「日の丸・君が代」法制化に対抗するために
浅見克彦●北海道大学教員

 法制化法案の国会審議がとうとう始まってしまう。こうした運動の局面では、しばしば時間との勝負になり、反対の主張を明確化でき、運動の盛り上がりを急速に生み出せる歯切れのいい論理が力を発揮する。しかし、少なくともこの件では、やや厄介で理解しにくくも、長期的にはどうしても避けることのできない問題を考えないわけにはいかない。
 「日の丸・君が代」への反対の運動が組まれる際に、しばしば前面に打ち出される理論は、侵略戦争のイデオロギー的支柱であるという点と、身分支配と差別の制度(天皇制)の象徴であるという点だろう。もちろん、これらの認識は正しい。だが、こうした論理は、「日の丸・君が代」の存在そのものへの歴史的観点からの批判であるがゆえに、少なくとも、法律による強制、あるいは学校での強制関係の問題に焦点を当てた批判ではない。言い換えれば、旗が「日の丸」ではなく、歌が「君が代」ではないなら、反対の論理にはなりえない。つまり、この件に関しては、「日の丸・君が代」そのものの問題と同時に、一般に国旗・国歌なるものが強制される関係に潜む問題が明確化されねばならないのである。
 そもそも問題は、学校現場で強制する法的根拠を固めようという点にある。そしてまた、江藤淳や松本健一のように、麗しき習慣として「国民」に浸透していることが大事なので、法制化で強制するのは不適当という論者たちもいる。侵略戦争と差別という観点を軸にして法制化に反対する場合、こうした慣習論の立場と、政府や翼賛派の議員の法制化論とを質的に区別し、反対運動の照準を的確に定めることができるだろうか。慣習なるものに立脚しつつ、「日の丸」と「君が代」に関する国民の意識を「正そう」とする動きではなく、それらをまさに法的に強制してゆく動きの本質と問題点を批判せねばならないのだから。
 同様のことは、共産党の態度変更への批判についても言える。共産党は、かつては「日の丸」と「君が代」が過去の戦争を連想させたが、月日がたって「国民」のそうした意識が弱くなったから法制化もOKだといい出した。共産党がどれほど真剣に「日の丸・君が代」問題に取り組んできたかを見れば、これは何も驚くことではないのかも知れないが、突き詰めれば天皇制に対する本質的な立場転換になるはずの思想放棄を、かくもあっさりとやってのけた面の皮の厚さには感嘆させられた。それはともあれ、この「新見解」に対して、「国民」はまだ戦争を忘れていない、あるいは被差別者への抑圧はなくなっていない、と批判するならば、共産党がしつらえた狭い土俵にはまることになりはしないかと私はいいたいのである。
 身分差別との関連を軽視しつつ、しかも世の中の大勢が受容するならかまわないとして法制化を黙認する共産党の態度は、確かに無思想かつ無原則的なものだと思う。とはいえ、「国民」の多くが「日の丸・君が代」で過去の戦争を連想しなくなったからという言い訳に対して、いまだに多くの国民が侵略戦争の象徴としてそれに違和感をもつと応酬するのは、一つの重要なポイントを取りこぼすことになる。私は「日の丸・君が代」が侵略戦争の遂行を支えたことを意識して、それらに反発する人々は減っているという感触をもっている。それは残念で問題なことだが、事実ではないだろうか。それに対して、それが本当に大勢かどうかという問題設定の枠内で批判しようとすると、どうしても苦しくなる。むしろ重大なのは、共産党が、問題のポイントを侵略戦争との関係だけに限定してしまって、それ以外の問題に目をつむる思想的な鈍感さを露呈している点ではないだろうか。
 「日の丸・君が代」は、侵略戦争や皇国史観との関連を別としても、学校現場において、あるいはさまざまな儀式的な場において、性悪な権力作用を支えている。入学式・卒業式であろうが、地域の運動会や成人式であろうが、「日の丸」が揚げられ、「君が代」が吹奏されるとき、それは儀式的慣習としての自明性において集団的に「強制」される。それは、命令や制裁などを伴ってはいないとしても(現実には伴う場合がある)、集団の大勢には逆らえないという心理が働いている限りで、暗黙の強制である。ところがまさに問題なのは、学校の児童・生徒、そして地域住民にとって、それは「当然なこと」として、「とにかくこういうものだ」という風に強制される。つまり、それらを儀式的に採用する理由と正当性は問題にされず、理屈抜きに従うべき慣習として「強制」がまかり通るのである。そして、「日の丸」と「君が代」は曖昧にではあれ国家の存在と結びつけられているがゆえに、それらが暗黙のうちに強制される関係には、国家の権威と威圧がオーバー・ラップする。このように、「日の丸・君が代」の儀式的利用は、集団と国家の権威には、理屈抜きにただひたすら服従すべしというという態度を人々に体で覚えさせる効果をもっている。共産党は、こうした深刻な権力作用と性悪な「政治」文化の問題に対して、絶望的なまでに鈍感なのである。
 実際、学校での強制に対する反発は、戦争と天皇制の問題を理由にしたものだけではない。児童・生徒が手作りの式をしたいという場合の反抗の客観的な背景には、理屈らしい理屈のない儀式項目を、これまた理屈抜きでひたすら権限を盾にして強制する、管理者の威圧的態度の理不尽さと無根拠性がある。もし、戦争や天皇制との関わりでのみ、「日の丸・君が代」の是非を判断するのであれば、こうした理屈抜きの権威の押しつけへの反発は、初めから関心の外におかれることになるだろう。この意味で、共産党の「新見解」は、現にある批判と反対のエネルギーを見失い、それを切り捨てるものに他ならないのである。
 最初に、侵略戦争との関連や身分差別とのつながりだけから反対するのは違うのではないかと書いた理由はここにある。儀式的な暗黙の強制に見られる性悪な権力作用は、たとえ旗が「日の丸」ではなく、歌が「君が代」ではないとしても、理屈抜きの集団的な儀式規範としてそれらが強制されるのなら、程度の差はあれ、基本的には同様のかたちで存在する。それだからこそ、旗と歌の歴史的性格とは直接には関わらないレベルでも、「国旗」「国歌」の法制化

儀式での強制というプログラムに対する批判がしっかりと意識されていなければならないのである。もちろん、旗が「日の丸」で、歌が「君が代」であることは、強制する当事者による理由説明と正統化を難しくさせ、その理屈抜きという性格をより強烈にさせるだろう。したがって、そこでは権力への理屈抜きの服従の強制は、より徹底した形で遂行されるだろう。実際、「君が代」に関する政府の統一見解探しを見ると、この点がはっきりと理解できる。恥ずかしげもなく「君が代の代は日本という国」といったごまかしの解釈が出てくるところに、「日の丸・君が代」の法制化の本質が、理屈も判断もなしにひたすら国家の権威にひれ伏す態度を再生産する点にあることが見てとれるのである。
 要するに、「日の丸・君が代」の法制化は、権力への理屈抜きの服従を生産する儀式的装置の機能をより一般化し、強固にしようというプログラムなのである。もちろん、それは「日の丸・君が代」に対する唯一の反対理由ではない。過去の戦争における権能、身分差別との結びつきは、たとえ大方の「常識」ではなくなったとしても問題にし続けねばならない。そして、そうした問題ゆえに「日の丸・君が代」の「強制」に反発する者の存在を、理屈抜きの服従を甘受する人々による多数決で無視するような関係は、真におぞましいものである。
 その意味で、この論稿は、あくまで「日の丸・君が代」問題の一つのポイントを強調したものにすぎないということをご理解いただきたい。そしてまた、そのポイントがやや難解で厄介なものであるがゆえに、しばしば捨ておかれ、無視されるという事実とともに。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)