礼拝説教録 |
地下迷宮のなかを歩くと
壁に刻まれた言葉に出会うだろう。 鉄心が手渡すのは言葉の花束。 大いなる力に満ちた言葉を預かったなら 友なる誰かに手渡していかなくてはならない。 言葉の持つ輝きは目に見えない。 物語かもしれない。 意味を成さない記号かもしれない そして、鉄心のほかにも 誰かが壁に刻んでいるかもしれない。 |
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説教題 「主へ向かう旅路」 |
2002年5月12日 朝礼拝より 旧約聖書 「列王記 上」 19章1〜18節 新約聖書 「使徒言行録」 1章6〜20節 絵本「3本の木」の朗読。教会に来た人に依頼する。 絵を見せず手話で表現しながらの朗読をしてもらう。 とある山頂に、幼木が3本並んで立っていた。 木はそれぞれに夢を語り合った。 宝石箱、大きな帆船、世界一の大樹。 夢見る木の声を、主は聞かれたであろうか? 大木に成長したとき、樵たちが山へ登ってきた。 夢が叶う、と信じて倒れていく木。大樹のままでいられ なかった3番目の木だけは残念がりながら。 しかし、木たちを待っていたのは、まったく別の姿であ った。飼い葉桶となり、家畜 の餌を毎日入れられ、小さ な漁師舟となり生臭い魚を毎日運び、ただの角材となり毎 日横に置かれているだけ。日々が過ぎて、自分はどうした のだろう、と戸惑うことも 忘れかけたころに、その時は やってきた。 飼い葉桶に赤ん坊が寝かせられている。星の光照らすゆ りかご。 嵐の中、旅人を乗せる漁師舟。静かになれ、と嵐に命じ て従わせた旅人。天地を治める王を乗せた船。 忘れられていた角材は、引っ張り出されて十字架に変え られた。一人の人に背負われ、その人が十字架にかけられ た。すべてが終わったとき、十字架となった木は、自分の 姿を見るたびに人々が神の愛を思い出すことを知った。 飼い葉桶と漁師舟と十字架。夢見たものとかけ離れた姿 にさせられたとしても、神は、その願いを生かされた上で、 さらに良く用いられる。すべてのものを迎え入れて、神の 子とされるため、一人の御子を十字架につけ、世のために 与えられた。神の愛の大きさをよく伝える。 聖霊を迎えて祈るときに、この物語は、私たちの心をゆ っくりと導いてくれる。 主の御前へ、と。 おはようございます。聖霊を待ち望む朝、皆さまととも に礼拝を守ることができましたことを嬉しく思います。 母親に連れられた私が、教会にやってきてから20 年以上の時間が流れました。幼稚園での日々、教会学 校の日々、いろいろな思い出があります。アルバムで見て 人からの話で聴いて、そのようなこともあったのかと振り 返るぐらいで、普段は忘れていることが多い、幼い思い出。 その中で、今の私が覚えていることが幾つかあります。 1個のアンパンの切り方を巡って母親と喧嘩したこと。 1個の丸いアンパンを食べるつもりでいた私は、4等分に 切られてがっかりしました。テーブルの下に隠れて、泣い て怒りました。 「話してくれれば切らなかった。でも、次からは一緒に 食べようね」 教会学校の先生をしていらっしゃったお婆さんに 絵本を読んでもらったこととか。 「鉄ちゃんも、イエス様と神様の喜ぶようなお仕事を見 つけられるといいね」 食べ物を分け合うことや、人の優しい声に耳を傾けるこ とを覚え始めた時であった、と私は覚えています。 時は流れます。 教会で洗礼を受けた高校一年生の夏。夢は牧師になって 働くことだ、と京都の学校で友人と語り合った日々。 初めに読んでいただきました物語の、三本の幼い樹の夢 と似ています。私が見てきた牧師たちは、皆、はっきりと 滑らかに語ります。憧れを持ちました。 そこからまた長い時が流れて、今日に至りました。小さ い頃からの不自由な体が、良くも悪くも、変化を繰り返し ました。腕の痛みが取れたり、首が柔らかくなったり、自 分で書くことができなくなったり、舌がよく動かなくなっ たり。その変化する心と身体の波間で、私は聖書の「みこ とば」を学んで来ました。 その日々はこれからも続きます。神さまがお許しになら れた人間の、皆さまの中にあるひとりとして、深く感じる 喜びがこの身のなかにあります。 さて、皆さまと共にいただきました今日の「みことば」 は、預言者エリヤが神さまから託されたことを人々に語っ て聞かせた時に、イスラエルを治めている者たち、神さま を忘れて自分たちだけの楽しみに耽っている者たちから、 激しい反対を受けて命を狙われた、その時から始まってい ます。エリヤは逃れました。 荒れ野に行き、えにしだの木陰に座り、悩み、横になっ て眠ります。主なる神さまの御使いに起こされたエリヤは パン菓子と水を与えられ、神さまのいらっしゃる山まで、 神さまのところまで旅をする力が与えられます。起きて、 食べなさい、と。耐え難い苦痛の道を歩くために。自分が 願ったことのため、自分が力に溢れて神さまの言葉を伝え たことのために、苦しめられたエリヤ。彼の胸にあるもの は、自分の居場所を無くしてしまいそうな危うさ、神さま を信じる心と神さまを讃美する歌とを、投げ捨ててどこか へ身を隠してしまいたいという嘆きだったでありましょ う。いや、ここで身を隠しても、神さまの前から姿をくら ましても、その先に喜びも楽しみも何もない、とわかって さえいたでありましょう。抑えられない心の痛み、居たた まれない激しい後悔が、エリヤを満たしていました。神さ まの山に到着するとどうなるのかも、エリヤは知らなかっ たのだ、と感じられてくるのであります。 絵本の、夢を抱いて大木に成長した三本も、その先が本 当はどうなるのか、自分たちの未来がどうなるのか知らな かったように。 わたしたちは、あなたたちは、いったい神さまの前でど うなるのでしょう。どのように用いられるのでしょう。誰 も自分では知りません。 山に着いたエリヤは、洞穴に入り、隠れて一晩を過ごし ます。主の言葉があるまで、隠れています。祈りもせずに、 訴えもせずに。 「ここで何をしているのか」 エリヤの傍で、神さまは静かにささやきます。寂しげなか ぼそい声です。神さまは、今まで黙って寄り添って待って いたかのように、エリヤにささやきました。エリヤは応え ます。訴えます。祈ります。正義に燃えて、情熱を持って、 神さま、貴方に従ったことを。貴方の言うとおりにしてき たことを。 「洞穴から出て、主の前に立ちなさい」 エリヤが出て行くより先に、神さまはエリヤの傍を通り過 ぎました。そうです。神さまはエリヤよりも先に、洞穴の 外に出て行ったのです。神さまはエリヤを待っています。 それでもエリヤはわからずに洞穴の中。神さまがどこにも いないと、悲しみ嘆き、神さまが寄り添っていたことに気 づかぬまま、捨て鉢に、醜い気持ちのままの言葉を叫んで、 中から出てきます。ここで神さまのささやきが聴こえます。 もっと細く、静かな声で、怒りもせずに。 「わたしはあなたの前にいる。わたしはあなたの傍らに いたのだ」 神さまを仰ぎ見るエリヤの顔は、どれほどの深い感動が表 れていたことでしょうか。 「神さま、私は貴方の言葉を果たします」 エリヤは主なる神の「みことば」とともに、来た道を引 き返して苦難に立ち向かっていきました。その道はイスラ エルの外へ、広く世界へ続いていました。これは神さまが 備えた道、私よりも先に行く神さまが光を照らしてくださ る、と。私の果たすわざを神さまは祝福してくださる、と。 あの絵本の夢見る三本の樹が、飼葉桶と漁師舟と十字架に させられて使命を果たし、どんなものにも代わることので きない姿で皆に思い起こされるようになったように。 今日は日曜日、私たちはここに集められて礼拝を守って います。十字架によって血を流され死んだイエスさまが甦 り、天に昇られてから幾日か過ぎています。 私たちが礼拝のなかで、一つにされて祈っているように して、イエス様の弟子たち、家族たち、名もない人たちは 祈っていました。聖なる霊が送られて、心と身体が満たさ れる時を、皆、祈りを一つにして待っていました。神の霊 に満たされる時、人々は神さまが、わたしたちの前に、わ たしたちの傍らにいてくださることを知ることができま す。エリヤのように、暗い旅路は照らされて、広く世界へ 開かれるのであります。 やがて聖霊が天から降り、私たちひとりひとりに注がれ る、その喜びに満ちた日、ペンテコステがいま近づいてい ます。 私たちは共に喜びの歌を歌います。 聖霊は 私たちのなかに、 貴方たちのなかに、 聖霊よ 今、おいでください。 あなたのわざと あなたのみちのため。 ――黙祷いたします。 |
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説教題 「祝福の源となるように」 |
2003年11月9日 朝礼拝より 旧約聖書 「創世記」 12章1〜9節 旧約聖書 「詩篇」 105章7〜15節 新約聖書 「ヨハネによる福音書」 8章51〜59節 聖日の朝。曇天の切れ間から覗かせる青い色に、私たち は「綺麗」と言葉を口にするだろう。晩秋の頃となり、キ リストに結ばれて生きる私たちにとって今、この上なく大 切な日々を送っている。11月――一年の終わりの月を迎 えた。教会の暦で一年は、イエス・キリストの誕生を待ち 望む12月の待降節に始まって、11月の収穫感謝と各々 の教会の働き手に労わりの思いを寄せる謝恩の日々をも って終わる。そのときには互いに感謝し合い、右の手を結 び合い、私たちは互いに祝福し合うのだ。 今日この朝に私たちは、主から与えられた御言葉のパン を分かち合って味わおう。愛と真理の主の物語は、私たち に必ず美しい光景を見せてくださる。遠く離れたカナンの 大地に生きたアブラハムの物語。彼は、もとの名をアブラ ム、三人兄弟の一番上だった。まだ神さまと出会う前のこ とである。 では、ヘブライ語の創世記を日本語に翻訳した本から 12章を読んでみよう。聖書新共同訳が丁寧に慎重に、定 規で測ったようにして翻訳されたものであることは知ら れているけれども、それよりも意味に忠実で新しく翻訳さ れた本が岩波書店から出ており、私たちの学びと働きにお いても大切な助けとなっている。 主はアブラムに言われた。 あなたの地、あなたの親族、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民の父としよう。 あなたを祝福し、その名を大きくしよう。 あなたは祝福の基となりなさい。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたを呪う者をわたしは呪う。 大地のあらゆる種族はあなたの名によって 祝福し合うであろう。 アブラムは主の語った通りに出て行った。 父と弟たちとともに生まれ故郷を離れ、遠いカナンの大地 を旅したアブラム。やっと腰を落ち着けたハランの街で父 が亡くなった。父の跡を継いだアブラムは75歳になって いた。妻サライと二人、街の片隅でひっそり老いの暮らし を楽しむ。寂しいことはない。甥っ子のロトもいるではな いか。 そのアブラムの前に主なる神ヤハウェは顕れた。この土 地を出て、わたしの示す土地にゆけ、と。あなたをわたし は選んだ、と神ヤハウェは言われたのだ。 アブラムは、これからアブラハムという新しく大きな名 前で呼ばれ、彼の家族――大人と子ども全ての人をハラン の街から導き出していく波乱に満ちた人生の幕が、主の御 手によって開かれたのである。男75歳の旅立ち! 子や 孫に囲まれて何もせずに日々を送ることもでき、また苦し みと悩みが大きくなることもなかったであろう。けれど、 アブラムは主の語った通りに出て行った。 神さまは言われる。わたしとともに旅してゆく事が、あ なたの道だ、と。人間に対して何と惨い仕打ちをするのだ ろう、と私たち――今日ここに呼び集められている会衆は 御言葉の苦い味わいに思わずたじろぐ。 でも、私たちは思う。アブラハムの顔を見てみよう。こ の白髪交じりの男の顔は・・・・・・果たして、歪んで沈 んでいるか。いいや、この皺皺の顔は楽しみに溢れている。 何に引き比べても決して砕かれることのない喜びの光景 をアブラハムは見た。私たちはアブラハムの見たことを、 全く同じように見た。今ここで、私たち会衆は見て知って いる。 ヨハネ福音書に映し出された物語。私たちが確かに知っ ている物語。まことのキリスト、イエスは何と言われたか。 私たちは今日ここで耳にした。聖書新共同訳、ヨハネ8章 を思い起こそう。 あなたたちの父アブラハムはわたしの日を見るのを楽 しみにしていた。 そして、それを見て喜んだのである。 ――はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から 『わたしはある』 わたしはある。ヘブライ語の出エジプト記3章に出てきた 神さまの名前。私たちが呼ぶことのできる名前エフェル アシェル エフェル。 そして今を生きる私たちのキリストの名前はイエス。今 や神さまは人間の姿になって、大地を歩いておられる。天 に満ちている神さまの愛を、主なるイエス・キリストは教 えておられる。アブラハムの名前を大きく高々と掲げて、 人々に祝福の道を教えておられる。アブラハムは見たのだ。 遠い時の彼方に、神さまが人間とともに歩かれて、何ひと つ変わらずに人々に旅の道を示しておられるのを見て喜 んだのだ。 聖なる神ヤハウェは約束を守ってくださった。慈しみ深 い主の御声が私たちの魂に向かって響く。これほどの声は 他にない。 大地のあらゆる種族はあなたの名によって祝福し合う であろう。 私たちは11月の日々の中で、神さまに感謝し、お互いを 祝福し合っている。私たちの父アブラハムを憶えるとき、 私たちはあの讃美歌を歌う。 苦しみ悩みも奇しき恵み、今日まで守りし主にぞ任せん。 そして、皆の前に立って、預けられた御言葉を語ることを 許された私にもアブラハムから受け継がれた輝くばかり の人間の命がある。障害のため、いつか皆よりも早く人生の 老いの苦しみ痛みが襲ってくると知っていても私は恐 れない。皆も同じく恐れることは何もない。アブラハムの ように年を取って、朽ち果てていくばかりのときにも、神 さまは恵みを豊かに与えてくださる。私は、一週間の前半 に訪れる二つのグループホームで、楽しく歌って語り合っ ている。その人らしく生きていくことを、主はとこしえに 御心に留めてくださると私たちは信じている。 苦しみと悩みを越えて新たな土地に立ち上がる、生き生 きとした人間の姿を、年老いても与え続けて、生涯の終わ りまで支えておられる神さまの祝福。私たち人間は、神さ まの御前に立つときに矢も盾もなく、お互いを祝福するの だ。祝福し合わないではいられない、人間は愛し合わない ではいられない。とこしえに主は私たちの神であられる。 さあ、私たちは信じて、心を聖霊の炎に燃え立たせて教会 を出て行こう。アブラハムが神さまに従って出て行ったの と何も違えずに、私たちも祝福の源になろう。神さまの御 栄えと慈しみとを語り伝えてゆく伝道の業は、私たちの手 にある。日々の中で苦しみ悩みを恵みとして、隣人に分か ち与える祝福を決して絶やさない。祈りの業を絶やさない。 私たちの歩みは神さまとともにあるのだ。 結びに、私たちが口ずさんで止まない詩篇のうたを以っ て、説教「祝福の源となるように」を締めくくる。心静か に、言葉のひとふしひとふしに耳を澄まそう。 ――詩篇105章。 主はわたしたちの神、主の裁きは全地に及ぶ 主はとこしえに契約を御心に留められる。 千代に及ぼすように命じられた御言葉を。 ハレルヤ! 千代を越えてとこしえに祝福を及ぼすよう−― 祝福の源になるように、と命じられた主の御言葉に従う人々、 あなたたちに主イエス・キリストのまなざしがあるように。 黙祷― 礼拝の終わりに、会衆の前に立つ聖職者が手を上げて祝福。 祝祷 鉄心伝道師 さあ、右の手を固く取り合って今 私たちは出かけよう 主の輝きを見るために 主の御心を果たすために あの名前を語り伝えるために 仰ぎ希わくは 大地を歩くイエス・キリストの恵み 天に満ちる神の愛 心燃やす聖霊の交わりが 我ら会衆一同の上に 今もそして幾千代を越えて とこしえに豊かにあらんことを |
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説教題 「心に広い道を築く霊」 |
説教要旨 2002年4月24日 夕礼拝より 新約聖書 「ルカによる福音書」1章5〜25節 こんばんは。聖書の御言葉を聴く夜となった。 ルカによる福音書1章5〜25を読み合おう。 口の利けなくなった祭司ザカリア。祭司が物言わぬ。 それは、あの遠い時代のユダヤ人たちにとって、 とてつもない驚きと戸惑いであったろう。 務めの時間に、ザカリアは何を思ったのか。 妻エリザベトは? これまで無事に果たしてきた仕事が今はできない。 目標が成し遂げられない。 思うことを言葉にできない。 今を生きる私たちにとってさえ、何と身近な苦しみであることか。 今日、皆の前に立つ私、鉄心も思うことをスラスラと 語ることができない人間の一人だ。この身体に負っている 脳性まひという障害が、見ての通り、身体を震わせ言葉の 発音を不明瞭にする。どうしよう、どうしよう、と 焦燥を覚える。しかし、神はこの私に働く力を与え、 支えてくださっている。 神は言われる。 心と心が結ばれるように願いなさい。 結ばれた心が広い道となっていくのを見せよう。 あなたの言葉が滑らかでなくとも、時間がかかろうとも、 わたしはあなたを通して語らせる。聴き続ける人々が ここに待っていることを、あなたは今、知って 信じなければならない。 本当にそうだろうか。自分にできないことを代わってくれる 他人、自分ができるまで、待ってくれる人がいるだろうか。 兄弟姉妹の交わり、とはそれほどまでに温かく信じられる ものなのか。 洗礼者――神の子イエスを予告する預言者ヨハネの誕生。 ヨハネは祭司ザカリアの息子。妻エリザベトは、我が子の 誕生に臨み、夫ザカリアに代わって喜びと感謝を言い表した。 そして、二人は子どもを抱いて、互いの心を結んだ。 「自分たちも親となったのだ」、と。 ザカリアの前に現れた天使ガブリエル。 天使の伝えた「神の御言葉」。 幼きヨハネが、どういう人物になるのか、を 天使に告げられた。ザカリアは思い起こす。あの時から 口が利けなくなり、自分は苦しんだ。しかし今は、妻がいて 子どももいる。結ばれて生きているのだ。これは神の御業なのだ。 イエス到来に先立ったヨハネの物語。 ルカが見た、「歴史に歩まれる神の、深い計画」の最高潮が 始まったのだ。 自分を待つ人がいる。そして神が自分を待っておられる。 皆と分かち合う今宵の聖書の物語――私は大きな勇気と慰めを 得た。これからの日々、皆とともに歩いていきたい。 詩編51編3〜8。私たちの思いを詩に重ねて今、静かに 目を閉じて祈ろう。 【コメント】 2002年4月24日〜2003年3月23日。 私が洗礼を受けた教会に戻り、信徒伝道者となり、やがて伝道師 に就任し、働きを担った一年は、瞬く間に過ぎ去った。 その初回の説教が「心に広い道を築く霊」である。 脳性まひのアテトーゼ(不随意運動)が、オーバーロード (暴走)したために、80分も費やしてしまった。迷える我が身の 忘れられぬ記念となった。 かけるだけの恥はかいた・・・・・・人間はそういうときほど 冷静になるのかもしれない。 f(^^;)ポリポリ |
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説教題 「耳澄ます祈り、待ち望む霊」 |
2002年5月1日 夕礼拝より 新約聖書 「ルカによる福音書」1章39〜56節 エリザベトとマリア、二人の女の出会い。 彼女たちは、やがて母となるべきもの。 胎内の子が踊ること。その喜びの何と大きなことか。 身に宿った命、その手や足が奏でる音を感じ取る。 喜びは、聖霊の訪れ。 欠けていたものが補われ、充実していく気持ち。 聖霊に満たされるエリザベトは、若い娘マリアの前に立つ。 男の人を知らぬまま処女のまま、子どもを宿した娘。 許婚のヨセフも戸惑い、マリアから離れようとした。 驚くべき御業も、主なる神の息遣いも、その欠片のひとつさえも、 理解できなかったマリア。しかし今、娘は知った。 エリザベトを通し、自分の胎内に芽生えた命を通して 伝わってくる温もりを。耳澄まし、待ち望む。 今宵、聖書を皆と分かち合っている私は男性であるから、 新たな命が身に宿る、という感覚を知る術はない。 しかし、私が母親の胎内にいたときには、きっと母親は 喜んだのだろう、と思い浮かべる。 神の御子、私たちのキリストは、この時、この若いマリアから 生まれようとしていた。 マリアは祈る。 「お言葉どおり、この身に成りますように」 主の言葉を信じる人は幸いに満ちている。 エリザベトもマリアも。今を生きる私たちも、 主の言葉を信じて生きている。 キリストは、私たちと同じ姿をして、この世界に 来てくださった。私たちは思い起こし、信じよう。 |
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説教題 「尋ね求める舌、仰ぎ見る霊」 |
2002年5月15日 夕礼拝より 新約聖書 「ルカによる福音書」3章1〜20節 洗礼者ヨハネは群衆に語った。 「蝮の子らよ、その舌を持つものたちよ」 罪を悔い改める者だけが仰ぎ見るであろう神の救い。 不法を悔い改めない者の上に臨む神の怒り。 神の救いと怒りとを、天秤で量ろうと考えてはいけない。 神の霊は、私たちを愛し、支えて、歩かせてくださる。 そして、必ずや救いを仰ぎ見させてくださる。 御前に立つときに、何を惜しむことがあるのか。 人間が神の眼差しを受けるときに、何か誇ることができる財産があるのか。 そのようなものはないのだ。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」 ヨハネが告げた。人々は皆、ヨハネを見て、自らの舌を動かして 尋ね求めた。救われるために、悔い改めるために、どのような 行いをし、今を生きればよいか、と。人々の舌が、神の救いを 尋ね求める舌に変えられていったとき、神の霊は人々の中に 入っていった。まるで水が土に染み込んでいくようにして。 「持っている財産を分け合え。定められた以上のものを 取り立ててはならない。自分に与えられたもので満足せよ」 ヨハネの言葉は人の心に響いた。 皆の前に立っている私は、子どもの頃から舌を動かすことが 不得手と見られた。脳性まひという障害は、脳が成長する過程が 通常のそれとは大きく異なる。だから、本人にとっては 普通であっても、周囲にとっては不明瞭な発音の喋りで あっただろう。私はそれを感じながら生活したし、訓練で 改善しようともしてきた。けれども、本当に他者との絆を 信じあって話すときには、障害を気にかけることはなかった。 今宵の御言葉に重ねつつ、絆を尋ね求める人間の舌を思い 起こす。ヨハネが人々の心の道を整えている。そこを歩いて、 私たちのキリストが現れる。 |
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