抗議の意志を
千葉県出身の林運輸政務次官を現地対策本部長として、2,000年までに平行滑走路の完成を目指して用地買収に乗り出してきました。芝山町議会もそれにあわせて芝山鉄道建設促進のために木の根の一坪共有地を所有している皆さんに「一坪共有地解消のための要請文」を送る事に決定しました。皆さんのところにこの要請文が届きましたら受け取りを拒絶するか廃棄処分して抗議の意志を表明してくださるようお願い申しあげます。
源さんの最敬礼
源さんが入院していた千葉市稲毛の病院にお見舞いにいったのですが、これが源さんと私の最後の別れでした。ベッドの上に起きあがっていた源さんは私の顔を見てたいそう喜んでくれて、もろ肌を脱ぎ大手術の跡を見せて「身体を輪切りしたがこの通りピンピンしている」と大層なご機嫌でした。人生という戦場を、三里塚の戦場を、闘病という戦場を駆け抜けてきた人だけが持つことができる精棹な気迫のこもった言葉でした。
その源さんがベッドより降りて私の前に立ち両手を膝の上にピッタリとそろえて「加瀬さんには兄貴が大変お世話になりました。このご恩は生涯忘れません」と最敬礼をしたのです。突然の源さんの行為に虚をつかれた私はうろたえて「そんなことはありません」と、しどろもどろに言葉を返しました
源さんは「加瀬さんには本当に兄貴はお世話になった」と繰り返し言葉をかさねました。源さんの兄貴とは三里塚空港建設反対同盟副委員長、故小川明治さんのことです。私の体には小川明治副委員長と闘争の苦労は分かち合ってきたという実感と揺るぎない信頼感があっても「お世話をした」という実感はありませんb
源さんパリ−で絶叫す
「フランスのラルザック軍事基地建設に反対する農民と交流し、バリーの映画館で「KASHIMAPARADISE」(鹿島パラダイス)の映画を観ました。この映画は、茨城県鹿島に住友の進出が決まり工場敷地に土地を売っていく鹿島の農民と空港建設に反対して寸土を命を懸けて死守する三里塚の農民の姿を対比して描いてある映画でした。最前列の席で私の隣にいた源さんが「兄貴だー」と画面を指差して絶叫したのです。館内は一瞬騒然としました。小川明治副委員長の葬儀の場面が大きく写し出されて柩を先導するのは弟の源さん、柩の上には源さんが「兄貴、三里塚の戦塵にまみれたヘルメットだ、もっていけ」とおいた黒色に闘魂の文字の入った小川明治副委員長の愛用のヘルメットが安置されていました。主催者の好意で源さんと三里塚の人達が紹介されてしばし館内は興奮のるつぼでした。フランス・ラルザックから帰ってきた源さんの「木の根の源さんについてこい、最後まで頑張ろう」との言葉に奮い立って戦ったものです。この言葉は源さんにとっては、いまは亡き兄貴小川明治副委員長の雄叫でもあったのです。
源さんに見送られて
話は尽きなかったのですが、三里塚での再会を約して病室を出て三階のエレベーターの扉の前に立っていると、源さんが見送りにきたのです。私が恐縮していると付き添いの娘さんが「お父さん、もう往診の時間だから病室に帰って」と迎えにきました。私は源さんを説得してエレベーターに飛び乗りました。源さんはここでも両手を膝の上にそろえて「今日はありがとうございました」と、深々と頭を下げて見送ってくれました。
「ああー、源さんが元気でよかった」と安堵の気持ちで見上げる千葉の空は広く蒼く澄み切っておりました。駐車場に出て車に近寄りドアを開いて源さんの病室の窓を振り仰いだその時、源さんは病院の玄関をでて私に向かって歩いてくるではありませんか。驚いて源さんに走りより「もう結構ですから帰ってください」と何度も繰り返す私の言葉を振り切り押しのけてきて、車の扉を開き乗車するように催促しました。さすがの私も乗車することはできませんでした。源さんの手をしばし握り締めて身体中の熱き思いを噛みしめていますと「加瀬さん、今日はありがとうございました。兄貴が加瀬さんに世話になったことは生涯忘れません」と、源さんは私を車の中に押し込んでドアを閉めてくれて、両手を膝の上にきちんとそろえて深ぶかと頭を下げて見送ってくれました。これが源さんと私の最後の別れになりました。
源さんの兄貴 小川明治副委員長の病い
実験村構想の提案者である反対同盟の柳川秀夫君の隣にある千代の屋食堂の離れ六畳のひと間を借りて空港反対闘争を進めていたのですが、その千代の屋食堂で小川明治さんが幹事となって小学校時代の同級会が開かれました。3時頃に小川明治さんが胃が痛くなり少し休ませてくれと私の部屋を訪ねてきました。小川明治さんに部屋を提供し休んでもらったのですが小川さんは「こんな静かな部屋で寝るのは何年ぶりの事であろうか」といって布団に横になりました。
このころ小川明治さんの家のすぐ後ろまで昼夜問わず轟音をあげながら空港建設の土木工事が進んでいて、小川さんの家をはじめ木の根部落の人々は、事業認定に基づく強制代執行の圧力と工事による爆音、騒音による拷問の毎日が続いておりました。空港敷地内の人びとが夜も静かに眠る事ができないのに、この俺だけが寝ていていいものかと自責の念にかられました。小川さんに「医者を呼びましょうか」と何回となくいったのですが「胃の痛みも取れて楽になった。私の胃の痛みは持病で重曹を呑めば治る」ことであったので医者の手配はしませんでした。その日の夕方、小川さんは「こんな静かなところで寝たいのでもう一晩泊めて頂きたい」というものですから快く返事をして私は小川明治さんと枕をともにして小川さんを三日あまり看病する事になったのです。
四日目の五時ごろ、小川さんは自分の寝ていた布団をきちんとたたんでいて「加瀬さん大変お世話になりました。命の洗濯ができました。もう大丈夫です。」といいながら私の前にピタリと正座して、首から紐でつるしてあった財布の中より二千円を取り出して「これ部屋代です。少ないけれど気持ちですからとっておいてください」とさしだした。私は驚いて金を無理矢理に小川さんの手の中に押し込んだ。小川さんは「加瀬さん、また静かなところに寝かせてください」と。私も快く小川さんの申し出を承知した。そうして小川明治さんの息子の直克、娘の恵子さんに連絡をして車で迎えにきてもらった。私は直克と恵子に「三里隊の街中を通る時に親父さんを医者に診てもらって家に帰るように」と念をおした。直克は困惑した顔で「親父は頑固で医者嫌いだから困ったものだ」といった。私の部屋から帰ってその夜、小川さんは再び胃痛を再発させて成田日赤病院に緊急入院し亡くなった。小川さんの持病は胃痛でなく狭心症であったのである。私の部屋に居る時に医者を無理にでも頼んで診断しておけばと私の心に無念さが悔悟の念となって残っている。小川源さんが「兄貴が大変お世話になった」とはこのことをいっているのではないかと思う。
「闘魂心成正剣破邪木の根居士」
これが、三里塚芝山連合空港建設反対同盟副委員長 小川明治さんの隠号であります。この隠号は空港反対闘争の歴史のなかで生まれたのではなく、日本の農地改革の階級闘争のなかで生まれ空港反対闘争のなかで引き継がれ発展したきたものです。復員軍人として帰郷した小川明治さんは戦争罹災者とともに開拓組合を組織し、小川さんみずからが組合長に就任して、天皇陛下の財産である下総御料牧場の全面解放の戦いに立ち上がったのです。
「闘魂を固めて戦い抜けば、御料牧場の全面解放は必ず成し遂げることができるであろう。正剣破邪、この私たちの要求は正しく、それに反対する者はかならず敗れるであろう。私はみずからが耕し拓いた木の根の土になります」。迫り来る飢えと必死になって戦いつつ、ひと抱えふた抱えもある木の根っこを鍬一丁、素手で掘り起こして畑に変えていったのです。新しく生まれた部落を「木の根」と小川明治さんは命名しました。拓かれた土地に「字 拓美」と命名して木の根の台地に夢を農民の歴史として人民の歴史として刻みつけてきたのです。
日本の農地改革が国際、国内の階級闘争の力関係によって規定され、下総御料牧場の全面解放は実現されませんでしたが、無念の思いは小川明治さんの胸の中に、私を含む日本の農民の魂の中にあると思います。あの時下総御料牧場と千葉県有林の膨大な面積が全面解放されていれば空港は作られなかったろうし、また、空港闘争の様相も大きく変わっていたと思います。命を賭け自分の生涯を賭けて拓いた村と畑が空港のコンクリートの下に抹殺されてゆくのを見て、志半ばにして倒れていった明治さんはさぞ無念であっただろうと思います。その日本の農民の無念の思いを引き継ぎ共有してゆくこととはまた、私たち日本の農民の働く者の歴史的使命であると思います。
小川明治さんの死と財産相続
小川明治さんが亡くなり当然の事として家族、兄妹の財産相続問題がでてきました。土地を相続して空港公団にその土地を売却したいと要求する兄妹もありました。苦悩した小川直克君は、反対同盟に土地の全権利書を持参して行き「これで相続分として支払いをしなければならない。金を作って欲しい」と相談してきました。反対同盟幹部会はその対策をたてることができませんでした。対策苦慮した私は反対同盟の石橋政次副委員長に個人的に打開の方法について相談に行きました。公団に、銀行に、不動産屋に一部土地を処分すればいとも簡単に解決はできる。これを避けるのにはどうしたらよいか。その時、石橋さんが「その金は私が無利子、無担保、返済期間を付けずに都合しましょう」と決断してくれました。小川源さんと直克くんと石橋さんと私が立ち会って、現金を石橋さんから受け取り、小川明治さんの相続問題は一時それで解決したのです。
私が木の根の土地を取得した理由
相続問題が一時的に解決し小川明治さんの息子直克くんは三里塚ワンパックの会の農業共同経営参加、活動を続けていったのですが、5年6年と長期にわたって無利子、無担保で相続分を支払った金を借用しておくわけにもゆかず、直克くんと源さんが相談の結果、「土地で借用金を支払いたい」と石橋さんに申し出てきました。すると「私には空港反対のこととはいえ小川明治さんが残した土地を買い求める事は忍びがたい」と断りの返事がかえってきました。この私たちの動きを察知した公団、不動産屋とその手先、銀行員などが大金を用意して小川直克君の家に殺到しました。直克君と源さん、そして私は、空港反対同盟員のなかで直克君の土地を買い求めてくれるよう奔走しましたが、誰も見つける事ができませんでした。これでは公団、不動産屋、銀行に売り源すしかないという状況のなかで、苦慮した直克君と源さんが、私に土地を買い求めるようにいってきたのです。反対同盟を組織し農地、土地を死守することを誓い合って戦ってきた私が、いかなる理由があるにしろ農民に土地を手放させて、それを私が取得することは許されないのだと苦悩しました。なお他によい解決の方法はないものかと悩みぬきました。直克君と源さんに、「無念の涙をのんで戦いの半ばで倒れていった兄貴と親父、おれたち木の根の人の戦いの意志を引き継いでくれ」と懇願されました。
空港建設敷地は成田市、芝山町、そうして私の町の多古町にかかっているのですが、私は水田150アール、畑20アールを経営して政府の減反政策に反対をしていましたから、良薬の飲み込む事のできないほどの苦味をかみしめて、土地を買い求めることを承知したのです。私は直克君と源さんとともに成田市農業委員会に農地法令に従って土地譲渡の申請をしたのです。その時提出した私の土地買い受けの理由は、「水田経営プラス黒牛の肥育、もしくは酪農経営そのための牧草地とする」でありました。堆肥還元型の水田経営を実践しようと決意したのです。直克君、源さんより土地を買い求めたけれど、まだ私には深いためらいが残っておりました。農民が農地を手放す事は、いかなる理由があろうとも罪を犯してしまったような後ろめたさを背負って生きなければならないからです。
農地とは、農民が先祖代々、子々孫々尽きる事無く汗みず垂らして耕し続けてきたから農地になったのであって、そこには生活、生産、農民の持つ文化、精神の伝承と命が刻まれ、死んでいった祖霊もその畑を耕す人の行為の中に生きているのです。農民が土地を手放す事はその一切のものを手放す事になるのです。私の家は貧しく、家屋敷、田地田畑みな人手に渡り一家は離散、私の母は生まれ故郷で育つ事ができませんでした。いつかは家屋敷、田畑を買い戻して家族いっしょに住みたい、これが私たち家族の悲願でした。
この体験と歴史を持つ私は、木の根の地を買い求め営農計画を実行に移そうとしたのですが、なお土地を買い求めた事に私の深層内部にためらいがありました。果たして私が耕作してよいものかと。
空港建設にともなって事業認定の許可が政府から下されると、その対象区域は強制収用ができるようになり、一切の形状変更はできなくなります。建物の新築、増築、農業施設などを建てる事ができなくなります。木の根で唯一、許されたのは消防施設の防火貯水槽だというのです。もちろん市道を含めた公共事業の対象からはずされ、国、県、市の農業施策、融資はうけることができなくなります。ですから土地を空港建設に提供する以外の道はすべて閉ざされることになります。
三里塚の人達は「政府は我々を死刑台の上にたたせている」といったのです。空港建設を取り巻く北総台地の畑作地帯は、利根川から揚水されて北総東部用水という灌漑施設が完備されて、畑作の旱ばつが克服されて青々と農作物が生育するようになりました。だが空港建設に反対している地域はこの事業の対象外にされました。もちろん木の根部落も例外ではありませんでした。
私は直克君、源さんより買い求めた土地約10アールを反対同盟に利用していただくことを決意し提供したのです。反対同盟は木の根全域に自力で畑地灌漑用水施設を作り、農業経営、生活の維持、闘争の発展を図って全国支援を受けて実施し完成させたのです。貯水槽のための溜め池を掘り、風車で地下水を汲み揚げ、溜め池の周りに保水のための植林をし、夏はプールとして子供たちに解放し、冬は相鴨の飼育場として利用してきたのです。
さらに反対同盟は、この溜め池になった私の土地の一部を分筆して一坪共有地運動を展開することにしました。私は、稲作経常プラス採草地、肉牛の肥育で個人的利益を上げ空港建設に反対して行くより、三里塚の農民の全体の利益、闘争の発展ために土地を利用していただくほうが人民の利益にかなうと判断したから提供したのです。
ところが一部党派は、〔一坪共有地運動は反対同盟の農地死守の方針を上地売買の運動にすりかえる不動産屋にも劣る利敵行為だ〕ときめつけ、全国的に妨害とテロを繰り返しました。私も東京、大阪、京都などで妨害を受ける悲劇を体験しました。運動内部者の妨害と権力の攻撃の二重の弾圧をはね返して全国共有地運動は進められ成功していったのです。どんな小さい事でも味方に利益になり敵が困る事なら即座に断固たる態度で事を進めるのが運動の原則であり、木の根の私の土地に私一人の空港反対の意志が存在するよりも、私、反対同盟、全国の人々の反対の集団にして強固な連帯の意志が存在したほうが運動とって利益であり政府が困る事は自明の理であります。
木の根の農家の移転
反対同盟と政府とのシンポジウムにおいて、政府は「空港建設の過程において重大な誤りを犯し三里塚の農民に多大な迷惑を掛けたことに対しておわびをする」、運輸大臣三里塚現地を訪問して謝罪、「三里塚において強制収用は行わない」、「3,200メートル横風用滑走路の工事は凍結する」、「2,500メトル滑走路の工事は農民の合意がなければ実施しない」、「飛行機の落下物、騒音対策、周辺整備事業に誠意を持って実施する」、「情報の公開、反対闘争の資料の収集と整理」、「第三者の監視機関共生委員会を設置する」、「反対同盟がすすめようとしている実験村構想にたいして協力する」、などの成果を勝ち取りました。
またシンポジウムの成果を踏まえてこのような要求と主張をしています。政府が「大型の公共事業プロジェクトを進める場合は住民参加と両者の合意を必要とする」こと。これを法律化して国家制度として運用すること。これを勝ち取る事は反対同盟の重要な目標であり課題であります。これを実現させるためにはさらなる全国的な活動と連帯が必要であります。
三里塚シンポジウム開催以来、「三里塚の闘争は歴史的に終了した」と政府、公団と一部の識者がかってに公言していますが、今年の反対同盟の旗開きに反対同盟を代表して「空港建設反対の我々の意志は永遠であります」と柳川秀夫さんが表明しています。また東峰部落においても「空港拡張工事皮対、用地買収拒否の声明」を出しています。このような三里塚の状況のなかで、私に木の根の土地を提供してくださった小川一章(反対同盟副委員長小川源さんの息子)さん、小川直克(反対同盟副委員長小川明治さんの息子)さんが移転を承諾しました。小川源さんも亡くなり息子一章君も齢を重ね更に息子さんが農業を継ぐ意志がなく会社員に。一方、小川直克君は病に倒れ息子さんが農業を継ぐ意志がこれもなく会社員に。国家権力の30年にわたる攻撃と重圧、軒先工事で生活が破壊され一期工事が完成して開港20年の状況のなかで移転を余儀なくされたのです。小川さん一家が〔空港はよいものでこの世の極楽で大賛成、私は補償金で金満家になった〕と移転を承知したのではありません。無念の苦渋に満ちた決断でありました。
この事態にさっそく新たな攻撃が開始されました。
木の根の農家が移転したのだから、木の根の土地の役割は終わった。空港建設および芝山鉄道建設の障害物たる木の根の土地は政府に売り渡すべきである」と相川勝重芝山町長が声明を発し、政府は中断していた芝山鉄道の建設を再開しました。私は「土地は売るつもりはないと」と断固たる態度で声明を出しました。憲法に保障された財産権に基づく土地所有がなにゆえに障害物なのでしょうか。この認識こそ三里塚の農民に悲劇をもたらし民主主義を破壊した根本の考え方です。
三里塚に空港を建設する事は国策であり、国民的要望である、これが政府の大義名分でした。芝山鉄道の実現は町民の悲願である、これは相川勝重芝山町長の大義名分です。このふたつの大義名分からみれば、そこに住む人達と田畑は障害物にしか認識できないのです。自分たちの権利を守るためにも、日本の民主主義を守るためにも、この権力志向の考え方と施策は絶対に許すことはできません。
今年の1月4日、相川勝重芝山町長が年賀の挨拶と称して訪ねてきました。「加瀬さんには別の事(木の根の土地の事)でお願いに上がりますから」と頭を下げるから「二度と私のところに釆る必要はない」と断りました。ようやくの思いで私を訪ねた相川は一月の芝山町議会で木の根土地買収について「加瀬さんのところに挨拶に行き、再び逢っていただくよう約束をしてまいりました。」と議会報告するに違いないと判断した私は、相川君に次のような手紙を出しました。
親展 相川勝重様
私は昭和三七年四月から、浦安沖、木更津沖、八街、富里、三里塚と、次々港建設反対運動を続けてきましたが、一度たりとも地域の人達や農民に対して裏切り者と呼んだことはありません。残念ながら相川君を私は裏切り者と認識しています。二度と私を訪ねて来てはならぬ。これは相川君に対する私の忠告であり警告であります。
一月四日 加瀬勉
これは私の「慟哭の賦」であり「惜別の賦」であり「不退転の手紙」でありました。私は反対同盟と青年行動隊を組織し、相川君は青年行動隊の幹部として活躍してきた歴戦の同志の一人でした。相川君が第一回芝山町議会議員に立候補した時には私は相川君の家に泊まり寝食を共にして戦ってきた仲であります。それが町会議員、町長になる事によって態度を豹変させて空港建設推進の先兵として国家権力の手先として反対闘争に敵対して日常的に警察に護衛されているのです。そうして芝山鉄道建設を推進するために木の根の一坪共有地所有者の切り崩しを図ってきているのです。
地球的課題の実験村構想
政府は2,500メートル平行滑走路の完成を2,000年にもくろんでおりましたがその目論見は完全に崩れ去りました。反対同盟は、空港建設工事反対と共に「水・大気・土と生命が循環する世の中・へ」の地球的課題の実験村構想を提案しました。人間の生活をないがしろにした開発、経済、工業化社会にたいして、ザ・ストップの新しい価値観に基づく農村社会の実験村構想を明らかにしたのです。その過程で、志を同じくする人々とともに「地球的課題の実験付」準備会を発足し、国際交流を現地で実施し、この三月には東京で全国規模のシンポジウムを開く事にしました。
三里塚の空港建設に見られるような、政治、経済、開発のシステムと方向では人類が生存して行く事は不可能なことが地球的規模ではっきりしてきたからです。農業の問題ついても農業技術論、農業経済論の領域を遥かに越えて社会、文化、生活などの全人間的視点から根本的に転換がせまられているのです。
第一に日本農業の国際的位置づけに関しては、世界一の食料輸入大国から、食料自給への転換を。地球上に住む人間の8人に1人が栄養失調、障害、年何百万人の人が飢え、餓死していっているなかで、面積にして国民一人当たり10アール当たりの食料を輸入している事態は許される事ではありません。世界で飢え、餓死していっている人々を尻目に飽食に明け暮れている生活様式態度を根本から転換させて農地を保全して3割となった日本の食料の自給率を高めてゆかなくてはなりません。
第ニに農業経営、農法の問題です。戦前から日本農業の経営形態を特徴づけていたものは労働集約型の複合経営でありました。機械化、化学化が急速に進みそれに平行して化学肥料、除草剤、農薬等の化学農業資材がつかわれてきた。複合経営から単一経営、単一作物に単純化され、機械化、化学化、単小経営化と、ひたすら農業の工業化の思想と施策のもとに経営の規模拡大、経営の効率化を追い求めてきました。その結果、農薬多投による農畜産物への毒物の残留、畜産等の多頭飼育による水質汚濁、悪臭の発生による環境破壊、無機質肥料の多投、推厩肥の減少による著しい地力の低下と農産物の病気の多発、限りなき機械の導入と規模拡大による過剰投資、農業の本質は人間の生命を養い育てるものであったものが、生産したものに農薬の毒性が残留し人間の生命を脅かし、農業それ自身が自然を破壊し環境を破壊し人間の生活を脅かす敵対物に転化してきてしまったのです。
第三は、食生活の構造の変化の問題です。日本人の食構造は量的にも質的にも大きな変化をとげました。食料消費の内容が澱粉質から蛋白質、脂質へと大きな変化をみせ、食生活の全国的標準化が進行し、地域別、階層別、職業別の差はほとんど解消しました。摂取カロリーは戦前2,020カロリーであったものが3,500カロリーと、欧米の水準を超すような状態になってまいりました。
一国の伝統的食生活はその国の自然的、社会的風土に育まれ食文化として伝承、発展してきたものです。私たちは米を主食として魚介類を副食として、大豆、ソバを工夫して食べてきた。それが食糧自給の極端な低下、生産構造の変化、輸入農産物の増大、外食産業の発展によって大きく変化して日本の食文化の実態は混沌としている。一国の食文化、食生活のあり方は単なる経済要因のほかに、各種社会的、心理的、制度的、習慣的要因と複雑に絡み合っており、それが大きく変化し混沌としている。しかし確かな事は、農業生産構造の変化は確実に食料消費構造のあり方にはね返ってくる事はたしかなことである。生産者と消費者が一体となって日本の伝統的食文化の発展と健康と命を大切にする生産、消費構造を、どう創りだしてゆくか、その質と量が厳しく社会的、歴史的責任として問われているのである。
第四に農業と地域、環境問題です。自然環境の維持保全の問題です。農業は単なる農産物の生産と補給という産業的機能のほかに、自然環境の維持、緑と水の保全と、外部経済効果以外に、人間とその生命の保全になくてはならない大きな役割をはたしています。洪水の調節、土壌の侵蝕防止、国土保全及び酸素の供給、大気の浄化機能と地球温暖化防止、自然に触れる事による余暇と人間性回復の場所として、人間と生命あるものの生存にとって計り知れない役割を持っています。
空港建設やその他の開発行為によって農業と自然を破壊する事は人類の生存に敵対する行為以外なにものでもありません。工業化社会は過密都市と、農村には過疎地帯をつくりあげました。経済優先の管理社会、情報化社会、人間の孤立化、人間の不在と不信。私達は社会的環境の復権という視点から新しい農村共同体へ生産共同体を創りあげて行かなくてはなりません。空港建設によって騒音地獄と立ち退きの過疎の村をこれ以上作る事は絶対に許してはならないと思います。農業の発展と空港の共存などありようはずもないのです。
木の根の土地を共有している皆さんへ
皆さんの共有している木の根の土地は3,200メートル滑走路建設予定地と芝山鉄道がクロスするど真ん中にあり、きわめて重要な位置にあります。面積にして363平方メートル。土地所有者数846人であります。
木の根の土地を共有地運動を展開するに当たって、新たに土地共有者になった者は最後まで空港反対の意志を貫き空港建設反対闘争に連帯をして行く。空港建設反対の意志を放棄した場合は元の地主に土地を返還する。この信義の元に土地を所有していただいたわけであります。全国で三名、地元三里塚で数名が政府に土地を売り源しました。この行為は反対運動を敵に売り渡す行為であり、反対同盟員、土地を提供した私に対しての著しい背信行為であると考えております。日本人民の、日本の民衆の戦いである三里塚闘争に連帯し、戦いを共有してゆくことは私たち働く者の神聖な義務であり、責任だと考えております。
開発中心の日本の政治経済は破局し、大手銀行、証券会社、企業が破産して仕事が無く失業の苦しみを今私たちは味わっております。農業についても農地法を改正して大手企業が農地を取得することができるようになりました。農業そのものを大企業が支配する道がひらかれました。
成田空港は軍事的に利用しない、これが政府の約束でした。軍事的ガイドラインの策定によって新たにアジア諸国に対する軍事的敵対構想が明らかになりました。それにあわせて港湾、運輸、空港等の軍事利用について国内法を整備することになりました。成田空港が軍事的に使われることがはっきりしてまいりました。かつて私たちの地域には旭陸軍飛行場、栗山陸軍飛行場、八街陸軍飛行場があって、銚子沖の米空母から発進する戦闘機の連日の空爆を受けた経験を持ち、飛行場の整備、補修に連日連夜、動員されていった歴史をもっています。
私たちはこれらの新しい状況の中で三里塚闘争の前進を図って行きたいと決意しております。木の根の土地につきましても、地球的課題の実験村構想の実践の場として新たに位置づけて利用して行きたいと考えています。皆さんが土地所有の立場から色々なアイデアや提案を反対同盟に行って新たなる連帯、闘争の意志を表明していただくようお願いを申しあげます。
一九九九年二月一日 加瀬 勉
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