特別企画2 「やまぐち号を見直そう!」☆愛宕山俯瞰の物語 |
(その1) ・昭和54年8月1日から始まった国鉄唯一の蒸気機関車列車の復活は、首都圏から数百キロも西の山口線であった。復活当時は、C57に不似合いな集煙装置、赤ナンバーに黄色のなべ鶴マークと、往年のファンは 偽物?! の汽車だと言い、蒸気機関車晩年の "風前の灯火汽車"しか知らない悔しがり世代にも"へんな汽車"としか映らず、遠距離などの理由で、まあそのうちに行ってみようくらいの動機しかなかった。 しかし、しかしである、一度25‰に挑むC57やまぐち号に対面したとたん、近づくブラスト音、輝くヘッドライトに、猛然たる段切り煙、ドレン弁の蒸気にまみれた足どり、去りゆく汽笛の咆哮に・・・おおっ!これは紛れもなく蒸気機関車であり、この匂い、この余韻が汽車撮りの味だったと、ぐらぐらと全身を揺さぶられる感覚に捕らわれたのであった。"その時、誰もが心の鐘を叩かれてしまった"のである・・・。 次の訪問予定などみじんも考えないで来た"気まぐれ撮影行"が、「来月も来よう」となり、沿線情報で「正月はC58が走るらしい」と聞けば、万難を排して(正月の親族行事も体の言い理由で欠席するなど)撮影行をセットしたのである・・・。そんなことが度重なると、顔見知りが増え、"3人寄れば山岳会"ならぬ、"3人寄ればやまぐち号撮影軍団"が出現することとなり、3日以上連続運行日訪問のノーマル派から、毎週訪ねる過激派まで、やまぐち号を中心にいくつかの○○軍団が生まれた。 そのなかで、情熱有り余る当時20代前半の集団、"熊○軍団"(仁保駅をねぐらにしていた一派)は、「からすが鳴かない日(週)はあっても、○田君のこない日(週)はない」の軍団長を筆頭に、撮影にかける過激さ(※1)は他のグループの追随を許さなかった。 そして、その熊○軍団の小グループのひとつに "俯瞰軍団" が人知れず存在したのである。 (その2) ・熊○軍団に限らず"3人寄ればやまぐち号撮影軍団"のそれぞれは、毎週撮影は行き過ぎとしても年間撮影日数が10日も超えると、流石に定番撮影地は撮り尽くすことになる。その中から"より高く、より広く、より新鮮なアングル" を求める人々が生まれたのは必然であったとも言えよう。 特に、当時過激軍団とも呼ばれた熊○軍団には、人知れず存在した俯瞰軍団があり、山口線の名俯瞰ポイント【愛宕山大権現、愛宕の里、二反田の穴、秘密の花園展望台、津和野大俯瞰、ろうそく岩、メルヘンランド、牧ヶ野大中小俯瞰、Z俯瞰、レクイエム・・・】は、そのほとんどが彼らの開拓(=初撮影)によるものであった。 現在も私が、顔と名前が一致して記憶している方は、大阪のN氏(フォトコン入賞などで高名)、新津出身のS氏(故人:中国自動車道444kmポストでの事故で・・・)、世田谷のT氏(知る人は少ない)、北九州のB氏(現在も山口線で活躍中)、横浜のO氏、京都のH氏らである。 ・昭和58年10月中旬、私は、仁保地の県道側山の中に18kmあたりのS字が全て俯瞰できるポイントがあるらしい・・という噂話だけで、運行中日を利用してロケハンに向かった。仁保駅に降りると、N氏が「山波君、汽車も走らないのにどこへいくの?」と訪ねられ、少々顔を伏せながら「愛宕と呼ばれている場所へロケハンに・・・」N氏「ふ〜ん」。その後、仁保地のバス停脇から山に入り、昼なお暗い沢を詰めて右へ逃げるとそこに道があり、シダの斜面についた道を辿ること20分余り、宮野通過から19kmあたりの後追いまで見渡せるポイントに到着、「これが愛宕大俯瞰!」だと感激して仁保駅に戻った。 再びN氏から「どうだった?」と訊ねられ、「おかげさまで後追いまで見える愛宕大俯瞰を見つけられました」と言うと、N氏いわく「それは、里だ!先週T氏が道を付けておいたので、途中からは迷わず行けたでしょ」私は、「里ですか?・・・」と言って絶句、N氏続けて「愛宕山大権現はまだ上だよ、りっぱな碑があるのさ」、私「えっ(なっなっ何ですか? 大権現? 碑? )」と再び絶句・・・、上には上があるんだ・・・。 その日が私の・・・、以後の俯瞰行脚の扉を開けてしまった日となってしまうとは当時は気がつかず、唯々、俯瞰の奥深さに呆然として帰路の道をたどっていくこととなった。 (その3) ・昭和58年10月中旬、愛宕の里から始まった俯瞰行脚は、【秘密の花園展望台】(木戸山T〜二反田Tを沢を隔てた山から俯瞰)、【田代ケ原】(篠目直線の手前、田代踏切付近を俯瞰する山)、【津和野大俯瞰】(丸山公園−鷲原C−神田地区を雲井峰から俯瞰する)、【Z俯瞰】(津和野地区では現在も有名、昭和60年頃発刊された写真集"煙の宴"の文章編「白魔の世界で」は山口の俯瞰の"あわれ"をみごとに表現している。私は、後追いまで見えたスーパーZ俯瞰の方が気に入っていた)、などのポイントを聞き及ぶようになる。 そして、他にも【ローソク岩】(津和野大俯瞰と似ているが神田地区の撮影角度が秀逸、最近再び密かに脚光を浴びているらしい)、【どん松五郎】、【レクイエム】など、山口線に通う度に、俯瞰の深遠世界にはまり込んでいくこととなった。 ・正月初詣臨が設定されたある年、我々Y軍団の俯瞰班4人は、かねてからの課題 "愛宕山大権現" を踏破すべくロケハンを開始した。愛宕の里のアプローチ途中の暗い沢を詰めて・・・右の稜線にとりつくと里へのアプローチだが・・・、その日我班は、暗い沢を詰めた地点で左方面を望み、思案に入った。 この辺から頂上方面へヤブ漕ぎをすればやがて判るかもしれない。しかし撮影後の夕方、冬日の日は短く薄暗い沢である、しばらくは誰も動かなかった・・・恐怖心に捕らわれて動けなかったのである。やがて三重のF君がやおら直登を開始、1分も経たず視界から消えると、再び3人の動けない者達の沈黙が続いた。 日もとっぷりと暮れて・・・1時間も経った頃だろうか、山の下のほうからかすかにクラクションの音が聞こえた、プップップワ〜ンという何とも間の抜けたクラクションの音が・・・。それが我々の乗ってきたレンタカーのクラクションと気がつくと、3人は青い闇から逃げるように一目散に駆け下っていった・・・。 3人が逃げ帰ってくると、レンタカーの前にF氏が既に降りており、「見つかったの?」と聞いても笑っているだけだった。彼はY宿に帰っても何も語らず、翌日の朝、「今日は愛宕にいく」と言って俯瞰班を先導したのだった。 (その4) Y軍団の俯瞰班の先兵となった三重のF君のおかげで、かねてからの課題 "愛宕山大権現" を発見できた我々は、翌日、意気揚々と愛宕に臨んだ。 仁保地バス停からの愛宕の道は、山口では珍しい薄雪に覆われており、天候もどんよりとした曇り空、気温も低く、煙を期待するにはこれ以上の条件は考えられない絶好の愛宕日和!であった。 三重のF君を先頭に登攀を開始、里に向かう暗い沢には入らず左に進む、巻道が正面尾根とおぼしきところと出会うと、植林境に沿って登山道がついている。そこから40分程だろうか、ひたすら登り、大権現の碑が見えるか見えないかあたりで右に入ると、話し声がする。 ・・・先人が3人・・・大阪のN氏、京都のH氏ら一行が先着していたのであった。愛宕山は曇りが絶好日和ということを第1撮影者は承知していたのである。こちらは、見つけたばかりの舞い上がった気持ちで辿りついたのであったが、先人の人達に遭遇したら、俯瞰班一行に緊張した空気が流れた・・・。 (今では派閥のようなものも有名無実になっているが、当時、熊○軍団(やまぐち号撮影集団のひとつ)のメンバーは個性的な方が多く、彼らからみた我々Y軍団は、定番撮影集団の集まりで、俯瞰には縁遠い存在と思われていたのである・・・) 私の頭の中で「ここはもう定員いっぱい!入れないヨ」 という声が聞こえた・・・聞こえたような気がした。 山波「こんにちは」というと、N氏「誰かに聞いてきたの?」、山波「昨日、ロケハンをして見つけました」、N氏「昨日ロケハン?」「すると今日僕らが登るときについていた足跡は、君達だったのか」、 山波「そうです」。 N氏「僕らの前の一段下なら入れるよ」、山波「ありがとうございます」 ・・・絶好の愛宕俯瞰日和も、やまぐち号の通過時刻には、一転、霧に包まれ、白いベールの向うでの白煙が暴れた・・・。通過後、京都H氏の実況録音には(当時はカセットテープレコーダ)、「198△年1月3日、ここ愛宕山大権現にY軍団山波様ご一行を迎え、いい煙が見れました!、皆さんご唱和を・・・バンザ〜イ、〃、〃 。」と記録されたらしい。 ・・・こうして私は、初めての愛宕山大権現撮影を終えたのであったが、白いベールの向うのやまぐち号はヘッドライトさえも判別できず、写真は惨敗の憂き目をみたのだった・・・。 (その5) ・初回写真は惨敗であったが、念願の愛宕山大権現に到達できた私は、1988年までのおよそ5年間、俯瞰軍団のポイント探しに情熱を傾注した。 【津和野大俯瞰】が雲井峰のわずかな伐採残地であったり、神田地区には(第2神田T−鷲原T間)、"【神田渡し】、【神田曲がり】、【神田下ろし】、【左壁】、【右壁】、【椿姫】"などの複数ポイントがあること、中でも圧巻は、奇岩に飛び移るポイント "【ローソク岩】" で、飛び乗った人がろうそくの火ならば、落ちた瞬間、命の火も消えてしまう恐怖にしびれてしまうという、俯瞰撮影の度胸が試される、登竜門のようなポイントも追跡していった。 ほとんど撮り尽くされていたと思われていたC57やまぐち号俯瞰ポイントも、石の上にも3年・・・に通じるのかどうか、やがてオリジナルポイントが見つかるようになる・・・。 津和野地区では【スカイホール】(第1神田T−第2神田T間と牧ヶ野Cを俯瞰、写真集「汽笛の詩」やまぐち号10年の軌跡P37に掲載)、二反田地区では【天国の展望台】(二反田T手前直線と二反田カーブ、二反田Sをサイド俯瞰)、【くぬぎ山】 (二反田カーブサイドから俯瞰のL、二反田Sを斜め前から俯瞰のHiポジション) などであった。 ・・・もっとも、林業が健在?! な阿東町は、その後も、木材出荷適齢期を迎えた新伐採地が増えているらしく、スカイホールより高い高度感を得られる牧ヶ野カーブの奥の伐採地(アプローチは裏の船平山側から。仮称サイレントバレー) など、時を経てまたNewポイントが生まれているらしい・・・。 ・そんな頃を過ごしていくうちに、山波の顔も俯瞰軍団に知られるところとなり、その方々と直接話ができる間柄となっていったのであった。そして愛宕地区の誕生話・・・、愛宕の里はT氏から、愛宕山大権現はN氏から伺った話は、俯瞰撮影ポイント探索の基本中の基本であったのだった。 (その6) ・山口線、C57やまぐち号撮影の秀逸俯瞰ポイント"愛宕山界隈"には、不思議な魅力がある・・・。 平成の今日、各地で蒸気列車が復活してもなお、やまぐち号を撮影する者が絶えないのは、C571の煙もさることながら、山口線沿線に日本の原風景や心象風景があるのだろうか・・・。 私には、山口線序章のハイライト区間、宮野−仁保間のほぼ8割以上を見通すことができる愛宕山地区の俯瞰ポイントに、現在もなお、人が呼び寄せられるように登っていくことに、不可思議なものを感じてしまうのである。 ・その不可思議なものに、最初に呼び寄せられたのはおそらく世田谷在住のT氏ではないだろうか。 "愛宕の里"・・・ポイント名はとてもやさしい響きだが・・・。 (愛宕の里初登証言を、当時の会話で再現) 山波「Tさん、愛宕の里はどうやってみつけたのですか」、T氏「県道の脇に19kmあたりが撮れる崖があるだろう、あのあたりから直登した」、山波「最初から線路が見えると判っていたのですか」、T氏「まあ、登れば何かは見えるとは思っていたけれど、僕は大山路の池(18km付近の踏切脇)を入れたアングルを狙っていた」、山波「直登なら道はないんですよね」、T氏「ひどいヤブで、運行日だったので朝の6時に登り始めて、汽車の通過にぎりぎりに間にあった・・・、実は途中あきらめようとも思ったくらいひどいヤブで、露出部分はすり傷だらけとなった」、山波「・・・壮絶だったんですね、今ついている道はなぜ?」、T氏「シダの斜面に道をつけたのは、初登の体験(直登では時間がかかり過ぎる)からかもしれない」、山波「私はあの道おかげでポイントをみつけられました」・・・。 ―― 補足すると、山口線沿線のヤブ漕ぎを経験した者には悪夢にうなされる、あの粘るトゲの木(名称不詳)が密集していたらしい・・・とすれば相当のすり傷であっただろう。また、大山路の池を入れて絵にするには300mm以上のレンズが必要であるが、ちょっとマニアックな狙いと思う・・・。先人は一般人には計り知れない観点を持っているのだろう。 "登れば何かは見える"(=下からは木の繁茂で?としても、登ってみて、初めて見えるか見えないかがわかる)は今も私の中で基本事項である。そして、T氏の珠玉の一言は"直登"だろうか、撮影したい斜面に到達する最良な手段は、狙った地点へ真っ直ぐ登ればいい=直登、これほどシンブルな基本はないと思う ― ![]() (その7) ・山口線、C57やまぐち号撮影の秀逸俯瞰ポイント"愛宕山界隈"には、いくつかのポイントがある・・・。 そのうちの "愛宕山大権現" は、愛宕の頂上直下で、最も高い高度感を得られるポイントである。 かつて日本各地に生活の一部としてあった山岳宗教の名残であろうか、頂上には御神体 "大権現の石碑"と、大人が2〜3人手をつないで抱える程の "松の御神木" が鎮座していた。 やまぐち号撮影のため現地入りし、レンタカーで宮野駅を通り過ぎると、やがて真正面に姿を現す愛宕山・・・、当時の私は、車から見える頂上ご神木に向かって、柏手を打って撮影の成功を祈ったものであった。平成の今は、ご神木の方は枯れてしまい、下界から仰ぎ見れる霊山?! としての特徴のひとつは失われてしまった。 ・愛宕界隈の代表ポイントは2つ、愛宕の里と愛宕山大権現である。そのひとつ、愛宕山の最上段ポイント "大権現" の初撮影者は、大阪のN氏である(:因みに入賞作品もある=昭和61〜62年頃の鉄道ダイヤ情報○月号トップアングル:一席受賞) 。 (愛宕山大権現発見証言を、当時の会話で再現) 山波「Nさん、大権現は里と道が違いますが、どうやって見つけたのですか」、N氏「道は下ってくる時に見つけた」、山波「登る時はどこから」、N氏「愛宕の里はまだ中腹位と思ったから、そこから直登した」、山波「里で満足しないでまだ上に?」、N氏「頂上まで行って見えるかどうか確かめないと、まだ見えるところがあるかも知れない、里より高度感が欲しかったし・・・」、山波「う〜ん (飽くなき探究心だ)」、N氏「そして頂上についたらびっくり!、大仰な碑があって、愛宕山大権現と刻印されていた。人が来ているということは下山道(登山)もある・・・と推察。撮影ポイントは少し探したら見つかったし、撮影地直下の画面を横切る松は眺望を遮っているが、ご神木につながっているようで、それなりに面白い。それにS字カーブが美しい」、山波「後追いまでの眺望が効く里より、見える区間は短いですが・・・」、N氏「まあ、里はT氏の(見つけた)ポイントなので、僕は大権現の高度感が好きだ」、山波「俯瞰のコツみたいなものはあるんですか」、N氏「田代ケ原(篠直の奥の踏切付近のカーブを俯瞰) でのアプローチは、稜線をぐるっと全て歩いたし、篠目鉄塔も、鉄塔があるということは保線道が必ずある。まあ、登ってみることだね。」、山波「・・・ (恐ろしいことを言う人だ)」。 (その8:最終話) ・―― 愛宕山大権現発見証言を補足すると、やはり初登りは直登をしていることが里の場合と共通している、俯瞰の基本は直登らしい。また、狙った山は一番高い地点を踏襲することが、よりポイントバリエーションが増える秘訣ということ、できれば稜線を走破が理想らしい。「○○氏のポイント」と言っているのは対抗意識があったのか? 一口に俯瞰といっても、展望角度、高度感の違いは千差万別といっても過言ではなく、その恍惚感?! に捕らえられると、自分のオリジナルポイントを探求するようになるようだ。 鉄塔には必ず保線道があること、地図では道のない山にみえても、頂上まで行けば、稜線沿いに"けもの道" などがあり(大権現の場合は、かつての祭礼の道)、帰り道は何とかなるもの。そして、道を押さえておくアドバンテージは、愛宕山で迎えるやまぐち号通過時間は、逆光であることから、曇りの日に登るのがコツで、朝の観望天気を伺いながら、登るか登らないかを決定する時間を遅くできる・・・と当時の私に教えてくれたのであった―― このように俯瞰の基本中の基本を教授された私ではあったが、道なき道を探し山中を彷徨しても、地図と高度計で確実に帰ってくることを会得するには、復活のC623ニセコ号を稲穂嶺で迎えるまでの日々を過ごす必要はあった。しかし、やまぐち号での俯瞰経験なくしてその後の俯瞰行脚はなかったと思う。もちろんあの頃は、C571やまぐち号より大型の蒸気列車、しかも我々世代にとっては伝説の汽車が帰ってくるとは・・・当時、夢にも思わなかったことでもあった。 ・最後に、命名に関して触れておくと・・・・・・。愛宕山大権現は、説明するまでもないが石碑の刻名からそのまま使われ、片や愛宕の里は、当初名無しだったらしいが、間もなくして大権現が発見されたため、"大権現の登りからからみれば里くらいのものだ" ということで、愛宕を冠して愛宕の里となったのが由来と聞いている・・・(当時の私は、絶妙な命名に感動すら覚えた!:若かったなあ・・・) 。 ・私の多感な?? 20代に、愛宕山をきっかけに多くのことを教えてもらいました。もちろんそれは過激軍団(※1)と称されながらも、飽くなき蒸気列車への思慕を抱き続けた俯瞰軍団の方々からでもありました・・・ ・・・そういえば、こんなことも・・・ 蒸気列車への思慕の象徴に、彼らは、当時の俯瞰軍団を中心に "時代に乗り遅れた現代のヒーローたち" というオリジナルステッカーを作成、銀箱や車窓に貼っていた。 平成の今は・・・、時代が呼び戻した世紀を超えたヒーローたちと呼べるかもしれない。 そして、男達の瞳の奥に宿るヒーローたちを、草深い山の中から追いかけていこうと思う、もちろん復活蒸気列車の先駆者「C571やまぐち号」に感謝しながら・・・・・・。
・・・これで、愛宕山の俯瞰話は終わらせていただきます。最後までおつきあい下さってありがとうございました。 改めて、"煙の宴会"掲示版にのせることを快諾し、また、表現方法、写真掲示に、適切な助言をいただいた管理人様には、この場を借りて深謝いたします。 2003年7月 山口線開通80周年に記す (山波) ![]() 愛宕山大権現 1984年3月 _________________________________ 俯瞰撮影の初級者のための・・・ イ. 装備と準備 ・やまぐち号の俯瞰ポイントでは、身体保護に重点をおいた最低限のものを"1.通常装備"としました。両手は必ず空けておいた方がいいですので、三脚を付けられるザックは必需品、ない場合は首に掛けて行動できるストラップを三脚につける。 列車や飛行機利用の現地入りでも、現地調達=否のものは、あらかじめ準備する必要がありますが、荷物の軽量化のため現地調達手段(目安)も付記しました。 1.通常装備 重要度記号・・・〔 ◎・・・標準装備品、○・・・あったほうがよい、△・・・省略可〕
(詳細説明) ◎ 靴 =道がない所、あっても石ころや沢道は足の保護が重要、機材の重さも加わるので足首を包む「トレッキングブーツ」がよい。私は更に中敷を入れている。重登山靴(マウンテニアリングブーツ)までは必要ないと思う (個人差有) ◎ 軍 手 =滑止めのある軍手、ワークショップ等で売っている手のひら側に黄色い樹脂がついているもの。普通のタイプでも構わない。雨の時は2枚あったほうがよい、冬はフリースの手袋も必要 ◎ 帽 子 =前につばのあるキャップタイプがよい、藪は低くても木の枝が顔にあたる場合多し、眼の保護としても必要。日よけ雨よけにもなる。ゴーグルも購入した事もあるが、蒸れてしまうため不可 ◎ 長袖シャツ=よほど整備された道がない限り必要、もちろん夏も。軽い俯瞰でも藪こぎが少なからずあるので、露出部分はなくす意識は持つべき。登山用品店のワゴンセール(ICI○井スポーツ登山店は現在セール中)で充分、高くてどうも?という人は、しっかりした生地の化繊地など汗が乾きやすいものなら可 ◎ 汗ふき=15cm四方程度の小さめのタオル地のもの、化繊のハンケチは不可 ◎ 水 = 最近のスポーツドリンクなら冷気がなくなっても飲める。健康志向者はむぎ茶か水。 量の目安は、体重×5g×時間=水分の量 (例えば、体重60kg×5g×往復2時間=600g≒600cc)の計算式が便利 ・やまぐち号の俯瞰ポイントでは、場合によって必要品となるものです。なくても戻ってこれますが、より効率的、より安全に撮影するための装備です。何回も経験している中級者や単独行の方は必要と思いますが、全てを揃えるということでなく、各個人の経験によって準備するものです。 2.オプション装備 重要度記号・・・〔 ◎・・・標準装備品、○・・・あったほうがよい、△・・・省略可 〕
○ 鈴 =大抵はつけて登るが、山里のすぐ近くはうるさくて目立つため、つけても音をださないようにしている。南部鉄ひもタイプのものがどこにでもつけられて使いやすいが現在製造中止の模様。登山専門店で調達するが、カウベルタイプ(牛の首にかけたデブりんどう型)は、藪こぎに適さないので不可。"赤胴鈴の助"の胴のイラストのような丸く閉じたものがよい。最近は熊の出没が増えていると聞くので、◎(標準装備品)にいれてもよい ○ 地図=国土地理院発行の二万五千分の1、行動用に登る山塊の部分を白黒コピーする (拡大率200%A3で複写するとよい) ○ 高度計=腕時計タイプがよい、時計と兼用できる。必ず取り付き点で地図をみて高度あわせを行うこと。使いこなすと手放せない △シルバーコンパス=見通しの効く場所で現在地を確認することや迷った時に使うらしいが、現在、私は使っていない。曇天の日の初登の場所での方角の確認など、役に立ちそうなので購入予定。これからがんばる人は使いこなせた方がいいと思う ○ 鉈(なた)=やまぐち号俯瞰では必要性は低い。道がなく相当の藪こぎが予想される所は必需品。 また、北海道では絶対必要、本州でも月の輪君が出没しそうなところは必要、万策尽きた時はこれで闘う。腰につける時のケースは、木製のハードタイプ(本州のホームセンター)より、秀岳荘(札幌)オリジナルの革製ソフトタイプがグー △ 杖 =ウォーキング・スタッフ、スキーのストックでも代用できるが、3段式の伸縮タイプがよい。ショックアブソーバ付なら冬以外にも使えそうでグー △ チョコレート等=行動食、非常食として準備、私は片道1時間を超える行程で必要と思えば持っていく。普段は車の中の空腹用 △ (登山用)下 着 =普段着に多い綿製のものは、汗対策の着替え下着を準備する。 登山用品店で速乾性のものを上下とも購入すれば、着替えは必要ないが、上着類まで放湿性のあるものにすることが理想 △ 蚊取り線香 =田植え期〜盛夏は必需品といってもよい、山のまだら蚊の毒はすごい。電池式の"お外でノーマット"もよい、ただし脱落防止の工夫は必要 バンダナ=目に入る汗を止めてくれるため、使いだすと便利。軽い俯瞰は汗ふきを使わずにすむ場合も多い。磐西ではC57デザインのものも350円で売っている。好みが分かれるので、表に入れず必要記号もつけなかった ( 参考図書 : 「アウトドア道具考・バックパッキングの世界」 村上宣寛著 春秋社) 初級者のための・・・ ロ.鉄道俯瞰撮影注意事項
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