天皇抜きのナショナリズム/再び
伊藤公雄●男性学

 昨年暮、本欄に、天皇抜きのナショナリズムについて、ちょっと書かせてもらった。早速、本欄のお隣、あるいは裏表のページで栗原幸夫さんが、この動きに対する論議を展開されているし、また、『インパクション』(112号)では、天野恵一さんが、「天皇抜きのナショナリズムの動きなんてあるのか」という、どちらかというと「そんなものは実体がない」という観点から、批判的な議論をされている。
 ぼくは、とりあえずは「ある」という立場をとりたい。というのも、こうした動きは、かなり以前から見え隠れしていたからだ。しかも、多くの場合、「天皇抜き(といって悪ければ、天皇から距離をとる)」の議論は、改憲と結び付いて議論されることが多かったように思われる。再軍備とひきかえに天皇制を後退(ないし廃止)するという議論だ。ちょっと古くなるが、たとえば、大前研一氏は『平成維新』で、憲法改正=軍隊の所有と天皇制の憲法条項からの廃除を論じている。また、1990年代に入ってからも、あの『SAPIO』で、あの落合信彦氏などが「愛国者」という立場から天皇制廃止を議論したこともある。
 もっと興味をひくのは、読売新聞の憲法改正草案の最初の素案が出されたときだ。第1章からは、天皇制は消え、「国民主権」がうたわれ、象徴天皇制の条項は、かなり後ろの方に配置される形になっている。おそらく、その理由は憲法における9条と1章(1〜8条は天皇条項)とのかかわりをめぐる認識があるのだろう。実際、この憲法草案の解説では、こう書かれている。「GHQは、『これ(9条)は天皇制擁護のためであり、日本民衆の意識に合致したものだ』と説明した」と。
 平和主義をうたうためではなく、天皇制を残すために戦争放棄が書き込まれたというのだ(今では歴史的常識に属することだろう)。確かに、通常であれば、(特に、連合軍やアジアの人々から見れば)、天皇はどう見ても最高の戦争犯罪者である。実際、戦争の被害を受けた国や交戦国から、天皇制の廃止はあたりまえのこととして主張されていた。その天皇・天皇制を処断せずに存続させる(当時の日本の支配層とGHQの合意でもあった)ということになれば、担保が必要だ。それが9条というわけだ。「もう戦争はしないから、天皇制は残してくれ」、というわけだ。
 天皇をめぐってこうした認識があるなら、9条を変えるということになれば、どうしても天皇の議論をせざるをえない。読売新聞はそれを当初、「国民主権」をまずうたい、天皇条項を下げることによって表現しようとしたわけだ。
 実際、戦後の日本社会がアジアをはじめとする戦争被害国、欧米の交戦国と、なんとか関係(特に政治・経済関係)が維持できたのも、この9条によるところが大きかったのは、国際状況にふれている人にとっては明らかなことだったろう。日本の再軍備があのファナティックで凶暴な天皇制と結びつくことの危険性については、多くの国々の人々は、おそらくは一般の日本人以上に敏感に対応してきたはずだ。だから、日本が再軍備するということになれば、ファナティックな天皇制の亡霊には姿を消してもらわねばならない。これが、「まっとうな」再軍備派の論理になるのは理の当然だ。
 こんなことを言うと、「天皇制の危険性はないというのか」とか「反天皇制の運動は意味がないというのか」という人もいるだろう。そうではない。「だからこそ、もっともっと天皇制をめぐる議論を展開する必要がある」というのがぼくの意見だ。
 確かに、国際社会の現場にいる合理的で功利的な保守派にとって、ファナティックな天皇イメージを後景に配置させたいのは事実だろう。特に、再軍備=改憲ということになれば、そうでもしないとアジアの国々が説得できないのは目に見えているからだ。
 ところば、「そうは問屋がおろさない」のが日本の事情だ。戦後、(いってよければ、新憲法と東京裁判の不徹底のおかげで)そのまま温存された天皇主義右派が、未だに政治や経済のバックには存在しているからだ。保守派が保守派として力を発揮するには、どうしてもこの天皇主義右派と結ばなければならない。実際、先に述べた大前氏も落合氏も、また読売憲法草案も、天皇制賛美の復活に結果的に流されているのだ。
 だから、「天皇抜きのナショナリスト」といえども、政治的な力を発揮するためには、こうした右派の力とどこかで妥協しなければならない。『諸君』の大塚英志氏(戦後民主主義を擁護する大塚氏の方が、明らかに天皇制賛美なのも面白い)との対談で、福田和也氏が、それまでの天皇をめぐる議論を突然転換させ、「天皇陛下はいらっしゃっていただかないと困る」などと(かなりいんぎん無礼な言い方なので、これも面白かったが)敬語をつかったりするあたりにもうかがえるだろう(もちろん、ここでいう「面白い」は、なにもこうした政治状況を面白がっているわけではないことはいうまでもない)。
 何度も繰り返すが「天皇制抜きのナショナリズム」議論の登場は、天皇問題はもう議論する必要がないということを意味しない。むしろ、改憲=再軍備の動きがある今こそ、アジアの人々との具体的な交流を通じて、これまで以上に天皇・天皇制の戦争責任・戦後責任を問う必要があると思う(浮上しつつある国旗・国歌をめぐる議論も、アジアの人々にとっての日の丸・君が代という視点を含んで、現実の国際的連携が何よりも大きな意味をもつだろう)。
 ガイドライン関連法、改憲の動きのある今だからこそ、そこに、天皇・天皇制の議論を持ち込むことは、天皇をあいまいにしてきたリベラルな保守派と天皇主義右派の間に亀裂を生むことにつながる可能性があると同時に、「開明派」を装う「天皇抜きナショナリスト」たちが、結局、天皇がらみから抜けだしえない状況を明らかにするためにも必要なことなのだ。
(『派兵チェック』 No.78、1999.3.15号)