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2007年12月22日(土)
2007年末・南座
20日仕事を終えて、京都への車中、ずっと渋澤栄一「徳川慶喜公伝」(東洋文庫)を読んでいた。
別に南座顔見世の最初の演目・「将軍江戸を去る」の予習という訳ではない。
先月、偶々手に取った河合重子の「謎とき徳川慶喜 なぜ大坂城を脱出したか」(草思社)が実に面白い委曲を尽くした評伝だったので、そのまま慶喜七十代の折、渋澤栄一を相手に語った回想談「昔夢会筆記」を読了、目下「慶喜公伝」全四巻に挑戦中なのだ。
まず、渋澤栄一の自序が名文である。朝敵の汚名を負った旧主の雪冤への思いが行間に滲み、胸を打つ。
こういう伝記はとかく顕彰録になり、鼻持ちならないものが多いが、「慶喜公伝」の場合、書かれた時点における政治体制において「敗者」であることが最大の特色だろう。「敗者」がおのれの立場を弁明する場合、当然勝者を批判しなければならない。しかし、薩長政権を公然と批判するのは、この時代ではまだ赦されなかった。従って、筆者(渋澤に委嘱された碩学たち)は、当時の史料を渉猟、客観的に呈示して、ペリー来航から筆を起こし、慶喜が大政を奉還して東帰し、大慈院で謹慎するに至るまでを「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(陸奥宗光)と思わせるまでに、客観的に記述して見せる。
私も幕末史は好きだが、ペリー来航十数年にして、かくまで容易く幕府が崩壊したかは、分かったようで分かっていなかった。しかしこれを読むと、因循姑息、右顧左眄、無定見の幕府と、大藩と結んで正体不明の「御沙汰」や「密勅」を連発する朝廷という無政府状態では、いずれ維新もやむを得なかったと納得させる。そして、如何に英邁な慶喜たるとも、その濁流を制するあたわず、という悲劇が浮かび上がってくる。
目下第二巻もあと僅か、八月十八日の尊攘派失脚クーデター、七卿落ちまで辿り着いた。巻措くあたわざるとはこのこと。しかも今、130余年前騒擾の巷であった京へ向おうというのだから、不思議なものである。
21日昼夜通しで南座を観た。結論から言うと、弁慶ではないが「難行苦行の功を積」んできた。
昼「将軍江戸を去る」。梅玉の慶喜はニン。我當の山岡は熱血至誠の人だが、真山美保演出はどうしてこうも役者に泣かせるのだろう。青果は情ではなく論の人であり、だから観客の方が泣くのである。秀太郎の高橋泥舟は気の毒。
山岡の「幽霊尊皇論」は面白いが、慶喜が大鳥や榎本らの献策に心動いたという青果の解釈には、私は乗らない。ならば、鳥羽伏見の段階で大坂城に籠もり徹底抗戦していただろう。
「勧進帳」。幸四郎の弁慶、六法で途中で止まり笑うのは何とかならないか。
「すし屋」。手負いの権太(菊五郎)の述懐中、「しゃらほどけ」とか「血を吐きました」という時に、時蔵の維盛がオイオイ泣いているのは驚いた。こういう時は、半眼で愁いの思い入れ、内侍が懐紙でそっと涙を拭うぐらいで良い。シテの芝居の邪魔になるし、こうした貴人は下々に対して「気の毒」程度で丁度良い。その方が、権太の無駄死にが引き立つというものだ。弥助の時も、弥左衛門の素性の告白を抜いたので、突然「栄華の昔父のこと」になる。こうしたカットが芝居をつまらなくする。
「二人椀久」。振りが尾上流ではなく花柳流なので、重く、早間になっての妙味が生きない。
夜「石切梶原」。六郎太夫が錦吾、梢が高麗蔵。一門で固めた布陣だが、逆におもしろ味がない。我當の六郎太夫、梢が菊之助か孝太郎、大庭が左團次でもいいのだ。極論を言えば、錦之助に梶原をやらせて、大庭に幸四郎なら、「ご馳走」だろう。最近は「つきあう」というのが本当に死語になった。
「曾我対面」。幕が開くと網代塀幕前で大名の渡りゼリフがあり、切って落とすと富十郎の工藤は既に高座に座っている。最後も鶴の見得では立たなかった。晩年の寿海ではこうした例があったが、膝が悪いのだろうか。心配だ。
狂言半ばで錦之助襲名の口上がある。「対面」劇中口上での襲名披露なんて、六代目菊五郎以来じゃないだろうか。ただし、五郎は錦之助の柄では無く、気の毒。
ここまで9時間近く、「拙僧甚だ退屈致す」だったが、藤十郎の「道成寺」で俄然目が覚めた。確かに、振りの巧緻、踊りの巧拙からいえば、この人より巧い人はたくさんいる。
だが、藤十郎の場合、瑞々しい娘がそこにいる、という存在感が圧倒的である。「喜寿記念」などという歳を忘れさせる。道行と「ただ頼め」が無かったのが残念。
仁左衛門の「河内山」が面白い。彼が質見世から出すのは初めてではないか。まず、その不敵な面構え、番頭を一喝する凄味が良い。竹三郎の後家から事情を聴くに及び、大名の御乱行にムクムク反骨の虫がうずいていくあたり面白い。非常に好戦的な河内山なのである。
松江邸での道海のがらりと変わった気品も良い。感心したのは翫雀の松江出雲守。頑迷に道海の申し出を断り、むしろ挑発していく。これで、仁左衛門が「もってのほかなるご乱行」と畳み込めるわけで、久々に面白いやりとりになった。最後玄関先に出てくる時も口惜しさを滲ませ、河内山の「馬鹿め」が生きていた。團蔵の大膳も、いつもの「顔面演技」が気になる以外が十分突っ込み、溜飲の下がる一幕となった。
「三社祭」は松緑と菊之助。どちらが善玉か悪玉か分からない「三社」が多い中で、キッチリ個性を演じ分けていたのが良い。翫雀・扇雀の「俄獅子」は、最後は若い衆の大立ち回りで、顔見世らしい派手な締めくくりだった。
翌日、東山安井の「八百伊」で、いつものように知己に千枚漬を送った。女将さんから「今年はお出でにならないかと思った」と言われた。すっかり来るものと期待されているらしいが、有り難い。この店の漬け物を食べないと、年末という気がしない。
京都国立博物館で、図録「御所障壁画」「宸翰」「曾我蕭白」などを購入。それにしても、先月の「狩野永徳展」に行けなかったのが惜しまれる。
来春は「河鍋暁斎展」。以前歌舞伎学会で展示した「お化け引き幕」は出るのだろうか。
2007年10月21日(日)
「バッコスの信女」
幻の映画を観た。
羽田澄子監督「バッコスの信女」である。
1978年1月、岩波ホールで上演されたエウリピデスのギリシャ悲劇。
演出は早稲田小劇場の鈴木忠志。主演は白石加代子、これが最後の舞台となった観世寿夫である。
岩波ホールは今でこそ映画専門のようだが、古典の再創造をめざして演劇に取り組んだ熱い時期があった。最初は76年、鈴木演出の「トロイアの女」。77年は武智鉄二演出の「四谷怪談」。私はこの「四谷怪談」を生で観ている。そして78年が「バッコスの信女」。いずれも主演は白石加代子である。
高野悦子によると、「トロイアの女」の時は、記録をとろうと思いつつ、NHKか誰かが撮ってくれると思って、結局撮らず仕舞いだった。「四谷怪談」で羽田監督に依頼。羽田は舞台稽古を明るい照明で撮ろうと思ったが、当日武智が来ず撮影できず、結局実際の舞台を撮ったという。羽田によると、この時暗いので照明を上げてほしいと武智に頼んだが、頑として受け付けず、結局現像してみるとお岩の亡霊のシーンは真っ暗だったという。
この「四谷怪談」は、扇雀(現藤十郎)の伊右衛門の美しさが今も瞼に焼き付いているが、それ以上でもそれ以下でもない代物。「演劇界」で武智と渡辺保・和角仁が誌上論争を繰り広げたのも懐かしい。映像が残っているのならば、是非観てみたいものである。
それはさておき、「バッコスの信女」は舞台稽古を全編収録、映像は公開されぬまま終わった。
それを惜しんだ高野が、今年20回目を迎える東京国際女性映画祭(会場は表参道の「東京ウィメンズプラザ」)での初上映(しかも21日午後3時の一回切り)を実現したのである。
92分の映画では、まず鈴木忠志独自の身体訓練と稽古場の模様が映し出され、本編へと移る。
神を蔑ろにしたテーバイの王ペンテウス(白石)に、ディオニュソス(観世)が残酷な神罰を下す。白石と観世のやり取り、イキを詰んだ白石のセリフなど、引き入れられる濃密な舞台である。観世寿夫は、BGMが森進一の「襟裳岬」だろうが何だろうが、まったく動じない確固たる身体の存在感が素晴らしい。
ペンテウスの母アガウエ(白石)は、神に操られ、息子とは知らずにペンテウスを八つ裂きにして殺す。息子の首を持って出たアガウエが、父カドモス(蔦森皓祐)からそれが我が子と知らされ我に返る場面は、「狂気女優」白石加代子の面目躍如。羽田の映像は、「バッコスの信女」という舞台を通して、時代の空気そのものを切り取っていた。
ただ、惜しむらくはアップを多用するために、白石と観世の位置関係、そこから醸し出される緊迫を捉えていないこと。無論それは生の舞台と観客との間に取り交わされる共通体験であり、映像に求めるのは酷かも知れない。
しかし、例えば観世のディオニュソスと白石のペンテウスの問答。
ディオニュソスが「神はすぐそばにいる」といい、ペンテウスが「どこにいるというのだ。おれの目にはいっこうにうつらぬが」とうそぶくと、ディオニュソスが「私の立っているところにです。そなたは信心がないゆえに、神のお姿が目に入らぬのです」と応じる場面(松平千秋訳。「ギリシア悲劇W」ちくま文庫 P476)。
ここでカメラは観世の立ち姿を捉え「私の立っているところです」と杖をトンと突くところで表情のアップになる。やはりここは、杖が突いた地面と、二人の姿を引きで見たい。観世の杖捌きは、まさに乾坤一擲、ここぞという凝縮力であったからである。
あっという間の1時間半。
会場が明るくなり振り向くと、私の左後方すぐそばに、白石加代子がにこやかに座っていた。
2007年10月13日(土)
東銀座にて
○とにかく今月は忙しい。東京だけで四座も歌舞伎を掛けているなど、昔を知るものには隔世の感があるが、全部観るとなるとそれなりに勤め人の身には大変だ。
この一週間で言うと、4日に国立劇場、6日に慶應歌舞伎研究会OBの総見で、日帰りで御園座(昼のみ)。
国立の幸四郎の俊寛は、一言でいえば「葛藤」がない。島に残ったならなぜ大騒ぎするのか、首を傾げたくなる出来。「うぐいす塚」が何故上演されなかったかと言えば、身分違いの悲劇であったからだが、そこを避けていること、大枠の敵討ちを省いてしまったことで、薄味の舞台になった。幸四郎・段四郎の両佐々木源太左衛門で観たかった。御園座の「かさね」は今が旬。海老蔵は相変わらずセリフが気になるが、三階から観ていても、変貌したかさねのクドキに、身体からささくれ立った殺意が溢れてくるのがわかる。
11日は演舞場昼。勘三郎の俊寛が目の覚める出来。文七元結は、山田洋次の補綴が映画収録を前提としているためか、セリフが説明的。そこまでしないとわからないのか、とも思ってしまう。それはまだしも、お兼とお久が「なさぬ仲」という設定が筋立てに何ら影響を及ぼしていないし、和泉屋が苛立って長兵衛に怒鳴るのも、ドタバタめいている。従来の演出通りの上演を期待したい。
○奥村書店が急に閉まって、ショックを受けた方も多いようだが、若旦那の小林氏が、歌舞伎座ワキの蕎麦「宮城野」隣、茜屋珈琲店二階で、歌舞伎関係の古書店「木挽堂」を立ち上げた。12日歌舞伎座昼夜の幕間に初めて行ってみたが、奥村に比べれば当然店舗は狭いとは言え、開店を知った客で賑わい安心した。
歌舞伎座周辺のこうした「文化環境」は当然のことだと思うが、「文化堂レコード」はマガジンハウス方面に移転するし、ついでに言えば「宮城野」も閉店するし…。「木挽堂」の健闘を祈りたい。
○歌舞伎座「赤い陣羽織」が面白い、面白くない以前に弾まない。以前は、先代勘三郎が代官を当り役にし、映画化までされたのに何故だろう。あながち、演者・演出の責に帰してしまうのは酷と思う。
おやじと代官がそっくりで、それを見分ける術は赤い陣羽織ばかり。つまり、権力を笠に威張ってみても、所詮陣羽織という虚飾をはぎ取ればただの人、というのが、この民話劇に込められた木下順二一流の寓意であろう。
昭和22年に発表後、勘三郎らによって再演を重ね、拍手喝采を浴びたのは、こうした「民衆が権力者をやっつける」反権力・反骨の構図である。時代からすれば、占領期・朝鮮戦争・60年安保の激動期。私など、そうした空気の残滓を吸った世代だから、木下戯曲に共感を覚える一人である。
しかし、団塊の世代まで、老後の安定を求めて保守化してしまっている今、「赤い陣羽織」を観ていると、客席が木下の寓意を読み取った上で、「反権力」から退いていく「冷ややかさ」を感じざるを得ない。この60年、「赤い陣羽織」受容のありようは確実に変わった。
「我々市民は、ここまで飼い慣らされてしまったか」と言っては、言葉が過ぎようか。
○きょう13日は、紀伊国屋ホールに「佐々木先陣」(巣林舎)を観に行く。近松の名が丸本上初見され、「義太夫節」の嚆矢とされる作品。楽しみである。
2007年9月2日(日)
「歌舞伎研究の現在」
昨日、国立能楽堂大講義室で、「歌舞伎研究と現在」を聴いた。
歌舞伎学会創立20周年にちなんで、この間の歌舞伎史研究進展の俯瞰図を描こうという試みである。
浄瑠璃において、近松と近松以後のテキスト翻刻整備にあきらかな差異があるとして、「近松特権化」に疑義を呈した佐谷真木人氏、上方絵を例にとり、「絵を動かして見る」ことで、芝居絵から当時の演出や役者の芸風が読み取れるとする安冨順氏、舞踊研究の現在についての阿部さとみ氏、林屋辰三郎・守屋毅から最近の身分的周縁論まで、歌舞伎史と歴史研究の連関に触れた神田由築氏と、それぞれ若手研究者の力の入った発表で面白かった。
中でも興味深かったのは、津打治兵衛から河竹黙阿弥まで、江戸歌舞伎作者研究の現在に触れた吉田弥生氏である。吉田氏が配布したレジュメにA3横書の一覧表があり、左から津打治兵衛・藤本斗文・壕越二三治・金井三笑・並木五瓶・桜田治助・瀬川如皐・鶴屋南北・河竹黙阿弥の、1987年から2007年までの研究史が概観出来、誠に重宝であった。
私は「専門領域」というか、関心の対象が南北なので、関係論考はなるべく目を通すことにしている。と言っても、「演劇学会」や「近世文学会」などの発表・紀要までで、「国文学研究資料館」のデータベースで論文をまめに検索する程ではない。昔は雑誌「国文学 解釈と鑑賞」とか「解釈と教材の研究」で歌舞伎が特集されると「研究史」が掲載され教えられたものだが、最近はそれもなく、ここ数年の研究は見落としがある。
一覧表で「おや」と思ったのは、下田晴美氏による「大阪府立中之島図書館蔵『仕立莅昔綺』解題と翻刻(上)(下)」(2001年12月・2002年12月「鯉城往来」)である。
「仕立莅昔綺」。「したてばえむかしはちじょう」と読む。文化八年一月市村座、南北(勝俵蔵)五十七歳の作。文化八年といえば、丁度一年前の文化七年一月には南北は市村座に「心謎解色糸」を書下ろし、以後三月「勝相撲浮名花觸」五月「絵本合法衢」八月「當穐八幡祭」が初演される。南北にとってもっとも脂の乗りきった時代である。ところが、「仕立莅昔綺」は、春陽堂版全集にも、三一書房版にも収録されていない。小池章太郎校訂で国立劇場から翻刻された「大和大和花山樵」同様、三一版以後発見された台帳である。
「昔八丈」という位だから、「お駒才三」の世界。南北の「恵方曾我万吉原」、黙阿弥「梅雨小袖昔八丈」の先行作というべきだろう。
「歌舞伎年表」を繰ると、「大師河原参り、幸四郎の喜蔵に立合、無体のれんぼにて三津五郎を殺し、半四郎を鈴が森の松に括付ておびやかすと、此夢さめて道具建仕かけにて、二階に変り、下よりお駒を起す。屏風の絵の幸四郎が顔にうなされしといふ趣向也」とある。
早稲田大学演劇博物館の浮世絵データベースで検索すると、初代豊国の初演当時の芝居絵を八点観ることができる。
この中には「幸四郎の喜蔵に立合、…半四郎を鈴が森の松に括付ておびやかす」と思われる絵柄があり、三津五郎の城木屋手代次郎兵衛と半四郎のおこまの色模様の絵柄には、衝立に前年八月の「當穐八幡祭」における駕籠かき甚兵衛(幸四郎)のお早(半四郎)殺しの芝居絵が貼ってある。これが「屏風の絵の幸四郎が顔にうなされしといふ趣向」かも知れない。いずれにしても、南北の隠れた名作を、遅まきながらではあるが是非読んでみたい。
南北関連の台帳では、最近では鵜飼伴子氏が「四代目鶴屋南北論〜悪人劇の系譜と趣向を中心に」(風間書房 2005)で、文化三年市村座の「波枕韓聞書」(なみまくらいこくのききがき)を翻刻している。これは南北の出世作「天竺徳兵衛韓噺」の再演で、夏芝居らしく「二人徳兵衛」の趣向で「夏祭」の世界と綯い交ぜられている。合巻「曾我祭東鑑」と同趣向である。
南北の出世作「天竺徳兵衛韓噺」の初演台帳はいまのところ発見されておらず、三一書房版には天保十二年尾上多見蔵所演の「天竺徳兵衛万里入舩」が所収されている。
「波枕韓聞書」は「韓噺」から二年後の再演であるから、初演の面影をもっとも良く伝えていると思われる。ところが、南北はこの隣の中村座に出勤していたのだ。「南北関連の台帳」と断ったのはそのためである。
ほかにも、早稲田大学 21世紀COEプログラムのメンバーが、「未刊鶴屋南北全集」刊行の準備をしているとも聞いており、期待が昂まる。
いずれにせよ、ネット化の進展によるデータベースの整備により新たな地平に立った歌舞伎研究の「いま」と「未来」を知ることが出来た、有意義な二時間半だった。
2007年5月13日(日)
慶喜恭順 〜鎌倉で清方を観る〜
義父の一周忌の法要が鎌倉霊園で営まれたので、昨夜久々に鎌倉に一泊した。
昨日は初夏を思わせる陽差しで照り輝いていた七里ヶ浜から稲村ヶ崎の海も、今日は一転、海風で荒い表情を見せている。そんな太平洋を右手に観ながら、車で鎌倉市街に入った。
もともと家内と小町通りをそぞろ歩きして、昼食のあと道の混まないうちに早々に東京に帰ろうと思っていたのだが、ふと「鏑木清方記念美術館」の表示が目に入った。ポスターには「特別展 清方の美人画」とあり、清方描く娘道成寺の「山尽し」の鮮やかなカラー図版が掲載されていた。まだ時間がある。少し覗いてみよう。
美術館は、駅から小町通りをかなり八幡宮方向に歩き、左に入ったところに、ひっそりと建っていた。住所は雪ノ下一丁目。昭和21年材木座に居を構えた清方は、文化勲章受章の年の昭和29年からこちらに画室を設け、昭和47年93歳で没するまで過ごしたということである。
美術館といっても、庭を囲んで展示室が一室、図書閲覧室、画室の再現コーナーと、こぢんまりとした佇まいである。それが、小町通りの雑踏から一歩踏み込んだ場所とは思えない、趣きと風情をつくっている。一葉や鏡花の挿画を通して、市井の哀嘆を描いた作者に相応しい。
鏑木清方は、父が最後の戯作者ともいうべき條野採菊ということもあって、親子二代、歌舞伎に縁が深い。
今回の特別展でも、「道成寺(山づくし)」(大正9年)「鷺娘」(同年)が圧巻であった。
いずれも福富太郎のコレクションである。
前者は、火焔太鼓の振り袖の花子が例の「祈り北山稲荷山」でグッと上体を反らせている一瞬を捉えている。悩ましい表情にはどこか憑依したような凄みが感じられ、散る桜花が丁寧に描き込まれているのが美しい。
「鷺娘」は逆にたれ込めた雲を塗り込めたような濃密さで、「妄執の雲 晴れやらぬ…」という唄が聞こえてきそうであった。
ミュージアムショップには、有名な「にごりゑ」の挿画などをデザインした絵葉書が並べられている。何心なく眺めているうちに、その中の一枚に眼が止った。
「慶喜恭順」(けいききょうじゅん)。
大政奉還を果たしたにもかかわらず、鳥羽伏見の戦いで朝敵の汚名を受け、無抵抗のまま江戸に帰着、上野寛永寺でひたすら蟄居恭順していた徳川慶喜の姿を描いた、昭和11年の作である。
かつて観たような気もするが、思い出せない。ただ観たとしても、その時はこれほどの強い印象を残さなかったのは確かだ。
恐らく大慈院の一室であろう。面やつれ、抜け上がった額。月代がややのびた慶喜が、半眼で、まるで5メートル先の畳を見据えるかのように、ジッと端座している。
真山青果の「将軍江戸を去る」は昭和9年初演。このときの慶喜は高橋泥舟や山岡鉄舟に自らの苦悩を思わず口走るのだが、清方の慶喜は、そうした愚痴も不平不満も全て呑み込んで、全ては歴史に身を委ね、処断を待とうという指導者の「覚悟」が息苦しいほど伝わって来る。
清方は明治後期、赦されて江戸に戻った慶喜を、宝生九郎の能の見所で実見したことがあり、昭和十年寛永寺で慶喜恭順の間を見たことから、この絵の想を得たという。「慶喜公は色が白いと言ふよりもすき通るやうに蒼白い顔の方だった。それにキチンと静座したまま、少しもからだを崩されない、おそろしく行儀のいい」その姿に、清方は往時の恭順の姿を見、「さながら維新當時からその形を持ち続けていられるやうな印象を受けた」(「嘗て見た慶喜を」・図録「特別展 清方ゑがく肖像画」鏑木清方記念美術館編 平成十年)と追懐している。
画家の直観とは恐ろしい。
恐らく慶喜は、あの大慈院の一室から時間を止めたまま、一生を終えたに違いない。
それが、水戸徳川家という勤王の家に生れたものの定めであり、新しい時代に身を処す己の慎みであった。
晩年の慶喜は、無論趣味の写真・絵画・狩猟、そして子作りにはいそしんでいたが、そうした私生活とは別に、いわば公の場での身の処し方は心得ていたのではないか。
そこまで描いてしまう清方の筆も筆。大慈院に籠もる重苦しい空気、それは歴史の転換点に立ちながら、自らを如何ともしがたいこの才気ある政治家の悲劇であることも、ありありと伝えているのである。
という訳で、葉書と先程引用した肖像画図録を購入したのだが、開いてまっさきに飛び込んでくるのは、お馴染み「三遊亭円朝像」。竹橋の近代美術館所蔵の名品である。
パラパラめくっていくと、最後の方に女役者・市川粂八の絵姿(昭和二十九年)があった。
粂八は、「女團洲」と呼ばれながら、大正二年に六十六歳で亡くなっている。この絵が描かれる四十年以上も前のことだ。
しかし清方がわざわざ描いたのは、「女役者」という異形への、この上もない愛惜だったろう。
うっすら笑みを浮かべている表情に、「愛敬」を売る「役者」という商売の性が美事に切り取られている。
同時に歌舞伎役者であって歌舞伎役者ではない、かといって女優でもない、「女役者」というフシギな存在を、どのような文献よりも一目で実感させて、今回の鎌倉行の一収穫であった。
2007年4月22日(日)
四郎五郎死す
中村四郎五郎が亡くなった。享年七十六。くも膜下出血という。
享年七十六と書いて、もうそんな歳だったかと驚く。それほど若々しい舞台だった。
彼は、勘三郎一門では先代からの弟子として、清五郎といったころから、先日亡くなった源左衛門とは御神酒徳利だった。
「髪結新三」の、「これで初鰹にありついた」と喜ぶ長屋の衆、丸本物の庄屋など、地味だが名人芸だった。
「鮓屋」に「ここに梶原殿が見えまする」と出て来る庄屋の一言など、何気ないようで、舞台の空気・景色を変える意味で年季を要する。その意味で、最後の舞台であった「実盛物語」は美事だったし、「魚屋宗五郎」の典蔵も、ベリベリした端敵ぶりは乏しかったが、手堅い枯れた芸であった。
「眼鏡」と呼ばれる役柄で、文字通り中村屋の大番頭として歌舞伎を支えて欲しい年齢だった。
私は2日目を観たが、その時は全く変ったところがなく、意気軒昂たる舞台。11日から休演していたとは全く知らなかっただけに、衝撃は大きい。
同時に、源左衛門についで、両腕をもがれた思いの勘三郎の心中を、思いやられずにはいられない。
2007年4月19日(木)
三津五郎の源五兵衛
米バージニア工科大学での銃乱射・32人射殺事件。伊藤長崎市長暗殺(なぜマスコミははっきり「暗殺」と書かないのだろう?)。そしてイラク・バグダットでの終わりなき自爆テロ。
このところ、何がが「狂っている」としか思えない。
そう言えば、陽気も狂っている。けさ8時前自宅を出ると、肌を刺す寒さだ。「のぞみ」に揺られて、名古屋で降りると、麗らかな陽春の日差しが降り注ぎ、ほっとした。
日帰りで、御園座の「陽春花形歌舞伎」を観る。三津五郎奮闘による「盟三五大切」「芋掘長者」の二本立てである。それにしても、「盟」に「陽春花形…」とは良くつけたものだ。ご承知のように、うららかさや暖かさなど裸足で逃げ出してしまいそうな不条理劇だからである。
結論から言おう。三津五郎の源五兵衛が傑作である。高校生の時(昭和51年8月)国立小劇場の復活初演で観た初代辰之助以来の鬼気迫る出来である。鬼横町の殺し場で、私は亡き辰之助の面影を観て、心の中で秘かに哭いた。
源五兵衛の初演は、鼻高の異名で知られる実悪の名人・五代目幸四郎。三津五郎とは全く柄が違う訳だが、三津五郎は持ち前の和実味を逆手に取ることで成功している。
まず、「佃沖」の三五郎(橋之助)・小万(菊之助)の濡れ場のあと、黒幕を切って落とすと屋形船というのはいつもの通りだが、三津五郎は舳先に立っておらず、屋体に後ろ向きに座っていて振り返る。この方が不気味な効果が出るし、小万に入れあげている中年男の色気が匂って来るのが良い。
「深川大和町・源五兵衛内」。六七八右衛門(亀三郎好演)に無理難題を言いつけた挙げ句、諫言に「敵を欺くための放埒」とうそぶく。小万が来ると正体を無くす癖に、富森(彦三郎)の前ではキッパリとした義士の顔になる。拙著「天保十一年の忠臣蔵 鶴屋南北『盟三五大切』を読む」(雄山閣刊)に詳細は譲るが、前者は七段目の由良助、後者は五・六段目の勘平のパロディなのである。そして源五兵衛は、結局由良助にも勘平にもなれない男なのだ。
三津五郎の和実が生きるといったのはまさにここであって、源五兵衛の中に埋め込まれた由良助と勘平の隠し絵が、伏線としてあぶり出されて来るのである。
八右衛門への理不尽さも、この男というより武士階級の持つ性懲りもない「体面 」意識を浮き彫りにする。しかしそれは結局砂上の楼閣に過ぎぬことを三五郎の美人局で突きつけられ、彼は大量殺人者への道へと突き進む。八右衛門への対応と、終幕の「こりゃこうのうては叶うまい」という一言が、三津五郎の源五兵衛の人格の中で揺るぎなく一貫している。
「二軒茶屋」で三五郎から「(亭主というのは)わしでごんす」と開き直られ、両者気味合いになり刀を杖にキッと立つ間合いの良さ、三五郎の啖呵を聞きながら怒りと憎悪が沸々と沸き立って行く具合、「深いところへ」の憤怒、花道で振り返り刀を振り上げるが、八右衛門に止められ、自分を抑えるが、フッと気を変える瞬間の殺意、いずれも良い。
しかし、私が最も感心したのは、「源五兵衛内」の後段、乗り込んできた三五郎に身請け話を告げられ、行くのか行かないのかと矢継ぎ早に責められている間の思い入れである。手元には伯父からの百両がある。これがあれば小万は伴右衛門に身請けされなくて済む。しかしそうすれば自分の義士への道を断たれる。その逡巡が手に取るようであり、結局彼は二軒茶屋へ行く途を選ぶ。
実は、ここで勝負があったのだ。この瞬間の、この決断こそ、後の惨劇の序幕なのだ、ということが良く分かる。一方で伯父に律儀に誓いながら、もう一方で女にやに下がっている。そして彼は後者の欲望に負ける。その脆弱さこそ、このドラマの一つの柱なのだ。 「五人切」は丸窓を破っての頬被り・黒の着付に凄みがあり、黙々と斬り殺していく殺人機械ぶりが不気味。特に、二階屋体に目をつけ、忍んでいき、獲物が居ないと知るや障子を開けてジッとなる思い入れが怖い。
特筆すべきは最後に殺される廻し男役の菊十郎の斬られ方。これぞ芸である。
「鬼横町」は、原作通り源五兵衛と家主弥助を替わる。 昭和51年・60年の辰之助以来のことである。従って、源五兵衛の化粧も砥粉勝ちとまでは行かないが、白が薄くなった。
三津五郎の弥助は、三五郎との樽代を巡る応酬の強欲ぶり、幽霊騒ぎの飄逸、土手平と見顕わされての時代に張っての凄みと、この救いの無い惨劇に乾いた笑いを提供している。太い眉の顔の作りが、国貞描く鶴屋南北そのままで、早桶をバックに幽霊で出て来ると、まるで南北が葬式に配った「寂光門松後万歳」そのままである。
源五兵衛は、幇間を追い立てての出に荒みきった凄みがあり、「初会の晩もこのように」「源五兵衛は侍じゃわえ」と呟く辺り、存在自体が恐怖、というこの役の性格が出る。八右衛門が身替わりに捕らえられ、見送る思い入れが良い。お前は義士として本望を遂げろと言った。しかし俺には戻る場所はないのだ、というポッカリ空いた虚無。引っ込みの「誠に人では」から気を変え、「イヤ、あるかも知れぬ」と門口を閉め、ニヤリと笑う辺り実に怖い。
二度目の出、花道の暗闇から蒼白な横顔が浮かぶ辺りまず不気味。「五大力」が「三五大切」に書き替えられていたことを知っての驚愕、おくろの死骸を見て震える小万に「どうで命は捨て物じゃ」と呟きながら迫って行くあたり、ゾッとする。この場面は、小万の一言一言が源五兵衛の抑えがたい殺意を増幅するように巧妙に書かれており、菊之助・三津五郎とも、その流れに忠実だ。
小万殺しは、最近の「小万、我が命は貰ったぞ」の定式は避け、「助けてやろう。女わらべの、おのれを助けて」と油断させて抜き打ちに切り下げる原作に戻したのが良い。「人外めが」と睨み下ろすところに、この男の鬱積の爆発が出た。ただ殺しが「路地の細道」の唄、「ナマイダ、ナマイダ」で処理されるのは、今の演技様式からすれば最低限致し方ないことか。
首を打ち落しての間(ま)、そして首を懐中して破れ傘を差し、謡いながらの引っ込み。私が最も辰之助の面影を見たのはそこであり、言い様もないむなしさと、人の心の闇がそこにあった。
「愛染院」では、「こりゃこうのうては叶うまい」を、何の感傷同情もなく冷徹に突き放して言い放ったこと、「お立ち」の一言で、もうシレッと義士の顔に戻っているのが良い。そしてそこが怖い。
「一人殺せば殺人者だが、百万人殺せば英雄だ」といったのはチャップリンの「殺人狂時代」だが、源五兵衛も「大義」という美名のもとなら、大量殺戮は綺麗に相殺されていく。大学で銃を乱射した男にも「大義」とやらがあったのだろう。長崎市長を殺した卑劣な男も、仁義に生きる任侠道(笑止千万な話だが)で食っていた筈だ。そして、イラクの自爆テロは、彼らからすれば文字通り「聖戦」である。しかしそれに対峙する立場の人間には、それらの「論理」は全く理解不能な、許すべからざる暴力と狂気の連鎖である。
「大義」という名の終わり無き報復と憎悪のパンドラの箱を、我々はもはやあけてしまった。その時代を予見するかのように、南北は181年前「盟三五大切」という黙示録を書いたのである。
辰之助以降、團十郎・幸四郎・勘九郎(現勘三郎)・橋之助・吉右衛門と源五兵衛を観て来たが、辰之助以外、どれも帯に短く襷に長い違和感を禁じ得なかった。その点、三津五郎の源五兵衛は近来の出来と言って良い。
橋之助の三五郎は手に入った役で、色気・小気味良さとも申し分無い。菊之助の小万は、持ち前の清楚さが抜け切れないが、カラリと江戸前に仕上げている。鬼横町も、扮装は悪婆(つまり、半四郎の家の芸・土手のお六と風鈴お姫の再現)だが、性根は女房というところを押えているのが良い。
秀調の了心は無理。もはや持ち役ともいうべき萬次郎の虎蔵をはじめ、團蔵の伴右衛門、男女蔵の伊之助、亀寿の宅兵衛、松也の菊野、橘太郎の長八、三津右衛門のますます坊主、鐵之助のおくろ、三津之助の番太、菊市郎・菊史郎の男芸者とワキが揃う。
菊五郎劇団というと南北物に弱いというイメージがあったが、今回の舞台は、劇団のアンサンブルの良さが最大限に生きた。何より、歯切れの良いセリフの応酬が小気味良く利いている。
それこそ、南北劇のいのちなのだ。
「芋掘長者」。南北 の不条理劇にぶっ飛んだ観客(「何で最後赤穂浪士が出てくるの?」という声を客席でもロビーでも聞いた。それだけ南北はシュールなのだ)には、どうしても口直しが必要ということだろう。
三津五郎にとっては二年前の復活以来。藤五郎は、出て来た瞬間、身体に踊りがない人間になっていること、芋掘りの振りもあくまで踊りを知らぬ人の鄙びた振りであり、それがちゃんと狂言舞踊になっているのが芸である。橋之助の治六郎の陽性との対照も生きる。菊之助の緑御前が初々しく品があり、秀調の後室が手堅い。亀三郎・亀寿兄弟が、規矩正しく狂言舞踊らしい大らかさ。
最後松也の腰元も加わっての総踊りがおおどかで楽しい。
「芋掘長者」の余韻に浸りながら夕方帰宅すると、丁度米バージニア工科大学の乱射犯人の犯行声明ビデオがテレビに映っていた。
富めるものへの恨みを執拗に言い募る若者の表情に、鬼横町で虫の息の小万に言い放つ源五兵衛の声がふと重なった。
「いかにも鬼じゃ。身共を鬼には、おのれら二人が致したぞよ。人外めが」。
2007年4月1日(日)
神保町にて「切山椒」を入手、新大橋に天使の降臨を観る
陽春の日曜日の今日、我が家の眼前、多摩川河畔・丸子橋とガス橋の間に植えられた土手の桜並木も満開、近所の「さくら坂」も大変な人出である(もっともこれは例の福山雅治の曲の大ヒットの余波で、近年の現象であるが)。
昨日は、新大橋のベニサン・ピットで「エンジェルス イン アメリカ」を上演しているというので、観に行った。切符購入にご尽力頂いた学校の先輩とは現地集合。行きの車中では、小林信彦「植木等と藤山寛美」(新潮社)を再読する。絶頂期の寛美が、演舞場と猿之助出演の歌舞伎座とを人力車で掛け持ちするあたり、頗る懐かしい。
神保町で都営新宿線に乗り換えるのだが、13時半開演にはまだ時間がある。神保町で降りて、共栄堂のスマトラカレーで腹ごしらえ。銀座の「ナイル」ともども、癖になる味である。
豊田書房を覗く。といっても、必要な本は殆ど渉猟してしまったので、「これは」という本にお目に掛ることは滅多にない。この日も軽い気持ちで書棚の背表紙に目を通した。
そして帰りがけ、抱月須磨子だの小山内関係が並んでいる辺りを通り過ぎようとして、「あっ」と声が出そうになった。
「切山椒」。
文学座の長老で俳人としても知られた龍岡晋が、「春燈」に連載した師・久保田万太郎の追想と、宮口精二が私費を投じて出版した「俳優館」に連載した万太郎作品語釈をまとめたものである(三田文学ライブラリー 昭和61 非売品)。序は阿木翁助、後記は戸板康二。この書については、戸板康二「久保田万太郎俳句評釈」などで度々登場するので是非欲しかったのだが古書店などでもなかなか見つからず、半ば諦めていたのだった。
5000円と値は張るが、買わない手はない。すぐさま入手して、森下までの車中読みふけった。
前半の追想も、万太郎の謦咳に触れるようで無論面白いが、後半の「久保田万太郎作品用語解」が断然面白い。
「空茶でトキをつくる」(「うしろかげ」)
「長い正月はないよ」(「今戸橋」)
前者は「茶請の菓子もなく、お茶だけで気焔を上げる」、後者は「長い将来はない。いま盛運だが、そう長続きはしないでわるくなるのも不仕合せになるのも、そう遠い将来のことではない」ということだそうだ。
パラパラめくっただけでも、こんな語釈が無尽蔵に出てくる。もはや今の東京では、こうした繊細な言い回しは殆ど失われたと言ってよい。
その意味で、この書は貴重なのである。古書との出逢いとは、まさに運だとつくづくと思う。
万太郎といえば、16日品川六行会ホールで観た「みつわ会」の「雪」「舵」が素晴らしかった。「舵」はラジオドラマなので、万太郎式「…」はほとんど無いが、その代わり歯切れの良いセリフの応酬が聞かせる。紅貴代の芸者出の姉が如何にもそれらしく、菅野菜保之が昔の女を思い、「あの人は舵を切れなかったんじゃない。切らなかったんだ」という終幕が如何にも余韻があった。
さて、「エンジェルス イン アメリカ」は、以前書いたかも知れないが、私は銀座セゾンでの初演を見逃し、マイク・ニコルズ演出・アル・パチーノ メリル・ストリープ主演のDVDでこの作品を知ることとなった。つまり、舞台は始めてだった訳だが、第一部「ミレニアム」第二部「ペレストロイカ」、幕間入れて7時間一気に観た。やはりそれだけストーリーがしっかり構築されている訳だが、マッカーシーの先棒を担いだ超保守派の巨魁・ロイ・コーン(山本亨)の壮絶なエイズ死と、それを見守るエセル・ローゼンバーグの亡霊(松浦佐知子)、ユダヤ人の文書係ルイス(池田重大)、その恋人プライアー(斉藤直樹)、モルモン教の書記官・ジョー(パク・ソヒ)の三角関係といった複雑な人物関係が歯切れ良く配置され、エイズに冒されたプライアーのもとに天使が遣わされるというクライマックスを迎える。
天使は、人間たちの横暴によって神が不在となった現実を嘆き、静止と回帰を人間に求める。しかしプライアーは進歩と前進こそ人間の性であり、むしろ「神の不在」こそ問題にする。この作品は9.11以前に書かれたが、エイズ問題への告発を超えて、アメリカとは何か、アメリカの正義とは何かを正攻法で問いかけているのが素晴らしい。
7時間という長尺を、決して感じさせない力作であった。
2007年3月11日(日)
「人は一代、名は末代」
昨日の昼、日比谷の東京會舘ローズルームで開かれた「二代目中村錦之助襲名を祝う会」に出席した。
立場上、役者との付き合いは原則控え、この手の会には出席しないのだが、今回ばかりはそうも行かない。実は信二郎(もはや新・錦之助と呼んで良いようだ)は、私と慶應義塾幼稚舎の同期。昭和41年入学、彼はE組、私は0組だった(当時はKEO三組だった。最近I組が出来た)。兄も時蔵と同じクラスということもあって、母堂小川銀子さんにはとても可愛がって頂いた。
歌舞伎については、照れくさいこともあって、学生時分はそんなに話すことはなかった。芝居話に花が咲くようになったのはつい数年前のことである。
先週3日、三田キャンパスで渡辺保・放送大学教授と新・錦之助の対談があり、渡辺教授が約1時間半ほど担当され、その後所用で退席されたので、私がしんがりを務めることになった。
この時の渡辺教授との対談で驚いたのは、錦之助が実に饒舌に、自分の歌舞伎観を披瀝していたことである。彼が子供の時分、勘弥や先々代三津五郎に憧れて、御簾内から芝居を観ていたというのも初めて知ったし、猿之助による軽井沢猛特訓は、良い意味で彼の役者魂に火をつけたのだな、と改めて思った。
さて、昨日の会である。迫本松竹社長の挨拶のあと、富十郎が、戦後まもなく千日前の歌舞伎座の楽屋で、先代錦之助と起居をともにした思い出を懐かしく語った。
続いて七百人余の出席者を前に新・錦之助の挨拶。三月十日という今日の日取り、普通なら千秋楽と初日の間ではと思っていたが、先代の十回目の命日であり、午前中鎌倉の墓前で手を合わせたと聞き、思わず胸をつかれた。
そして先代が最晩年勤めた「湯殿の長兵衛」の「人は一代、名は末代」を引用し、錦之助の肉体は滅びるが、名は後代に残したいと決意を述べた。襲名口上の予行演習とも言えるが、その壮気やよし。
鏡割に、松竹小津組の助監督を務めた作家高橋治、先代錦之助の刎頸の友・東映の沢島忠の姿があるのが嬉しい。
「万俵頭取」こと北大路欣也が飛び入りのような形で挨拶、「錦兄ィ」の思い出を語ったのが微笑ましい。父右太衛門と錦之助が東映黄金時代を築いたのは周知の通り。
続いて梅枝・萬太郎・隼人の素踊「鶴亀」。勝彦・栄津三郎、伝左衛門と地方も手揃い。
懐かしいスナップ写真の映写。故四代目時蔵の膝に抱かれる新・錦之助が映る。「夭折」とは、この四代目にこそ相応しい。今存命なら79歳、芝翫の3ヶ月程兄になる。歌舞伎地図も大きく塗り変っていたであろうし、映画の道を選んだ錦之助にも、また別の途が開けていたかも知れない。
このあと、1966年東映・加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」のハイライトが流された。この時の時次郎が先代錦之助、母親おきぬ役が池内淳子、太郎吉が新・錦之助だった(渥美清が身延の朝吉で好演したのもこの映画)。ラストシーンで時次郎の胸に太郎吉が飛び込んで来たとき、先代はこの子が自分の名前を継ぐとは恐らく予想だにしなかったに違いない。
映写後、池内淳子(所用のため東京不在)からの懇篤なメッセージが代読され、最後は沢島忠の中締めの挨拶で会を締めくくった。終始暖かい思いが流れた良い会だった。
「人は一代、名は末代」。「名を襲(かさ)」ねる襲名の奥義もまさにそこにある。
この日ばかりは、劇評に携わる者の立場を離れて、級友の門出を祝わずにはいられなかった。
2007年3月1日(木)
阪谷芳直「三代の系譜」復刊を喜ぶ
昨日、小学校以来の旧友・阪谷綾子さんから、厳父芳直氏の名著「三代の系譜」の新書版(洋泉社・2000円税別)が届いた。
開封してまず驚いたのは、これが新書?とも言うべき分厚さである。解説(佐野眞一)含め430頁余。もともとみすず書房のハードカバー(1979年刊)だったのだから浩瀚さは分かるが、これだけ中身の濃い内容を新書で改めて世に問うた洋泉社・校訂者の綾子さんに頭が下がる。
以前にも紹介したかも知れぬが、阪谷芳直氏は東大卒業後、大蔵・日銀・輸銀・開銀を歴任した開発援助のエキスパートであり、神奈川大学短期大学教授として教壇にも立った学究であった。
しかし、阪谷氏の「凄み」は、その維新以来の血脈にある。
父方の曾祖父は備中岡山の名儒で福沢諭吉らと「明六社」に参加した阪谷朗廬、近代日本資本主義の父・子爵渋沢栄一。母方の曾祖父は自由民権弾圧の鬼県令と恐れられた子爵三島通庸、幕末「七卿落ち」の一人・侯爵四条隆謌。父方の祖父は蔵相・東京市長・子爵阪谷芳郎。母方の祖父は日銀総裁三島弥太郎(「不如帰」川島武男のモデル)、父は満州国総務庁長代理・阪谷希一。親類縁者は渋沢敬三、牧野伸顕、吉田茂と綺羅星の如し。まさに昭和20年8月15日までの日本を支えた典型的な支配階層の家族構成である。
「三代の系譜」は、阪谷氏がそれら曾祖父・祖父の歩みを丹念に辿ったものだが、素晴らしいのは決して身内による卑しい顕彰碑になっておらず、終始突き放した筆致に貫かれていることである。それは、同時に身内にしか分からない華族社会内部の機微を伝える精神史となっているのである。
若き阪谷朗廬と久坂玄機(玄瑞の兄)の詩の応酬など、鴎外の史伝小説を思わせる香気がある。何より、芳直氏の父希一の人物像が素晴らしい。清廉にして剛直果断、関東軍の横暴に真正面から立ち向かう姿には救いと光明さえ覚える。希一と入れ替わる様に満州国に赴任したのが岸信介であり、その後「五族協和・王道楽土」の「美しい国」が如何なる運命を辿ったかは周知の通りである。
私は1979年本書が刊行されてからずっとこの本に魅せられ、阪谷さんの本を通じて北京の市井の哲人・中江丑吉を知るに及び、その交流は一層深まった。芳直氏は惜しくも2001年他界されたが、生前から旧著の校訂を進められ、綾子さんに引き継がれた。その努力がようやく実を結び、名著が復刊されたのは誠に目出度い。
この著書に描かれた渋沢敬三の挿話は佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)で効果的に使われているが、私は今回の版で残念ながら省かれた「牧野伸顕伯の風格」が好きだ。
牧野は芳直の母方の大叔父にあたるが、その松濤の閑居を、当時一高生の著者が訪れる。
牧野というと大久保利通の息子に生れ、謹厳な宮内官僚というのが我々のイメージだが、その牧野が「二十台までラディカルでないような青年は見込みがないし、三十以後になってもラディカルなまま変らない人間もまた見込みがない」と喝破するのだ。そこに妻の峯子(三島通庸の娘)が「学生の分際で、天皇陛下に不忠なことを考えたり、いったりするなどとは飛んでもないことでございますね」と割って入ると、牧野は「そういうものではない」とピシャリとはねつけたというのだ。思えば、牧野の父の世代=大久保・西郷・木戸らはラディカルな革命家であり、牧野の中にも、幼時の西欧体験もあいまってリベラルな気風が醸成されていったのである。
こういう記述を読むと、最近の政治家の「歴史認識」の浅薄さと、過去への自虐ならぬ過度な自惚れの愚かさが改めて良くわかる。この著の名著たる所以である。
ところで、芳直氏の伯父三島通陽は、「三島章道」の名で「演芸画報」の舞踊評などを書いていた。松島屋の大変な贔屓筋だったという。叔母三島梅子の嫁いだ先は、日本新劇運動の先駆者・土方与志である。大伯母穂積歌子(渋沢栄一の娘。法学者穂積陳重の妻)の大部の日記(みすず書房)には歌舞伎観劇の記録が豊富だし、その子息穂積重遠(東大教授・東宮太夫)には「歌舞伎思出話」の著書がある。また、渋沢栄一の末子でエッセイストとしても知られる秀雄は、東宝・帝劇の経営にも関わった。
芝居とは、決して無縁な本ではないのだ。
2007年2月4日(日)
利倉幸一の箴言
私の手元に、一冊の掌本がある。
「演劇出版社30年」。
豆本という程ではないが、掌の上に乗りそうなこの本は、昭和54年、「演劇界」が第二次として再スタートを切ってから三十年を迎えたのを記念して、「演劇出版社」の利倉幸一が編んだ社史である。
見た目の小ささに比べて、中身は濃い。扉絵は坪内節太郎。カラー口絵は玉三郎、歌右衛門、松緑、菊五郎、現團十郎、勘三郎、梅幸、猿之助。
「口上」のあと、同人の北條秀司、吉川義雄、土方正巳、戸板康二、郡司正勝のほか、歌右衛門の祝辞があり、利倉自身による社史がある。そのあとに、編集部の現役及びOBの想い出が綴られ、有吉佐和子が名を連ねているのがいかにも豪華だ。
利倉の社史から、一節だけ紹介しよう。
「『演劇界』の軸はなんといっても『劇評』にあると思っている。『演芸画報』や、『新演芸』では意外に重視されていない風が見えるが、現在ではその存在意義は軽くない。殊に新聞劇評が貧困な今日、『劇評』はこの時代の舞台の軌跡と見る上からもしっかりしなくてはと思っている。『劇評』という仕事の意味が少しずつ変ってきているだけに難しくなっているが。
(略)『演劇界』も亦『かぶきの応援団』を任じている以上、暖かい眼と冷めた眼の双つをもっていなければと思っている。
『劇評』について続けて書くと誤解を招くかも知れないが─興行会社や俳優との摩擦はかつて一度もない。『毅然とした態度』を誇らしげに言うのではなく、たとえ応援団でもベタベタであってはならない。殊に評価の基準が明確に出来ない芸能世界に対する以上、『公平無私』と、筋を通すということは常に忘れないでいたいと思う。そういう態度で通してきたつもりであり、だからこそ、信認されているのだとも思っている」。
「演劇界」の今回の事態について、私は何ら語る材料を持っていない。しかし、限られた体制の中で、毎月あれだけの内容の雑誌を刊行し、充実した増刊を発刊してこられたスタッフの実力・熱意・努力には、常に畏敬の念を忘れたことはない。それだけに、歌舞伎を見始めて以来、「演劇界」に育てられたといって良い私にとって、今回の休刊は痛恨事なのである。
幸い、今夏にはリニューアルするという。しかし、少なくともその間、4・5・6月の記録の継続性は最低途切れる訳である。
リニューアル版が、劇評をどう位置づけるかも、最大の関心事である。新体制の英知を信じたいが、長文のまとまった歌舞伎劇評が、渡辺保氏のホームページ、「テアトロ」、「歌舞伎研究と批評」のみになるという事態は何としても避けねばなるまい。
「劇評家」の末席に連なる者として、或いは歌舞伎の現場に刺激を与えるべく発足した「歌舞伎学会」の一員として、利倉幸一の言葉を改めて噛みしめる昨今なのである。
○
歌舞伎座「忠臣蔵」通しを観た。歌舞伎座では4年振りの通しに相応しい大顔合わせで、平成歌舞伎の円熟の一つの到達点と言ってよいだろう。
「大序」から「喧嘩場」、「六段目」は必見である。
富十郎の師直が、大きく、立派。時代で、世話に砕けず、下司ばらず、美事な「大名の喧嘩」である。喧嘩場での短冊を読む辺りの中啓の使い方の巧さなど良く御覧あれ。
「六段目」の菊五郎の勘平は、財布を確かめてから動揺し、茶にむせてからの表情が凄い。殺人者の顔。二人侍が来て、おかやを屏風に隠し、「只今」とシレッと下手に歩む足取りが怖い。音羽屋型は、外見だけなぞれば優男の悲劇に過ぎないが、性根を伴えばどす黒い運命悲劇になる。吉之丞のおかやも傑作である。
詳しくは来月の「テアトロ」で。
2006年10月22日(土)
舞台の「38度線」 藤十郎の盛綱
「前生の敵同士がいとし可愛の孫や子に。生れて憂き目を見するかいのう」。
お馴染み「近江源氏先陣館」・盛綱陣屋の微妙(秀太郎)の「三悪道」の述懐が、これほどの切実感を持って響いたことはなかった。
下手の篝火(扇雀)と舞台中央の微妙と小四郎。それを隔てる陣屋の木戸口は、まさに「38度線」を思わせた。
名古屋御園座の藤十郎襲名の「盛綱陣屋」。三田歌舞伎研究会有志の観劇会である。
源左衛門の死についてのHPを更新した直後、品川から新幹線で名古屋に向う。
車中の友は、中村哲郎「歌舞伎の近代」(岩波書店)。ようやく半分まで読み進んだ。
戸板康二「演芸画報人物誌」同様、この本はゆっくりゆっくり読むのに適している。流石「歌舞伎の幻」の著者だけに、読み進めるにつれて毒が回ってくる。
御園座昼最初の演目は松緑の「矢の根」。随分骨法がしっかりしてきた。この愚直さを忘れぬことだ。
幕間にはロビーで、知る人ぞ知る名古屋の名店「カポネ」の出店で、カクテル「新三」を注文。折しも東京・名古屋で「髪結新三」が演じられている(季節はずれは今は咎めまい)というのに、源左衛門の威勢の良い「かっつを、かっつをい!」の売り声が二度と聞けないとは、何と侘びしいことか。食道癌というのが痛ましい。秘かに献杯。
次は時蔵の「藤娘」と三津五郎「越後獅子」。前者の「藤音頭」が、時に踊りを離れリアルな酔態になってしまうのに対し、後者は手踊りの鄙びた味わいなどカッキリとし、一本歯の足拍子、サラシと来ると実に安定し、客の心を美事に収攬して見せる。
さて、いよいよお目当ての藤十郎「盛綱陣屋」である。
幕が明いて、あっと思ったのは所作板が無いことだ。しかし、上方型の二杯道具なら、考えて見れば当然である。
今回は、和田兵衛上使の前に、小四郎入り込み(小三郎凱陣)がつく。
「旦那のお帰り」の呼びで、微妙・早瀬(孝太郎)が陣屋屋体で出迎え、花道から盛綱が小三郎とともに、いましめられた小四郎をつれて出てくる。
この場が出ることで、晴れがましい早瀬・小三郎母子、それを複雑な思いで見やる微妙、縄目の恥に会いながらも決然と首をはねよと言い放つ小四郎と、近江佐々木一族の分断の悲劇が一目瞭然である。この場を出したのは「勘九郎の会」以来だろう。
わずか10分だが、後段の伏線として実に利いて来る。
続いて「和田兵衛上使」である。
三津五郎は、高合引にかける愚はせぬのは当然として、小兵の柄を芝居で大きくしている。
同時に、藤十郎との「珍説珍説」以降の詰め開きが、何とも言えぬ皮肉な謎かけの面白さである。セリフも、ハラが太く、「退屈いたす」を「退屈」、「使者でござる」を「使いなり」と言い切るなど、本文に忠実。「一寸も立たせはせぬ」から「おせきめさるな」のウケなど、両者のイキが緊密。三津五郎の「案内大儀」など、舞台を圧する。
この詰め開きが面白いのは、先程の小四郎捕縛が観客に視覚化されているからである。
何故和田兵衛ごとき豪将が、小四郎のような小童に拘泥するのか。
盛綱ならずとも「ただ茫然と」ならざるを得ない。近松半二が仕掛けた罠がジワリと利いてくる。和田兵衛の向こうに、陰の主役・高綱が見えるのだ。従来の東京型にはない面白さである。
「ただ茫然と」では、腰にさした扇を右膝に立てて左手に添え、「思案の扇」は前にポトリと倒すように落とす。ついで「母人、それにおわするや」になるが、東京、特に播磨屋型のように「母はこれにおりまする」「苦しからずばちょとこれまで」「それへいて、会いましょう」という煩瑣な入れ事が一切無く、上手障子屋体から微妙が出て、直ぐ本題に入る。佐々木家に降りかかった事態の重大性が手に取るようである。「今宵のうちに」の直截、「殺さにゃならぬ」あたり、この男の武断と苦衷、理非曲直が良く出る。
「情けなの武士の有様や」で右脇の太刀を取り、「修羅の巷の」は太鼓を打つ振りはせず、太刀をスッと前に出し、あくまでハラで見せる。「弓馬の家に生れし不肖」で、太刀をトンと置き、「聞き分けてたべ」で母に摺りより膝を揺すり、思わずハッとなって平伏する。女々しいというより、骨肉相剋の余りの難題だけに、最後は「母性」に頼らざるを得ないというこの男の孤独が明確に打ち出される。「早や短日の」など、文字通り岐路に立った佐々木家の家長の苦衷をじっくり聴かせる。
次いで、篝火(扇雀)の出になるが、これまた冒頭の早瀬の息子の手柄への喜びがあるので、対照が良く生きる。小四郎恩愛は「見咎められては恥の恥」といった床や「並べておいて老いの楽しみ」などのセリフが省かれている。この足取りの速さが、今回の藤十郎演出の最大の特徴だろう。ダレ場がない。死装束の三方を小四郎と微妙が押し返し合うのが珍しい。
篝火の「母はここにいるわいのう」は、「隙あらば逃げんと見やる木戸口の」の床があるので、分かりやすくなった。以前も書いたが(2003年11月24日「篝火というおんな」)、ここは偽首到着までの、母子による時間稼ぎの大芝居なのである。
ここで冒頭の三悪道の述懐になる。
今、私達は好むと好まざるとに拘わらず、「近くて遠い」某国と、大国の論理の狭間で決断を迫られている。指導者たちが判断を一歩でも間違えば、我々同胞も戦火に巻き込まれ、「前生の敵同士」として分断されないとは、誰が断言できようか。つい60年前にも、その危機は実際にあった。微妙の嘆きと、篝火の「我が子は殺さぬ、殺しはせぬ」の絶唱が、今回私にとりわけ切実に響いたのは、佐々木家という、本来なら理非情理弁えた家族が、戦争のために分断された悲劇相を、藤十郎が冒頭で描いて見せたことで、ドラマが力強く普遍化し、それが一本の太い線となって1時間50分の舞台を貫いているからである。私はこの原稿の冒頭で38度線に譬えた。否、パレスチナかも知れない。イラクかもしれない。いままで見てきた「盛綱」は何だったのか、とさえ思った。
「注進受」は、茶系の長袴で合引にかける。所作板がないせいか、菊五郎の信楽も膝を庇って見えた。「狼狽えもの」といった入れ事はなく、「討死せんこと」で一段足を落とし、三味線でツツツツと受ける。翫雀の伊吹藤太の注進のあと、相嫁同士のタテがあり、「時政公のお入り」の呼びがあり、早瀬が長刀持ち二重に上がり、上手屋体へ。中央に篝火残り陣笠で顔を隠して道具が廻る。
平舞台、中央低い二重に金屏風が巡らされ、陣屋広間という風情。この二杯道具の型は三代目延若の写真では見ているが、実際に観たのはこれが初めて。十五代目羽左衛門も演じているから、必ずしも上方専売特許ではない。が、やはり感心しない。確かに気分が変るが、戦時体制下で悠長な「盛綱御殿」では緊張感が殺がれるし、最後の盛綱・和田兵衛の引っ張りの見得は、高足二重だからこそ立体的で、盛綱のスラリと流れる長袴が美しいからだ。
それはさて置き、上手襖から黒地の上下の盛綱・微妙・早瀬が出て上手にすまい出迎えると、いつもの通り時政の出になる。鎧櫃の置き場所などは普段の通り。首実検は「無残の弟が」以下、にじり寄っていくところは特に変ったところがない。同時に、上手襖から小四郎が出て見守っている。
首桶を殆ど開けるか開けないかで小四郎が声をかけ、高綱が慌てて蓋を下ろすのが周到な用意。何故父の死に顔を確認せずに切腹したのかという盛綱の疑問への伏線となる。「猶予は如何に、とく実験」と采をふるう我當の時政が、文楽の首のようで、誠に古怪で手強い。
このあと、下手から軍兵が手燭を持って出て、首桶の右(舞台向って左)に置く。懐紙で首の傷口を拭うが、小柄を耳に刺し回すことはせず、そのまま回す。
右手で手燭を持ち、翳してジッと見る。「違う」とハッとなり、上手の小四郎とジッと目が合う。手燭を置き首を捧げて「矢疵に」になり、「相違ない」は小四郎に向って言い、「些か相違」と張り床が「御座なく候」と受ける。この間、長くもなく、短くもない。その代り、盛綱のハラが十分伝わる出来。
北條の侍たちの「普天の下卒土の浜」の褒め言葉はカット、時政の引っ込み、篝火の呼びになる。
「いっかな心は変ぜねど」以降の長セリフは、謳い上げる派手さはないが、イキを詰んで、「褒めてやれ」まで一気呵成、タテコトバの運びである。総じて藤十郎の盛綱は、吉右衛門・羽左衛門のようにセリフで酔わせる盛綱ではない。その代り、彼の義太夫の抽斗の豊かさから来るハラの強さを特筆したい。
このあと、いつもの「今伯父さまのおっしゃったこと聞きゃったか」の前に、本文通り篝火の痛切なクドキを生かしたのが良い。天下国家の為とはいえ、我が子に死ねと教えなければならなかった両親の悲痛。そこにいない高綱の暗涙が目に浮かぶようである。
「伯父さま」の呼びかけに、盛綱がいつもの様に扇で膝を叩くのに加え、「わかるか」と声をかけるのが情があって良い。中央の金屏風が左右に開き、中央に和田兵衛。背景は琵琶湖の湖水。榛谷十郎を打ち抜くのはこれまで通りだが、陣屋ではないので前に返らず、後ろの下手障子奥に返る。これは流石に締まらない。幕切れの欠点は前述した通り。
それにしても、1時間50分でこれだけのことが出来るのだ。
一方東京はと言えば、「型」と称して相変わらず役者の仕勝手、本文の誤読が横行している。
藤十郎の「盛綱」「熊谷」、そして「合邦」を観ることが出来ない東京の観客は不幸である。
最後に、小四郎役の清水大喜の好演を特筆したい。誠に明晰な演技で、客の反応がこれほどストレートな「盛綱」は久々だった。小四郎の健気さが、盛綱の「我は油断の誤りばかり」という大人らしい保身の「分別」を粉砕し、人間的覚醒へと導く。そのドラマが率直に胸に染みいる好舞台だった。
2006年10月21日(土)
源左衛門の死
藤岡琢也の死に隠れるようにして、ひっそりと中村源左衛門が死んだ。
私にとって源左衛門というより、何と言っても山左衛門の名で馴染んで来た。
愛称「おでこ」。
師・先代勘三郎にこよなく愛された。「髪結新三」での肴売は得も言われぬ愛嬌があったし、中村賀津雄(当時)の相手役として抜擢された「泥棒と若殿」の名演は語り草だ。今、題名は失念したが、有吉佐和子作の前衛劇で、宮城まり子らと共演した筈だ。それだけの抽斗があった。
数年前、私達慶應歌舞伎研究会の歌舞伎の師・五代目仲蔵(この人も、私にとってはいつまでたっても勘五郎である)の葬儀が桐ヶ谷斎場であったとき、「喪主」役をつとめた勘九郎(当時)の全身から立ち上る愁いに粛然としたが、同時に甲斐甲斐しく世話をする源左衛門の姿が印象的だった。俳名・魚楽として、大谷広次と一時代を画した名優・助五郎の名を経て、最後に名乗った源左衛門は、初代中村歌右衛門の師匠筋の名であった。功なり名を遂げたというべきだが、その一方で七十二歳とは如何にも若い。
新派の長老・伊井義太朗も逝った。
伊井容峰以来の由緒ある伊井姓も、ここに消滅する。
名ワキ役退場。それにしてもこの寂寥はどうしたことか。
2006年9月26日(火)
鏡花・お倉・お梅
○7月の歌舞伎座・鏡花四本立てに刺激を受けて、この数ヶ月、「瓜生山歌舞伎」のための京都行きを挟んで、じっくり泉鏡花を再読した。「草迷宮」「歌行燈」「高野聖」「外科室」「義血侠血」「日本橋」…。以前は絢爛というより晦渋と映った独特な文体も、慣れれば癖になるし、「夜行巡査」や「外科室」などのトンデモナイ設定も、むしろ「最後の戯作者」の筆の冴えとして酔えば良い。
小説として「婦系図」を初めて読んだ。「湯島の境内」が原作にないのは知っていたが、酒井先生に勘当された早瀬主税が、静岡で河野病院長一家を破滅に追い込む後段なぞ、「隼の力」大活躍の完全なピカレスク小説で、新派との落差に驚いてしまった。不勉強で知らないのだが、後段を含めて舞台「婦系図」を再構成する試みがあっても良いだろう。
青山哲也の死は寂しかった(8月14日 享年六十六)。どこか素顔に中村魁車の面影がある、手堅い二枚目だった。と思うにつけ、先年の「京舞」以来、ホームグラウンドの演舞場で、劇団「新派」の歯ごたえある舞台に接していない味気なさに気づいた。
たしかに「鶴八鶴次郎」や「風流深川唄」といった川口松太郎の大衆に親炙した芝居は、時おり三越などでかかる。
しかし、鏡花の「日本橋」「滝の白糸」「婦系図」「歌行燈」、万太郎脚色の一葉物、一條久枝(どうしているのだろう?)の母が忘れ難い「明治の雪」、青果の「仮名屋小梅」などの演目は、今後どうなっていくのだろうか。歌舞伎に吸収されざるを得ないのだろうか。
しかし、例えば「湯島」の「三千歳」を他所事にしてのお蔦主税の愁嘆場も、同じ女形であっても歌舞伎の芸とは明らかに違う「新しさ」が底にある。
「めの惣」の、小芳・妙子の名乗りあえぬ親子の悲しさを「勧進帳」の「人目の関」に重ね合わせた鮮やかさを、歌舞伎役者が再現できるとは思えない。演じられるのは確かに「めの惣」であっても、それはごく近いところでも先代八重子や翠扇、春本泰男らのイキとは全く別物である。例えば、妙子を歌舞伎の娘方が演じるなど、余りゾッとしないではないか。
かつて国立劇場で定期的に新派がかかって時期があった。「新派新生」に、国が乗り出す時かも知れない。手遅れかもしれないが。
○溝口健二監督の「残菊物語」(昭和14年)をビデオで観る。
冒頭、五代目菊五郎(二代目河原崎権十郎)がお岩の拵えをする新富座の楽屋風景が出てくるが、古老たちが大勢生存していた頃だから、かなり正確な描写だろう。実際、先代権十郎の自伝「紫扇幕間ばなし」を読むと、最初五代目菊五郎宅を贅沢な作りのセットに組んだところ、実際を知る権十郎や六代目が注文を出し、細部まですっかり作り直したという。
「隠亡堀」の場は、菊之助(花柳章太郎)が映画の主役ということもあって、五代目はお岩・小平・直助を替わり、菊之助扮する与茂七が樋の口から出る設定になっている。この世話だんまりの菊之助が、非常におっとり(悪くいえば「もっさり」)しているのは、癇癖の五代目に疎まれるという伏線として、章太郎がわざとそうしているのだろうか。
それはともかく、旅興行での「関の扉」(芝翫の関兵衛に菊之助の墨染)の舞台面、道頓堀での船乗り込みの場面など、今観ればまことに貴重な資料である。無論、溝口健二の演出の冴、例えばお徳(森赫子)が病気と知って駆けつけた菊之助の表情を正面から追うカメラワーク、お徳の死の、どこか突き放した様な乾いた描写など、忘れ難い作品である。
○「残菊物語」の真説を知ろうとすれば、まず井口政治「延寿芸談」を読まなければならない。菊之助は、大正戦前に一時代を画した名人・五代目清元延寿太夫の実弟だからだ。
この自伝には、実に魅力的な一人の女性が登場する。
横浜・富貴楼お倉。
明治初年から半ばにかけて、横浜で隆盛を極めた料亭の女将である。
この人の亭主・亀さんこと亀次郎が、延寿・菊之助兄弟(実家は植木屋)の叔父なのだ。
田村成義「無線電話」でも、冥土の五代目菊五郎にお倉のことを「横浜の姉さん」と言わせている。
このお倉が、大変な女傑だった。伊藤博文・井上馨・大隈重信・岩崎弥太郎らの間を周旋して政財界に隠然たる力を持つかと思うと、團菊ら歌舞伎界、東京の花柳界にも大きな発言力を持った。
なにせ、彼女の妹分・娘分たちが始めた料亭の内、芝居茶屋「武田屋」は河原崎権之助一門と縁続きになり、「瓢家」からは「田中家」「金田中」が分かれて行くのだ。
その力の源泉の一端に迫ったのが鳥居民著「横浜富貴楼お倉」(草思社)である。
とにかく面白い。諸書を渉猟して、このまさに「明治一代女」と呼ぶに相応しい女傑の肖像を描いている。
鳥居氏には、既に1945年の一日一日を基軸として近代史を描く「昭和二十年」という長大なライフワークが継続中で、私も愛読している。丸谷才一、あるいは井上ひさしだったかも知れないが、「昭和二十年」をギボンの「ローマ帝国衰亡史」に喩えたのは至言である。「横浜富貴楼お倉」はその副産物。ぜひご一読を勧めたい。
○千谷道雄氏の訃を「演劇界」で知った。戦後まもなく東大を出て、初代吉右衛門の文芸係として近侍した体験を綴った「吉右衛門の回想」(木耳社)、黒衣後見・中村秀十郎の聞書「秀十郎夜話」、先代幸四郎の東宝移籍の内幕を描いた「幸四郎三国志」(文藝春秋)が忘れ難い。ハヤカワ・ライブラリーとして出た「裏方物語」など、もはや稀覯本だろう。
その氏に、異色の書がある。
題して「明治を彩る女たち お梅・お須磨・ぽん太・お鯉・妻吉」(文藝春秋 昭和60年)。
数年前古書店で見つけ、ずっと書架で眠っていたのだが、「富貴楼お倉」の勢いで、ようやく手に取った。滅法面白い。
お梅はご存知箱屋殺しの花井お梅。ぽん太は新橋芸妓から鹿嶋大尽こと鹿嶋清兵衛(團十郎の暫の舞台写真を撮影)の妻となり、お鯉は家橘こと十五代目羽左衛門と短い結婚生活を送り、後に桂太郎の愛妾となる。花柳界の裏話という以上に、彼女らの人生が様々な奇縁に結ばれながら時代と交錯して放つ光彩は、波瀾万丈、興味が尽きない。
千谷氏の明治裏面史への造詣の深さに敬服するとともに、この方面についての更なる著作を残されなかったのが残念でならない。
ところで、お梅というと、黙阿弥に「月梅薫朧夜」という傑作がある。以前「葉月会」で歌江が取り上げたのを観たが、これなぞ、改めて陽の目を見てもよい作品だ。
私は、お粂(実説のお梅)を、橋之助か三津五郎で観たい。
初演は五代目菊五郎。加役でなければ、この女のシンというか、パッションは表現できないと思うからだ。
○10月末には紀伊国屋書店から、待望の古靱・三代目清六の長時間SP「熊谷陣屋」「沼津」「鎌倉三代記」のCDが出る予定だ。玉男亡きあとの寂寥の良き慰めとなろう。
○平凡社ライブラリーから小村雪岱の「日本橋檜物町」が出ると、今日の朝刊で知り勇躍ネットで注文。昭和17年11月この書が出た時、戸板康二が編集を手伝っている。
鏡花「日本橋」の装幀は小村雪岱。
という訳で、いつの間にか話はぐるりと元に戻ってしまった。
2006年7月31日(月)
酷暑と驟雨と 京都「春秋座」見物記
「あれ、芝居もないのに、なんでまた?」
汗を拭き拭き店先をくぐると、行きつけの京都・東山安井の漬物屋「八百伊」の女将さんがにこやかに迎えてくれた。 十年以前、先斗町の某店で「おいしい漬け物屋は?」と尋ねたところ、「あんたな、『大○』だの『○利』などに惑わされてはいけまへん。ほんまおいしいのはここだっせ」と紹介されたのがこの店。以後、冬の定番「千枚漬」は無論のこと、名物「懐石沢庵」には病みつきになってしまった。きょうも「壬生菜」「山芋」「すぐき」(これはカミサンのリクエスト。ダイエットに良いとTVが取上げたので、たちまち「すぐき」がスーパーはじめ店頭から姿を消したという)をみつくろって、関係先に届けた。
京都は凄まじい酷暑だ。店先で出して頂いた団扇と麦茶で生き返る。
京都行きのお目当ては、29日の「瓜生山歌舞伎・亀治郎の挑戦」。洛中に着いたのは、この日、28日金曜日の14時過ぎ。
車中では、最近出たばかりの山城・綱のCD「山の段」を聴いたが、これまた恐ろしく音源が悪いときている。怒りを通り越して、眠ってしまった。
京都に着いた途端、凄まじい熱風に襲われる。まだチェックインには時間がある。
京都国立博物館開館110周年記念展「美のかけはし」を覗くことにする。
御馴染み宗達の「風神雷神図屏風」、松永安左衛門(耳庵)旧蔵「釈迦金棺出現図」など逸品も多かったが、京博110年史と名品展覧の二兎を追う感じで、散漫な印象だった。
15時過ぎ、館内を出ようとしたら、猛烈な驟雨!半時ほどで止んだが、むしろ気持ちのよいほどであった。そのあと、汗を拭きつつたどり着いたのが「八百伊」というわけである。
この日は、木屋町の定宿で荷を解くと、先斗町、花見小路の行きつけの店で痛飲した。
さて翌日。
とにかく凄まじい暑さである。36度。「瓜生山歌舞伎」の開演は14時。それまで、炎天下で体力を消耗したくない。宿で「鏡花短編集」(川村二郎編・岩波文庫)を繰ることにする。
それにしても、鏡花の文体というのは「ついていけない」という抵抗感を覚えつつも魅入られる不可思議な魅力がある。それに「義血侠血」「夜行巡査」「化銀杏」「売食鴨南蛮」「外科室」など、余りの極端なシチュエーションに「またか」と失笑しつつも、いつしかその掌によって逢魔ヶ刻に惹き入れられ、最後は清冽なカタルシスに洗われる。何とも不思議な作家である。
「竜潭譚」を読み終え、細見美術館地階のイタリアンで昼食。不思議に心落ち着く、私としても京都でも特に好きな空間だ。ミュージアムショップの小物の落ち着いた品揃えも洒落ている。
早めに会場である北白川の京都造形芸術大学「春秋座」に向かおうと、タクシーに乗ったら、これまた時ならぬ俄か雨。思いの外雨脚も強い。よほど暑さと雨に祟られた京都行きと見える。
開演までまだ時間がある。大学構内を歩いていると、たまたま竹本葵太夫氏に出逢った。亀治郎の写真展をやっているというので覗いてみる。
カメラマンは長塚誠志氏。「亀治郎の会」発足以来、ずっと亀治郎を被写体として追い続けてきた人だ。もともと自動車が専門のカメラマンだったということだが、「動の中の靜」「靜の中の動」を捉える視点は流石である。亀治郎の狐忠信のギバの一瞬、イキを詰めた玉手の写真の前では、暫し立ち止まった。
さて、お待ちかね「亀治郎の挑戦」である。
結論を先に言えば、大出来。久しぶりに「安達原三段目」の勇壮に潜む暗い血の律動(それこそこの狂言最大の眼目なのだ)を堪能することが出来た。
成功の要因は三つある。
ひとつは、石川耕士の補綴の行き届いた目配り。
てっきりいつものように「たださえ曇る雪空に」の袖萩・お君の出からかと思ったら、
直方と義家のやり取り、教氏実は貞任の入り込み、宗任詮議がついている。
つまり「敷妙上使の段」のエッセンスを生かしながら、「矢の根の段」を端場として丸ごと演じるのだ。
この部分だけで約二十分、決して長いものではない。
亀治郎とすれば、従来の袖萩→教氏→貞任という「二つ玉」の前に、改めて教氏の入り込みという見どころがつく訳だが、効果はそれだけではない。
直方の双肩にかかる環宮拉致事件の責任という枷、義家・直方の婿舅関係、貞任兄弟のハラの探り合い、といったこのドラマの背景がよくわかる。何より、直方の後段の「さてこそ同筆」の驚愕が生き、現行では要領を得ない宗任の存在も格段に大きくなる。
欲を言えば、今回は出ない敷妙役者が一人いれば、袖萩との姉妹の明暗が浮き出た筈である。更なる練り上げを期待したい。
切り場になってからの入事を極力排しての足取りの良さ。その上で、伯父猿之助が松本団升から伝授された地芝居の古怪さが随所に生き、アクセントになっている。
補綴のもう一つの眼目は、二度目の教氏の出で、直方の懐中から密書を取り出す前に、
直方が「いかなれば某は敵と味方を婿に持つ。因果も思い廻らせば代々不和なる源平を。先祖に背いて縁組んだ。我誤りを白旗の此。白梅を血に染めて。元の平家の寒紅梅」という述懐を加えていることである。
この件は、袖萩・お君と貞任の大落としのあと、義家がお君を養女として養うというあとに本来来る。
このあと「御大将も直垂の袖射削って余りの矢先」で宗任の出になるのが本文。
しかし歌舞伎では、この段階では既に直方を死んだものとして後見が片づけてしまうために、このセリフはカットされていた。それを石川は、「袖萩とやらんも死なずばなるまい」の前後に持ってきたのである。
このセリフを聴いて、私はアッと思った。
普段隠れていた、家長・平直方を頂点とする家族の相剋が鮮やかに浮かびあがったからである。
歴史的事実を繙けば、平将門の乱・平忠常の乱以降、清和源氏の勢力は坂東の野に浸潤し、坂東の桓武平氏らは皆源氏に妥協・臣従し、三浦・梶原・畠山・北條らの祖になった。直方もまたその一人であった。一方、伊勢を勢力圏とする平氏は、忠盛の様に長袖の道を選んだのである。
直方からすれば、平家の敷妙が源氏の義家に嫁いだのは「稀なる事」とはいえ、武門として誇らしいことであったろう。かたや皇弟の守り役・かたや鎮守府将軍。両者は主従でなく対等な立場であることを注意したい(もし主従なら、環宮失踪の責任はまっさきに上司の義家にかかる筈である)。
しかし直方はいま、娘袖萩の不義という不名誉の闇を心に抱え、さらに環宮失踪の責を一身に負っている。
その上、袖萩の不義の相手が宿敵安倍貞任であり、環宮失踪の鍵を握る人物と知れる。
敵味方の相剋を一身に体現した己を思う時、老人の選択は自死しかない。
その時、彼は後日「義経千本桜」で知盛が言う如く「四姓始まって以来、討っては討たれ討たれては討つ」歴史の法則に目をつむり、先祖の名を汚した自分に気がつくのである。
無論、それは直方が叛意を持ったということではない。
桓武平氏への帰属意識、坂東武者としての反骨に改めて立ち戻ったということである。
その直方の遺志を、もう一人の婿・安倍貞任が「舅が最期に魂を翻したる梅花の赤旗我が家の旗諸共に奥州に押し立て押し立て」と継承していくのである。
ここに、衰弱する坂東平氏・安倍氏の魂が共鳴し、勝者源氏に対峙していく、果てしない連環と歴史のうねりが浮かび上がって来る。
段四郎の直方の得難い骨太さもあるが、これは、今回の「亀治郎の挑戦」においての最大の発見であった。
成功要因の第二は、亀治郎の気組である。
例えば、教氏が揚幕のドンチャンに立 |