富山県の山(5)

  期間 2010.7.7及び21
 登った山 舟見山   権現山   大原山   宮野山   水尾城山(以上富山県)

 7月は6月に引き続き富山県の山に登る。身体の調子に合わせて飛び飛びである。

7.7.水
 曇。東京は集中豪雨で家屋浸水が出ている。梅雨の盛りであるが、晴れ間がありそうなので近場の山に登る。

 境の宮諏訪神社(長野県小谷町戸土)               ルート地形図
 「諏訪大社の薙鎌神事の山を訪ねる」
 先月取り上げた富山県氷見市の蔵王山(高坂山)の諏訪神社の鎌打ち神事との関連で、確認のため長野県小谷町の境の宮諏訪神社を訪ねた。
 金沢を昼頃(11::30)出発し、北陸道糸魚川ICで下りて、姫川の支流根知川を遡行する。信越国境の小谷町戸土に着く(14:30)。
  戸土分校跡の碑があり、空地があるので駐車できる。さらに道を上ると参道入口の標があり、広い参道が上がっているが、車は入れない。  2、300m歩けば尾根に出て、境の宮諏訪神社があり、北に開ける。杉の大木が茂る。
 諏訪神社の壁に説明板が掲げてある。
 諏訪大社の御柱祭の行われる丑年、未年の前年に、二丁の薙鎌の一丁は中谷大宮諏訪神社に奉納し、もう一丁をここ戸土諏訪神社(未年)、または中俣小倉明神(丑年)のご神木に打ち込む。古くは中腹の白池の畔で行われた。 神事は諏訪大社の神威の及ぶ範囲を確認したものだろう。全国1万といわれる諏訪神社の中で、唯一ここだけに伝わる民俗行事である。
 こう書いてある。能登半島の諏訪神社で行われる鎌打ち神事との関連があるだろうと思って来たのだが、ここの説明では、全国で唯一伝わる民俗行事と書いてあり、能登半島との関係は否定してあり、がっかりした。
  しかし能登半島の鎌打ち神事は、建御名方命が大国主命の能登開発を先導した故事により、それを偲び鎌を奉納する、という説明が分かり易い。
 信越国境の境の宮諏訪神社の北に根知川が流れ姫川に注ぐ。姫川のヒスイの支配者奴奈川姫は大国主と結ばれ、その子が建御名方であることを考えると、眼下に姫川を、さらに遠く能登半島を望むこの地で、大国主命と建御名方命の国土開発の故事を偲び、鎌打ちするとした方が納得できる。


 もう一つ薙鎌神事の行われる中俣小倉神社に回ろうと思うが、草の中に2本の轍が残る狭い急な砂利道で沢を越えなければならず、こちらは諦める。
  いつも雲に隠れているといわれる雨飾山は上半分は雲の中である。雨飾山は15年ほど前、女房と一緒に登り、険しい山道に立ち往生した記憶がある。

 朝日町の境温泉で風呂に入る。 国道8号線の青海町「市振の関」で泊まる。


7.8.木
 晴。5:30起床。道の駅「市振の関」は長距離トラックばかり停まっている。7:00出発。

 諏訪山(275m 富山県朝日町)は諏訪神社の御神体山といわれるが、農家で聞けば登山道はなく、山頂に何もなく、地元でも登る人はいない、とのこと。

 権現山(204m 富山県朝日町)は諏訪山の南だが、農家の人に訊けば、山管理の道はあるが、夏は藪で登れない。
 以上二つの山は若ければ登ったが、今の老体では無理であった。

 舟見山(253m 富山県入善町)                       ルート地形図
 「中世宮崎城の支城があった」
 負釣山(959m)を水源とする舟川が扇状地に開くところにある。舟見山自然公園になっている。公園まで車道があり歩くことなく登れる(9:00)。
 元は舟見城があった。芝生広場が広がり、天守閣や山の本陣の立派な建物が整備されている。
 源平戦の頃の話である。以仁王が打倒平家の宣旨を掲げると、それに呼応して木曽義仲は以仁王の嫡子北陸宮を還俗させて宮崎太郎に託した。宮崎太郎は本城の宮崎城の支城として舟見城を築いた。木曽義仲が都に向けて北陸道を攻め上げると、宮崎太郎、子の宮崎入善小太郎が呼応して軍を進めた。
 宮崎城跡に登ったとき、有名な倶利伽羅峠の火牛の逆落としは、この太郎の発案であったという話があった。
 戦国時代になると、越中に侵入した上杉軍を舟見城主飛騨守五郎左近尉が迎え撃ったが、城の水源を絶たれ、黒部川に身を投じた。今そこを飛騨渕という。
 天守閣が再現されているが、宮崎太郎の末孫とされる方が、自費で寄付されたものという。内部は舟見城址館として博物館となっている。
 山の本陣は古い民家を移築したもので休憩舎となっている。
 一角に祠があり、舟見城主と将兵を祀り、長く城跡の鎮護を祈願する、と書いてある。
 里山再生整備事業で整備され、青々とした芝生、杉木立と相まって楽しい公園となっている(9:30)。



 権現山(250m 富山県入善町)                       ルート地形図  
 「舟川の守り神を祀る」
 この山は独立した山でなく、山の中腹に神社があり、その山を権現山と称するようだ。
 舟見山から舟川を2kmほど上がると鳥居がある。石碑に山神社とある(9:40)。
 自然石を組み合わせた石段を登ると、平らな尾根に着き、山神社に着く。舟見山神社である。
 舟見山神社はどう読むのであろうか。入口の石碑「山神社」とあるから「ふなみやま神社」でなく、「ふなみやまがみ社」と読むのだろう。「やまがみ」を祀り、それは神であり仏でもあり、2月9日の例祭では、神仏混淆の形で祈願祭が行われるという。
 黒部川は大扇状地をつくり、水田に水を供給している。しかし、その脇を流れる舟川は別の流域を造っている。舟見地区では水利を舟川に頼り、その水源となる山々に感謝を込めて山の神を祀っているのであろう。

 この山神社は山の中腹にあり、この奥に奥宮があるわけではない。
 舟川の水源に、負釣(まけつるし)山があるが、負釣山という変わった山名は、舟川は黒部川と較べれば負けるに決まっているという意味であろうか。次に登る宇奈月の大原山は黒部川の恩恵を感謝し、巨大な平和の像が立っているが、舟川にはささやかに山神が祀られている(10:00)。


 大原山(638m 富山県黒部市)                       ルート地形図
 「黒部川を見下ろし平和観音像が立つ」
 宇奈月温泉の背後にある山で、スキー場があり車道が上がっている。車道はさらに奥の僧ヶ岳登山口まで延びている。
 蛇行した車道を上がるとスキー場の上に着く。ロッジや駐車場がある(10:30)。
 仰ぎ見るような巨大な平和観音像が立っている。 説明が書いてある。
 黒部川は立山連邦を水源とし、流域に8千ヘクタールの沃野を潤し、電源、観光に豊かな恵みをもたらす。その恩恵に感謝し、平和を祈願して観音像を建立した。昭和50年発願し、57年完成した。
 こう書いてある。黒部川の恵みに感謝する観音像である。恵みの大きさは観音像の大きさに比例するのであろうか。

 眼下に宇奈月温泉街を見下ろす。
  一人の老人が写真を撮っておられたが、車道を歩いて下っていかれる。歩きながら自然観察されているのだ。もちろん車に乗りませんかと声は掛けなかった。車で来たことに肩身が狭かったからである(11:00)。




 宮野山(202m 富山県黒部市)に着いたとき(11:30)、回転性目眩に襲われ、しばし車中で休憩する。なかなか治まらず、本日の登山を終わる(15:30)。
 北陸道有磯海SAまで走り、ここで休憩。そのまま泊まる。

7.9.金
 曇。7:00起床。有磯海SAは富山湾の見える高台にある。
 有磯海は荒磯海で岩の多い海辺という意味で、高岡市伏木付近を言い、大伴家持が歌に詠んでたちまち歌枕になった。いつか富山湾一帯を言うようになったようだ。
 道の駅に芭蕉の次の句碑がある。
      早稲の香や分け入る右は有磯海    芭蕉
 黒部川扇状地は緑の水田が広がる。北陸は早稲の産地である。そろそろ出穂期であろうか、花の香りが届くような気がする。
 目眩が残り、今回の山を終わることにし、一旦帰宅する。


7.21.水
 晴。7月17日全国ほぼ一斉に梅雨が明けた。当分猛暑が続く予報である。 目眩が落ち着いた合間を縫って、富山県の山を引き続き登る。

 宮野山(202m 富山県黒部市)                       ルート地形図
 「天満宮があって宮の山と呼ばれた」
 先日ここに来て目眩で撤退した山である。
 山は宮野運動公園となっており、園路を最奥に上がると仏舎利塔がある(12:20)。
 昭和42年に平和と幸福を祈願して建立されたと説明してある。参道入口に「宮野の梵鐘」がある。ここから墓地公園に渡る長い橋が架かっているが、通行止めである。
 日射しが強いので桜の木陰で休憩する。

 宮野ハイツの前に自然林が残され、天満宮が祀られている。縁起などについて説明はない。この天満宮があり、宮の山とよばれたのであろう。
 北方領土返還祈願桜が植えられ次の歌碑がある。
     閑古鳥東西南北の北は遠し    写空

 宮野山の西麓に吉城寺という集落がある。元は金沢という地名であったが、藩府金沢と同じ名でははばかられ、寺の名吉祥寺を地名とした。しかし吉祥寺は山田新に移り、地名は吉祥寺の祥が城に変わり、吉城寺となった。
  かんかん照りの日射しの中、運動する人影はない(13:00)。









 水尾城山(310m 富山県魚津市)                     ルート地形図
 「水尾城跡に水尾神社を祀る」
 数年前、松倉城跡に登ったとき、松倉城の支城として登ったが、明らかに別の山であり、あらためて登ることにする。
 魚津市からは県道33で鹿熊、大熊を経て林道に入り、山頂水尾神社まで車で上がれる(13:50)。
 水尾南城と書いてある。 水尾城主之碑が建っている。
 水尾神社は尾根に沿い、拝殿、神門、本殿と50mほどに並んでいる。いずれもコンクリート造である。
 造林事業及び神社由来書によればおおよそ次のようである。
 この地は古来新川郡大浦領であった。昭和54年から富山県林業公社と契約して、植林事業を実施した。樹木の生長と住民の繁栄を祈願し、さらに戦国時代の城跡を偲び、地域を見下ろす展望地に、昭和57年水尾神社を建立した。
 こう書いてある。水尾城は北東1km にある松倉城の支城で、南北朝から戦国時代にかけて越中東部を支配していた。松倉城はいくつかの支城があり、水尾城はその一つで、水尾兵衛が詰めていたという。
 水尾神社の祭神は説明してない。

 この山は数年前松倉山(松倉城跡)に登ったおり一緒に登ったが、当然別の山とすべきで、改めて登った(14:20)。

 早月川に下り、魚津市鉢にある白倉小学校の木陰で休憩(14:40)。
 次の山に向けて出発しようとすると、車のスターターが回らない。バッテリー上がりでないので故障である。車の走行距離は22万kmであり、あちこちの部品が耐用期限が過ぎたようである。 
 幸い携帯電話通信圏でありJAFに電話し、魚津のスバル修理工場まで運んでもらう。幸いスターターの中古品があり取り替えてもらう(18:00)。
 人車共に老朽化し、いつ何時故障が起こるか分からない、要注意である。


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