お金がないについて考える
もともとテニスは上流階級の社交スポーツとして成立したというのは皆さんご存知かと思います。まあ現在でもニコラス・ラペンティの父親のように息子だけのためにエクアドルでフューチャーズ(ATPツアー、チャレンジャーズの下位に位置するプロテニストーナメント)を丸抱えで開催したなどという豪気な話もありますが、テニスが一般に広く親しまれるスポーツであるのは論を待たないところです。
しかしながら既に「ネットを挟んだ格闘技」と化した現代テニスにおいても、ボクシングほど「ハングリー精神」が強調されることはありません。
やはり広場さえあればボール一つで始められるサッカーなどと違って、テニスをするにはそれなりのお金がかかるのが事実です。我々在シドニーの人間がガンガンテニスをできるのも、日本の都会に比べて格段に安いコート使用料がモノを言っているのは間違いありません。
しかしながらアンドレ・アガシやピート・サンプラスは移民二世で決して裕福な育ちではなかったらしいですし、現在のトッププロの中にもさらなる貧困からのし上がってきた選手がいます。今回はそういった事例を研究してお金をかけずにテニスで天下を取る方法を考えましょう。
エレナ・ドキッチの場合
エレナ10歳の時にユーゴ難民として親戚を頼ってオーストラリアに移民したドキッチ一家。
T.Tennis誌99年12月号にリリアナ夫人のコメントとして「オーストラリアに移住したのはテニスのためなんですけど」という記述があるそうですが、既に有望なジュニア選手であったということでそれは決してウソではないものの、ビザはあくまで難民扱いでした。だったらユーゴ難民という地位は何なんでしょう?審査の厳しいことで有名なオーストラリア移民局を見事騙してしまったのでしょうか。
難民申請に失敗したなら今ごろドキッチはサウスオーストラリア州ウーメラの収容所でビザを求めて暴動を起こしていたのでしょうか。
取り押さえようとする警備員たちにラケット一つで立ち向かい、ピンポイントサーブの連発で一人づつ昏倒させ、さらに迫る奴等をフォア&バックハンドでなぎ倒す少女というのもカッコイイ。ほとんどスケバン刑事の世界です。「難民にまでなったこのエレナ・ドキッチが、何の因果かWTAの手先…。てめえら!許さねぇ!」
現実にはシドニーでも決して高級といえない所(Fairfield)に住んでいたものの、エレナがテニスクラブで練習するという余裕はあったようですが、車社会のオーストラリアで大問題が一つ。当初彼女がテニスクラブ朝錬へ通う際に送り迎えする車がなかったのです。
そこで、近所の人に頼み込んでその家の男の子の送り迎えに便乗していたそうな。(ちなみにニューサウスウェールズ州ではドキッチ一家も使えるはずのクロアチア語で自動車運転免許学科試験を受けることができますが、セルビア民族主義者の父ダミア氏がそれで受験したかどうかは不明。もともとドキッチは現クロアチア共和国領内で生まれてクロアチア共和国独立に伴い8歳の時セルビア共和国地域に移っています)
その後強化選手に選ばれてからの活躍は大した物ですが、99年、16歳にしてウィンブルドンでランキング129位のプレーヤーとして1位のヒンギスを倒した時には一泊1万円のモーテルに両親・弟と一緒に泊まっていたらしい。大会にオフィシャルホテルがあれば少なくとも本人は無料か割引のはずですが、それでも高かったのかしらん。翌年家族でウィンブルドン入りしている写真を新聞で見ましたが、泊まる場所は一変したことでしょう。
そのウィンブルドンでダミア氏はイギリスの記者から借りた携帯電話をぶん投げて壊し、その場に居合わせたエレナはすぐさま泣きながらクレジットカードを差し出したとのことですが、彼女ほどの収入があれば当然とはいえカードを常時携帯するティーンエイジャーというのも何か嫌やなあ。
こういったトラブルの上にWTAランキング十何位のこれからという時、突如ユーゴスラビア人として活動することになりました。新聞等で「強化資金(=オーストラリア国民の税金)を返せ!」との大合唱がありましたが、強化プログラムは条件付きの奨学金みたいなものではないため、返却の必要性はないとのこと。
しかし、こればっかりはないと思いますけど、最初から移民という手段で強化資金を掻っ攫って逃げるつもりだったのだとしたらこの一家、非常に肝っ玉が太いです。最近娘に逃げられたダミア氏は「ユーゴスラビア人は相変わらず怠け者で全然進歩していない。オーストラリアに残るべきだった」と弱音を吐いておりますが。
ウィリアムズ姉妹の場合
ある日テレビを見ていたリチャード・ウィリアムズ氏、バージニア・ルチッチがテニストーナメント一週間で3万米ドル(450万円)稼いだのを知ってテニスプレイヤーにするべく嫁さんに産ませたのがこの姉妹。
幼少の頃は父と安い公営コートを探して練習していたのだそうですが、いつも練習しているロサンゼルス・コンプトンのコートはギャングや薬物取引の巣窟。銃声がする度に地面に伏せて、止んだらまた練習を再開していたそうです。銃下で練習すればあれだけ強くなるというのであれば、地雷原や空爆下で練習したならばどれだけ強い選手が育つのでしょうか。(彼女らの姉は2003年9月にコンプトンでトラブルに巻き込まれて射殺されたそうでご冥福をお祈りします)
ちなみに姉妹は母親の性格を受け継いだのか非常に地に足のついた性格で、年間ツアーだけで600万米ドル(6.5億円)以上稼ぐセリーナはカジノで40ドル(5000円ほど)勝って天地がひっくり返ったような大騒ぎしていたそうな。
ロシア選手の皆さんの場合
ソ連崩壊前後の困窮というのはどの業界でも家庭でも経験したことのようで、テニス界や選手の家族も例外ではないのです。
5歳のアンナちゃん、クルニコワ家(男性形ならクルニコフ家か)のクリスマスツリーの下にプレゼントのテニスラケットを発見して大喜びしたものの、その後両親がそのためにテレビを一台売ったことを知って愕然としたそう。
ところで彼女がずっとヨネックスラケットを使用しているのには理由があります。アンナちゃん、オトコに対する場合と違って物をもらった場合は意外と義理堅いのであります。
実は当時のトッププレイヤー、ナターシャ・ズベレワがヨネックスに頼んで、旧モデルや売れ残りのラケットを取っておくようにしていたそうです。彼女はそれをロシアテニス連盟のジュニア強化プログラムに寄付していたのですが、80年代後半にそうやってラケットを受け取った一人にアンナ・クルニコワがいたわけです。それでも表面のフェルトの剥げたつるつるのボールを使って練習していたと言ってますけど。
彼女のプレイスタイルはつなぎのショットなし、強打強打でフラットボールをライン際にビシビシ決めるものですが、これは摩擦の効かないボールにスピンをかける練習ができなかったのが影響しているのでしょうか。
エレナ・ディメンティエワもプリンスとのラケット契約が一方的に打ち切られるまで、会社からスポンサー料をもらってなかったとのこと。完全に足元見られてたわけです。
さらにはタチアナ・パノワのインタビューによりますと、「マイナス10度の中手袋をしながら練習していたわ。こんな状況でコーチがタダで働いていたって信じられる?」ということだそうです。
一方、当時二つしかなかったとはいえモスクワ一番のテニスクラブ経営者の息子マラト・サフィン(当時6歳くらいか)は、赤ん坊の妹のミルクを買いに行かされ、お粥を買って来て母親に問いただされた時に「ミルクはすぐ売り切れるけど、お粥は割とよく売っているよ。ディナラをお粥に慣れさせておくとひもじい思いをしなくて済むじゃないか」と言ったそうです。
そのディナラ・サフィーナ、今や身長180センチを超えてます。マラト、お粥に一体何を入れたのだ?
最近のインタビューでも彼が企業スポンサーつきのジュニア選手としてスペインでトレーニングした理由について「(94年頃のモスクワでは)実際のところコートもボールも満足に使えなくて、ヒッティングパートナーもいなかった。冬の間は週4日しか練習できないし、それでは全然足らない」と言ってました。
しかし、今のロシアについては「今は何でもある。ボールもラケットもあるし、コーチもいる。素晴らしいことだ。これをテニスのできる環境と言うんだ」と心置きなくテニスをできる喜びを感じているようでした。
その他、家庭的に不幸だったジャスティン・エナン=アルデンヌなどは経済的にも苦しかったであろうと思われるのですが、実際のところは12歳からベルギーの強化プログラムに加わって午前中は勉強、午後はテニスという生活を続けていたそうで、練習環境としては恵まれていたようです。
一方、オランダの鉄人シャン・シャルケンはひたすら壁打ちをして強くなったそうですけど、やはり風車に向かって戦いを挑んでいたのでしょうか。
さらにはプロ入りしてからもお金のない人はいるわけで、デビュー当時のゴラン・イワニセビッチはガンのお姉さんの治療費を捻出するために勝ちつづけなくてはいけなかったそうです。おかげで彼女は完治したそうですが。
結局お金をかけずに強くなるには、
悪条件でも練習する(零下だろうが弾丸が飛び交おうが練習はできる!)
お金に対する執着心を持つ
安いテニスコートを探す
寄付をひたすら待つ
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ということで、まずは実力を誰かに見せつけないと始まらないようです。ただし、金のかからない国で練習するという選択肢もあり得ます。日本の皆様、シドニーでお待ちしております。
ただし、日本からの難民申請は第二次大東亜戦争や日本沈没が起こるか、専制政権に命を狙われるかしない限り受理されないと思います。
参考:"The Russian Hothouse" Australian Tennis Magazine Vol. 28 No.5, May 2003

