「日の丸・君が代」の「法制=強制化」
――校長の自殺と日本共産党の路線転換
天野恵一●反天皇制運動連絡会
三月四日の『沖縄タイムス』には、日の丸・君が代法制化の動きについて、こういう記事が載っている。
「日の丸掲揚、君が代斉唱をめぐる対立の中での広島県の高校長の自殺が波紋を広げている。政府は『現場に判断を任せておくと今回のような事件も起き得る』として日の丸・君が代を法制化する方針を決めた。法制化されれば影響は学校だけにとどまらない」。
そこには、政府が法制化の口実に使っている、校長の自殺について、こう紹介している。
「『式で君が代をお願いできないか』。卒業式を二日後に控えた二月二七日夜、広島県立世羅高校の石川敏浩校長(五八)から電話を受けた教頭と教組側の教諭二人が同県御調町のカラオケボックスに集まった。
『今日も県教委から電話があった。君が代を歌わない学校は少ないそうだ』。約一時間議論したが、職員会議の『従来どおり実施しない』方針は譲らなかった。
『処分は覚悟しなきゃいかんなあ』。石川校長は別れ際にこんな言葉を漏らし、翌二八日午前、自殺しているのが見つかった。
広島では平和運動などの経緯から教組側の影響力が強い。県教委は一九九二年、『(君が代は)国民の十分なコンセンサスが得られていない』とする確認書を教組側と交わした。
だが最近、文部省の強い指導を背景に、県教委は二月二三日『日の丸・君が代』指導徹底の職務命令を出すなど強硬路線に転じた。……。
『校長自身、君が代の押し付けに消極的だった』『君が代をごり押しする人ではなかった』と同校の教諭は口をそろえる。校長はこれまで指導してきた現場教育との整合性に悩み、追い込まれていた」。
校長の自殺の直接的な原因が、この問題であったとすれば、八九年の小中高校の学校指導要領の改定、日の丸・君が代について「望ましい」から「指導するものとする」への変更、すなわち国による強制の強化が、校長を死に追い込んだことは、あまりにも明らかではないか。それなのにこの件を「法制化」という強制の徹底化の口実に使っているのだから、政府の手口はえげつない。教育現場に判断(決定)させない方向、すなわち全面的な「強制の制度化=法制化」こそが、いま、政府によって目指されているのだ。
そうであるにもかかわらず、野中広務官房長官は、日の丸・君が代を「義務づける強制条項は盛り込むべきではない」と記者会見で発言しているとマスコミは伝えている。
「強制できるとか、そういうものを法律の中に位置づけるものではなく、既に(国民に)定着している問題なので、むしろ国民の今日的理解をより法律的に担保することが、わが国の新しい世紀へのスタートになるのではないか」
野中は、こんなふうに主張しているのである。教育現場への国による強制(義務づけ)は、年々強化され続けてきており、強化された結果、校長の自殺者まで出す事態が生まれているのに、法制化は「国民に定着」しているものを法律的に担保するだけだと強弁している。自分たちが強制して自殺者を作りだしといて、原因を教育現場のトラブルに転化し、強制の完成を目指す法制化は「国民」の意思だというのだ。「定着」させるために、これだけ「国民」に強制し続けてきた上で、最終的に法制化しようというときに、「強制条項は盛り込むべきではない」などと、ソフトなイメージをふりまいてみせる。法制化自体が強制そのものであるのに、ふざけた話である。ここには国による「強制」を「国民」の自発性にすり替えるトリックがあるのだ。
さて、ついこの間の日本共産党の、国旗・国歌の法制化の必要論と、法制化されたら日の丸・君が代を認めるという発言と、この政府の姿勢を重ねて考えてみると、うんざりしてくるではないか。共産党は、政府のトリックに主体的にはまりこんでいこうというのだというのだ。どうなっているのか。
『週刊新潮』に「共産党よ『日の丸』にスリ寄るな『赤旗』を守れ」(三月一一日号)というからかい記事がある。
これを読みながら、日本社会党が日の丸・君が代容認の方向へ大きく進み出した(いいかえれば自己解体しだした)時、右翼の宣伝カーが党大会の会場に向かって、「日の丸」を掲揚して大会を開け、今までのことを「陛下」に謝罪しろというような主張をしていたことを思い出した。
与党になれるのではという幻想がバネの路線転換であろうが、共産党の「一人一人に強制することは反対だ」といいつつの容認は、結局、国の強制への屈服であり、そのままいけば、強制への加担であるにすぎまい。新ガイドライン安保体制という戦争国家へ向かう日本の動きと連動する、こうした政策への同調。それは、この党の「自殺」への道ではないのか。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』20号、1999.3.9号)