の別荘の雪景で、弟子たちが雪達磨ならぬ雪蝦蟇(天竺徳兵衛が家の芸)を作っているのが面白い。
「木場雪」と題された七代目團十郎の別荘風景で、市川家惣代の男女蔵が懐に抱えている赤子が、後に自殺する八代目團十郎である。
「役者絵」を観るの面白さは、一枚の錦絵から、その役者の人生・芸・人格を読み解く醍醐味でもあるのである。

2005年2月11日(金)

野崎村の藁苞(わらづと)

○昨日(10日)日経新聞夕刊で上村以和於氏も指摘しておられたが、今月歌舞伎座の「野崎村」で、鴈治郎の久松が、屋体下手に掛かっている藁苞(わらづと)に刺してある鎌で自害しようとする型が誠に面白い。
おそらくこの 藁苞は、現在は出ぬ端場で、久作が油屋の下人小助をさんざんにやりこめる場で用いられたものだろう。
原作(岩波の古典文学大系、日本名著全集で読むことが出来る)だと、野崎村は「新版歌祭文」全三段の中の巻にあたる。
久作が久松の奉公する油屋へ歳暮の挨拶に出かける。この時の祝儀が藁苞に詰めた山芋。
「歳暮の祝儀は。コレコレ此藁苞山の芋は鰻に成。久松が年が明けたらば。われは又お内義になる。夫楽しみによふ留守せい」。
「山の芋は鰻になる」とは出世することを指す。
お光に老母の看病をまかせ、藁苞肩に久作は出かけて行く。
そこに久松が下人の小助に引っ立てられて来る。久松が得意先から金一貫五百目を騙し取った、詮議するから久作も出せ、と久松を打擲して騒ぐうち、久作が引き返して来る。
小助の矢の催促に、久作は「此山芋をとろろにして。出来合の麦飯を進ぜうかい」と悠然たるもの。
業を煮やした小助が 藁苞を蹴散らかすと、出てきたのは丁銀。
「これで言い分あるまい」との剣幕に、小助もすごすごと立ち去って行く。
このあと、日がらもよし、二人は今日祝言の盃せいということになる。
ここで久作が、夫婦で頭を丸め、参り下向(御礼の参詣)に行こうと、菩提寺に頼んで袈裟衣も用意してある、という。
今我々が舞台を観ていると、二度目の出でお光が何故手回し良く袈裟を着ているのかと思ってしまうが、半二はごく自然に伏線を張っているのである。
話を戻せば、この小助とのやり取りが、後半の灸の件の「最前のやっさもっさ」という訳である。
金の出処は、後のお染久松への異見で、久作が僅かの田地、お光の櫛笄まで売り払って工面したことが明かされる。
小助の件は、昭和54年(1979)1月の国立劇場で、勘三郎の久作・富十郎の小助で出ている。
この時の演出は本行に一家言持つ故山口廣一だったから、富十郎の小助も義太夫味たっぷりのチャリで、藁苞から金が出たのに驚く「テモ出にくい所からよふ出たな」、引っ込む時の「俺が足で、俺が歩いて」のおかしみなど、今でも耳に残っている。
鴈治郎も本行本文を疎かにしない人だから、当然この端場が念頭にあっての冒頭の型だと思われる。
この藁苞は、半二を書き換えた鶴屋南北の「於染久松色読販」(お染の七役)では、久作の持つ嫁菜に転用され、狂言廻しの役割を果たす。
一つの型から、無限のイメージの連鎖が紡ぎ出されるのが歌舞伎の面白さである。

○別に、今月に限ったことではないが、最近の観客は些細な事で笑い過ぎないだろうか。
今月の「野崎村」にしても、至宝が五人も揃う年代記的大舞台であると同時に、老齢ゆえの起居動作の不自由、セリフのトチリは当然だろう。
しかし、最近の客は「容赦なく」笑う。
反発を覚悟で言えば、「人間国宝だから」とかいう肩書による先入観を全て取り払い、あの芸境に達した役者の滋味を味わい尽くしてこそ、本当の観客だろう。
先日も、演舞場の「文七元結」で可笑しくもないところ(むしろしんみりとした場面)でお客がキャッキャと笑い、閉口した。
イヤホンガイドの解説につられてなのだろうか。或いは観客の役者への「媚び」だろうか。
私語、前傾姿勢、イヤホンガイド大音量もうんざりだが、私の最近の観劇時の最大のユーウツは、この「意味の無い笑い」である。

○田中伸尚「靖国の戦後史」(岩波文庫)を読み終え、佐高信「湛山除名」(岩波現代文庫)を読む。
佐高特有の決めつけ、人物観の断定(単純な善悪二分法)が鼻につくのと、エピソードが取り散らかっているのが気になるが、石橋湛山という近代日本が生んだ至高のリベラリストの面目を良く伝え、一気に読んだ。
石橋湛山は、終戦直後の「東洋経済新報」10月13日号で「靖国神社廃止の議」を書いている。
新生日本出発のため、屈辱と怨恨の陰惨な記念物を残すべからず、という趣旨だが、その先見性・卓見・勇気には頭が下がる。湛山とて、次男和彦を失った「英霊」の父であった。
最近の雑誌の見出しは、勇ましい「嫌中論」「日中友好の終焉」のオンパレードだが、日本が義理にもそんなことを言い出せる立場に無いことは、謙虚に歴史を学んだ人なら皆良く知っていることだ。
今、石橋湛山ありせば。
現在、小島直記「異端の言説・石橋湛山」(新潮社)を読んでいる。

○某日、畏敬すべき年長の論客に、世情への憂慮の念止みがたく、阪谷芳直「中江丑吉の肖像」(勁草書房)と ジョシュア・フォーゲル「中江丑吉と中国 一ヒューマニストの生と学問」(岩波書店)を贈る。
一生を「老北京」・市井の人として生き、「大日本帝国」の末路を透徹した眼で見抜いた、兆民の忘れ形見であるこの一学究についての感想を、いずれ是非伺いたいと思っている。

○緒方四十郎「遥かなる昭和 父・緒方竹虎と私」(朝日新聞社)が出た。
緒方氏は元国連難民高等弁務官・貞子氏の夫君。日銀出身で、今も国際舞台で幅広く活躍しておられる。
父・竹虎氏(元副総理)は、私の祖父と東京高商(現・一橋大)の同窓で、共に学生運動「申酉騒動」に身を投じた仲。四十郎夫妻と私の両親も、家族ぐるみのつきあいである。四十郎氏自身飄々と、いかにも大人の風格を持っておられる。
父・竹虎氏は総理を目前に急死したが、もし朝日新聞出身の言論人・緒方竹虎が命を永らえたら、或いは石橋湛山が首相就任僅か2ヶ月で病に倒れなかったら、歴史は大きく変わっていただろうと思われる。


2005年1月20日(木)

年頭剰筆

○久々の「余滴」である。
「年頭剰筆」といいつつ、些か時期外れなのをお詫びしたい。
なにしろ、東京は四座で歌舞伎が開幕する盛況、土曜日曜しか使えない身にはほとほと応えた。仕事の慌ただしさも加わり、帰宅しても、とても劇評執筆以外でパソコンに向かう余力がなかった。
というのと矛盾する様だが、三ヶ日は熱海沖の初島で家族三人のんびり過ごした。全室オーシャンビューのホテルからは、晴れ渡る蒼天に富士山がその悠然たる姿をくっきり見せて、美事であった。
宿には、山城の「沼津」、「太十」、「酒屋」、「堀川」、「実盛」のCDを持ち込み、ひたすら耽溺した。
其日庵「浄瑠璃素人講釈」再読の余勢を駆った持病の義太熱再発だが、のんびりと山城、清六、藤蔵が織り上げる情と雄渾の世界に身を浸す至福といったらなかった。

さて、肝心の四座の評は、演舞場・国立については既に読売新聞夕刊の評に書き、四座全てについては「テアトロ」で述べるので、ここでは詳しくは書かない。
質的に現代歌舞伎の最高水準ともいえるのは、歌舞伎座昼の吉右衛門の「石切梶原」であり、三津五郎の「鳴神」。
しかし私は、敢えて海老蔵・菊之助の演舞場「鳥辺山心中」を第一に推した。それは決して華や秀麗さだけではない。詳しくは、「テアトロ」にて。
余談だが、梶原平三景時の目利きする「天晴稀代の剣」のいわく因縁については、既に別項に書いたので、参照されたい。

○西川正也「コクトー、1936年の日本を歩く」(中央公論新社)を購入。当然六代目の「鏡獅子」に啓発されて「美女と野獣」を着想する経緯にも紙幅が割かれている。
「鏡獅子」に祭祀性を発見したコクトーの炯眼、恐るべし。

○家近良樹「その後の慶喜 大正まで生きた将軍」(講談社選書メチエ)を読み始める。
上野寛永寺で恭順謹慎、水戸を経て静岡に蟄居した最後の将軍の後半生。「将軍江戸を去る」の続編と思えば良い。
それに絡めてだが、慶喜近親の聞き書きをまとめた、遠藤幸威「女聞き書き 徳川慶喜残照」(朝日文庫)に、真偽は定かではないが、慶喜の嫁と某歌舞伎役者の浮き名が出ている。興味ある方は読まれたし。

○現在上野の東京国立博物館・平成館で、「唐招提寺展 国宝鑑真和上像と盧舎那仏」が開かれているが、12日の一般公開を前に、11日の内覧会でじっくり鑑賞する機会に恵まれた。
これも私の勤め先が主催故の思わぬ余得である。
何よりも、本尊である巨大な盧舎那仏の、美事な肉感性が素晴らしい。誠に慈愛に溢れたお顔である。
盧舎那仏は、本邦には東大寺大仏とこの唐招提寺本尊しかない。
今回は金堂修復で、お住まいがリニューアル中のお出まし、しかも東京のみであるから、これを見逃すと、恐らく三百年は奈良の地を出ないであろうという。
立派な光背も是非展示して欲しかったが、余りに大きすぎて特別仕様車が必要なので、涙を呑んだという。
本尊と和上像の前では、当日長老達による法要が営まれた。読経の中、自ずとその荘厳に手を合わせる。
和上像のまわりを囲むのが、御影堂を飾る東山魁夷の障壁画六十八面、巌頭に打ちつける波濤に、或いは森閑とした山水に、和上が静かに瞑目して耳をそばだてておられる様であった。

○鴻池幸武の「道八芸談」「栄三自伝」を久々に読む。
共に文庫化が企画されても良い名著だ。特に前者は、弟子道八の語る名人團平の面影が鮮やかだ。
大阪の豪商鴻池財閥に生まれた幸武は、昭和二十年、フィリピンで惜しまれつつ戦死する。享年三十二。
「鴻池さんを殺しただけで、私は日本の軍隊を、永久に許すことができない」(「道八芸談」ぺりかん社 昭和62)。
盟友武智鉄二の痛恨の叫びである。

○以下は、私事である。
しかし、敢えて書く。
今日、私の伯父(母の兄)の元に、実弾らしきものが送り届けられた。9日には、火炎瓶2本が自宅前に置かれていた。
日中友好のため、伯父が小泉首相に靖国参拝自粛を要請したことによる、右翼の卑劣極まる脅迫である。
伯父は、小泉・江両首脳が同意して設けられた「新日中21世紀友好委員会」の日本側の座長であり、両者の率直な討議によってもたらされた結果を公開したに過ぎない。
むしろ、日本政府は自ら設けた委員会の答申を、日中友誼の礎として遵守して当然であろう。
伯父は若くしてアメリカに学び、石橋湛山の「小日本主義」に傾倒して止まぬ、身内の私から言うのも可笑しいが、毅然たるリベラリストである。その口は、如何なる暴力によっても封じることは出来ない。
日本人は、「自由の危機」に余りにも鈍磨過ぎる。それは、周辺国を含めた他者の痛みに対してもいえる。
先日のクルド人難民の強制送還という、世界的恥辱がその好例であろう 。
私の、靖国に対する思いはここに敢えて書かない。
「余滴」の読者なら、十分拝察して頂けると思うし、それは私個人の内面の自由であり、決して人に押しつけたり、押しつけられたりする性格のものではないからである。
しかし、もし暴力で他者の意見を封じ、それを社会が容認するならば、それは自由の扼殺である。
そのとき、筆を持ち、或いは口をもて語る者の魂は踏みにじられる。
劇評とて、決して例外ではないのである。

2004年12月30日(木)

義太熱二人 〜其日庵と兆民〜

この稿を書き始めた29日午後、窓外では初雪が静かに降っている。
こんな深々たる寒い日に、相応しくない話題から入るとしよう。
東京・本郷の東京大学医学部標本室。
ここには、これまでの法医学研究、解剖で得られた様々な標本が保存されている。 
夏目漱石・斎藤茂吉・内村鑑三・安倍能成・桂太郎ら35人の「傑出人脳」。
高橋お伝のものと伝えられる、日本髪の着物姿の女性が彫られた文身。
ちなみに、お伝を解剖したのは小山内健。かの小山内薫の父である。
ともあれ、余り一般人としては足を踏み入れたくない死者たちの安楽室の一角に、男女一組の全身骨格標本が展示されている。その説明プレートに曰く(以下、斎藤磐根「漱石の脳」叢書死の文化第20巻 弘文堂 平成七年による)

「杉山茂丸其日庵ト号ス余ト同郷ノ盟友ニシテ国士也縦横ノ機略ヲ以テ朝野ノ諸勢力ト相結ビ新興日本ノ諸政ニ参画シ不偏不党 国運ノ進展ヲ扶翼シ穏忠ノ誠志ヲ一貫ス又平生死体国有論ヲ唱へ遺言シテ自己ノ遺骸ヲ東京帝国大学ニ寄付セシム元治元年生レ昭和十年死ス 享年七十二 頭山満」

そう、この二体を納めたガラスケースこそ、先日岩波文庫化された快著「浄瑠璃素人講釈上・下」の著者にして右翼の大立て者、作家 夢野久作(「ドグラ・マグラ」)の父、其日庵杉山茂丸と幾茂夫妻の奥津城なのである。
斎藤氏の前掲書によると、杉山は生前から血清注射や梅毒治療剤などの人体実験に協力し、「屍体国有論」則ち献体の推進者であった。解剖は緒方知三郎教授。小金井良精(星新一の祖父)が立ち会ったという。
脳は常人よりはるかに重い1550グラム(成年男子平均1350〜1400グラム。この項、多田茂治「夢野一族」三一書房 1997に依る)。
152センチと小柄な夫人に比べ、茂丸は標本だけでも169センチと、当時としては偉丈夫であったことが判る。左手の中指が爪のあるところから二つ目の関節から無く、どうやら「指を詰めた」らしい。右足の第四指も中程から欠損。「国事に奔走」した国士の風貌が浮かんで来る。脊椎にも圧迫骨折が見られ、「変形性脊椎症」と診断される。斎藤氏は「背中の痛みや腰痛に悩まされていた」可能性を指摘している。

さて、前述の通り彼の畢生の名著「浄瑠璃素人講釈」が、10、11月、内山美樹子・桜井弘両氏の懇篤な校訂解説の元、実に79年振りに陽の目を見ることになった。
私自身は昭和五十年の鳳出版から出た復刻版を架蔵しているが、これ自体誤字を含め、改行も少なく今の読者には相当読みづらい。今回の文庫化で、其日庵は初めて広汎な読者を獲得し、再評価されたと言って良いだろう。
私もかつて、杉山の生涯について興味を持ち、何冊かの評伝にあたったことがあったが、彼と義太夫の連関について触れたものは皆無と言って良かった。近現代史研究家にとっては、杉山は頭山満と玄洋社の流れを組む右翼の巨頭であり、政界の実力者。義太夫など所詮「お道楽」なのである。
しかし、「素人講釈」を一読すれば判るとおり、彼の義太夫に対する素養・鑑賞眼・蘊奥は群を抜いている。文庫下巻「義太夫虎の巻について」は、自らを自虐的に「寝床」の旦那に擬した戯文のケッサクであるが、無論それを真に受けてはいけない。
竹本摂津大掾・竹本大隅太夫・名庭絃阿弥ら近代の名人につき、習い、彼らの「芸術の精妙」を「夢現で、生存の意義が怪しい位にトロトロになって」聞き尽くした。その蘊蓄をもとに、後進の三代目越路太夫や古靱太夫(後の山城少掾)を叱咤して止まなかった。義太夫は彼の人生そのものであり、「素人講釈」はその精華であった。
「素人講釈」の価値は、何よりも「風」の記録にある。
「風」は浄瑠璃初演時に演じられた曲に付随する品格・芸格・芸風と説明出来ようか。竹本座系(西)、豊竹座系(東)という大まかな分類の下に、更に初演時の太夫名を冠して綱太夫風、麓太夫風、政太夫風などと呼ぶ。近代に入ってからは、大隅・團平の彦六(座)系、文楽(座)系(落語のようだが)も「風」といって良いと思う。
当時の浄瑠璃作者が、各段をそれぞれの太夫の芸風に合わせて書いた。太夫と三味線は床本を読み、解釈し、それに相応しい曲節を付し、語ったのが「風」である。
「風の倫理」(武智鉄二)として、誤り無く伝えられてきた芸。ところが、其日庵が生きていた大正末年には、その「風」自体怪しくなって来た。
ただ床本通り語っていれば良い。そんな「素読太夫」の横行を、茂丸は痛罵して止まなかった。
「素人講釈」執筆の動機は、まさに風前の灯火の義太夫の「風」を後世に誤り無く伝えることであったのである。
幸い 竹本摂津大掾・竹本大隅太夫とも、五代目春太夫、豊沢團平という芸の鬼の弟子であったから、「風」には殊に謙虚であった。
大隅というと、安藤鶴夫「芸阿呆」に描かれた、傍若無人、傲岸無礼の印象が強烈だが、其日庵の筆に描かれた大隅は、「風」に対して極めて愚直である。それは、天下の庵主(其日庵)を前にしてだったからかも知れぬが、これまで演じて来た「風」が違うと知ると率直に訂正するあたり、恬淡としていて快い。物欲も名誉欲も無い。そこにあるのは「芸」の求道者としての純粋な情念である。

「素人講釈」には延べ95編の義太夫が取り上げられているが、中にはその曲のプロローグだけで、「あとはサラサラと」で済んでしまっているものが多い。
これは、決して其日庵が手を抜いているのではない。
最初の一言、最初の撥で、降り積もる雪、或いは広壮な御殿、葉に落ちる雨の一滴が描けなくては、「風」も何もないからである。事実大隅は、「吃又」を團平に稽古して貰うとき、最初の「ここに土佐の末弟」で何度やっても師匠は撥を降ろしてくれなかった。
この書には、そうした珠玉の佳話がぎっしり詰まっている。
内山・桜井両氏が解説・註で「風」の森に踏み込まなかったのは誠に賢明であった。それを加えれば、一大研究書にはなるであろうが、同時に一般読者、文楽愛好家からは放れてしまうだろう。読者はまず、其日庵の洒脱な文章と警句に触れながら、義太夫という芸が如何に過酷で、峻厳なものであるかを理解すれば良いのである。
例えば、「妹背山御殿」で摂津大掾が庵主に語ったという「決してお三輪の真似ではござりませんぞ。お三輪の心持になるのでござります」(「素人講釈・下」P32)という一言は、何気ないようで、読んだ後でジワリと効いてくる。

元治元年福岡に生まれ、若き日ルソーの民約論に傾倒していた杉山は、明治十八年伊藤博文暗殺を決意して上京、かえって伊藤に説諭されて親交を結ぶ。同郷の「玄洋社」の頭山満と出会ったのもその頃で、以後杉山は頭山と行動を共にする。
民権から一転して国権へ。それ自体、日本近代が胚胎した矛盾であった。
その頭山満を、「大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君あるのみ」と絶賛した男がいる。
兆民・中江篤介。
明治三四年、重篤な喉頭癌で余命一年半と知らされた兆民は、「一年有半」「続一年有半」を書き上げる。前者「一年有半」は、頭山はじめ同時代に生きた人々を俎上に上げ論じ尽くしたエッセイだが、実はその中義太夫が大きな比重を占めているのである。
この点について詳細に論じたのは井田進也「二00一年の中江兆民 憲法から義太夫節まで」(光芒社 2001)がおそらく最初ではあるまいか。
「是より先余の大坂へ来たるや、曾て文楽座義太夫の極て面白きことを識りたるを以て(余は春太夫靱太夫を記憶せり)」(岩波文庫「一年有半・続一年有半」井田進也校訂 1995 P21)とあるところから、兆民は明治元、二年頃には既に義太夫に接していたらしい。
死を目前にした兆民は、この前後、越路(摂津大掾)大隅 の芸を文字通り身命を削って味わい尽くす。

「もしそれ越路の優美なる音声と婀娜なる曲調とに至ては、於軽を模写する誰かこれに近似し得る者ぞ、真にこれ戯曲界の一偉観といふ可し、余既に三たび此偉観に接す、一年半決して促にはあらざる也、孔聖いはずや朝に道を聞て夕に死すとも可なり」(同P22)

気管切開してまもなく、明楽座に駆けつけて聴いた大隅の「壺坂」は、

「既にして大隅太夫その相撲然たる肥大の体を掲げ来り、やがて彼の有名なる法師歌「夢が浮世か浮世が夢か」を唄ひ出し、じょう(鳥の下四点の代わりに衣)じょう絶へんと欲して絶へず、その沢市と里との噺の如き直ちに其人を現出したる如く、この間に大隅太夫無き也。ああ技此に至りて真なり、これ浄瑠璃か、これ噺耶、これ活劇耶、他人の浄瑠璃は浄瑠璃なり、大隅の浄瑠璃は事実そのもの也」(同P26)

「一年有半」の末尾に、兆民はかく記す。

「これら傑出せる芸人と時を同じくするを得たるは真に幸なり。余いまだ不遇を嘆ずるを得ざるといふべし」(同P103) 。

兆民の一年有半を支えたのは、越路・大隅の芸力と、それを見極め尽くそうとした兆民の執念であった。

「義太熱」という言葉は、余り良い意味に使われない。どちらかといえば「寝床」の旦那芸の、迷惑千万の自己陶酔の世界だ。しかし、其日庵と兆民が義太夫に賭けた情念は「義太熱」という言葉こそ相応しいのではあるまいか。
兆民と其日庵は前者が17歳年長である。自由民権の激動を経て、「三酔人経綸問答」で云えば、かたや「紳士君」かたや「豪傑君」の道を歩んだ二人。その二人がともに義太夫に耽溺した奇縁。
この二人、面識は無かったのだろうか。中江の同郷(高知)・後藤象二郎・猛太郎親子は杉山と親しかったし、頭山との関係もある。
いろいろ調べていくと、杉山の著書「百魔」(大日本雄弁会 大正十五年)にその記述があった。

同書六十三「大阪毎日新聞の成立」の条(以下要約)。
前後の文脈から察して明治二十二年頃と思われる。
文中の「東雲新聞」創刊が二十一年一月、「愛国公党」論は二十二年末以降だからである。
杉山が大阪停車場前の「常村屋」に泊って、朝外出しようとすると、玄関に「東雲新聞」という赤い字で書いた印袢纏を着た一人の男が立ち塞がって、「杉山と云う奴が泊っているか」と案内を乞うている。
当時「東雲新聞」の主筆を務めていた中江篤介であった。
「杉山は俺だが」と云うと、「お前は数日前、土佐の壮士ら二人を、渡辺橋で川に投げ込んだろう!」と押し問答の末、中江はやにわに杉山の腕先をとらえた。
そこに女将が割って入り、ようやく相手の素性を知った杉山は、取り敢えず次ぎの十畳間に招じ入れる。
中江曰く、
「お前は南区の料理屋で、『愛国公党は駄目じゃ、害国私党じゃ』といったので、壮士が憤激して詰問したところ、お前は川に投げ込んだというではないか。一人は俺の書生で、もう一人は後藤伯から俺が預かったものだ。その下手人を捜していたら、後藤伯のところで、加賀の広瀬千磨という男が、『あれは杉山だ』というのでやって来た」。
これに杉山曰く
「そんなことは日常茶飯事、その二人が橋上で飛び出し、俺の車の梶棒を押さえ、ステッキで打ち掛かって来たから、一人は下腹を蹴り、一人は喉笛を掴んで欄干に押しつけたら、誤って落ちたのだ。俺は日常愛国公党のことは公然と批判している。それに対して堂々と決闘でもするならともかく、往来での闇討ち同然に、それ相応のことをしたまでだ」。
すると「中江は返事も何もせず、プイと出ていつた」(「百魔」)と思うと、昼頃ぶらりとやって来て、
「後藤伯からけしかけられてやって来たが、貴様の話と俺の聞いた話が全く相違している。帰ってから事情を調べると、全く貴様の言う通りだ。書生どもは放逐した。これで一件落着と思ってくれ」。
杉山はその時の中江を「実に其淡泊にして率直なること、竹を割つた程好い気持の男である」(「百魔」)と賞している。
その日杉山が後藤を訪ね、「今朝中江という人が来ましたよ」と言うと、後藤は悠然と「ああ君に紹介してやったが面白い男じゃろう」。
「あんな紹介がありますか。喧嘩をしにきましたよ」と気色ばむ杉山の横で、広瀬千磨がクスクス笑っている。
「お前が書生を投げ込んだなんて話は俺のデタラメさ。中江を紹介しようと思って作り話をしたら、それが丁度川に投げ込んだ当人であって、偶然暗合しただけだよ」。
中江と杉山の出逢いは、後藤・広瀬合作の悪戯から始まった。
杉山と中江は、「終には庵主が後年米国の紐育に居る時に、書を寄せて一年有半と云ふ書物と共に、癌腫病の生別を送つて来て、庵主をして天涯の旅の空で号泣させる程の友誼を積んだ」(「百魔」)。
杉山をして慟哭せしめたのは、「これら傑出せる芸人と時を同じくするを得たるは真に幸なり。余いまだ不遇を嘆ずるを得ざるといふべし」(「一年有半」)という中江の結語に、相違あるまい。
中江は「続一年有半」で無仏無神無精魂の唯物論を明晰に展開し、死の床での雲照律師の祈祷をも憤然と拒否したという。
明治三十四年(1901)一二月十三日没。遺言通り遺体は東京帝国大学で解剖された。亡骸の体重は二十sしかなかったという(松永昌三「中江兆民評伝」岩波書店)。
葬儀は一切無宗教。青山墓地には墓碑も建てられなかった。
現在青山墓地にある「兆民中江先生エイ(ヤマイダレの中に夾の下に土)骨之標」は、大正四年門下生が建てたものである。
「屍体国有論」を提唱し、夫婦で骨格標本として本郷の医学部に眠る杉山と、一切の宗教を拒絶して逝った中江。
ここにも、二人の潔い明治人の死生観を観る思いがする。

最後に、其日庵と兆民の警句でこの稿を終えたい。

「『自分で良い』と思うか、『安心する』かしたらば、その時が直ぐに芸の神様に見放される時である。『語れば語るほど、謹みに謹みを累ねる事』を芸と云うのである。『自分の天狗』と『世間の好評判』は、自己の芸の死に近づく暮鐘であると云う事に、深刻に気付かねばならぬ事である」(「浄瑠璃素人講釈」下・P266)

「彼(註・大隅太夫)は故さらに拍手喝采を博せんと欲するが如き様絶てなく、ただ自ら語り自ら研究して、自ら満足し自ら楽むが如き所、真に高尚上品にして、到底他碌々たる者と比すべきにあらず、ああこれ斯道の聖なり」(「一年有半・続一年有半」P26)

名利に恬淡とし、ひたすら故人の遺した「風」の追究に身命を賭した「芸阿呆」たち。
その大隅も、大正二年七月台湾で不遇のうちに客死する。
しかし彼の芸は、其日庵・兆民の筆力で今我々の眼前にある。

杉山と中江。
二人にとって、義太夫はまさに「無私」の芸人の人生に対峙する道場だった。
そしてこの二つの文章は、「芸」が死語になってしまったが如き、今日の「芸界」の在り方への痛切な予言ともなって、読む者に突き刺さる。
それ故にこそ、「素人講釈」「一年有半」は不朽の箴言なのである。

2004年11月28日(日)

「三の酉」攷

「あたしはね、三の酉の昼間行くんでなくっちゃァ嫌…」
「そんなこといって、来年、三の酉がなかったら?…」
「だッたら、二の酉でいゝわ。どッちにしてもはつ酉はいやなの、にぎやかすぎて…」
「昼間でなくっちゃァいけないという理由は?」
「昼間、あの人込みの中をあるいていると、死んだ父だの母だのが、どこからか、ヒョックリ、でゝも来るような気がしてなつかしいの」

久保田万太郎の珠玉の掌編「三の酉」(昭和三十一年)の一節(「春泥・三の酉」講談社文芸文庫)。
男が昼間、浅草の三の酉で別の男と歩く馴染みの女・おさわを見かける。吉原育ちのおさわは、両親を震災で失った。
二人の、さりげない痴話の中から浮かび上がるひとりのおんなの人生が、胸に重く染み渡る。

26日の「三の酉」、社を退いて赤坂から地下鉄で三ノ輪へ。お目当ての鷲神社に向かう(ちなみにその真正面の寺が、十七代目勘三郎の墓所である)。
例によって沿道には屋台が櫛比し、これから神社に向かう人、大熊手を肩に帰路につく人でごった返している。
それにしても、普段の「お酉さま」気分になれぬのは、近頃の妙な暖かさであろうか。かつては「お酉さま」の引き締まる様な寒さと、コート姿の群衆に、冬の訪れの予感を実感したものだが。
切山椒を買って境内に入り、参拝したあと、馴染みの店の分も含めて熊手を二組買う。
それにしても、巨大な熊手たちに覆い尽くされた境内の「色彩感覚」は、いやがうえでも我々を「ハレ」の祝祭に誘う。
我々が日本人だ、というより、ここは「アジア」だと実感させる場所として、酉の市程相応しい場所はあるまい。

「三の酉」に行く、と社の先輩に言ったら、「お酉さまって関東ローカルかなあ」という疑問を呈された。
帰ってから曲亭馬琴編「増補俳諧歳時記栞草(下)」(岩波文庫 嘉永4年1851年成立)を見ると、
「冬の部」(P345)に

酉の市 酉の日 伊豆国賀茂郡三島の駅にあり」
とある隣に、
鶏の町詣(とりのまちまうで) 酉の日 鶏(とり)大明神の社は武州葛飾郡花又村にあり。(江戸より三里)毎年十一月酉の日、市たつ。酉の日三ツあれば三日とも市なり。上の酉の日を専とす。江戸近在より諸人群集して、甚だ賑はへり。是当社神事の遺意か。土産に芋がしらを売也。参詣の人、必これを買ひて家に帰る。又此日、浅草寺の裏手、鶏大明神にも此市ありて群集す」 とある。

戸板康二「季題体験」(富士見書房)によれば、足立区花畑町(花又)の神社が本酉、千住勝泉寺内の神社が中(ちゅう)酉、浅草のが新酉といわれていたという。
鶏についての様々な伝承を集めた山口健児「鶏」(ものと人間の文化史49 法政大学出版局)の考証では、農具市が次第に縁起物市に変質したらしい。
山口氏によると鷲をオオトリと読むことで、日本武尊に重なるらしいが、浅草鷲神社のもう一つの祭神は天穂日命(あめほひのみこと)。土器や埴輪を作っていた土師氏の先祖である。三社様の由来にしても、土師臣真中知が家臣の浜成武成(善玉悪玉ですな)と海中から浅草寺の観音を引き上げた訳である。
山口氏は、土師神社→ハジ→ワシ→鷲神社への転訛説を紹介している。
土師氏から、菅原氏が別れた。
そしてニワトリと来れば…。
そう、「菅原伝授手習鑑」「道明寺」である。
「道明寺」は、いわば本家筋の滅び行く名家土師兵衛・宿弥太郎(即ち「土師宿弥」)による、分家の成功者菅丞相への復讐劇である。その重要なプロットに「鶏の宵鳴」(東天紅)が利用され、菅丞相は木像(=埴輪、ヒトガタ)という先祖以来の技術の奇瑞で危機を乗り越える。
そして終段、苅屋姫との別れを惜しむ丞相が、
「鳴けばこそ 別れを急げ鶏の音の 聞えぬ里の暁もがな」と詠むと
「名残はつきずお暇と立出で給ふ御詠歌より。今この里に鶏無く羽たたきもせぬ世の中や」となる。
実際、「天神伝説」を調べて見ると、「鶏の鳴かぬ里」の伝承の多さに驚かされる。
「お酉さま」は、こんなところで歌舞伎にも繋がっているのだ。

たかだかとあはれは三の酉の月      万太郎

                                    ※

26日早朝、島田正吾が逝った。享年九十八。
堂々たる押し出しと風姿、太く、明晰な台詞術。
島田というと、芝居以前に映画「日本の一番長い日」(岡本喜八監督)で若手将校に惨殺される森赳近衛師団長を思い出す。
「私はこれから明治神宮の社前にぬかずくつもりだ」という時の剛毅さが、筆者にとって日本人の男のひとつの理想であった。
都立大学にお住まいなので、一度東横線車内でお見かけしたが、立派な紳士で、どこか「十三夜」の父親に相通じるものがあった。
最後の舞台「夜もすがら検校」は見逃したが、その前の「司法権」での、大津事件を巡って児島惟謙の政府干渉に一歩も退かぬ剛直を背中で見せた気骨、或いは「荒川の佐吉」の相政の、諄々として肺腑を抉る諭しが瞼に残る。その圧倒的な人間としての存在感が、頑なな佐吉の心の襞にしみいっていく。
しかし、圧巻だったのは歌右衛門の「建礼門院」で共演した際の後白河法皇であった。
大原御幸で、非を詫び、ひたすらぬかずくのみのかつての権力者に浴びせかけられる門院の壇の浦の惨状は、修羅の笞の如くこの老人をむち打つ。しかし、舅の虚私の謝罪に、門院は救いと解脱の道を見出す。
その瞬間は余りにも感動的であり、芝居というより「立ち合い」という言葉が相応しい張りつめた空気に満ちていた。
私にとって、生涯見た芝居のベスト5に入れても悔いはない。
しかも驚かされるのは、島田が前幕では俗臭紛々たる、野心家法皇の姿を美事に演じ分けていることで、それだけでも感服した。
新「国劇」にしても、新「派」にしても、国劇、旧派=歌舞伎に対する新興演劇運動であった。
それが今、新派も殆どかすかな灯であり、新国劇は島田の死によって事実上命脈を絶った。
この百年の近代の演劇運動とは何だったのか、そして歌舞伎のちからを思わざるを得ない。
「霧の音」は一体誰が受け継いでくれるのだろう。
「荒川の佐吉」の終幕・土手での相政の佐吉へのはなむけの台詞をそのまま捧げたい。
「別れたぁねえなぁ」。


2004年11月23日(火)

三田祭「加賀見山」観劇之記

○21日秋天。後輩の慶應義塾大学歌舞伎研究会諸兄による三田祭公演「加賀見山旧錦絵」を観に、三田山上に登った。
初めに「源氏店」「稲瀬川勢揃い」の新部員研究公演。
続く「加賀見山」は、「草履打」から「尾上部屋」、(「烏啼」」をカットして)「元の尾上部屋」「奥庭仕返し」という堂々たる場割り、しかも二回興行である。
指導は家橘・桂三師、義太夫は豊太夫・公彦・祐二師、長唄は佐之忠師社中(前進座)、化粧は京蔵師らが当られ、充実した布陣である。
私は初回の「加賀見山」の 最後お初と求女の件から観たのだが、研究会OBの渡辺保さんに久々のお目にかかれたのが嬉しかった。渡辺さんには、6月、学生諸君に「加賀見山」について講演して頂いている。

「加賀見山」」全体の印象を言えば、岩藤・尾上・お初の三幅対が良く揃っている。
岩藤の森田俊就君(法二)は、加役の違和感を超えて妖しさと凄味があり、「草履打」での「怖やの怖やの」以降の病尽し、「同類じゃがや」「何と骨身に」の手強さなどクッキリ見せた。
尾上役の三浦麻利絵君(文三)は、草履打で初め一旦優位に立ちながら、やがて逆転する辛抱役の皮肉、独り舞台での「立ち上がり」から引っ込みまでの苦渋、部屋に戻ってのお初相手の「あの師直の」あたりの口惜しさなど丁寧に見せる。
母の手紙をしっとり泣かせたのは手柄 だが、感情が溢れ過ぎやや沈潜の足りない憾みがある。
お初の熊谷香菜子君(文三)はかいがいしく、「長局」のダレ場を持たせたのは三浦君との呼吸。
「忠臣蔵」の裏問いなど実に巧いし、身体に踊があるので、長局幕切れ、夜回りの声にホッとなる辺りの姿態など鮮やかだ。
但し、帰ってからの寝刃、懐剣を見込みサッと前へ出す件など、女由良之助ばりに車輪な方が儲かるのではないか。
「元の尾上部屋」で瀕死の尾上と岩藤のやりとりを見せるが、やはり帰ったら「遅かった」の方が哀れがある。
弾正の林健太郎君(文四)が堂々たる押し出し。但し箱を改めて岩藤と目を合わせる処はもっと芝居をして良い。岩藤方の奥女中が皆人が良く見えるのがご愛敬。
 女性による歌舞伎には、無論異論もあろう。歌舞伎は男が女を演じる「女形」という極めて特殊な演技形態で成立する演劇である。厳密に言えば、女性が歌舞伎を演じる為にはまず男の身体を創り、そこから女形にならねばならない。
しかし今回後輩諸君の舞台を観ていて、女性にしか伝えられない繊細な情を大切に、キチンとドラマの骨格を浮き上がらせていたのが何よりと思った。
八ヶ月に及ぶ準備・稽古の苦労を称えたい。

○小泉首相は中国の胡錦濤主席に「靖国参拝は不戦の誓い」と説明したという。
笑止千万。
その傍で、イラクではファルージャを中心に「武装勢力掃討」という名の虐殺が進行し、日本はそのアメリカの蛮行に対して「自衛隊派遣による人道的支援」の名で事実上の黙認、支持を与えているというのに。
私達はアジア民衆に計り知れぬ惨禍を与えた。同時に木と紙でしか出来ていない無数の都市を焼夷弾で焼き尽くされ、最後は原子爆弾で多くの無辜の民を失った。
その歴史的経験の帰結は、アジアとの連帯と恒久平和しかない。
我々は過去と現在に無知・傲岸過ぎる。
「武器輸出三原則」も緩和されるという。日本の科学技術がアメリカの「大量破壊兵器」に転用されるかも知れない痛痒を感じないのか。
このままなら、「徴兵制」も時間の問題だと私は思っている。

○さる会でお会いした方から、一冊のご著書を頂いた。
後藤順一著「中国商道(チャイナ・ビジネス)に光明あり」(メディアート出版)。野村證券在籍中、北京大学・ペンシルベニア大に留学、現在は独立して香港を舞台に活躍するビジネスマン。
筆者より4歳年長のほぼ同世代である。その彼が、中国ビジネスに実際対峙した際の不可解、疑問を具体例を交えて率直に語り、処方箋を見出す。何よりも、巷に氾濫する「嫌中本」の嫌らしさが全く無いのが良い。
例えば「中国に行って、おそらく成功しない人」
1中国がよその国だということを分からない人
2中国人に対して、いわれのない差別意識を持っている人
3中国は「社会主義」だから、日本のやり方と違うと思っている人
4「サラリーマン」
気楽に読める一冊である。是非お薦めしたい。

○「ベルリン陥落」は、予想通り、陰惨極まりない展開である。
そこに描かれる1945年1月のベルリンは、無気力と人間不信、絶望、軍紀紊乱と退廃に覆われている。同時期、日本は各地で玉砕・空襲があったとはいえ、人心はこれほど荒廃していなかった。一方ドイツは東部西部両戦線の二正面作戦を強いられ、完全な閉塞状況にあったのだ。
まだソビエト軍による東プロイセン侵攻まで読み進んだばかりだか、執拗なまでの性的暴力、虐殺、略奪の繰り返しに何度か本を閉じた。日本は、沖縄・満蒙開拓団・広島・長崎の尊い犠牲の下に今がある。しかしドイツにこれから待っているのは「本土決戦」「一億玉砕」の悪夢である。
これが戦争なのだ。奇麗な正しい戦争などこの世には存在しない。
「第三帝国」の黄昏を、辛抱強く目を逸らさず追体験することにしよう。


2004年11月21日(日)

「関の扉」余香

○今月の歌舞伎座の昼「関の扉」、特に上の巻は近年の出来であった。
極論を言えば、私は「関の扉」の香気・妙味が判らない人は、戸板康二流に言えば歌舞伎にとって「縁なき衆生」と思っている。
無論、初心者は別であり、はじめて歌舞伎を観た者にとってあれ程長大で冗漫、意味不明な踊りはないかも知れない。しかし、或る人はそこに、雪降り積もる逢坂の関に爛漫たる花を咲かせる小町桜、その前で展開される王朝人と江戸の粋の融通無碍な交歓に不思議な魅力を看取されることであろう。更に、歌舞伎を深く長く見続ければ見続ける程、「関の扉」の放つ蠱惑は観る者をして放さないはずだ。
今月の劇評は、既に「テアトロ」編集部に送った。題して「馥郁たる『関の扉』」。発売の際はご一読願いたい。

ところで、私は「関の扉」は初代仲蔵による「道成寺」の巧みなパロディだったと思う。
「花のほかには松ばかり」と「雪また雪の銀世界」の鮮やかな対比。
小町が逢坂の関を訪れ、関兵衛との問答「提婆の悪も」「観音の慈悲」の辺り、無論「卒塔婆小町」を踏まえているのだが、「道成寺」での所化とのやり取りを彷彿とさせるし、小町と宗貞の恋物語が「道成寺」のクドキに相当する。
白拍子花子の「鐘に怨みは」は、夫安貞を殺された墨染の黒主への怨念(「二子乗舟」の片袖に託される)に転化される。
関兵衛と黒主、小町姫から墨染という立役・女形双方の異形への変身も、「道成寺」の蛇体に重層化されるし、後段の黒主のハタラキは明らかに「押戻し」のもじりである。
無論、中村重助の「重重人重小町桜」は顔見世狂言の繁文縟礼に忠実に、大詰雪降りの所作事を書いたに過ぎない。
しかしその中から、既視感や暗喩、パロディを看取して、ひそかに思いを巡らせるのも、歌舞伎の醍醐味なのである。

○信多純一「馬琴の大夢・里見八犬伝の世界」(岩波書店)をようやく読了した。
些か多忙だったのと、詳細な脚注と首っ引きで読んでいる内に時間がかかってしまった。
前回の全編通読半ばでの「余滴」では、「八犬伝」の基底に「富士山の本地」伝説を見いだされた氏の炯眼について触れた。
後半部分は更に面白い。金碗大輔ことゝ大法師の意外な「正体」、更に里見対管領軍の大決戦、水陸大法会の中に、信多氏はついに馬琴が周到に忍ばせた「西遊記」と、その底流に流れる「華厳経」世界 の「隠微」に辿り着く。
「水滸伝」と「八犬伝」の相似関係については誰しも思い至る処だが、「西遊記」と八犬士の暗喩については、正直初見であった。
信多氏の推論が正しければ、馬琴は文化十一年「八犬伝」肇輯を刊行した時点から、既に二十八年後完結の全編の構成を腹案として固め、肇輯口絵八葉にその「隠微」の謎絵を込めたことになる。
何たる息の長さ。何たる堅牢なる世界観と構想力。
高田衛氏(「八犬伝の世界」中公新書)の方法、即ち馬琴の口絵・趣向を「稗史七法則」「隠微」によって読み解く視点は、一部から「深読み」の批判も上がった。信多氏の本書も、恐らく同様の論争を惹起するだろう。しかし、信多氏の様に周到に検証し、資料を渉猟した上で提示されると、「窃に知音を俟つにあり」という馬琴の豪語(晩年は寧ろ、周囲の余りに表層的な批評と「知音」の払底への苛立ちへ変わる)にも、説得力を感じさせる。
曲亭主人・滝沢解先生恐るべし、と唸らされる浩瀚なる好大著である。

○続いてアントニー・ビーヴァー「ベルリン陥落1945」(川上洸訳 白水社 2004)に取りかかることにする。
とはいえ、既に購入した岩波文庫本「浄瑠璃素人講釈」の殊に下の巻の増補部分は是非読みたいし、姜尚中とテッサ・モーリス・スズキの対論「デモクラシーの冒険」(集英社新書)、アマゾンの古書で購入した木下順二訳「薔薇戦争」(講談社 1997 シェークスピア「ヘンリー6世」「リチャード3世」の再構成)も書架で「待機中」である。
悩ましい「読書の秋」ではある。


2004年10月31日(日)

「窃に知音を俟つにあり」

○先週号の「週刊朝日」であったか、読書欄で作家北村薫氏が、渡辺保氏著「歌舞伎のことば」の「おこつく」で初めて鳳啓助のギャグ「ポテチン」の語源を知ったと書かれていた。「ポテチン」については、鳳啓助死去直後のワイドショーでも話題になり、コメンテーターの誰も意味を説明出来なかったのを思い出す。
鳳啓助というと、「心に一物、背に荷物」というネタもあったと思うが、これは明らかに「伊賀越」の「沼津」で十兵衛が平作内を立ち去る時の「心に一物。荷物は先へ道を早めて急ぎ行く」だろう。大阪出身の鳳啓助には、それだけ義太夫が身に「染みて」いた訳であり、客の方も本歌を承知で抱腹する懐深さがあったのであろう。

○本当は全冊読み終えてから読後感を書くのがルールなのだろうが、余りに面白いのでご紹介しておく。
先月出版されたばかりの信多純一「馬琴の大夢 里見八犬伝の世界」(岩波書店)である。
信多氏は「近松の世界」「にせ物語絵」(ともに平凡社刊)で知られる国文学の泰斗であり、現在大阪大学名誉教授。その信多氏が満を持して馬琴畢生の曼荼羅に挑んだ訳だが、これがまさに一編の推理小説なのである。450頁の大冊だが、8600円という価格もこの内容なら納得する。
私の馬琴体験は、河出書房新社の「日本の古典」で白井喬二(「富士に立つ影」!)訳の「八犬伝」(最近河出文庫で上下二冊で出た。流石名訳である)あたりではなかったか。ちなみにこのシリーズの「江戸小説集」には京伝「昔語稲妻表紙」の寺山修司の「超訳」も収められており、中学時代貪り読んだ記憶がある。
無論、これにNHKのあの伝説的人形劇「新八犬伝」が加わる訳である。豊国や国貞の挿画が動き出したかの如き辻村ジュサブローの人形(浜路など、明らかに大太夫半四郎の面影そのままではないか!)と、坂本九に語りにワクワクしたものだ。「弓張月」と「月氷奇縁」にも取材した石山透脚本の目配りも素晴らしい。
前後するが、白井訳の解説をたしか柴田p彦氏が担当しており、そこで馬琴の小説作法を支配する「稗史七法則」や「名詮自性」(即ち名は体を顕わす。船虫然り)の世界観を知り、ますます馬琴に夢中になった。
日本名著全集の「読本集」など、格好の宝物だった。馬琴の「三七全伝南柯夢」をはじめ、京伝の「桜姫全伝曙草紙」や「本朝酔菩提」が挿絵入りで読める。
名著全集には「八犬伝」が上中下三冊に収められている。挿画が全て収められているのは良いが、本文は活字ではなく全て当時の板木の覆刻。これには中高生の筆者には流石に手も足もでず、原文は専ら岩波文庫の小池藤五郎校訂本に頼った。
そんな折、衝撃的な一冊が登場する。高田衛「八犬伝の世界 伝奇ロマンの復権」(中公新書 昭和54年)である。服部幸雄「歌舞伎の構造」(中公新書)と共に、その新鮮なアプローチに魅せられ、私の近世文芸・歌舞伎研究への思いを決定付けた本と言って良い。
高田氏はまず「八犬伝」肇輯の口絵に注目する。
「八犬子髻歳白地蔵之図(はつけんしあげまきのときかくれあそびのず)」。
金碗大輔ことゝ大(ちゅだい)法師が、少年時代の八犬士の行く手を遮る様に取り囲む。「白地蔵(カクレアソビ)」というのは明らかに「かくれんぼ」である。しかし絵柄はどうしても「子をとろ子とろ」遊びにしか見えない。このズレに、高田は注目する。そこから始まって、八犬士の文殊八大童子の類似性へと思惟は及び…。まさに知的興奮の書であった。この書以来、私は馬琴の挿絵・画賛・註、一点も揺るがせにしない読み方を、実践出来ないまでも学んだ。
そこで、今回の「馬琴の大夢」である。
「にせ物語絵」の著者らしく、信多氏は「八犬伝」の挿絵・口絵を徹底的に読み解くことから始める。挿絵に顕れた霊気の雲の行き先は何処か。挿絵を囲む枠の絵柄はどんな意味を持っているか。肇輯口絵の玉梓の衣裳の模様から、「役の行者」に敵対する「一言嘘の神」の寓意を読み解く辺り、実にスリリングである。さらに後刷の挿画との異動を比較して、「富士山の本地」伝説と「富山」を比定するあたり、実に面白い。
まだ私は、この書の半分を読んだばかりである。
馬琴は言った。「筆もてそのよしを断らず。窃に知音を俟つにあり」と。信多氏が「八犬伝」完結後163年振りに現れた「知音」か否か、馬琴のみぞ知る。
しかし私は今日も胸躍らせながら信多氏の新著を開く。馬琴の大著に秘めた「秘鍵」の玄妙に心惹かれて。

○ようやく、宿題を果たした思いである。
今年3月14日、国立能楽堂で開催したシンポジウム「競伊勢物語をめぐって」(パネラー・石川耕士氏・犬丸。司会・上村以和於) の原稿がまとまり、12月発行の歌舞伎学会紀要・「歌舞伎研究と批評34」に掲載の運びとなった。前号33号編集後記でもお詫びしたが、この遅延は偏に筆者の怠慢ゆえである。
以下は宣伝になるが、3時間余に亘るシンポジウムを圧縮して読み返すと、実に面白い。
白鸚・寿海所演台本を叩き台に、初演台帳に如何に忠実に台本化するか、という我々の学問的立場。一方石川氏は各種台本を渉猟しつつ、如何に「市川猿之助」という役者の生理を生かすかに傾注される。石川氏の明かされる要所要所での苦心談は誠に面白く、読者を飽きさせないだろう。今後の「復活狂言」への取り組みの在り方を含め、様々な示唆に富む鼎談に仕上がったと思う。紀要は学会員のみではなく市販もされるので、是非読まれたい。

○国立劇場「噂音菊柳澤騒動(かねてきくやなぎさわそうどう)」の予習に、黙阿弥全集第十一巻所収「裏表柳團画(うらおもてやなぎのうちわえ)」を読む。明治八年八月中村座所演。犬公方綱吉(市川権十郎)の寵臣柳澤出羽守(九代目團十郎)の陰謀を、世話に砕いて交互に見せる趣向。外題は、時代と世話を団扇絵のように交互に、というのと、「團」十郎を掛けているのだろう。国立劇場のチラシの場割を見ると、ほぼ原作通りのようだ。原作の脚本評は「テアトロ」に譲る。時代の柳澤と、世話の出羽屋忠五郎はともかく、忠臣三間右近の苦衷や、老臣井伊掃部頭の諫言など、如何にも九代目好みの渋い肚芸を、当代菊五郎がどう料理するか。近年復活劇に積極的な菊五郎だけに、期待したいところだ。

○31日は天気も回復したので、午後家内と隅田川巡りを愉しんだ。
慶應義塾大学歌舞伎研究会の学生の頃から、ずっとお世話になり、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いているお店に、三田の大衆割烹「つるの屋」がある(いわゆる三田の学生で、この店を知らない人はモグリと言ってよい)。そこのお女将さんが亡くなられて二年余になる。待乳山聖天の側のお墓があると伺っていたので、是非とも伺いたいと思ううち、日が過ぎた。先日お店に伺い改めてお寺の名前を確認したこともあり、「思い立ったら」という訳で浅草まで出かけた。
仲見世そばのそば屋で腹ごしらえしたあと、花川戸、言問橋、墨田公園と歩く。この辺りは「山の宿」をはじめ歌舞伎地名の宝庫だ。
左の聖天、右に広大な空き地(つまり「平成中村座」跡)を見て、桜橋中学の隣にそのお寺があった。建物が新しいのは、例に漏れず空襲で罹災したためだろうか。若い住職ご夫妻に事情を話すと実に懇切に応対して頂き、墓前に線香と樒を供えることが出来た。 合掌すると雲間から一筋陽が差したのが嬉しかった。
寺を辞し、桜橋を渡り向島へ。「桜餅」の長命寺に詣でたあと、花柳街の名残を思わせる「見番通り」を下って「三囲神社」へ。実はここまで足を伸ばすのは初めてである。境内へ一歩足を踏み入れると、ここが21世紀の東京とは思えない、不思議な異界の空気を感じる。元々稲荷なのだが、大黒・恵比寿だけではなく、裏に回ると更に数社の稲荷も勧請されており、神々のラッシュアワーである。あの「桜姫東文章」の名場面、この三囲のシンボルである、土手から頭一つ突きだした石鳥居も拝むことが出来た。境内には、かつて初代吉右衛門と子供芝居で人気を競った助高屋小傳次、沢村訥子の碑もあり、三囲と歌舞伎の親密性を裏付ける。
面白いのは、三越はじめ三井財閥の献納が多いことで 、「三井を囲む」ということで縁起をかついだらしい。梅若塚や木母寺も行きたかったが、方向も逆だし、いずれかの機会にとあきらめた。
言問橋を渡り浅草寺へ。観音様に詣でたあと、仲見世の江戸玩具屋「助六」に寄る。ここでは毎年干支にちなんだ歌舞伎板絵を売り出しており、毎年求め集めるのが愉しみである。ちなみに今年は「申」だから「靱猿」、昨年の「未」は「二人新兵衛」だった。この店の稚気愛すべきオモチャに「跳んだり跳ねたり」という竹細工があり、これまで助六だけだったのが、「玉兎」など新たな種類も増やしていた。来年の「酉」の板絵の絵柄は何か。ご主人からは聞いてしまったが、皆様の愉しみのためにここでは書かない。僅か半日ではあったが、故人への報恩も済ませ、「都鳥」の世界に暫し日常を忘れた隅田川行であった。


2004年10月11日(日)

「饅頭娘」ほか

○9日、国立劇場で「伊賀越」の通しを観る。初代鴈治郎・十一代目仁左衛門という絶品の孫同士の共演である「沼津」も良かったが、「饅頭娘」は久々に濃厚な芝居を堪能した。詳しくは近日の読売夕刊評、来月の「テアトロ」に譲るが、こうした大人の芝居がもっと掛かって良さそうなものである。
先月の御園座「熊谷陣屋」に続く鴈治郎のヒット。政右衛門という役が、由良之助と並んで皮肉なハラを要求される役であることが良く判った。逆に、七段目が出来る人でないと「饅頭娘」は勤まらない。
とはいえ、山口廣一によれば、初代鴈治郎は「女房どもに尿(しし)やって寝させてやりゃ」という件が堪らなく良かったというし、想像がつかない。また、玉男も「奉書試合」で大内記から刀を拝領し、「不動の文字は動かず動ぜず…有り難く頂戴」など、天晴れ大丈夫の面目であったが、こうした味は役者では得難い。それだけ、一筋縄ではいかぬ役といえよう。

○10日は三越劇場。11日が本店の新装開店とあって、内覧会で大混雑である。亀治郎の弁天が、「女装の強請」では無く、はじめから男と底を割って大芝居をしているのが面白い。
吉三郎の幸兵衛、吉之助の鳶頭ら地力のあるワキ役に混じって、蝶紫を宗之助に抜擢するあたり配慮が見える。

○11日は家内と六本木ヒルズで映画見物。
「LOVERS」である。この手の映画は「グリーン・ディスティニー」以来で、「HERO」も見逃しているのだが、いや、久々の武侠映画にワクワクしました。波瀾万丈、目も鮮やかなアクションあり、チャンバラありというのは、昔の東映時代劇のお家芸だったのだが、すっかりスピーディにグレードアップしてお株を取られてしまった。
唐の朝廷軍対反政府ゲリラ「飛刀門」の死闘、敵と思えば実は味方なんて目まぐるしさは半二や宗輔の浄瑠璃だ。主人公二人が大立ち回りをしている内に雪になり、いつのまにか降り積もってしまったり(実際、ウクライナで撮影したらしい)、女主人公が刺されてもなかなか死ななかったり、歌舞伎なんだなあ(笑)。最後、両軍大激突を期待した向きには肩すかしだったが、それでも
2時間タップリ楽しめた。やはり、こうした講談さながらの稗史野乗の愉しさが日本映画から消え失せたのも、作り手・受け手双方が歌舞伎以来の物語世界に背を向けたからだろう。最近、勇ましい嫌中議論が盛んだが、そんな暇に中国映画の娯楽性は我々に大きな差をつけている。

○手前味噌で恐縮だが、TBS系の「世界遺産」が10日〜24日の3回に亘って「無形遺産」を特集している。世界遺産というとどちらかというと寺院遺跡・大自然といった「不動産」をイメージしがちだが、近年は人から人へと伝承される芸能・祭礼・祭祀、すなわち「無形遺産」も注目されている。ハイビジョンで撮影された貴重かつ鮮明な映像が満載されているので、資料的価値からも是非ご覧頂きたい。

○二週間かけて、じっくりとケネディ・ジョンソン政権の国防長官・マクナマラの回顧録(仲晃訳 共同通信社刊 1997)を読んだ。「ベトナムの悲劇と教訓」という副題でも判る通り、約540頁の大冊は、アメリカが如何にベトナムの泥沼にはまっていったかが、当事者の筆で率直に語られている。
軍事顧問団の縮小を決意したケネディが暗殺されなければ、或いはトンキン湾決議を拡大解釈して北爆に突き進まなければ、或いは北ベトナムの和平シグナルを読み誤らなければ、といった、政策のターニングポイントを回顧してはマクナマラは立ち止まり、「あの時、我々は他に何か出来たのではないか」と様々な可能性を模索する。陸奥宗光の日清戦争回顧の「他策無カラシムト信ズ」という自己弁疏とは対極的な書と言えよう。それにしても、ベトナム戦争という大災厄(そもそも何時「開戦」したのだろうか?)が、かくもいい加減な情勢判断と無策によって指導されていたというのは驚嘆な値する。終章でマクナマラは、11の反省点を挙げているが、要約すれば、アメリカ側は旧冷戦的なドミノ理論の恐怖から逃れることが出来ず、ベトナム人の民族自決・独立運動を見誤った。ベトナムの背後の中ソ、特に中国が文化大革命によって完全に内向き志向になったことを見逃した。ベトナムを自分の民主主義の鋳型にはめようとした、ということになる。
特に最後の点は、現在のイラク情勢にそのまま当てはまるし、ベトナムが壮大な「勘違いの戦争」とするなら、イラク戦は大量破壊兵器廃棄という大義が最初から虚偽である点、より悪質な「確信犯の戦争」というほかない。しかも哀しいかな、ブッシュもラムズフェルドも、マクナマラ程の内省は持ち合わせていない様である。
回顧録の圧巻の一つはキューバ危機で、キューバが62年の段階で中距離核ミサイルばかりか戦術核兵器まで配備していたことを、92年に知ったとある。エドワード・ケネディではないが「62年の米大統領がブッシュJrでなかったことを神に感謝」したい。
マクナマラがインタビューに答えた長編ドキュメンタリー「フォッグ・オブ・ウォー」も平行して観た。現在88歳の「ベスト・アンド・ブライテスト」が、博覧強記・論理明晰、時に率直に時にはぐらかして語る。殆どは回顧録通りだが、彼が空軍当時日本の大都市空襲計画を立案し、実行したルメイ将軍(後にマクナマラ国防長官の部下としてキューバ空爆を主張!)が「我々が負けて捕まったら戦犯だな」と呟く挿話が印象的だった。
連合軍の空爆の模範は、日本の重慶空爆であり、その傷跡は先般の反日感情の暴発に観たとおりだ。元国防長官の回顧録は、決して四十年前の昔話ではなく、そのまま現代へと繋がっている。

2004年9月21日(火)

読書日記 〜「三酔人経綸問答」ほか〜

○9月10日(土)、仕事を終えて退社、日比谷シャンテでマイケル・ムーア「華氏911」最終回を観る。
事前の情報の氾濫で、コメディタッチか、パロディ映画を予想していたが、どうしてどうして、至極真っ当な映画である。出来としては前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」の方が毒が効いているが、「華氏911」は作の出来不出来以前に、監督の烈々な反ブッシュの一貫した気骨に圧倒される。
帰りがけ、「偏ってるよな」と呟く若いカップルがいたが、アメリカ本来の政府・権力批判の美風を知らないのだろう。かつて、パロディ誌「MAD」などでウォーターゲートのニクソンが徹底的にオモチャにされているのを観ている世代には、何ら不思議ではない。
むしろ、多様性を排した現在の一枚岩のアメリカこそ、異様なのである。
誤解を恐れずに言えば、「不偏不党」など、本来あり得ない。新聞にしろテレビにしろ、送り手が加工した段階で、どうしてもその主観が混じるからである。必要なのはメディア側が如何なる権力にも阿らないこと、観る受け手が複雑多岐・膨大な情報から真実を取捨選択し、あるいは疑う眼を持つことであろう。
ブッシュ家とビンラディン家の蜜月、空爆されたイラクの無辜の民の嘆き、米軍兵士の供給源である貧困層、議会・政府の無責任。これら我々には周知の事実が、アメリカ人にはこれまで知らされていなかった。「華氏911」のアメリカ国内での些か鼻白む程の反響は、そのままアメリカの歪んだメディア状況を映し出している。

○9月12日(日)、岩波同時代ライブラリーの中村真一郎「江戸漢詩」を読み終える。
この書を読もうと思ったのは、中村稔「私の昭和史」に著者の一高・国文学会の先輩として中村真一郎が登場することに惹かれたからだが、巻措く能わざる面白さであった。
本場の唐詩・漢詩はともかく、日本人の漢詩というと壮士の詩吟の如き悲憤慷慨調を連想し、敬遠しがちだが、本書で中村が精選・引用している江戸末期の詩人たち、即ち頼山陽や柏木如亭・大窪詩佛・菊池五山・市河寛斎らの作品の、江戸の都市生活・人情の機微・自然の推移に寄せる眼差しの何と瑞々しいことか。
頼山陽の生涯のパートナーであった江馬細香の一群の詩など、それだけで一編の恋愛小説である。詩ではないが、広瀬淡窓の弟・広瀬旭荘が愛妻を悼む手記「追思録」は、淡々とした筆致の裏に流れる哀しみの深さが、読む者の胸を打つ。
中村は更に海外の諸事情、例えばピョートル大帝やナポレオンの事蹟に取材した漢詩をも紹介し、漢詩という文学形式が、当時の江戸知識人の表現形態・思考様式に抜き差しならぬまで影を落とし、世界に開かれた窓の一つであったことも例証している。
「江戸文学=戯作」という我々の文学史の固定観念が如何に一面的かを思い知らされる。
刺激に満ちた好著である。

○頭が漢文思考(?)になった余勢をかって、岩波文庫で中江兆民「三酔人経綸問答」を読む。
学生時代には難解極まりなく斜め読みだったのが、先ほどの「江戸漢詩」や馬琴の読本、浄瑠璃を読み散らかしてきた成果か、この歳になるとスラスラと頭に入る。
何より、兆民の文章が名文である。論理が一貫し全く無駄がない。現代人には難解な漢語も、一語一語定義が揺るぎなく精査され選び抜かれており、そのまま英訳できるのではないか。余り面白いので、三日の間で二回読んでしまった。
流石岡村甕谷の門を叩き鍛えられただけに、その漢学的教養と、フランス留学で培ったルソー譲りの西欧合理主義が渾然一体になっている。
最近は樋口一葉すら「現代語訳」が出る世の中だから、この「三酔人」文庫版にも懇切な現代語訳が付いているが、初めての読者には、億劫がらず是非本文にあたられんことをお薦めする。
「三酔人」は明治二十年、兆民三十九歳の作。酔えば政事を論じて飽くことなき「南海先生」の下に、「金斧と号する洋火酒」(ヘネシーのコニャック)を手に、俊秀の洋学士「紳士君」と壮士然たる「豪傑君」が訪れる。杯を重ねるにつれ談論風発して止まず、その鼎談を編んで冊子にしたという趣向。
中立・現実志向の「南海先生」、民主主義による近代化を熱っぽく論じる「紳士君」、隣の眠れる大国・中国侵略を念頭に国権伸張を説く「豪傑君」。この三者は、そのまま兆民という個人に内在する矛盾であり、近代日本自体がこの一世紀内包し続けている矛盾である。
紳士君の系譜は自由民権・大正デモクラシーに繋がるが逼塞し、野放図に膨れあがった豪傑君の野望は満州事変から太平洋戦争という「十五年戦争」を惹起し、破局する。
では、紳士君が復活したのか。否。
戦後民主主義は、GHQから与えられた「恩賜的民権」であり、下からの「恢復的民権」ではなかった。戦後五十九年を経て、繕い続けてきたその矛盾が破綻し、またぞろ豪傑君の威勢の良い空元気が頭をもたげてきたのは周知の通り。
結局我々はこの一世紀余、南海先生の閑居から一歩も抜け出ていないではないかという虚しさと同時に、未来への確信を呼び起こしてくれる。
それにしても、列強のアジア進出の脅威に曝されていた1887年という時点で、紳士君に「非武装中立」を語らせている先見性は凄い。
紳士君は、国家の正当防衛権すら放擲する。
「元来、人を殺すは悪事なり。生理的の秩序を破壊るが故なり。是故に、寧ろ人我を殺すも、我れ人を殺す事なかれ」。「我邦人が一兵を持せず一弾を帯びずして、敵寇の手に斃れんことを望むは、全国民を化して一種生きたる道徳と為して、後来社会の模範を垂れしむるが為なり」。
浅薄な理想主義と嗤うのは自由だが、国家が「生理的の秩序を破壊」する死刑を廃止しえず、憲法前文・憲法九条を保持しながら、一方で超大国による殺戮の一端に加担している今の日本が果たして「生きたる道徳」を発揚しているかと思うと、兆民の掲げた理想は現代日本の歪みを照射する鏡として、今もその生命を失わない。
このほか、紹介したい箴言・警句は数え切れないが、最後に南海先生による日中関係への提言を引きたい。これは、現在の胡錦濤政権・小泉純一郎政権にそのままあてはまる。
中国とは、その習慣・文化・地理的関係から言っても日本は協力関係を強化し、「務て怨を相嫁すること無きを」求めるべきである。経済発展過程では広大な中国は日本の一大販路である。「是に慮らずして一時国体を張るの念に徇ひ、瑣砕の違言を名として徒に争競を騰るが如きは、僕尤も其非計を見るなり」。
小泉サン、判りますか。あなたの外交無策は非計ですよ。
ある論者は「と言ったって、元々中国は日本を恨んでいるのだから、幾ら仲良くしたって、一朝ことある時は、列強と組んで日本を餌食にするに決まっている」というが、そうだろうか。
「大抵国と国と怨を結ぶ所以の者は、実形に在らずして虚声にあり。実形を洞察するときは少も疑を置くに足らざるも、虚声を預測するときは頗る畏る可きを見る」。
皆さん「神経病」ですよ、色眼鏡で見なさんな、と南海先生は諭す。
例え「反日教育」が行われていようとも、それは日本と中国に二千年近い交流の中のほんの一齣にしか過ぎない。だから握手もしない、対話もしない、と「靖国参拝」という「個人的信念」に立て籠もっていては、何ら発展性がない。まさに「虚声」におびえ、十億の民の「実形」に背を向ける「非計」と言えよう。ならば我々は、中国の「反日教育」が虚偽であると世界に胸を張って表明できるだけの内省をこれまでして来たのか。日本を「生きたる道徳」の国としてきたのか。
20日、日中の有識者で作る「21世紀委員会」が未来志向の提言を行った。
中江兆民の子・丑吉(生涯の大半を北京で暮らした中国古代政治思想研究家)に薫陶を受けた大来佐武郎の衣鉢を継ぐ委員会である。
しかし、提言を受ける当の日本の宰相に、果たして経綸と雅量ありや。「豪傑君」の裔ならざることを切に祈る。

○17日(金)御園座観劇の為、名古屋へ向かう車中と宿で、矢野誠一の新著「二枚目の疵 長谷川一夫の春夏秋冬」(文藝春秋)を一気に読む。
銀幕で一世を風靡した29歳の林長二郎を突如襲った、カミソリ二枚刃による顔切り。松竹から東宝への移籍直後に起きたこの凄惨な事件の真相への興味から頁を繰ったのだが、驚かされたのは本題よりも、著者の劇評家・安藤鶴夫に対する激越な批判である。安藤の長谷川一夫への言辞を廻る戦中から戦後の変節と保身に、文字通り「筆誅」を加えている。
元々「オール読物」の連載なので、問題の箇所を読んだ渡辺保から「これでは安鶴さんが可哀想だ」と言われたそうだが、それでも矢野の姿勢に一点の揺るぎもない。当時の事情を知らぬ私としては、是非について軽々に判断することは出来ぬが、矢野の数多くの著書に教えられてきた身としては、余程の信念と思う。
およそ筆で暮らすものは、その筆でもたらされる結果に責任を持たねばならぬ。安藤鶴夫にせよ、矢野誠一にせよ。その並々ならぬ覚悟が行間から漂う一冊。
昭和29年の、歌右衛門との北海道巡業の挿話が良い。二人の「累」をせめて映像に遺して欲しかったと、痛切に思う。

○18日(土)午後2時40分、御園座の昼の部終演。夜の会食の約束の時間まで、充分間がある。思い立って、犬山の明治村に行くことにした。名鉄新名古屋から急行で約30分、続いてバスに乗り換え25分程で、博物館明治村に着く。
お目当ては帝国ホテル旧館正面玄関。
関東大震災にも耐えたこのフランク・ロイド・ライトの傑作建築は、万国博を前にしたホテルブームの中、1967年末解体。解体を巡っては各界から保存運動が起き、結局その巨大な迷宮の入り口に過ぎない正面玄関のみが明治村に移築された。正面から池を隔てて眺めると、僅かながらではあるが、かつての偉容を偲ぶことが出来る。
私が明治村で帝国ホテルと再会するのは初めてではない。前回もそう思ったが、やはり少々外観がキレイ過ぎる。
旧館が取り壊された時、私は八歳。
ホテルは子供の行く処ではない、という訳で、正月とかクリスマスとか改まった機会にしか親に連れて行って貰えなかった。
遠い靄の中に霞むライト館の思い出は、見上げる程高かったバンケットルームの天井、プレゼントを配っていたサンタクロース、ロビーの回転扉と赤絨毯、広大な地下調理場と断片的である。それでも、黒ずんで変色した大谷石と煉瓦の装飾、薄暗いロビーはハッキリ記憶している。とにかく、重厚で敷居が高いと子供心にも思った。中野重治が「ここは西洋だ イヌが英語をつかう」と毒のある詩を詠んだのもむべなるかな。それ程、外界と隔絶した異空間であった。
明治村の帝国ホテルは、こと外観に関する限り、大谷石も煉瓦もすっかり新調され、かつての震災・戦災をくぐり抜けた旧館の風格は失われている。しかし、一歩中に足を踏み入れると、あの薄暗い異空間が健在。古代マヤ文明に着想を得たというライト独特の幾何学的な装飾と相俟って、不思議な落ち着きを醸し出していた。
ライト館については、解体当時、早稲田大学の明石信道教授が詳細な実測調査を行い、「旧帝国ホテルの実證的研究」という浩瀚な著書にまとめられたが、今日では稀覯本である。今年3月、そのダイジェスト版が建築資料研究社から「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」として出版されたので、早速買い求めた。
村井修撮影の写真が良い。ライト館の外観内部をあらゆる角度から撮影し、印画されたライト館が呼吸しているかのようである。19日の帰京後、書架から取り出して飽くことなく眺めた。
明治村でのロビーの光と影がもたらす陰翳が、埋もれた記憶を呼び覚ましたのだろうか。一瞬タイムスリップしたかのような感慨に襲われたのだった。


2004年9月5日(日)

双頭の霊亀  〜巣林舎「津国女夫池」を観る〜

4日の朝刊一面に、ロシア・北オセチア共和国での小学校占拠事件で、「死者150人超」の大見出しが踊っている。
強行突入と銃撃戦の凄惨な映像、解放されたものの恐怖に引きつる子供たちの顔、顔、顔。死者が更に増えそうだと報じる昼ニュースを暗然たる思いで聴きながら、新宿の紀伊国屋ホールに向かった。
巣林舎「津国女夫池」を観るためである。
巣林舎は、言うまでもなく近松門左衛門の号・巣林子に由来している。近松=山口出生説に基づいて作られた劇場「ルネッサながと」(山口県長門市)では、鳥越文蔵早稲田大学名誉教授・渡辺保放送大学教授監修の下、2000年から現代語訳による「近松実験劇場」をスタート。第一回「下関猫魔達」から、「からさき八景屏風」、「用明天皇職人鑑」「相模入道千疋犬」「一心二河白道」「娥歌かるた」「雪女五枚羽子板」と取り上げ、既に8回を数える。
今回の「津国女夫池」は昨年5月上演されたもので、昨年の「用明天皇職人鑑」に続く二度目の東上公演である。
ラインナップを観れば一目瞭然だが、世話物・心中作家としての声望の陰で、これまで余り顧みられることのなかった時代物浄瑠璃の作品群に光をあてているのが新鮮である。
前述した通り、実験劇場では近松の本文忠実・現代語訳を原則としている。これは、昨年の「余滴」欄の「用明天皇」評でも書いたことだが、この方式だと近松の詞藻は、「義太夫」という音曲の制約から自由になり、近松の構想した宇宙と、言葉の持つ力強さが、観るものにダイレクトに響いて来る。
実際、今回の鈴木正光演出は、全五段の本文を端折ることなく、幕間10分を含めて2時間半で一気に見せてしまう。
歌舞伎・文楽において近松の時代物が「国性爺合戦」など極く一部しか上演されず、仮に復活されたとしても、従来の丸本歌舞伎の様式に馴化・吸収され、言葉が埋没してしまう懼れがある。この現代語訳形式によって、我々はシェークスピアの薔薇戦争劇を観るように、ようやく近松の時代物の実りを血肉化できたと言えるだろう。
「津国女夫池」は、享保六年(1721)二月、大坂竹本座初演。近松六十九歳の作で、前年十二月に「心中天の網島」を、同年六月には「女殺油地獄」を書下ろしているところから見ても、その円熟の程が察せられよう。本文は、近松全集をはじめ、最近では岩波の新古典文学大系にも詳細な註を付して所収されているので、いつでも読むことが出来る。

足利十三代将軍・義輝(いわいのふ健)の治世。
殷の紂王そのままの暴虐な将軍の下、室町御所は老獪な三好長慶(松熊信義)と忠臣浅川[細川]藤孝(若松泰弘)の二派に分かれ、権謀術数が渦巻く。そんな折、近江堅田で珍しい一身両頭の亀が引き上げられ、吉凶何れの兆しか、朝廷から幕府に諮問される。長慶の息子国長(土屋武訓)に逆心を疑われた義輝の弟義昭(浅地直樹)は両頭の亀に「兄弟天下を諍ふ瑞相」を見て、亀の首ひとつを切り、出家してしまう。これに対して長慶は、自ら国長の首を斬って保身を計るというのが発端。
この「双頭の亀」という異形の生物こそ、この戯曲を読み込むキーワードである。善悪正邪という双頭=両極を、国家も、家庭も、その構成員である個人も内面に包含し、その葛藤の中に生きている。
それを極限まで突き詰めたのが、三段目「摂津福島・文次兵衛内」と続く「女夫池」のくだりである。
近松の時代物を読むと、一人遣いという制約ゆえか、前後はスピーディなストーリー展開とスペクタクル(「国性爺」なら虎退治と碁立軍法、「女夫池」なら将軍弑逆と千畳敷)で、三段目は濃厚な人間ドラマ(「国性爺」の獅子ヶ城)で直球勝負である。特にこの文次兵衛夫婦の物語は人間の業をこれでもかと剔抉・追究する作者の眼が、読んでいて怖ろしくさえある。
長慶の陰謀(史実では長慶既に亡く、松永弾正)によって義輝は殺され、身重の御台所(金沢映子)は藤孝の臣・三木〔造酒〕之進(沢田冬樹)と妻清滝(小林亜弓)に護られて都落ち。途中御台所は無事男子を出産する。
主従が辿り着いたのは摂津福島に閑居する三木之進の親・文次兵衛(菅野菜保之)小むつ(吉野佳子 原作は役名なし)夫婦の侘び住まい。「父母共行義強き気質」である。
実は清滝の父は三好の家老であり、三木之進も承知で結ばれたのだが、親同士許さぬ「密通の夫婦」であることを、文次兵衛には言い出せずにいる。
そのうち小むつが清滝の素性を聞きつける。文次兵衛は情報漏洩を恐れ、息子に清滝を斬ってしまえと命ずる。父に逆らうことは孝道に反する。目前に清滝を連れて来て、父の目配せが処刑の合図。近松の文章を読むとここは手に汗握るが、現代人が演じるとコトバのみで地の詞章が省略されるので、どうしてもサスペンスが減殺される。音曲・語り物という様式を放棄した以上、これはやむをえまい。
処が、ここでドンデン返しが起きる。
清滝は、三好の家老の娘ではないという。自分は捨て子であり、「証拠はこれに」と差し出した守り本尊の不動に文次兵衛夫婦は驚く。清滝こそかつて捨てた我が娘。再会を喜ぶ両親。しかし三木之進は自分たちが兄妹でありながら畜生道に堕ちた罪におののき、煩悶する。
ここの清滝の描写が凄い。庇の屋根で兄妹と知らず戯れ遊ぶ猫に我が身を重ねて、「アア浦山しい兄弟夫婦と契りても。人も咎めず謗られぬ。猫になりたい」と三木之進の「側へ側へと立寄る差足」。
社会的禁忌(近親相姦)を踏み越えてまでも、己れの恋をひたすら成就させたいという積極的人間像は、後年の南北の「三角屋敷」黙阿弥の「伝吉内」の運命におののく陰惨さとは明らかに一線を画している。
「恥しいことの有たけ打解け仕廻ふた其跡で。兄弟の指合繰つたとて何の詮ないこと」。これまでありったけの情交に溺れたそのあとで、近親相姦のことを持ち出しても仕方ないではないか。こんな大胆なセリフはなかなか書けるものではない。
結局二人は天神の森の二つの池にそれぞれ入水し死のうとする。そこに文次兵衛夫婦が追ってきたので、二人は慌てて姿を隠す。
二人が死んだと思った文次兵衛は、驚くべき真相を語り出す。
「二人は兄妹ではない」。
三木之進の実父は周防大内家の家臣で文次兵衛の古朋輩・駒形一学。
一学の先妻は三木之進を産んで間もなく亡くなったので、一学は当時十七歳の小むつと再婚する。ところが二十二年前の五月下旬の某夜、連歌の会の帰りに、一学は何者かの闇討にあい落命。文次兵衛は朋輩のよしみ、十五になったら三木之進に敵を討たしてやろうと約束して、小むつと再婚する。二人の間には清滝が生まれるが、兄の本望の妨げと捨て子。ところが、十三歳の年に三木之進は浅川家に出仕して累進、「いつでも敵は討るる物」と息子の知行に眼が眩み、これまで約束を違えて来た自分は畜生同然、と文次兵衛は息子の後を追おうとする。
堪らず駆け寄る三木之進夫婦。三木之進は気負いたち、実父の仇を討ちたいと両親に迫る。
その時文次兵衛の口から出た驚くべき言葉。
自分こそ、実父一学を殺した敵だというのだ。
かつて文次兵衛は、家中で美人の誉れ高い小むつに恋慕し、朋輩の一学に取り持ちを頼んでいた。ところが当の一学がさっさと小むつと再婚してしまう。恋の闇に迷った文次兵衛は一学を闇討ち、敵を討つと約して小むつと結ばれたのだ、と。
さあ、父の敵を討て、といわれても、「討れしも親討たるも親」、三木之進は大小をかなぐり捨て呆然とするばかり。
小むつは身を恥じ、「切先銜へ真逆さま」に池に飛びいる。文次兵衛も「焼くな埋むな鼈の。餌食になれ」と入水する。大坂天満天神の女夫池の由来は三木之進ら若夫婦ではなく、文次兵衛夫婦であった。
息もつかせぬドンデン返しの連続。周到で破綻のない伏線。その中に浮かび上がる文次兵衛という男の壮絶な人生に我々は瞑目せざるを得ない。
恐らく文次兵衛は、当初は成人した三木之進に討たれる覚悟だったろう。実子清滝を捨てたのも、罪の意識と同時に、異父兄が父の敵になるという因果の柵を断ち切りたかったからだろう。しかし、浅川家が息子の出仕を求めた時、歯車が狂った。
彼は真相を息子に告白することなく、「いつでも敵は討るるもの」と、敵討の大義を息子の立身出世という小市民的充足にすり替えることで自らを欺瞞した。それは、小むつとの仲睦まじい夫婦仲の奥底に隠蔽された「剣と剣を抱合せた夫婦合」という現実からの逃避もであった。そして、表面はひたすら昔気質の古武士として生きた。三木之進たちが訪ねて来るまでは。
彼は、最後まで真相を隠蔽しようとした。子供たちが死んだと思いこんでの最初の述懐で真相を全て述べていないことでも判る。彼は墓場まで持って行きたかったのであろう。
しかし三木之進が生きており、しかも敵を討ちたいというひたむきさに、遂に進退窮まる。自ら敵と名乗ったものの、それは子供たちにも、妻にも新しい修羅の始まりであった。
最期は小むつにまで遅れを取る。全くぶざまとしか言い様がない。
思えば文次兵衛の生涯は、小むつ争奪で一学に遅れを取り、三木之進に真相を語る機会を逸しと、その無器用さが際立っている。そこが、後世の理想化された丸本の主人公たちに比べ、より人間の本質を抉っている。
舞台を観ながら私は、DVDで見直したばかりの原一男監督「ゆきゆきて神軍」を思い出していた。
天皇パチンコ狙撃事件で知られる奥崎謙三が、かつてニューギニア戦線での軍の上官や同僚のもとをアポなし取材(M.ムーアも、日本のドキュメンタリーで一番好きなのはこの作品という)、「英霊は靖国神社に祀られているのだから」と言い逃れる彼らを、時に暴力を振ってまで真相を問いつめていく。戦後ぬくぬくと市民生活を送って来た彼らの口から語られるのは白人兵を「白ブタ」、現地人を「黒ブタ」と呼んでの人肉食、真相漏洩を恐れての「脱走兵」処刑。公開時観た以上の衝撃を覚えるのは、戦後五十九年の小泉政治の「いま」と無関係ではないだろう。
文次兵衛に限らず、奥崎が殴った元兵士に限らず、人は皆、過去も未来も、心になにがしかの闇、剣と剣を抱え、煩悶し、葛藤し続ける存在なのだ。あの双頭の亀と同じ様に。
菅野菜保之の文次兵衛は、前半の武骨さから、次第に虚飾がはぎ取られて行く心の動きを的確に見せた。例えば、清滝から渡された守り本尊にサッと目を落としただけで小むつに渡し、下手で背を向けて立ちすくむ件など、過去からの復讐の予感への戦きがありありと出る。また、一学闇討ちの経緯を語る場はまだ自分を下手人とは言っていないが、「時しも五月下旬の五月闇右は並木左は小川」の件など、罪障に苦しみ歪む男の顔になる。
入水はハラを決めた覚悟を滲ませるが、最後はやはり原作通り「せめて切腹を」と引き上げる三木之進を振り切る様に、自分の腕を切り落とし水底に沈む凄絶さを採りたい。
文次兵衛が腕を切るのは、義昭が双頭の亀の首を切るのと、明らかに照応しているからである。自らを「鼈の餌食」というのも、偶然ではない筈だ。
細かいことだが、自分が畜生道だと思いこみ懊悩する三木之進に、三好の百姓を「欲にふける人でなしの畜生共」と罵るのは、何気ないセリフだが、しっかりと粒立たせたい。
吉野佳子の小むつが良い。三木之進に「敵の手掛かりは」と問いつめられ、「愚かのことを言ふ人や」、名も在処も判っていれば、何で再婚して日を送ろうか、と言い淀む表情に、この女もうすうす夫が敵であることに気づいていたなと思った。本文を読んだだけでは判らない発見である。彼女も二十二年間、夫と同様に心に剣を抱いていた。
若手では小林亜弓が清滝のひたむきな情熱を好演している。下賀茂神社で狐の真似をするのは原作にはないが、後段の畜生道の伏線として効いている。
前述した様に、鈴木正光の台本は原作にほぼ忠実だが、それでもこの下賀茂のほか幾つかの改変がある。
義昭こと僧慶覚(史実は覚慶)が、灰燼に帰した室町御所に佇み、愛妾を殺した罪の苦患にのたうつ義輝と愛妾大淀(岡寛恵)の幻影を見る四段目「千畳敷世がたり」の、夢幻能風導入部を冒頭に置く。これで、血で血を洗う凄惨なドラマも、歴史の一場面として相対化する視点が生まれる。
五段目は、義昭と諸大名連合軍が朝日が岡の三好館を包囲。目指す長慶を一旦見失い、一同悔しがるのは明らかに赤穂浪士の吉良邸討入を踏まえている。原作では松の梢に隠れた長慶を槍で滅多刺しにして屠って終わる。
鈴木本では、成長した義輝の子義栄(後の十四代将軍。史実は従兄弟。大手忍)と三好の孫将友(高島希代)という子供同士が赤黒の鎧武者にうちまたがって騎馬戦、将友が討たれる。苦痛にゆがむ将友の顔を見て、一瞬表情を曇らせる義栄。長慶ももはやこれまでと自害する。
義栄を先頭に勝鬨を上げる連合軍。そこに突如上空から猛烈なヘリの爆音が。無心に手を振る一同にヘリが機銃掃射、全員なぎ倒されてしまう。そのヘリの轟音を掻き消そうとするかの様に、琵琶法師慶覚が奏でる「祇園精舎」の謡声が…。慶覚の立ち去ったあと、斃れた人々が髑髏の面をつけて次々に立ち上がる。ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」に合わせて面を取った彼らが見る先は遙か未来か。
勝者も敗者もない戦争の虚しさと、未来への曙光を演出は託したかったのであろうが、見終わって一種「空々しさ」を禁じ得ない。
それは必ずしもサッチモの名唱の使い方の陳腐さ(近くは「ボウリング・フォー・コロンバイン」から、記憶に新しい処では「12モンキース」まで、この曲を逆説的に用いるのには些か食傷気味)だけではあるまい。
あれだけ殺戮と憎悪の連鎖を撒き散らしながら「世界はより安全になった」と宣う超大国の指導者と、それに熱狂する国民を、我々は現実に目の当たりにしているからだ。
昭和16年4月、日中戦争が行き詰まり、太平洋を挟んで日米が対峙しはじめた時期、北京の隠者・中江丑吉(兆民の子)は、東京の若き友人・当時一高在学中の阪谷芳直に、以下のように書き送った。

「○蒙古人の鉄蹄が欧亜を蹂躙した時、人の生命が一本の草や一握の泥の塊りよりも価値なく、又回々教徒がスペインになだれ込んだ時、会堂が焼かれ、住宅が破かいされ、所謂神の力も、『正義』の裁判(サバキ)も泥人形ほどの力もありませんでした。此の強力の前にドンドンと一家が離散し、一族が殺傷され、都市が滅亡し、王国が跡を消して行くのを、真面目な敬けんな心持ちで、そうして堪へ難い生活の桎梏を受けて見送って居た所の当時の環境にあった大多数の人達の気持ちが、如何であったかは略々想像がされます。
 然し今日では、中学生と雖も、蒙古侵入やサラセン征服の歴史的意義はたいして、考慮も払はずに回答出来る筈です。ヘーゲルの云ふWirklichikeitの中からwirklichのものとunwirklichなものとを摘別するのは、飯の中から砂利やゴミをすて去るのよりももっと我々には生活的(レーベンデイツヒ)だと思ひます」(「中江丑吉書簡集」みすず書房)。

戦時下の厳しい検閲の下、中江が示唆したのは蒙古・サラセン同様、歴史的視野に立てば日中戦争の歴史的意義など取るに足らぬということだろう。
私とて、三好・松永の下克上の歴史的意義については「考慮も払はずに回答出来る」。
しかし、「9.11」以後現在進行している惨禍に対して、中江ほどの醒めた視角を持ち得ないのは凡俗ゆえか。
帰宅したら、小学校占拠事件の死亡者は300人を超えていた。
中江丑吉は、太平洋戦争間近の昭和十六年八月、帰省する阪谷に日本必敗を予言した上で諭した。
「懐疑主義に陥るな」。ヒューマニティの進展を信ぜよと。それが中江と阪谷の別れであった。
しかし私は呟く。我々が内なる「双頭の亀」の首を断ち切るのはいつの日だろうか、と。
否、そう呟く自分こそ、知らず知らずのうちに、心に双頭の亀を飼っていたのかも知れない。


2004年8月21日(土)

葉月日乗抄 〜お岩の糸立から「私の昭和史」まで〜

○16日、歌舞伎座を三部通しで見る。
平日、お盆休み、酷暑というのに、入りが良いのは何より。こと歌舞伎に関しては、不景気とは無縁の様だ。
第1部の開幕前、ロビーがSPで物々しい。予想に違わず小泉総理である。開幕直前、ラフなノーネクタイ姿で、手を振りながら1階下手寄り前から5〜6列目の席へ。
以前の「米百俵」の時のような狂熱的歓迎(私に言わせれば集団ヒステリー)はなく、皆携帯で遠巻きに写真を撮っているのが、却って不気味だった。皆さん、政治のお行儀の良い「観客」なのですね。
「蜘蛛の拍子舞」終了後、劇場を出ようとしたら、ロビーでSPに制止された。
無論VIPの移動の為である。周囲から「早くしてよ」との声が出たのは健全なことだ。
首相は報道陣のカメラとヤジ馬の携帯の「無言の砲列」に見送られて、木挽町を去った。
昨日の敗戦記念日の戦没者慰霊式典で鎮魂と平和への努力を誓ったばかりだ。今でもイラクで非戦闘員の虐殺が続いている。先憂後楽、せめて前後1週間位身を慎んでもよかろうに。池田山の公邸でワグナーを大音量で聴いている方が罪はない。
「御浜御殿綱豊卿」終幕、「大義至誠を尽くせ」という後の六代将軍家宣の叫びを宰相はどう聞いたか。
結局彼の胸奥に都合良く響いたのは、新井勘解由(白石)の「我等は唐人では御座いませぬ」の一言だけだったかも知れない。

○これは劇評でも指摘するが、第三部「四谷怪談」裏田圃で勘九郎が糸立を持たないのは何故だろう。
原作では「手拭を冠り、安下駄をはき、糸立をかかへ」とはっきり夜鷹のなりを指定している。
父左門は浅草境内で袖乞い、その窮状を救おうと妹お袖は地獄宿に出、姉のお岩は身重の身で毎夜客の袖を引く。
「思ひついた辻君も、肌は触れねど訳言うて、やつぱり袖乞ひ同前な、今の世渡り」とお岩は言い訳しているが、実際は判ったものではない。南北は仇討ちの義挙という美名の背後の、浪士たちの貧困の実相をリアルに剔っている。
しかしそれだけではない。
この場は近松半二「太平記忠臣講釈」六段目「七条河原の段」(通称「惣嫁場」)のパロディなのである。
矢間重太郎の妻おりえは、病身の舅喜内と、子で疱瘡を患う太市郎を支えるために惣嫁(夜鷹)に出ている。そこに、祇園から逃げてきた遊女浮橋、実は重太郎の妹おむつが行き会い、互いの身をかこつ。つまり、「四谷怪談」にあてはめればおりえ=お岩、おむつ=お袖、喜内=左門、重太郎=伊右衛門ということになる。
これに続く七段目「喜内住家の段」は、先日も山城のCDで聴いたが陰惨悲痛を極める。
本心を隠し、鎌倉に仕官するとやってきた重太郎に、喜内は激怒する。重太郎はおりえを離縁。縋り付く太市郎への子故の闇を断ち切るように、太市郎を小柄で刺殺する。喜内は息子の義心に、隠してあった金を与えるが、貞操を疑われ、我が子も失ったおりえは自害。重太郎は義挙の旅に出立する。いわば典型的な「義士出立劇」である。
もうお気づきだろうが、「四谷怪談浪宅の場」は、全て「喜内住家」を逆に運んでいることが判るだろう。
元々義挙に関心がないばかりか、敵方の伊藤家に寝返る伊右衛門。お岩には宅悦を使って不義をしかけるまでして離縁しようとする。いわば「浪宅」は、南北が仕掛けた「義士出立劇」の陰画なのである。
「四谷怪談」と「忠臣講釈」の類似性については、既に拙稿でも論じてあるので、参照されたい。

○14日放送された、フジテレビの岸信介「検証」番組と、同日夜のNHKスペシャル「遺された声」。当日不在だったので、ビデオで観る。
それにしても、岸検証は酷い。
60年安保といっても、たかだか40年前の話である。それを恵俊彰らお笑い芸人が岸肯定派・否定派に分かれ、「知ってるつもり!?」か「きょうは何の日」ばりに弁論を展開する。そうでもしなければ視聴者は「何も知らない」「何も判らない」とでも思っているのだろうか。
裁判長役の西村和彦はただニヤニヤ笑っているだけ。しかし岸が署名した詔書によって始まった「大東亜戦争」で何万何十万人のアジアの人々が犠牲になったか。60年安保では樺美智子さんが亡くなっている。「笑ってすむ」問題ではない。
番組は、岸が巣鴨当時G2への情報提供役だったこと、CIAとのつながりも一応触れて見せる。「満州国」を跳躍台にした岸の台頭も。しかし後者は、あくまで「岸が満州で実験した統制経済が、戦後日本の高度成長の基盤となった」というとんでもないトーンにおいてである。
何より「『正論』で岸評伝を連載しておられる福田和也先生」(何故「福田慶大教授」ではいけないのか。「先生」というへりくだりに微妙な意図を感じる)の解説と、妖怪ならぬ平凡な「好好爺」の祖父の思い出を語る安倍幹事長の登場で、番組の意図はもはや明白。政界のサラブレッド、長州の名門のルーツを探る提灯持ち番組に1時間半付き合わされたわけだ。
岸の本当のルーツは「満州」である。傀儡国家のグランドデザインを思うがままに構築し、政治資金の「濾過器」という錬金術を学んだ。東条英機・星野直樹・鮎川義介・松岡洋右と並んで「二キ三スケ」として満州に君臨したこと。五族協和、王道楽土の美名のもとにどれだけの中国人民、満蒙開拓団が犠牲になったか。戦後の韓国・インドネシア賠償、ダグラス・グラマン空中戦、児玉誉士夫との関係にも触れるべきだろう。
もはや日米が闘ったことも知らぬ若者達に、「昭和の先覚の志士・岸信介」と、その毛並みの良い孫という「誤伝」が「日本のケネディ家」ばりに耳障り良く吹き込まれる。恐ろしい時代になった。
それに比べNHK「遺された声」は、淡々としたタッチが逆に粛然とさせる。
戦前「満州」新京(現長春)放送局でラジオ放送のため録音された数千枚の録音盤。
満蒙開拓の夢を明るく語る人あり、鉱山で働く人々の座談会あり。しかし取材班は、生存者や関係者に丹念にあたることで、その背後の悲劇を明らかにしている。
植民地支配下の朝鮮人でありながら、日本人「大河某」として特攻隊に加わり戦死した若者の最後の叫びは、死後戦意高揚のプロパガンダに最大限利用される。
しかし彼の「本意」は果たして奈辺にあったか。
満州からの引き揚げ途中、父と生き別れ、録音盤で59年ぶりに「遺された声」に再会した元中国遺棄日本人の涙。
私自身、社会部当時「残留孤児」(何と卑劣な言いかえか!関東軍の責任を糊塗し、『遺棄』した幼児たちに『残留』という名の自己責任を押し付けるとは)担当として代々木の身元調査会場に詰めていた。長野の寒村はじめ、全国の開拓団の集団自決の悲劇を何度聞かされたことか。山崎豊子「大地の子」そのもの、いや、それ以上の悲惨さがそこにあった。
「大地の子」の主人公・陸一心は日本語が話せるだけ恵まれている。そこがフィクション。そうでないと読者が感情移入出来ませんからね。しかし、私が逢った多くの遺棄日本人たちは、長く中国東北部に住み、北京にも行ったことがない。皆深い皺が刻まれ、聴き取りにくい東北部訛りの中国語で、「自決の時、母親に刺された」と首の傷を指差すのだ。
私は哭いた。
「遺された声」に登場した遺棄日本人の男性は、帰国して何年位だろう。ある程度、関西弁も話せる様だ。身元が判明したあと、彼らは日本で「定着促進センター」に入り、僅かな研修のあと、実社会に放り出される。「定着センター」を一度取材したが、設備はお寒い限りだった。今は、二世三世への差別さえ生まれている。
かつて「五族協和」などと浮かれていた日本。結局その実相は、「日本人の顔をして、日本人の血が流れ、日本人の生活通り生活し、日本語を流暢に話す」人間のみに優しく、他者を徹底的に排除する「内向き」国家である。
番組は、岸信介の後任・武部六蔵満州国総務長官の訴える「徹底抗戦」の空虚な放送で終わる。
岸が巣鴨プリズンを出て、「日本=反共の防波堤」という東西冷戦の戦略の下、総理大臣に登りつめるのは、戦後僅か11年6ヶ月後のことであった。

○最近、新潮社から「自省録」という本が出た。
マルクス・アウレリウスの香気高い名著の新訳ではない。五賢帝も神谷美恵子も泉下でビックリという某大勲位政治家の「自(己無反)省録」である。「自(己)宣(伝)録」という方が相応しい。
せめて自伝の題名くらい、古典への謙虚さが欲しい。
かつてこの人が所属していた改進党の総裁重光葵は、パフォーマンス好きの当時若手議員であった彼を日記で苦々しくこう評す。
「議会中一度は何か新聞種を作るの要あるものの如し。何年経ても発達せぬ代議士に属す」
(昭和29年2月22日条 「続重光葵手記」所収)。
後藤田正晴も、田中派がこの男を宰相に担ぐ際「ぼろ神輿」と喝破した。
重光と後藤田、ともに炯眼というべきであろう。

○魚住昭「野中広務・差別と権力」(講談社)を一気に読んだ。
よくぞここまで書いた、書かせたと思う。京都園部町の被差別部落に生まれ、国鉄大阪時代はその才腕を高く評価されながらも理不尽な差別に泣く。それをバネに町議、府議、蜷川革新府政妥当後の副知事を経て、遅咲きながら国会の赤じゅうたんを踏む。自公連立を実現し、「影の総理」と恐れられながら、小泉政権から抵抗勢力視され、昨年引退した経緯は周知の通り。
読み進めると、弱者へのこよない共感とリベラルな政治姿勢の一方で、時には悪魔とも手を握り政敵を恫喝し、なぎ倒していく両面が細やかな取材で描かれる。前者に限りない魅力、後者に権力の腐臭を嗅ぎ取りつつも、読者はこの矛盾に満ちた政治家への尽きぬ興味から、最後までページを閉じることができない。
もし、自公連立の真相がこの書に書かれた通りなら、戦慄するしかない。
二つの顔の源泉は、言うまでもなくその強烈な差別体験である。
そして、良くも悪くも彼こそ最後の「有言実行」の政治家であり、某宰相の「舌先三寸」の軽薄さがおのずと浮かび上がって来る。
野中氏の差別と戦争体験に基づく発言、後藤田正晴氏の最近の右傾化への警告を耳にするにつけ、最近つくづく若手政治家の言葉が軽くなったと思う。
石橋湛山、緒方竹虎、三木武夫。前尾繁三郎、河野謙三、宇都宮徳馬、井出一太郎。
かつてはリベラルな古武士たちが言論の府にはいた。
対決軸のない、実は双子の「二大政党制」という「大政翼賛会」が完成しようとしている今、野中氏は彼らの衣鉢と気骨を継ぐおそらく最後の政治家ではなかったか。引退した今になって、その事に気づかされる快著である。

○「華氏911」で話題のマイケル・ムーアの前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」を、遅まきながらようやくビデオで見る。
昔は封切られれば必ず映画館で観たものだが、最近は新作が多すぎて追いつけない。DVD・ビデオが直ぐ出てるのだから、と安心しているから、ますます無精になる。
期待に違わぬ大力作である。
コロンバイン高校での銃乱射事件で負傷した生徒達をつれたムーアが、銃弾を売ったKマート本社を突撃取材、ねばりにねばった末店頭からの銃弾撤去を約束させる。
「有難う」。
にこやかに握手するムーアとKマートの担当者が清々しい。アメリカの良き公正さだ。
全米ライフル協会会長・チャールトン・ヘストンの逃げ腰が哀しい。「ベン・ハー」の颯爽剛毅たるジュダ・ベン・ハーいま何処。あの憎々しいスティーブン・ボイトのメッサラがいまは可愛く、懐かしく思える。
ヘストンのプール付き豪邸を辞去する際、そっと被害者の少女の写真を置く。
それだけで、いまのアメリカの病理への怒りが静かに込み上げて余す処がない。
ムーアには一度是非、ヒロシマ・ナガサキを訪れ、次回作で取り上げて欲しい。
小泉総理は「華氏911」がお嫌いらしい。自分の信ずる(否、信ぜざるを得ない)フィクションの崩壊を確認するのが怖いのだろう。
9月にはベトナム戦争当時のマクナマラ国防長官のドキュメンタリー「フォッグ オブ ウォー」(アカデミー賞受賞)も公開される。
マクナマラは東京大空襲の裏方であり、キューバ危機では核戦争寸前の深淵を見た。
「ベスト&ブライテスト」(最も優秀で聡明)と称えられたケネディ政権の神童も今年85歳、回顧録で自ら北爆をはじめとするベトナム戦争泥沼化の過ちを認めている。
「華氏911」ともども、私は久々に映画館へ行くつもりだ。
ある人が、バグダッド陥落の際「イラク戦争は日中戦争」と評していたが、その炯眼に改めて感服する。
首都をおさえれば敵は落ちる、と日本軍は過信した。結局南京陥落後蒋介石は重慶に逃れる。日本は傀儡政府を作るが、広大な中国大陸の都市という「点」をおさえることに腐心し、補給線は延び、兵士は疲弊し、国民政府・共産党との泥沼の戦いにのめり込む。あの戦争の大義が何だったか、答えられる人などいないだろう。
イラクも、アメリカはフセインを逮捕しアラウィ政権という「満州国」を作ったものの、今度は「サドル師打倒」のもと、無意味な殺戮を繰り返している。
宗教戦争というパンドラの箱。
ベトナムの教訓は何ら生かされていない。
ラムズフェルドも、ブッシュもブレアも、そして小泉総理も30年後、マクナマラの様に「大義なき戦争の霧」を総括してくれるだろうか。

○中村稔「私の昭和史」(青土社)を読みはじめる。
昭和二年生まれの著者は詩人にして弁護士。実は私は「ある興味」からこの書を手にしたのだが、詩人らしい繊細清冽な文体に忽ち魅せられた。
そこにはあの似非「自省録」の如き俗臭は全くない。
自分を、昭和という時代を、ひたすら客体化している。といってもそんな堅苦しい本ではない。戦争へとひた走る道筋の路傍には、野球あり、相撲あり、浅草六区のエノケンあり、その寄り道が実に愉しい。義太夫好きの祖父母の影響か、一高当時著者は山城・清六の浄瑠璃に耽溺したというのが羨ましい。本を書くにあたり、渡辺保さんに、上演記録を問い合わせたりしている。本当に人の繋がりとは面白い。
購入の動機である「ある興味」については、長くなるので稿を改めたい。

2004年8月15日(日)

19年前の夏 〜「重光葵資料」のこと〜

戦後まもなく、昭和二十年秋。夜毎、鎌倉材木座海岸を逍遥する二人の男の姿があった。
逍遙と言っても、初老の小柄の男を、若い男が抱きかかえる様に支えている。
雑誌「演劇界」と「日本演劇」を刊行している東京築地の「日本演劇社」社長の久保田万太郎(56歳)と、部下で編集長の戸板康二(30歳)である。
戸板は仕事のあと、銀座の「はせ川」「はち巻岡田」「清岡」などでご機嫌になった久保田を横須賀線の終電で材木座の自宅に送り届けるのが日課で、久保田とのつきあいですっかり酒をおぼえてしまった(戸板「回想の戦中戦後」青蛙房)。
久保田は三月の大空襲で綱町の家を失い、一時大江良太郎宅に寄寓していたが、十一月頃、慶應普通部の同窓で実業家の林彦三郎(三信ビル社長)の好意で、材木座海岸の瀟洒な洋館群「モリソン・ハウス」の一角を借りていた。
しかし「モリソン・ハウス」に住んでいたのは彼だけではなかった。
東久邇宮内閣の外務大臣を、9月17日後任の吉田茂に譲ったばかりの重光葵。
戦中は日光の諸戸別荘、終戦前後は一時帝国ホテルの「外務省村」に仮寓していた重光は、外相辞任後再び日光に戻ったが、長男篤、長女華子の通学の便を考えて、林の庇護のもと十一月末から「モリソン・ハウス」に居を定めていたのである(伊藤隆・渡辺行男編「重光葵手記」中央公論社)。
久保田・戸板が隣家の重光と遭遇する機会があったか、今となっては想像の域を出ない。

19年前、1985年の夏は、今年と同様暑かった。
当時私はTBS報道局社会部の内勤記者だった。
折りしも、「戦後40年」。報道局の看板番組「ニュースコープ」で特集をシリーズで組むことになり、私もその末端で資料探しに加わった。この時の「731部隊・石井四郎の米軍による刑事免責」や「マッカーサー元帥に寄せられた日本人の手紙」の発掘は、優秀な先輩記者の手になる尊敬すべき仕事である。
私も負けじと様々な関係先に当たった。
そのうちの一人が、私の叔母(母の弟の妻)・小林華子である。
華子は、重光葵の愛娘であった。
重光葵、といっても今の若い人たちには馴染みがないだろう。名前もアオイではなくマモルと読む。
明治二十年(1887)大分生まれ。外務省叩きあげの練達の外交官で、若き日にヴェルサイユ会議に吉田茂、近衛文麿らと随行。駐華公使時代の昭和七年、上海の天長節式典で爆弾テロに遭い、白川義則陸軍大将は死亡、後の駐米大使野村吉三郎海軍大将は重傷。重光も右足を失いながらも、病床で第一次上海事変停戦に漕ぎ付けた。その時内地で生まれたのが華子。叔母はまさに「時代の娘」だった。
その後重光は外務次官、駐ソ大使、駐英大使とのぼりつめ、東条内閣で東郷茂徳の後を受けて外務大臣に就任。小磯内閣の外相を辞したあとはに日光の諸戸別荘に閑居しつつ、木戸内大臣と連絡を取りながら「鶴の一声」(聖断による終戦)工作を進めた。
鈴木貫太郎内閣総辞職後、東久邇宮内閣の外相に請われる。その最初の仕事が、9月2日の東京湾ミズーリ艦上での降伏文書調印だった。
私の祖父は、その頃接収された横浜のホテル・ニューグランドを中心にGHQの接遇に追われていたが、調印後県庁に戻った重光に「ご苦労さまでした」と声をかけるのが精一杯だったと後に述懐している。
その翌日には重光は休む間もなくマッカーサーと直談判して、「直接軍政」を日本官僚機構を温存した間接統治に改めさせている。
その後の重光は、小磯内閣以来不倶戴天の敵・緒方竹虎書記官長と近衛副総理との確執もあり、外務大臣の職を辞す。
余談だが緒方竹虎は緒方貞子さんの義父。皮肉にも貞子さんと華子は「サダ」と呼び合う聖心の大親友だった。後に「重光手記」発刊の折、確執のきっかけとなった「繆斌(みょうひん)工作」(対中和平交渉)について、重光があしざまに緒方を批判している箇所があり、華子が恐縮していたのが懐かしい。
話を戻す。昭和21年4月29日、あの自らの右足を失った「記念日」に、重光は突如A級戦犯として逮捕、巣鴨プリズンに収監される。東京裁判での判決は禁固7年。重光についてはイギリス駐在時代をはじめとする各国の外交官仲間から、無実の証言・口供書が多数寄せられ、キーナン検事自身が無罪を確信し、判決後その不当性に激怒したという。
獄中で著した「昭和の動乱」「巣鴨日記・正続」は、冷静沈着な筆致に貫かれた名著である。
釈放後重光は政界に復帰、改進党(三木武夫、中曽根康弘らがいた)総裁になる。
鳩山内閣では副総理・外相に就任、日ソ交渉にあたったが、老獪な岸信介、河野一郎らに終始翻弄された。政党人としての重光の生は、いわばなくもがなであった。
昭和31年12月、重光は華子を伴って日本全権として国連総会に出席、日本の国連復帰を果たしたあと、翌年1月湯河原の別荘で急逝した。享年六十九。
以上重光の生涯の概略を記したが、彼の資料は前二著と「重光葵外交回想録」のみで、これ以上新出資料はないと思われた。これだけ歴史的人物なのだ。資料は全て発掘されたものと思っていたのである。それでも駄目もと、叔母に何かないか問い合わせると、さっそく兄篤氏に話を通してくれた。
あれは7月後半の暑い日だったと思う。神宮前の重光篤氏宅(マンションの名は葵氏の号にちなんで「向陽ハウス」だったと記憶する)へ伺うと、夫人がにこやかに迎えて下さった。応接間でしばらく待っていると、「こんなものしかありませんのよ」と多数のノート類、書類の束が私の前に並べられた。
「なにしろ達筆で、読めないものですから」。
おそるおそるノートをめくると、万年筆で克明に文章が綴られている。それぞれのノートには「霧のろんどん」「戦争を後にして」などの題名がつけられている。
中でも目を惹いたのは「帝国ホテルの暁夢」と題するノートであった。必死に判読すると、どうやらミズーリ号調印前後の経緯が、当時のリアルタイム(文章末尾の日付でそれが判る)で綴られた手記らしい。
書類の束は、粗悪な藁半紙に鉛筆で記したものだが、裏は英文タイプで打たれている。
東京裁判法廷資料を利用して書かれた、「昭和の動乱」の草稿と思われた。
被告席で書いたと見られる、証人・弁護士らのスケッチもある。これは既に「巣鴨日記」のカットで見たことがあった。
東条英機にあてた書簡、外相の辞表なども目にとまった。
(これは二度目に伺った時だが、スクラップブックにマリコ・寺崎さんの結婚を報じる英字紙が貼られていたのに胸が熱くなった。マリコさんは外交官寺崎英成・グエン夫妻の長女で、名づけ親は重光。開戦前夜、日米関係を「マリコ」という暗号にして、日米交渉の連絡に用いた経緯は柳田邦男「マリコ」に詳しい。戦後寺崎は御用掛として通称「昭和天皇独白録」をまとめ、アメリカ在住のマリコさん宅で遺品の中から発見されて衝撃を呼んだ)。
ともかく、大変な資料であることは間違いない。取り敢えず「帝国ホテルの暁夢」前後だけをお借りして、自宅で解読することにした。
「昭和の動乱」と比較して読んでみても、記述はより詳細で、当時の重光の心情、関係者の会話、天皇の言葉などが生き生きと綴られている。特に、降伏文書調印使節の話を近衛に持っていったら「高松宮がいい」と断られたり、梅津参謀総長は、「私に死ねということか」と拒否するあたり、初めて知る事実である。
興奮で寝付かれず、翌日であったか、東京大学の伊藤隆教授に連絡を取り、鑑定して頂くことにした。伊藤教授は日本近現代史の泰斗であり、新資料の精力的発掘と、精細な分析ぶりはかねてその著書で知っていた。
本郷の東大キャンパスで資料を一読した伊藤教授は、興奮した面持ちで「大変な資料だ。ご遺族に伝えて下さい、これは是非公開する様にと」。
日を改めてENGカメラで教授のコメントを収録し、当時の調印式のニュース映像を交えて、私がスクープを放送したのは8月上旬のことだった。
その際、私は篤氏に伊藤教授の伝言を伝え、公開・出版を切望した。篤氏も前向きだった。近代史稀有の資料の公開経過自体を、ドキュメンタリーにしたいという想いもあった。
そして、1985年8月12日。
「ニュースコープ」を終え、NHKの7時のニュースをチェックしていた頃だと思う。
「日航ジャンボ機の機影が消えた」。その一報に、報道局員全員が電話にかじりついた。
日航機御巣鷹山墜落。乗員乗客520人の命を奪った大惨事であった。
それから数ヶ月、私はひたすら忙殺され、「重光資料」のことは一切脳裏から消え去った。
年が改まってから、朝日新聞が突如「重光資料」の存在を記事にした。
伊藤教授に連絡すると、「君からなかなか連絡がなかったので、ご遺族をお訪ねした」とのこと。既に中央公論社からの出版も決まり、NHK特集も取り上げるという。
無論臍を噛んだが、あの墜落事故の渦中に巻き込まれていたのだ。致し方ない。むしろ、貴重な資料が広く世に出る方が喜ばしいと、自分を納得させた。
こうして世に出たのが「重光葵手記・正続」(中央公論社)である。
段ボール十数箱に及ぶ重光文書は、重光家から永田町の憲政記念館に寄託され、詳細な目録が作られた。
それらを利用して生まれたのが、渡邉行男「重光葵」(中公新書)武田知巳「重光葵と戦後政治」(吉川弘文館)など優れた研究である。最近では牛村圭「『勝者の裁き』に向き合って」(ちくま新書)が、「東京裁判批判」の視点から「巣鴨日記」を読み解いている(私は必ずしもその論点を支持しないが)。没後四十年近くを経て、ようやく重光再評価の気運が生まれた。
フジテレビで小林桂樹主演でドラマになったのはおまけだったが(ちなみに華子役は紺野美沙子だった)。
そして今年、新たに発見された資料をもとに、「重光葵 最高戦争指導会議記録・手記」(中央公論新社)が出版された。
重光の凄さは、あの激務の傍ら、外交の当事者でありながら、日中戦争から三国同盟、太平洋戦争へと破局に突き進む日本の惨状の冷静な記録者たらんとしたところである。東京裁判という生死の関頭にあって、隻脚というハンディを負ってなお、あれだけ沈着な思考を日記に刻印できた精神力というものは、尋常ではない。東郷外相にも日米交渉を綴った「時代の一面」という著書があるが、重光の見晴るかすのは、それよりも更に広い、昭和史の過誤である。
最近「自虐史観」という言葉で「戦前日本は全て正しい」という「自惚れ史観」が大流行だが、それ以前に、重光ら時代の当事者の声に、まず謙虚に耳を澄ますが良い。
同時に彼は、一人の父、やさしい家庭人として家族を見守った。
それが、この手記に血の通った温もりと安らぎを与えてくれている。

「華子が生まれたのは丁度十四年前、生まれて間もなく生死の間を彷徨していた父を上海に見舞った。ちびちびと呼んで可愛がった。弱い子供であったが、成長するに連れて健康も好くなり、その性格も晴れ晴れして来た。聖心の初等科に転校してから言葉つきから動作まで好くなった。子供らしい中にも礼儀に叶った愛らしい動作をする様になった。奇麗な髪の毛も伸びて引き締まった口元も滴る様な笑いをする様になった。(略)華子ももはやちびと呼ばれるのは不適当であると抗議するので、父は、それではのそ子と呼ぶことにしようと答えると、『ぱぱの意地悪、それではちびでいいわ!』と更に抗議した。華子が居ない時は家は火の消えた様である。
 子供の帰りが遅い時は説明の出来ぬ不安が家の中に漂う。彼らが帰って来て元気よく家に入ると同時に、『パパは!ママは!』と未だ幼い時そのままの声を聞いては一日の疲れを忘れるのであった」

重光が逮捕される直前、「夕陽楼」(重光はモリソンハウスをそう名付けていた)の家族団欒のひとときである(読みやすい様に、用字を改めた)。
その華子も、昨年3月天に召された。
今思えば、叔母から聞き書きを取っておくべきであったと悔やまれる。もうひとりの「マリコ」として。
御巣鷹山の慰霊登山のニュースを見ると、私はこれまで初めて資料の山に接した興奮と、あの未曾有の大事故に投げ込まれた渦中の日々を思い出すのが常だった。
しかし今年は、改めて重光手記を開く。

東条内閣誕生に際して。
「日本国民は皆戦争を忌避して居ることは事実である。もしこれを厭わぬものがありとすれば、これによって破格の手当や恩賞を独占している職業軍人と不当な利益をなお狙っている軍需品商とであろう。しかるにも拘わらず議会は競って軍部の意を迎え、新聞は命令のままに論説記事を書く。言論は封ぜられ、会合は圧せられている。憲兵は警察官と共に善良な市民を監視している。
斯様な風で国民は屠所の羊の如く戦争に駆り立てられて居るのは正に今日日本国民の不思議の運命である。日本民族は殆ど魂までも喪失しかけている」。

開戦直前の十二月二日。
「国民は現状ではやりきれない、何とかきまりを付けて貰いたい、斯様にじりじりやられては叶わぬと言っている。斯様にデスパレートになって居るものが、又は大戦争になっていよいよ行き詰まらねば彼らは過ちを悟らぬ。その本を正すためには一旦国を亡ぼすのもやむを得ないというデクエチストが多い。勇躍してこの大戦争に向かって旗を立てているのは軍隊の中でも果たして幾人あろうか。これが大戦の前夜であるから国の将来を案じて真に憂慮に堪えぬ。
何かの破壊的勢力が動いているとしか考えられぬ。国を挙げて狂気にあらずんば神経衰弱に陥っている有様は見るに忍びぬ気がする」 。

終戦後の閣議の混乱ぶり。
「閣議では、降伏文書という、降伏という文字は如何にも屈辱であるから何とか別の文字を用いることは出来ないかと言いだした軍人出身の閣僚もあった。(略 重光はじめ外務省当局は)サレンダーは飽くまで『降伏』であり、単なる『終戦』ではない。降伏は事実であり、事実を事実として承認することから出発して初めて終戦後の日本の生きる途があるといって軍部の要請に応ぜなかった(略)。無論日本は降伏したのである。それは三千年の歴史に於いて初めて行われた極めて恥ずべき不祥事が起こったのである。日本人はこの事実を直感して、これに相当する責任を感じ、自省を行い、忍従に耐え、苦痛を忍び、努力を倍加せねばならぬのである。この未曾有の国難に際会して、少しでも大なる犠牲を払うことを誇りとする日本人程、日本人として価値ある人々なのである。『降伏』文書は『降伏』文書で差し支えないのである。その徹底した認識の上に将来の日本人は生き得る」

戦後59年、日本はブッシュ政権のイラクでの大量殺戮への荷担を「人道復興支援」と言い換え、アメリカからは「憲法9条」見直しという露骨な内政干渉を受けている。
小泉総理は来年も靖国神社を参拝するそうである。たかだか1世紀前に維新政府が支配装置として作った「フィクション」に拘泥するより、歴史に謙虚であるべきではないか。
「重光葵資料」発掘に資することが出来たことを、私はいま誇りとしている。

2004年8月10日(火)