エッセイ 「あしあと」   牧師 吉澤 永

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あしあと1
 今週から、このスペースを利用させていただいて、拙い文章を記したいと思う。牧師にとって、新しい教会との出会いは新しい人生の始まりといっても、決して過言ではない。主は、そのご計画に従って、私の人生を導いてくださった。その証しを、「あしあと」として、記していきたい。
 私は、奈良県の五條市で生まれた。五條市は、紀伊半島のど真ん中にある小さな町で、金剛山の麓、吉野川(奈良県内では吉野川といい、和歌山県に入ると紀ノ川と名前を変える)の流れる、自然豊かな所である。私は、フリーメソジストという小さな教団の牧師をしている父親の、三人兄弟の末っ子として生まれた。
 私の生まれた教会は、駅のすぐそばにあった。小さな教会で、礼拝出席は10名足らず、視覚障害者の方が3名ほどおられて、父は、ガリ版の週報と、点字の週報を作るのに、多くの時間を費やしていた。当然、謝儀は少なく、とても生活していけるものではなかったので、父は学習塾を開き、それで生計を立てていた。

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あしあと2
 奈良県の五條市は、林業と柿の名産地である。私の父は、初めての教会の赴任に際して、フリーメソジストの人事担当の先生に、「何か希望はありますか?」といわれた。父は「どんなところにも行きます」と答え、当時教団の中で最も小さく、最も僻地にある五條教会(当時は伝道所)を紹介されたのである。
 私がまだ赤ん坊の時は、掘っ立て小屋のような教会しかなかったので、アパート暮らしをしていたらしく、礼拝堂兼牧師館の建築がされて、家族はそこに移り住んだ。
 私は、今でこそ、身長184センチ、体重100キロを超える巨漢で、体力が売りの牧師のように見えるが、幼い時は非常に病弱で、しょっちゅう熱を出していたのをおぼえている。そうかといっておとなしかったわけではなく、無理をして遊んでは熱を出すことの繰り返しであった。食欲は人並み以上にあったが、病弱のため、食べては吐いて、吐くと鼻に入って非常に痛かったので、食べたくても食べることができなかったのである。

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あしあと3
 私は、生来、食欲は旺盛である。しかし、幼少期の病弱によって、食べたくても食べられなかったという悔しい思いが、深層心理に刻み込まれたようで、小学校3年生くらいから元気になって、それからの食べ方は異常と言っていいほどであった。母親がどれだけおやつを隠しても、私は天性のカンでそれを見つけ出して、少しつまむのではなく、袋を開けたが最後、必ず空っぽになるまで食べ尽くした。
 中学生になると、成長期の食欲がさらに加わった。食べる事への関心が強かったので、簡単な料理なども自分でしたりしていた。母親からすれば、勝手にご飯を食べてくれる手間のかからない子どもであったが、その反面、今晩のおかずのために買ってきた食材を、先に食べられてしまうので、親子で冷蔵庫を前にしてよくけんかをしたものである。
 教会は、私にとってはただの自分の家であり、教会学校は、友達との遊びの場であった。礼拝の時間は、お話しが短いことを切に願い、「早く終われ」と何度祈ったかわからなかった。礼拝を受ける態度は不真面目であったと思う。

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あしあと4
 わたしの、神様との初めの出会いは、保育園に行くまでの道中にあった。わたしは、岡保育所という、山の麓にある保育所に通っていた。小さな時のことなので、記憶は定かではないが、家から保育所に至るまで、田んぼがあり、畑があり、水路があり、池があり、自然豊かなところであった。
 7年ほど前に、淡路島の実家に帰るために、自動二輪の免許を取り、400CCのバイクに乗っていた。そのバイクで、一度、生まれ故郷の五條市に帰り、家であった五條教会から、岡保育所までバイクを走らせてみた。すると、想像以上に遠いところに保育所があり、大人になったわたしでも、徒歩20分以上かかりそうな場所にあった。
 幼い時のわたしは、この道中で、自然相手に遊び、のんびりとした時間の中で、神様との出会いをしていたと思っている。創造主なる神を受け入れる基盤は、わたしにとっては保育園への登下校にあったのである。
 自然豊かなところで、子どもを育てることができる。小松に遣わされ、わたしは自分の幼い時を思い出しながら、希が小松の大自然を通して、神様と出会ってくれることを信じて、小松での生活を楽しみたい。

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あしあと5
 以前、教会学校での礼拝の態度は不真面目であったと書いた。教会学校で、いろんな先生を通し、また、牧師である父親を通して、聖書のお話を聞いたが、ほとんどおぼえていない。基本的には聞こうとしていなかったので、おぼえようがなかったのである。聞こうとしないどころか、聖書のお話しが始まると、頭の中でテレビや漫画のことをわざと思い浮かべて、頭の中に入ってこないようにしていたのをおぼえている。
 そんなわたしの心にも、忘れられない聖書の話がある。それは、イエス様が、私たちの心の扉をノックして、私たちを呼びかけ、食事を共にするという、ヨハネ黙示録3章20節の御言葉からのお話しである。子どものわたしにとって、このお話しによって、イエス様がわたしの心に来て下さるということを、不思議な思いを感じながらも、喜んでいた。
 小さい時から、中学生くらいまで、数百回の聖書のお話を聞いたが、おぼえていない。しかし、1つの御言葉の種が、わたしの心に入り、そして、信仰の芽を出し、牧師としての歩みをしている今のわたしの信仰を根本から支えている。
 御言葉の種はどこで芽を出すか、私たちにはわからない。種をまき続けることで、そのことは実現するのである。

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あしあと6
 父が牧会する教会には、常に若者が溢れていた。それは、父が自分でボーイスカウトを立ち上げ、野外活動を教会に取り入れていたこと。謝儀を十分に受けることができない教会だったので、学習塾をしていたのがその理由である。
 すべての人が、信仰を告白したのではない。むしろ、教会につながらずに、出て行った人たちの方がはるかに多い。しかし、少なくとも、教会の門をくぐり、多くの楽しい思い出をつくっていった青年達は、教会に対する偏見を取りのけられて、巣立っていった。いわば、彼らは、御言葉の種が実を結ぶために、畑を耕されて巣立っていったのである。
 教会の伝道目的は、主に救われる人が一人でも多く与えられることである。しかし、教会が教育の業を成していく時、洗礼を受けることのみを目的とした時に、人々の心は教会から離れていく。洗礼を受けるということは、結果として与えられる恵みであり、そこに至るまで、教会教育を受けるすべての人が、主にある成長を遂げることを、一番の目的にする必要がある。
 一人の人が救われるのは、人間の事業ではなく、神の事業である。私たちはこの原点を見失わずに、教会教育の業に仕えていきたい。

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あしあと7
 地方の小教会が、伝道していくことの難しさは、私自身子どもの時に感じていたことである。教会が大きくなったらとか、洗礼を受ける人が増えたらと、まじめに考えていたわけではない。牧師の息子ということで、少なからず友達からいじめられたりしていたので、そのように考えることはできなかった。
 まじめな意味で、教会の伝道を考えたのではなく、日々苦闘している父親の姿を見て、自分だったらどうするだろうかということを、子どもながらに考えてみたことがあるだけである。
 民家なのか教会なのかわからない建物、園庭どころか、駐車場もない。キリスト教についてほとんど知らない町の人たち。信徒の数も少なく、牧師が全部一人で伝道プログラムを考え、準備して、実行していく。謝儀は、家族どころか、父親一人食べていくことができないほど。いろんな条件を考えた時に、どう逆立ちしても、人が増えると思うことができなかった。わたしの出した結論は、「こんな損な仕事はない」というものであった。
 ほかのどんな仕事についても、牧師にだけは絶対ならない。教会からも離れて、死ぬ直前に信仰告白して、天国泥棒をすることが、わたしの人生設計であった。

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あしあと8

 牧師の息子であるという理由で、少なからずいじめられたということを、先週のあしあとで記した。いじめというよりは、物珍しさから来るからかいであった。 しかし、私にとってはいい迷惑である。
好きで牧師の息子に生まれたのでもなく、信仰を持っているのでもない。親の職業が変わっているというだけで、からかいの対象になることに、理不尽さを感じていた。
 私は、牧師の息子であるけれども、キリスト教など信じていないということを、友達の間で強調するようにした。そして、科学的なものの考え方を強く意識するようになった。
 牧師家庭に育つ子どもは、必ずこのような壁に当たる。日本では少数者であるキリスト教の中にあって、さらに、牧師の子どもであるということは、珍しいことだからである。
 私の知っている牧師先生は、戦時中に青少年時代を過ごされ、親が牧師であるという理由だけで、非国民扱いされた。
その先生は、予科練に入り、特攻隊を志願した。「牧師の息子でも、お国のために、天皇のために死ねるところを見せてやる。」それだけが、当時の生きる目的であったと教えてくれた。「牧師の子ども」とはそれだけ意識せざるを得ないものなのである。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あしあと9

 父が、生計を立てるために、学習塾を開いていたということは、すでに記したが、この塾に集まってくる子どもは、どういう訳か不良少年が多かった。にぎやかではあったが、怖いお兄ちゃん達が多かったので、私は逃げるように二階の牧師館に昇っていた。それでも時々逃げ切れずに、空気銃で撃たれたり、こづき回されたりしたものである。
 父は、竹刀片手に勉強を教えていた。暴力教師だったわけではないが、生徒達が、父との約束を破ったり、テストで赤点を取ったりすると、「ケツパン」と呼ばれる罰があった。それは、竹刀でおしりを叩くことである。恐怖の罰であったが、ケツパンをされた生徒達は、不思議と嬉しそうであった。
 大人になってからわかったことであるが、悪いことをした時に、しっかりと怒ってくれるということは、彼らにとって嬉しいことだったと思うのである。誰も本気になって自分を叱ってくれない。悪いことをしているのをわかっているのに、親も教師も本気で自分と向かい合ってくれない。それが、不良少年達の心を深く傷つけ、益々非行へと走らせるのである。
 聖書の神は、私たちが過ちを犯した時、必ず叱ってくれる。そのとき私たちは、喜びを持って悔い改めるのである。「神は私たちを見捨てられていない」と。

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あしあと10

 私の教会学校での思い出は、教会の中よりも、教会の外での出来事のほうがはるかに多い。それは、四国の教会に伝道師として赴任するまで、所属していた教会が、すべて教会専用のキャンプ場を所有していたことと深い関わりがある。
 私の父は、吉野川(奈良県)のほとりに、キャンプ場をつくった。ログハウスといえるほどきれいではなかったが、木造の宿泊所と、野外に台所、トイレ、簡易シャワーなどがあった。自然のただ中だったので、アブやハチは言うに及ばず、巨大なナメクジ、時には、大きな蛇も姿を現した。
 キャンプ場から、獣道みたいな斜面を降りていくと、吉野川の川縁に行くことが出来た。そこは、まるで泳ぐために備えられているような場所で、流れが緩やかで、適度な深さがあり、対岸にある岩から安全に飛び込むことが出来た。緩やかな流れの先には、急流の場所があり、そこにゴムボートで急流下りを楽しむことが出来た。子どもだけでボートに乗って、そのボートにロープをくくりつけて、急流下りの箇所を超えたら、大人がロープを引っ張って、ボートと子どもを引き上げていた。
 子どもたちにとって、教会は先ず、楽しい思い出をつくる場所であるべきだと思う。そこで神様は、子どもたちと出会って下さるのである。

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あしあと11

  私の出身教団である、フリーメソジスト教団は、「清め派」と呼ばれる教団であった。それは、罪からの清めを強調して、聖霊による聖化を求めていく教えを持っていた。
 その具体的な行為として、禁酒があった。教団の教規に、禁酒を守ることと、酒類を販売する職業にも就かないようにという項目があった。
 これは、メソジストの創始者である、ジョン・ウェスリがイギリスで禁酒運動をしていたことに由来するものである。
 私の父は、そんな教えのある教団の中で、平気でお酒を飲んでいた。規則違反である。当然、酒を飲む牧師として、それ相当の批判を受けていた。「清められていない牧師」として、いい目では見られていなかった。 
 酒は飲まないに越したことはないと思う。いまでも、家庭崩壊の一番の原因は、アルコールに由来する暴力であるという統計があり、また、飲酒運転が悲劇を多く生み出している事実もある。
 しかし、「酒を飲むこと」そのものが罪にようにいわれるのは、本質をはずしている。「酒」によってどんな行動をしてしまうのかが、問題の本質である。
 イエス様は、だれよりも、この「本質」にこだわりを持っていた人だと私は思う。イエス様から、物事の本質を見る目を与えられたいと、日々祈り求めている。

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あしあと12
 先日、保育園で朝のお迎えをしている時に、思い出したことがあった。それは、オタマジャクシを見て、小学生の時にしたいたずらを思い出したのである。
 私は、仲の良い友だちと一緒に、ウシガエル(食用蛙)を捕まえにいった。それも、池の中でも一番大きそうなやつを捕まえた。蛙は、捕まった時はおとなしくしていたのだが、いざ箱に入れようとした時に大暴れして、逃げ出した。蛙は必死に跳んで、逃げ出したが、クラスで一番足の速い友だちがいたので、何とか捕まえることが出来た。
 いたずらの目的は、いつも怒られてばかりいる、担任の先生に仕返しをするためである。翌日、箱に詰めたウシガエルを教壇の上に置いて、先生の来るのを待った。先生に「僕たちからのプレゼントです。」と言って、先生が箱を開けると、蛙は先生めがけて跳びだし、学校中を逃げ回り、大騒ぎとなった。
 先生は、蛙に飛びつかれた拍子に、つまづいて、めがねが壊れた。当然、むちゃくちゃ怒られると思ったが、先生は怒るよりも、ハプニングを楽しんでいるようであった。
 今、こんな余裕のある空間が失われている。教会も、家庭も、学校も、ハプニングを笑って迎えられる場所になれば、大人もこどもも楽しく過ごせると思う。

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あしあと13
 私の世代は、コンピューターゲームが流行りだした頃である。遊園地に何度か連れて行ってもらった時、乗り物を一通り楽しんだら、300円ほどお金をもらって、インベーダーゲームをさせてもらった。しばらくすると、ファミコンが登場して、持っている友だちの家は、たまり場と化した。
 ゲームは確かに楽しい。私は今でもテレビゲームをするが、そこには対話がない。定められたゲームのルールをいかに上手にクリアしていくかだけが遊びの内容である。
 体を使う遊びは、子どもの間でルールの取り決めが話し合われる。ゲームの結果を話題として分かち合うことが出来る。時には衝突もあり、和解もある。子どもはこのようなことを通して、人間関係のトレーニングをしているのである。
 教会のプログラムも、共同参加型が望ましい。皆で考え、皆が参加し、共に意見を出し合って進めていく。決して牧師や特定の信徒の意見のみが通ってはいけない。意見の食い違いを修正していくことが、聖書の御言葉を実践していく具体的なトレーニングになるのである。
 与えられたものをこなすだけではなく、自分たちで、生ける神の御言葉に聞き続け、共に協力して新しい伊予小松教会を形成していきたいと願っている。

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あしあと14
 いじめについて少し考えてみたい。いじめはわたしの周りにも時々起こっていた。私自身もいじめられたことがある。それは、みんなでやっている悪いことに、参加しようとしなかったからである。
 ある時、クラスで、掃除をせずに帰る事が流行っていた時があった。先生は当然怒るのだが、クラスのみんなは、先生に怒られることよりも、クラスの中から仲間はずれにされることを恐れていた。
 わたしは、そんなおかしな事に同調できないと思い、掃除をして帰ったら、案の定仲間はずれにされた。無視をされ、授業中に消しゴムのちぎったのを投げられたり、「あいつは汚い」という噂を流されたりもした。しかし、平気だった。わたしはいじめをする人に何も仕返しをしなかったが、相手は目線を合わせるだけでおどおどとして逃げていった。悪いことをしている自覚は、十二分にあったように見えた。
 そのうちに、クラスが正常化した時、クラスのみんなが安心したような顔つきになっていた。誤った連帯意識が、いかに人の心に恐怖を与え、自由を奪うかということを、こどもながらに思った。
 キリスト者は、神の義を生きようとする時、必ず迫害を受けるが、真実の言葉を聞き続け、それに生きようとする者には、この世の束縛から自由にされるのである。
 神のみを畏れる歩みを進めたい。
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あしあと15
  私の友だちには、必ずいじめられっ子がいた。私は何も意識していないのだが、いつの間にか、一緒に遊ぶことになり、何でもない話をする仲になっていた。
 矛盾するようだが、振りかえってみると、私の友だちには、いじめられっ子と同じくらい、いじめっ子もいた。それも、上手ないじめをするタイプではなく、みんなから怖がられて、近寄りがたいと思われている人が多かった。
 両者に共通していることは、寂しさを抱えているということであった。私は、ボーとしていて、相手によって態度を変えることが余り無かったので、いじめられているから、その友だちをさけることはしなかったし、その逆に、怖がられているから、逃げることもしなかった。
 寂しさを抱え、同じように友だちを求めているのにうまくいかない。みんなが上手に生きられるわけではない。そのような人達に必要なことは、そのままの自分自身を受け入れてくれる存在である。
 私が、自然が好きな理由は、だれにも、どんな人にも、等しく恵みを与え、その美しさを現してくれるところである。
 イエス様は、この自然を創られた神様と、私たち人間とが、共に歩むことが出来るように、十字架にかかって下さった。
 受け入れて下さるお方が、ここにいるということを宣べ伝えていきたい。
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あしあと16
 教会学校といえば、さんびかである。私は大きな声で歌うことが大好きだった。
 クリスマスの時に「もろびとこぞりて」を歌う時、「ひさしくまちにし」という歌詞があるが、あれは「ひさしくんまちにし」と聞こえることがある。すると教会学校の友達は「もろびとこぞりて」を歌いながら、ニヤニヤして私のほうを見るのである。みんながイエス様を待っているということなのに、私一人がイエス様を待っている様な意味になるので、とても恥ずかしかった。
 ほかに好きなさんびかは「ひかりひかり」だった。きれいに歌うというよりは、思いっきり叫んで歌っていた。こちらの方言で言えば「おらんで」歌っていたのである。
 しかし、小学校の高学年にもなってくると、恥ずかしさが出てくる。みんなが声を出して歌っていないのに、自分一人大きな声を出せない時があった。しかし、牧師である父は、どんなときにも、大きな声で、力一杯さんびかを歌っていた。
 現在、私は、教会学校でも、主日礼拝でも、出来るだけ大きな声で歌っている。
それは、父親の姿が私の脳裏に焼き付いていて、力強く主を讃美することの大切さとうれしさを、今でも私に教えてくれているのである。
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あしあと17
  わたしはむかし、おじいちゃんの生活にあこがれていたことがある。礼拝堂の後ろに、おじいちゃんの部屋があった。その部屋に行くと、お菓子と、にがいコーヒーを出してくれた。たっぷりと砂糖を入れても、とても苦かった。
 おじいちゃんは、いつも礼拝堂の奥の部屋で、テレビを見ながら、一日中を過ごしていた。どうして羨ましかったかといえば、宿題もせずに、一日中自由に、のんびりとしているところが、羨ましかったのである。
 わたしはおじいちゃんの若い頃についてはほとんど知らなかったが、今治教会に赴任する直前に、おじいちゃんが牧師をしていた教会で、説教をする機会が与えられた。その教会の信者さんが、おじいちゃんの、牧師としての働きを教えてくれた。太鼓を叩いて、路傍伝道していたことは父から聞いていたが、太鼓だけではなく、トランペットも上手に吹いて、町を練り歩いていたそうである。
 おじいちゃんは、3年間、牧師をしたが、「自分は牧師の器ではない」と悟り、牧師からクリーニング屋に転職した。それからは信徒の立場で教会に奉仕して、周りの人が止めても、路傍伝道を続けたそうである。
 おじいちゃんの人生を導かれた主が、私をどのように導くのか。主に委ねて歩みたい。
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あしあと18
 私がいままで住んでいた家は、合計五カ所ある。それらの内で、三カ所はもう建物が取り壊されて今はない。一カ所は建物はあるが、教会の集会室として用いられていて、もう一カ所は、学生の寮として現在も使用されている。
 私たちの思い出に、住んでいた建物は欠かすことが出来ない。生まれ故郷の五條教会の牧師館は、礼拝堂の上にあって、六畳と四畳半の和室と、台所、六畳の洋室とトイレ、そして一階に礼拝堂と、四畳半の和室、風呂、トイレがあった。
 私の記憶の中には、今でもありありと、昔の五條教会の姿が残っているのに、現在は、新しく会堂建築がされていて、影も形も残っていない。高校生の時に会堂建築がされたと聞き、淡路島から、新しい教会を見学に行った。そこには、古い教会か民家かわかりにくい建物ではなく、新しくきれいな教会らしい教会が建てられていた。新しい礼拝堂を見学しながら、生まれ育った建物が失われる寂しさを感じていた。
 牧師は、その仕事の性質上、自分の家を持ちにくい。御言葉を宣べ伝える旅人として、主の導きに従って歩んでいく。
 だからこそ、一つ一つの出会いを大切にしたい。主が備えておられる道で出会うすべての出来事を、感謝と喜びで満たしていきたい。
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あしあと19
  私の通っていた五條小学校は、古い木造校舎であった。歩けばギシギシと音が鳴り、床板が壊れている場所もあった。上の教室で注意しなければならないことは、お掃除の時にバケツの水をこぼした時である。校舎が古いために、バケツの水をこぼすと、その水が下の階に流れ落ちて、汚いバケツの水が、下の教室の子どもにかかってしまうおそれがあった。水をこぼすと、大声で「バケツこぼしたー」と叫んで、下の教室に知らせていた。
 校舎も古ければ、校風も古かったのだろう。悪さをすれば、バケツを持って廊下に立たされることがあり、忘れ物をしたり、悪いことをすると、居残りのぞうきんがけがあった。厳しい先生が担任している教室では、その教室の前だけ、ドス黒い茶色の廊下ではなく、フローリングのように明るい茶色になっていた。
 この校舎が私が6年生の時に新しくなった。非常に贅沢な作りで、快適ではあったが、皆が口をそろえて、「前の校舎のほうが良かったね」と言った。
 快適さと便利さが必ずしも良いものだとはかぎらない。不便さの中に、教えられるものがたくさんある。
 聖書の御言葉もそうである。わかりやすく書かれていない。しかし、救いを真剣に求める者に対して、誠実に答えてくれるのが、神の御言葉なのである
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あしあと20
 私には、小学校の6年生までお小遣いがなかった。お小遣いを親にせびると、「お前は、小さい時に病気ばかりして、たくさんお金がかかっているのだから、ダメ。」と言われていた。病気したくて、したわけでないのに、それを理由にされてずっと我慢をしていた。
 友達の間で、ゲームセンターのゲームをすることが流行り始めた。学校では禁止されていたが、お構いなしで、遊びに行っていた。しかし、私にはお小遣いがないので、いつも見てるだけで面白くなかった。そのうち、話題にもついて行けなくなって、集団の中で孤独感を感じるようになった。
 私は、悪いと思いながらも、お小遣いをくれない親が悪いと勝手な理由を付けて、親の財布からお金を抜き出すようになった。そして、そのお金で、一緒にゲームを楽しんで、友達におごるようなこともしていた。
 一度はまりだしたら、とことんやってしまうのが私の性格である。どんどんエスカレートして、悪いことをしていることにスリルを感じるようになり、歯止めがきかなくなっていった。一度母親に見つかり、怒られたが、それでもやめなかった。父親がやってきて、「一緒に警察に行こう」と私の手を引っ張った。                                                  (次週に続く)
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あしあと21
 先週の続き
 私は父に「警察に行こう」と言われた時、「どうなってもいい」と思って、一切抵抗せずに、自分から靴を履いてついて行こうとした。すると、父は靴を脱いで、「上の部屋にあがってこい」といって、上の部屋で二人きりになった。
 しばらくにらみ合いが続いた。私は、悪いことをしたのはわかっていたが、その原因を作ったのは両親であり、「病気をしたからといって、小遣いをくれないお前らが悪い」と心の中で両親を罵っていた。すると、大声と共に平手打ちを食らって倒れ、思い切りおしりを何度も叩かれた。しかし、叩かれても私の心は変わらなかった。
 体罰が終わった後、父親は私に話し始めた。どんな言葉を言われたのかを詳細には覚えていないが、「自分も親に愛されていた」ということを十分に確認できる言葉であった。
 私は、このときに、父親が真剣に怒ってくれたこと、心の底から真実の言葉をくれたことを今でも感謝している。この出来事を通して、私は自分自身を知り、また親の思いを知ることが出来た。
 父なる神も、私たちに試練を与え、その中から、私たちに何かを示そうとされる。その言葉を聞き逃さないように歩んでいきたい。
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あしあと22
 私が海を初めて見たのは、小学校4年生の時に、家族で海水浴に出かけた時である。和歌山市の海水浴場であったと記憶している。そこが一番近い海水浴場になるのだが、車で2時間半ほどかかる場所であった。
 奈良県五條市は、紀伊半島のど真ん中にあるために、海から一番遠い場所にある。海に対するあこがれは、子どもたちの間でものすごく強いものがあり、小学校の修学旅行先を決めるアンケートを実施すると、ダントツで海を楽しめる和歌山県の白浜が選ばれていた。
 私の信仰にとって、美しい自然は欠かすことが出来ない。そこで与えてくれる感動は、神様に対する感謝へとなるからである。初めて海を見た時、その大きさに圧倒され、また、いつまでも果てることなく波が押し寄せてくることにも、不思議を感じていた。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」創世記1章31節
 人間に与えられている恵みの大きさを、
神が造り給うた被造物と、御言葉とを通して、常に知り、常に感じながら、歩んでいきたい。
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あしあと23
  私は子どもの頃、クリスマスが嫌いであった。なぜなら、クリスマスが近くなるに連れて、両親がいつも以上に忙しくなって、機嫌が悪くなるからである。いつもなら怒られないようなことでも、怒られたり、家族全体が、ピリピリとした緊張感に包まれる時期であった。
 もう一つ嫌いな理由は、普通の家庭で行われるような、クリスマスパーティーや、サンタさんからのクリスマスプレゼントがなかったからである。もちろん、教会学校でのクリスマス会や、プレゼント交換はあったが、枕元にくつしたを置いて、ドキドキしながらサンタさんがくるのを待つというクリスマスを送ったことがなかった。
 両親は、クリスマスの準備をすべて、教会学校の生徒達や、教会の信徒の人達のために進めていく。そのなかに、自分も生徒として混じっているのであるが、友達のクリスマスの話を聞くと、どうしても、「羨ましいな」という気持ちをぬぐうことは出来なかった。
 本当のクリスマスの意味を知ると言うことは大切だが、心穏やかに、イエス様のお誕生をお祝いすることの大切さを、牧師家庭に育った者は思うのである。
 教会での業一つ一つも、使命感に燃えて行いつつもお互いを思いやり、励まし合うゆとりを持って、喜びに満ちて行っていきたい。
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あしあと24
  私はよく父に「お前はお母ちゃんの子どもだから」と言われた。それは、たいてい、背中からシャツを出していたり、だらしないことをしている時に言われた。この言葉に傷ついていたかと言われれば、そうではない。なんとなく自分自身で納得していたというのが正直なところである。それは、父親から期待されていないという気楽さと、生来ののんびりとした性格がそうさせたのだと思う。
 私の兄は、私とは対照的に、勤勉で、まじめで、文武両道を絵に描いたような兄であった。年が離れていたせいもあるが、とてもじゃないけど太刀打ちできるような相手ではなかった。父は、なんでもできる兄に大きな期待をかけて、私には余り手をかけなかった。
 勉強も出来て、スポーツも出来る兄は、親からの全ての期待に応えようとして、高校生の時に体をこわしてしまった。それから兄が再び立ち上がって、大学受験が出来るようになるまで、10数年の時を必要とした。
 私は、父と兄の姿を見ながら、親の子どもに対する期待というものが、子どもにとってどれだけ重荷であるかということを知った。
 子どもは神様が育ててくれるもの。親となった今、そのことを常に忘れずに歩んでいきたい。
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あしあと25
  私の住んでいた五條市は、盆地だったために、夏が暑くて、冬が寒いところだった。
 毎年2月に、金剛山という山で、登山大会があった。地元の小学生が参加して、雪の中を歩いていくのである。
 私は、生まれて初めて、何かの目標に向かって努力するということを、この登山によって経験した。小学校5年生の時も、今と変わらず肥満していたので、3ヶ月くらい前から、夜に歩く練習を行った。
 足の筋肉痛に耐えながら本番を迎えた。その日は、山頂だけではなく、山の麓でもかなりの雪が積もっていて、本格的な雪登山となった。気温は下がって、相当寒いのだが、歩いていると体が熱くなってきた。
 山頂はマイナス13度で、寒いというよりも痛かった。必死になって、努力して、登頂できた喜びは、何物にも代え難いものがあった。山頂で食べた、豚汁のおいしさは今でも忘れていない。独身時代に、よく豚汁を作って、夕食、朝食、昼食と3食に分けて食べたのは、そのせいかもしれない。
 信仰生活も、登山と似ていると思う。必ず道が備えられていて、他の何にも代え難い喜びが与えられる。それが主の道だとわたしは信じている。
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あしあと26
  私の家族は、今まで常に、誰かが病気をしている状態である。私が病気をしていた時は、兄も姉も、父も母も元気であった。私が元気になると、兄が体をこわしてしまった。姉も、校内暴力、いじめの犠牲となり、それから統合失調症に苦しめられることになった。母は、交通事故にあって、体のバランス感覚が失われて、2級障害者となってしまった。父は、常に元気であったが、ここ4−5年で、何度も交通事故に巻き込まれて、その後遺症として不眠症となってしまった。車を購入した自動車屋は、「この車、お祓いしてもらった方が良いのではないのですか。」と真剣に言ったほど、何度も事故に巻き込まれたのである。
 一般の人達から見れば、私の家族は不幸続きのように見える。常に誰かが健康を害されて、そのために多くの悩み、苦しみを抱えている。神の祝福はどこにあるのかと、何度も祈ったことがある。
 しかし、だからこそ、私たちの家族は、信仰によって支えられている。目の前の現実が、どれだけ闇に覆われていても、与えられた信仰によって、希望を持って前進していくことを赦されている。それが私たちの家族に与えられた神の祝福なのである。
 信仰によって生かされている恵みを、宣べ伝えていく者でありたい。
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あしあと27
 私の家系は、曾祖父の吉澤柴四郎から始まっている。彼は武家の四男で、長野県に住んでいた。キリスト教と出会い、勘当覚悟で父親に対して「私は耶蘇教徒になる。」と宣言したら、即刻勘当になり、大阪まで出てきたのが、私たち吉澤家の始まりなのである。
 彼は、大阪で一人の伝道者と出会う。後の自由メソジスト教団創始者、河辺貞吉先生である。河辺先生は、日本の伝道を淡路島から始めた。その理由は、日本神話で国生みの島と言われている淡路島で伝道することによって、日本全土の伝道が前進すると考えたからである。
 曾祖父は、河辺先生の淡路島伝道に、信徒伝道師として付いていった。淡路島伝道は困難を極め3年間伝道して、初めて一人の受洗者が与えられたと聞いている。
 曾祖父は、この淡路島伝道に、妻と子ども7人を残して同行したようである。一家の大黒柱がいなくなったので、当然、家族は飢えざるを得なかった。
 しかし、淡路島の匿名の方から、定期的に麦一俵が届けられ、残された家族は、その麦で飢えを乗り越えられたそうである。
 私の父が、奈良県の五條市で21年間牧師をしながら、淡路島に移ったのは、この麦が関係している。神のご計画は、私たちの想像を超えるのである。
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あしあと28
 (先週の続き)  
 私の父は21年間、奈良県の五條市で牧師をしていた。父は死ぬまでこの教会にいるつもりであったと思う。キャンプ場を開拓し、ボーイスカウトの団を立ち上げ、青年達を集めて政治について話しあう会を主催していた。また、祖父の家が売れたお金で、近くの山を買い取り、一人で新しいキャンプ場を切り開いていた。
 そんな中で、淡路島の洲本教会から、招聘があった。この教会も、教会としてキャンプ場を持っていたので、キャンプ場の管理が出来る牧師ということで、声がかかったのである。
 父は当然迷ったと思う。まだまだ五條でやりかけている仕事があった。招聘先の教会は、単立教会で、招聘を受ける条件の中に、所属している教団から離脱してくるというものもあった。これは、その教会を辞めたら、次の教会に赴任することが困難になることを意味する。
 また、前任の牧師先生は、その教会で50年以上牧師をされた人で、戦前、戦中、戦後の困難な状態を乗り越えて、教会を大きくされた名牧師であった。
 そんな牧師先生の後を、型破りな牧師である私の父が引き継げば、苦労することは目に見えていた。迷いの中にあった父を決断させたのは、祖父の遺言の言葉の中にあったのである。
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あしあと29
 (先週の続き)  
 祖父は、痴呆が進み、風邪をこじらせて入院していた。年も86歳で、いつどうなるかわからない状態であった。そんな中で、父の招聘の話があった。
 父は、五條でいろんな仕事をやりかけていた。年も40代後半で、気力、体力、経験、充実していた時であり、だからこそ多くの仕事に着手していたように思う。
 いろんな状況の中で、父を決断させたのは、祖父の遺言のような次の言葉の中にあった。
「吉澤家は、飢えて困った時に、淡路島の匿名の信徒から、麦一俵を送り続けてもらったことによって、救われた。今となっては、恩返しの手段はもうないが、お前が淡路島で伝道・牧会をすることを通して、間接的にでも吉澤家が受けた恩に報いて欲しい。」
 様々な状況の中で、父は祖父のこの言葉によって淡路島行きを決断した。記憶が確かではないが、このことを聞いたのは、12月頃だったと思う。
 祖父は、父に言葉を残して、それからまもなく天に召されていった。祖父は、最後に私たち家族を淡路島へと導き、その生涯を全うしたのである。
 神様の導きは、まったく私たちが予期しない形で、突然訪れてくる。私たちはその出来事の中で、神と共にある地上の歩みを続けるのである。
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あしあと30
  私は、父から淡路島に引っ越すことを聞いた時、本当に驚いた。父からは、何度となく、死ぬまで五條にいるということを聞いていたことと、私自身も、漠然と大人になってもずっと五條に住み続けると思っていたからである。引っ越して、新しい土地で生活をするということは、私の頭の中にはなかったことであった。
 しかも、行き先は淡路島である。以前に、五條に住んでいる子どもたちにとって、一番のあこがれは海水浴であると書いた。その五條で生まれ育った私にとって、淡路島に引っ越すということは、この世の楽園に引っ越すのと同じ意味を持っていた。事実、このことを友達に話すと、私は袋だたきの刑にあってしまった。それほど五條の子どもにとって、海の側で暮らせることが出来るのは、羨ましいことだったのである。
 私の頭の中は、海のことでいっぱいになった。海釣り、海水浴。五條に住んでいたらほとんど出来ないことが、毎日出来るようになるのである。
 引っ越しの準備で忙しかったために、友達とのお別れ会などが開けなかったのは残念であったが、単純な私は、海の側に住めるという大きな期待を胸に、心躍らせて、淡路島へと移っていったのである。
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あしあと31
  淡路島での最初の生活場所は、教会が所有しているキャンプ場であった。街中から5キロほど離れた、山の中腹にあった。牧師館は教会の敷地内に、別棟であったのだが、建物の修理がまだ出来ていなかったので、とりあえずの住居としてキャンプ場に住んだのである。
 キャンプ場といっても立派な施設で、買い物をするのを不便なことをのぞけば、素晴らしい環境であった。私にとっては、
自分の住んでいる場所から、海を眺めることが出来るということが、夢のように幸せであった。身体を壊していた兄にとって、校内暴力の犠牲者であった姉にとっても、静かで落ち着ける場所であった。
 私は、五條にいる時は、魚が嫌いであった。お魚といえば、「塩辛い」「臭い」ものしか食べたことがなかった。お刺身も、冷凍のマグロと、油臭いハマチしか食べたことがなかった。
 ところが、淡路島のお魚は、当然の事ながら、どれも美味しかった。塩辛くなく、臭くないお魚はとてもおいしかった。
しかし、お刺身については、「身の締まっている」ものに慣れるまで時間がかかった。五條で、新鮮なお刺身を食べた経験がなかったので、身の締まったお刺身は、私にとって違和感を感じさせるものだったのである。
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あしあと32
  キャンプ場での生活は、環境が良いという反面、不便であった。一番近くのスーパーまで自転車で20分、歩いてだと40分以上かかった。当然、誰が買い物に行くかが問題になる。家の食事などは、車で両親が街中まで買いに行くので問題はないが、子どもたちの間で必要なものが出てきた時に、喧嘩になるのである。
 兄は、身体を壊していたので、行くことが出来ない。姉と私でジャンケンになるのであるが、私は負ければ素直に買い物に行くが、姉はジャンケンで負けても、「ひさしが行ったらエエやン」と言って、
腰を上げようとしない。兄に文句を言っても、「ひさしがジャンケンで負けたら丸く収まるのに」と困り顔である。結局、文句を言いながらも、私が買いに出るのである。
 私も単純なもので、行く時はあれだけ文句たらたらだったのに、いざ出てしまえば、自転車を快調にとばして、鼻歌交じりで行くのである。
 道中で寄り道をしたり、違う道を通ったりしながら、新しい生活を満喫していた。自然が豊かで、きれいな空気の場所で生活が出来ることを喜んでいた。
 私にとって、自然と信仰とは切り離すことが出来ない。無機質な都会に生まれ育っていたら、信仰は与えられなかったように思う。自然の恵みに感謝する心が、私の信仰心の土台にあるのである。
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あしあと33
  中学生としての生活が始まった。キャンプ場から、学校まで自転車で30分程の道のりであった。
 淡路島といっても、全島の人口17万人、洲本市だけでも4万人がいたので、学校のクラス数は6クラスで、一クラス40名ほどいたように記憶している。私は、奈良県から引っ越してきためずらしさと、身体の大きさで、注目の的であった。皆は、私の言葉の違いに、不思議そうにしていた。逆の立場である私も、淡路島の言葉の違いに驚いていた。何でも語尾に「だー」と言ったり、「めんどい」という言葉は、普通「めんどくさい」だが、淡路島では「恥ずかしい」という意味だったり、習慣や文化の違いにとまどっていた。
 そのうちに、友達が出来た。私は、あこがれであった海釣りに連れて行ってとお願いして、洲本港に釣りに行った。
 引っ越した年の前の年から、埋め立て工事が始まっていたらしく、友達は、「昔はもっと釣れた。」といっていた。しかし、わたしにとって、海で魚を釣ること自体が、夢のような出来事である。初めて釣った鰯を、「針からはずしてくれ」と頼んだら、島の友達は腹を抱えて笑った。山育ちの私と、海育ちの友達との違いをその時感じていた。
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あしあと34
 キャンプ場での生活が終わり、牧師館へ引っ越した。教会と同じ敷地内であったが、別棟に牧師館があった。今までは、教会の二階が牧師館であり、日曜日には時々、教会学校の分級のために使われていたので、教会が行事で使用しない牧師館が嬉しかった。しかも、初めて自分の部屋が与えられた。
 その部屋は、広さが3畳、窓があるが、隣は5階建ての旅館であり、絶対に日が当たらない部屋で、しかも、旅館と牧師館の間には、下水が流れる溝があったので、常にじめじめしていた。私たちの家族の後に入ってこられた牧師の家族の方が、その部屋を見て、「なんて可哀想な部屋で生活をしていたの」と言われたが、日が当たらないことも、じめじめして、部屋が溝臭いことも、自分だけの部屋が与えられたうれしさの方がはるかにまさった。
 狭い部屋は、ものぐさな私にピッタリであった。狭いために、布団を敷くと、物を置くスペースがない。即ち、布団から手を伸ばせば、何でも必要な物が手に届く位置にあるのである。
 新しい牧師館での生活が始まり、新しい教会での歩みが始まった。しかし、私は、中学生になって卓球部に入ったので、牧師の息子でありながら、教会学校にはほとんどでない生活の始まりでもあった。
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あしあと35
  中学生になり、部活動をすることになった。卓球部に入った。体を動かしたかったこともあるが、運動部の中で一番楽そうと勝手に考えて入部したのである。しかし、顧問の先生は厳しい先生であって、練習も非常にきつかった。
 卓球は、大声を出すことが多く、ポイントを取る毎に、「よっしゃー」や、追いつめられた時に「絶対一本(取る)」などど言いながら競技する。オリンピックで福原愛選手が「タァー」といって話題になっていたが、卓球をしている者にとっては、何も珍しくないことなのである。大声で、気合いを入れて競技をするので、練習の中でかけ声の練習をさせられた。それは、運動場の端っこに立って、一番遠いところにいる顧問に向かって、かけ声を叫ぶのである。これが恥ずかしくて、周りの人からも笑われたりした。
 部活動に入ってから、日曜日も練習だったので、教会学校はほとんど行かなくなった。何の罪悪感もなかったし、父も何も言わなかった。ただ、母と兄は、卓球を続けることを反対し続けた。兄は、卓球をしていたが、無理をしすぎて、身体を壊す要因の一つであったためで、母は兄の二の舞になって欲しくないためであった。成績が下がったら部活を辞めることを無理矢理約束させられた。
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あしあと36
 中学生になって、日曜日に礼拝に出ない生活が始まった。自分の生活の中で、教会以外の時間がほとんどを占めるようになった。卓球部に入ったおかげで、友達もたくさん出来て、普通の学生としての生活を満喫できた。教会学校は、夏のキャンプや、クリスマス会など、特別な行事にのみ参加するようにしていた。
 不思議と父は何の文句も言わなかった。信仰を与えるのは、神様の仕事ということで、父であり、牧師であるにもかかわらずに、息子の私に、一切の強制をしなかった。強制はしないが、私がキリスト者になることを確信していた。「お前がどんなにあがいても、いつか必ず神様がお前を捕らえて、信仰を持つようになる。」半ば、預言めいたことを私に何度か言ったことがあった。私は、死ぬ間際に洗礼を受けるつもりであったので、はずれてはいないが、教会から随分長い間離れることになるだろうと思っていた。
 新しくできた友人の中に、私の父の仕事が何かを聞いてくる人がいた。私は、「牧師をしている」と答えると、馬鹿にしたように、「お祈りしてたら、空からお金が振ってくるような仕事しとるなー。」と言ってきた。私は、教会が好きでない、父が牧師であることも好きでないくせに、この言葉には無性に腹が立った。私はそいつに喧嘩を売り、日時を合わせて決闘をすることになった。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あしあと37              
  父の仕事を侮辱されたということで、相手に喧嘩を売った。しかし、このことが先生にばれてしまい、こっぴどく叱られた上で、喧嘩両成敗でどっちも悪いということになってしまった。釈然としなかったので仲直りも出来なかった。しかし、このことを契機に、父が牧師であるということや、家がキリスト教の教会であるということで、馬鹿にしたり、からかったりする者はいなくなった。私にとっては有難い副産物であった。
 自分自身にとって、教会というものを意識せずにすむ時間は、気楽であった。学校でも牧師の息子ということを言われなくなり、部活動が忙しいおかげで、教会学校にも行かなくなった。子どもの頃から望んでいた、「普通の子ども」としての生活を得ることが出来たのである。
 部活動は厳しいが楽しかった。しかし、部活の先生は暴力的で、怖かったので、友達と一緒に悪口をばかり言っていた。その先生の車のナンバーが「9674」だったので、校内で車を見つけると、「来るなよ(9674)おるぞ」と笑いながら言っていた。
 何事もなく、楽しい学生生活が過ぎていったが、勉強に関しては芳しくなかった。勉強が嫌いだったからしょうがないが、このために部活動を続けることが難しくなってしまった。
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あしあと38
  何事もなく、中学の一年間が過ぎていった。しかし、3学期の成績表は、一学期に比べて悪かった。得意だった数学が、応用問題がどうしても出来ずに、苦手になってしまったことと、英語が好きになれなかったことなどもあった。
 成績が落ちるとクラブを辞めなければならないということを、私は忘れていたが、母親と兄はしっかりとおぼえていた。私は兄の部屋に呼び出されて、兄と母から、2時間以上にわたって、クラブを辞めるように説教をされた。説教と言うよりは脅迫に近かった。「卓球を辞めないとあなたも絶対身体を壊すよ。」「俺の二の舞にはなって欲しくない。」私は、心の中では、自分は兄とは比べものにならないほど怠け者だから、身体壊すほど無理は出来ないと思っていたが、首を縦に振らないといつまでも説教が続きそうだったので、渋々辞めることを約束した。
 ちょうど、顧問の先生に対する不満が、クラブのメンバーの間に広がっていたので、それに便乗して辞めることになった。顧問の先生は、一生懸命引き留めてくれたが、約束した手前、辞めるしかなかった。
 こうして、教会学校を休む理由がなくなり、再び教会に毎週出席する生活に逆戻りした。自分の中では、辞めたことを後悔する気持ちが強かった。それは、自分の体の変化に現れた。
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あしあと39
  卓球部を辞めたのと、成長期とが重なって、中学2年生の一年間で、30キロ近く太ってしまった。身長は15センチ一年間で伸びた。もともと太り気味ではあったが、卓球部で厳しい練習をしていたので、そんなに目立って体重は増えなかったが、運動をしなくなっても、食欲は同じようにあったので、激太りしてしまったのである。食べる自分が悪いのだが、あのまま卓球を続けていれば、こんなに太ることはなかったと、後悔しても後の祭りであった。これだけ体重が増えると一番困ったのが、持久走である。こんな重たい身体で長距離を走ることは拷問に等しかった。身体が大きくなりすぎて、着る服を選ぶことも出来なくなった。その店に入って、「一番大きいやつを持ってきて下さい」と言って、それで身体に入れば買い、入らなければ諦めて帰る。そんな服の買い方しかできなくなったのである。
 しかし、自由な時間が出来たのは確かである。次は、釣りに熱中していった。卓球部が忙しくて、なかなか行くことが出来なかったから、自由な時間が出来た途端に、釣りに没頭するようになった。新しい釣り友達も出来て、山に囲まれて育った私にとって、夢のような時間が過ぎていったのである。
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あしあと40
  中学2年の間は、釣りに明け暮れた。教会学校に出ることにはなったが、時々釣りの約束などを入れてさぼったりもしていた。遊ぶのは好きだが、礼拝の時間がどうしても我慢できなかった。教会学校の礼拝堂に一番初めに入って、カーテンを閉め、外の玄関から見えないように、部屋の扉を閉めることが、私が教会学校に行く時に必ずすることであった。友達が通るわけではないのだが、何となく外から、教会学校に出席しているのを見られるのが嫌だったからである。
 卓球部を辞めたが、だからといって学校の成績は上がらなかった。何のために辞めたのかわからなかったが、勉強が嫌いなので仕方がなかった。中間・期末テストなど、範囲の決まっているテストはそんなには悪くなかったが、実力テストという、範囲が定められていないテストには全くだめであった。要するに教えられてもすぐに忘れていたので、実力がついていなかったのだろう。
 勉強塾にも通っていたが、友達と会うために行っているようなもので、成績は一向に上がらなかった。そのうち、父が教会で勉強会をし始めたので、私もそれに参加するようになった。そこでは、学校の授業のおさらいをするので、宿題をするために参加するようになった。すると、不思議と成績が上がりだしたのである。
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あしあと41
  奈良の五條教会にいる時は、牧師の給料では家族を養えなかったので、生活費を得るために勉強塾を行っていた。しかし、淡路島の教会では、生活していけるだけの給料があったので、月謝を取る形ではなく、主に教会学校に通っている生徒を対象に、父が勉強を教え始めた。
 最初は、教会学校の子どもだけだったが、そのうち、その友達や、進学塾に対応できない子どもたちが集まってきた。
 教会の勉強会では、追い立てられるようなことはなく、それぞれが自分のペースで勉強をして、わからないところを父や年上の生徒が教える形であった。なかには、来るだけ来て、遊んで帰る奴もいたが、父は他人に迷惑を掛けない限り、厳しく叱ることもなかった。父はよく、「勉強もなんでも、本人がやる気にならなければ上達しないし、身にもつかない。やらされて仕方なくするのではなく、自分からやる気になるまで俺は待つ。」と言っていた。そのかわり、やる気になった生徒にはとことん時間を割いて、付き合っていた。
 私は人に強制されることも、人を強制することも嫌いである。何よりも、天の父は、私たちの思いが、御自分に向くことをじっと忍耐して待っておられる。天の父の呼びかけに対して、喜んで答えていくような教会の歩みを、していけたらと願っている。
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あしあと42
  高校入試が近づいてきて、面接で何処の高校を目指すのかを決めないといけない時期がやってきた。田舎なので、選べる高校は3つに限られていた。一つは普通科の高校、一つは、商業、機械、電気の三つの科が一緒になった実業高校、もう一つは私立の高校であった。私立の高校は、言葉が悪いがすべり止めの学校で、定員300名に対して、2000人を超える受験生があって、そのほとんどが合格する学校であった。
 私は、一番レベルの高い公立の普通科を受験するには、内申点は十分に足りていたが、実力テストの点数が足りていなかった。他の2校に関しては、十分に安全圏の成績であった。
 私はさんざん悩んだあげく、姉が既に私立の高校に通っていたので、二人も私立の学校に通うと家計が大変だと思い、安全な実業高校の商業科を受験することを決めた。
 そして、私立の高校の入学試験が、公立よりも一月ほど早くやってきた。私は何の対策もせずに、有り体に言えば、なめてかかって試験に臨んだ。絶対に落ちることはないと思っていたからである。
 しかし、そんな甘い考えを持っていたのは私だけのようであった。受験生はみんな、緊張した面持ちで、ピリピリした空気が流れていた。そのために、私は思いがけない状態に陥ってしまった。
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あしあと43
  試験会場の思わぬ空気に飲み込まれ、自分でも予期できない緊張状態に陥ってしまった。なめてかかっていたので、事前に緊張していなかった分、その反動は大きかった。多少緊張しても、落ちる試験ではないので問題はなかったのであるが、いきなり目が回り始めて、試験問題を読むことが出来ない状態になってしまった。こんなことにはかつてなったことがなかったので、どうして良いのかわからなかった。どんなに簡単な試験でも、白紙で出せば落ちてしまう。とっさに目を閉じて、「神様助けて下さい。」と必死になって祈った。生まれてから、あれほど必死になって祈ったのは初めてであった。
 すると、目まいは収まり、なんとか一時間目の試験を終えることは出来た。しかし、緊張はまだ解けずに、トイレに行っても用を足すことが出来なかった。すると、青白い顔をしていたのか、試験官の先生が、声をかけてくれて、私を外に連れ出して、草むらで横にさせてくれて、緊張を解きほぐしてくれ、試験が終わった後の面接も、配慮して下さって、一番始めに面接を受けることが出来るようにしてくれた。
 この受験の出来事は、油断大敵を実体験できたことと、神様の不思議な助けを感じることが出来た。試験は無事に合格し、本命の学校に向けて、準備を始めた。
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あしあと44
  すべり止めの入学試験で、これ以上にないほど緊張したので、本命の試験は落ち着いて臨むことが出来た。翌日の新聞に、入学試験の解答が掲載されるのである。自己採点で500点満点中350点ほどであった。これならば、もう一つ高いランクの高校も充分合格したのにと思ったが、後の祭りであった。
 あくまで自己採点であるが、合格ラインよりもかなり上の得点をしていたので、
合格発表は楽しみであった。それでも競争率が1.4倍で、およそ80名ほど不合格者が出るので、期待と不安が入り交じっていた。
 合格発表の瞬間、模造紙が貼られようとしている時に、自分の名前が偶然見えたので、何百人といる受験生の中で、私が第一声を上げた。「やったー」合格であった。どれだけ大丈夫と思っても、結果を見るまでは不安であった。不安を感じた分、喜びも大きかった。
 私は、商業科を選んで入学した。商業科でも4つのコースに分かれていて、私は会計コースを選択した。なぜならば、会計の資格を取って、経済学部や、商学部のある大学の推薦入試を受ける為に、このコースを選んだのである。このクラスは、他のクラスよりも、会計科目に集中するので、3年間クラス替えはなかった。高校入学の時には、まだ、牧師になるつもりは全くなかったのである。
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あしあと45
 高校入学を決めた春休み、以前特別伝道集会の講師で来られた先生が、奈良県で行われるスプリングキャンプに来ないかと誘ってくれていたので、参加することになった。
 教会学校の中では、一番の年長者であったので、父親が、全員の荷物を積んで車で会場に向かい、私は、子ども達を連れて、船と地下鉄と近鉄を乗り継いで、会場である教会に引率する役目を与えられた。
 淡路島には電車がない。私の生まれ故郷には電車はあったが、田舎だったので、一時間に一本の本数で、乗り換えはよほど遠いところに行く時にしかしたことがなかった。それでも、淡路島の子ども達は、ほとんど電車に乗った経験すらない子たちばかりだったので、私一人でしっかりと引率しなければならなかった。
 子ども達は、興奮しながら私についてきた。私は、緊張しながらも、なんとか迷うことなく引率をすることが出来た。
 そこには奈良県の各教会から子ども達が沢山集まっていて、大人の人を合わせたら100名以上の大きなキャンプであった。
 私たちは、遠く淡路島から来た子ども達であったので、注目の的であった。私は特に身体が大きかったので、先生たちがよく声をかけてくれた。このキャンプで私はいろんな事で驚きの発見をした。
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あしあと46
 奈良県の大和キリスト教会で行われた、奈良分区主催のスプリングキャンプは、私にとっていろんな驚きの出来事があった。
 はじめに驚いたのは、教会の大きさである。駅から近い便利な場所にあるにもかかわらずに、教会の敷地内に立派な森があり、礼拝堂の他に教育館や幼稚園まであった。この教会は、日本にプロテスタントの宣教が開始されて、100周年を記念して建てられたもので、日本基督教団大阪教区と、近畿日本鉄道とが協力して設立された、全国でも珍しい教会である。近鉄の社長であった佐伯氏が奈良の郊外に新しい町を作る為に、ヨーロッパを視察して、どの町にも中心に教会があるところに目を付けて、教会を中心にした町作りを行った。近鉄から1700坪の土地を無償で提供され、大阪教区の信徒がその近くに移り住んで、教会の宣教が始められたのである。
 次に驚いたのは、教会の子ども達が、当たり前のように大きな声で賛美歌を歌い、お祈りをしたり、礼拝の司会をしたりしていることであった。
 私は、当時人前で自由祈祷を一度もしたことがなかった。その私にとって、キャンプに参加している大和キリスト教会の同世代の子ども達は、驚きであった。
 キャンプが始まって、私は大勢の前で恥をかいた。(次週に続く)
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あしあと47
 大和キリスト教会の中高生は、人前でお祈りすることが出来、讃美歌も大きな声で歌うことに驚いたと先週書いた。
 キャンプのプログラムが始まり、順調に進んでいったが、そこでいきなりわたしに、「食前のお祈りを吉澤君お願いします。」と言ってきた。大和キリスト教会の教会学校の先生の常識から言えば、もうすぐ高校生になる教会学校の生徒は、食前のお祈りくらい、いきなり頼んでも全く問題ないと考えていたのだろう。確かに今までの食事でも、他の中高生がいきなり指名されても、皆が問題なく食前の感謝の祈りをしていた。しかし、まさか自分に当たるとは考えていなかったのである。
 これが、わたしにとって生まれて初めての人前でもお祈りである。大人を入れれば100名近い人数の前で、やったことのないお祈りをしろと言われても、できるはすがなかった。思いっきりしどろもどろの祈りで、本人ですら何を言っているのかわからなかった。お祈りが終わると、全員の大爆笑と、前に座っていた同い年の女の子から、「ひさし、お前はバカか。」と怒られる始末であった。
 キャンプは楽しく進んでいき、キャンプが終わる頃には、最初は歌っていなかった洲本教会の子ども達も大きな声で歌えるようになっていた。信仰を持つ同世代の人達との出会いは、大きな影響を与えてくれたのである。
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あしあと48
  大和キリスト教会で行われたスプリングキャンプは、私にとって本当に楽しく、また大きな意味を持つものであった。
 私は、神学生になって、大学に行くまで、キリスト教に関わる学校に通った経験ががなかった。保育園から、高校まで、公立の学校に通った。だから、教会の中以外で、キリスト教のことを知っている友達はいなかった。教会の中でも、親が教会員だから仕方なくとか、勉強会に集まってきて、その流れで遊びに来ているとか、積極的に聖書に学ぼうとしている子どもは、私も含めてほとんどいなかった。
 そんな私にとって、大和キリスト教会の同世代の子ども達が、聖書のことをよく学び、賛美歌を楽しく歌い、お祈りも出来る、その姿に衝撃を受け、大きく影響を受けたのである。「信仰を持つ同世代の人達との出会い」は、私が信仰の道を歩もうとするきっかけの一つとなったのである。
 キャンプが終わり、一緒に遊園地に遊びに行き、私たちと、大和キリスト教会の子ども達とは、本当に仲が良くなった。
文通をはじめ、連絡を取り合い、キャンプが終わって間もない、5月のゴールデンウィークに、みんなで遊ぶ約束がされた。信仰を持つ友達の輪が、ここで広がっていったのである。
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あしあと49
 楽しかったスプリングキャンプを終えて、その後のゴールデンウィークにも奈良の遊園地で合流して、教会で泊まり、いろんな事を語り合った。このキャンプでのいろんな出会いが、後に神学生となって、大和キリスト教会で奉仕することのきっかけへとなっていった。
 熱しやすく冷めやすいのが私の性格である。しばらくすると、また元の自分に戻って、普通の高校生活を歩み始めた。生意気に「高校生になったから大人の礼拝に出る。」と言い出して、礼拝堂の後ろにある畳の部屋で、マンガを読みながら礼拝に出ていた。父が「態度が悪い」と言うのであるが、そう言われると礼拝に出ずに、牧師館でテレビを見ていた。まだ根本的には何も変わっていなかったのである。
 高校では、商業科に通い、会計科目を中心に学ぶクラスに入ったが、これが楽しかった。難しいのであるが、計算が合えば、パズルが組み合わさったような快感があった。数学は大の苦手であったが、簿記は自分にとても合っていたのである。
自分から補修を申し出て、わからないところを徹底的に先生に聞いた。まだ、若い独身の女の先生だったので、早く帰りたそうにしていたが、簿記は指導者がいないと全く前に進まないので、よく遅くまで付き合ってもらっていた。
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あしあと50
  高校生になっても、遊びといえば釣りであった。冬にはカレイ、夏には太刀魚を狙って、釣り友達と海に出かけた。この釣り友達とはいまでも付き合いがあり、
先日の冬の休暇の時に、泊まっていたホテルまで来てくれて、楽しく話が出来た。
 彼とは遊びだけではなく、勉強も一緒によくした。お互いの得意科目と不得意科目が違っていて、彼の得意な科目は私が不得意で、私の得意な科目は彼が不得意であった。私は、テスト前になると彼の家に上がり込んで、賭け無しの麻雀でひとしきり遊んだ後、テスト勉強をするのである。勉強の時はお互い真剣であった。なぜなら、学内順位が上の方が、学食で昼食をおごることにしていたからである。だからといって相手の足を引っ張るのではなく、お互いのわからないところを教え合っていたので、成績は上がっていった。私の方が教えるのが上手だったせいか、彼は苦手科目を克服して、30点そこそこだったものを、80点近く取るようになり、私は、苦手科目をいつまでも克服できなかったので、学内順位は負けっ放しであった。
 高校の勉強は総じて楽しかった。簿記にのめり込むうちに、将来は税理士か、公認会計士を目指して、頑張ろうと道が見えてきた。教会から離れる計画は、間違いなく進んでいたのである。
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あしあと51
  私は基本的には勉強嫌いである。しかし、自分の興味のあることについてはのめりこんだように知識を得ようとしていた。小学生の時は、宇宙について興味があったので、図書館に行って、難しい天文関係の本を読みあさり、ほとんど理解できなかったが、わかったつもりになって夢をふくらませていた。中学生になって、数学に躓き、早々と天文学者の夢を捨て、普通の家庭を築きたいと、極めて現実的な夢に切り替えていた。
 ここでの普通の家庭とは、教会から離れて、世間の人と全く同じ生活をすることを意味している。週日に働いて、週末は草野球をしたり、釣りをしたりすることが私の高校時代の夢であった。
 先週、簿記が好きであった事を書いた。
受験勉強は嫌いだったので、簿記の良い資格を取って、推薦で大学入試をすることが、私の高校時代の人生設計だった。
 しかし、この人生設計はある出来事によって、根底から覆されることになった。
高校2年生の夏前に、母親が交通事故にあった。単車に乗っていたところに、横から軽自動車に追突されたのである。
 この母親の交通事故がなかったら、私は間違いなく、自分の夢に向かって邁進していたはずである。この出来事を通して、私は神様に捕まってしまったのである。
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あしあと52
  母親の交通事故が、牧師としての歩みを決定づけた。何故だろうか。少なくとも、事故が起こってからしばらくは、牧師になろうとする思いは微塵もなかった。逆に、教会で祈られている祈りの空しさに激しい怒りを覚えていた。なぜなら母親は、寝たきりの信徒の家に、教会の行事で配られたお菓子を持っていく最中に、事故にあったからである。
 その日、教会では地域の子どもを集めての大きな行事を行っていた。たくさんのお菓子や軽食がふるまわれたので、大勢の人が集まって、
盛況であった。予想を上回る人出だったので、準備をする教会はてんてこ舞いで、牧師夫人であった母は、事前の準備から大忙しであった。
 その当時から、兄は体調を崩したままで、姉も調子が悪かった。母は、兄の世話と、牧師夫人としての働きと、家事全般をこなし、多忙であった。体は弱い方なので、いつも「疲れた」と言葉をこぼしていた。
 事故の原因はハッキリとしていた。母親としてのつとめと、牧師夫人としてのつとめから来る過労のために、バイクの運転中に判断ミスをしてしまったのである。
 事故の状況は、左折可の青矢印の信号で、誤って直進してしまい、左奥の車線から来た車に、
左側面からはねられたのである。ヘルメットをしっかりとしていたが、フロントガラスに頭を打ち付けた際に、ワイパーが頭とヘルメットの間に入り込んで、強く頭を打つようになってしまった。左足も複雑骨折の重傷で、体中にすり傷やあざができていた。軽いくも膜下出血と診断されたが、意識不明の状態が続き、意識がハッキリしないまま足の手術が行われた。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あしあと53
  母の、意識がハッキリしない状態での足の手術には危険が伴った。なぜなら、そのような状態で全身麻酔をかけると、二度と意識が戻らない危険が生じるからである。しかし、これ以上足の骨折を放置すると、折れた骨の周りに肉が巻き付いてしまい、足の手術が出来なくなる状態になってしまう。麻酔科の専門医が手術に付き添い、細心の注意を払って、足の手術は行われた。手術は成功したが、手術のタイミングが遅かった為に、先生の話によれば、足は90度以上曲がらなくなるのではないかと言われた。それは退院しても、日常生活に支障を来す可能性が大きいと言うことであった。
 母の意識は、手術後もハッキリしなかった。
毎日、脳の中をきれいにする点滴を打ち続けて、CTスキャン上では全く問題ないところまで治ったが、意味のある言葉や、対応が出来ない状態が長く続いた。脳外科の先生が、「検査上は治っているのに、意識がはっきりしないのは原因がわからないので、日にち薬しかない。付き添いの家族の人が積極的に声をかけて下さい。」と言われた。体の弱い兄と姉には付き添いは頼めないので、昼の付き添いは私が、夜の付き添いは父が担当した。完全看護の病院ではなかった為に、家族が
24時間付きそう必要があったのである。
 母は、教会の奉仕の為に過労になり、寝たきりの信徒の家にお菓子を運んでいる最中に、交通事故にあった。原因はすべて教会にあった。神が本当にいるなら、こんな事故は起きないはずだ。私の中で小さいながらも存在していた信仰は、この事故によって完全に死んだのである。
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あしあと54
  私は幼い頃から、教会のいろんな側面を見てきた。教会の素晴らしい側面も沢山見てきたが、それと同じくらい、教会の悪い側面も見てきた。だから、自分の中では、信仰というものは肯定的に見てきたが、教会という集まりに対しては、あまり良い思いをしてこなかった。神様はイエス様は好きであったが、教会という組織は好きではなかったのである。
 しかし、母の出来事は、良い感情を抱いていた、神やイエス様に対する思いまで、打ち砕くものであった。「神様の守りがありますように。」教会の中で常にささげられている祈りである。母は、教会の行事で疲れ果て、事故にあった。これが、教会と関係のない場面で起こった事故であれば、自分の中で納得を付けることが出来たと思う。しかし、疲労の原因から、外出した目的まで、すべて教会の為、神様の為に行われたものであった。究極的な責任は、神にあるはずだ。
 私は思った。「神などいない」と。本当に神がいるならば、教会でささげられている「神様の守りがありますように」の祈りは、神がすべて無視していることになる。そんな神ならば、いない方が良い。自分が今まで教会に費やしてきた時間が、すべて虚しいものとなった。母の事故による悲しみと、自分の中にあったかけらのような信仰が死んだことによって、闇夜を歩くような思いで、母の看病をする毎日が続いた。
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あしあと55
 母の事故以来、しばらく教会には出なくなった。祈りの言葉や讃美歌を聴きたくなかったからである。それらすべてが虚しく聞こえて、その虚しさが苦痛だった。
 昼間の12時間、母を看病する毎日が続いた。母は、うめき声のような反応はするが、
会話はとても成立するような状態ではなかった。先生が検診に来てくれるが、いつも首を捻って、「どうして良くならないんだろうか」
ともらしていた。そして、帰り際に、「出来るだけ声をかけて下さい。」と言葉を残していかれた。
 母が起きている時は、声をかけようとするのであるが、会話の成立しない状態は、わたしにとっても大きなストレスであった。母親の言っていることがわからない。自分の言葉が伝わっているのかどうかもわからない。そのうち、どんな言葉をかければ、よりよく反応するのかを考えるようになっていった。
 クリスチャン家庭であれば、たいていの親は、子どもが洗礼を受けて、教会につながって欲しいという願いを持っている。わたしの両親も例外ではなかった。ただ、父の方針で、絶対に信仰が強要されることはなかった。「神様がお前を導いてくれるから、俺は無理に押しつけたりはしない。」信仰の話をする時に、父はわたしにそう言っていた。
 繰り返し母親に声をかけていくうちに、「そうだ、洗礼を受ける、牧師になると言ったらより良い反応があるのではないか」と思いついた。そんな気持ちはさらさらないのに、嘘でも良いから、母親に早く元気になってもらいたかったからである。
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あしあと56
 母の意識を取り戻す為に、看病の間出来るだけ声をかけるようにと、主治医からの指示があった。私は声をかけていたが、返ってくる答えは「あー、うー」という言葉にならない言葉ばかりであった。
 これから一体どうなってしまうのだろう。大きな不安が頭をよぎった。このままいつまでも母の状態が良くならなければ、身体を壊している兄はどうなるのか。いじめを受けて以来調子の悪い姉はどうなるのか。忙しい牧会をしながら、夜通し毎日母の看病をしている父はどうなるのか。
 父の身体がどれだけ丈夫でも、いつまでも続くものではない。一度夜の看病をしたことがあったが、常に注意していないと、点滴の針を母親が抜いてしまうので、ほとんど眠れなかった。それでもうたた寝をしてしまったときに、目の前が血まみれになっているのに気付いて、あわててナースコールをして、事なきを得たことがあった。父は、ほとんど毎日、睡眠を取ることが出来ない状態が続いていたのである。 
 お先真っ暗とはこのことであった。ある時、父と二人で主治医の先生からいろんな説明を受けた。その後に父と話しながら、父が治療費が想像以上にかかることを私に告げた。経済的にも行き詰まってしまうかもしれない。絶望であった。
 私は、母と二人きりの病室で、「洗礼を受けて牧師になる」という嘘の言葉を言うことにした。嘘でも何でも良いから、母親に意識を取り戻して欲しかったからである。
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あしあと57
 嘘の言葉でも良いから、意識を早く取り戻すために「洗礼を受けて、牧師になる」と母親に言った。すると、その時、母は、「ありがとう、ありがとう。」とゆっくりと二度繰り返して、私に返事をしてくれたのである。
 私は驚いた。今まで全く意味のある言葉を言えなかった母が、事故以来初めて、意味のある言葉を語った。それも、私に対して、「ありがとう」と言ってくれた。私は、その時に、神様の不思議な働きを感じた。自分の中で完全に死んだと思っていた信仰が、その時よみがえったのである。
 私は、母と二人きりの病室で、泣いた。それは、母が言葉を語ったことに対する喜びもあったが、それ以上に、死んだと思っていた神に対する信仰が、疑い得ない形でよみがえった喜びであった。
 私はその時、神様に捕らえられてしまったことを実感した。嘘で語った言葉を、実行に移さなければならない。神様から逃げること、教会から逃げることを、ある意味人生の大きな目標においていた私が、180度転換して、この神を宣べ伝える道を歩むことを決意したのである。
 母は、それから2ヶ月ほどして、普通の会話が出来るようになっていった。「ありがとう」を言った後しばらくは、言葉を話すことはなかったのである。
 今振りかえって、この時のことを思うと「逃げ切れなかった」というのが、私の正直な気持ちである。神様に首根っこを捕まれて、今の道へ引きずり込まれた。そうでもしないと、不信仰な私を導くことは出来なかったのである。
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あしあと58
  牧師になるという決意をしてから、不思議と暗い気持ちがなくなっていた。医療費がかさむ心配も母が小さな保険をいくつかかけていたことを父が知らず、それらの保険金で何とか乗り切れることがわかったので、安心できた。しかし、洗礼を受け、牧師になるということを、すぐに父に伝えることは出来なかった。
 父に牧師になるということと、洗礼を受けると言うことを伝えるきっかけになったのは、学校の進路相談であった。高校2年の夏には、第一志望、第二志望を学校に提出しなければならない。散々悩んだあげく、私は父が牧師になる為に通った、大阪キリスト教短期大学神学科を第一志望として、父親に渡した。すると、父は嬉しそうな顔をして、「神学校行くんやったら、洗礼うけなあかんな」と答えた。私はその時に母親の病室であったことを父に話し、洗礼に向けての準備を始めることになった。
 学校の先生は、私の進路志望を見て驚いていた。まず、神学科という場所が、何を勉強するところなのかを知らない。次に、先生は、私が簿記を一生懸命勉強していたことを知っているので、資格を取った上での、推薦入試を受けるものだと思っていた。進路アンケートの用紙を見て、「神学科って何を勉強するところだ。」と私に尋ねてきた。私は、「牧師さんになる勉強をするところです。」と答えた。すると、「そうか、結局跡を継ぐのか。」と言われたが、私は「親と同じ職業を選んだのです。」と答えた。
 こうして、私の牧師への道が始まった。
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あしあと59
  牧師になると決めたものの、今まで全くその気がなかった為に、全く何も出来ない状態であった。以前に、奈良の教会で行われたキャンプで、食前の祈りが出来なくて恥をかいたことを記したが、その時から全く成長はしていなかった。
 先ず、お祈りが出来るようになる為に、練習をした。お祈りの始めに、「天の父なる神様」と言い、最後に、「イエス様のお名前を通して、み前にお献げ致します。アーメン。」
と言う、基本的なお祈りの形を学んだ。教会の祈祷会が、練習の場所となったが、最初は散々の体たらくだった。自分で何を言っているのかわからない。お祈りの基本形を忘れてしまう。祈祷会の度に、恥ずかしい思いをたくさんしたが、教会の人達は温かく見守ってくれた。
 次に、聖書を読まなければならない。今まで、聖書をまともに読もうとしたことはなかった。父親から、「わからなくても良いから、一度頑張って通読してみろ。」と言われて、創世記のはじめから読み始めた。物語になっているところは、比較的読みやすいが、そのほかの所はさっぱりわからなかった。斜め読みと言うよりは、とばし読みに近かったが、それでも通読するのに、1年以上かかった。
 いろんな訓練が始まったが、はっきりいって後悔の連続であった。「やっぱり自分には無理だ、向いていない。」何度も思ったが、いまさら後戻りも出来ない。神様に捕まってしまったという思いが、今更ながらに強く感じられた。
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あしあと60
  牧師という仕事は、生来のわたしの性分に合わないものであった。人前で話すのが大の苦手、本を読むのが大の苦手のわたしにとって、このことを克服するのは不可能のように思われた。
 読書嫌いのマンガ好きは、根本の所で今も変わっていない。18になるまで読書らしい読書をしていないので、みんなが当然読んでいる名作や、物語などをほとんど知らずに育ってきていた。
 父からいろんな本を渡されるのであるが、一向に読み進めることが出来ない。見るに見かねた兄が、一冊の本を紹介してくれた。それは「ショートショートSF」の分野で第一人者であった、星新一さんの本であった。
 内容も面白いのであるが、何より気に入ったのが、ストーリーの短さであった。長いものでも10頁前後、短いものなら2−3ページで物語が完結する。読書が苦手なわたしでも、読み疲れる前に結論に至るので、うってつけの本であった。
 次に始めたのは、マンガの原作の本を読むことである。坂本龍馬の生涯を書いた『おーい竜馬』というマンガを読んでいたので、その原作である、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を読み始めた。全八巻の大著だったが、あまりのおもしろさに何度も繰り返して読んだ。 これで、読書に対する基本的な苦手意識を克服することは出来たが、神学書はとてもとても難しかった。わからなくても良いから、読む訓練を行うようにした。
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あしあと61
  高校2年の秋に、牧師になることを決意して、それに向けての勉強が始まった。しかし、簿記の試験で、唯一失敗した検定があった。日商2級の試験であった。会計コースのクラスは、この日商2級を取って、大学の推薦入試を有利に進めるというのが、大学入試攻略の基本戦術であった。
 進路を牧師に変更したので、私にとって必要のない資格になったのであるが、不合格の時、ものすごく悔しい思いをした(あと一問で合格)ので、リベンジのためにもう一度受験をした。
 前回不合格であった試験の時は、試験問題が非常に難しく、全国での合格者が、例年の三分の一しかいなかったので、試験問題への抗議が全国から上がっていたらしい。そのためか、リベンジで受けた試験問題は、比較的簡単な問題であった。70点以上で合格となるが、87点で合格することが出来た。
 受験勉強をすると言う目標から、牧師になることへ、目標を変更した為に、今までしていた受験勉強を全くしなくなった。牧師になろうとする人は、滅多にいないはずだから、入試は形だけで、誰でも合格できるはずだ。こう考え、不合格だった日商2級の資格も獲得した私は、必死に受験勉強をしている友人達を尻目に、のんびりとした学校生活を送ることになったのである。
 なめてかかったら痛い目に会う。高校入試の時に味わった経験は、生かされていなかった。さぼった分だけ、学力は低下して、神学校の入試の時に冷や汗をかくハメになった。
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あしあと62
  私が最初に通った神学校は、大阪キリスト教短期大学神学科(以下キリ短)であった。父が通った学校であり、牧師になるならば当然そこに通うものだと考えていた。
 私が神学校受験をなめてかかってしまったのは、キリ短の神学科が、大学の偏差値表に載せられていなかった為であり、父からも、大学受験のような落とす試験ではないと言うことを聞かされていたからである。
 英語の勉強を殆どせずに、受験の日を迎えた。先ず誤算だったのは、受験者が想像していたよりはるかに多かったことである。募集定員の1.5倍の受験者がいた。次に、受験者の話を聞いていると、みんな高校は、レベルの高い進学校に通っていたらしく、私のように商業科出身の者などはいなかった。試験中も、他の受験者はものすごい勢いで問題をこなし、悪戦苦闘しているのは、私一人のように感じるほどであった。
 試験が終わり、面接の時間になって、試験官の先生から言われたことは、「英語の勉強をかなり頑張って下さい。」と言われてしまった。試験全体では不合格にならなかったが、他の受験者に比べて英語の成績が極端に悪かったようである。
 なんとか合格は出来たが、冷や汗ものであった。これからは、しっかりとまじめに勉強しないと、周りの人達においていかれてしまう。そう感じながら、入学するその日までの時を過ごした。
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あしあと63
  私の神学校生活は、週末に淡路島の教会で奉仕、週日に学校で勉強という形になった。教会から月5万円を頂いて、その中で生活をすることになったが、厳しかった。
 先ず、大阪から淡路島の洲本まで、往復5千円で、交通費だけで2万円か5週ある月だと2万5千円かかる。寮に入ったので、寮費は月6千円。献金に月1万円。手元に残るお金は、1万円前後であった。そこから食費その他の生活費を捻出しなければならなかった。半年近く頑張ったが、どうしても貯金から切り崩す形になるので、父に相談し、月に1万円だけ、家から援助してもらって生計を立てるようにした。
 アルバイトは最初の内はしなかった。理由は二つあった。一つめの理由は、ある一定以上の成績を収めると、申請すれば、後期の授業料が免除になる制度があった為で、アルバイトを頑張るよりは学校の成績を取る方が結果として経済的に助かる為であった。この制度を聞いた時、私は父に「奨学金取れんかったら、自分で後期の学費を払う。」と宣言して、背水の陣をひいて、勉強に頑張った。二つめの理由は、入試の時に感じた、周りとの学力の格差であった。殆どの友達は、もっとレベルの高い学校を目指して、受験勉強をまじめにしてきていたので、基礎学力の差がかなりあるように感じた。だから、まじめに勉強しないと、落ちこぼれてしまう危機感があったからである。
 こうして、神学生としての生活が始まった。淡路島と大阪の往復生活は、かなり忙しかった。
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あしあと64
  平日5日間が大阪で、週末2日が淡路島という生活が始まった。金曜日の夜に祈祷会があったので、4時限目の講義が終わるとすぐに港に走らないと間に合わず、月曜日の一時間目に講義がある時には、朝6時発の始発の高速艇に乗って何とか講義に間に合わせていた。父の指導によって、教会学校、祈祷会、礼拝をそれぞれ月に一度担当するようになった。
 大学での勉強、教会のお話しの準備、高校3年生から始めた空手の稽古などで、非常に忙しかったのを思い出す。月曜日は、週末の空手の稽古のため生傷が絶えず、船酔いが抜けきっていなかったので、「お前いつも月曜日はボロボロやな」と言われていた。
 大阪の天保山から、淡路島の洲本まで、一時間半の船旅だが、揺れることが多かった。天候不良の時は、船の前部座席にロープが張られて「危険の為座らないで下さい」となる。
船の揺れが激しいので、椅子から飛び出して怪我をする場合があったからである。体調の悪い時などは、船の姿を見ただけで船酔いになっていた。
 しばらくして、船酔いには、眠ってしまうことが一番だと言うことがわかり、眠る為に、わざと難しい神学書を図書館で借りてきて、訳もわからずに読むのである。そうすると、目も頭もすぐに疲れてしまって、ぐっすりと眠れるようになった。わからないなりにも、難しい本を読むことを通して、勉強になったりもした。船酔い対策の為の読書は、思わぬ形で神学の学びの前進となったのである。
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あしあと65
 牧師になる決心をしてからしばらくして、教会の勉強会に来ていた子どものお父さんが、空手の師範で、息子に空手を教える為に勉強会の子ども達をも交えて空手教室を開きたいという申し出でがあった。他の子ども達は二つ返事で入門したが、私は興味がなかったので最初の練習には参加しなかった。
 すると、次の稽古日の前の日に、「サンドバックを持つのに大きな人が必要だから来て欲しい。」と言われて、入門するつもりではなく、あくまでもお手伝いの為に、みんなに付いていった。しかし、練習が始まると、有無を言わさずに、稽古に付き合わされ、いつの間にか入門するハメになってしまった。
 最初はその気がなかったのだが、いざやってみると非常に面白く、のめり込むように空手の稽古に励んだ。
 空手の師匠(以下師匠)がすごい人であった。沖縄の有名な空手家が、秘伝書にある「こつがけ」という技を習得して、自身の弟子達に数十年にわたって伝授しようとしたが、誰一人その技を継承することは出来なかった。しかし、師匠はある演舞会でその技を見て、一切の指導を受けずに、創意工夫を重ねて、20年ほどの月日を費やして、「こつがけ」を会得してしまったのである。
 師匠は、この業績によって、大和流空手道(日本で長い歴史を持つ空手の流派)の宗家を嗣ぎ、40代にして、九段(通常は五段以上は名誉段で老齢の空手家以外には授与されない)にまで上り詰めた人であった。
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あしあと66
 空手との出会いは私にとって大きな出来事であった。土曜日の練習の他に、火曜日と金曜日に、師匠の家に行って、筋力トレーニングを行った。ベンチプレスという、仰向けになってベンチに寝転がり、大きなバーベルを上に上げるトレーニングを行い、腹筋を20回3セットほど行って、最後に整理体操をして終わりである。
 最初はバーベルの重さは50キロから始めた。身体が大きかったので、すぐに筋力も上がり始め、半年ほどで、100キロを上げられるようになった。
 大阪に住むようになってからも、バーベルセットを買って、トレーニングを欠かすことはなかった。足腰の強化の為に、鉄下駄を購入した。学内にある寮だったので、学内一周をしてから、蹴りの練習をした。鉄下駄の音が夜の学内に響き渡り、警備員の人に、「いい防犯になるわ」と笑いながら言われいた。
 空手は通常、「寸止め」といって、拳や蹴りがあたる寸前で止めるルールで行われる。しかし、「寸止めと実際に殴る蹴る技術は全く別物」という師匠の方針で、簡単な防具を付けて、実際に殴り、蹴り、投げ技、関節技ありのなんでもありの組み手を行っていた。 私は、力が強かったので、師匠以外の人と組み手をさせてもらえず、殴られてばかりいた。組み手の前は恐怖の為に身体の震えを押さえることが出来なかった。
 教会では、力仕事が多いので、空手の稽古はその面で非常に役に立ったのである。
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あしあと67
 私にとって、説教壇に立つことと、空手の組み手をすることは、非常に似ていた。どちらも恐ろしく、緊張をして、痛い目にあうからである。
 父の方針で、信仰的にも、神学の学びも全く出来ていない状態であったが、月に一度の主日説教を行っていた。
 聖書を読んでも理解できない。注解書を読めばもっと混乱する。何を話せばいいのかわからない。人前で話をすることすら、私にとってはものすごい苦痛なのに、聖書の解き明かしをその場所で行うと言うことは、大変な作業であった。会堂の中で一番信仰暦が浅い私が、神学生という理由だけで、説教壇に立っている。肉体的にも精神的にも大変な作業であった。
 説教が終わった後、何度か熱を出してうなされたことがあった。極度の緊張から解き放たれて、自律神経がおかしくなって、熱を出してしまったのであろう。
 しかし、説教の訓練と、空手の訓練は、今の私にとって大切な土台となっている。御言葉を解き明かすことは、どれだけ経験を重ねても恐ろしいことである。なぜなら、語る説教者自身が一番初めに御言葉によって砕かれ、自分の真実の姿を示されるからである。その恐れを恐れとして受け入れ、恐れおののき、痛みを感じながらも、体当たりで御言葉を取り次いでいく。私にとって、空手の稽古は、御言葉を取り次ぐ精神力を養う訓練だったのである。
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あしあと68
  神学校に通い始めて半年ほどした時に、私は教会に、月に一度、日曜日にお休みをもらって、いろんな教会の礼拝に出席したいと申し出た。神学を学び、いろんな教会の人達との出会いを通して、教会にはいろんな流派があると言うことを知ったからである。教会は6ヶ月間に期間を区切って、月に一度、他教会の礼拝に出席することを許してくれた。
 始めに、神学校の先輩が奉仕している教会に出席した。韓国人がたくさん在籍しておられる教会で、日本語での礼拝であったが、専用のイヤホンで、韓国語の同時通訳を行っていた。礼拝は熱気に包まれて、牧師先生の説教も声が大きく、体を動かしながら、激しく語っておられた。
 私自身、この教会の礼拝で驚いたことがあった、それは、礼拝の最後に牧師先生が、「体の痛いところや、悪いところに手を置いて下さい。」と言い始め、私は「何が始まるのだろう?」と訳もわからずに、空手で痛めていた足の部分に手を置いた。すると、いきなりものすごい声で「イエス・キリストの名によって命ずる。悪霊よ出て行け!!」と絶叫された。そしてその後に、「信仰深い人にはイエス様の癒しが実現します。」と言われた。
 私には信仰がなかったらしく、その礼拝で空手の怪我が癒されることはなかった。私は、大きなカルチャーショックを受けて、この教会を後にした。
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あしあと69
  いろんな教会の礼拝に出たいと言うことで、今度は、学校の近くにあるカトリック教会のミサに出席した。綺麗な礼拝堂で、讃美歌が聞こえてきて、礼拝が進んでいくのだが、全く知っている讃美歌がない。交読文のような形式で、司祭さんと信徒が唱和し合うことが多く、どこで何を言えばいいのか、タイミングもつかめなかったので、どうして良いのかわからなかった。
 説教は、7分ほどで非常に短かった。説教が終わり、聖餐式が始まった。カトリックでは、説教を聞く為に礼拝をすると言うよりは、聖餐を行う為に礼拝をするという意味合いが強いので、聖餐は礼拝毎に行うのが普通である。修道院では、毎日聖餐が行われている。 私は、正直にプロテスタントの信徒であることを司祭さんに告げ、すると、聖餐に預かるのではなく、頭に手を乗せて、祝福をしてくれた。
 カトリックは「正統」という意味を持ち、プロテスタントは「反抗者」という意味を持つ。カトリックから見れば、プロテスタントの信徒は、「放蕩息子」に当たり、正統であるカトリックに帰ってくるようにという考えがある。聖餐に預かることは出来なかったが、プロテスタントのルーツでもあるカトリックのミサに預かることが出来たのは、私にとって良い学びの時となった。それは、広くキリスト教の世界に触れることであり、自分の視野を広げる作業にもなった。
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あしあと70
 神学校に入学して、最初の試験がやってきた。この試験で平均C+(78点)の成績を取ると、後期の授業料を免除してくれる奨学金を受けることが出来る。私は父に、「奨学金取れなかったら、自分で学費を払う」と豪語してしまっていたので、背水の陣で勉強をした。
 一年生の初めなので、一般科目が多かった為、神学の難しい試験は余りなかったのが幸いして、平均B(85点)を取ることが出来た。
入試で受かった時よりも、奨学金を受けることが出来ることの方が嬉しかった。レポートを書くのに四苦八苦したが、入学間もないと言うこともあり、先生がかなり大目に見てくれた成績であった。赤ペンでの修正だらけなのだが、「努力の跡がうかがえる」と言うことだったので、奨学金に必要な成績をくれた。
 ところが、周りの学生達は、軒並み成績が悪かった。有名な進学校を卒業した人や、もっと高いレベルの学校を目指して、病気の為にやむなく受験できなかった人なども、私より成績が悪かった。彼らと話してみると、入学してから殆ど勉強らしい勉強をしていないという。彼らは、「自分はもっとレベルの高い学校に行くはずだったのに。」という思いが強く、学校の勉強を舐めていたらしい。入試の時には、私が一番成績が悪かったのに、半年で逆転することになった。
 学校での生活も、教会での訓練も順調に進んでいた。忙しくも充実した神学生生活を送ることが出来ていた。
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あしあと71
  神学校での生活も2年目を迎えた。新しく入学してきた学生を迎えて、神学校も活気にあふれていた。私が在学していた時期は、若い学生が多く、人数も多かった。神学生用にある男子寮も、定員6名だったが、無理矢理押し込んでこの年は7名での生活になった。
 寮での生活は、楽しかったが、トラブルもあった。生活習慣の違う人と、相部屋になったので、お互いが我慢を重ねていたのだが、とうとう喧嘩になってしまった。私は夜寝るのが早く、相手は寝るのが遅かった。疲れがたまっていたある日、午前0時を過ぎても、うるさくするので、私が文句を言うと、「うるさい」と逆に言い返されたので、私は切れてしまった。相手に襲いかかったが、相手は、下の階のカギのかかる先輩の部屋に逃げ込んだ。私は頭に血が上って、その扉を思いっきり殴った。私の拳は血だらけになり、その扉も壊れたが、開きはしなかった。あのとき、扉が開いていれば、暴力沙汰になっていたので、今思えば「開かなくて良かった」である。
私は頭を冷やす為に、1時間ほど外を歩いて、
寮に帰った。後日、学校の先生が仲裁に入り、無事に解決を見た。
 今思い返せば、神学校での最初の2年間は、私が最も青年らしい歩みをした2年間であった。喧嘩もしたし、恋もした。勉強に励みつつも、いろんな社会勉強をし始めた2年間であった。
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あしあと72
 新入学生が入り、若い男子学生だけで十数人を数えるようになった。よく昼休みに、プラスティックのバットとゴムのボールで、野球をするようになった。盛り上がって楽しんでいたのだが、幼児教育学科の古株の教授からクレームが付いた。神学科の事務所に怒鳴り込んできて、怪我をしたら誰が責任を取るのだと言ってきた。