富山県の山(4)

期   間 2010.6.11〜25
登った山  前医王山  蔵王山  竹里山  布勢円山  古能久礼山
       経獄山   小白山   安居山  八若山    天王山  山の神
       高峰    白木峰   森田山

 
 富山県はその名の如く山の多い県である。石川県の隣で近いので、いつでも登れると思い、多くの山を残していた。登る山が残っているのは楽しみも多い。何回かに分けて登るとしよう。

6.11.金
 曇。富山県の西側、石川県に近い方で15山ばかり選んだ。梅雨の晴れ間を縫っての山登りである。
 6月に入っても目まいが何度かあったので、日帰りで、女房が同行する。

 前医王山(612m 富山県南砺市)                    ルート地形図
 「医王山信仰で金剛界、胎蔵界とよばれた山」
 医王山には幾つも峰がある。白兀山、医王山、奥医王山、三千坊山、前医王山などである。前医王以外は登っているようなので、今回前医王に登る。
 金沢から夕霧峠を越えて富山県に入り、三千坊山の南に国土原休憩舎がある。ここが登山口である(12:00)。
 登山口は高度800mであり、前医王は600mであるから、200mの下りの道である。往復するから運動量は同じである。もちろん下から登る道もある。
 やや藪化しているが、ネマガリダケの筍を採取した人があり、道は明瞭である。ネマガリダケの筍は時期を過ぎているが、あちこちに残材が散らかっている。延びた筍の先の方はまだ食べられるようなので、老妻に採取の悦びを教える。

 前医王は2つの峰からなり、登山口の案内図によれば、高い方の峰は金剛山(612)で三角点はなく、低い方の胎蔵山(554m)に三角点はある。
 下から登れば高い方に登らなければいけないと思うが、上から下ったのでわざわざ低い方に行かなくてもいい、ということにして、高い方の峰で休憩(13:10)。
 前医王の朽ちた標識がある。尾根道のピークという感じで、広場もなく展望はない。

 医王山系は白山、石動山と同じように泰澄によって開かれた山岳信仰の山であった。中世、惣海寺を中心に48寺、3千坊が山や谷を埋めていたという。尾根や谷に禅定道があり、前医王は金剛界、退蔵界と称し、その一つであったという。
 文明13年(1481)加賀一向一揆によって壊滅した。
 そのとき多くの資料を失い、医王山信仰の実体は今も不明な点が多く、発掘調査が続けられているようだ。


 普通ならさて下るかとなるが、帰りが登りで、さあ登るかと女房を急かせる。
 急坂にロープがあり助かる。登山口の三角屋根の休憩舎に着いたときは、夏の太陽ががんがん照りつけた(14:40)。


6.15.火  曇。
 どうやら一人の山行きに自信が戻ったので、久しぶりに泊まりがけで出かける。


 蔵王山(高坂山)(508m 富山県氷見市)                ルート地形図
 「諏訪社で鎌打ち神事が行われた」
 氷見市と石川県七尾市との境界尾根の山である。蔵王山は別名高坂山ともいう。
 蔵王山の南山麓の氷見市平の高坂剣主神社に着く。
 しかし登山口が分からない。農家で訊けば、ボランティアで登山道の草刈りが行われ、道はあると教わる(13:50)。
 剣主神社から農道を200mほど登ると左に分岐があり、小さい標識に蔵王山登山口とある。
 田の畦道で、屈曲と分岐が多く、放棄田も多くなるが、きれいに刈られた道を辿れば、池を過ぎて南に張り出した尾根に出ることができる。後は尾根道を緩く登って山頂に着く(14:15)。  
 三角点があるが、展望はない。
 ブナ、コナラ、ヤマザクラなどの大木が茂る。能登半島は低山でもブナが見られる。

 下って、山麓の高坂剣主神社に帰着。
 神社名について、鳥居の額は「高坂剱神社」となっており、剱と剣はおなじとして、「主」の字がない。古くは剣之社、あるいは剣明神と呼ばれていたようだから、「主」がなくてもいいかもしれない。
 資料には長坂にも剣社があり、石動山剣宮の不動明王を勧請したもの、とあるから、高坂の剣主神社も同じ縁起かもしれない。
 境内社に諏訪社があり、スワドさんと言う。諏訪社は社殿がなく、クリノキが御神体で、このクリノキに鎌を打ち込む「鎌打ち神事」が行われたという。今はクリノキはなく、板に魚形の鎌を打ち込み奉納するという。
 これと似た鎌打ち神事は、石動山の北、石川県の中能登町金丸の諏訪神社、同じく藤井の諏訪神社で今も伝わり、無形文化財になっている。
 能登の鎌打ち神事の縁起は、大国主命が能登に来られたとき、御子の建御名方命が生い茂る葦を鎌で切り開いて先導され、国開きを完成することができた。その故事により、農作物の不作の年にタブノキに鎌を打ち込んで、豊作を祈願したのが始まりという。
 建御名方命が信州諏訪大社に祀られるようになって、御柱神事の前年に薙鎌打ち神事が行われ、祭のつながりを示しているようだ。鎌打ち神事は諏訪より能登が先だ、ということであろうか。
 諏訪大社の薙鎌神事が行われるのは信越国境の小谷町の戸土で、後日確認のため訪ねた。
 尾根の上に境の宮諏訪神社が祀られ、姫川や遙か能登が見えるという(行った当日は靄でみえず)。姫川や能登は大国主命に関わる地である。その地を見下ろすところで、鎌を打ち込む神事が行われる。
 と思ったが、ここの説明では「全国1万といわれる諏訪神社の中で唯一ここだけに伝わる民俗行事」と書いてある。小谷町で行われるものと能登で行われるものと神事の目的が違うと言うことかもしれない。いずれにしろ能登の諏訪神社でも鎌打ち神事が行われている。

 剣主神社の境内に来名戸社という小さい社があり、中に大き板石塔婆が祀られている。月輪内に阿弥陀如来の種子を一字彫り、クナド石と称し、石動山の結界石であった。元の位置から移されて神社境内に祀られた(日本歴史地名大系)。
 クナド石が石動山の周りに置かれ、領域を示していたようだ。平村高坂(蔵王)は石動山の西隣にあり、明治まで、石動山領であったという。 してみると、先の鎌打ち神事が行われていた中能登の神社も石動山の領域、勢力圏であったとすれば、石動山の「いするぎ法師」たちが行っていたのではなかろうか。いずれにしろこの山は石動山と関わりがあったのであった
(15:00)。

 氷見市平(高坂)に来る途中に長坂がある。棚田で有名なようだが、ここに「長坂のイヌグス」(右写真)があった。イヌグスはタブノキとあり、万葉集で大伴家持は「都万麻」と詠み、村人は諏訪の大神として崇めたと説明してある。しかし鎌打ちは行われてはいないようだ。





 竹里山(137m 富山県氷見市)                      ルート地形図
 「山の信仰の名残の岩屋堂がある」
 この山は数年前05年登ろうとしたが、登山口が分からず通り過ぎた。山麓に白山神社があるので再びやってきた。
 中尾白山神社に大日如来像(市文)保存の案内がある。
 白山神社から林道に入ると直ぐ岩屋堂への入り口がある(15:15)。
 ロープがあり岩屋堂に道案内してくれる。尾根の下に洞窟がある。内部は暗いが、不動明王、護摩壇などが伺える。
 竹里山は南北朝期の山城があり、越中南朝派の桃井氏や井上氏が詰めていた。室町時代には新保氏の家臣鞍川氏が幕府に反抗したので、能登守護吉見氏に攻められ落城したという。
 また真言宗竹里山寺があったようで、岩屋堂や大日如来像もその名残であろうか。

 ここから背後を這い登って尾根に出たが道はないので下る。

 林道沿いに道を探すが標識も踏み跡も見つからず、そのまま上田の集落に抜ける。集落に下りる前、山が切り開かれて、孟宗竹が伐採されている。ここを登って三角点を目指したが、直前の急斜面で登れなくなった(16:00)。

 夕刻から雨となり、今日の山を終わる。 氷見市の岩井戸温泉で風呂に入る。
 道の駅「氷見」で停まる。ここは幹線から外れた氷見港にあり、フィッシャーマンズワーフ海鮮館があるが、18時に閉店である。



6.16.水
 雨後曇。夜間激しく雨が降るが、夜明けと共に次第に治まる。低い山なら雨でも登れるとして、8:00出発。

 布施丸山(30m 富山県氷見市)                      地形図    
 「家持のゆかりの地に御影神社がある」
 仏生寺川の中程に布施がある。古代はこの辺りまで海が迫っていて、布施の水海(みずみ)といわれていた。水田化されて十二町潟という河跡湖のような潟が残っているのみである。海津、大浦、川尻などの地名がある。
 この山は能登半島で最も高い宝達山から延びる尾根が水田に沈む末端にある。 布施神社石段下に車を停める(8:15)。
 百段近い石段を登ると、樹木に囲まれた平たい山頂に着く。

 布施神社がある。説明では、四道勝軍の一人として北陸道の鎮撫にあたった大彦命を、布勢朝臣が祖神として祀ったと伝える。
 一隅に「大伴家持卿遊覧之地碑」(享和2年)が立っている。 家持は越中国守として天平18年(746)から5年間在任した。この間ここをしばしば訪ね、別荘があったという。
 布勢神社の裏に回ると、北に展望が開け、布勢の水海を展望できる。ここに家持を祀る御影神社がある。御影神社は昭和60年(1985)家持没後1200年記念に新築された。古い方の小さい祠が残っており、明治33年、時の知事以下有志が建立したものである。


 家持が在任中、天平20年(748)、都から使者として来た田辺福麿の歓迎宴の時、家持が詠んだ歌碑がある。
    明日の日の布勢の浦みの藤波に
          けだし鳴かず散らしてむかも   家持  
 この歌は説明がないと全く分からない。
 歓迎宴で田辺福麿に、明日は越中の名所布勢の水海に案内しましょう」と誘ったら、福麿が歌で応えた。
     藤波の咲きゆく見ればほととぎす
          鳴くべき時に近づきにけり     福麿 
 福麿は「藤が咲きほととぎすが鳴く丁度いい季節になりました」と喜んだのに、家持が応えたのが先の歌で、「明日眺める布勢の海の、波のように美しい藤の花に、ほととぎすが来ないで、むなしく散ってしまうのでないか気がかりです」と応えた。
 こう説明してある。
 山口博著「万葉の歌、北陸」に、このやりとりと別の歌があると書いてある。家持が福麿を誘うと、都から来た福麿は田舎の景色など見るところがあるかと小馬鹿にし、次の歌を詠んだ。
      いかにある布勢の浦そもここだくに
               君が見せんと我を留むる      福麿(万葉集巻18-4036)
  しかし実際に観光するとすっかり景色に魅せられて、
     おろかにそ我は思いし乎布(おふ)の浦の
             荒磯の巡り見れど飽かずけり     福麿(万葉集巻18-4049) 
 歌にある藤波は地名として残り、藤が咲き、藤波神社に家持が残した太刀を祀るという。
 二上山もそうだが、この辺りは家持の遺跡に溢れている(9:00)。



 古能久礼山(30m 富山県射水市)                   ルート地形図
 「祭神のスサノオとクシナダヒメは八岐大蛇退治の主人公」
 この山も集落の背後の低い丘である。小杉町櫛田にあり、山頂に櫛田神社がある。
 境内左に駐車場がある(9:50)。
 鬱蒼と茂る社叢林で、長い参道が導く。多くの神社で神前に神馬を奉納するが、銅や石の彫刻である。ここでは神馬厩舎があるから、実際に馬がいたのであろうか。
 さらに丸い石が10個ばかり並んでいる。氏子の鍛錬のため石を持ち上げる競技があった。石は米俵(60kg)の二つ分ほどの重さである。今競技は行われなくなり石を保存したと説明してある。
 社殿は立派である。左手は社務所、古能久礼殿、右手に奈良比丘殿がある。
 神社の由来書があり文字が薄く読みにくいが、大略次のようである。
 主祭神はスサノオ、櫛稲田姫命である。他に天照大神、少彦名命、豊玉姫命、底筒男命、八幡大神、天満天神などを祀る。仲哀天皇の御代、武内宿禰が創建した延喜式に載る古社である。農耕水利、家内安全、夫婦和合に御利益がある。
 そして「幸せの櫛」の伝説も書いてある。近くの池に大蛇が棲んでいて村人を苦しめていた。ある時田植え女を飲み込んだ大蛇は女の櫛が喉にかかり死んでしまった。村人は女と櫛を供養し、祠を立てたのが始まりという。
 スサノオと櫛稲田姫と大蛇で思い出すのは、記紀にある八岐大蛇退治の神話で、大蛇に人身御供されることになっていた櫛稲田姫は、スサノオが大蛇を退治したので助かり、後に二人は結ばれた、とある。
 祭神のスサノオと櫛稲田姫を祀り、縁結びに御利益ありとするのであれば、この大蛇退治を縁起とした方がよいのでないか。
 
 古能久礼山とは、家持がここを訪れ、「古能久礼山の奈良比丘」と言ったという伝説によるという。古能久礼は「このくれ」と読み、「木の暗れ」で木が茂り暗い山と言う意味であるが、地名と誤解されたもの。
 いずれにしろ万葉仮名で表記され、「古能久礼」そして「奈良比丘」と意味ありげな漢字で、それが何時しか固有名詞となったものか。よく分からない(10:30)。




 経獄山(62m 富山県射水市)                      ルート地形図
 「金比羅宮と准提堂は同じ建物に納まっている」
 小杉町青井谷の翁徳寺の背後の山である。お寺の境内林と言っていいかもしれない(10:45)。
 翁徳寺(曹洞宗)は参禅道場・青少年育成町村民会議の看板が掲げてある。
 その左手からコンクリートの階段を上がると広場がある。これが青少年のキャンプ場であろうか。樹木で囲まれた閉じた広場である。展望はなく閉じた空間だが、ここで参禅するようにキャンプするのか。
 広場から山道となり直ぐ最高点に着く。

 越中金比羅宮の碑が立っている。ここも閉じた空間である。
 尾根を緩く上り下りして北の端に来ると展望が開ける。射水平野から富山湾まで一望する。
 ここに越中金比羅宮がある。本来は准提堂というようだ。
 説明板がある。この山は古くから経覚、経閣、経獄と呼ばれ、埋経の山で経塚があった。容器や経文は失われ、阿弥陀如来の像のみ発掘された。阿弥陀像は6cmほどの白銀製であった。ここに堂宇を建立し、准提観音を安置し、その胎内に阿弥陀像を納めた。
 天保6年(1835)讃岐から金比羅さんを勧請し、守護神とした。同時に渡航船の守護神となった。
 越中金比羅宮(准提堂)の周りに石仏が取り巻き、下の翁徳寺まで道沿いに並んでいる。三十三観音霊場であろうか。従って寺からこの石仏に従えば准提堂に至る。
 翁徳寺は高岡繁久寺の三代住職智翁が開山と伝える。
 境内に新しい大きな恵比須、大黒像が座っている
(11:30)





 小白山(120m 富山県小矢部市)                    ルート地形図
 「オシラサマ信仰があったのか」
 この山は地形図に記名はない。「おしらやま」と読むのかもしれない。
 小矢部市末友から北陸道の下をくぐり、末友協同組合の大きな施設に来る(12:10)。
 近くの農家の人に登山口を訊くがご存じない。見当で登ってみる。
 農協施設の裏に墓地があり、踏み跡が林の中に入っている。しかし尾根に道はなく、透けた藪を抜けて三角点に着いた(12:30)。
 林の中で何もない。
 下り道を間違えたが、ワラビがたくさん生えているところに出た(12:40。

 この山は山を挟んで反対側、臼谷の山と判断し、臼谷に回る。
 臼谷集落に「大清水のあしつき(200m)、ぶな・うらじろがし混生林(600m)入口」の標識がある。小白山入口とは書いてないが、ブナの茂る林があるので、この道を入る。湧き水の大清水を過ぎて、北陸道をくぐれば再び「ブナ林」の標識がある。作業場の駐車場を借り車を停める(13:00)。
 田圃の道を鍵形に登ると、山際に二つの墓石のあるところが登山口である。
 孟宗竹林に竹の階段があり、これを登ると尾根に着く。この尾根を東に登れば三角点に至るようだ。しかし道はない。

 尾根に祠があり、その脇に大きな石碑がある。石碑に次のように書いてある。
 
    録して伝う

    於白山
    嶺に林あり里人白山権現を敬う
    麓の畠中に寺跡の礎あり 清水湧く

    小白山神社
    臼谷におしらひ山と申す山の嶺に林あり
    権現と敬ひ村人おしら山と言う
    社跡のみ 三月五日祭日
    大小の樹木繁る
    木より水垂れこの水は薬水とする

    小白山寺
    麓に寺跡あり 白山社の別当なり

    臼谷城跡
      

 この文を読んで感ずることは、白山権現は昔からあり、敬っているが、村人が積極的に崇め祀っているというのでなく、昔からそう伝えられている、忘れないうちに書き留めておこう、という書き方である。
 「おしら山」あるいは「おしらさん」といえば、東北地方に信仰される「オシラサマ」を思い出す。 養蚕の神、屋敷神などとして信仰される。ところがこの「オシラサマ」は白山信仰と深い関係にあるとされる。白山修験行者が伝えたものという。
 白山を「はくさん」と読むか「しらやま」と読むか、白山神社の総社である石川県の白山比盗_社は「しらやま」と読むのが正しいようだ。地元では「しらやまさん」と親愛を込めて呼ぶ。古くは「しらやま」で、仏教が強くなり混淆してくると「はくさん」になったと思われる。神社は訓で読み、寺は音で読むからである。
 とすると古くからある民間の土俗信仰では「しらやまさん」であり、「おしらさま」と呼ばれていたようだ。
 北陸地方は浄土真宗の盛んなところで、山の神を信ずることは迷信であると排斥した。特に白山信仰は一向一揆で消滅している。浄土真宗を信ずる村人にとって、昔からある白山権現を敬いお守りしているが、それを信じているわけではない、ということがこの碑文から読み取れるように思う。

 
 尾根はブナ、カシノキ、スギの巨樹が茂り、祠は二本のスギの巨樹に守られるように建っている。石碑に「木より水を垂れる」と書いてあるが、いくつかのブナノキは「うろ」から樹液を垂らしている。昨日今日雨は降っていないから樹液であろう。薬水である。私は耳が悪いので、手を濡らし耳の周りを撫でた。御利益があるであろう。
 小白山を ようやく探し当ててほっとして山を下る(13:30)。

 山麓の「大清水のあしつき」(市天)は、藍藻類で葦や石に付着し、あるいは不定の固まりで浮いているとある。(後日の調べで、「葦付」と表記され、葦や石に付着し、採取して「あしつきのり」にしたようだ。)



 安居山(130m 富山県南砺市)                     ルート地形図
 「山頂は越中ヶ丘でなく、備中ヶ丘とよぶ」
 県道40を南に南砺市に入ると直ぐ安居(やすい)集落があり、安居(あんご)寺の駐車場に着く(13:50)。
 白山を「はくさん」と読むか「しらやま」と読むか迷うと書いたが、安居も「あんきょ」と読むか「やすい」と読むか、日本語は難しい。最近はこの読み方の難しさを利用し、振り仮名がないと読めない人名が多い。日本語は外人に難しいが、日本人でも難しい。
 福野町安居寺公園案内図で概略コースを確かめて出発。観音堂左に石段があり巡拝路の表示がある。直ぐ駐車場がありここまで車で上がれる。
 山頂部はなだらかな丘で、備中ヶ丘と名付けられ、立派な休憩所のある最高点に着く。
 尾根付近はアベマキ林(市天)となり北陸では珍しい。
 三十三観音霊場の石仏が並ぶ尾根道を辿ると第二展望台に着く。 砺波平野を一望できる。
 さらに下っていくと第三展望台を経て観音堂に帰着する。

 安居寺(真言宗)は養老年間、インド僧善無畏三蔵が一夏九旬(90日)参籠(安居)し聖観音を安置したと伝える。寺坊24を数えた。花山法皇が巡行されたとも伝える。
 戦国時代戦乱で焼失したが、江戸時代、前田利長が本堂を再興し、家臣の岡島備中守の夫人が観音堂を再興した。山頂を備中ヶ丘と呼ぶのは、岡島備中守の夫人の功に因むという。
 収蔵庫に多くの文化財を保存する。

 山門脇に大ケヤキ(市天)が聳え、境内は豊かな自然が残されている(14:50)。

 これで一旦帰宅。 通院後日を改めて続きを登る。



 6.23.水
 晴。2、3日雨が続いたが梅雨の晴れ間があり山に登る。
 金沢を10時出発、北陸道で五箇山に向かう。

 八若山(405m 富山県南砺市)                     ルート地形図
 「後醍醐天皇の第八皇子に因むという」
 この山は地形図に記名はない。
 東海北陸道の五箇山ICで下りて、国道156を引き返すようにして上梨に来る。白山宮があって「どぶろく祭」が有名である。
 庄川を渡り猪谷の集落で、農家のおばさんに登山口を訊く。伝説の山だが登る人はいない。それでも登るなら林道から簡単にのぼれる、と教わる。
 八若山は大滝山(1498m)から北に延びる尾根の末端にある。林道を上がれば尾根に着く。待避所に車を停める(12:20)。
 藪の中を登ると山頂らしきところに着く。
 八若古戦場跡と書いた板が木に架かっている。
 樹林の中展望はない。 カエデやコナラの木が何本か伐られているが、伐採して広場でも造る試みがあったのであろうか。

 八若山は後醍醐天皇の第八皇子に因むという。 福光城主石黒氏は南朝に与し、諸国を転戦し、宗良親王を当地に奉迎した。幕府方の斯波氏に攻められ、尾張に逃れた。
 古戦場と書いてあるから、この山も戦場になったのであろう。 越中に南朝秘話は多く、先の安居山の安居寺に南朝の「長慶天皇陵」があった。次に登る天王山にも長慶天皇陵がある
(12:50)。





 天王山(326m 富山県南砺市)                     ルート地形図
 「長慶天皇の御陵があり山名となる」
 国道156を下梨に下り、山麓の瑞願寺に来る。背後に天王山が迫る。
 瑞願寺は後でお詣りすることにし、中腹まで車道を上がると、峠に家が点在し墓地がある(13:30)。
 峠に車を停め、地蔵前から尾根に入ると、緩く登って山頂である。
 樹林で展望はない。
 石を積み上げた塚のようなものがあり、花瓶が供えられている。 これは経塚かもしれない。
 盛りを過ぎたササユリが見られる。

 長慶天皇の御陵があり、天王山という。一般に天王山といえば、牛頭天王、すなわちスサノオに関わる山を言うが、ここでは違うようである。

 瑞願寺に下ると、大きな石碑に「長慶天皇御陵」と書いてある。お寺の裏に石段があり山に延びているが、クサリがしてあり登れない。
 長慶天皇の御陵は安居寺(南砺市)にもあった。長慶天皇は南朝不振の頃の天皇で、事跡が分からず、在位を疑問視されていたが、研究調査されて在位が認められ、歴代天皇に列せられたのは大正15年(1926)であった。そして御陵は京都市の嵯峨東陵であるとされた。
 従ってそれ以前は各地に天皇陵候補地がたくさんあったようだ。
 瑞願寺は浄土真宗のお寺、城端瑞泉寺の念仏道場として市助家が開き、また十村役としてこの地を支配し、市助文書を保存する。五箇村は加賀藩の塩硝の生産地であり、流刑地であり、そうした関わりを示す文書が多数保存されているという
(14:10)。






 山の神(902m 富山県南砺市)                     ルート地形図
 「峠に旅の守護神を祀っていた」
 南砺市平村から利賀村への山越えの峠を神の山峠と呼ぶ。今は大規模林道がトンネルで抜けている。
 ここは旧林道の山の神トンネルと、大規模林道の新山の神トンネルの二つがある。新山の神トンネルを利賀村に抜けると右に旧林道の分岐がある。
 旧道は舗装された道でブナ林を通過する。地形図では新トンネルの上に旧トンネルがある。
 旧トンネル入口は分岐となり、山の神峠に至る道を分ける。ここに中部北陸自然歩道案内板があるが、山の神峠は表示してない。
 まず旧トンネルを抜けて平村側に出ると、T字路となる。右は猫池方面で下っている。ここに南無阿弥陀仏と書いた石碑が立っている。
 旧トンネルを利賀村側に戻り、出口から斜行する山の神峠への道を上がる。ダートな道を強引に登り、無線塔下のヘアピンで車を停める。 ここに分岐があったようだ。
 右に入ったが直ぐ藪となる。方向からしてこれが山の神に向かう道に思われるが、藪となっている。
 山の神峠は地形図には鳥居マークがあり、祠(地蔵堂)があったが数年前に崩壊したようだ。この峠に大杉があり天狗が住みついていたので山の神として崇められたという。また利賀村から庄川水系に出る山道で、遭難もあったようで、安全祈願の地蔵であった。
 僻村であった利賀村は今は道路が整備されたが、八尾に出るにしても庄川に出るにしても大変でであったに違いない。

 ヘアピン分岐から左の車道を上がると尾根に出て、無線中継塔がいくつかある。この辺り素晴らしいブナ林が広がる。山腹は山の神自然環境保全地域で、ブナ林が残る。豪雪地帯であり、雪崩から集落を守るため昔から木を伐らなかったので残ったとされる。
 道は南の三角点の方に延びていて、山の神の方に向かわない。この辺りを山頂とする(15:00)。

 利賀村阿別当に下り、そばの郷の利賀温泉(民営)で風呂に入ろうと思ったが、閉鎖されているので、百瀬の奥の天竺温泉で風呂に入る。
 利賀村は過疎の村だが、公営の立派な施設が至るところにある。 利賀芸術公園があるが今どうなっているのか。30年ほど前、磯崎新設計の野外劇場や利賀山房ができた頃、鈴木忠志率いるSCOTが演ずるおどろおどろしい演劇を何度か見に来た。終わって夜中帰るとき、曲がりくねった道を小牧ダムまで下るのは恐怖の帰り道であった。利賀村を訪ねるのは、車でも大変なのであった。
 SCOTの今年の案内は来ていないようだから、野外劇場はもう利用されないのか。多くの施設がそういう道を辿るのであろうか。
 利賀村の道の駅「利賀」で泊まる。高台にあり大自然を眼下に納める。
 ハッチを上げ、山風に吹かれてビールを飲めば、夏のキャンプの醍醐味である。

 (追記  こう書いたら7月9日SCOTから「2010夏、世界は広いな大きいな行ってみたいな利賀の国」というパンフレットが来た。今年は壮大な演目が上演されるようだ。久しぶりだ行ってみよう。)



 6.25.金
 晴。5:00起床。夜中の道の駅「利賀」は私の車一台だけの静かなところ。夜明けと共に目が覚める。7:30出発。


 高峰(1071m 富山県南砺市)                       ルート地形図
 「天照大神が鎮座する国見ヶ丘」
 山頂にいろいろな無線中継所があり、車で簡単に上がれる。山頂下に駐車場がある(6:50)。
 100mほど登ると山頂である。
 展望台があり、北アルプスを一望できる。剱岳、立山、薬師、さらに右に槍ヶ岳、穂高と続く。
 立山雄山の峰に太陽を反射し光るものがある。何であろうか。

 展望台の横に大きな鳥居があり、高峰権現堂の祠がある。由来が書いてある。
 高峰山は天照大神のうしはき座す国見ヶ丘で、少彦名神、猿田彦神を配祀し、古く他国への往来安全を祈念した霊山である。
 仏教の伝来により大神は大日如来の垂迹から阿弥陀仏と同身、猿田彦神は魔王尊即ち天狗、鞍馬の毘沙門天と結び千眼はまた心の旅路に通う千手観音の示現、少彦名神は薬師如来の信仰となった。
 神々仏々ここに集われ高峰権現として鎮まり給う。

 こう説明してある。
 
神社は伊勢神宮を向いているようだが、神社に向かい拝めば背後に立山がある。
 この立派な神社は無線塔がここに立ったとき整備されたようだ。車道ができて誰でも簡単に登れ、神々仏々も喜ばれているようだ。









 白木峰(1596m 富山県富山市)                    ルート地形図
 「飛騨信濃木曽の峰々みな見える」
 旧八尾町にあり、国道471で杉ヶ平キャンプ場に着く。林道太田線に入り、21世紀の森を経て、幹線舗装の道を登れば駐車場に着く(8:40)。
 既に2台の車が停まっている。トイレがあり、白木峰山荘のトイレが壊れているのでここでしてくださいと書いてある。
 駐車場が標高1334mであり、高度250mの登りである。 車道を2度横断し、登りきれば、ヘリポートのある尾根に着く。風衝草原が広がり、木道を緩く登って山頂に着く(9:20)。

 3人の登山者が休んでいる。 快晴の空、飛越国境で遮るものがない展望がある。東から南は北アルプス、御嶽山も見える。
 7月にはニッコウキスゲの黄色い花で覆われるという草原は、今はところどころに咲くだけ。イワハゼ、コヨウラクツツジが隠れるように咲いている。

 白山の展望を求めて南の峰に回ると、金剛堂山の上に白山が見える。(下写真)
 峰にはコンクリートの天蓋の中に仏像、というより聖徳太子像が祀られている。その背後に白山が見える。
 何故ここに聖徳太子が祀られているか、調べたがよく分からない。八尾に聞名寺(浄土真宗)があり、16世紀岐阜県神岡の常蓮寺から分院され、寛永8年(1626)聖徳太子像も移された。すると神岡では災害が頻発し太子の祟りとされ、再び常蓮寺に返されたという。
 聖徳太子は八尾の方を向いておられるので、八尾を懐かしんでおられるのかもしれない。浄土真宗の伝藩に太子信仰は媒介役であったようだ。


 10年以上も前、金剛堂山に登ったとき正面に白木峰が見えた。金剛堂山に富山藩主前田利保の歌があった。
     飛騨信濃木曽の峰々みな見えて
               西は残さぬ白木峰かな
 その金剛堂山は白木峰ともいったようで、前田利保の歌の白木峰は金剛堂山のことであるようだ。
 金剛堂山から白木峰を見ると、山腹を林道が削って見苦しい姿で、何でそんなところに林道が必要かと思ったが、今回この林道の御陰で楽に登ることができた。 自分の都合で善にも悪にもなる身勝手さを反省。

 下り、平日だが15人ばかりの登山者に会う。人気のある山であり、この快晴なら幸運である(10:10)。




 森田山(173m 富山県富山市)                     ルート地形図
 「豊かな森から霊水を湧出する」
 国道471、472を一気に下り、旧婦中町の常楽寺に着く(12:10)。
 この山は地形図に記名はない。旧村名が森田村で、それに因み森田山という。また地名により鉾木山ともいうようだ。
 常楽寺の北を山頂に延びる車道があり、これを上がると簡単に山頂三角点に着く(12:20)。
 山頂に仏堂のような3階建ちの観光展望台がある。「世界三大風景、北アルプス立山連峰」と書いてある。剱岳、立山を見ることができる。
 車道中腹に健康飲料の五洲薬品の工場があり、自家井戸から湧出する霊水を「アルプス精水」として売り出している。
 中腹に八角天神堂(下写真)があり、五洲薬品が建てられたもので、おおよそ次のような説明がある。
 自然の恵みに感謝し、自然の創造物、火山灰、姶良火山灰、慈母石、旧石器など、人と設備が一体となって、実績を積み重ね、着実に進めて参ります。天神堂を祀る。祝福幸の輝き。
 こう書いてある。展望台やふれあいの館など多様な施設があり、これらの宗教的施設は五洲薬品に関わる施設で、一企業が整備し、広く開放されているようである。


 下って、稲荷神社の鳥居の脇から石段を登ると常楽寺奥の院があり、観音堂が建っている。
 常楽寺(真言宗)は大宝2年(702)文武天皇が祈願し、行基が開創したとつたえる古刹。往時七堂伽藍が並び、南に続く丘陵に千坊があった。戦国期に焼失した。寛永年間(1624〜44)富山藩の援助で復興したが往事の面影はなくなった。 昭和38年観音堂、59年本堂が再建され、十一面観音、聖観音(いずれも国重)を安置する。
 境内に西国三十三観音石仏、さらに観音堂への石段の脇にも三十三観音石仏が並んでおり、合わせて六十六観音が祀られて、観音の霊場である。
 さらに観音堂前に富山の名水「加持水」が湧き、飲用すれば霊験あらたかという。

 山腹一帯はウラジロガシ林として常楽寺自然環境保全地域に指定され、霊水を涵養しているようだ(13:00)。

 これで今回の富山県の山を終わる。


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