車輪の下

ヘルマン・ヘッセの自伝的小説、車輪の下を読んでみた。ハンス・ギーベンラートという少年に自らの姿を投影して、多感な少年の繊細さと自然の描写の美しさ、そして利己的な考えで従順な少年の人生を振り回す教育者達の姿が描かれている。

町中の期待のホープ、ハンスは抜きん出た天分でギリシャ語、ラテン語などを学び、当時のエリートコースまっしぐらだった。州の試験に合格して官費によって神学校に入り、チュービンゲン大学に進み、牧師か教師となって安定した生活を送る、これが敷かれたレールだった。選ばれた秀才だけが進むことのできる道への期待が、否が応でもハンスの肩にかかっていた。牧師とかになって安定した生活を送れる、というのはローマ帝国がキリスト教を国教化した名残であろうか。国の庇護のもとで宗教界はかつての迫害に耐え、守り通してきた神聖な信仰を生業と変え、輝きを失った側面があったと思う。ハンスは、ヘブライ語を教えた牧師は不信心者だから気をつけろという忠告を受けている。

受験勉強のためにハンスが犠牲にしたものは余りにも大きかった。友達、川遊び、釣りというかけがえのない少年時代、そして夏休みまでも。神学校に合格してからも親切な先生方の犠牲となって勉強に明け暮れた。いつの時代にも“お受験”なるものが存在するということを知った。少年は周囲からの賞賛に煽られて自ら進むべき道を見極めること無く、敷かれたレールを走るしか無くなる。そんなハンスにもっと大事な事があるんだといつも忠告していたフライクおじさんの存在は唯一の救いである。

大学生には5月病というのがある。目標を失った生活に倦怠を覚える時期である。大学生に限らず、ひたむきに、狭い視野で突き進んでしまい、達成した喜びもつかの間、禁欲的に目や耳を閉ざしてきて、もはや取り返せないものに気がつく。ハンスは優等生だったが、叙情的なヘルマン・ハイルナーとの出会いによって大きな影響を受ける。少年達の中にあって、一人ませていたがゆえに目をつけられていたハイルナーは、けんかがもとで監禁の懲罰をくらい、仲間から孤立した。ハンスは優等生となる道よりもハイルナーとの友情を選んだ。元来天才であり、勉強はそこそこでもそれなりの成績が取れるハイルナーとは違い、ガリ勉型のハンスが彼と歩調を合わせるとどうなるかは容易に察しがつく。問題児の仲間となったことで先生からの信頼も失い、ついにはハイルナーの退学という憂き目にあってハンスは全てを失った。気がつけば勉強にはついていけないし、友人も失い、先生達の信頼も失った。結果としてノイローゼ状態となり、なかば強制的に退学へと追い込まれた。

家に帰ったハンスを取り巻いたのは、失っていた自然であり、友人であった。落ちた期待のホープにたいするののしりも受けなければならなかった。プライドも勉学も捨てて一からやり直さなければならない。何事も周囲の人の言いなりにやって、運良く道をはずすことも無くレールの上を走り続けられた人もいるだろう。そういう人たちに比べるとハンスの人生は完全な脱線だろうが、そこから学べることは計り知れないものがある。淡い恋をしたり、機械工となって労働の苦しさ、思い切り遊ぶ週末。人間らしさに触れ、これからだと思った時、ハンスは川に流されていた。短い一生に全てを使い果たした犠牲者ハンスの一生が訴えかけているメッセージは、実はみんなよく知っているはずだと思う。しかし、わき目もふらずレールの上を突っ走っている、もしくは突っ走らざるを得ない世知辛い時世においてはいささか無力の警告にならざるを得ない。そんな我々にあえて死を持って衝撃的に訴えたかったヘッセのヒューマニズムを感じる。(2004.10.02)