茶道石州流の点前の長所と短所

《茶道石州流の点前の長所と短所を、炉点前を手がかりに、
表千家の炉点前と比較して考える》

平成16年1月20日
茶道石州流教授 松寿庵 伊藤 宗久
はじめに

 点前とは、客においしいお茶を召し上がっていただこうと、自らの心を、ただそのことだけに集中・純化させるための手段であり、実際においしいお茶を点てるための技術であ留と同時に、客においしくお茶を召し上がっていただくための穏やかで、心休まる、暖かい雰囲気を醸し出す演技でもある(前掲「第3章 点前とは何か」及び「第4章 点前の基本」参照)。
ここでは、茶道石州流のこの「演技」としての点前の長所と短所を探ってみた。
  ・・・
 特定の流派の点前を稽古し続けていても、なかなかその点前の長所も短所も見えてこない。
 そこで今回、表千家の炉点前を研究し、石州流点前の所作との比較をし、果たしてどちらがよいのかいろいろ考えてみた。

 その結果、石州流の所作のいくつかの良さが分かり、自信が持てた一方、毎日自ら稽古していて、あるいは弟子の稽古を見ていて、どうしても間違いやすかったり、いかにも非合理的だし、形も美しくなく、どう考えても客においしいお茶を召し上がっていただくための雰囲気作りにも、おいしいお茶を点てるためにも貢献しているとは思えないが、そう見えるのは自分の不勉強のせいかと思い直してそのままにしてきた所作については、ただ漫然と古法に則ることであり、誤りだと思えるようになった。

  これらをご紹介し、皆さんのご意見をいただきたいと考えている。

1 立ち上がり方

 表千家では、両手を膝の上に置き、腰を浮かせてかかとを上げ、上体が揺れないように、両足を揃えてゆっくりと立ち上がる。

 石州流では原則として左足を少し前に出してから立ち上がる。

 実際に行ってみると明らかだが、石州流の立ち方の方が遙かに安定しており、自然である。

 点前は、客においしくお茶を召し上がっていただける、暖かく、心休まるゆったりした雰囲気をつくり出すことをその目的の一つとしている。そのためには、所作が、点前する人にとってごく自然で、無理のないものでなければならない。そうでないと、見ている者が緊張し、穏やかな心が醸成されにくい。
 
 その点から考え、石州流が優れていると考える。
 石州〇


2 礼をする際の手指

 表千家では、例をする際、両手のひらを畳に付ける。

 石州では、手指は卵を軽く握っているように曲げて手の甲を軽く畳に付ける。
 茶道は結局は食事の提供の一部であるから、歩く床である畳に料理する手をできるだけ触れまいとするのである。

 こうした心遣いは客に清潔感を感じさせ、客に安心感を与える。
 石州〇

3 道具を水指の前に出す所作

 点前を始めるため、水指の前に左手の茶碗セットと右手の棗を置く際、裏千家はこれら道具を同時に所定の位置に置く。

 石州は、いったん道具を膝の前に仮置きしてから、右手をいったん右膝脇に下げて、左手の茶碗セットを所定の位置に置き、次いで左手を左膝脇に下げて、右手で棗を所定の位置に置く。

所作全体はスムーズで、適度に丁寧で、客への尊敬の念も程良く現れている。
石州〇

4 建水を出すときの体の位置

 道具の最後に建水セットを持って出るが、表千家では、建水セットを持って、炉の前に斜(はす)に座って、建水セットを左脇に少し下げて置く。そして柄杓を左手で取り上げ、右手で受け、左手に移し、左脇に構えて、右手で蓋置を取り出し、炉の右脇に置く。そして挨拶をする。

 石州では、建水セットを持って出たら、水指の正面に座り、建水セットを左脇に置く。それから柄杓を左手で取り出し、右手で受け、左手に移し、左脇に構えて、右手で蓋置を取り出し、右膝上に保ち、小膝を使って炉の正面を向き、蓋置を炉の右脇手前に置き、蓋置に柄杓を引く。

 実際に行ってみると、表千家では、右手で蓋置を建水から出す時に身がねじれ、美しさに欠ける。
 石州の方が、蓋置を建水から出す時の所作が自然であり、美しい。
 石州〇

5 建水を前に出す時期

 石州流では、点前を開始してからしばらくして、棗を浄めて水指の脇に置いた後に、建水を前に出す。これでは、つい出すのを忘れてしまいがちだし、忘れないで出したにしても、他人には、出すのを忘れていて今になって出したように写るのではないか。所作に自然な流れがないからそう見えるのである。

 表千家では、蓋置を出して皆に挨拶をすますと、直ぐに蓋置を、使いやすいように少し前に出す。この方が自然だし、間違いしにくく、優れている。
表千家〇

6 釜の蓋の開け方

 表千家は素手で釜の蓋を開ける。ごく自然の所作と言うことができよう。

 石州では複雑なつくね帛紗で蓋を開ける。この石州の開け方はあまり流れが自然とはいえず、形も洗練されているとはいえない。

 しかし、釜の蓋が熱いことがあるのも事実であり、蓋には摘みがあるといっても、摘みが持てないほど熱いこともある。

 火の管理が悪いということもあるが、できれば帛紗で蓋を開ける方が安心である。 
 石州の帛紗の扱いにもう一工夫が必要ということか。

7 茶筅通し

 表千家では、茶を点てる前の茶筅通しを2回済ませた後、そのままそこで茶筅すすぎを行う。茶筅すすぎは、茶を点てたあとに改めて行うのだが、茶を点てる前のこの時点で、茶筅通しを済ませた後に行うというのは、ちょっとくどいようにも見えるが、そもそも茶筅通しの主な目的は茶筅をできるだけ湯になじませて、茶筅の穂先が万一折れて茶に混ざることのないようにすることだが、茶筅を単に3回湯に通すだけではその目的を達することができず、単に形だけになっているのが実情である。

 その点、引き続いて茶筅すすぎをすることは極めて有用である。
 表千家〇

8 茶碗の出し方

 表千家では、点てたお茶を、自分の座っている位置は改めずに(炉に斜に座ったまま)炉の右脇に出す。

石州では、炉の正面に座り直してから、炉の脇に茶を出す。

 炉に斜に座ったまま茶を出すのは、所作としては自然でよいが、形としては体をねじったようで、感心しない。

 しかし、その後、客の挨拶を受ける際は、斜に体が向いている分、自然な挨拶となる。

 炉点前では、正面を炉に斜に座った位置としているのだから、表千家のやり方を良しとすべきであろう。

 ただ、表千家も、道具を拝見に出す時は、炉の正面を向いて出すことを考えると、茶碗を身をよじるようにして出すのはいかがなものか。

 一番大切な、心を込めて点てた茶の入った茶碗の扱いとしては雑な所作と写らないだろうか。

 石州は、茶碗を出す時は炉の正面に体を少々ずらす。そして茶碗を置いたら直ぐに体を元の位置に戻してから挨拶をする。ちょっとした心遣いだが、大切なことではなかろうか。
石州〇

9 建水を元の位置に戻す時期

 表千家では、茶碗の水を建水に捨て、茶碗に茶巾を入れ、茶筅を入れた後、身をよじって建水を元に位置に下げる。

 石州では、茶碗の水を建水に捨て、茶碗に茶巾を入れ、茶筅を入れ、茶筅を浄めてこれも茶碗に収め、この茶碗を炉縁近くに預けた後、棗をその前に取り寄せ、帛紗を捌いて棗を浄め、この棗を左手に持ったまま、帛紗を畳んで腰に収め、空いた右手で棗を水指の右手前に戻す。

 その時点で小膝を使い、体をやや左に向ける。その際建水が左太股に近づくため、建水が邪魔になり、建水を下げなければならないことに気が付く。

 そこでそっと建水を元の位置に戻す。

 石州の所作の方が自然で、所作に無理がない。
 石州〇

10 拝見の終わった道具の下げ方

 表千家では、拝見が終わると、炉の正面に座り、右手で棗の左側に置かれた茶杓を取り上げ、これを左手に預け、右手で棗を取り上げて、水屋に下がる。

 石州では、右手で右側に置かれた棗を取り上げ、左手に預け、右手で茶杓を取り上げ、水屋に下がる。
 表千家のいきなり右手で棗の左側にある茶杓を取り上げる所作は、道具の前で手が交錯する感じがあり、不自然である。

 石州はこの「交錯する」のを嫌う(「石州三百箇条」参照)が、確かに所作に無理があるのは、美しさに欠ける。
石州〇

終わりに

  点前は簡単に変更すべきものでないことは明らかだが、一つの流派の、おいしい茶を点てるための技術としても、客においしくお茶を召し上がっていただくための雰囲気作りの演技としても、役に立たず、形も美しくなく、不自然で、形式張っていたり、権威主義的であったりする、そんな所作にいたずらに拘泥するのは、ナンセンスである。

 不易流行を忘れてはならない。

 自らの点前の長所、短所を判断するためには、他の流派の所作を見ることが大切だと、つくづく思う。


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