バスター吉田の知ったかぶり雑筆2

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バスター吉田の知ったかぶり雑筆16うその学校

『うその学校』

池内紀・松山巖 絵・高岸昇 筑摩書房 1994


 このホームページを見ている人にうそをつく楽しさを知らない人はいないとは思うけれども、一度もうそをついたことがないなんて人には、この本の「開校の挨拶」(文章は池内紀)に引用されているワイルドがジッドに対して言った言葉を贈りたい。

 「まるで一度もウソをつかなかった人のようにまっすぐじゃないか。その唇が、古代の仮面のように美しくねじれるよう、ウソをつくことを教えよう」

 この本は『うその学校』というタイトルにもあるとおり、校長池内紀(1940〜)と教頭松山巖(1945〜)、美術教師高岸昇(1934〜)というトリオで編成された本である。池内紀はもちろんドイツ文学者、最近ではゲーテ『ファウスト』(集英社)や、カフカ小説集(白水社)といった翻訳でもおなじみだ。一方の松山巖はもともとは建築家だったのだが、都市評論や文芸評論で注目されるようになり、次第に小説の創作まで手がけるようになってしまった変り種。『乱歩と東京』(日本推理作家協会賞)、『群衆』(読売文学賞)、『闇のなかの石』(伊藤整文学賞)などの著書があり、最近は本人いわく雑文をまとめた『松山巖の仕事1・2』が刊行されたばかりである。
 この二人が稀代のウソ好きであることは著書や編著からも明らかだ。池内紀には『風刺の文学』などの著書があり、松山巖には早世した親友垣芝折多(生没年不詳)の文章をまとめた『偽書百選』という仕事もある。
 そんな二人が作ったこの本は帯の文章からして振るっている。

 「うそつきっ! それはいつでも、どこでも、いかなる話も 即座にでっちあげる 素晴らしい才能である。」


初掲は共同通信社が1992〜1993年の一年間全国の加盟紙に配信したもの。内容は愛・老・銭・芸・家・性・美・食・親・数・遊・死・化という十三項目について講義したもので、校長と教頭が各項目について、二つずつ文を書くという体裁を採っている。(順番は先に教頭が書いて次に校長が書くというパターン、しかもわずか2ページずつだ。)池内紀も松山巖も当代を代表する文章の書き手だけに、非常に面白いものになっている。
 二人の文章を比較してみると、池内紀は、一見淡々としているが何回か読み返してみると味のある文章ということに気づく文章、一方の松山巖はいかにも皮肉屋(これは筆者のこと)好みの文章という感じ。二人とも文中に作家や詩人の文章を引用するのだが、二人が取り上げた文章を取り上げてみると、

 幸田露伴『艶魔伝』
 E・カネッティ『群衆と権力』
 シャルル・フーリエ『四運動の法則』
 富士正晴『ジジババ合戦』
 安藤鶴夫『寄席紳士録』
 F・アリエス『死と歴史』
 中野重治『大道の人々』
 山之口獏『裏のある景色』

 といった文学部の学生たちでも読んでなさそうな本がかなり並んでいる。筆者が目を通したことがあるのは『四運動の法則』と『寄席紳士録』のみで、ほんのちょっとだったら『群衆と権力』と『死と歴史』も入ってくるだろうか。
 
 内容に触れるのはこれくらいにして、「閉校の辞」(文章は松山巖)から、
 
 「もし仮りにウソのない世界を思い浮かべましょう。貴方はかえって一日たりとも暮らせないはずです。(中略)いや、もし曖昧なことは真実でないとすればそうした世の中では、一言も語り合うこともなく黙ったままで互いのウソを監視しあうでしょう。何とも味気ないような鳥肌が立つ如き社会です。(中略)ウソは争いも起こしますが、同時に人が人を認め合うがために作り出す知恵なのです。」
 
 こんな文章を読んでも、ウソの魅力がわかってもらえなければ寂しいけど、ウソの嫌いな人というのはどうしてもいるからわかってもらえる人には一読を勧めたい。最後にウソをつくことが大好きな極道たちへの吉井勇の一句で、

 《極道に生まれて河豚のうまさ哉》

(了)

(蛇足) 筆者はここでウソを一つついてます。わかった方はご一報を。


バスター吉田の知ったかぶり雑筆15角鹿の蟹

『角鹿の蟹』

稲垣達郎 講談社文芸文庫 1996

 今回はいきなり皆さんに質問。現在も活躍中の国文学者の名前を3人挙げよ。といってもパッとすぐには思い浮かばないと思う。国文学者は英、独、仏、露などの外国文学者などと比べると地味で文芸雑誌や新聞の文芸あるいは書評欄に登場してくる回数が際立って少ないような感じを受けるから。
 同じ質問を昔友人にされたときのこちらの回答はというと、紅野敏郎(1922〜)、谷沢永一(1929〜)〔最近の活動はあまり好きではない〕、中野三敏(1935〜)と答えたのを記憶している。もっと詳しい人なら違う名前も挙がっただろうが。
 なぜその3人だったのかと考えてみると、その質問をされたとき文藝春秋から刊行されていた『ノーサイド』(すでに廃刊 1995年5月号)の特集に「読書名人伝」があって、先ほど挙げた谷沢永一、中野三敏らが執筆していたからそれを頭にいれての返答だったと思う。それぐらい国文学者に対して無知だったのだ。
 稲垣達郎(1901〜1986)という国文学者の名前を知ったのは、紅野敏郎の著書『貫く棒の如きもの』(朝日書林 1993)で、紅野敏郎が1章をこの人の思い出に裂いていたからである。早稲田大学の教授で生前に刊行された主な著作は『稲垣達郎学藝文集』(筑摩書房 1982)、没後『松前の風』(講談社 1988)や『森鴎外の歴史小説』(岩波書店 1989)が刊行されている。
 今回紹介する『角鹿の蟹』(つぬがのかに 角鹿は敦賀の古名)は最初1972年に早稲田大を定年退職した折に私家版として刊行し近親者や友人に配られ、編集者や専門家の間で評判になり作家の中野重治(1902〜1979)も関心を寄せたという。それで筑摩書房から編成を変えて1980年に刊行された。講談社文芸文庫版も筑摩書房版を定本としている。
 内容はエッセイ集で、家族やその身辺のこと、坪内逍遥、岩本素白、樋口国登(日夏耿之介)、 木下尚江、柳田泉、會津八一、尾崎一雄、外村繁、山口剛といった早稲田ゆかりの文学者や作家の思い出などがならぶ。
 個人的に面白かったのは、大学の同級生でもあった尾崎一雄の古書マニアぶりについて綴った「尾崎一雄」、へそ曲がり音楽美学者兼常清佐について綴った「兼常さん」(杉本秀太郎に言わせるとマテリアリストだそうだが・・・)、直接の先生でもあった山口剛について綴った「山口剛先生」などであろうか。
 万人向けということから見れば最近みずず書房から刊行された『素白先生の散歩』池内紀編(2001)を読まれた方はぜひこの本の中の「岩本素白先生」の章に目を通していただきたい。岩本素白と永井荷風との文学者としての資質の違いを述べた箇所は必見である。
 白樺派や早稲田ゆかりの文学に関心がある方は是非お勧めしたい。それだけの価値はある。

(了)


バスター吉田の知ったかぶり雑筆14これは恋ではない 小西康陽のコラム 1984-1986

『これは恋ではない 小西康陽のコラム 1984-1996』

幻冬舎 1996

 シラケ世代と呼ばれる世代(つまり昭和30年代から40年代生まれ)の活字離れ傾向をくい止めるきっかけとなっていたのが晶文社のA5版ヴァラエティ・ブックとよばれる雑文集だった。具体的な本の名前を挙げると植草甚一の『ワンダー植草・甚一ランド』や小林信彦の『東京のロビンソン・クルーソー』、筒井康隆の『暗黒世界のオデッセイ 一人十人全集』等だろうか。
 シラケ世代の代表的ライター、坪内祐三(1958〜)や岡崎武志(1957〜)などもこのヴァレティブックにかぶれた口だったようで、坪内の『古くさいぞ私は』(晶文社 2000)や岡崎の『古本でお散歩』(ちくま文庫 2001)でもこのA5版ヴァラエティ・ブックについて言及している箇所がある。
 小西康陽(1959〜)もそんな中の一人。もちろん残念ながら解散してしまったが元ピチカート・ファイヴのメンバーで、現在はレディメイドという自分のレーベルを立ち上げて活動中だが、(先日タワーレコードに行った折ふらっと目にしたのだが今度元サニーデイ・サービスの曽我部恵一をプロデュースするらしい)、小西の本もA5版ヴァラエティ・ブックというスタイルをとっている。小西はあとがきでこんな風に書いている。

「いちばん最初に買った本が子供向けではない本が、植草甚一の本(筆者註 『ワンダー植草・甚一ランド』)だった、というそれだけの理由で、ぼくはこのような編集スタイルにこだわり、高畑くん(幻冬舎の編集者)の仕事もひどく面倒なものになった。
               (文中略)
 題名も同じこと。最初に本を作るとしたらタイトルはこれと決めていただけで、本当は何だろうと構わなかった。ちなみに本の題名でぼくがもっとも素晴らしいと考えているのは画家の中川一政の文集で『うちには猛犬がいる』(筆者註 中公文庫 1988)というものだ。」 

また「いまこの本を拾い読みしている人に」という文の中で、

「(前省略)読書というのもあまりしない。本は大好きなのにね。最後まで読み通せないのだ。矛盾してるじゃないか。で、どうするかというと、いっぺんに何冊もの本をすこしずつ拾い読みするわけです。すると何冊もの本が断片からできた雑誌のようになる。このような読書法が、ぼくには最も楽しく、有効だ。
 雑誌のような本といえば、むかし晶文社というところからそのようなヴァラエティ・ブックが沢山出ていた。小林信彦の『東京のロビンソン・クルーソー』とか植草甚一の本とか。『筒井康隆一人十人全集』なんていうのもあったと思う。(以下略)」

雑誌を拾い読みするように本を読む人から見ると、断片からできた雑誌のような本=ヴァラエティ・ブックというスタイルは、まさに最適。去年の今頃ある書評で仏文学者の鹿島茂が、日本の編集者に欠けている資質は、ヴァラエティ・ブックを作ることだ。とどこかに書いていたのを思わず思い出してしまった。活字離れをくい止める手段としてのヴァラエティ・ブックは妙案かもしれない。多種多様なことに目を向けられるから。

このヴァラエティブックから筆者の関心を引いた文を列挙すると、ちょうど十編。

「ひとりぼっちの青春」(映画のことよりも角川文庫の海外文学のラインナップに言及)
「晶文社の本」(ヴァラエティ・ブックや晶文社らしさ)
「私信 札幌ガイド」(高校まで札幌にいたので懐かしさから)
「アイドルを探す シャーディ Sade」(興味が沸いていたときに読んだ)
「ザ・ベスト・オブ・グレイテスト・ヒッツ」の中の(以下の二つはタイトルは本来はなし。筆者註)、
「ムッシュかまやつ・・・ 1994 1/1号 ブルータス」(文章のリズムがいい) 
「『市川崑の映画たち』の書評 1994 11/15号 ブルータス」(小西の市川崑の映画ベスト・ワンは『黒い十人の女』リバイバル上映は彼のプロデュース。)
「コーヒー」「長いヴァカンス」」(この二篇は『ちくま』に連載されたもの。青春記)

 だが吉田健一に言及した二つの文、『吉田健一のこと1・2』という文が、小西康陽の名文家としての資質を端的に表している。特に『吉田健一のこと2』の吉田健一の文章の印象と写真家ジャック・アンリ・ラルティーグの写真から受ける印象とを比較していく文章の上手さは見事である。

 この本のあとがきに記されている最後の文を引用してこの文を終えようと思う。

「役に立つはずはないけれど、気休めにはなるだろう。」

(了)


バスター吉田の知ったかぶり雑筆13私の半自叙伝

『私の半自叙伝』

蘆原英了 新宿書房 1983

 

 蘆原(芦原)義信(1918〜)という名をご存じの方は多いと思う。蘆原義信は日本を代表する建築家の一人であり、最近も岩波現代文庫から『街並みの美学(正続)』が刊行されているから。だがその兄で蘆原英了(1907〜1981)〔英了はペンネームで本名は敏信〕を知っている人となると少数ではないだろうか。バレエ、舞踏、シャンソン、演劇、サーカスといった身体を使った大衆藝能に百科全書的な好奇心を発揮して数多くの評論を残したのだが、大衆藝能に関する本の世界的な蒐書家としても有名であった。没後、蒐集した本が国立国会図書館に「国立国会図書館所蔵 蘆原英了コレクション」として寄贈されている。また『蘆原英了賞』という賞も制定され、第7回(記憶が不鮮明)の受賞者は声優・女優として活動する戸田恵子(アンパンマンの声の人)がもらったらしい。
 蘆原英了の本だが、生前に刊行された本は『現代舞踏評話』(西東書林 1935)『古典舞踊の基礎』(日新書院 1942)『バレエの基礎知識』(創元社 1950)『巴里のシャンソン』(白水社 1956)『世界春歌抄(仏・米篇)』(自由国民社 1968)〈翻訳書は除く。引用は『私の半自叙伝』の年譜から〉などである。晩年の13年間は雑誌などに執筆はしたもののそれが単行本化されることはなかった。没後『バレエの歴史と技法』(東出版 1981)や新宿書房から出た4作品『私の半自叙伝』『サーカス研究』『シャンソンの手帖』『舞踏と身体』(刊行は1983〜1987)が出版された。
 筆者が所持しているのは『舞踏と身体』を除く新宿書房から出た三作だが、特に『私の半自叙伝』に惹かれたのは、描かれている蘆原英了の二人の小父(蘆原は叔父という書き方を嫌った)との関係である。この二人の小父が凄い。劇作家の小山内薫(1881〜1928)と画家の藤田嗣治(1886〜1968)なのだから。家の中で浮いた感じでふらふらしていた蘆原を二人がどれだけ可愛がってくれたことが本文からも読みとれる。小山内は慶応大学に入った蘆原に「おまえみたいな出来損ないは、高等演劇理論をやってもものにならないからサーカスみたいな大衆藝能をやれ」と言って、それが蘆原に大衆藝能に興味を抱かせるきっかけとなった。藤田に関する想い出としては、藤田が名もない女と結婚したがるチャップリン型の男だとか、藤田は意外に几帳面で、恐ろしいほど些細なことをよく記憶しているといった身近にいなければ分からない藤田の素顔をかいま見ることが出来る。また蘆原英了が慶応大学に在学していたとき予科で、西脇順三郎(1894〜1982)の講義を受講していたのだが、西脇のヴェルレーヌの『秋の歌』の翻訳や何かというとトランセンデンタルという言葉を発していた事を覚えていると回想している。予科の同級に瀧口修造(1903〜1979)がいて年上だが穏やかで物静かだったという印象が書かれ、本科に行くときに瀧口が英文科、蘆原は仏文科へと進んだとあった。以前佐藤朔(1905〜1996)の『反レクイエム』(小沢書店 1983)で当時の慶大の仏文科のことは目にしていた。その中では佐藤は卒業後私だけ大学に残り、蘆原や田中千禾夫は好きな道に進んでいったと書いていたけれども。蘆原、佐藤両人ともかなり自由な雰囲気が当時(昭和初期)の仏文科にはあったという。佐藤曰く東大は学究的だが慶大は趣味的だったそうだ。『反レクイエム』は回想記というジャンルが好きなもので去年たまたま買ったのだが今回再読して、この二人の交遊関係を確認することが出来た。
 この『私の半自叙伝』という本自体が未完のまま蘆原の死によって中絶してしまったのだが(書かれたのは1929年までで、本人は1980年までは書きたがっていたらしい)この時代の大衆藝能史や、社会史に興味を持っていらっしゃる方は是非目を通していただきたい。ただ現在蘆原英了の本は古書店で入手するしかないと思うので、図書館で探していただく方がよいかもしれない。

(了)


バスター吉田の知ったかぶり雑筆12気まぐれキーボード

『気まぐれキーボード』

八木正生 話の特集 1982

 八木正生(1932〜1991)という人については以前このコラムで取りあげた和田誠の『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫 1997)や高平哲郎『あなたの想い出』(晶文社 2000)で仕事や履歴はちらっと目にしていた。『銀座界隈ドキドキの日々』には1958年から1971年まで勅使河原宏が主宰した草月アートセンターで「草月ミュージック・イン」というジャズの会が定期的に行われていて、そのポスターを杉浦康平に変わって和田誠が描くことになり、「草月ミュージック・イン」に参加していたミュージシャンの中で特に親しくなったのが八木正生だったこと。その後も和田誠が作った歌にコードネームをつけて、映画音楽(石井輝男監督の『親分を倒せ』)として使ってくれたこと等が出てくる。『あなたの想い出』では八木正生が『アメリカ交響曲』を見て作曲家を志したことや、亡くなったあと遺灰をハドソン川に撒いてくれと言っていたのだが、イースト・リバーに撒くことになってしまったことが書かれていた。ちなみに高平哲郎に八木正生を紹介したのは和田誠である。
 ジャズ・ピアニストで作編曲家だった八木正生は、おびただしい数の作曲をしたけれど誰もが一度は耳にしたことがある曲は、ネスカフェのCM『違いがわかる男』『上質を知る人』のバックに流れている音楽、または『あしたのジョー』の「ジョーのテーマ」と「力石のテーマ」の作曲者としてではないだろうか。もっと深く掘り下げると映画『網走番外地』の音楽や、寺山修司の劇団天井桟敷、サザンオールスターズといった面々への楽曲提供などが挙げられる。サザンの曲に『ラッパとおじさん(Dear M・Y'S Boogie)』という曲があるが、M・Yは八木正生のことだそうだ。1980年代サザンが一時期解散していたときは、桑田佳祐は八木正生のトリオをバックにラジオの番組で歌っていたこともあったらしい。
 今回取りあげた本は帯に書かれているようにABCからXYZまで26の頭文字からなるエッセイをまとめたものだが、「Automatic Piano」「LP」「Studio」といったように音楽に関わるタイトルがつけられていて、「Miles Davis」「Quincy Johnes」「Thelonious Monk」といったジャズミュージシャン、「Pianist」と題された守安祥太郎のエッセイ(1982年の刊行当時は守安祥太郎について言及したのは他に久保田二郎くらいだったのではないか)などの文が並ぶ。八木正生の文章の特徴として自分を語るときに「おれ」という人称代名詞で押し通している。再度確かめたがやはり「ぼく」「僕」などは出てこない。これが生まれて初めての連載だったらしいから(掲載誌はもちろん『話の特集』)ありのままの自分を出したかったのかもしれない。
 筆者が好きなのは「Inter Play」というタイトルのエッセイ、ビル・エヴァンスとスコット・ラファロのコンビ(実際はトリオでの演奏)とチック・コリアとゲイリー・バートンのデュオのインタープレイの質の違いについて述べたものだが、双方とも好きなので非常に興味深かった。
 これ以上言及すると読む楽しみを失わせてしまうかもしれないから、最後に和田誠がこの本の帯に寄せた言葉を引用して終わらせようと思う。この文からも和田誠と八木正生の後にも先にもこんなに仲良くなった人はいないという関係を偲ぶことが出来る。

『八木正生さんは音楽を遊びと同じように楽しみ、音楽と同じように遊びとも真剣にかかわっている。ぼくは八木さんと知り合ってから、音楽ファンの度合を増した。音楽の魅力と遊びの魅力を同時に教えられたからだ。この本にもその精神が溢れている。』

(了)

(蛇足)この本の中の一文「Off Beat」は作品社から刊行されている日本の名随筆シリーズの『藝談』の中に入っている。ちなみに編者は和田誠。

バスター吉田の知ったかぶり雑筆11『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三編

『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三編』

尾崎一雄 岩波文庫 1998

 志賀直哉(1883〜1971)といえばもちろん「白樺」の中心的存在で、「白樺」の他の代表作家といえば武者小路実篤や、有島武郎、里見とん(弓亨)などがいるが、志賀にだけ師事する作家が多かったのは、どうしてだろうかと考えてしまった。武者小路や里見に師事した作家というのは聞いたことがない。 
 志賀に師事した作家を列挙してみると、瀧井孝作(1894〜1984)、尾崎一雄(1899〜1983)、藤枝静男(1907〜1993)といった人たちである。皆、作品の資質は違っていても「私小説」作家という看板を掲げて大成したことだろうか。
 藤枝静男は最近(7年前)に亡くなったこともあって、比較的研究書が多く、親しかった小川国夫が『藤枝静男と私』(小沢書店)を書いたり、四方田犬彦が『文学的記憶』(五柳書院 1993)で取り上げたり、宮内淳子『藤枝静男 タンタルスの小説』(エディトリアルデザイン研究所)などがある。瀧井孝作にも確か書誌があったはずである。
 尾崎一雄は『尾崎一雄全集』(筑摩書房 1982〜1985)が刊行されているが、研究論文や研究書の類はあまり目にしたことがない。もっとも見落としているだけかもしれないが。筆者が尾崎に興味を抱いたのは『文学界』(多分今年の一月号だったと思う。21世紀に残したい作家、文学者、詩人、哲学者等の名前が挙げられていてその中に尾崎一雄の名もあった。)あとは『河盛好蔵 私の随想選』第五巻 (新潮社 1991)の尾崎一雄について書かれた文に惹かれたのだろう。
 この本はタイトルが示すとおり十三編の私小説から(といってもエッセイ風のものあるが)構成されているが、『山口剛先生』という作品に出てくる友人N(多分作家の丹羽文雄)や、『松風』に映画監督の清水宏、小津安二郎の名前が出てくるところなどには尾崎の交友関係が忍ばれる。
 だが最後に収録された『日の沈む場所』、尾崎一雄最晩年(1982年)の作品だが本当に素晴らしい。早稲田高等学院に入った年に聞いたアルト歌手柳兼子(柳宗悦の夫人)に81歳の尾崎一雄が初めて会いに行く話なのだが、まるで中学生か高校生のような感じなのである。俺はすこしはしゃぎすぎだなと面会が終わった後で振り返るぐらいだがら初々しい。
 尾崎一雄の作品としては他にも講談社文芸文庫から2作品でているようなのでまた通読して、後にこのコラムで取り上げられたらと思っている。今回はここまで。

(了)

(蛇足)熊本日日新聞のHPにエッセイストの中村一枝が書いた文章が出ていた。中村一枝(旧姓尾崎)は作家尾崎士郎の娘なのだが、尾崎一雄にも一枝という娘がいた(年は一歳ちがいだそうだが)。尾崎士郎と尾崎一雄は大の親友だった。この二人の尾崎一枝をめぐる尾崎士郎と尾崎一雄の親ばかぶりがかいま見られるので興味のある方は見ていただきたい。簡単に見るにはyahooかgoogleで尾崎一雄でサーチすると出てくる。

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