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井筒部屋は第十六代横綱西ノ海嘉治郎の七代目井筒によって興された。(資料によっては六代目となっているものもあるが初代と二代目を同一人物とされたりした関係から混同されたと思われ、ここでは雑誌「相撲」に掲載された年寄名跡の代々によることとした) 彼は明治8年、21歳で京都相撲に入り小結まで進んだが、明治14年、27歳の時上京して高砂部屋に入った。翌15年春場所破格の幕内格付け出しで東京相撲の土俵を踏む。 八代目井筒は先代の弟子第二十五代目横綱西ノ海嘉治郎によって継がれた。鹿児島県熊毛郡種子島出身。四股名は種子ヶ島、星甲、錦洋を名乗っている。明治42年夏、関脇の時亡き師匠の四股名西ノ海を襲名し同時に年寄 井筒の二枚鑑札となった。大正5年2月横綱を免許された。性質温順、堂々とした土俵態度で知られ、「長者」の風格があったという。 横綱在位五場所、7年夏場所に引退し
井筒 として門弟育成に務め、横綱源氏山改め三代目 西ノ海を始め 大関豊国、 関脇錦洋、小結宮城山、二代目逆鉾、一ノ濱、泉洋、星甲などを輩出し、この時の井筒部屋は最も 栄えたと言ってもいいほどである。いかにもゆったりと構えた人の良さが弟子作りに幸いしたのかもしれないと言われている。 九代目井筒は多くの門弟の中から 前頭二枚目の星甲が選ばれた。彼は地元の素封家に育ち大正7年5月星甲で初土俵。順調に出世して東西合併の昭和2年1月入幕を果たした。 立合いがうまく、大きな体を活かしての突進力で大敵を破り、井筒部屋のホープと期待され、将来大関、横綱になり 四代目西ノ海を継ぐのではと噂されたほどであったが、足の怪我で三役を目前に挫折、師匠の急死によって早く引退をしてしまった。 十代目井筒は先代の愛弟子だった鶴ケ嶺道良が襲名した。鹿児島県熊毛郡中種子村出身、本名下家道義である。188aの上背に比べ、体重は101`しかなく、その四股名から痩せて鶴の様だと言われるほどのソップ型であったが、左四つからの吊り、櫓投げには威力があった。師匠に見込まれ、種子ヶ嶋から星甲に改名したのは先々代井筒と同じ出世名で、将来を大きく期待されたからであった。入幕二場所目で鶴ケ嶺と改め幕内連続20場所を勤め、横綱男女ノ川、大関前田山を倒す殊勲を挙げたこともあり、幕内中堅で活躍した。 十一代目井筒は鶴ケ嶺の君ヶ浜ではなく、陸奥 親方が継ぐことになったが、彼の親孝行は 語り種で、浦安で行商をしていた貧しい親 を助けて、相撲取りになってからも苦労した人である。 しかし、先代女将から後継を指名されたものの、 温厚な先代とは対照的に 男勝りの性格の 先代女将の昔ながらの『台所』を握った采配に、二年後「井筒」を返上し、元大雄の甲山 共々部屋を出て陸奥 部屋を創立した。その間君ヶ浜は辛い思いをして独立、始め殆どの力士が君ヶ浜についていくと言っていたが、簡単に先代女将側に寝返り、最後まで決心を変えなかった幕内錦洋、幕下佐賀ノ海、雷山、松風の四人が移籍を認められた。 かくして十三代目井筒は鶴ケ嶺の君ヶ浜親方が継ぐことになった。鹿児島県姶良郡加治木町出身。本名福薗昭男である。「双差しの名人」といわれ、技能賞受賞10回を数えた。 巻き替えの巧さは努力の結晶で、双差しになると肩を張り、左右に小刻みに揺さぶりながらの独特の寄り、将に名人芸であった。井筒三兄弟と言われた実子(十両鶴嶺山、関脇逆鉾、関脇寺尾)を立派な力士に育て上げ、大関霧島、小結陣岳、幕内薩洲洋、貴ノ嶺らを育て、名門井筒に春を甦らせ人気部屋に仕立て、役員待遇の地位にもつき、平成6年4月25日めでたく定年を迎えた。 現十四代目井筒は厳父の定年退職にあたり、春日山 からその跡を継いだ、先代の次男元関脇 逆鉾である。昭和53年1月 福薗で初土俵。57年5月再十両の時 逆鉾に改名し、平成4年9月限りで引退するまで、金星獲得は7個、殊勲賞5回、技能賞4回受賞し、関脇は通算10場所勤め、あと一歩で大関というところまで行ったが、怪我にも見舞われ残念ながら果たすことが出来なかったが名力士と呼ばれた。 |