フィリッピン戦線ルソン島の決戦
フィリッピン戦線ルソン島の決戦
国民が最も頼りにしている連合艦隊は十九年六月のマリアナ沖海戦と、十月のレイテ沖海戦によって潰減し、戦艦武蔵をはじめほとんどの艦艇が海の底にあった。
残るは戦艦大和以下の十数隻。
国民はそのことを知らず、“神風”が吹くものと信じていた。しかし、客観的にみて戦争はすでに終わっていたといえるのだった。
米軍のルソン上陸は一月初旬と予定された。
緒戦のシンガポール攻略で勇名をはせた山下奉文大将が第一四方面軍約三五万の将兵の指揮をとる。
国民の熱いまなざしはその双肩にそそがれた。
しかし、現実にはレイテ決戦に精鋭ともいうべき師団を投入し、ルソン島守備の日本軍の大半は正規の戦闘部隊ではなかった。
日ごろ戦闘訓練などをしていないものの方が多かった。それに武器・弾薬の蓄積もきわめて貧弱だったのである。
山下大将は、レイテ敗北のあと、ルソン決戦の命令を伝えにきた大本営作戦部長の申し出を一蹴した。
「持久作戦を行う以外にはない。」 こうした山下大将の作戦を妨害するように、十九年末より爆撃機とゲリラ部隊が道路や橋梁、トンネルを攻撃し日本軍の行動を阻止。
そして年が明けた昭和二十年二月九日、予想どおり一挙に七万人を投入し、米軍はリンガエン湾に上陸を開始してきた。
日本軍はしかし玉砕戦法をとらなかった。山岳陣地にたてこもって永久に抗戦粘りに粘って一人よく十人を倒す戦法をとった。
劣勢兵力が重武装の敵と戦うためには唯一の戦法だっ
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