kope9902 部落史は終わったか ―― 歴史の方法をめぐって(師岡佑行、「こぺる」1999年2月号)
部落史は終わったか ―― 畑中敏之著『「部落史」の終わり』によせて(師岡佑行、「こぺる」1999年6月号)

師岡氏による批判の中で、わいが重要だと思うのは次の2点。

第1は、畑中氏の考えに「社会構成体史」の傾向があるとの点。社会構成体史とは、原始共産制にはじまって、奴隷制、封建制、資本主義、社会主義と順をおって社会構成体が出現し、歴史が進歩していくという発展段階説。
もともとマルクスが述べたのをスターリンが単純化し、いわゆる“ドグマ”として猛威を振るった、一種の「下部構造還元論」(たぶん)。師岡氏によれば、このような社会構成体史の呪縛から解放されてきた戦後の歴史学における苦闘を、畑中氏は無視し、先祖返りしてしまっているという。
畑中氏が部落問題を「近世の穢多・非人問題ではなく、近代社会に成立した社会問題なのです」と言うとき、師岡氏はそれを「社会構成史の枠の中に歴史を無理やり押し込ん」でいると批判する。

第2は、畑中氏が「徹底して、個の自立・個の尊厳を擁護発展させる立場に依拠しない限り、部落差別の人間観は克服できないと考える」と述べるのを引き、かかる「個の自立」路線は近代化路線であり、その背後には講座派流の歴史観があると指摘している点である。かかる歴史観こそは、畑中氏が批判している当の近世政治起源説の母胎であり、それゆえ氏の近世政治起源説批判、「部落史」批判は、皮相なものにとどまっている、と。

いずれの批判にしても学者らしく、論理はしっかりしている。畑中氏の反論が楽しみだ。
しかし一方、上の第2点目の批判について、(運動論的に)わいは疑問もある。
畑中氏の「個の自立」路線の行きつく先がミーイズムであると、師岡氏は言う。一方、それに対し師岡さんは何を対置しようと言うのだろう?
げんざい沖縄に住む師岡氏は、'99年選抜高校野球大会で沖縄尚学が優勝したさいの地元の「熱狂」ぶりに共感を示している。それはそれで構わない。だが、ミーイズムに対置するものが、「共同体の復権」だとでももしも師岡氏が言うのなら、ちょっと違和感があるんだけど……(^_^;)。


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