無題の書庫
乾いた空気に木霊する息吹
ぎい
青銅の枠が嵌った扉を押し開く
旅人が目にしたのは夥しい数の書物
黒光りする何かの金属で装丁が施してある
しかし、どれにも題名がない
そして、旅人は一冊を手に取ると
読み始めた

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 ***頁を捲ると・・・***

( 1999/07/07 という日付がある。)
( 書き記した時のものだろうか。)


 旧約聖書は全部で39巻。

 日本語翻訳のキリスト教聖書に収録されている題名の順番は
次の通り。

 創世記  出エジプト記  レビ記  民数記
 申命記  ヨシュア記  士師記  ルツ記
 サムエル記 上 下  列王記 上 下
 歴代誌 上 下  エズラ記  ネヘミヤ記  エステル記
 ヨブ記  詩編  箴言  コヘレトの言葉
 雅歌  イザヤ書  エレミヤ書  哀歌  エゼキエル書
 ダニエル書  ホセア書  ヨエル書  アモス書
 オバデヤ書  ヨナ書  ミカ書  ナホム書  ハバクク書
 ゼファニヤ書  ハガイ書  ゼカリヤ書  マラキ書

尊敬すべき先人たちは、神学校・教会・おのおのの寝室などと
いった場にあって、この題名配列を歌にして記憶したという。
 少年のとき、私は銀髪の教師から一度だけそれを聴いたことが
ある。ふるさと日本の「八百万ーーヤオヨロズ」の信仰と風景を
思い出させる、郷愁の滲む替え歌であった。
 キリスト教の聖書は、旧約39巻と新約27巻で成り立つ。
だから替え歌には2番がある。・・・惜しいかな、私は
2番を聴いていない。
 この欠落が、我が探索にとって凶とならねばよいが。

 さて、以下に並べるのは、キリスト教の配列ではなく
ユダヤ教の聖書としての配列。現代より遡ること3000年。
紀元前の時代にあった古きイスラエルの民。その流れを
継いだユダの民、彼らは始祖たちの思い出を歌って生きた。
イスラエルとユダの記憶は、歴史のもたらす幾多の嵐にも
滅びずに、死海のほとりに留まった。
 やがて聖なる書がひとつひとつ現れていき、
群れを成していく・・・・・

 第一部  律法
  創世記  出エジプト記  レビ記  民数記
  申命記

 第二部  預言者たち
  《さきの預言者》
   ヨシュア記  士師記
   サムエル記 上 下  列王記 上 下
  《のちの預言者》
   イザヤ書  エレミヤ書  エゼキエル書  
    ホセア書 ヨエル書 アモス書 オバデヤ書
    ヨナ書  ミカ書  ナホム書  ハバクク書
    ゼファニヤ書 ハガイ書 ゼカリヤ書 マラキ書

 第三部  諸書
   詩編  箴言  ヨブ記  雅歌  ルツ記
   哀歌  コヘレトの言葉  エステル記
   ダニエル書  エズラ記  ネヘミヤ記
   歴代誌 上 下

 題名の配列をテーマにした論文やレポートが山のように
作れる、という噂があった。今のところ未確認だが・・・・・・


 ***頁を捲ると・・・***

( 2002/02/26 という日付がある。)
( 書き記した時のものだろうか。)



   詩想   使命と道を得た我が妹に寄せて




 妹よ、あなたを祝す

 音楽と沈黙を学びにゆくものよ
 神に仕えて、喜び踊れ

 耳を開かれる神の前でいのちは澄んでゆく
 神は沈黙し、わたしたちの声を聴かれる
 わたしたちの肉と骨を見られる

 あなたは音の深さを聴く耳を与えられた
 わたしは脳障害を与えられた
 見聞きする力は芳しくないけれど
 わたしはあなたに伝えるものを持っている
 兄は神学の道を旅して学んだのだから
 人間はいのちを讃美する生き物だと

 音楽を愛する妹よ
 いのちを育む海を与えられたあなたは幸いだ
 海を宿すものは愛を知る
 寄せて返す波は風と海の対話
 風の風なる神は、人の間を歩まれる
 自らのうちに風を迎える時、音楽は生まれる

 妹よ、あなたは故郷から旅立った
 わたし、兄からも言葉を贈った

 聴く、見る、その求道者が必ず知る言葉を
 神を知り、褒め歌え、みどりと萌えるいのちで

 あなたの道を下見しに駆け回った
 父母はあなたを祝し、涙を流した
 かって、わたしがそうであったように
 あなたものんびりと休み、叱責される
 「親に動き回らせて何事か」と

 いまは安息するがよい
 学び舎での鍛錬の日々が近づいているのだから
 叱責も心に留めよ
 父母の安堵が込められている

 近く訪れるその日を待つわたし
 妹よ、あなたの奏でるピアノの旋律は
 飾らぬ野の花が景色を彩るような
 すべてを抱き、撫でて消えていく風のような
 温もりのある音楽と沈黙を聴かせてくれるであろう

 兄は静かに待ち望む
 あなたに訪れた神の祝福が何であったかを知る時を

 神学に生きる兄から音学に生きる妹に心を贈る
 おめでとう


 ***頁を捲ると・・・***

( 2003/09/16 という日付がある。)
( 書き記した時のものだろうか。)


 讃美歌集を読み解くエッセイ


 21-509 「光の子になるため」
 アメリカ聖公会の信徒キャサリン・トマーソン作詞作曲。
 1966年、異常気象に見舞われて暑い日々が続いていた
アメリカ。遠くからキャサリンを訪ねてきた母を車で家まで
送り届ける途中で着想された。広大なアメリカで、遠距離を
車で行くというのは、日本で言えばどういうことか? 
青森から鹿児島へ行くようなものだ。その頃、航空会社は
ストライキの真っ最中であった。私たちの日常生活のなかで
想像してみても、余計な手間を食わされるというのは
何とも不安な時間である。暗闇のなかを歩くのにも似て。
 主への深い信頼と信仰とを歌い上げる。

「光の子となるために、あなたに従ってゆきます」

この歌詞から伝わってくる光のイメージの洪水は、
歌う者の心を聖書の御言葉の持つ輝きに誘うであろう。
 聖書に記されている光のイメージに私たちは眼差しを向ける。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。
 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに
 成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
 暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1〜5)
 「光の子となるために、光のあるうちに、
 光を信じなさい」(ヨハネ12章36)
 「あなたがたはすべて光の子」(1テサロニケ5章5)
 「夜も光がわたしを照らし出す」(詩139章11)
 「光の武具を身に着けましょう」(ローマ13章12)
 「しかし、ただひとつの日が来る。その日は、
 主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、
 夜もなく、夕べになっても光がある」(ゼカリア14章7)
 光は神であった。光は命であった。天地創造のとき、
またメシアとして生身の人間イエスとなって大地を訪れたとき、
主は闇の中に進み、照らし出す光となられた。
その御心を誰も理解する者のないときにも、主は歩み、
全ての生きている者たちを自らの身体に結び合わせていった。
全ての命を、滅びの底から引き上げるために。
夕べになっても暗闇になることのない日が来る。幾多の夜を越えて
朝を迎えてきた私たちの魂が、その日には永遠の朝のなかに迎えられてゆく。
 ……新潟市内キリスト教一致祈祷集会で私はこの歌に出会った。そして前任地の教会が会場となった夜に私は全てを任された。
前任時代の集大成ともいうべき思い出の宿る歌。
 私の愛唱歌21-407とともに大切にしている。


 ***頁を捲ると***

( 2003/11/22 という日付がある。)
( 書き記した時のものだろうか。)


 確か、15年前だったか。
 私は、一族のルーツを辿ると行き着く、とある港町にいた。
 大正のころから変わらぬたたずまいの家屋が並ぶ町。

  魚屋の隣に餅屋、餅屋の隣に魚屋、魚屋の隣にパン屋、
  パン屋の隣に寺院、寺院の隣に畳屋、畳屋の隣に薬屋、
  薬屋の向かいに駄菓子屋、郵便局の隣に古井戸、古井戸の
  向こうに猫屋敷、猫屋敷の向こうに本屋

海坊主の伝説もある古い港町。私は一族宗家の家に遊びに
来ていた。家の庭から続く裏山には昆虫もいたし蛇もいたし、
退屈はしない。(ちと)怖かったのは確かだが。

 磯の香りだらけの街道を行き、古井戸の脇を通り抜けて
小さな本屋に行くと・・・・・・あるわ、あるわ、ホラー
コミックの山が。ほとんどが女性誌や少女コミック単行本
だったから、いま思うと、あの港町の女たちは飢えていたの
だろうか。「幻想」「怪奇」「恐怖」という愉しみに。

 さて、少年だった私は、或る時に、その本屋で見つけたのだ。
 作家ラヴクラフトを特集した雑誌を・・・・・・

 怖くて、難しくて、面白い。
 「クトゥルフの呼び声」「ダンウィッチの怪」
 「狂気の山脈にて」「超時間の影」
だったかな。

 女の子向けに多かった
 「へび少女の御伽噺」
 「娘を食べる母親の惨劇」
 「奇怪な赤ん坊を産んでしまった母親の悲劇」
 
 御茶漬海苔の「惨劇館」シリーズとか・・・・・・
       f(^^;)  へ(__へ)☆\(^^;)

というような漫画を立ち読みしていた少年には新鮮で
衝撃的だった。SFホラーの趣味は、このときからの
ものである。
 もともと特撮ものにハマっていたから、自然な
成り行きだったかもしれない。
 その割には、必殺!、の「悪人吊り上げ」シーンとか
見ると、妹と一緒になって怖がっていたりして。。。(;^_^A
子どものころというのは好みが変わりやすいものだ。


 ***頁を捲ると・・・***

( 2003/12/02 という日付がある。)
( 書き記した時のものだろうか。)
 今日、皆さんと旅をすることになるのは…・・・4つの物語
出エジプト記2章1〜10節
ヨハネによる福音書6章26〜35節
ルカによる福音書1章46〜56節
そして
マタイによる福音書1章1〜17節
 ――おはなしの――あらすじ――
 神さまが、私の小さな魂を顧みて、私の手に預けてくださった
物語。心を開く私たちに主は美しい光景を見せてくださる。
喜びに溢れて私は語る。
 ……と、聖書の旅へ御案内する前に、私自身のことを
皆さまに紹介しておきたい。
 私の名前は鉄心。小さな教会の伝道師である。
 如何にして私が教会と出会ったかというと……名も知れぬ
1人の娘に連れられていったのだ。不思議な話だ。
彼女はまだ若かった。夫との間に1人の男の子をもうけた頃だ。
「おかあさん!」「かあちゃん!」「おかあ!(父親のマネを
して覚えた。粗野だねえ)」、私は、そう呼んでいた。
私が成長して、人と人との関係を大事にしてゆけるように
なったとき、同じように母親の人格「ミャシー」さんの名前を
大事にするのである。幼い子どもにとっては、父や母、家族が
いることが何より必要なこと。名も知れぬ男であろうと
女であろうと気にしないのだ。でも、心育まれて大人になる
ときに、子どもは名前をしっかりと大事にするようになる。
 ともあれ、教会という場所を知った私は、聖書という
限りなく湧き出す想像力の泉に心惹かれるようになる。
これは御伽噺の世界だ。メルヘンの模様がいたるところに
織り込まれている。そして、これから人生の終わりまで
関わり続けていくのである。
 人間は神さまと同じにはなれない。神さまの前では、
誰もが小さな子どものままだ。どうして?
……なぜなら神さまの名前は誰も知らない。長い時間、
神さまと人間は一緒に歩いてきた。名前も姿も知らない神様が、
いろいろなことを教えてくださったけれど、人間はすぐに
飛び出して帰ってこられなくなる。そのたびに神様は探しに
来てくれた。
 そして、神さまはイエスという名前を持った男の子になって、
私たち人間の下に来てくれたのである。ひとりも見失うことなく、
皆で心を合わせて、神様のところへ帰ろう、と
イエス・キリストは言った。
 では、聖書の旅に出発しよう。

 遠い時代の儚げな思い出。私たちの住む日本という故郷では
想像もつかないほどの、夥しい流血と大地を揺るがす叫び声の、
果てもなく荒れ狂った時代が、エジプトの国にあった。
 天地を創られ、全て生きとし生けるものを愛し続けておられる、
とこしえの光、光である主は、私たちの神さま。私たちの
まことの王。その御方を畏れず、命を命とも思わぬ恐ろしい
人間の王がエジプトに現れた。ファラオのくだした、
血も涙も息吹さえも、冷たく凍りつく命令が、イスラエルの
人々を襲った。
  「すべてのエジプト人たちよ。イスラエルの赤子のうち、
  生まれてくる男の子はすべてナイル河に放り込んで
  殺すのだ。女の子は生かしておくがよい。何も問題はない。
  そればかりか、あなたたちに従う奴隷となり、また解き
  放たれて誰かの妻となり、エジプトを栄えさせてくれるで
  あろう」
故郷カナンの大地を離れて、言葉も文化も異なるエジプトの
人々と、苦楽を分け合ってきたイスラエル人は今、奴隷の
苦しみ悩みに追いやられて滅びようとしていた。多くの
母親の叫び声があった。
  わたしの産んだ子どもを殺さないでおくれ。
  わたしの息子よ、わたしの息子よ。
  誰が忘れても、わたしだけは忘れない。
  わたしの身体が覚えている子どもの重さを、誰にも奪わせない
  子どもが幸せを掴むのを見届けさせておくれ。
  わたしの命が許される限り、いつまでも、いつまでも。
けれど、女たちの思いはすこしも問題にされなかった。
誰にも、女たちの夫や父親にも、問題にされなかった。
エジプトだから仕方ない。神さまが何もしてくださらないの
だから仕方ない。男たちは、或る者は物憂げに、或る者は
あっさり答えた。まるで、半世紀以上の昔に太平洋戦争の
泥沼にあった日本で、子どもたちを戦争に送り出した
母親たちの姿にも重なる。
 あの時代、エジプトの国が命を奪い尽くす暗闇に
閉ざされつつあったころ、ひとりの女が、男の子を隠した箱を
両腕に抱えて、ナイル河の岸辺に歩いてきた。辺りを
見回しながら女は男の子を隠した箱を置いて、振り返ることも
なく立ち去った。――葦の茂みの間に。
 ここからは旧約聖書「出エジプト記2章」のヘブライ語本文を、
聖書新共同訳より新しく、より忠実に翻訳した文章を読んで
みよう。翻訳というものは数多くあるが、日本に生まれた
人間の言葉の味わいを大切にした翻訳では、岩波書店から
出ている書物があり、私たちを助けてくれる。聖書新共同訳と
結び合わせつつ、私たちは目を閉じて、耳を傾けよう。
  彼の姉が、彼の身に何が起こるか知ろうとして、遠くに立って  いた。
  ファラオの娘が水浴するためナイル河におりてきた。
  彼女の侍女たちはナイル河の岸辺を行き来し続けていた。
  ファラオの娘は葦の間にあの箱を見つけ、仕え女をやって、
  取ってこさせた。ファラオの娘は開けて、男の子を見た。
  すると、その子が泣いている。ファラオの娘は、
  その子がかわいそうになり、言った。
  「これはヘブライ人の男の子だわ」 
  男の子の姉がファラオの娘に言った。
  「行って、あなた様のために、ヘブライ人の女の中から
  乳母を呼んで来ましょうか。あなた様のためにこの子に
  乳を飲ませます。」ファラオの娘は彼女に言った。
  「お行き」 その女の子は行って、男の子の母親を
  呼んできた。
ナイル河の冷たい水の中に、小さな女の子がそろりと足を入れた。
じわりと痛みが膝の辺りまで上ってくる。女の子は、
母親が置き去りにしていった弟の箱を探した。
まだ遠いのだろうか。まだ見つからない。小さな背丈が、
ナイル河の岸辺に生い茂る葦に紛れて見えなくなった。
澄み切った青空に吹くそよ風のようにして、娘の声が
呼び求めている。
  神さま、あたしの弟はどこですか。
  かわいい赤ちゃんはどこですか。
細い子どもの腕が、モーセの箱を探して、彷徨っている。
まだ何も知らない、少女の心。男と女の愛情のこと、
母親になること、その喜びも悲しみも知らない心。
でも、女の子はひたむきに弟を探す。あたかも
母親のようにして、呼び求めている。弟の身に何が起こるかを
知ろうとしていた。
 遠くで声がした。エジプトのお姫さまの声だ。
遠くから目を凝らすと、いた! お姫さまの腕の中に赤子がいた。
お姫さまが「男の子はモーセと名づけます。わたしが
育てましょう。わたしは男の人を知らないし、まだ母でもない。
誰か乳母になれる女がいるといいのだけれど」と言うのが、
聞こえた。
  あたしの弟はモーセになったんだね。
  死なないでいいんだね。
  あたしはまだ子ども。小さくて何もできない。
  お母さんにはなれないけれど、あたしも何かしたい。
  あたしの神さま! 勇気をください。
目に見えぬ主の御手が、背中を優しく後押しした。
女の子は駆け出していき、お姫さまの前まで来ると、
ひざまずいて、ひれ伏して、礼儀を守り、勇気を出して
告げた。
  あたしが乳母を連れてまいります。
こうして、モーセはエジプトの王子となった。やがて彼は、
イスラエルの民を導く、偉大な預言者として、ファラオと
対峙してゆく。
 ひとりの身分の低い、小さな、雑用ばかりの奴隷女として
扱き使うに満たないような、名も知れぬ少女の愛と勇気が、
男の子モーセを救ったという物語である。
 私たちの神さまは、モーセを救ってくださった。
神さまは男の子の姉を遣わされたのである。神さまの振るわれる
右の御手は私たちの目に見えないけれど、成し遂げられた
御業の美しさを私たちは信じることができる。
 聖書新共同訳ヨハネ6章を読んでみよう。私たちの主、
私たちの間を歩かれて大地を旅するイエス・キリストは、
私たち人間に教えておられた。
  そこで彼らが、「神の業を行うためには何をしたら
  よいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。
  「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業で
  ある」
名も知れぬ小さな娘を通して行われた、神さまの恵みの御業。
神さまの御心が私たち人間の魂の器に、なみなみと注がれる。
モーセが救われたようにしてイスラエルを救い、
イスラエルを救ったようにして世界の全ての人々を救うとの
約束を神さまは幾千代を越えてとこしえに守ってくださる、と
私たちは信じる。
 私たちは知っているではないか。私たちのキリストは
誰から生まれたのかを。マリアという少女。名も知れぬ、
身分の低い、小さなはしためのような娘に、神の子イエスは
託されて生まれてきた。まだ男の人を知らぬ娘マリアの
愛を受けて私たちのキリストは育てられた。全ての人を救う
との約束を果たすために、主は私たち人間のもとにおいでに
なった。私たちに聖霊の炎を与えてくださった、神様の
御業の何と素晴らしいことか。モーセの姉として
語り伝えられる少女の名は誰も知らない。
 主の恵みを受けて勇気に心燃やした少女は弟を救った。
マリアがイエス・キリストを託されたとき、信仰に満ちて
歌った讃美の歌がある。神さまから遣わされた女たちの
喜びの歌声。その響きが、今を生きる私たちに彼女たちの
息遣いを教えてくれる。ルカ1章に書き残された、
マリアの歌声を私たちは思い起こそう。
  わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は
  救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
  今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と
  言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことを
  なさいましたから。
  その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、
  主を畏れる者に及びます。
私たちもまた、今この時代、クリスマスに讃美歌を歌う。
私たちもマリアのような名も知れぬ娘たちの足跡を
歌い続けている。讃美歌のなかにこういう歌がある。
  あがめます、主を。わが魂。たたえます、主を。わが心は。
  名も知れぬ娘、主はあえて選び、御子の母として用いられた。
私の好きな歌の中でも、とりわけ強く魂を揺さぶられる
歌である。信仰と祈りの業の力強さに、私の心は喜びで
溢れる。この神こそ、まことに生きておられる御方。
私たち全ての人間を、男と女、大人と子ども、誰ひとり
失われることなく救われる神さまなのだ。
 ハレルヤ! 私たちの歩みは神さまとともにあって、
決して途絶えない。あの恐ろしくも悲しい思い出の残る
ナイルの河。岸辺に生い茂る葦の茂みの間にあった
小さな命の箱。その箱が示した神さまの救いの約束を、
私たちは心に留める。名も知れぬ娘たちが歩いたようにして、
命の終わりまで私たちも主の道を歩いていこう。
父と子と聖霊のひとりなる主の恵みが、今日から始まる
私たちの新たな日々のうちに豊かにあるように。
 終わりに、マタイによる福音書に出てくるイエス・キリストの
系図を眺めてみよう。
  アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
  アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、
  ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダは
  タマルによってペレツとゼラを、ペレツは
  ヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
  アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、
  ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによって
  ボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドは
  エッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
  ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
  ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、
  アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトは
  ヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、
  ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤは
  マナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
  ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤと
  その兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、
  エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルは
  ゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドは
  エリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、
  サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドは
  エレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
  ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから
  メシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、
  全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、
  ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ
  移されてからキリストまでが十四代である。
文章で読むと分かりにくいのが一目瞭然。このようなものを
読んでも何の感動もない……と思ってしまうだろう。
 けれども、この系図を指で辿ると、私たちは大きな驚きに
出会うことができる。何と! 子どもを産んだ女性の
名前が殆ど出てこないということが分かる。イエス・キリストが
現れるまでの長い道のりの中で、数多くの名も知れぬ
女性たちが命を残してきたのだ。今日ここに集まった
私たちが出会った聖書の物語。この限りなく広い聖書は、
数多くの名も知れぬ娘たちの物語であると、いまや私たちは
知っているのだ。今日、私たちは聖書について勉強したのでは
ない。聖書の物語は、名も知れぬ娘たちの生き生きとした
心の物語、これは今を生きているあなたたちの真実の物語。
聖書は限りなく楽しく、わくわくして面白いものなのだ。



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