田園交響楽

ジッドの作品は“狭き門”を読んでまぁいいや、と思っていたが、古本屋でこの“田園交響楽”を見つけて、1、2日で読めそうな感じだったので、つなぎにはちょうどいいと思って購入した次第である。

盲人が盲人の手引きをするとどういうことになるかということを、痛烈なキリスト教批判を交えながら解明していく。絶えず読者に安心というものを与えない、恐る恐る読んで行くと最悪の結末に到達し、頭をガーンとやられる感じである。

ストーリーは牧師の日記の形でつづられる。牧師はある日、耳の不自由な老女に育てられた(というより一緒に暮らしていた)これまた間の不自由な姪のジェルトリュードを引き取ることになる。老女が亡くなったからである。ジェルトリュードはすでに15歳くらいにはなっていたが、なにしろ目が見えない上、話のできない老女に育てられたとあって白痴同等であった。牧師は突如として現れた義務感というか正義感みたいなものにとらえられ、聖職者という立場も手伝って、まさに“神の召し“と言う確信のもと、彼女を引き取ることになった。

闘いはその日から勃発する。牧師の妻は“失われていた羊を連れて帰った”という夫に不満大爆発なのである。気高い信念にとらえられてなした自らの行為を非難され、つい聖書を引き合いに出してお説教をたれようという気持ちを必死で抑えているところなどは、実に独善的なものを感じた。

それからの展開にはやや無理がありそうな気もするのだが、ジェルトリュードは牧師の教育のおかげで、みるみる成長し、話せるようになり、点字を理解するまでになって行く。ジェルトリュードは穢れを知らぬ、何事にも感動を覚える、まさに純心無垢な少女に成長した。そんな中、牧師と田園交響楽を聞きに音楽会に行くのである。

そして、物語は薄幸な少女の奇跡的で美しい復活劇に取り変わって、次第に過干渉になる牧師の内面を浮き彫りにしていく。有害な本、この世の汚れを暴くような内容の本を読ませないようにという配慮からはじまって、聖書も福音書、詩篇、黙示録のみ与え、パウロの書簡は避けるようにした。息子のジャックとの密会を目撃してしまった後には、ジャックにジェルトリュードとの会話を禁じた。つまり、牧師のジェルトリュードに対する思いは一線を越え始めたのである。妻との亀裂も修復しがたい域に達した。

ついに扉の開かれる瞬間が訪れる。これもまたありえなさげな展開であるが、ジェルトリュードの目は手術によって開眼できたのである。今までは相手が目が見えないことで、都合のよいところだけを見せてきた牧師は葛藤の中に立たされる。そしてあろうことか、ジェルトリュードは自殺してしまった。目が開け、彼女の前に広がった世界は、想像を超えて美しかった。しかし、彼女は牧師とその妻アメリとの間に亀裂を作った事をさとり、“もし盲目なりせば、罪なかりしならん”というキリストの言葉を語り、“われかつて律法なくして生きたれど、誡命きたりし時に罪は生き、我は死にたり”というパウロの言葉で締めくくった。ジェルトリュードはジャックからその聖書の言葉を聞いた。そして、自分の愛するはずの人は牧師ではなく、ジャックだったことに気がついたと告白する。そして、ジャックが改宗してカトリックになったこと、自らも改宗した事を告げる。愛人に死なれ、息子に裏切られ、妻との修復しがたい仲を突きつけられ、砂漠より干からびた牧師の心、カトリックの教えになびき、禁じ手である自殺へと追い込まれるジェルトリュード。盲人の手引きにより二人穴に落ちることになった悲劇の物語の終結。

すべてのキリスト者がこのような道を歩んでいるとはいいがたい。ただ、少し間違うと、欺瞞に満ちた手引きが罪なき人をも道連れにしかねないという危険を感じる。自分は正しい事をしている、神に導かれているという独善的な思いで盲目になりがちな側面があることはよくよく気をつけていかねばならない。問題提起として、心に訴える作品であった。(2004.07.10)