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2008年9月6日(日)
和田兵衛の高合引
今月歌舞伎座、昼の吉右衛門の「逆櫓」の樋口は圧倒的かつ感動的であった。
それについては、8日の読売新聞夕刊に書き、来月の「テアトロ」で詳細に論ずるのでそちらに譲りたい。しかし他の二役、盛綱と河内山については、それぞれ消化不良の憾みが残った。昼夜三役、力の配分を誤ったとも言えようか。
まず、河内山。
初代の持ち味はこぼれるような愛嬌であった。吉右衛門を見ると、歌六以来の芝居巧者の血の濃さを改めて感じる。
しかし、「松江邸」があそこまで予定調和で良いのだろうか。無論、見る方も、玄関先の「何だ何だ、仰々しい静かにしろい」から花道の「馬鹿め」までをむずむずしながら待っているのだから、予定調和もあったものでは無いが、敢えて野暮を言う。
宮の使僧と偽って大名屋敷に騙りに乗り込むだけでも乾坤一擲の大博打の筈で、出雲守とのやりとりも丁々発止であるべきだろう。あそこまで舐めきってしまっては、逆に玄関先の見顕わしが減殺されないか。余りにも河内山の地金が出すぎていることに私は不満だった。
盛綱。「母人、何故褒めておやりなされぬ」の辺り、初代以来の「泣きの芸」を彷彿とさせる。
「二條城の清正」であったか、初代が御座船で秀頼相手に声涙共に下る述懐を始めたら、楽屋で聴いていた六代目が「波野のやつ、また始めやがった」と呟いたのは有名な挿話だが、初代の芸は情に振幅があればあるほど輝いたのだろう。その点、今回の盛綱は情という点申し分ない。
しかし一方で、盛綱は理の人である。
弟の謀計という理に、甥切腹という理で応える。その冷徹な計算があってこそ、後段小四郎の死によって情に覚醒する感動が生きるのだ。今回の舞台では、和田兵衛との「珍説珍説」から「思案の扇」まで、つまりこのドラマの基調音を形作る部分の掘り下げが足らない。
それより驚いたのは、左団次の和田兵衛が高合引にかけたことである。
この場は「和田上使」と呼ばれるが、彼は決して上使では無く、京方(頼家)を代表しての談判の軍使である。盛綱とは対等。高合引にかけて上使風を吹かせるなど、心得違いも甚だしい。だとすれば、左団次は何故和田兵衛が陣屋を訪れたかというハラも、理解していないと言われても致し方あるまい。これだけで、今月の和田兵衛は「評なし」である。
今頃こういう仕勝手がまかり通っているというのも、役者が本をキチンと読み込む力が落ちている証拠だろう。どれだけ役者を揃え、個々に名演を見せようとも、演出に統一がなければドラマ本来の主題が死ぬ。
「盛綱陣屋」については、以前この「余滴」で何度か作品論を試みたので、改めて採録しておく。
*篝火というおんな
(2003年11月24日)
*舞台の「38度線」 藤十郎の盛綱
(2006年10月22日)
2008年7月26日(土)
常磐津・洛北・延暦寺
○17日から24日まで休暇を取り、このうち19日から22日まで京都に遊んだ。
「今年の夏は暑いでっせ、とりわけ祇園祭から酷うなってきました」。
東山安井の「八百伊」の女将さんはじめ、タクシーの運転手さんら、行く先々でぼやかれた。確かに暑い。例年は33度で「猛暑」なのだが、今年は36度前後がざらのようだ。暑さも体温を超えてしまえばもはや思案のほかだろう。
今回の京都入りの眼目は、20日午後祇園一力で開かれる「常磐津都会」。
京都造形芸術大学の教授で、歌舞伎学会以来親しく、最近ともに「歌舞伎ギャラリー50」「仮名手本忠臣蔵を読む」を出したばかりの田口章子さんが、この度見事常磐津三味線の名取「都章」(さとあき)を名乗り、一門の会で大曲「将門」を弾くのである。
都会は、大正期声量美音を謳われた常磐津都(女性)を祖とする。震災で東京を焼け出された都は祇園甲部女紅場で舞妓・芸妓を指導して京都花柳界で地歩を築き、現・都喜蔵師(喜は正しくは七を三つ)はその孫である。
田口さんは造形芸術大学の「春秋座」開場とともに大学に招かれ、劇場での様々な公演をプロデュース。教壇に立つ傍ら、稽古に励み今日に至ったわけであるから、その努力には頭が下がる。
昼の一力は初めてだったが、1時半頃着くと、奥の二十畳ほどの座敷に金屏風・山台・毛氈がしつらえられ、ちょうど「戻橋」が終わったところだった。それから17時終演の「勢獅子」まで、京の喧騒と暑気を忘れて、じっくりと常磐津に埋没した。
演目は都喜蔵師と息子の都史師が、休むことなく弟子の浄瑠璃の三味線を弾き、あるいは三味線をサポートする。自ずと三味線の強さ、比重が増すわけで、そこから三味線の音色が描き出す景色が次々と浮かびあがってくる。
田口章子さんの「将門」は14時からであったが、見事なものだった。「嵯峨や御室」「ほのぼのと」の難しさは当然として、光圀の将門最期の物語は逆にサラリとしている。そうした足取りが良くわかる(田口さんからは叱られるかも知れないが)。
「女夫狐」を、ハワイ出身という外国人女性が二人で語った。実に見事な「狐言葉」で、海老蔵に聴かせてあげたかった。先入観がなく、全く無心に師に教わるまま稽古を積んだ成果であろう。実はここに、先日の歌昇の狐忠信に通じる芸の秘密がある。
翌21日午前は、なぜか一同衆議一決、岡崎の京都市動物園へ。
暑さにへたれたアシカは完全に池に浮遊状態。暑さに強いゾウやカバ、ゴリラはともかく、ホッキョクグマはまさに拷問である。人間とはつくづく残酷な動物だと思った。
意気軒昂だったのがアムールトラ。
つい最近、上野の国立博物館平成館の「対決」展で応挙・芦雪の虎の襖絵を比較した。応挙がフランドル派ばりに毛皮の質感の細部に拘っていたのに対し、芦雪の一刀彫りのような直截な迫力を思い出した。動物たちの中では、すっくと立ったキリンの姿が実に優美で、つぶらな瞳に久々に童心に返った。
その後、タクシーをチャーターして貴船・鞍馬のはるか先、洛北雲ヶ畑岩屋橋の「洛雲荘」に投宿。
近くの志明院(金光峯寺)は「鳴神」の北山岩屋をのモデルである。
なるほど、山門をくぐり、険阻な山道を行くと、眼前に自然の巌を利用したと思われる岩屋が広がる。森閑として、しばし暑さ(というより湿気)を忘れる。鳴神は賀茂川の首根っこを押さえたのだな、というのが実感として良くわかる。宿へ帰る途中、清和天皇との御位争いで敗れた「惟喬神社」がある。大原といい、この辺りは惟喬親王の伝承が多い。
翌日は出町柳まで車で降りて、叡山電車で八瀬遊園を経て、ケーブルカー・ロープウェイで延暦寺。
初めて登ったが、この天然の要害を焼き討ちにして僧侶を惨殺した信長の執念を改めて思った。
琵琶湖、洛中が遥かに望める。国宝殿、大講堂、国宝根本中堂、文殊楼など観る。伽藍を吹き抜ける山頂の涼風が爽やかで、下界に降りるのが暫しためらわれた。
さまざまな意味で、充足した京都の旅だった。
○6、7月と読んだ本、観た映画(DVD)を心覚えに挙げておこう。
相変わらず脈絡がないが。
本
佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)
佐野氏一流の調査が行き届いていることは認めるが、大杉栄・伊藤野枝虐殺の真相に迫り得たかといえば、隔靴掻痒。角田房子「甘粕大尉」に軍配を上げる。
今西光男「新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩」(朝日選書)
今西光男「占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎」(朝日選書)
朝日OBが執筆、かつ朝日が出版したものとしては、よくぞこれだけ「編集」(緒方)と「資本」(村山社主家)の暗闘に切り込んだと言える。軍部によって真綿で首を絞められるように弱体化し、大政翼賛化していくメディアの姿も極めて今日的。
緒方竹虎「人間中野正剛」(中公文庫)
渡辺行男「中野正剛自決の謎」(葦書房)
中野といえば「東方会」を率いた雄弁家にしてファシストというイメージだが、特に前者は刎頚の友・緒方の筆になるだけに、単にそれだけでは片付けられない繊細な内面を良く捉えている。
それにしても、「戦時宰相論」の如き真っ当な言説を逆恨みし、憲兵・検察を駆使して、何が何でも強権で中野の言論を封じようとした東條英機という男の「小人」ぶりにはやりきれなくなる。
永井路子「岩倉具視」(文藝春秋)
吉村昭「彰義隊」(朝日新聞社)
森鴎外「大塩平八郎 堺事件」(岩波文庫)
井上勲「王政復古 慶應三年十二月九日の政変」(中公新書)
家近良樹「幕末政治と倒幕運動」(吉川弘文館)
幕末のように錯綜した時代を描く場合は、
@事象を細大漏らさず書く。
大仏次郎の「天皇の世紀」がその典型だが、最後の頃には大仏本人も何を書いているのか分からなかったのではないか。その点、例えば「徳川慶喜公伝」の場合、慶喜雪冤の書というテーマが一本通っているだけに、一気に読める。
A善悪分かりやすく単純化する(今大人気の「篤姫」なぞその典型ですな。江戸開城の立役者を篤姫にせんがために、徳川慶喜が必要以上に陰険に描かれている。そもそも、将軍継嗣候補を器比べするといっても、一橋派は「英明」、紀州派は「家斉の孫という血筋」と全く座標軸が違うので、比較の仕様もないのだが…と見ていて突っ込み処満載。このまま、幕威失墜は全て将軍後見職の慶喜の無能のせいとするのだろうか?)。
B難しい政治状況をわかりやすく書く。
という三つの方法があるだろう。Bが最も難しいのは当然だが、それに成功している稀有な例が永井、井上両氏の著。「尊皇攘夷」「公武合体」から「大政奉還」「王政復古」といった一見有難そうなスローガンの内実を見事に引き剥がして見せる。
特に、「大政奉還・公議政体」派の土佐藩・幕府を、岩倉らが「討幕の密勅」なる「偽勅」と権謀で強引にねじ伏せていく過程は井上氏の著が委曲を極め、今に連なる「近代日本」の正統性にも思いを致さざるを得ない。
家近氏はかねてより、江戸の幕閣から独立した京都の「一会桑」政権の重要性に着目してきた。
「一=一橋慶喜、会=京都守護職松平容保、桑=京都所司代松平定敬」のトライアングルである。
長州尊攘派一掃後、京都を掌握した彼らと朝廷・雄藩の綱引き。慶喜に対する江戸幕府の不信。このあたりが実にダイナミックで、「篤姫」では決して触れられないであろう歴史の内奥である。
映画
「ザ・マジックアワー」(佐藤浩市本人が、何も知らず大芝居をしている趣向が良い。三谷に歌舞伎的素養があれば十分舞台に応用できる)
「休暇」(後述)
「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」(ハリソン・フォード老いたり。カレン・アレンが相変わらず可憐で嬉しい)
「イースタン・プロミス」(ロシアン・マフィア版「湯殿の長兵衛」)
「告発のとき」(トミー・リー・ジョーンズ、スーザン・サランドン両者の演技が圧巻。ハリウッドの厭戦気分、共和党嫌いが良くわかる)
「クライマーズ・ハイ」(これはこれで単品として良く出来ているが、NHK・佐藤浩市版が数等スッキリまとまっている)
DVD
「それでもボクはやってない」(小日向文世の裁判官のヤラシサがリアル。裁判傍聴経験者としても納得できる出来)「父と暮らせば」(こういう映画は涙腺を刺激して苦手。原田芳雄・宮澤りえともに良い)
「ボビー」(グランドホテル形式だが散漫。デミ・ムーアがオバサンになった)
「レミング」(シャーロット・ランプリングが不気味)
「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」(やはりこのシリーズは第一作目に尽きる)
「ヴェロニカ・ゲリン」(04米 ケイト・ブランシェット)
「あるスキャンダルの覚書き」(嫌な映画だが、両女優競演で最後まで観てしまう)
「リクルート」(アル・パチーノのスパイもの)
「ゴスフォード・パーク」(鼻持ちならないイギリスの貴族社会を活写。御贔屓ヘレン・ミレン、往年の沙翁役者デレク・ジャコビが出ているのが嬉しい)
「ザ ライフ オブ デヴィッド・ゲイル」(ケヴィン・スペイシー)
「運命じゃない人」(後述)
この中で、心に重くのしかかったのは吉村昭の短編小説を映画化した「休暇」。
死刑執行に携わる刑務官(小林薫)たちの日常を淡々と描いた、と今ここではそれしか書きようがないし、筆が進まない。しかし、出来うる限り多くの人に見て欲しい映画だ。
「運命じゃない人」は、快作「アフタースクール」(2回観た)でうならせた内田けんじ監督の前作。
その異才ぶりが存分に発揮される。
こうして観ていくと、邦画、ことに単館系の小品に得がたい佳作があるのが嬉しい。
2008年7月17日(木)
目的と手段 「四の切」競演をめぐって
15日昼、国立劇場歌舞伎鑑賞教室。
ついさっきの幕間では騒々しく収拾もつかなかった学生たちが、イキを詰めて歌昇の「四の切」狐忠信の述懐を見つめている。その空気の変化が、二階の私にもありありと分かった。
戦後まもなく、傍若無人なGHQの将校たちの前で七代目三津五郎が簑助(八代目)と「子宝三番叟」を踊ったら、将校たちはいつのまにか葉巻の火を消して居住まいを正していた、という一つ噺と同列に扱うつもりはないが、歌舞伎に内在する訴求力を改めて思った。言葉を代えて言えば「型の力」である。
歌昇は別に目新しいことは何もしていない。初役を勤める心得として、中村富十郎指導のもと、音羽屋型と狐言葉を愚直に演じているに過ぎない。宙乗りも、目も覚める欄間抜けも、化かされのスピーディな立回りもない代り、明らかに親狐と仔狐の情愛というドラマが鮮明に浮かび上がる。
先人たちは、ドラマを具象化するために心血を注いで「型」を案出した。逆に言えば、「型」を忠実になぞれば、性根がついて来る。ドラマが「目的」なら、「型」は手段である。
歌昇の良いのは、狐言葉が明快であること。妙に引き延ばしたり、縮めたり、こねくり回したりしない。親を失い、蔑まれた仔狐の孤独、何とか孝行を果たしたいという素朴な思いが切実に伝わって来る。すると、これまで気にもしていなかった「行間」が見えてくるのだ。
「忠臣を苦しますは汝の科。早帰れ」。
これは、狐忠信を介した親狐の言葉である。私はここで初めて胸が熱くなった。親鼓とて、これまでの息子との旅は、久々の親子の平安だったに違いない。しかし、息子の行為が思いもかけず本物の佐藤忠信に冤罪をかける結果となった。これ以上、義経主従に迷惑をかけるわけにはいかない。「早帰れ」。そこには断腸の響きがあり、仔狐の「お名残りが惜しかるまいか」が、一層痛切なのである。
親子の別れに音を止める鼓。「四の切」の見えないところで進行しているもう一つのドラマを、歌昇はありありと見せてくれた。鼓で泣かされた「四の切」は初めてである。
そのいじらしさに、義経が違勅を承知で鼓を渡す。一本ピンと筋が通っている。
無人芝居の大金星。
歌昇といえば、名子役の時代は知らず、テレビなら「天と地と」の少年時代の謙信、「杉の子会」の「勧進帳」弁慶、「妹背山」鱶七、「関の扉」の関兵衛と観てきた。あの弁慶の感動は三十年以上経った今も忘れない。彼の実力からすれば、「四の切」の成功は当然であり、余りに長き雌伏であったとの思いもある。
さて、歌舞伎座の海老蔵の「四の切」である。
目的と手段で言えば、澤潟屋型は、親子の情愛を際立たせる「目的」のために 、ケレンを「手段」に用いた。初めは目を奪うケレンの鮮やかさに拍手喝采だった観客たちも、最後は猿之助の芸に泣かされた。猿之助が丸本を徹底的に読み込み、型を設計したからである。
海老蔵の「四の切」は、はっきり失敗と言ってよい。
まず、型をなぞるのではなく仕勝手。鼓の音に聴き惚れるのを顔面で演技したり、中性的というより女性的になるのがいけない。歌昇がいじらしいなら、海老蔵は未練がましい。鼓を渡さないと、百代まで祟りそうだ。
狐言葉に振り回されているのか、振り回しているのか分からないが、緩急や引き延ばしが奇妙で、何を言っているかが分からないのが辛い。「鳥でさえ」とか、鼓を渡されての歓喜など実感的だが、逆に実感に頼らざるを得なかったといえるだろう。ケレンが「自己目的化」した狐忠信なのである。
猿之助抜きの「四の切」を観て、私は猿之助が如何に細部まで計算して型を練り上げたか良くわかった。
海老蔵は、「目的」に今一度立ち戻るべきなのだ。
歌舞伎は「型」 。その証明のような、「四の切」競演であった。
2008年6月17日(火)
「ザ・マジックアワー」を観る
昨日は早出勤務で午後は空くため、家内と久々に映画を観た。
場所は六本木ヒルズのTOHOシネマズ、作品は三谷幸喜脚本・監督の「ザ・マジックアワー」である。
大いに笑った。
彼のほかの監督作品「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「THE有頂天ホテル」と比べれば 、「ラヂオの時間」と比肩する面白さと言ってよい。
こういう作品は、「アフタースクール」同様、何ら予備知識無く観るべきで、以下もなるべくネタバレを避けて書くがご容赦願いたい。
所は架空の港町・守加護(シカゴですな)。妻夫木聡演じる男が、よんどころない理由から、無名の役者・佐藤浩市で「ギャング映画」を撮影する(振りを演じる)羽目になる。
この佐藤浩市が映画中で演じる悪役名が「デラ・富樫」。
ここまで来れば、妻夫木がエド・ウッド、佐藤浩市がベラ・ルゴシ、つまりティム・バートンの「エド・ウッド」のパロディであることが分かる。私は他にも「ニューシネマパラダイス」、ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」「ブロードウェイと銃弾」やヒチコック、日活無国籍アクションの引用を読み取ったが、映画好きには堪らないだろう。
ストーリーは、秘密を知る会計責任者(市村萬次郎!)を消す、消さないの話(つまり、デ・パルマの「アンタッチャブル」)になるが、流石に三谷幸喜はエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」の階段シーンをそのまま引用するような野暮なことはしない。観てのお楽しみである。
榎木兵衛が相変わらず飄々として登場、柳澤愼一(「奥様は魔女」のダーリン!)が健在ぶりを示すのが嬉しい。
パロディとは、観る者の既視感を刺激して、「本歌」とのズレ、うがちを楽しむ。その点、「ザ・マジックアワー」は近年出色のパロディ映画である。
先年の三谷歌舞伎「決闘高田馬場」が失敗だったのは、三谷の抽斗に歌舞伎の「本歌」が無かったからである。彼が歌舞伎の演目・「世界」を貪婪に吸収すれば、おそらく屈指の「狂言作者」たりうるだろう。
なお、この作品は香川照之、市川亀治郎の初の「従兄弟共演」映画としても記憶されよう。
2008年6月3日(火)
新内の新作を聴く
偶々ひとから切符を譲って頂き、5月31日(土)新内協会主催の「新内の新しい魅力・新作を聴く」(紀尾井小ホール)に行った。
かつて、新橋の烏森辺りで飲んでいると、良く新内語りの爺さんが爪弾く三味線の音が聴こえたものだ。
たまに店に招き入れては「明烏!」なんてリクエストしたこともある。十五年以上昔である。あの老人は今でも流しているだろうか。
何たって「新内流し」を「流しそうめん」の一種と思っている人がいた(当然今もいる)時代である。
かくいう私だって、知っているのは恥ずかしながら「蘭蝶」「明烏」、川口松太郎「鶴八鶴次郎」長谷川伸「沓掛時次郎」の一風俗程度の認識しかない。従って、単に「新内の会があるよ」と言われても、清元・常磐津に比べてもまず食指が動かない。
ところが、今回は違った。まず、ラインナップが面白い。
第一部(二時開演)「婦系図」、北条秀司作詞「さまようお夏」、正岡容作詞「道中膝栗毛・小田原五右衛門風呂」、「瞼の母」。
第二部(五時開演)巌谷慎一脚色「残菊物語」、桜川慈悲成原作・大西信行作詞「りん気の火の玉」、石川耕士作詞「お菊の皿」、「十三夜」。
私が行ったのは第二部であったが、師ともいうべき巌谷慎一さんの名作「残菊物語」に新内で再会できるとは思わなかった。テーマも当然曲趣に合致している。
「りん気の火の玉」は、サラリとした落し噺に仕上がっている。
感心したのは「お菊の皿」。
岡本綺堂「番町皿屋敷」のルーツ「播州皿屋敷」に取材し、前半は青山鉄山とお菊の責め場。「明烏」の浦里と思って頂ければいい。
石川耕士の真骨頂が出るのは後半。毎夜毎夜お菊の幽霊が出て、「一枚、二枚、…九枚」まで数えられると取り殺されるという噂が立ち、皿屋敷の跡地が俄然観光地化。お菊さんも図に乗って来て…と一気に砕け、笑わせる。
今の歌舞伎の新作がつまらないのは、こうしたパロディ・ひねり・うがちの精神の欠落である。
要するに「本歌」が無くて、新作を書くことは暴挙に等しいのだ。
最後の「十三夜」は、鶴賀若狭掾が、夫の不実の耐えかねて実家に帰ったお関、それを諭す老父、車夫録之助との再会を、しみじみと聴かせた。中身の濃い2時間半であった。
何の予備知識もなく、映画「アフタースクール」を観る。それが幸せだった。
邦画今年のベストワン(まだ6月なのに気が早いが)。
「情婦」(「検察側の証人」)「探偵スルース」「デストラップ死の罠」、最近では「ラッキーナンバー7」といった作品をこよなく愛する私としては、日本にもようやくこういう映画(そして脚本家)が現れたかと嬉しくなった。
必見である。
角田文衛「平家後抄」を読み終える。
朝日選書の上下二冊本もあるが、私が読んだのは昭和53年刊のハードカバー。索引まで入れて654ページ、本文524ページ、補註上下二段組63ページ。これまで資料的に使っていたが、通読したのは初めてであった。
「平家物語」は、平維盛の一子妙覚(六代)の斬死をもって平家滅亡とするが、角田氏はその定説に異議を唱える。
平家の女人たち、例えば清盛の娘は四條、花山院、坊門、摂関家に嫁ぎ、その血脈は脈々と受け継がれているし、清盛の曾孫・四條貞子は太政大臣西園寺実氏に嫁ぎ、二人の間の娘は後嵯峨天皇の後宮に入り、後深草・亀山両帝を産んだ。貞子は天皇の姑、祖母として「北山の准后」と呼ばれ、1302年、107歳の天寿を全うする。
無論、貞子の人生はこの書では縦糸であって、角田氏は建礼門院や頼盛・知盛・教盛らの所縁の人々のその後を、「承久の乱」を挟んで丹念に追っていく。その筆力に、一気に読まされてしまった。
結局あとに残るのは、平家流転の哀切でもなく、しぶといヌエのような貴族社会の不気味さである。
生き残るためには、あらゆる婚姻・閨閥の網を利用して、源平両家を秤にかける。
公卿社会・その頂点に立つ天皇制の権力の源泉を垣間見た思いがする。
次に取り掛かるのは佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)。
甘粕については、既に角田房子「甘粕大尉」という力作がある。
佐野氏といえば、「巨怪伝」の正力松太郎、「阿片王」の里見甫、「枢密院議長の日記」の倉富勇三郎と、近現代史の「読み」には定評のある人だけに、如何なる甘粕像を結ぶのか、今からワクワクしている。
2008年5月24日(金)
異界としての「伊藤喜兵衛一家」
揚巻・小町姫・墨染 と、このところ順調な歩みを見せていた福助が、今月は昼「藤娘」夜「四谷怪談」と思わぬ連続凡打。特に後者は痛恨のエラーとも言える。その結果、相対的に吉右衛門の伊右衛門、段四郎の直助の存在感が増し、男臭い悪の華が蠢く「四谷怪談」になった。それについては、来月の「テアトロ」で詳しく書く。
ここでは、演舞場の「四谷怪談」を別の角度から観てみたい。
今回の舞台の意外な収穫は、他ならぬ「伊藤喜兵衛一家」である。
古風な役者顔の由次郎の喜兵衛、陰翳のある京蔵の後家お弓、セピア色の明治の古写真のような芝喜松のお槇、ポッテリとした色気の京妙のお梅。
このうち由次郎を除く三人が国立養成所育ち。もはや研修生一期〜三期ぐらいの世代は、芸歴三十年。ワキ役として余人をもって代え難いという感慨をあらたにした。
それ以上に、この四人が登場すると、正直「アダムス・ファミリー」(失礼!)というべきか、非日常的な異界ともいうべき不気味さが醸し出されるのだ。
(深作欣二「忠臣蔵外伝四谷怪談」[1994]の石橋蓮司の喜兵衛、渡辺えり子のお槇、荻野目慶子のお梅が、そういう空気を良く捉えていた)
もともと、伊藤家は相当歪んでいる。
そりゃそうだろう。いくら孫娘可愛さだからと言って、妻子のいる、しかも敵の塩冶方の素浪人を籠絡し、あろうことかその女房に毒を盛ろうというのだから。
その上、喜兵衛は「銅盥にて、小判を洗ひ」という吝嗇を超えた病的守銭奴、お弓も家付き娘で夫又市を失い、娘を偏愛している。お槇も、お岩への愛想の裏に、平然と悪意の刃を研いでいる。
「子故の闇」とはいいながら、社会規範を全く逸脱している。まさに「異界」。
そこに伊右衛門が魅入られることから、全てのドラマが始まる、という南北の作意が鮮やかに浮かび上がるのだ。
というより、南北は、「伊藤喜兵衛一家」を「加古川本蔵一家」を裏返しにして描いているのである。
まず、加古川家の場合、婿どの(力弥)が陪臣といえども大身、同じく陪臣でも加古川家の方が釣り合わない(「手前の主人は小身故。家老を勤むる本蔵は五百石。塩冶殿は大名。御家老の由良之助様は千五百石」と「九段目」にある)。「四谷怪談」の場合は、婿が浪人でこの逆である。
師直の寵臣として金の亡者の喜兵衛は、小粒金の吸物で伊右衛門たちを籠絡する。本蔵は心ならずも師直に賄賂を贈り、主君若狭之助の危地を救う。つまり、「喜兵衛内」は「進物場」という訳である。
戸無瀬にとって小浪は先妻の子。その「義理」が娘への愛とともに彼女の行動を束縛している。
それを南北は喜兵衛(孫が不憫)後家お弓(夫を亡くし娘を偏愛)乳母お槇(擬似的母子関係)に分解した。
一緒にならなければここで死ぬ、というお梅の見え透いた自殺芝居と押し掛け女房ぶりは、「九段目」の戸無瀬・小浪の「鶴の巣籠」の裏返しと見て良い。
お岩・小平の惨劇のあと、白無垢で浪宅に現れるアンバランスも、「九段目」の視覚的パロディである。
赤子を抱いたまま首を打ち落される喜兵衛の姿は、そのまま「盟三五大切」鬼横町で源五兵衛に最初に血祭りに上げられる里親おくろに繋がっている。
「忠臣蔵」のパロディとして、実は複雑な構造を持っている「四谷怪談」。その一端を覚え書きとして記した。
前著「天保十一年の忠臣蔵 鶴屋南北『盟三五大切』を読む」(雄山閣刊)で書き落とした点を一つ。
天保十一年(1840)五月、七代目團十郎(当時海老蔵)が江戸・河原崎座で「騎錺忠臣鞍」(きばかざり・ちゅうしんぐら)を上演する。
一番目は並木宗輔の浄瑠璃「狭夜衣鴛鴦剣翅」(さよごろも・おしどりのつるぎば)三段目までの歌舞伎化、二番目は「盟三五大切」の再演という奇怪な構造。この作品が持つ意味と、江戸歌舞伎の人々の豊饒な発想については拙著を参照して頂きたい。
この時、私は何故團十郎が、「狭夜衣」という、歌舞伎では全く顧みられなかった「至極めづらしき狂言」(辻番付)に光をあて、しかも選りに選って「盟三五大切」の再演と併演するという構想を得たのか、分からなかった。
しかし、考えて見れば答えは簡単だった。
「四谷怪談」裏田圃。父と夫を殺されたお岩とお袖は、伊右衛門と直助について行く決意をする。
原作にはこうある(新潮日本古典集成本)。
お袖 うはべばかりの、そんなら夫婦
伊右 これで互いに
お岩 力とたより
お袖 とは言ふもののこれがマア
お岩 あきらめかねる女気の
伊右 これも尤も
直助 しかしいつまで言つたとて
伊右 尽きせぬ名残と
お岩 尽きせぬ縁
お袖 鴛鴦(をし)の衾(ふすま)に引きかへて
お岩 心のつるぎ刃
伊直 やがて本望
「鴛鴦の衾に引きかへて」「心のつるぎ刃」。
「浄瑠璃「狭夜衣鴛鴦剣翅」を読んだ時、七代目團十郎の脳裏に、約十五年前自らも伊右衛門として舞台にたったこの時の記憶が鮮やかに甦ったのではないか。
「狭夜衣鴛鴦剣翅」=「東海道四谷怪談」=「盟三五大切」。
その連想が、「騎錺忠臣鞍」を生んだのに相違ないのである。
2008年5月23日(金)
戊子皐月断想
○戸板康二「思い出す顔」に続き、共著「歌舞伎ギャラリー50」も上梓出来、まずはほっとしている。特に後者は昨年来からの懸案で、各々の執筆者が意気込んで各章に臨んだだけに、手前味噌ながら、十分読み応えのある出来になったと思う。
この二十年間で、台帳・評判記など基本文献の翻刻が飛躍的に進み、歌舞伎研究の新たな基盤が生まれ、それに基づいた様々な成果が世に出ている。研究者と劇評家の交流も、少なくとも私に限って言えば、大いに深まった。今回の「歌舞伎ギャラリー50」では、そうした日々の蓄積が培った「読み」も、反映させて見たつもりである。
加えて、百鬼丸さんの迫力ある切り絵。実際の舞台写真に比べて、読者の自在なイメージを喚起するちからがある。是非手にとってご覧頂きたい。
○21日(水)は遅出だったので、「ナイル」のムルギランチで昼食を済ませたあと、早稲田の演劇博物館で開かれている「六世尾上梅幸展」を観にいく。
十五代目羽左衛門と夫婦揃って帝国ホテルで開いた銀婚式の招待状、メニューが珍しい。この時、夫婦役者の二人は、襲名時期も一緒だからと「同婚式」と洒落ているのだ。二人の墓は雑司が谷墓地に並んでいる。まるで青山墓地の浜口雄幸と井上準之助。まさに「役者の本懐」というべきか。
それにしても、梅幸が「勘当場」の延寿(羽左の源太、六代目の千鳥)で倒れた時の朝日の号外が凄い。
「梅幸絶望」。
大書された四文字に、昭和九年(1934)11月5日、三田祭の飾りつけ中に先輩の内田得三(のち松竹に入るも、空襲で死亡)から「梅幸が倒れたよ」と聞かされた、当時十八歳の戸板康二の暗然たる思いが、まざまざと重なったからである。
それにしても、図録が無いのが残念。
○山本淳子「源氏物語の時代」(朝日選書)が余り面白かったので、このところ幕末から一気に遡って平安にはまっている。
繁田信一「天皇たちの孤独」(角川選書)保立道久「平安王朝」(岩波新書)と、これまでの「積ん読」本を消化、角田文衛「二条の后藤原高子」(幻戯社)に続き「待賢門院璋子の生涯」(朝日選書)を21日読み終え、現在同じ著者の「平家後抄」(朝日新聞社)に取り掛かっている。
山本氏は、女性らしい繊細さで、一条天皇と中宮定子の皇室史上稀有な「純愛」を掘り下げる。それを見守る清少納言、紫式部、藤原道長といった人々も生き生きとして、学術書というよりも上質の小説のような読後感。サントリー学芸賞もむべなるかな、である。
保立氏は「物語の中世」「義経の登場」で、その堅実な研究に触れ、大いに教えられた。「平安王朝」も、新書にしては「つめこみすぎ」の感もあるが、王権交代通史としてよくまとまっている。
角田文衛氏は、言うまでも無く文献史学と考古学を重層化させた、古代・中世前期研究の泰斗である。
私は中学時代課外活動の歴史研究会で、上野国新田荘(新田氏)を調べていた。おのずと「国史大系」やら「大日本史料」やらを、分からないままに斜め読みするようになっていた。その過程で角田氏の論文集に触れ、たちまち夢中になった。「尊卑分脈」や「小右記」「玉葉」など文献を渉猟し、謎に包まれた平安の人々の人生を、薄皮を剥ぐように、しかし鮮やかに解き明かす。
歌舞伎を含め、「研究」の面白さを教えてくれたのは、角田氏だと思っている。
例えば、「待賢門院璋子の生涯」。
彼女は白河法皇に養われ、孫の鳥羽天皇の中宮になり、崇徳・後白河の二帝を儲けた。ところが、実は彼女は白河法皇の「お手つき」であり、崇徳天皇はその落胤、つまり鳥羽天皇にとっては長男ならぬ「叔父子」であるという風説があり、それが保元の乱の遠因となったのは周知の事実。それを角田氏は、璋子の月事(生理)と、白河法皇の璋子のもとへの行幸(孫の中宮であっても、一応自分の養女なのだから、誰はばかることもない)を日記類から重ね合わせ、崇徳天皇がまさしく白河法皇の落胤と立証して見せる。その手際は見事な「ベッド・デティクティブ」(洒落にもならないが)である。
鳥羽天皇は、璋子が中宮になっても、祖父と逢瀬を重ねるのを、複雑な思いで見ていたことだろう。
「二条の后藤原高子」も、在原業平と高子(のち清和天皇后)の密通、伊勢斎宮との間に出来た落胤が高階氏へ養子に貰われたことを克明に考証する。特に後者が重大なのは、後世一条天皇が三条天皇に譲位した際、皇太子に寵愛する定子の子・敦康親王を立てようとしたが頓挫、道長の娘彰子腹の敦成親王(後一条天皇)が代わりに立ったことと関わりがあることである。
何故か。
定子の父は故・関白道隆(道長の兄)、母は高階氏の出であった。
藤原道長に阿る藤原行成は、敦康親王に固執する一条天皇に、業平と斎宮の故事を引いて、「将来高階の血を引く者を帝位につけては、伊勢の御神に畏れあり」と説得したのである。ここに、「この世をばわが世とぞ思ふ」時代が幕を明ける。
こうした「竹の園生」の行状を見せ付けられると、「天壌無窮」も「万世一系」も、所詮権力者の支配装置としての「神話」に過ぎないことが明らかになる。
「待賢門院璋子の生涯」を読みはじめてまもなくの5月14日、思いがけなくも角田文衛氏の訃に接した。享年九十五。合掌。
○いささか古くなるが、今年のゴールデンウィークはDVD三昧だった(無論「戸板康二漬け」でもあったのですよ、念のため)。
「ツォツィ」「バイオハザードV」「モンスター」「戦場のピアニスト」「隠された記憶」(ジュリエット・ピノシュ)「鍵がない」(つぐみ、大森南朋)「ブラック・ダリア」と、何の脈絡もなかったが、それが却って愉しい。
「ツォツィ」はアパルトヘイト撤廃後十余年のヨハネスブルグの貧困と退廃、そこで悪に手を染めなければ生きていけない少年たちの連鎖が描かれる。そのリーダーである獣のような少年が、ふとしたキッカケで赤ん坊と出逢うことで、人間性を目覚めさせていく。丁度光市母子殺害事件判決の直後であっただけに、なおさら主人公と被告が重なった。「異形の者」は排除してしまえば簡単だろう。しかしそれを生み出したものに眼を向けない限り、事態は全く解決しない。
「モンスター」も、現代版「何が私をかうさせたか」+「星の流れに」(譬えが旧くてスミマセン)。それにしても、シャーリーズ・セロンの汚れ方が凄い。今の日本の女優にこれだけの根性がありますかね。懐かしやブルース・ダーンが出ていたのも嬉しかった。
「戦場のピアニスト」は、ラスト近く主人公のユダヤ人ピアニストがドイツ人将校に演奏を聴かせるのが「阿古屋の琴責」。
こういうジュノサイド(大量虐殺)映画を「ニュールンベルグ裁判」「ソフィーの選択」「シンドラーのリスト」と観ていくと、ナチズムの非人道性(角度は違うが、ロベール・アンリコの「追想」も素晴らしかった)への怒りを禁じえないのと同時に、現在ガザやヨルダン川西岸に、かつてドイツ人がしたのと全く同様に、パレスチナ人の「ゲットー」を作っていることに、ユダヤ人は何の痛痒も感じないのか、といつも思う。
「鍵がない」は、ご贔屓大森南朋の自然体が良い。この人と寺島しのぶの「ヴァイブレータ」も出色のロードムービーだった。こんど、シャーリー・マクレーンの娘・サチ・パーカーと共演する「西の魔女が死んだ」も是非観たい。
「ブラック・ダリア」は、事件は凄惨だが、同じジェイムズ・エルロイ原作の「L.A.コンフィデンシャル」に比べると出来は今一歩。デ・パルマも、「愛のメモリー」(松崎しげるじゃありません)の頃の切れ味が懐かしい。見終わって、ヒロインがヒラリー・スワンクだと初めて気が付いた。
○これまたご贔屓ヘレン・ミレンのTVムービー「ペインテッド・レディ」(1997)をDVDで見る。
何たって前後編200分だから、上手く時間が空かないと取り掛かれないのだ。
「第一容疑者」と同じグレナダテレビだから、アイルランド、イギリス・ロンドンの空気が良く捉えられている。テニスン警視のバリバリのキャリアウーマンぶり、エリザベス女王の優雅、そして今回のヒロイン・マギーの歌手くずれの疲れた色気と、この人は本当に芸域が広い。「泰西名画」が隠し絵的役割を果たしているのが洒落ていて、フランコ・ネロが渋い味を出している。
○評判につられて、さる大作邦画を観た。予想に違わず、否予想以上の出来であった。
(以下、ネタバレになりますので注意)
この映画の最大の功績は、数年前イラクで武装勢力に拉致・解放された日本人に寄せられた凄まじい「自己責任」バッシングを直視していることである。舞台は南米に変えられているが、描かれているのは明らかに「あの事件」であることは、前総理を演じる役者の髪形が「あの人」そっくりなのでもわかる。
「あの事件」で身内を殺された人物が、当時「自己責任」論を声高に叫んでいたキャスターらをある人物と共謀して次々に殺し、大規模テロを企てる。それは全て、身内の潔白を晴らす政府の極秘ファイルを世に出すためだった、という訳である。
この人物の行為が、最後肯定的に描かれることが気にかかる。いくら何でも、殺人・爆発物取締法・銃刀法違反…である。主人公が取り調べ段階で、この人物の行為を批判するのだが、目的と手段の顛倒を、最終的に認めた印象は拭えない。
「政府の極秘ファイル」の内容もショボイ。「ODA利権」とか言うのならともかく、南米で「あの事件」で殺された人物が、退去勧告を知らなかった(現地政府の手落ちで山間部への連絡が遅れたのを、日本政府が秘匿した)というだけなのだ。
しかし、これもおかしい。
それでは、「退去勧告を知らずに退去が遅れた」=「善」で「自己責任」はなく、例えば「退去勧告があっても現地でボランティア活動を続けた」=「悪」で「自己責任」あり、ということになってしまい、結果的に「自己責任」を肯定したことになるからである。
人道のためには、危機も省みず、献身的に活動するボランティア精神を嗤う、日本人の歪んだ心性にこそ、踏み込んでほしかった。
力作かつ上質のエンタティメントであり、着眼点が秀抜であっただけに、望蜀の念を記した。
2008年5月9日(金)
「小泉信三展」を観る
○ 三田の慶應義塾大学旧図書館で開かれている「生誕百二十年記念 小泉信三展」を観た。
小泉信三は、私達慶應出身者からすれば、仰ぎ見る巨峰である。我が家にも全集があり、戦死した愛息を悼んだ「海軍主計大尉小泉信吉」は、何度読んだか知れない。その文才は秋山加代・小泉妙の二人のお嬢さんに引き継がれ、小泉家の周囲を語るエッセイは、我が愛読書の一つである。
昭和51年から、慶應では「小泉信三賞 全国高校生小論文コンテスト」を設け、現在まで続いている。実は、私事なのだが、昭和52年、高校三年の時、私はこの賞の次席の栄に浴した。その時の審査員のひとりが、戸板康二だったのだ。早速御礼の葉書を書いたところ、懇篤な返信を頂いたのを忘れない。当時から歌舞伎が好きだったが、まさか後年劇評を書くとは思ってもいなかった。その後戸板とは遂に会話を交わす機会がなく(正確には劇場の食堂で自己紹介をしたら、丁度ご飯を口に入れたところでモゴモゴ、それっきりになってしまった)、今思えばもっとお付き合いを深めておけばよかった。
さて、「小泉信三展」。
皇太子教育掛としての、ヴァイニング夫人との書簡、吉田茂書簡、田島道治日記など、展示資料が充実している。中でも、御贔屓の店・銀座「はち巻岡田」所蔵の「銀座復興」切り抜き帖などは珍しい。
「銀座復興」の作者水上滝太郎(阿部章蔵)は小泉の義兄弟(富夫人の兄)であり、阿部優蔵氏の父である。久保田万太郎によって劇化され、戦後まもなく六代目菊五郎によって演じられたのはご承知の通り。
ちょうど会場に小泉妙さんがおられた。妙さんには「思い出す顔」をお贈りしているので、戸板康二の思い出で花が咲いた。「先月の仁左衛門の弁慶、良かったですね」と目を輝かす妙さん。小泉家は本当に芝居好きなのだ。「小泉信三若き日の日記」(慶應義塾大学出版会)を是非読んで欲しい。歌舞伎、義太夫から自由劇場まで、小泉が一流の鑑賞眼を持っていることが良く分かる。
久保田万太郎の支援者で、林彦三郎という実業家がいる。いまは更地になってしまったが、日比谷の三信ビルの社長である。この人のことがずっと気になっていたので、思い切って妙さんに伺ってみた。
「良く存じ上げていますよ。だって志ん生の家って林さんの持家だったんです」。
小泉信三は、志ん生を大の贔屓にし、彼が歌う「大津絵」に涙した。
先週か先々週かの週刊文春のグラビアで、小泉・志ん生の横に、何故か若き宮澤喜一が写っていた。その謎がやっと解けた。林は重光葵(戦後、林は万太郎同様、重光に鎌倉材木座のモリソン屋敷を提供した)のあと、宮澤を支援していたのである。つまり、全て「林彦三郎つながり」だった訳だ。
発見の多い一日だった。
○ 3日、歌舞伎座昼夜を観たが、昼「大物浦」の海老蔵初役の知盛が瞠目すべき出来である。そのことは来週の読売夕刊、来月発売の「テアトロ」に書く。
しかし、「渡海屋」はいけない。船頭詞になっていないし、「真綱の銀平がお匿い申したら」で奥の義経に聴かせるハラが無い。
魁春のお柳も、盃事を終えてから「しゃべり」になるのは妙だ。義経主従が「斯様な空合いで出船は如何」と訊くから、ノロケまじりで夫の予報能力を自慢するのだろう。
典侍局になってからの「如何に八大龍王」も正面で言っているが、あれは下手岩場が本当だろう。
海老蔵と言えば、昼「幡随長兵衛」の子分で、一人鞘走ったようにギラギラしているのが浮いていた。
「仁義なき戦い 広島死闘編」の北大路欣也。あれじゃ 早桶に隠れて水野に復讐するのではと、妙な心配をしてしまった。
2008年5月9日(金)
講談社文芸文庫版・「思い出す顔」のこと
この三ヶ月、まさに「戸板康二漬け」の毎日であった。
講談社文芸文庫編集部の長田道子さんから、戸板康二の「回想の戦中戦後」(青蛙房 昭和54年)と「思い出す顔」(講談社 昭和59年)を併せて文庫化したいという相談を電話で受けたのが2月4日(即ち前回のこの「余滴」の翌日である)。
後日お会いした際、「両著全てを収録できず、抄録のかたちになる」と言うので、私は「やはり別々に文庫化した方が…」と主張したが、長田さんと話すうち考えが変わった。
長田さんは「團十郎切腹事件」(講談社文庫 昭和56年)の後書きにも戸板自身、「文庫作りで長いつきあい」と書いているように、戸板の著作を知悉し、作者に深い敬意を持っておられること。
両著とも、刊行から二十余年、既に木挽堂や豊田でも簡単に入手できない「稀覯本」の域にあり、それを再構成して文庫として広く「再生」させる方が、むしろ時宜にかなっているのではないかと思ったのである。
さて、題はどうしよう。
「戸板康二の回想」?「戸板康二回顧録」?と話すうちに誰とはなしに「メモワール」という言葉が出てうまくまとまった。
収録する章の選択、解説・年譜・書誌を私が担当することになったが、作業してみて大いに迷った。そのことは解説をお読み頂きたい。ただ、前著の「わが交友記」、後著の「同学の先人後人」を省いたのは、前者が いずれ今後「わが交遊記」「句会で会った人」など人物誌ものが文庫化されることも想定され、「思い出す顔」ともだぶる懼れもあること、後者は、なるべく三田、三田という色合いを避けて、戸板の広範な人脈を強調したかったからである。
「思い出す顔」の「はじめに」を前 にもってきたのは冒険だったが、結果的に程よいプロローグになったと思っている。
年譜・書誌については、「『ちょっといい話』で綴る戸板康二伝」(平成7)巻末年譜を補訂した。
これを編んだときは文字通りゼロからの出発で、戸板のエッセイを手掛かりに、近代文学館や演博に通っては、ノートを埋めていく作業だったが、その後、藤田加奈子さんのHP「戸板康二ダイジェスト」という情熱的かつ素晴らしい仕事が生れた。大いに参照させて頂いた。改めて御礼を申し上げたい。
また、「季刊ブッキッシュ 特集戸板康二への招待」での、児玉竜一氏の原型「車引殺人事件」の指摘など、新たな発見も反映させて頂いた。
この過程で、昨年来の幕末史関連の書籍の渉猟を中断、改めて戸板の諸著作を耽読した。戸板の文章には、ある程度通読し、飽いたようでいても、再び手に取ると、小説からエッセイまで読み直さねばいられない、不思議な魅力があるように思えてならない。
解説に掲載された写真はいずれも長田さんの選だが、たとえば竹馬の友・梅幸と戸板の写真。
ゲラでは気がつかなかったが、画面右の三宝に載っているのは「鏡獅子」の弥生の手にする獅子頭である。実際、この月梅幸は 明治座で「鏡獅子」を踊っている。
口絵に「街の背番号」の函の写真を載せたのも長田さんで、戸板の守備範囲の広さが良く出たと思っている。
いずれにせよ、今回の「思い出す顔」は、年譜・書誌ともども、不完全ながら「戸板康二自伝」が俯瞰できる構成を心がけたつもりである。
そこから、これまでとかく「歌舞伎」か「ミステリ」かと二者択一にしか捉えられないという「くびき」(実はこれこそ、戸板康二最大の「不幸」だと秘かに思っているのだが)から、「文人・戸板康二」 を解放する鍵を読者が見出して下されば 幸いである。
2013年は戸板没後20年、2015年は生誕100年の節目にあたる。
久保田万太郎と、折口信夫という「三田文学」の二大山脈の法灯を受け継ぐひととして、戸板はもっと正当に評価されて良い。創立150年を迎える慶應義塾など、その担い手にもっとも相応しいのではないかと思う。
慶應からは、昨年「西脇順三郎コレクション」全6巻が出た。
「戸板康二全集」の実現は無論だが、せめて、「選集」の一つでもと思う読者は私だけではあるまい。
2008年2月3日(日)
戊子初春日記抄・続
1月18日(金)
久保田万太郎作品を地道に上演し続けている、「みつわ会」の第11回公演の案内が届く。
文学座・円・新派といった、久保田ゆかりの劇団の有志たちだ。今年は「暮れがた」と「蛍」。公演は三月だが、今から楽しみ。
吉村昭「桜田門外ノ変」(新潮社)を読み始める。
会社が5時出社の早出だったので、13時退社、神保町散策、豊田など覗く。
思い立って、15時半谷中墓地探墓。
以前、市川新蔵の墓が谷中天王寺にあると聞いて探し歩いたが、時間がなく見つからなかった。九代目團十郎が後継に擬したが、早世した名優で、気になる人である。
佐藤一斎、七代目・八代目市川團蔵の墓、阪谷朗廬碑などを廻る。
徳川慶喜公墓所に合掌。土饅頭式の、ささやかな墓である。
明治になり、謹慎が解けたのち慶喜は京都の孝明天皇陵を訪れた。供の者を下がらせた後、慶喜は暫し陵に一人ぬかずき、「これからは私の墓は神式にする」と語ったという。寛永寺や増上寺の徳川代々の墓域に埋葬されなかったのにも、それなりの覚悟があったようだ。
すぐ近くに大原重徳の墓があったのには苦笑した。安政の大獄で蟄居していた慶喜を将軍後見職に復権させたのが、島津久光の武力に守られて江戸に下った勅使大原だったからである。久光はこの江戸行きの前に「寺田屋事件」を、帰路「生麦事件」を起こす。
島津・大原によって復権を果たした慶喜だったが、それが幸であったか不幸であったか。島津によって「公武合体」のシンボルに祭り上げられながら、結局朝敵の汚名を着るのであるから、皮肉なものである。
ついで、渋澤栄一一族の墓域。
広大さに驚く。ぐるぐる廻って、石垣の間から入ると、丁度渋澤の女婿穂積陳重・阪谷芳郎家の墓であった。芳郎の孫芳直さんには生前大変お世話になっていたので、手を合わせる。出口を探していたら、外から鍵がかかっていた。要するに私は「不法侵入者」だった訳だ。歩いて「笹の雪」前を経て鶯谷。
夜、渋澤の玄孫阪谷綾子さんに電話、「不法侵入」につき寛恕を乞う。お恥ずかしい限り。
1月19日(土)
数日前、偶然牧野義雄という洋画家の画集や回想録が多数出版される予定であることを知った。しかも、版元は拙著や歌舞伎学会紀要でお世話になっている「雄山閣」である。
私と牧野義雄とは浅からぬ縁がある。
牧野は明治2年(1869)愛知・挙母(現豊田市)生れ。アメリカ、フランスを経て明治30年(1897)イギリスに渡り、野口米次郎らと一時同居していた。留学時期も漱石と重なる。
繊細な水彩画で「霧のロンドン」(この言葉も牧野の発案という説あり)を描き、たちまちロンドン社交界の寵児となった。
第一次大戦後、官補として赴任した重光葵と終生の友情を結び、第二次大戦中重光が吉田茂のあとを引き継いで駐英大使に赴任した時も、官邸で起居を共にした。
昭和17年(1942)帰国、重光一家と疎開先の日光、鎌倉とずっと行動を共にする。
昭和21年(1946)4月、重光がA級戦犯として逮捕された時見送ったのも牧野だった。
昭和31年(1956)死去。破天荒な人生で、重光をだいぶ困らせたらしいが、友情は変わることはなかった。
私が22年前「重光葵資料」を世に出すお手伝いをした時、重光の手記に「牧野平治」という名前が盛んに出てくる。長男の重光篤さんに尋ねると、「面白い絵描きさんでしたよ」とのこと。平治とは義雄の幼名だったらしい。
その牧野が、今再評価されている。しかも、郷里の豊田市美術館では回顧展も開かれているという。何とも嬉しいニュースであった。
と思いつつ、昨日神保町を歩いていたら、岩波書店で新刊「重光葵外交意見書集第二巻」(現代史料出版)を発見。
重光が、大戦下の国際情勢を宮中はじめ要路に書き送っていたものである。重光家の資料は殆ど憲政記念館に寄託された筈だが、バックの中にまだごっそり残っていたらしい。それにしても重光は筆まめだ。
興奮したのは、大戦中南京政府大使時代の意見書があったこと。
この頃のことは殆ど記録に残っておらず、これまで謎だった。重光は南京に赴任して虐殺の実相に愕然とし、対支宥和の「新政策」邁進に努力したと「手記」にはある。「外交意見書」がその政策を詳細に論述したものになっている。
この日、不躾を承知で編者の大東文化大准教授・武田知己氏にメールしたところ、懇篤な返信があった。
小生の「重光資料」の一文(2004年8月15日付「余滴」)を既に読んで頂いていたとのこと。文字通り知己を得た思いであった。
今春出版予定の共著の初校届く。一部校正始める。
18時半、慶應義塾歌舞伎研究会の先輩後輩有志で新年会。
1月23日(水)
インターネット不調につき、プロバイダに電話、何とか修復。雪、都心で昼過ぎまで降り続くも余り積もらず。
校正続き。「桜田門外ノ変」丁度襲撃決行の件也。当時は泰平の世ゆえ、双方刀の斬り合いを知らず接近戦・同士討ちになり、現場には切り落とされた指・耳・鼻が散乱していたという描写が凄い。吉村氏の筆致が終始淡々と事実を積み重ねていくだけに、却って凄みがある。
1月25日(金)
吉村昭「桜田門外ノ変」読了、吉村昭「生麦事件」を読みはじめる。
早出なので12時半退社。13時半丸の内ピカデリー1「スウイーニー・トッド」。
その昔当時染五郎・鳳蘭の舞台を観ているが、市村正親・大竹しのぶ版は見逃した。
(染五郎の時は「染五郎最後のミュージカル」と謳っていた。当たり前だよな、そのあと幸四郎を襲名するんだから)
ソンドハイムの歌は、日本語で歌うと字余り字足らずで聞き苦しいが、英語だと韻を踏んで美しい。
ジョニー・デップがこんなに歌えるとは知らなかった。懐かしやアラン・リックマン(「ダイ・ハード」のハンス!)との「プリティ・ウーマン」も素晴らしかった。
1月26日(土)
代官山猿楽町で開かれている母と友人の個展を家内と観たあと、17時半国立小劇場「初代扇崎秀薗十三回忌追善の会」。
楽屋にて扇崎蝶女さんに挨拶。蝶女さんは初代の長女で、我々一家とは子供の幼稚園の父母仲間。18時蝶女「雪」(唄・三弦 富山清琴 胡弓 川瀬白秋)を観る。
1月27日(日)
橋下徹氏、大阪府知事当選。世も末。
光市弁護団への懲戒煽動の浅薄さもそうだが、この人物が「能狂言など古典芸能を観る人間なんて変質者」と「サンデージャポン」で言い放ったことを私は一生忘れないだろう。隣の井筒某監督も「変質者か、そりゃ良かったな」とヘラヘラ笑ってたっけ。
白鵬、朝青龍を下し優勝。22時就寝。
1月30日(水)
13時丸の内ピカデリー2「母べえ」。
これは山田洋次の「愛情はふる星のごとく」(尾崎秀実の獄中から妻子に宛てた書簡集、と説明しないと最近はもはや分からないかも知れない)である。
山田洋次といえば「寅さん」と思っていたら大間違い。「家族」「故郷」から「たそがれ清兵衛」「武士の一分」まで、社会の不条理を常に見つめてきた。
「母べえ」は静かな怒りの映画である。それが見終わったあと、じわじわと効いてくる。
山本薩夫調のプロパガンダ臭がなく、直截な怒りだけにそれが痛烈だ。
吉永小百合も、これまで代表作といえば「キューポラのある街」しか浮かんでこず、「何をやっても吉永小百合」だったのだが、佳代役は毅然とした中に暖かみがあり、彼女の新たな代表作となるであろう。
三津五郎の滋も、祖父八代目が若き日に演じたロイド眼鏡を掛けた書生の役(役名不明)の面影を彷彿とさせた。最後の詩が泣かせる。
宮城遙拝、天長節・紀元節の真影掲示などのディテールも面白い。
滋の弟子の山ちゃん(浅野忠信)がドイツ語で歌っていたら警官に「オイコラ」と引き止められ、「極度の近眼と片耳の難聴で兵役を免れました。しかし、一朝事あれば護国の鬼となり尽忠報国の覚悟は出来ております!」と大見得を切り、警官が去ると「良く言うよ」と自嘲する場面がある。
ここで私は、中江丑吉(兆民の子)の言葉を思い出した。
朝礼では軍人勅諭、経済原論は「皇国経済学」を講義しろと興亜院から言われ、悩んだ若き弟子が中江に相談すると、
「だから日本のインテリみたいなのは沈痛悲壮になってくるんだ。マッセは二つか三つどうしても守ることを決めておいて、あとは出来るだけ普通にやるんだ。そうしないと弱くなる」と中江は言った。
その「二つか三つ」というのは、その時の例では、戦地で捕虜を殺せと命じられたらことわれ、東亜新秩序のビラを城壁に貼れといわれたらことわれ、皇国経済学の講義などは絶対にやるな、個人的に自由な話をすることははばかるな、等であった。そして朝礼ではキチンと題目も唱え国民服も着て、たいていのことはこっちから従ってしまえというのである。「二つか三つのこと」はだから人の内面と外面の自由の程度によって、その数がふえたり減ったりする。それは人によってそれぞれに決まる抵抗の一般的な形だ、というのだ(加藤惟孝著・阪谷芳直編「北京の中江丑吉 ある個性の記録」勁草書房1984)。
日米開戦の日、代用教員の佳代が教室で生徒に「授業は中止します。皆さん家にお帰りなさい」とだけ言う。ここで反戦演説でもしようものなら、山本薩夫になってしまう(「戦争と人間」を今見直してみると、山本圭の標耕平と吉永小百合の伍代家令嬢順子のロマンスにシラッとさせられる。反戦の闘士、ブルジョワ令嬢というのが如何にも教条的で図式的だからだ)。
それにしても、これだけ右傾化した今の日本に、この「健気に生きる非国民」映画がどれだけ受け入れられるか。不安でもある。成功を切に祈りたい。
ところで、山ちゃんが足が痺れるところは「文七元結」、おじさん(笑福亭鶴瓶)と久子(檀れい)が顔を合わせるのが「魚宗」の「おなぎさん」、佳代の父(中村梅之助)が「もったいない」と机に落ちた生卵をすするのも「魚宗」というのは考え過ぎか?
「つなぎ法案」一転撤回、談合の極み。大政翼賛会前夜。23時就寝。
1月31日(木)
吉村昭「生麦事件」読了。
生麦の惨劇から一気に入るが、前史ともいうべき精忠組と寺田屋事件の悲劇が描かれていないのが残念。
それと、リチャードソンを斬った奈良原喜左衛門、止めを刺した海江田信義のその後も描いて欲しかった。
何と二人は明治維新後華族になるのだ。
海江田は末弟有村次左衛門が桜田門で井伊の首級を取り、次弟雄助もそれに連座して国元で切腹という輝かしい志士の経歴。
その癖この生麦事件や、後年の大村益次郎暗殺の黒幕とも言われている、「幕末トラブルメーカー」である。ちなみに、娘婿が日本海海戦の東郷平八郎元帥。
吉村は、生麦事件に端を発した薩英戦争、長州への四カ国連合艦隊襲来によって、雄藩が攘夷から開国・倒幕へ大きく舵を切っていくさまを淡々と叙述し、その史眼に揺るぎはない。
それにしても、寺田屋事件の末路を描いた山本有三「同志の人々」も、最近ほとんどかからなくなった。「暗い新歌舞伎」は敬遠されるのか。真山青果の「償金四十萬弗」なんてのもあるが…。
アマゾンで頼んでおいた針生一郎他編「戦争と美術 1937〜1945」(国書刊行会)届く。
肝心の藤田嗣治の戦争画が収められていないのが残念。国立近代美術館での藤田回顧展の図録があるから良いが。
深夜NHKBS2の久保田万太郎「大寺学校」録画予約。何たって大矢市次郎、三津田健である。
2008年1月17日(木)
戊子初春日記抄
1月2日(水)
引き続き「徳川慶喜公伝4」を読む。11時新橋演舞場「雷神不動北山桜」初日。これが初芝居。客席に篠山紀信、横尾忠則らの姿が見えるのも海老蔵の芝居らしい。14時55分終演。15時40分帰宅、読売新聞のために劇評を書く。
紙幅の関係でそれには書けなかったが、「猿之助歌舞伎」的スピーディさに熱心な余り、肝心の十八番に省略が多いのには困る。一番感心したのは「毛抜」だったが、これも、例えば粂寺弾正が万兵衛に渡す閻魔大王への手紙を初めから懐中しているのはどういうわけか。万兵衛の強請を下手で聞いていて、おもむろに前へ出て、スラスラ書いて渡すのが面白いのだ。これでは弾正が万兵衛が来るのを事前に予見していたことになる。
19時教育テレビ歌舞伎座中継を観る。大阪へ行って「沼津」が観たい。
1月3日(木)
12時国立「小町村芝居正月」初日。16時25分終演、17時20分帰宅、読売用劇評を書き、送稿。
孔雀三郎(松緑)の黒地に孔雀模様の暫の悪趣味さは我慢するとして、小女郎狐(菊之助)のタテに、野澤松也が出て「化かされ」の手を弾いていたのには唖然とした。寛政江戸歌舞伎に太棹はないだろう。昔はこうした故実にうるさい人がいたものだが…
暫の太刀下の並びも、上手から時蔵の小町、松也の惟仁親王、梅枝の香取姫、権十郎の良房、彦三郎の良実というのがおかしい。惟仁は後の清和天皇、やはりこの人が一番上座だろう。居処の問題だろう。公家の藤原良房が裃姿というのも奇妙。歌舞伎の約束事とは、荒唐無稽・いい加減なものではない。
1月4日(金)
14時上野東博平成館「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝展」。陽明文庫所蔵品。近衛家熙の筆勢美事なり。浅草寺参詣。大変な人出。仲見世「助六」にて今年の干支に因んだ歌舞伎板絵を買う。これも十数年の習慣。今年の絵柄は雪姫と予想したら床下の仁木であった。
1月5日(土)
「徳川慶喜公伝」本文編全四巻(東洋文庫)この日をもって読了。城山三郎「冬の派閥」(尾張義勝伝)を読み始める。
尾張義勝というと、第一次征長総督の時はパッとせず、その後もうじうじ京都に出てこなかったり、私としては印象の薄い殿様だが、城山三郎にかかると、抜け目がなく逃げ足の速い従弟慶喜に常に翻弄され、尻ぬぐいをさせられる苦労人になっている。城山の買いかぶりすぎと思うが、これはこれで面白い。
尾張は王政復古のどさくさに、朝命により佐幕派粛清が命じられ、血で血を洗う事態となった。これも、岩倉具視がまず御三家尾張を官軍に引寄せ、譜代親藩をなびかせようとしたためだと言われる。勤王派の「金鉄党」は、殿の意向で北海道開拓に向うが、痩せた土地に悪戦苦闘することになる。
一つ気になったのは、「尾張がこれまで家斉の子供の押しつけ養子ばかりで、今度も家斉の子の田安慶頼をという話になったので、「金鉄党」が憤激、支藩美濃高須の慶勝を藩主に迎えた」「最後は友人の松平春嶽の息子義親が尾張を継いで、めでたしめでたし」という内容になっていること。田安慶頼は、家斉の子ではなく、家斉の弟田安斉匡の子。慶頼の子が、十六代家達である。さらに言えば、越前に養子に行った春嶽は田安の出で、慶頼の兄弟。結局、尾張は田安の血で納まったというのが真相。
ちなみに慶勝晩年の子義恕が分家して男爵になり、その息子が昭和天皇に仕えた徳川義寛侍従長である。9日読了。
1月6日(日)
18時半、慶應の先輩と隣町の下丸子大田区民プラザ。第60回新春プラザ寄席・談志一門会。らく次「雛鍔」談修「ちりとてちん」談笑「粗忽長屋」ゲスト野末陳平政治漫談、仲入り後談志「権助提灯」。20時30分終演、駅前近くの店で飲む。
1月8日(火)
浅草歌舞伎。「演劇界」の依頼で劇評を書く。
1月10日(木)
草思社、会社再生法申請。現在刊行中の鳥居民氏の畢生の大著「昭和二十年」は大丈夫だろうか。これこそ現代の「ローマ帝国衰亡史」。何とか無事に完結して欲しい。
山川菊栄「覚書幕末の水戸藩」(岩波文庫)を読み始める。山川菊栄は言うまでもなく、山川イズムの山川均夫人だが、曾祖父・祖父とも水戸で「大日本史」編纂に携わり、水戸烈公、藤田東湖らとも親交があった。水戸はこれまた天狗党と処生党の粛清合戦。多くの有為な人材を失った。その過程を、女性らしい繊細さと、歴史家の血がなせる業か、興趣深く描いている。
1月11日(金)
歌舞伎座を昼夜通しで観る。観るべきものは「一條大蔵」「助六」のみ。「女五右衛門」など、久吉を幹部が日替わりに付き合うなど「お楽しみ」があっても良いのに。「鶴寿千歳」は、富十郎と芝翫の尉と姥が、太閤と老後の政岡の如し。もっと脱俗すべきだろう。
昼食は無論「ナイル」。まもなく、2月末まで社員帰省でいつもの休業である。20時35分終演。
1月12日(土)
朝刊で服部幸雄氏の訃報に接す。享年七十五。
中学・高校時代、私に歌舞伎研究を志させた三冊の本がある。渡辺保「女形の運命」、今尾哲也「変身の思想」、そして服部幸雄「歌舞伎の構造」。
私にとって、氏が勤めていた「国立劇場芸能調査室」は憧れの地であった。後年、歌舞伎学会で親しく声を掛けて頂いたのが有り難かった。松井敏明氏に続き、「戦後歌舞伎」すら歴史になりつつあるのか。テアトロ劇評仕上げ。
14時、早稲田大学6号館3階演劇博物館レクチャールームで「役者絵の周辺」を聴く。最初の発表は「柳桜亭 江戸廼花也の正体 〜大名の狂歌遊び」津田真弓(日本女子大非常勤講師)。文化文政の狂歌摺物や、国貞の役者絵の賛に名を連ねた狂歌師「江戸廼花也」の正体を探ったら、何と長州藩主毛利斉元(幕末活躍した敬親の父)だったというもの。しかもその手掛かりが山東京伝の弟京山の手紙だったりして、なかなかスリリングな発表だった。、続いて小池章太郎氏による「役者絵にみる『仮名手本忠臣蔵』の変容」。「考証江戸歌舞伎」の著者らしい、委曲を尽くした内容だった。
1月17日(木)
文化勲章受章者で、アメリカ政治外交史選考の斎藤眞氏死去、享年八十六。
この方の先考勇氏は英米文学の泰斗であられ、遠縁に高木八尺氏がおられるなど、典型的なリベラリストであったが、20余年前、悲惨な事件で命を落とされた。葬儀ミサが信濃町の教会で営まれ、新米記者の私も取材したが、その時流れていたテープが森有正の弾くバッハのオルガン曲「人よ汝の大いなる罪を嘆け」であったことを鮮烈に思い出す。私は今でもこの曲をi−Podで聴いている。
吉田文吾死去。昨年の十九大夫の洒落にならない「封印切」事件に続いての衝撃である。玉幸も既に逝っている。残された後進たちの奮起に期待するほかあるまい。
この日、ようやく山川菊栄「覚書 幕末の水戸藩」読了。
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