織田信長  (歴史)

 いうまでもなく戦国時代の武将で有るが彼の天才性は時代を越えたモノだと思う。そのころ日本では米を経済力としてそのままその国の軍事力として考えていたのだが初めて商業で莫大な富を得てその富で新兵器の鉄砲を大量に使用し常備の兵を雇用する事で、常時に戦争をできる状態にした(そのころの他国の軍隊が農民を基調にした軍隊だったので農繁期は出動できないという弱点が有った)ことでその版図を大きくすることが出来たのであった。桶狭間のイメージから寡兵にて大軍を破るというイメージとのちの天下統一寸前の独裁的なイメージから実際は遠く、慎重なほど戦争準備の為に外交を繰り返し決して強敵と真正面に向きあわない様に配慮していて実際に武田信玄とは戦わない様にかなりへりくだった態度で接している。そして機が熟すと速攻で相手を圧倒してたたきつぶすというのが信長の基本戦略である。尾州の兵は傭兵中心で有った為に他国に比べると弱く常に圧倒する戦力差がなければ勝てないのでこのような戦略を取らざるを得ないというのが実情であったのかもしれない。有名な武田軍との長篠の戦いでも15000の武田軍に織田、徳川連合軍は42000の兵を動員していたのだけれども、攻撃側は武田軍であるというのがいかに織田軍が弱いと思われてたかが分かるというもので有る。まあ実際は馬防柵と3000挺の鉄砲で武田軍の歴戦の将が多数討ち死にし武田軍の大敗となるのだが、普通だったら15000で攻撃はしないしこのような圧倒的大敗になることはなかったかも知れない。此処で凄いのはこの時代に世界中の何処にも3000挺もの鉄砲を使用出来る国は無かったのと三段構えで鉄砲を打つやり方はオランダでマウリッツ公がヨーロッパで初めて採用した約20年前だということが信長の斬新性と合理性を際出させている。このような事から当時のヨーロッパ諸国が当時アジア諸国を植民地化していったにも関らず日本を植民地にする事を断念したのだろうと思う。

 そしてもうひとつ凄いのは彼が尾張から美濃に本拠を移し、その後近江の安土に本拠を移したのも凄いと思う。その頃の大名で他国を侵略し領土が何カ国にも広がった大名は武田や上杉、北条、島津、毛利など有るがその本拠を侵略した他国へ移した例は無い。ただ織田の同盟者徳川家康のみで彼は三河岡崎から遠州浜松へ本拠を移しているが同盟者だけあって信長の例をまねた可能性がある。この事が何故凄いのかというとルネッサンスのイタリアでマキャベリという人の書いた「君主論」の中で侵略した土地を手放さない方として「侵略した土地に王が移り住む」という事が書かれて有るのだ。なぜ侵略した土地に王が移り住むとその土地を手放さないかというと占領した土地の旧領主(およびその血筋)がちょっとしたきっかけが有ればその土地の領主として復帰する可能性が大きいので本拠を移してしまえば領民も悪政をひかない限り徐々に新領主になじむとマキャベリは述べている。ルネッサンス期のイタリアは日本の戦国時代の様に小領主に分割されており統一国家ではなかったので良く似た状況だったと思える。もしかしたら宣教師から信長はマキャベリの君主論を献上されていたかも知れない。

 彼が本能寺で死なないで天下を統一していたらどうなっていただろう。彼も秀吉の様に朝鮮、明まで征服しようとしたかも知れない。秀吉の場合は海上で完敗し補給が続かなくて敗北したが、海外まで遠征しようとしたときには彼の合理的な性格から西洋のガレオン船を(遠く西洋から来ることが出来る船)建造し圧倒的な火力の元に朝鮮を制圧し明と戦ったかも知れない。ただ現在の日本とは全く違う歴史になっていそうである。

目次へ戻る

TOPページへもどる