少年期の目に映った戦中生活 井村 勇
少年期の目に映った戦中生活 井村 勇
はじめに
平成五年度の郷土研究集録第二七集は、創立四十周年にあたります。
私はこの全集録に目を通しましたが、「歴代会員が郷土を愛し蓄積された研究資料」に魅せられています。
今年度、第二八集発行の重点は「昭和の戦争体験記録」とのことであります。
これは、戦後半世紀を迎える今日「悲惨な戦争体験を風化させないためにも」意義の深いことと受け止めています。
そこで私は、この機会に自分自身の四○年に亘る「歴史教育の回想と少年期の目に映った戦争」をテーマに、自分史の一部として辿ってみることにしました。
私の戦中体験は、先輩諸兄の危難な体験とは比較にならない些細な出来事であるかも知れない。しかし、戦中を歩んだ全ての人々の生き方を狂わせた史実の一側面として遺しておきたいと考えます。
いま私に「戦中の衝撃的な体験とは」と間われたとしたら……
1洗脳された軍国主義教育
2食料・衣料物資不足の耐乏生活
3朝鮮人強制連行の過酷な実態です。
私は、この三点を柱に「時の流れ」「学校と家庭生活」「朝鮮労務者の実態」の項別に、列記させていただきます。
1尋常科一・二年の頃(昭和一四〜一五年)
時の流れ
昭和八年(一九三三)歌志内村字中村市街に生まれた頃は、世界恐慌の渦中で満州事変を発端に軍需、化学工業振興の国策による基幹産業の拡張で、産炭地、歌志内も不況を脱する兆しにあった。
当時政局は、軍閥・財閥の台頭で激動混迷し日華事変の長期化を招いていた。
そのため兵役と満蒙徴用の激増で国内労働力不足が深刻化し、その補充の鉾先が朝鮮民族へ急速に注がれていった。
学校と家庭生活
長期化する日華事変で日本は国際的孤立化を招き、益々戦時色を強め軍需産業・石炭増産が緊要となってきた。
1学校では、各炭鉱人口急増に備え、早くも新校舎増築で裏山の岩石を砕く
ハッパの轟音が空にこだましていた。街は「一億一心」の看板が目立った。
2約三百名の新一年生は、母に手を引かれ北炭神威礦神社に入学を誓った。
富士・大和・菊・桜・鏡の五クラスに編成され、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」の国語読本を手にした感激や修身の授業で感動した忠君愛国の挿話などが懐かしく思い出される。
3明治初期生まれの祖父母の年代の多くは、文字が読めず、また、ラジオのある家庭は、二十軒に一軒位のもので時局の情報源は極めて乏しかった。
4子どもたちも同様で、私は絵本など手にした記憶が薄い、裕福な近所の友達から、魅力ある講談社の絵本やマンガの本を借りては夢中で読んでいた。
日独伊三国首相の勇ましい姿、日華事変で奮闘する日本兵と退散する支那兵の姿を豊かな色彩で描写していた。
また、これらをマンガで再現した「のらくろ上等兵」や南洋で活躍する「冒険ダン吉」の物語に、胸を弾ませていたものであった。
3二年生のとき高等科二年の兄から、「堀田綾子先生(現作家 三浦綾子)は、作文指導に熱心で上手な先生だ」との高学年の評判が思い出される。
三浦綾子と神威小学校
昭和一四年四月〜一六年八月まで、歌志内神威尋常高等小学校で教鞭をとり、一時同学年の受持ちであった。
その後、家庭の事情から旭川啓明小学校に赴任後、終戦まで教鞭をとる。
作品「道ありき」「石ころのうた」を読み返しては、先生が十代後半の短い教職生活ながら、歌志内での戦前・戦中の模様が克明に記されていることに驚嘆している。
そして、私の幼かった少年時代の空白を満たしてくれていることに深く感謝している。
6昭和一五年二年生の頃より、大正座への戦争映画引率が多くなる。 満州国境警備隊の勇敢な活躍や勇ましい時局ニュースなどに魅せられる。
7厳粛な紀元二千六百年奉祝祭式典は「八紘一宇・肇国の精神」の鼓舞に湧き、日増しに戦時色が濃くなる。
朝鮮労務者の姿
1戦時体制強化に伴う軍需基幹産業の労働力不足に備え、南鮮は主に日本へ北鮮は満州へ様々な形で連行始まる。
2昭和一五年頃までは、家族を伴う朝鮮労務者の姿がみられ、年上の子弟と共学したが子ども間での違和感は殆どなかったように思われる。
3戦前までは、民族衣裳で街を歩く家族の姿。事故死の葬儀では同胞が挙って厳粛な葬列の姿を見た。また、劇場で朝鮮民族芸能慰安会などを見ては、異国情緒に目を見張ったものであったが、翌年の開戦と同時にこれらの姿は急に見られなくなっていた。
4和裁教室を開いていた母が、親しくしていた二十代の「成田ヨウライ」さんから、当時八才の私に高価な「帆掛け船キット」を贈られたときの感激は今も記憶に新しい。
5この頃、二年生五クラスの各学級には二〜三名の朝鮮の子弟が共学し、また、別に旅芸人の子弟など、親と共に街から街を渡り歩く気の毒な同年代の友などと同席したこともあった。
2初等科三・四年の頃(昭和一六〜一七年)
時の流れ
激化する日華事変での傷病者や戦死者の遺影の迎えが目立ち始める。
学校では慰問文や慰問袋の作成、在郷軍人による青年団の軍事教練、隣組み回覧板や食料品等の配給制、商品の販売統制と欠乏等を肌で感じ始める。
当時、子どもの目にも日々戦争非常時体制の緊追感が日増しに強くなる。
これまでの学校行事や授業内容にも大きな変化がみられてきた。一方、朝鮮労務者は個人応募から、強制連行され管理体制が厳しくなる。
学校と家庭生活
一二月八日の宣戦戦布告を待たず、街並みや学校の中まで、日々戦時体制強化の様相が深まっていた。
唯一、炭坑挙げての賑わいといこいの場も、次第に姿を消し始める。
五月の炭坑祭り、六月の運動会、七月の成田祭り、八月の盆踊り、九月の学芸会観覧、その他対抗野球やスキー大会等
1北炭・住友・三井の各炭坑では、朝鮮人連行者、タコ労務者、一般稼働者急増に伴う人口増で、校舎も飽和状態となり文珠分教所を国民学校として独立する。(堀田綾子先生同校転任)
2降雪の一二月八日午前、緊急職員会議に出席する担任の緊追する姿から、私たちは不安な思いで帰りを待った。
3両親や大人たちから外出時には「人さらいやスパイに気をつけろ」とよく言われていた。これは当時タコ周旋屋や赤化思想排除で動く官憲や特高警察に対する大人の自戒と思われる。
4アルミニューム弁当箱などの供出で木の弁当箱に南瓜やジャガイモに変身する。一方、坑内で働く大人たちは、おかゆを瓶に詰めて持参したと聞く。
5やがて、弁当を持参できない児童のため、昼食時には一端、家に帰った。
6月に数度の代用パンや国鉄キップの購入等では長蛇の列が連日であった。
朝鮮労務者の姿
1この頃、二○〜三○代の単身者連行でトラック移送が目立っていた。
2連行者の急増と強制労働、食料難からの逃亡防止のため、収容施設周辺は堅固な柵や門で閉ざし始めていた。
3坑内で稼働する行列前後には、混棒を手にする労務係に無言で歩く姿は、色白で痩せた身体に寒々とした破れた作業衣姿が哀れに思われた。
4戦況の悪化に件い、石炭増産激化で傷病者も労働を強いられ、時に世話所で拷問に苦しみ「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぷ情景を目にもしていた。
5ある親しかった朝鮮の友人が曰く、両親から「日本人に朝鮮語を使ったり、教えてはダメよ」とか、泣くと「日本人が来るよ」などと国にいる頃から聞かされていたそうであった。
3初等科五・六年の頃(昭和一八〜一九年)
時の流れ
昭和一六年の宣戦布告から約半年までは「わが軍連戦連勝」の歓喜に湧いていた。
その後、報道統制が厳しいながらも南方戦線での激戦・撤退(転進)・玉砕など相次ぐ暗い戦況を肌で感じるようになってきた。昭和一九年の戦況は、相次ぐ撤退・敗退が続き、いよいよ本土決戦も辞さぬ声が聞かれ始めてきたが、人々は、銃後での食料・衣料品の耐乏生活が極に至っても、「神国日本の勝利」を信じ「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」を合い言葉に、私たちは連日勤労動員で汗を流していた。
学校と家庭生活
1本校は、約二○○○名の生徒に四○数名の先生がいたが男性教師の徴兵が続き一年に三回も受持ちが変わった。
2三浦綾子の「石ころのうた」に、本校の教育目標や方針は、既に戦前から「天皇陛下の赤子を育てる皇国民の育成」に徹していたと綴られ、全教職員は早朝五時には出勤し、奉安殿周囲から広い校庭を清掃し、生徒の登校に備えていたそうである。
3学校の朝礼や儀式は「全て天皇を畏敬する躾」であったと聞く。登下校時には、全てが奉安殿前に直立不動し教師も生徒も最敬礼を繰り返していた。朝礼は、集合〜整列〜宮城遥拝・黙祷〜ラジオ体操、寒風摩擦〜校長訓話〜伝達〜退場一糸乱れぬ集団規律徹底)儀式四方拝一月一日・紀元節二月一一日、天長節四月二九日・明治節十一月三日、入場〜開会〜御真影開扉〜国家斉唱〜勅語奉読〜校長訓話〜式歌斉唱〜御真影閉扉〜退場(教育勅語を暗唱した)
4五年生以上男女全員連日の勤労動員防空頭巾に非常袋を携帯し現場集合〜整列点呼〜軍人勅論唱和〜作業開始男子は、住友歌礦の坑木運搬作業。女子は、軍需工場資材の収集作業等雨天の日は、教室で敵機B29やグラマンの爆音傍受訓練・手旗信号。防空演習など、教科書は兄姉のおさがりや書き写しで授業を受けていた。
5食料・衣料品の耐乏生活極に至る。食料品…配給米滅少、とうきび、じゃがいも、南瓜、海草類、僅かな澱粉や麦、やがて澱粉柏等少量の食料をおかゆのように増やして食べ、野山の食用となる草摘みもした。母は外で遊ぷ子に「お腹が空くから激しく動かないように……」との願いを背に受けながら友と遊んでいた。
衣料品…配給は絶え、親兄弟の衣服の改造かおさがりで間に合わせていた。
6何故か五年生からの学級写真が無い。通知表や記念写真は、母が保管していてくれていたが、学級写真は四年生までしかなく、それ以後、非常時の耐乏生活の一端が伺える。
7当時多くの家庭では、買い出し・野草摘み・援農・荒地開墾・燈火管制(蝋燭、線香送電等)の毎日であった。
8昭和一九年四月、小樽商業在学中の長兄一八才の時、予科練に志願する。その前夜、次男の小生に留守を頼むと言われ、長男に代わって小生が征くと真剣に応えたものであった。兄は二十年九月無事復員する。
朝鮮労務者の姿
1同じ労務者でも戦前と戦中の来邦の扱いに、多少の差異がみられた。
母が親しくしていた「成田ヨウライ」さん等数人に、裏の土間でそっと煮芋や南瓜等をご馳走する姿が見られた。
2彼等は来る度一等塊炭(黒ダイヤ)を炭小屋に置いていってくれていた。
これが後に農家との食料交換に役だつとは思いもよらず感謝していた。
3昭和一九年六年生の約二三○名中、朝鮮の子弟は以前の一四名から五名になっていた。また、家族同伴だった婦人の姿もいつしか見えなくなったのは何故なのか今も不思議に思っている。
4タコ労働者や朝鮮労務者は、日に日に痩せ細り衣服の粗未さが痛々しい。
堅固な柵内の寮では、自殺や事故死。また、便槽からの逃亡の噂が聞かれることもしばしばであった。
5戦況の悪化と労働強化が強まる程、管理体制が厳しくなり、会社に派遣将兵や特高警察の姿を目にもしていた。
6これらの状況を知っている大人も子どもたちも、お互いに口にすることはタプーであった。
4高等科一年敗戦の年(昭和二○年)
終戦までの主な戦況
・昭和一九年一○月以降中国や南方占領基地及び航空母艦より本土空襲本格化
・昭和二○年一〜四月比島・硫黄島・沖縄本島の激戦と米軍上陸敢行
・七月一四日〜一五日北海道約五○市町に初の大空襲と艦砲射撃が始まる。
・八月六日〜九日広島・長崎に原子爆弾投下
・八月八日 ソ連日ソ不可侵条約を破棄し満州・樺太国境より侵攻。
・八月一五日正午玉音放送、戦争集結の詔勅
学校と家庭生活
1戦況の悪化を肌で感知する。
相次ぐ遺影の帰還・貨物列車に機銃掃射の傷痕・警戒警報・防空演習・防空壕堀り・隣組共同演習等激しくなる。
2本州各主要都市空爆の惨状と集団疎開や食料難の実情が流布する。
3連日列車は、買出しで鈴なりの状況警察の手及ばず(炭坑で配給の軍手・軍足や衣類を背負い近憐農家へ)
4お金や債券は値打ちなく、何より物資優先の日常生活へ。
5昼夜連日警戒警報を告げるサイレンとメガホンで叫ぶ燈火菅制連呼の声。
6母が教えていた和裁教室も危険防止のため戦後まで休室する。
7三井文珠礦グランドまでを畑地として、従業員に分譲し耕作し始める。
8ニシンの豊漁が何よりの蛋白源に。
朝鮮労務者の姿
1歌志内への強制連行の実態(全道連行数)
中国人昭和18年以降神威出張所収容三九一名(三万九千人)
朝鮮人昭和14年以降住友歌志内礦約六○○名(四三万人)
米軍捕虜昭和20年7月北炭空知礦約一五○名九月五日帰還米軍収容は一定の法に基づいていた。
昭和一九年までの二年間で朝鮮労務者の逃亡は歌礦で二七二名を数えていた。
2特に朝鮮人の強制労働は、昭和一九年以降激しさを増し、傷病者や事故死者・逃亡者が増加する。
3寮内で空腹のため深夜屋外の漬物用大樽に食物を求め落下し、衰弱死したとの噂に同情を禁じ得なかった。
4春先どこで手に入れたのか、凍ったジャガイモを持参し、母がそっとゆでてあげていたことなどもあった。
5市街地の家々の軒先に干すみがきニシンの深夜盗難が続いたが、どこの家もこれを咎めようとはしなかった。
終戦前後の三つの不安な事件
八月一五日の「玉音放送」は、私は親戚からの帰りの車中で聞けなかった。午後の神威駅や街を行き交う人々の様子が異様であった。まだ敗戦とは知らず何やら緊追感が標っていた。 時間の経過と共に「戦争終結の玉音」と知って涙する大人たちの姿をあちこちで見て、私ももらい泣きをした。
子どもである私たちは、無条件降伏とは具体的にどうなるのか?想像もつかず唯々不安が募るぱかりであった。
*幼児の頃から戦争と同居した私たち
*戦争のない平和とはどんな状態か?これまで私たちは「東洋平和のための聖戦」と教えられ、誰もがそれを一途に信じてきたのであった。
*「神風」は何故吹かなかったのか?
*日本が負けたとは神はいないことか
*あれほどの神社参拝や宮城遙拝は何のためであったか?
子どもながら何が何だか頭が混乱し、先々の不安を隠し切れなかった。
その1
終戦一ケ月前初めての空襲
学校も家庭も、防空壕に非常携行品を備え連日の防空演習を重ね、いざ空襲への心の準備は誰もができていた。本土空襲の激化で、いよいよ北海道空爆を誰もが覚悟していた。連日、夜空に響くサイレンと同時に「警戒警報」を連呼する声も、やがて「空襲警報」に変わってきた頃であった
七月一四日夕刻、私は小樽港空爆の実況放送に息を凝らして聞いていた。
直ちに街中が緊追感に包まれた、私はこの時、夜空に赤く反射するズリ山の炎
が、標的になると心配でならなかった。この日の空爆は、小樽をはじめ道南一三道東一二の市や町であったが、その詳報は暫くなかったと記憶する。
各炭坑では空襲による連行者のパニックを想定し、警備のための派遣将兵や警察が警護する非常事態にそなえていた。翌一五日夕刻と思う、ラジオ実況で「室蘭・苫小牧・小樽上空に敵機来襲」とその数分後「江別・丘珠・野幌……」とその直後、空襲警報のサイレンと同時に、隣組全員が防空壕に避難した。このとき「家と共に死ぬ」と言って避難しない頑固なお年寄りもいた。
激しいサイレンの響きは、演習とは異なる異様な不安に襲われたのであった。真っ暗で沈黙する壕の中で耳をすましたとき、西方の砂川方面から北に向かうB29編隊の爆音が近づいてきた。誰かが「旭川のパルプ工場に向かっている?」「いや、滝川の人石工場かも知れない?」など悲痛な声が壕に響いた。この日たった一度の空襲体験であったが、今も鮮明に思い出される。この日全道五三ケ所の空爆で一五九一名が儀牲となった。
その2
朝鮮労務者の「抗議騒動」
八月一五日夕刻住友歌志内礦朝鮮労務者、約六○○名
日本の敗戦を知った不安と混乱の渦中、
この日夕刻、事件発生の噂が早くも街中に広まった。(全道で一番早い騒動)
私が現場付近に着いたときは、川を挟んだ小高い丘から約数百名の人たちが怯えながらこの抗議騒動を見守っていた。
戦前から戦中にかけて強制連行され、過酷な労働を強いられた朝鮮人寮約六百名による怒りの抗議行動であった。
日本の敗戦を知るや、即座に怒りを爆発させたその心情は、私達子どもたちにも容易に理解できた。
六百名同胞の中央に立つ数名のリーダーが、大声で朝鮮語を張り上げていた。
彼等を囲む群集は、握り拳を振り上げ怒りを込めた声を張り上げて応えていた。
その後、群集は唸るような不気味な表情で徒党を組み、中村市街のわが家を通過しホットした瞬間、隊列が一斉に駆け足で約三百b先の会社事務所へ向かった。
この群集が会社に近づくと、三つ四つに分散し手に手に混棒を握り締め、配給所・事務所・世話所(労務管理所)になだれこむや窓ガラスや机椅子書類棚などをメチャメチャに破壊する音が不気味であった。
その約三十分後、新たな恐怖が襲った。
それは、わが家裏の炭川を挟んだ約百b先の線路上を、混棒を手にし大声で労務係を追跡する姿であった。この時労務係の数名は、早くも身の危険を感じ事務所から逃げ去っていた。
後で知ったが、労務担当者の一部は、
偶然石炭積出し貨車に緊急依頼し砂川に難を逃れ、一方間に合わなかった数人は貨車の底に身を潜め無事であったと聞いた。
この騒動鎮圧のため、警察や軍隊が駆けつけた午後七時過ぎには、平静に戻っていた。
この騒勤は「強制労働に対する抗議と待遇改善や早期帰還」であったと聞き、誰もが当然の怒りと同情を寄せていた。
この種の抗議行動は、全道の炭坑・港湾・工場・ダムなど三一ケ所で多様な騒動が十一月未まで続いていた。
住友歌志内礦の抗議騒動は、全道最初の騒動で、民家には危害を与えず統率がとれていたことなど特筆できると思う。
以後GHQは石炭需要のため朝鮮・中国の労働力活用を諦め、十二月末までに一斉帰還を巣たしたのであった。
その3
突如米軍グラマン数機が飛来する
終戦の数日後、砂川方面からグラマン数機が突如飛来し街中が騒然となった。
私と友達二人が、教室の留守を頼まれた午後であった。砂川上空から轟音がみるみる近づき、文珠上空に色鮮やかな、落下傘が投下されるのを遠くから見た。
この瞬間、私は戦争が終わった筈なのに?不思議でならなかった。
その直後、この編隊は二階校舎の窓からパイロットが見える程の低空飛行で、歌志内方面へ向かって見えなくなった。
学校では直ちに連絡をとったところ、目的は北炭空知礦に収容されている米人捕膚への、救援物資補給目的との知らせで、胸を撫でおろした。
文珠小学校に落下させたのは、同胞の捕虜収容所と誤認し投下したとのことであった。誰もが予期しないこの出来事で街中は一時騒然となったが、真相を知り不安が一掃できた。
この落下傘投下で、「文珠小学校玄関が壊れ」また、「空知礦では一人が投下で事故死」したとの噂が広まった。
その後、米軍の寛大な好意の意外さに誰もが戸惑いを感じたのだった。
戦中の私たちは、生活の全てに
「鬼畜米英」「米畜」と叫ぴ、憎み、また、恐れていたのであった。
しかし、その米軍捕虜が、救援物資のチョコレートやチュウインガム、缶詰などを惜しげもなく、近くの怯える子どもたちに与えていた米兵のこと。
また、落下傘投下での事故死者や被害を与えた文珠小学校ヘ、将校が即刻丁重にお詫ぴしたなどの噂が街中に広まった。後に洗脳された軍国主義教育と民主主義の違いに直面したのであった。
5終戦直後の高等科二年(昭和二一年)
GH0占領下激変の歩み
昭和二○年九月二日午前九時、ミズリー号上で無条件降伏調印式以後、本格的な進駐と占領政策が進められた。
一億総ざんげ、国民の大半が飢えていたが、GHQの管理下のもとに、日本は自由への道を歩み出す。
国民の暮らしは生活物資を手に入れるための闘いが余儀なくされ、誰もが敗戦の辛さを味わう。
生計費の七割が食費で占められ、食べることに精一杯。闇米がのさばり、カネさえあれば闇市で何でも手に入る世相であった。
生産力がともなわない中での闘争による賃上げがインフレに拍車をかける。
連日、復員・海外引揚げ者の増加。 昭和二三年、歌志内では戦後の復興とベビープームで、人口は有史以来初めて四六、○○○人を数えていた。
学校と家庭生活
1生活必需品はおろか、食料不足に困窮する。闇米・買出し・物々交換等どの駅も浮浪者や孤児の姿を見る。
2全国的な食料不足で、餓死者・栄養失調者が続出する。
3インフレによる物価急騰の生活。
4教科書や用紙のない授業風景。
5復員教師の赴任と戦後教育の混迷。
6教科書の墨塗り指導による、教師の苦境と子どもの疑問。
7ポロ布で作ったポールやグロープで野球を楽しんだ体育の授業。
8教師も子どもも初めて体験する。戸惑う生徒会や自治会活動。
その後の朝鮮労務者
1八月一五日に起こった、歌志内礦の「抗議騒動」は北海道で最初の争議であり、以後全道各所で11月まで続く。
2会社では戦後の扱いに苦慮する一方、GHQは、戦後復興の石炭需要で労務者の継続雇用を促すが、在日労務者の強い抗議行動を招き、一二月までに全員が母国に帰還したのであった。
3戦後の混乱期とはいえ、共学した朝鮮の子弟や親しくした「成田ヨウライ」さんとの別離の記憶がない。これは酷使した強制連行者の無事帰還を果たす関係機関の苦悩の一端が伺える。
4昭和二五年六月朝鮮戦争起こる。皮肉にも朝鮮戦争特需景気で、日本は経済復興の発端となったのである。
6戦後の修学旅行から(昭和二一年以降)
餓じくも忘れ難い思い出が
高等科二年、戦後の荒廃が続く昭和二一年八月、初めての修学旅行が今も忘れられない。
昭和一九年六年生の修学旅行は、戦局日増しに悪化し話題にもならなかった。それだけにこの修学旅行は、餓じくも私たちにとって何よりの喜びであった。
六○才を過ぎた今も同窓会では、当時の思い出話に湧いているのである。
*屋根のない貨物列車に、二百数名が留萌に向けて出発した。
*列車の壁には、戦中の機銃掃射の弾痕がそのまま残っていた。
*当時、豊漁続きのニシン輪送貨物車の悪臭等一向に気にならなかった。
*二泊三日分の米と僅かな味噌・醤油を持参し、現在の市立港南中学校体育館にざこ寝し、食事は約lq先の漁業協同組合の飯場でお世話になった。
*傾斜地の商店街は開散とし戦中の傷痕が生々しく、駅では浮浪者や孤児の姿がここでも見られていた。
*タ刻、街の映画館のスピーカーから流れる「雨に咲く花」のメロディーが今も私の思い出の曲となっている。
昭和二三年三月、念願の札幌師範学校合格通知を手にしながら、義務付けされた月々の米の仕送り不可能と断念させられた梅しさも、戦争後遺症と思っている。
昭和二五年八月 高校での修学旅行
京都・奈良・大阪・鎌倉・東京・日光ヘ。
この旅行は、予科練を復員し国鉄勤務後商売をしながら通学した。六才年長の梶君独自の企画で今も感謝している。
この頃は、以前の食料持参の餓じさから開放され旅館に泊まることができた。
京都・奈良の古寺を訪ねて、私が抱いていた歴史像に衝撃を覚えた。
それは、敗戦直後の「墨塗り教科書の体験」以後、戦中に学んだ歴史の全てが偽りと思い込んでいたのだった。
初めて本州の地を訪ね、すべて目に入るものが興味深かった。
京都・奈良は、戦災の傷痕はなかったが、東海道の鈍行の車窓や上野に着くと戦中の傷痕は随所に見られていた。
上野・浅草の闇市や路上では、古物や商品が並び賑わっていた。また夜の街角では厚化粧の女性が客を引き、浮浪者や孤児の姿があちこちに見られていた。
日本の戦後復興の兆しとなった、朝鮮動乱(戦争)が六月に起こったばかりの東京では、米軍の軍服姿とジープの走る光景を見ては戦中を思い浮かべていた。
上野駅ガード下の雨横丁の賑わいは、今も戦後青春時代の思い出の地である。
最後に、戦後間もない二度の修学旅行を回想するとき、当時占領下日本の「民主化と経済復興の息吹が」街や人々の姿からも垣間見ることができるのでした。
おわりに
人は誰しも「辛く・悲しい・衝撃的な体験」は、鮮明に記憶されながらこれを多く語ろうとしない。それは、「事実は小説より奇なり」の危難が人々の心の奥深くに刻んでいるからと思われる。
私は、知られざる証言に接する度に、「戦争とは冷酷無情な殺人悲劇である」天皇や祖国のためと戦場に送られ、上官の命令は絶対服従で殺人が強要される。
多くのアジアの隣人を殺し、自分も殺される。命令を拒否すれば抗命罪で処刑され、脱走すれば銃殺である。
私のこの拙稿は、戦後五十年を迎えるにあたり、残酷なこの史実を風化させず戦争の知らない世代に「戦争と平和」についての正しい歴史認識に立てることを心から願って綴りました。
以上、小生の些細な「戦中の少年記」ではありますが、後々お役に立てればこの上ない喜びであります。(市内空知太西五条五丁目在住)
■郷土研究 第28集の目次■へもどる
■砂川の歴史を知りたい人のために■へもどる
いわた書店と砂川地域大学へもどる
(C) Sunagawa Kyodo Kenkyukai 1997. All rights reserved.