目の前に二人の姿があった。これから雪かきを始めるつもりらしく、それぞれ大振りのシャベルを手にしている。二人は膨大な雪を前にして佇み、どこから掘り進めようかと思案顔だ。やがてある場所に見当をつけた一人が、ざっくりとシャベルを雪に差し入れる。掘り返した雪は、シャベルの柄を支え持つ片方の手を軸に、梃子のようにして持ち上げてわたしのすぐ目の前に振り下ろされた。たいしたものだ。手馴れた手つきである。もう一人がそれに続く。雪はどんどんこっちに向かってきた。突然、首すじにひんやりした感触を覚える。雪だ。そして、肩にも。二人は徐々にわたしの方に向かってきた。
二人とも続けざまにわたしの体の上に雪を振り下ろしていった。ふいに雪をまともに顔面で受けて、ちょっとの間だけ視界を遮られた。それにしてもきれいな雪だ。上空から降り注ぐ午後の陽光は、雪を目映いばかりに照らしていた。衣服に付着した雪はキラキラと反射した。わたしはうっとりとして雪の結晶に見入っていた。 |
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雪はさらさら、さらさらとわたしの体に降り注ぐ。ひんやりした雪の感触が気持ちよくて、思わず深呼吸したくなるほどだ。真っ白な吐息が立ち上っては青空へと消えていく。火照った顔に浴びる雪はことのほか爽快で、もっとどんどん雪を浴びていたい気分であった。
二人はせっせと雪かきを続ける。間断なく振り下ろされる雪はわたしの体へと降り注ぎ、やがてこぼれ落ちては足元に積もっていった。このままでは埋もれてしまいそうだ。しかし彼らはわたしの存在に気が付く様子もなく、休むことなくただ機械的に雪をかき続けるばかりだ。
気がつくと膝から下はすっぽり雪に埋まっていた。そのうちに、ふとした弾みでバランスを崩して、どうにも立っていられなくなり尻餅をついてしまう。するとそこへ、どさっと大量の雪が振り下ろされた。ややっ、危ないではないか。そろそろいいかげんに雪をかけるのはよしてくれ。なんだか急に腹が立ってきた。罵声を上げようとしたものの、顔面にもまた勢いよく雪の塊を浴びせかけられ、意気をそがれてしまった。 |
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彼らは平然と何事もなかったようにただ黙々と作業を続け、いっこうにやめる気配はない。ここにこうして座り込んでいるのは生身の人間なのだ。曲りなりにも血の通った生き物なのだ。意思もあれば感情もある。そうだ、自分だって生きているのだ。だが、それでも二人はそのシャベルを振り上げる手を片時も休めようとはしない。生身の人間がここに座り込んでいることなどまるでお構いなしに。
ふと思う。ひょっとして二人とも、わたしがここにいることに気が付いていないのではなかろうか。彼らの視界にも、ましてや意識にもわたしという一人の人間の姿は存在しないのかもしれない。さればいくらこちらが雪に埋もれようと、全く意に介さないのも道理である。
すでに雪は胸のあたりまで来ていた。色恋に溺れて首っ丈というなら分かるが、雪に埋もれて首っ丈なんて洒落にならん。なんとかしたいのは山々だが、どうにもよい方法は思い浮かばない。いやはや、困ったものだ。このまま雪に埋もれて生涯を終えるというのも、よくよく考えれば惨めなことだった。 |
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だが待てよ。これまでの人生で些細ながらも窮地に陥った経験がないわけではないし、それでもなんとか切り抜けてくることができたような気がする。それを証拠にわたしはまだ一度も死んだことがない。生まれてこの方、一度たりとも命を落とす羽目に陥ったことがないのである。ならば現在こうして生きて存在しているという事実は、わたしという人間が強運の持ち主である証拠だ。そうだ。これだけ運のよい自分が助からないはずはない。落ち着いて冷静に考えよう。
まず、身に着けている服の色が問題なのかもしれない。わたしはうつむいて自分の衣服に目をやった。そういえばなにやら白っぽい服だ。こんな服を着ていちゃいけない。だめだ、だめだ。今度ここを訪れるときには、真っ赤な服に身を包んでこよう。そして頭のてっぺんにはリボンのひとつも結んでおけば、なんとか目立つかもしれない。
なんだ、簡単なことだ。やれやれ、こんな簡単なことにも気がつかなかったのか。わたしはさっそく家に帰って服を着替えて着たいような衝動に駆られた。できるものなら今すぐにでも服を取り替えたいほどだ。 |
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とはいえ、まず家に向かうにはこの大量の雪から抜け出さなければならない。ああ、だめだ。なんたることだ。せっかくのアイディアもお釈迦になってしまった。やはり服を着替えるにはいったん自宅に戻らなければならない。
つまりだ、それにはこの場を離れる必然性が生じる。要約するとこういうことだ。まずはこの大量の雪から抜け出さなければ、この場を離れて自宅に戻り、雪に埋もれていても人目につくような色合いの服装に着替えるのは不可能ということだ。いや、それにしても、そもそも人目につく服装に着替えることによってしか事体を打開できないものなのだろうか。一瞬思考が停止するのを覚える。いったいどうなっているのだろう。きっとパニックで頭が混乱しているに違いない。
あっと気がつくと、頭から下はすべて雪で覆われていた。大袈裟にもがいて助けをもとめたが、聞こえないようだ。このまま一巻の終わりらしい。ああ、短かったわが生涯よ、グッドバイ。盆暮れには仏前に線香の一本も上げとくれ。 |
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ついでに真っ赤なイチゴの乗っかったショートケーキの一切れも備えてくれるとなお嬉しい。白く泡立てた生クリームたっぷりのやつ。ちなみにイチゴはハウスものだと味が落ちるぞ。まあ、冬場にはそれしか出回らないかしらん。そうそう、お盆にはスイカも欲しいかな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏···。
するとどうしたことか、二人は突然手を休めた。どうやらわたしの存在に気がついたらしい。ただの偶然なのか、敬虔なる仏教徒を自認する我が祈りが通じたのか、お二人さんの気まぐれなのかは定かでないが、ともかくこれで助かったのだ。ほっとため息をつく。二人でなにやら相談しているのが聞こえる。今いる場所はさんざん掘りつくしたので、ちょっと移動して別のところから掘り始める算段らしい。チャンスである。しからば、彼らが仕事を再開する前にこの場から逃げ出そう。くわばら、くわばら。
なんとか今のうちに雪中から抜け出せないものかと必死にもがいてみた。だが雪はずっしりと重く、いっこうに体の自由は利かなかった。幾度も幾度も満身の力を込めて雪を払いのけようとしたが無駄だった。 |
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次第に足が悴んでくるのを覚えた。ブーツを履いた足のつま先が感覚を失いかけている。冷たいのを通り越してただひたすら痛かった。さかんに指先を折り曲げたり、親指と人差し指を擦り合わせてみたりしたが、どんよりと重たい感触があるばかり。このまま麻痺しきって、きっと凍傷になってしまうのだろう。なんだか、突然惨めな気分に襲われた。
思えば馬鹿なことをしたものだ。このまま雪に埋もれて死んでしまうのだろうか。いや、死なないまでも誰かに助け出されるまでずっとこのままだろう。
自宅に残してきた愛猫はいったい今頃どうしていることやら。そろそろお腹をすかせているに違いない。昨日は奴さん、こちらの目をかすめて鯵の開きを横取りしようとして大目玉を食らったのだ。こんなことになると分かっていたなら、昨日の晩飯には鯛の一匹も奮発してやるところだったのに。やれやれ気の毒なことをしたものだ、と目頭が熱くなる。頬を一筋の涙がこぼれた。しゃくりあげる。また涙が落ちる。再びしゃくりあげる。我が身の哀れさに思いを馳せると、なんともやるせない気持ちになる。いつしか、わたしは声を上げて泣き出していた。 |
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やがて泣き声は大きくなった。泣く。ありったけの声を張り上げて泣く。それでも泣き足りないらしい。いったい涙というのは、出尽くしたらそれでお仕舞いになるものなのだろうか。とにかく、泣ける限り、ありったけの力を振り絞って泣いた。
それでも悲しいかな、わたしの声は二人には届かなかった。無情にも彼らはまたもや雪かきを始めた。なんと、今度はわたしの頭の上に雪を振り下ろし始めたではないか。冷たい雪はさらさら、さらさらと降り注ぐ。このままでは完全に埋まってしまって息が出来なくなるかもしれない。
「助けてぇ!」大声で叫んではみたものの、声はうつろに響くばかりで誰にも聞こえない。雪は降り注ぎ続ける。泣き濡れてぐしゃぐしゃになりながら、さらに声を張り上げる。
「助けてぇ。ここには人がいます。」まさにここで、生きた一人の人間が生き埋めにされようとしているのだった。しかもその事実に気付く者すらいない。自分の存在のはかなさに思いを寄せて胸が一杯になる。今この瞬間、ここで自分が埋もれようとしていることを知るのも、紛れもないわたしただ一人のようだ。
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「誰か、助けてぇ。ここに、わたしが、いるんです。どうか、気が付いてぇ〜〜。」しかも、ここにいるわたしとは、由紀子という名を持った一個体である。
つまり、由紀子という名前はわたしの人格を具現化したものと言っても過言ではない。もしここでこのまま雪に埋もれてしまえばすべての痕跡は消し去られるだろう。ひょっとして由紀子という呼び名も、そのような人物がこの世に存在していたことすらも、永遠に忘れ去られてしまうかもしれない。
「お願いです。助けてください。ここにいるのは、わたしです。由紀子です。」自分の名前を叫んでみる。喉はからからだ。目の前は涙で何も見えない。雪は容赦なく頭の上に降り注ぐ。雪が顔面に命中する。痛い。あまりの冷たさにひりひりと痛む。
「ここには人がいるのよ、助けてぇ!ここにわたしがいるの。由紀子が、ここにいます!」それでも雪はとどまることを知らない。息が苦しい。だんだんと意識が遠ざかっていくのが分かった。
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いよいよ最期のようだ。できる限りのことはした。そろそろいいかげんに諦めようか。これで目を閉じれば楽になる。息を大きく吸い込んだ。でも、最後にもう一度だけ、本当にもう一度だけ叫んでみよう。
「ユ、キ、コーー!」そう叫んだ瞬間、バサッと最後の一振りが振りかざされて意識を失った。
どれほどの時間が経ったことだろう。耳元でかすかなささやき声が聞こえる。
「由紀子さん、由紀子さん、しっかりしてください。」
暖かい手がわたしを包む。誰だろう、見知らぬ人だ。なぜ自分の名前を知っているのか、とんと見当がつかない。だが、そんなことはどうでもよい。顔を上げて目をしばたくと、自分が横たわっていた雪面のすぐそばに白い車体のワゴン車が止まっているのが見えた。てっぺんにはちょこんと赤いランプが乗っかっている。救急車だった。
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どうやら、気づいた誰かが電話して呼んでくれたものらしい。よかった、これで助かったのだ。人々が集まって心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。
一人がポットから熱い紅茶をステンレスのカップに汲んで差し出した。手にカップを持つとその重みと熱が伝わってきて心地よい。凍えかけていた両手をカップに摺り寄せると、次第に血が巡ってくるのか、指先のあたりがむず痒くなる。無我夢中で湯気の中に顔を埋めるようにして飲み干し、何杯もお代わりをした。熱い紅茶で体の芯から温まり、やっと人心地ついたようだ。深い安堵の息を漏らすと、あたり一面が白い湯気に包まれた。
「さっきの二人はどこへ。」思い出したように尋ねてみた。雪かきをしていた二人の姿が目の前にちらついている。みんなはかぶりを振った。辺りを見回してもそれらしい人影は見えない。わたしは懸命に、二人の背格好や手にシャベルを持っていたこと、熱心に雪かき作業を行っていたことなどについて説明したが、そんな人なぞ見かけなかったと口々に言う。 |
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もし彼らがどこかに行ったとしても足跡が残っていてもいいはずである。ところが盛んに目を凝らしてもそれらしい形跡は見つからない。一心不乱に雪かきをしていた、あの二人の正体はなんだったのだろう。顔面には、ひりひりする冷たい雪の感覚がかすかに残っている。もしかすると雪の中、寒さと飢えによる単なる幻覚だったのかもしれない。
それにしても彼らはいったい、本当に存在していたのだろうか。いや、たとえそれが幻に過ぎなくても、わたしの認識の中には確かに存在したのだ。もしその存在が幻に過ぎないとしたら、あの時点で雪に埋もれそうになって泣き叫んでいたわたし自身もいなかったことになる。さっきの時点で自分が存在していたことの確かさと同じぐらいの重みを持って、やはり彼らは存在していたというべきだろう。
救急車は深い雪の中を苦もなく、滑り出すように発車した。軽い振動が伝わってきて、血流が滞っていた四肢の血管に熱い血が流れるのを感じた。痺れた手足がもぞもぞして痒い。わたしは自分の手をじっと見つめた。血管が浮き彫りになって見える。車中で人々はただじっとわたしの様子を見守っていた。
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