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熱力学の時間の矢--物事は乱雑に向かう

次に熱力学での時間の矢を考えましょう。「熱力学」というと難しそうですが、 この時間の矢の意味するところは単に「等量の0度の水と100度の湯を接触さ せておくと50度になるが、その逆は起こらない」ということです。あるいは 「コーヒーに砂糖を入れて混ぜてしまったら、もう砂糖だけを取り出すことはで きない」ということです。熱力学ではこのような法則を「エントロピー増大の法 則」と呼びます。

エントロピーとは、「物事の乱雑さの度合い」を表す量です。エントロピーを計 算するためには、その物の取り得る状態の数を求めることからはじめます。取り 得る状態の数が多いということは「乱雑な状態」、つまりエントロピーの高い状 態であり、取り得る状態の数が少ないということは「規則的な状態」、つまりエ ントロピーの低い状態と考えるのです。

などと難しそうなことを言ってもよくわからないと思うので、乱雑さというもの の性質を理解するために、ここでポーカーを考えましょう。簡単のためにジョー カーは入れないとします。もっとも強いロイヤルストレートフラッシュ (10,J,Q,K,Aの順に同じマークが並んでいるカード)を考えます。ロイヤルストー レトフラッシュになるカードの組合わせは4種類(マークが4つあるから)しか ありません。取り得る状態の数が非常に小さい(つまりエントロピーも小さい) のです。一方、役の中では一番弱いワンペアを考えると、まず1から13のどれ がワンペアになっていてもいいからこれで13通りあります。残り3枚は今決め たもの以外から選ぶので、 ${12\times11\times10\over3\times2\times1}=220$通 りあります。今カードの番号だけでマークは考えなかったので、それを勘定に入 れます。ペアになった2枚は6通り、残りは4×4×4通りあることになります。 これらをかけると

\begin{eqnarray*}
13\times220\times6\times4\times4\times4=1098240
\end{eqnarray*}



という非常に大きな数字となります。つまり、たった4種類しかないロイヤルス トレートフラッシュに比べ、ワンペアは1098240種類もあるのです。[*]

でたらめにカードを5枚選んだとするとロイヤルストレートフラッシュができる 確率はワンペアができる確率の ${4\over1098240}={1\over274560}$しかないので す(もちろんいかさまがない場合)。つまりはポーカーだの麻雀だのの役という のは、できる確率が小さいものほど強く作ってある、ということです。ポーカー の場合で、フルハウスとフォアカードはどっちが起こりにくいか、麻雀で大三元 と四暗刻はどちらが起こりにくいか、など、一度考えてみてください。

突然時間の流れの話からポーカーの話になってしまいましたが、これが時間の流 れの話と大いに関係があるのです。5枚のカードをトランプの山からでたらめに 引き続けるとします。ポーカーで言う「総替え」を何度もやっているようなもの です。何度もやっていればワンペアぐらいはできます。運がよければスリーカー ドやツーペアだってできるかもしれません。ものすごく運がよければ、あるいは 根気よく何度も何度も引き続ければ、ロイヤルストレートフラッシュだって出る 可能性は一応あります。カードを総替えした結果、手がよくなる場合を「にっこ り」、手が悪くなる場合を「がっかり」と名付けてみます。さて、「にっこり」 と「がっかり」はどちらがよく起こるでしょうか。

考えてみるまでもなく、「がっかり」の方が圧倒的に多くなります。なぜならい い手というのは確率が小さいのですから。だからこれをみて「ポーカーの手は総 替えするとたいてい悪くなる」という法則を立てても、間違いではありません (総替えした結果ロイヤルストレートフラッシュが来る可能性も、ほんの少しだ けですがありますが)。実際、ポーカーで総替えをするのは、これ以上悪くなら ない最低の手(ブタ)が来た時ぐらいです。

さて、ここで話は時間の矢に戻ります。この「ポーカーの手は総替えするとたい てい悪くなる」という法則を物質の現象にあてはめると、最初に言った「エント ロピー増大の法則」というものになります。この法則、実は時間の方向を規定し ている法則なのです。

熱力学で言うエントロピー増大の法則というのは気体や液体などの状態に適用し て考えます。

\begin{wrapfigure}{l}{10cm}
\epsfxsize =10cm\epsffile{room.eps}\end{wrapfigure}

たとえば、今教室の中にある空気の分子を考えましょう。この分子 が、教室の右半分だけにある確率と、全体にまんべんなく分布している確率は、 どっちの方が大きいでしょうか。もちろん、全体でまんべんなく分布している場 合の方が確率が高くなります。

実際に計算してみましょう。空気の分子1個が右半分にいる確率は${1\over2}$ であるから、もし教室の空気が10個の分子でできていれば、全部が右にいる確率 は $\left({1\over2}\right)^{10}={1\over1024}$です。一方、半分が右、半分が 左である確率を計算する時は、10個のうち、右に配置する5個を選ぶ時にの場 合の数をかけなくてはいけません。確率は ${10\times9\times8\times7\times6\over5\times4\times3\times2\times1}=252$ 倍も大きくなるのです。もちろん空気の分子は10個どころではないことに注意!

エントロピー増大の法則とは、直感的にはそういうことです。ものごとは、常に 乱雑な方向に進む(部屋の片付けをしなければ、部屋は散らかる!)のです。

不思議なことは、たくさんある物理法則の中で、この法則だけが、時間の方向を 指定しているということです。さっきの例で言えば、「ふと気がつくと部屋が片 付いていた」なんてことは、夜中に小人さんが来たのでもない限り有り得ない。 でも、「ふと気がつくと部屋が散らかっていた」なんてことは日常茶飯事ですね。

時間の流れを規定する物理法則が、トランプの「にっこり/がっかり」のような 確率論的な話からできているのはちょっと驚きです。しかし、たとえば空気の分 子の数などを考えるとトランプの枚数などより圧倒的に多い(たとえば、22.4リッ トルの空気の中には約 $6\times 10^{23}=600000000000000000000000$個の分子が います)ことを考えると、りっぱな物理法則として受け入れてよいことがわかり ます。たとえば、空気が教室の右半分に片寄ってしまう確率を計算してみると、 宇宙の年齢の数兆倍ぐらいたってもぜんぜん起こらないことがわかります。

エントロピー増大の法則からすると、物体の運動はどんどん乱雑な方向に進んで しまいます。物体を床の上で滑らせると摩擦熱を出して止ってしまう理由もエン トロピーの増大です。物体がひとかたまりで運動している状態と、静止して分子 1個1個が振動している状態では、後者の方がより乱雑(状態の数が多い)です。 熱が高温から低温に移動するのも、100度の湯と0度の水が1リットルずつあ る状態より、50度の水が2リットルある状態の方が乱雑(状態の数が多い)だ からです。

宇宙のエントロピーがどんどん増大していくとすると、やがて宇宙は均一な温度 で均一な物質が静止して広がっているという状態になります(エントロピー最大 の状態)。これを「宇宙の熱死」と呼びます。



Masahiro Maeno 平成14年3月15日