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Novels>Short Stories>L.S.D #B
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*この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。また作中人物は皆十八歳以上です。 *この作品は姉妹の居ないシングルヲタの脳内妄想を描いた物です。作中の不道徳な発言及び倫理的に咎められる行為は、ぶっちゃけ有り得ません。 *この作品により読者が自己環境とのギャップに激しく萎えたり、現実に道を踏み外した行動に奔っても、作者は一切の責任を負いかねますサーセン(笑) どうしても寝付けない夜、というのが偶に有る。 全身が疲れ果て、頭の芯もぼうっとしているのに、何故か意識だけは頑固に立ち上がり続ける。そして自制が緩んだ思考の奥底から、普段思い出さない嫌な記憶ばかりがぞろぞろと、生ける死者のように起き上がってくる。 どうにか眠りの世界へ脚を踏み入れても、今度は悪夢の内で陰鬱な過去の情景ばかりを見せられて、すぐに目が覚めてしまう。 今夜がまさにそんな夜だった。時計の針だけが偏執狂のような正確さとしつこさで、時と俺の気持ちに刻み目を付けてゆく。おそらくこのままずっと、東の空が明るくなってしまうだろう。 顎のすぐ下では、美羽が静かに寝息を立てている。いつになく激しく求められ共に燃え尽きた後、腕の中でそのまま寝入ってしまったのだ。その時下敷きにされた俺の右腕は未だそのまま、妹の背中を抱き寄せている。 ずっと昔、互いに未だ無垢な子供だった頃にも、俺達兄妹は狭い一室の片隅でこうやって身を寄せ合い、抱き合って眠っていた。せめて一時の微睡みの間だけは辛い日常、目を背けたい現実を閉め出したくて。 それは時に、見知らぬ男相手に母が上げる嬌声だったり、酔った父が振るう暴力だったりした。 俺達の子供時代はそんな、いつ終わるとも知れぬ悪夢の繰り返しだった。世界のあらゆる物が、そのどす黒い影に縁取られていた。そして、そんな血反吐を吐くような日々から死に物狂いで這い出してきた俺達に残されていたのは・・・ 互いの二つ身だけだった。 外の世界は眩しいぐらい色々なものに満ち溢れていたけれど、そこからずっと隔離されてきた俺達にとっては、もはや自分達に全く無関係な、見知らぬ遠い外国での出来事のようにしか感じなかった。 俺達の世界は冷たく、灰色で、乾いていて、直に触れられる己等の血肉以外、空っぽなままだった。だから俺達は二人きりで互いを求め合い、時に傷付けあい、そして貪りあう事によってしか、虚ろな世界の内を満たす事しか出来なかった。 だが今となっては、それが俺達にとって決して誤った道では無かった事を、それがある種の必然だった事を、はっきり実感している。 何も知らない他人からは、歪み穢れた関係にしか見えないかもしれない。だが、今の俺達は間違いなく満たされ、潤っているのだから。 俺に身を委ねた美羽の美しい横顔。世界でもっとも美しいと俺は思う。右目の上下に走る傷痕は夜闇に紛れて、今は俺の記憶の中だけの存在だ。しかし、太陽の下でも俺は美羽を美しいと思う、誰より愛おしいと思う。 美羽がいるから、俺は生きていられる。今までも生きてこられた。美羽によって俺は、血肉に埋もれた古傷の絶え間ない疼きと乾きを癒され、今まで息を繋いできた。 だがそれでも、とっくの昔にケリがついた物語なのに、美羽の身体ばかりか心にまで癒えない傷を負わせたあの二人、そして今も尚、俺達の精神を蝕み続けているあの二人へ憎悪が止まない夜は有る。 忘れ去る事が無理でも極力思い出さぬようにしよう、記憶の最下層に押し込み色褪せさせてしまおうとしても、まるで百鬼夜行の魑魅魍魎どものように、ぞろぞろと湧き出てくる最悪の夜が・・・ 俺達の両親は子供心にも、あからさまにちぐはぐな夫婦だった。 俺が物心ついた時には既に、互いから目を背け、自分自身の事しか見向きしない家庭内離婚状態だったのだ。 未だ世の森羅万象も知らぬ幼子だった当時の俺には、それが具体的にどう冷めた関係だったとか、他家の両親や家族とどう違ったとか、そんな事までは知りようも無い。だが両親に対する俺の最古の印象は、父は母の事など見ていない、母も父など眼中に無い、それなのに何食わぬ顔で共同生活を送っているという、絶対的な違和感だった。 その原初の違和感は事実何ら間違っていなかった。父は母を愛しておらず、自分の愛情を家外の別の女性にひた向け、妻や子供が待つ自宅へと帰ってくる日もまばらだった。そして母も、不倫を隠そうとしない父に対し、同等の行為に奔った。すなわち夫やその子供達に対する愛を放棄し、その場その場で自分が求める男達への短絡的な愛にすり替えるという行為に。 俺達兄妹はいわゆる育児放棄、まるで動物のように買ってきた餌を投げ与えられるだけで、それ以外に人間らしい事は何一つして貰えなかった。幼稚園に通う事も親戚に会う事も、家外の人や世界に触れる機会は、小学校に入る以前はほとんど無かった。 夫が帰ってくるはずも無い夜、母は自宅へはばかりもせず男を招いては、俺達を奥の部屋に押し込めて艶事に埋没した。 俺達兄妹は最初、大人達が何をしているのか全く理解出来なかった。部屋を抜け出し嬌声の漏れる寝室を覗いたりして、時には見つかり、こっぴどくぶたれたりした。だが同じ行為が繰り返されるうちに、その意味を教えられずとも知るようになり、やがて邪魔しないで放っておく事にした。 母が俺達を放棄したのと同様、既に俺達も彼女を母だと実感しなくなっていた。 それでも時折乾いた目でその行為を覗き見ながら、自分も将来どこかの女と同じ事をするのだろうか・・・ なんて幾度と無く考えていた記憶が有る。その対象として想定出来るのは、俺が当時母以外に知っていた唯一の女、すなわち美羽に他ならなかったが。 それが今や兄妹である俺達自身が、軽蔑する母と同じ行為に耽っている。 最初は当然、少なからず罪悪感や違和感が有った。だが俺達の結びつきは母とは違うのだと、否定する為になお一層激しく求め合い続けた。何故なら俺達にはもはや、それしかすがる物が無い事を、それを掌から落としてしまったら、砕け散り二度と取り戻せないと、心の何処かではっきりと分かっていたから。 それは苛烈な麻薬の依存症と、非常に似通っていたのかもしれない。 一時期は冷たい世を恨みグレて、二人で相当悪どい事もした。命からがら相当ヤバい状況をかい潜ってきた事もある。でも何時だって常に俺達は二人だった。 そして今はこうやって、目の前の美羽をただ無心に愛する事が出来る。今まで、他では決して感じる事の無かった温もりと安らぎに満たされて。 眠り続ける美羽を起こさぬよう、そっと彼女の頭を引き寄せる。まだしっとり湿った髪から立ち上る甘いリンスの香り。過去の悪夢など振り払い、このまま穏やかな忘却の褥へと沈んでいけそうな気がしてきた。 「・・・ん」 ふと、美羽が背中を揺り動かす。 起こしてしまったのだろうか。俺は抱きかかえた腕を動かさぬまま、身体を硬くする。 「レッツ背徳、であるよ・・・」 もごもごと呟くが、寝言だったようだ。美羽は再び規則正しい寝息と共に、動かなくなる。 ほっと安心してから、今度こそ起こさぬよう、そっと髪に口吻ける。 ・・・そう、俺はいつだって一緒だ。この風変わりな妹と一緒に、これまでもこれからも。 どんより重い灰白色に濁った晩秋の空。吹きさらしの回廊を抜ける風は、鬱になるほど冷たい。まばらに立ち並ぶ落葉樹もとっくに丸裸に剥かれ、見る影もない姿を晒している。おそらくあと数日で、このキャンパスは所構わず白い雪に覆い尽くされ、ますます憂鬱な空間となる。 だがそんな酷寒の真っ直中に立って震えながら、俺は眠たかった。敢えて言うならマジパネェぐらい眠かった。 何しろ昨晩はほとんど寝付けぬまま、朝になってしまったのだ。 俺が布団から抜け出しても全然気付かず、すやすや眠り続ける美羽に恨めしさを感じながら、朝一コマ目から延々と大学の講義。講義の最中も何度か堪えきれずうとうとしてしまい、ノートにミミズを描いてしまった。 だが今日の講義は全て終わった。金も無ければ彼女も居ない、わびしい苦学生であるところの俺は、もはや自宅に直帰するのみだ。愛しい布団と愛しい(苦笑)妹が待つ我が家へと。 ・・・いや、帰りを待つ人が居るのはとても良い事だ。例え毎日皮肉や悪態が絶えないツンデレ実妹だとしてもだ。これからの季節、帰り着いた家が暖かいというだけでも、とてもありがたい。 俺は人通りの多い廊下の中央から壁際に寄ると、上着ポケットの奥から携帯を取り出した。帰り道にあるスーパーで何を買って帰るか、美羽と相談する為だ。 美羽はあのような状態だから、外を出歩く事をあまり好まない。人が多い時間帯や場所ならば尚更だ。だから日常、料理や掃除は家に居る美羽の仕事、買い物や外の仕事は俺の分担となっている。なので俺も、素材の目利きに関してはちょっと自信が有ったりする。 まさに発信しようとしたその時、 「おーい、庵野君」 聞き覚えが有る女性の声に、俺は手を止めて振り返った。 「やあ、児玉」 彼女の名前は児玉珠紀。俺と同じ人文学部の一期生であり、小学生の時の知り合いでもある。 後ろから小走りに追ってきた児玉は、唇の間から薄白い吐息をせわしなく吐き続けながら、俺の隣に並んだ。 俺達が未だ家族四人で別の街に住んでいた頃、すぐ近くに銭湯を経営していた児玉の家が有った。そのおかげで同じクラスの彼女と美羽と三人で一緒に遊んだり、時偶銭湯に入れて貰ったりしていたのだ。 だが母が出奔して間もなく俺達は別の街へ引っ越し、それきり連絡が途絶えたまま、俺も彼女を思い返すような事は無かった。それがつい昨日、大学の中でばったり遭遇したのだ。 懐かしい再会、と呼ぶには時間が経ち過ぎていて、それらしき実感も沸かない。それに大変失礼な話だが、目の前に立たれフルネームで名乗られても、思い出すまで数秒を要してしまった。 だが児玉の方は俺をよく覚えていたようで、春の合格者一覧に俺の名前を見つけて以来、それらしき相手をずっと探していたのだという。 昨日は立ち話がそこまで進んだ所で美羽から「調子がすぐれない」と電話が入り、俺は事情を話して速攻帰ったのだった。 「この後、講義あるの?」 「いや、今日は全部終わった。帰ろうとしていたところだよ」 「そっか、じゃあ」 そこで一度区切って、児玉は気恥ずかしそうに俺から目を反らした。 「時間有るんなら、学食で暖かい物でも飲んで行こうよ」 「うーん、そうだなあ」 久々の再会となれば積もる話というか、今までの事を色々聞かれるだろう事は想像に難くない。 だが母が出奔し、新たな街に引っ越してからの俺達の生活は、過酷な暗黒時代としか言い様が無い。とてもじゃないが、馬鹿正直に語れる物では無い。むしろ隠したい過去というやつだ。 余計な詮索を受けるくらいなら、誘いを丁重に断ってトンズラした方が良いかもしれない。 しかし、今は平穏無事な日々を送っているとはいえ、住処を転々としてきた俺達兄妹は未だ天涯孤独も同然の身だ。付き合いの長い知人も、親類縁者すら近くに居ない。俺はまだしも美羽は傷のせいもあって、すっかり社会から孤立してしまっている。 なので往事を偲び、自ら近寄ってきてくれる希有な存在は、感謝歓迎すべきとも思える。 「ごめん、ちょっと外せない用事があるんだ」 →「良いね、ちょっと一服していこうか」 「なんだ女、俺に気があんのかぁ?」 結局俺が無難な返答を選ぶと、児玉ははっきりと嬉しそうに頷いて、俺を促すよう早足で学食へと歩き出した。 「そう言えば美羽ちゃん、具合は大丈夫だったの?」 熱いけれど薄いブラックコーヒーが入った紙コップを両手に抱えながら、児玉がまず訊いてきたのはそれだった。 「ああ、ちょっと風邪っぽかったけれど、大した事無かったよ」 昨日、気分が優れないと美羽が言ったのは嘘でも何でも無かった。昨晩も鼻声で気怠そうにぽうっとしていた。今朝出てくる時に、暖かくして寝ているよう置き手紙はしておいたものの、素直に言う事を聞いているかは定かではない。 ・・・まあ普段から家に引きこもり、ゴロ寝ばかりの暮らしをしているわけだが。 「美羽ちゃんにもずっと、会ってないんだよなあ」 幼い頃の美羽を思い出しているのか、児玉はちょっと遠い目になる。 「もう大分変わっているよね、会いたいなあ。小さい頃からとても可愛い子だったから、今は美人になっているのかなあ」 そりゃあ、年齢が一桁台の当時とは大きく変貌しています。そして外貌以上に内面がとてもエキセントリックな方向性に。 だが児玉が幾ら望もうが、美羽は会いたがらないだろう。美羽はいつだって他人の目をはばかる。それは右目の事が有るからやむを得ない。誰だって同じ立場になればそうなるはずだ。 そして、傷を負う以前の姿を知る相手と会う事は、全く知らぬ赤の他人に眺められるより尚一層辛いかもしれない。 外を遊び回りたい、人一倍お洒落を楽しみたい、そんな花の年頃な娘に対し、これ以上酷たらしい仕打ちが有るだろうか。実子にそれ程の大罪を犯したあの男、俺達の父親に対する限りなく殺意に近い激情が、心の奥底から間欠泉のように湧き上がる。 そしてその時その場に居ながら、止める事が出来なかった己自身に対する怒りと憎悪。どうせ殺るつもりだったのならば何故もう三分・・・ いや一分早くやってしまわなかったのだ、俺は。 人差し指と中指の上に灼熱がほとばしり、反射的に左手を退けてから、俺は自分が紙コップを握り潰していた事に気付いた。 「ちょっ、大丈夫!?」 児玉が驚いて、椅子から身を乗り出してくる。俺が苦笑いでごまかしている間にも、彼女はティッシュをくれて、テーブルの上まで拭いてくれた。 小さなハプニングが収まると、児玉は痺れを切らしたように次々と質問をぶつけてきた。曰く今何処に住んでいるのか、今まで何処にいたのか、何故唐突に行き先も告げず引っ越していってしまったのか、そして俺達の両親は元気なのか等々。 俺は数々の質問に対して要領良く、そして尚かつ余計な事まで知られたり勘ぐられたりしないよう脳内で慎重に推敲しながら、冷静な声で伝える。 「大学に入ってから、通学の便を考えて市内に引っ越してきたんだよ。それまでは祖父母の所で厄介になっていた。今は美羽と二人で暮らしている」 それから一息ついて、最後に残された答えを告げる。 「両親は二人とも遠くにいるから、もうずっと会っていないな」 「そ、そうだったんだ」 別に悲壮ぶったつもりは無い。淡々と正確な事実のみを語っただけだ。だがやはり両親の不在にきな臭い物を感じてか、児玉はたじろいで言葉を詰まらせた。 俺はそんな世間様の反応など、とっくの昔に飽いているから、今回も取り立てて動揺などしない。だがこれ以降、先方が遠慮して詮索を避けてくれるならば、語るに飽きた説明を一々繰り返す手間が省けるというものだ。 「引っ越していってから、全然連絡もくれないんだもの、ちょっと心配だったよ」 非難含みの視線を向けられて、俺は恐縮の印に肩をすくめた。 盆暮れ正月に時候の挨拶を交わせるような、呑気な家庭状況に無かったのだから止むを得ない。児玉の近所から引っ越した時だって半ば夜逃げ同然だったのだ。しかしそれは間違いなく世間で非礼と感じる所であろうから、そこは素直に謝罪する。 ・・・母が出て行ったのは、引っ越してから間もなくの事だった。その失踪にはおそらく否間違いなく、家に連れ込んでいた男が絡んでいたはずだ。 母が居なくなっても、俺達兄妹は周囲の大人達ほど驚きはしなかった。母の毎日の素行と時折帰ってくる父の態度から、そろそろ限界だな、という空気が露骨に読めていたのだから。 己が人生をリセットしたい母にとって、夫や子供はもはや疎ましい足枷に他ならない。ならば、邪魔者をあっさり見捨てる事は極めて合理的な行動だ。 大人達はそんな母を薄情だと口を揃えて罵ったが、薄情という意味では僕ら兄妹も同等だったかもしれない。失踪のずっと以前から既に、彼女は僕達の母親でも何でもなく、ただ疎ましい同居人としか思えなくなっていたから。だから僕らは、母が去る予兆を充分察知しながら、彼女を思い止まらせるような事は何一つしなかった。むしろ母が消えて、せいせいしたぐらいの気持ちだった。 父だって、目障りな厄介者が自主退場してくれた事は非常に喜ばしかったに違いない。早速意気揚々と不倫相手を自宅に連れ込んで「これがお前達の新しいお母さんだよ」なんて二流ドラマめいた演出に走るかと思いきや・・・ 現実はもっと歪だった。 確かに彼女は我が家に転がり込んできた。だがそれを、父は諸手を上げて歓迎した訳では無かった。むしろ先方が強引に押し掛けてきたという感が強い。 今改めて考察するに、父にとって彼女はあくまで不倫相手、恋人であり、自分の後妻そして我が子らの継母として家庭に入る存在とは、ちょっと違ったのだろう。 そんな訳で、彼女は最初から微塵たりとも俺達の母親たろうとしなかった。それどころか、家の先客である俺達の機嫌すら取ろうとせず、かなり露骨に邪魔者扱いした。そういう点では、出ていった実母と何ら変わらなかった。 ただ生活面においては、彼女の方が母よりしっかりしているように見えた。それに、他人の家に転がり込んでいるという後ろめたさや、俺達兄妹の境遇を第三者的に哀れと思っている節が時折言動の端に見られたから、同居人としてはむしろ楽な存在だったかもしれない。 無駄に邪魔で重たいくせに何ら役立ってくれない「血縁」という枷が無い分、実の親より赤の他人の方が気楽だなんて、大いなる皮肉と嘲笑するしかない。 そんな父と彼女のただれた関係も、それなり仲良く続いてくれれば、俺達はまだしも当人達は救われたかも知れない。しかし父にとって、彼女との暮らしも満足に程遠かったようだ。 その頃は不況のせいも有って仕事も思わしくなく、また母の出奔や不倫相手との同居の件で周囲や親戚からの風当たりも相当強かったらしい。 やがて、父は自分の不憫な苦境を彼女と僕達のせいにして、当たり散らす事が多くなった。そして、もはや自分に愛が向けられてないと悟った彼女は、あっさりと出て行ってしまう。 その結果、父が苦悩と鬱憤をぶつける相手は俺達兄妹だけになった。 自棄酒に溺れる事が多くなり、泥酔すると決まって暴力に訴える。俺達は母が居た頃同様、暗い部屋に閉じこもって身を寄せ合う日々を過ごした。時には父の介入を恐れるあまり、狭い押入の奥で本当に抱き合って眠った。 既に美羽は身体のあちこちに女性らしさを身につけ始めていたが、そんな事を気にしていられる状態じゃない。それに劣悪な家庭環境が続いたせいか、美羽は同級生達より精神面で生育の遅れているところが有った。その為か美羽は事ある毎に、幼子が母に対してするよう、俺にしがみついて離れなくなる事も有った。 やがて父は職を失い、日がな一日、家に居るようになる。そうなると学校もロクに行かせて貰えなくなり、奥の部屋に一日中閉じこめられた。 俺は部屋の中で美羽に出来る限り勉強を教えようとしたし、美羽も賢い子だったから相当頑張った。だが、いつまた学校に戻れるともしれない日々の中では虚しい抵抗だった。 父がいる限りは、こんな日々が果てしなく続く。いつ終わるとも知れぬ、絶望の毎日だった。 ・・・などといった話を、とてもじゃないが真正直に語れるはずが無い。むしろ尋ねられても、適当にはぐらかすしかない。ひたすら居心地の悪い展開に、俺は義理で児玉に付き合った事を後悔し始めていた。 結局俺達はいつまでも、暗い過去という冷たい指に足首を掴まれたままなのだろうか? それが俺一人の事ならば、まだ耐えられる。だが癒えない傷を心ばかりか体にも負った美羽は・・・ 「ねえ、今度遊びに行っても良い?」 「ぇえ?」 ぼうっとしていたから、児玉の言葉の意味がすぐには分からなかった。しかし身体は条件反射で拒絶反応を示し、尻の下で椅子をがたつかせた。 「えっ、なんて今?」 「いや、もし良かったら、今度庵野君の家に遊びにいっても良いかな、って。美羽ちゃんにも久々会いたいし」 俺の過剰なリアクションに驚いたのか、児玉は明らかに遠慮した声になって、口籠もるよう呟いた。 「うーん、そうだねえ」 今更白々しく何食わぬ風を装いながら、俺は彼女を巧い具合にやんわり拒絶する口実を考える。 美羽の右目はどうしたって隠し通せる物では無い。美羽が俺以外の人前に立つ時、必ず気にされる。そのせいで美羽は人目を憚り、引きこもりに近い生活を余儀なくされているのだ。だから俺一人の判断で、他者を家に招く事など出来ない。 いや、美羽が了承するかどうか以前に、俺が会わせたくないのだ。それでまた妹が辛い思いを味わうのなら。 「あ、いや、庵野君にだって都合が有るだろうし、無理になんてつもりは、これっぽっちも無いから。別に、いつだって良いし。ってか、いつかそのうち行ってみたいなあ、ぐらいのつもりで言っただけだし」 俺の不器用な対応に何かを感じてか、児玉は明らかに引いていた。無理もない話だ。明らかに怪しい対応なのだから。 今までずっと喋り続けてきた児玉がそれきり黙りこくってしまう。俺達の間に、今までは無かった重い沈黙が漂う。学食のざわついた空気の中で、そこにだけぽっかりと真空ポケットが出来たようだった。 俺はこの場に来た事を後悔していた。どんなに平常を装っても、自分達と世間の間には黒くて深い大きな亀裂が走っている事を改めて思い知らされた気分だ。 ずぶずぶと急速に、気分が鬱の底へ沈み込んでいく。 ・・・もう、何もかも嫌だ、面倒だ。この物知らぬ奴を一睨みして追い払い、金輪際口もきかない事にしてしまおうか。いっそ心を閉ざし外界を拒絶して、自己の闇の内に埋もれてしまえば良い。かつての暗黒の日々同様冷たい無感覚に包まれ、望みも望まれもしない世界の中へと・・・ その時、俺の意識を目覚めさせるかのように、ポケットの奥で携帯が鳴った。専用メロディで、手に取る前から美羽だと分かる。 よりによってこのタイミングで、何用だろう。いぶかしく思いながらも、左手は考えるより先に携帯を耳に押し当てていた。 「・・・ピザだ」 抑揚も感情も表さないクールボイスで囁かれた。 「・・・・はい?」 「ピザが食べたい。激しくピザを所望する。ピザをだ」 執拗に繰り返されるその言葉は、鬱の呪縛に片足を突っ込んだ俺の、もう一方の足を滑らせるに足る効果が有った。 「藪から棒に何だ。てか、昨日もピザ食っただろうが。お前はどこぞの緑髪の魔女か?」 条件反射でツッコミながら、俺は横目に児玉の気配を窺う。不審を抱かせたり、詮索されるような受け答えをしては駄目だ。ごくごく平凡で自然な兄妹の会話を心掛けなければ。 「仕方無かろう、TVの占いで今日の超ラッキーアイテムはピザだと言っていたのだから。というわけで、いつもの店のドミグラス唐揚げクリームコロッケピザにしてくれ。一日限定十枚だからグズグズしていたら売り切れてしまうぞ。だから急げ」 どこまで本気なのか窺い知れぬ声で、淡々と一方的に告げられる。 「なんだその極めて胃にもたれそうな組み合わせは。ってか今何時だと思っている? 限定品なんてとっくの昔に売り切れているだろ常識的に考えて」 壁の時計を見上げると、既に四時半を回っていた。 「明日で良いだろ? 明日は午前中しか講義が無いから、ピザ買ってお昼には帰られるから」 「・・・今晩、全くご飯抜きで構わないというのなら」 どうやら交渉の余地は皆無のようだ。 というか、美羽の機嫌が明らかに悪い。 なにしろその気になれば、幾らでも完璧なポーカーフェイスを装える美羽だ。なのに分かりやすく態度を表出させるという事は、機嫌が悪い事を察しろと、大声で主張しているも同然だ。 そして美羽が不機嫌な理由は一つしか考えられない。それは、先程から俺の視界の真正面に児玉が座り続けている事に他ならない。 「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの事が大大大好きな妹からのささやかなお願いなの」 突然、別人としか思えない甘々な萌えアニメボイスで吐息混じりに囁かれた。 「今夜も朝までいっぱいいっぱい、美羽がおかしくなっちゃうくらいエッチな事して良いから、ねえ?」 ときたま真顔で声優志望などとのたまう美羽の作り声は、半端じゃない破壊力が有る。 「今だってぇ、お兄ちゃんの帰りが遅いから寂しくて待ちきれなくて・・・ あっ、んっ、お兄ちゃ・・ ちゅっ、くっ、ふぅん・・・ 欲しいよぅ、早く欲しいよう、おにいty」 「おい、ちょっ!」 とてもじゃないが十八歳未満に聞かせられない淫靡な喘ぎ声に、唾液の音まで絡ませる。第三者には聞こえない音量だと分かっていても、冷や汗ものだ。 「分かった、寄るだけよっt」 それ以上俺が答える前に、有無を言わさず電話は切れてしまった。 俺が携帯をしまいながらげんなりと両肩を落とすのを見て、児玉が身を乗り出してきた。 「今の、美羽ちゃんから?」 「あ、ああ。帰りに晩飯の買い物をしてこいだってさ」 「ふぅん、仲が良いのね」 会話を盗み聞かれたかと一瞬焦るが、児玉の微笑みは何ら他意が無いもののようだった。 「じゃあ、そろそろ帰るよ」 ちょうど良い口実とばかりに、俺はさっと席を立った。 「あ、ちょっと待って」 だが、座ったままの児玉に引き留められた。 「えっと、あのね」 何か、随分と言い出しにくい事を言おうとしている。そんなもどかしい気配がバレバレだった。 頭の中で三つ数えるが、児玉はまだ何も言わない。しれっととぼけて去ってしまおうかとも考え始めた時。 「その、話せてとても嬉しかったよ。元気そうで本当、良かった」 児玉が俯かせていた顔を引き上げて、俺を正面から見据えた。 「うん? ああ」 今更何を改めて・・・ 「なんかさ、色々大変だったって噂、人づてに聞いた事もあったし」 俺は無言無表情のまま、その言葉をスルーした。 幾ら家庭内の問題とはいえ、我が家の状況が外に全く漏れ出ないはずも無い。そしてそんな、「ちょっと聞き囓った」人々への応対は既に馴れきっている。 ようは何も否定しない、何も言い足さない。敢えてベラベラ喋るような事でも無いし、嘘をついてまで否定する必要も無い。 「私、庵野君の事、ずっと忘れていなかったし、気になっていたし、心配だったし」 消え入りそうな小声を絞り出すと、赤らめた頬を俯かせる児玉。 「えっと、その」 何でしょうこの、微妙すぎる空気。そして何かのフラグが立ったような気配は。 「児玉?」 想定外の急展開に思わず狼狽する俺。だが、動揺しても未だ残された冷静な意識が、心の中でけたたましく警鐘を鳴らし始める。 今俺の右目に映っている、児玉の恥じらった表情を、間違いなくあいつも見ているだろうわけで・・・ さっきしまった携帯が、またもや同じメロディを奏で始める。 「キタァアアアアアアアア!」 ボタンを押すや否や、先程よりもっとクールになった妹の声が俺の左鼓膜を刺し貫いた。 「どうやらこれから雪が酷くなるそうだ。そんな所で何時までも鼻の下伸ばして油売りなどせず、即時帰還した方が御身の為と思われるが?」 「イェス! ユア ハイネス!」 俺は周囲も顧みず、その場で背筋を伸ばし敬礼していた。 何事かと目を丸くする児玉に、俺は切られた携帯をしまいながら、心優しい妹が天気の事を心配して早く帰ってくるように言っていたと、柔らかく伝えた。 「うん、そうだね。空も暗くなってきたし。引き留めちゃってごめんね」 俺は学食の前で児玉と逆方向に別れて、帰路についた。 冷たさを増す風に身を縮ませながら、早足で校門をくぐる。一人俯いて歩きながら、俺は児玉との会話を思い返していた。 決して悪い子では無い。ちょっとぽっちゃり系だし地味顔だけれど、好意を寄せられて嫌な相手でも無い。おそらくこれからも、幾度と無く話す事になりそうな気はした。 ピザが焼き上がるのを待つ間にも、ウィンドウ越しに見上げる灰色の空はみるみる暗くなっていった。 ほの暖かいピザボックスを片手に店を飛び出し、早足で家路を急ぐ。だが半ばを過ぎたところで強烈なみぞれが襲ってきた。 全力で駆け出すが、雪の冷たさと水の浸み易さを兼ね備えた猛攻を前に、傘も持たぬ俺は為す術も無い。百メートルも走る前に全身ずぶ濡れになってしまう。 それでも俺は歩を緩めず、ひたすら走る事しか出来ない。湿った冷たい空気を肺の奥まで抱え込み、荒い息をぜえぜえ言わせながら、どうにか手近なスーパーの入り口に駆け込んだ。 べっとり濡れた手で髪先や上着の端を絞りながら、分厚いガラス戸越しに空の機嫌を窺う。みぞれはいつの間にか氷雨に変わっていたが、一向に降り止む気配は無い。 せめて一時でも雨足鈍ってくれれば、覚悟を決めて飛び出していくのだが。しかし天は、俺が愛妹の元へたどり着くのを、全力で阻み続けるつもりらしい。 とはいえ此処で暗くなるまで立ち呆けていても、何ら事態の改善は望めない。服の内側に染み渡り、素肌を這い回る冷たい雨滴に、全身がどんどん冷えて震えるばかりだ。 「・・・諦めるか」 覚悟を決めて再び氷雨の陣中に吶喊しようとした矢先、ドアの向こう側に美羽が姿を現した。 「だから言ったであろう。急がないと泣く羽目になると」 両手に傘を提げた我が妹は軽蔑の眼差しで俺を一瞥すると、普段のクールフェイスを一ミリも崩す事無いまま俺に言った。 「あ、ああ」 思いがけぬ美羽の登場にすっかり度肝を抜かれた俺は、気の抜けた返事を返していた。 美羽がすすんで家外に出てくるなんて、滅多に無い事だ。しかも人目に付く、昼間の表通りを一人でやって来るとは。 ・・・しかもメイド服で。 日々の生活臭に溢れ、どこかくたびれたオーラを漂わせる奥様達が闊歩する店内において、美羽の姿は有り得ないぐらい浮いている。のみならず、かなりの注視も浴びていた。 周囲の人々が俺達の左右を、一定の距離を保って避け通っていく。通過するまでは目を反らし顔を背けていくのに、通り過ぎた後にちらちらと此方を盗み見ながら去っていく。 だが、美羽はそんな周囲の反応など一顧だにしない。 何事に対しても鋭敏な美羽が、それを察していないはずが無い。ただ美羽にとって、俺以外の第三者などハナから関心外で有り、認識以前の対象にしか過ぎないのだ。 差し出されたタオルで顔と頭を拭くと、それまでの陰惨な気分はかなりマシになった。 「助かったよ。諦めて外に飛び出すところだった」 周囲からの痛い視線に首を縮めながらも素直に礼を述べると、美羽ははっきりフンと鼻を鳴らした。 「別に君が濡れようが風邪を引こうが、私の知った事などでは無いがな。だがピザが台無しになったら困るから来ただけだ」 言いながら、唇の片端をねじ曲げてニヒルな薄笑いを見せつけてきた。 俺は濡れた床タイルに足を取られて転びかけた。 「うはwww ツンデレキタコレ」 そこで美羽は俺の左腕を掴まえるとドアの向こうでは無く、客の込み入った店内へと歩を進めようとする。 「さあ兄様、折角だから二人で仲良く買い物などしてゆこうか。ラブラブな新婚夫婦だと羨ましがられる事請け合いだ」 「ちょ、ちょっと待て」 踏ん張った俺の靴底とスーパーのタイルが軋み音を上げる。 メイド姿の娘と連れ添って人込みの中を歩くだなんて、何という羞恥プレイ。余りに痛すぎる。 「どうしたのだ? 何か気になるのか?」 「いや、色々と痛いッスから」 途端に、酷薄に狭まった両の鋭い瞳に射抜かれた。 「つまり、今の私は痛い奴だと言いたいわけか。ほう、そうか、なるほど。君の本心は良く理解させて貰ったよ」 「いや、それはな」 俺はあっさり返答に窮してしまう。わざわざ迎えに来て貰いながら、「そうです」なんて酷薄な事は言えない。 だがそもそもメイド服で出てきた事も、今の台詞も、俺が答えに詰まる事まで全てが、美羽が予め描いたシナリオ通りに運んでいる事は想像に難くない。俺は美羽が仕組んだまな板の上で良いように弄ばれているわけだ。 「せっかく兄様が萌え萌えな姿で出張ってきてやったというのに、つれない話だな。我が家でこの姿の時などいつも、普段以上に前を膨らませておるというのに」 近からず遠からずの位置に複数の人が居るというのに、声を落とす事も無く言う。 「ち、ちょ、あのだな」 そこで美羽ははたと何か気付いた顔になり、したり顔でにやついた。 「なるほど、そういう事か、この好き者め」 「・・・はい?」 わざとらしく身を屈めると、俺に顔を近づけて小声で囁く。 「このまま店内のトイレに連れ込んで・・・とな? くくく、君も色々極まってきたなあ」 インモラル極まりない妄想が一瞬頭の中を占め、ついそれに心が惹かれそうになる。 「そ、そんな不道徳な事、絶対有り得ませんっ!」 「その生意気な口をしつける必要があるようだな、俺の●●●で」 →「せめて帰ってから、家のトイレで勘弁して頂けませんか?」 だが俺は全力の理性と良心で、ピンクの妄想を振り払った。 「ふん、興醒めだ」 一向につれない俺に、いい加減漫才も飽きたのか、美羽は俺の腕を放り出して踵を返す。そして俺が重たいガラス戸を押し開けると、その脇を擦り抜けて外へ出て行く。 「いい加減あきらめて、墜ちきってしまったらどうだ。色々楽になれるぞ?」 そんなとんでもない事を言いながら、美羽は自分の傘を広げた。 我が家に着くなり、俺は背中を押されるように風呂場へと行かされる。湯船には既に熱いお湯が満たされていて、真白い湯気が立ちこめていた。 氷雨によって冷え切った手足を湯に浸すと、最初は火傷しそうなぐらい熱く感じた。だが身を縮めるようにして浸かっていると、やがて全身に温かさが戻ってくる。しばらく湯に浸かったまま、天井の換気口の向こうから遠く聞こえてくる雨音にぼんやり耳を傾けていた。 すっかり温まり、少しぼうっとした心地で風呂場から上がると、乾いた着替えがバスタオルの上に置かれているのに気付いた。自分で用意した覚えがないそれを見て、つい口元が緩んでしまう。 普段は無愛想で冷淡で皮肉屋で愛らしさの欠片も見せない美羽だが、時折こうやって可愛い所を見せてくれるのが、たまらなく愛おしい。四六時中甘々ラブラブな展開も心惹かれるが、日頃のツンを反動に時偶そっと寄り添ってくる機微には、より激しく心揺さぶられる。氷雨に祟られた事も、そもそもそれがパシリを命じられたせいである事も、全て帳消しにしてしまいたくなる。 上機嫌で居間に戻ると、美羽がメイド服のまま夕食の準備を終えたところだった。 「今日はサラダなど作ってみた」 小さなボウルの中に色彩々な野菜や果物が、見目も鮮やかに詰められている。 「お、良いね」 毎日飽きるほど繰り返されているのに、時折無性に眩しく感じる光景。他人から見ればほんの小さな、当たり前程度な幸せにしか過ぎないかも知れないけれど、それを美羽と共に過ごせる事がただ嬉しい。かつてそれは、どんなに望んでも手に入らない物だったから・・・ 二人掛けの小さな食卓に向かい合わせで座り、俺達は食べ始める。 「学食で話していた娘、いただろ?」 温め直したピザを手に取りながら、美羽に話しかける。 「何の話だ? 私は見てなどいなかったが?」 だが美羽は食べる手を休める事も、俺を見る事すらせず、素っ気ない返事をするだけだった。 だがそれは見え透いた嘘どころか、嘘を嘘として通す気すら無いぞんざいな反応だったから、俺は構わず続ける。 「あいつ、昔近所に住んでいた児玉だよ。気付かなかったか?」 声にこそ出さなかったが、美羽が明らかに驚いた顔になる。 美羽は俺の目に映る物を知る事は出来ても、声や音まで知る術は無い。俺だって児玉に会った直後は、久しぶり過ぎて誰か分からなかったのだ、美羽が分からなくても不思議では無い。 「ふむ、確かに居てもおかしくは無いな。あの街から此方へと進学してくる者も少なく無い。 ・・・で、名前を何と言ったかな?」 最初よりは幾分か興味を引かれた声だが、相変わらずサラダを突く手だけは止めようとしない。 「環だよ、児玉環」 「ああ、思い出した、タマタマか。うん、タマタマだ。実に懐かしい」 言葉とは真逆に、感慨の欠片も見られない鉄面皮のまま美羽は言う。しかも声まで全く抑揚がない。わざとらしいまでの棒読みだ。 「そう、昔から私はタマタマ、タマタマと彼女の後ろばかり付いて回っていたからな。実に懐かしい。大事な事だからもう一度言う。タマタマ、マジパネェほどナツカシス」 タマタマ、の部分ばかりを繰り返し強調する美羽に、俺はすかさず突っ込んでおく。 「や、それ、どう考えても女の子のあだ名じゃ無いだろ。というか、そんな呼び方などしていなかったし、そこまで親しかった覚えも無いんだが」 「む、それは寧ろ君の記憶の方が怪しいな。で、その玉抜き環だか玉擦り環だかの家は浴場だったな」 ・・・もはやわざと名字を間違っているとしか思えないのだが。でも、美羽が児玉の家の事まで覚えていたのはちょっと意外だった。 「よく覚えているな。美羽はあそこの風呂、行った事あったっけ?」 「うら若き乙女が行く所ではなかろう。 ・・・特殊浴場なぞ」 「#$%&#&¥&%$!!!111!!」 俺は飲みかけのお茶を盛大に吹き散らかしていた。 美羽は児玉の事がとことん気に入らないらしい。学食で割り込んできた電話も露骨に不機嫌だったし、これはもはや嫌悪感を超越して、明確な敵意と言っても過言では無さそうだ。 児玉には今後なるべく近付かない方が良いのだろうか。だが俺の意志に関わらず、向こうから近寄ってくるわけで。 とにかく今はこれ以上、児玉の話を引き延ばすべきでは無い。俺は俯いて目の前の食事に集中する振りをした。 「しかし同じ学校に居ながら、今の今まで知らなかったとはな。君は全く気付いていなかったのか?」 だが黙ったなら黙ったで、美羽の方から話を続けてきた。 「ああ、全く。一期生だけでも何百人も居るし、学科が違えば講義もかなり違うからな。それに、目の前に立たれて声を掛けられても、名乗られるまで全く思い出せなかった」 嘘でも誇張でも無いから、俺は構えず素直に答えた。 「ふむ、だが感動の再会イベントをクリアするや否や分岐ルート発生、早速攻略フラグをおっ立ててきたといった所か。この下半身直結男め」 「一体どこまでエロゲ思考しているんですか、このゲーム脳」 まだ厭き足らず絡んでくる美羽に、俺は同レベルの皮肉を投げ返す。 「てか、本気でそう思っているのかよ?」 「ふん、幾ら小賢しい言葉を並べようとも、所詮男など皆、性衝動でしか動いておらぬだろうが」 美羽のフォークが皿底を突く音が高く大きく響く。 「ほうほう、ツンデレ美羽ちゃんはすっかり焼き餅妬いちゃったわけですか。可愛い奴め・・・うぉっ!?」 会話がどんどん低能になってゆく・・・ そう思った矢先に美羽のフォークが自軍エリアを飛び越えて俺の右手があった場所に突き立てられた。 「だがな、真面目な話」 好物のミニトマトを俺の皿からちゃっかり没収しながら、美羽は冷ややかな眼差しで俺の目を見返す。 「いい歳なっても未だ露骨に妹べったりの態度を取っていると、周囲にあからさま怪しまれるぞ。まあ、実際そういう関係なのだから否定は出来ないが」 「何だか、俺にばかり問題が有りそうな言い方だな」 だが俺の自信無さげな主張はあっさりと一蹴された。 「偽装彼女の一人ぐらい作ってみせる甲斐性は無いのかと、言っておるのだ。完全に世捨て人の私はとにかく、既に黒ずみ煤け汚れきってはいるが、万が一にも未来が輝く可能性も無きにしもあらずな君が、社会的に抹殺されては困るだろう?」 まず何処をどう突っ込むこべきかと戸惑っている間にも、美羽の毒舌無限コンボは途切れず続く。 「身内以外の女性とまともに接する事も出来ず逃げ帰ってくるなど、なんというヒキオタ脳。一丁免疫でも付けてくるがよい」 ・・・普段とまるで逆の事を仰る我が姫君。しかも妙に饒舌なのが怪しい。これは間違いなく裏が有る。長年にわたる経験の積み重ねでそう直観した途端、背筋をぞわぞわと嫌な悪寒が這い上ってきた。 美羽は時折、ひどく自虐的な行動に奔る事が有る。自分の事を未来の無い人間だとか、世捨て人呼ばわりする事も少なくない。自身の言葉で自らを追い詰め、血のようやく固まりかけた古傷をえぐり鮮血を吹き出させるような痛々しい行為を、今まで俺は何度も目の当たりにしている。 美羽がそんな破滅的衝動の発作に捕らわれる度、俺は必死にそれを食い止めようとしてきた。家族として、兄として、人として、そして男として、この我が侭で人一倍傷つきやすく、時折誰も手が届かない程深い闇の奥底まで一人潜ってしまいそうになる妹を引き留める為に、あらゆる行為をなりふり構わず・・・ 「私は兄様が最初で最後、唯一の男で良いと思っているが、相手にまでそれを強いるつもりは無い。なにしろ物分かりの良い女だからな。それに所詮妹など、兄が本気になった恋人相手に勝てるはずも・・・」 俺は椅子を後ろに押しやってテーブルの上に身を乗り出すと、美羽の両手を握っていた。 「そんな事無い。俺は半端な気持ちでお前を・・・」 「それ以上は言うな。私には過ぎた言葉だ」 口ではつれない言葉を返しながら、美羽の両目は満足げに光っていた。 美羽は俺の掌の内から自分の手を滑り抜かせると、逆に俺の手を取った。それから潤んだ瞳で俺の目を見つめ返したまま、ゆっくりと自らの唇の間に俺の指先を含む。まるで、ベッドの内での前戯のように。 解放された手を引き戻しながら俺は、また今回もまんまと美羽の策略に嵌められた事を悟った。全ては俺の気を引いて、普段口走らないデレ発言を誘引する為のシナリオだったに違いない。 声に出した言葉に嘘偽りは無いが、それを率直に口にするかどうかは別問題だ。 ・・・我が実妹美羽、なんて恐ろしい子! 今更ながら美羽を直視する事が出来ず、テーブルと睨めっこしていると、不意に鼻の奥がむずむずしてきた。 次の瞬間、俺は加減無い大クシャミをテーブルに叩き付けていた。 「ふむ、やはり風邪を引いたか」 「・・・っぽい」 ティッシュを取りに走りながら、俺は鼻声で答える。せっかく美羽が迎えに来てくれたというのに、既に手遅れだったようだ。学食で油を売っていなければ良かったと、本気で後悔する。 まるで用意してあったかのように、風邪薬の瓶が食卓に置かれる。それから、ひんやりした柔らかな掌が俺の額に当てられた。 「熱も有るな。ところで、非常に良く効く熱冷ましの座薬が有るのだが、どうかな?」 言い終えるより先に、俺のベルトに片手が伸びてきた。 「いや、それは勘弁してください」 俺はじりじりと後退を始める。 「ほう? 人のバージンはあっさり奪っておきながら、自分のバックバージンは捧げられないというのか?」 とんでもない事を冷ややかに言いながら、顔と全身をぐりぐりと擦り寄せてくる。 「あんまりくっつくなよ。染したらまずいだろ」 俺はやんわりと美羽を押しのけた。 「今日は自分の部屋で寝ろよ?」 だが美羽は一向に介さず、また擦り寄ってくる。 「私は既に免疫を持っているから大丈夫だ。何しろその風邪は、私が君に染したものだからな。昨晩さんざ、くんずほぐれつギシギシアンアンしている間に」 「そもそもお前由来かよっ!」 条件反射で返しながらも、俺は内心心配していた。 子供の頃から美羽は風邪をひいても、あまり熱や咳が表出する事が無かった。もしかして昨日も強がって見せていただけで、相当辛かったのでは無いだろうか。 「お前の方こそ、治っているのかよ?」 そんな状態で氷雨の中を迎えにきて、再びぶり返したらどうするのだ。 「少なくとも、君が心配するのはお門違いだ。その程度の自己管理など造作ない」 心配するつもりが、逆に頭を小突かれてしまった。 翌朝目覚めた俺は、とてもじゃないが起き上がれる状態で無かった。 咳はそれほど出ないが、喉がガサガサに渇き、鈍く痛む。全身が嫌な火照りに包まれ、手足は錘を縛り付けられたように重い。 四つ足の動物のようにもぞもぞと布団から這い出し、すっかり冷え切った部屋の暖房を入れる。鈍重な身体を寒さに縮めながら、既に明るくなった窓の外を眺めると、ガラス一枚隔てた向こう側では音もなく大雪が降り注いでいた。 見るからに寒そうな光景に一際大きく身震いすると、喉の奥を唸らせながら再び布団の間に潜り込む。 頭は重たいが、眠気はすっかり掻き消えている。天井を向いたまま目を瞑り、しばらくぼんやりしていたが、やがてドアが外から開かれる音に目を開いた。 横になったまま顔だけを傾けると、両手で盆を支えた美羽が無言のまま入ってくるのが見えた。 「珍しいな、君が本格的に風邪をひくとは」 「ああ」 気怠いまま、投げ遣りな返事を返す。極力喋りたくない喉の状態なので、それきり黙っていた。 美羽が黙ったまま、醤油の香りが漂う茶碗を差し出してくる。俺は背中を起こすと、熱いそれを両手で受け取った。湯気越しに中を覗き込むと、薄く色の付いた卵粥が半分ほど入っていた。 生憎と食欲は無い。それに空腹だとしても、粥に頼るほど弱っていない。でも、用意してくれた美羽の気持ちが嬉しくて、俺は箸を付けた。薄味だったけれどとても美味しく感じて、結局俺は残さず食べてしまう。 空になった茶碗と引き替えに、大きな湯飲みを手渡される。なみなみと満たされた熱々の番茶を、俺は恐る恐るすするように飲んだ。ただ、湯飲みの端を掴む指まで熱くて、飲み終えるにはしばらく掛かりそうだった。 いつもお喋りで、俺が黙っていても一方的に話し続ける美羽が、今日に限ってじっと黙ったまま何も話し掛けてこない。手間を掛けさせ機嫌を損ねたのだろうかと、湯飲みの端からそっと顔色を窺ってみる。 きゅっと結ばれた唇の両端が、心なしか微妙に上向いているように見えた。 「なんだか嬉しそうだな」 「まさか。大事な兄様が伏せっているというのに、そんな不謹慎なはずがあろうか」 口ぶりは極めて真面目だが、有り得ないまでに殊勝な発言そのものが、本心の裏返しである事を語っている。美羽の事をよく知らない赤の他人なら誤魔化されるかもしれないが、いつも肌身離れず連れ添ってきた俺には容易に分かる。 ストーブが温風を吐き出し続けているとはいえ、部屋の空気はまだ薄ら寒い。なのに美羽は部屋を去る素振りも見せず、それどころか机の下から俺の椅子を引きずり出してきて、布団のすぐ隣から俺を眺め始めた。 「あまり近くに居たら、染るぞ」 「なに、平気さ」 しれっと答えたきり、動こうともしない。むしろ身体を起こしていた俺の方が寒気を感じ、布団の中に潜り直す。美羽の目が俺の動きを追い、最後は見上げる俺を斜め上から見下ろす形になった。 黙りこくったままずっと見つめ合うのも気恥ずかしくて、俺は両目を瞑って逃げる。 「静かだな」 どれぐらい経ってからだろうか、美羽がぽつりと呟く。 ストーブの低い唸りの他は、部屋の内からも外からも、何一つ物音が聞こえてこない。いつもなら遠く聞こえる国道の騒音すらも、大雪のカーテンに阻まれてか、全く届かない。 「ああ」 不思議なくらい静かな空間だった。 「一人ぼっちで静かなのは気が滅入る。かといって余計な輩が騒ぎ立てるのには殺意すら覚える。だが、二人きりで静かというのは、そう悪くないな」 「かもな」 静寂の中で無ければ聞こえなかっただろう、美羽の微かな忍び笑いが耳を掠めた。 「とても不思議な気持ちだな。普段は二人きりで暮らしている事など意識せず過ごしているのに、こういった時だとまざまざと実感させられる」 俺は閉じていた両瞼を開き、美羽に向かって目だけで頷く。 俺達は幼い頃からずっと二人きりだった。身勝手で煩わしい大人達は何人も傍に居たが、彼等は皆俺達を疎んじ、俺達も彼等を拒絶していた。居ても居なくても変わりない、否むしろ居るだけ互いに迷惑な、断絶した関係。 そして、そんな凍土の家庭からまずは実母が去り、継母になるかもしれなかった人も逃げ、とうの昔に父も居ない。今や俺達は内実共に二人きりになってしまった。 そして、父を消すという最後の引き金を引いた、奴を刺したのは・・・ 紛れもないこの俺だった。 妻と愛人、二人の女から見捨てられた父の暴力は、ますます容赦が無くなっていった。 家外に居る時や他者の目がある場では無口で無表情で、死んだ魚のような目をしていた父。だが一度酒が入ると正体を失うほど痛飲し、俺達兄妹を理不尽な理由で怒鳴り、叱りつけ、そして平手や拳で殴った。時には棒で打たれたり、足蹴にもされた。 千鳥足から繰り出される攻撃は力加減も打ち所も構わず、俺達に痣や傷は絶えなかった。避けても怒られ、当てずっぽうな一撃が家具や物を壊しても激昂される。俺も美羽も、奴の発作的な激情が治るまで、ただ身を縮めて耐える事しか出来なかった。 だが酔いから醒めると、奴はいつも激しく後悔して俺達に謝った。時には号泣し、時には未だ酒臭い息を吹きかけながら抱きついてきて、もうあんな乱暴は二度としないと、心底反省した態度を見せる。 それはあからさまに矛盾した、極めて白々しい行為だった。だが少なくとも、本人は芝居のつもりでは無かったようだ。奴は何度も暴力を繰り返し、そのたび毎度、本気で悔いていた。それはまるで、ジキルとハイドのように奇妙な乖離と言える。 嗚咽混じりに謝罪する父の姿を目の当たりにして、「なんだかんだ言っても、この人は血の繋がった親なんだな」と奇妙な感慨を覚える事も有った。だがそんな事で、俺達が今まで受け続けてきた苦痛や恐怖が、幾分とて割り引かれる物でも無い。むしろ日を追う毎に進行しているとしか見えない二律背反ぶりに、奴の内では崩壊がますます進んでいるのだなと、うすら寒い恐怖を味わうばかりだった。ああ、この人は重い病気で、このままでは悪化する事はあっても決して治る事は無いのだと。 そして、その内部崩壊が極大を迎えた時、奴と俺達の身に何が起こるのだろう? この地獄のような日々からの解放かそれとも、もはや逃れようのない真の破滅か。ほぼ監禁に近い状況に置かれ希薄化していく感情と現実感の中、果てしなく先が見えない闇を前に、ただただ途方に暮れていた。 父が居間で酒に手を伸ばす都度、幼い俺達は暗い部屋の隅で息を殺して身を寄せ合ったり、押入の中に隠れてやり過ごそうとした。酔っている時に奴の目に止まったら、間違いなく殴られるのだから。だがやがて、隠れ場所からも引きずり出されて、殴られるようになった。 このままでは近いうちに、間違いなく殺されてしまう・・・ そう感じた俺達は、父が飲み始めるや否や窓からこっそり家を抜け出し、奴が酔い潰れて寝てしまう夜半過ぎまで、当て所もなく外を彷徨うプチ家出もどきを繰り返すようになっていた。 だがそんなある晩、市立公園の片隅に潜んでいた俺達は、警邏中の若い警官に見つかり、家まで連れ戻されてしまった。色々言い訳してその場で解放して貰おうと粘ったが、その愚直な巡査は有無を言わさず俺達を玄関先まで連行し、父に引き渡すなりさっさと帰ってしまったのだ。 その後当然、俺達は叩きのめされた。警官の姿に驚き怯え普段以上に逆上した奴に、いつもよりずっと長く、そして激しく折檻された。俺ばかりか美羽までが木の棒で全身を、足腰経たなくなるまで打ち据えられた。 床の上で死に損ないの蛙みたいに手足を伸ばし痙攣し、口の中と鼻の奥に拡がる血の匂いに吐き気を覚えながら、俺はこのまま死ぬのか、今度こそ死ぬのかと考えた。 だがまだ、美羽がいたぶられ続けているのを放ったまま、俺だけが消えてしまうわけにはいかない。そう思った矢先・・・ 傾いだ視界の中で、無理矢理引きずり起こされた美羽の服が、奴の手によって力任せに引き裂かれるのを俺は見た。 その瞬間、俺はこれから起きる事全てを光の速さで理解してしまい、それきり何も考えられなくなった。 その行為を、母が見知らぬ男相手に繰り返す一部始終を、俺達兄妹は幼い頃から見ていた。子供心に、とても簡単で単純な行為だなと思っていた。その行為に対し、恐怖やおぞましさ、そして不潔な物を感じながらも、自分も何時かあの大人達と同じ行為に至るのだろうか・・・ そんな事を何度も考えた。 父の意図を悟った時、美羽があんな奴のあんな行為の対象にされると、自分の最も大切な存在が踏みにじろられようとしていると悟った時、俺は全ての恐怖や苦痛、逡巡から解放された。怒り、憎しみ、恨み、今まで絶対的恐怖の下に押し込められてきた黒い感情すら一瞬のうちに昇華超越し、全き虚無となった身体の内に、俺は純粋な殺意だけをただ満たして起き上がっていた。 あの時の感覚は未だ自分でもよく理解できないし、もう二度と味わう事も無いだろう。思い返しても余りの不気味さに、自身の事ながら未だ震えが走るぐらいだ。 最愛の妹が傷つけられる事に対する義憤? 美羽の身を守る為の緊急避難的行動? 最後の最後、俺に狂気の引き金を引かせたのは、そんなまともな意志だったのだろうか? いや、マグマだまりのような衝動を駆り立てさせたのは、自分の物、自分の女、己が欲望の相手にしたい雌が他の雄に奪われるのを許せないという、極めて原初な獣の本能だったのかもしれない。 未だ射精もろくに知らないくせに、俺が美羽にそんな感情を抱き始めていた事は紛れもない事実なのだから。 殺すつもりだった。後先の事など全く考えていなかった。ただ、急所が分からないまま適当に刺したら、偶々死ななかっただけだ。 父に抵抗するなんて、今までなら恐ろし過ぎて絶対出来なかったのに。今まで一度も考えた事すら無かったのに。それでも、正気に戻った時には、父の背中から血が溢れ出ていた。 しかし、俺の復讐は遅過ぎた。 俺が台所から包丁を掴んで戻ってくる僅かの合間に、美羽はすっかり服を剥ぎ取られていた。そればかりか、うずくまって右目を押さえ、その指の間から血を滲ませていた。 狂ったように抵抗した美羽に激昂した奴は、手にした棒が折れるまで目盲滅法に美羽を殴り、そのギザギザの切っ先で美羽の右目を傷つけていたのだ。 俺は美羽の為、即座に救急車を呼んだ。血の沼に横たわった父など眼中に無かったし、通報の際も告げなかったが、駆けつけてきた救急隊員は俺達三人の様を見てそれぞれ驚き、律儀に全員を救急病院へ搬送した。 救急車が来るまでの間、そして搬送されている間も、美羽はずっと泣き続けていた。今まで苛烈な折檻に涙を滲ませる事は有っても、声を上げて泣いた事など無かった美羽が、大声を振り絞って泣いていた。右手で右目を押さえ、残された左目から際限なく涙を流し、左手できつく俺にしがみついたまま、赤子のように大口を開けて泣き、俺の名前ばかりを繰り返し繰り返し叫んでいた。病院に着き、救急隊員に無理矢理引き剥がされ奥に連れて行かれながらも、ずっと泣き続けていた。 病院で手当てを受けている間中、俺はずっと上の空のままだった。殴られた傷より、美羽が爪を立ててずっとしがみついていた痕の熱い痛みばかり感じながら、ただ一つの事だけを延々と後悔していた。 ・・・どうせ刺すのなら、何故もう少し早くやれなかったのだろう。そうすれば美羽の右目が傷つく事は無かったのに。 その時抱いた後悔は、今も全く色褪せぬまま残っている。今この瞬間も俺は後悔し続けている。 美羽の右目がこんな事になった直接の原因は奴の暴力だ。だがそうなるまで放っていた俺だって同罪だ。俺が弱くなければ、グズでなかったら、もう少し早く刺しさえしていれば・・・ いやせめて身を挺して美羽を庇っていれば、いや、もっと早く二人でずっと遠くまで逃げ出していれば・・・ だが幾ら後悔しようが、己を責めようが、今更命を投げ出そうが、美羽の右目は戻ってこない。過去の過失を覆す事は出来ない。 せめて俺に出来る事は、消えない傷を身体と心に負った美羽を守り、美羽に尽くす事。無力で愚かな兄なのに、未だ拒まず慕い愛し続けてくれる妹に感謝しながら。 美羽が認めてくれる限り、俺はずっと美羽を守る。冷たく歪み続けた世界の中で、唯一俺が温もりを感じたもの、そして俺に温もりを差し出してくれた人を。それが俺の、彼女と世界に対する義務だ。 美羽に拒まれていたら、俺はあの夜陥った狂気と後悔の闇、そして実父を半殺しにした罪悪感に呑み込まれ、もう生きていないだろう。だが美羽が求めてくれる限り、俺は暗闇の中でどうにか立って、息をし続ける事が出来る。 「んが?!」 詰まっていた鼻を不意に摘まれ、俺は不快感と息苦しさに我に返った。 「どうした、そんな怖い顔をして」 美羽が真上から俺の顔を覗き込んでいた。目が合うと、鼻を摘んでいた手が退けられた。 「そうか?」 今考えていた事を語るつもりは無いし、悟られたいとも思わない。俺は寝返りを打って美羽から目を反らす。 「そういう顔も悪くないが、私相手に向けてもしょうがないだろう? 私は君のもっと可愛い顔の方が好きだ。そう例えば、私の奥に入ってきて、とても心地よさそうに瞼を振るわせている時の顔とか、な」 わざわざ反対側まで回り込んで来て、再び顔を突きつけてきた。いつの間に眼帯を外したのか、両目で俺をじっと見据える。 「何だよ、ゲームでもやってりゃいいだろ」 まだ胸の内にわだかまっている陰鬱を気取られまいと、俺は逃げに徹する。それでなくとも美羽は勘が鋭い。俺に関する事については特にだ。 気付かれたら即、「どうせまた、つまらぬ事を思い返して鬱っていたのだろう」などとせせら笑われるに決まっている。 美羽は喉を鳴らして笑いながら、布団の上にごろりと転がった。そして、額同士が重なりそうな距離から俺の目を覗き込んでくる。 「そう邪険にしてくれるな。君を見ていたいんだ」 「見てもつまらないだろ、自分の顔しか見えないんだから」 妹のすぐ眼前でむず痒い鼻を鳴らしながら、俺は毒づく。 「私は何時だって君を見ていたいんだ、いつまでもずっとな。そして、君が私だけを見つめてくれるのを、ずっと見ていたいんだ」 思いがけない一言に、俺の心臓がドクリと大きく脈打った。 「私は、この右目でこうしているのが、一番好きだ」 傷を負い、見えなくなったはずの美羽の右目。だが不思議な事に、その右目には俺の右目が捉えた光景が映る。どんなに離れていようとも、俺が右目を閉じるか美羽が眼帯で塞がない限り、美羽は俺が右目で今何を見ているか、はっきりと分かるのだ。 それは、俺達兄妹が初めて結ばれた後に起きた、極めて不思議な呪い、もしくは奇跡だった。 俺に刺された父は結局それまでの虐待を罪に問われ、俺達から引き離された後、法の手によって裁かれた。一方刺した俺の罪は、よく分からぬまま有耶無耶にされて終わった。 親無しとなった俺達は、そのままなら施設に収容される所だったが、すんでの所で実母の両親、今までろくに会った事も無い祖父母に引き取られた。 とはいえそれは俺達を慈しむというより、義理や世間体を重視しただけに過ぎなかったようで、身内らしい情のこもった扱いは何もして貰えなかった。そして、義務教育が終わるや否や、遠く離れた地方の高校へと飛ばされた。 だが彼等は、子供だけではどうしようもない経済面の支援は十分にしてくれた。それに俺達だって今更、普通の家庭やありがちな家族の温もりなど期待もしていなかったから、それで充分恩義と感謝は感じている。 そして今度こそ本当に二人きりの暮らしを始める事になった俺達は、今にも引きちぎられ、吹き飛ばされそうな現実の中で、更に強い絆を求めた。生まれた時からそれまでの兄妹、家族としての結びつき、常に肌身離れず長い闇を抜けてきた絆を超える、そしてその結合を更に増すための結びつき・・・ 男と女としての交わりを。 迷いも悩みもせず、あたかもそれが昔から定まっていたかのように自然と、俺達は互いに求め合い、重なり合い、繋がり合った。 そして神をも恐れぬ禁忌を犯した罪として、美羽の閉ざされた右目に不思議な呪いが降りかかったのだ。美羽はそう、自嘲する。 しかし俺は、それが呪いと呼ぶほど酷い物でも無いと思う。父と俺の罪により世界の半分を閉ざされた美羽が、他者の目に映る世界とはいえ、残り半分を観る事が出来るのだから。でもそれで己が目の不自由を常に自覚させられるならば、確かにそれは惨い呪いかもしれない。 だが美羽は、あながち嫌でも無いようだった。気が散って困る時以外は極力眼帯を外し、事ある毎に俺の右目と繋がろうとする。 何とも不思議な力ではある。だが、原理も理屈もその意味も、考えたところで答えが出そうにない。だから俺は、これも俺達の結びつきの一つなんだと、美羽に言っている。 所構わず一方的に視界を覗かれるのだから、俺にはプライバシーも何も有ったものでは無い。赤子の時から一緒の兄弟、既に身も心も知り尽くした相手と言えど、全てを観られても平気、とまでは言い切れない。それで無くとも、美羽は事ある毎に突っ込まないと気が済まない性分だから、俺は毎日のようにギャグ漫画みたいなオチに見舞われる。 だがそんな事も、失われた右目の重さに比べれば些細な事だ。それに、この不思議な結合がある日突然、何の前触れもなく消えてしまうかもしれないと考えると、少し寂しい気もする。 「ほら、体温計を出して見せろ。む、少し上がってきているな」 俺が返した体温計を読みとり、美羽は軽く眉間に皺を寄せる。 「確かに、寒気がちょっと増してきたかも」 俺は布団の中で身震いした。首筋や手首足首、布団と直に擦れる素肌の部分がざわざわしている。どうやらこれからが風邪の本番らしい。 「人肌で温めるというのはどうかな?」 美羽がしたり顔で覗き込みニヤリと笑った。 「またまたご冗談を」 生憎と、じゃれる元気は余っていない。 「ふむ。真面目に安静にした方が良さげだな」 美羽の両手がすっと布団の脇から潜り込んできて、俺の右手を柔らかく握り包んだ。 「なんか、落ち着くな」 俺は悪寒に縮まっていた身体をゆったり伸ばすと、一度深呼吸した。ほのかに美羽の香りを感じた。 「なら一眠りすると良い」 両目でにこりと微笑む美羽の顔を見つめ返してから、俺は静かに目を閉じた。 父から解放され、暴力に怯える日々をようやく脱しても、俺達はずっとその後遺症に悩まされた。定期的に悪夢に苛まれ、その中でかつての虐待を忠実に再現されては苦しめられた。時には現実以上に強調された恐怖と狂気の色を伴って嬲られた。心の傷が塞がれ始めた所を、何度も何度も繰り返しえぐられた。そしていつも、己自身の叫び声で目を覚ますのだ。 悪夢の後遺症は俺だけでなく、美羽も蝕んでいた。だが、互いに身を寄せ合って眠る夜だけは、どちらにも黒い夢魔が忍び寄ってくる事は無かった。 だから俺達は毎夜、頭が空っぽになるまで身体を燃やし尽くし、悪夢が付け入る隙を与えないほど心を満たし、結ばれ繋がり合ったまま、朝まで眠りにふけるのだ。 昔からいつだって美羽は俺の安らぎ、唯一の拠り所だったのだから。その原則は絆の手段が幾ら変わろうが幾つ増えようが、永遠に不滅だ。 そのまましばらくウトウトしていた俺はやがて、空気を読めない着信音に起こされた。手が届かぬ机上で無慈悲に鳴り続ける俺の携帯を、美羽が手にとって渡してくれる。 バックライトの灯った液晶画面が、児玉からだと告げている。俺はそれを確認してから、 →受信を切った 受信を切った 受信を切った ついでに電源も切った。 「幼馴染みキャラからだよ」 おそらく、俺が聴講予定の講義に姿を見せなかったから、電話を寄越して来たのだろう。 「出なくて良かったのか?」 怒っているふうも皮肉る様子も無く、美羽が訊いてきた。 「安静が必要だと言われているからな」 俺は美羽に向かってニヤリと笑ってみせると、枕の上で頭の位置を調整した。 「ふむ」 不貞の俺が貴重な幼馴染みをあっさり切り捨て、背徳の実妹を選んだ瞬間である。 ・・・まこと本心から。 俺の指を握ったまま弄びながら、美羽がいつになくご機嫌にクスクス笑い続ける。 「幼馴染みキャラと言うが、あ奴は兄様の今までの喜びも悲しみも、今この瞬間の思いも何一つ知らぬ。知ったとしても理解出来ぬ。私こそ君を一番知っている、真の究極幼馴染みであろう」 美羽は不意に布団の脇からするりと潜り込んでくると、子供みたいにぴたりと寄り添ってきた。 「気になって眠れぬか?」 「いや、やはり馴れた抱き枕が無いと落ち着かないというか」 「ふふ、いつも抱き枕以上の扱いをしておるくせに・・・ 激しいのは、元気になるまでお預けだぞ?」 「分かっているよ」 小さな背中に腕を回すと、美羽の方からぎゅっとしがみついてきた。吐息、ぬくもり、安心する匂いと鼓動・・・ 俺は布団の中で美羽の手を引き寄せると、目を瞑った。安らかな夢の内に墜ちていく事を期待して。 |
