いい酢だなフォアハンドグリップ
「コーチー、いますか? おーい、山縣コーチぃ」
「何だ、誰かと思えば強化選手の岡谷君じゃないか。いるかもいないかもないだろう。一部屋っきりのクラブハウスなんだ、さっきから君の目の前にいるよ」
「ああ、さっきから僕の目の前にあるシワシワの穴はコーチの肛門だったんですか」
「それは近すぎるだろう。コタツの中でかくれんぼしているわけじゃあるまいし。で、今日は一体何の用だい」
「何を言っているんですか。コーチに呼ばれたから来たんじゃないですか」
「そうか、そうだったな。先週試合でロブを追っかけて足の甲にボールを当ててから物忘れが激しくてのう」
「都合のいい時だけ記憶が悪くなっているじゃないですか。しかも大体どうやったら頭の上を越えるロブを足に当てられるんですか」
「いや、ちょっとオーバーヘッドシュートというのを試してみたくてな」
「それってテニスの技じゃないじゃないですか」
「ああ、思い出した。テニスの達人になる必殺技を開発したので将来有望な君に伝授しようと思ってな」
「それってまたこの前みたいな不可能な技じゃないですか」
「何を言う。『光速パッシングショット』は理論的に裏打ちされていたぞ」
「じゃあ何ですか、試合前の練習で多数のボールを惑星軌道上に打ち上げて木星に送り込み、その重力で縮退を起こしてブラックホールを形成し、できたワームホールを通してコートにボールを打ち込むという技のどこが現実的なんですか。確かに光速は超えるかも知れませんが、木星惑星軌道上に物体を投入するにはどのくらいの加速度が必要だと思っているんですか」
「16km毎秒、つまり時速56700キロだろう。地球と火星の重力カタパルトを利用してスイングバイ軌道をとるから今の惑星の位置関係なら一年半ほどで到達するぞ」
「その頃には試合は終わっちゃってます。それができても木星に縮退を起こすには3.2×10の30乗kg、つまり太陽の1.5倍ほどの質量が必要じゃないですか。そんな数のテニスボールを未だかつて人類は製造していません。大体光速より速いボールがコートに入ったかどうか審判に見えるわけがないじゃないですか。」
「そうか、決して取られないパッシングショットだと思ったのだが」
「大体コーチは本当に鹿屋体育大学の出身なんですか」
「宇宙物理学科はなかったが、ファンタジー研究会で先輩と新井素子論を戦わしながら酒を飲みつつ種子島から打ち上げられるロケットを見ておったぞ。宇宙開発事業団の試験には落ちたが」
「天下国家のためにそれで良かったです。それから次に開発した『アガシになれる塗り薬』というのもちっとも効かなかったじゃないですか。デンプン100%、ドーピングの危険なしとか言って」
「あれは洗濯糊だったからな」
「そうでしょう。だからあれを全身に塗った後、試合では体が固まってしまって一歩も動けなくなってしまいましたよ」
「カカシにまではなれたんだ。アガシになるにはもう一歩だろう」
「86000歩逆の方向に走ってます」
「しかし、今度のは違うぞ。テニスの達人になれるトレーニングだ。これを見よ、ジャジャーン」
「あっ、大量のマグロ赤身とすし飯っ」
「君にすしを握ってもらいたいのだ」
「何ですか、グリップのタッチの練習というわけですか?」
「わさびはここにある。さあ、始めなさい」
「でもどうやって・・・。こうですか?」
「いや、左手の親指を栓のようにして端の形を整えるのだ」
「だんだんうまく行くようになってきました」
「もぐもく、うん、うまいぞ。よし、ならば小手返しをしてもらおう。ネタを下にして左手に乗せたすしをそのまま手の平の上でひっくり返してネタを上にするのだ。こうすると格段に早く握れる」
「こういう感じですね。なかなか難しいです」
「ネタは大量にあるからどんどんやってくれ、ぱくぱく」
「コーチ、さっきから食べてばかりじゃないですか。これで本当にテニスの達人になれるんですか?」
「いや、ただ単に無性にすしが食べたくなってな、すし屋に行くと高いので手先の器用な君に握ってもらったのだ」
「だったらテニスの練習でも何でもないじゃないですか」
「しかし『手に酢の達人』には近づいただろう」
「ラケット肛門に突っ込んで内臓かき回しますよ」
ご参考まで:うえだたみおさんのホームページ「補陀落通信」の「三度目の航時機」から基本設定をお借りしました。

