バスター吉田の知ったかぶり雑筆3

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バスター吉田の知ったかぶり雑筆21 『昼間の酒宴』寺田博『榛地和装本』藤田三男


『同期入社の先輩と後輩−河出書房編集部』

 1970年代はリトルマガジンの時代とよくいわれる。代表的なものを挙げると、 『ユリイカ』(青土社)、『宝島』(当時刊行元は晶文社現在は宝島社)、『話の特集』(話の特集)、『海』(中央公論社現在は中央公論新社)などである。リトルマガジンの隆盛の要因とされるのが、植草甚一、蓮實重彦、山田宏一、野坂昭如、栗田勇といったさまざまな執筆者だけれども、それぞれの社にいた編集者もしくはスタッフの強烈な個性(アク)も大きく関わっていたと思われる。
 それぞれの社にいた編集者を列挙してみると、

『ユリイカ』・・・三浦雅士(文芸評論家、ダンスマガジン編集長)、三輪俊治(故人)、高橋順子(詩人)
『宝島』・・・津野海太郎(編集者、和光大学教授)、平野甲賀(装丁家)、高平哲郎(プロデューサー)
『話の特集』・・・矢崎泰久(編集者)、和田誠(イラストレーター)
『海』・・・塙嘉彦(故人)、安原顕(編集者、bk1編集長)、村松友視(作家)
※( )内の職業は現在のもの

 現在から考えると凄い人ばかりが編集に関わっていた事がわかるけれども、あまのじゃくな筆者は、反対にこの時代 (1970年代)の一般の文芸出版社の編集はどのような編集者の面々が手掛けていたのかというのが疑問として浮かび上がってきた。そこで70年代の文芸出版社の編集部について書かれた本を探してみた。特に興味を惹かれたのが、寺田博の『昼間の酒宴』(小沢書店 1997)と藤田三男の『榛地和装本』(河出書房新社 1998)である。
 奇しくも二人とも早大卒、河出書房の同期入社(1961年)で、同時期に退社(1979年)している。ただし年齢は寺田が1933年生まれ、藤田が1938年生まれと5歳の開きがあるけれども。共に『文藝』当時の編集長だった坂本一亀(“教授”こと坂本龍一のお父さん)から編集者としての薫陶を受け、1960年代から1970年代の河出書房編集部の中核を担った人である。
 寺田は『文藝』の編集長を1979年まで勤め、その後作品社の設立に参加、文芸誌『作品』を創刊している。1981年から1994年までは福武書店(現ベネッセ)に所属し、文芸誌『海燕』の創刊編集長や取締役出版本部長を歴任し、福武文庫や『新輯 内田百闡S集』『正宗白鳥全集』『八木義徳全集』などの本を世に送り出している。ベネッセが文芸書の出版から撤退した背景には寺田の退任も少なからず影響したかも知れないと考えてしまった。
 藤田は、文芸書の単行本の編集を多く手掛けた。榛地和(しんちかずと読む)という名前は「社内装」と呼ばれる自社装幀本を藤田が担当する場合に用いたペンネームで少年時代の恩師の名前から無断拝借したものらしい。1979年に河出書房を退社後は木挽社という編集プロダクションを設立し、新潮日本文学アルバム(新潮社)、大正文学全集(ゆまに書房)などの編集を手掛けている。雑誌などに出てくる作家の肖像写真などに資料提供 木挽社という箇所を見かけるとこのプロダクションのことだとわかるようになった。
 河出書房の編集部にも先に挙げたリトルマガジンの編集部にも劣らない個性的な面々が揃っていた。坂本一亀、竹田博、福島紀幸(晶文社の『長谷川四郎全集』の解題執筆は有名)、金田太郎(故人)、『文藝』の編集部の平出隆、清水哲男、外国文学スタッフの三木卓、高橋順子(当時は河出在職)といった詩人達がいる。
 藤田は「河出には、よくもまあ、こんな妙な連中を集めたものだというような個性(アク)の強い編集者が多かった。三奇人、四天王も五人男も、十勇士も簡単に思い浮ぶ。」
 しかしこれだけの面々がいたにもかかわらず、1968年に第二次倒産、1979年に第三次倒産を河出書房はしてしまう。「良書は必ず売れるという信念」がモット−であるが。良書と売上の両立の難しさを痛感する。
 内容にふれると、二人の編集者とも編集に携わった作家、評論家の思い出を書き残しているが、寺田博は中上健次、高橋和己、色川武大などの印象記、藤田三男は石原慎太郎、山本健吉、和田芳恵の本の装幀に関する文が印象深かった。
 だが一番印象深かったのは吉田健一について書かれた二人の文章。寺田の『昼間の酒宴』中の「昼間の酒宴」と『榛地和装本』中の「雅懐の人」である。どちらも短い文章に吉田健一の「お小説」嫌いの批評家の顔が浮かび上がってくる文章である。
 最後に編集者の仕事について、寺田博のあとがきから。

「文芸編集者の仕事の四分の三は水面下に隠れていて、水面に姿を現しているのは四分の一に過ぎない」

(了)


バスター吉田の知ったかぶり雑筆20ぼく達はこの星で出会った見上げてごらん夜の星を


『正妻と愛人-中村八大といずみたく』

 戦後の歌謡曲(演歌ではなくポップス)の作曲家をみると、中村八大、いずみたく、宮川泰、すぎやまこういち、小林亜星、ちょっと年下だと服部克久、筒美京平、前田憲男といった名前が挙がってくる。
 上記の作曲家に共通しているのは1930年代から40年代の生まれということと幅広いジャンル(CMソング、ミュージカル、アニメーションの主題歌や作中曲など)の作曲を手掛けていることだろうか。
 この作曲家の中でよく比較されるのが、中村八大(1931〜1992)といずみたく(1930〜1992)である。今は共に故人となってしまったが、二人が亡くなって今年はちょうど没後10年になる。
 二人が亡くなって没後10年になることを知ったのは、最近中村八大の『ぼく達はこの星で出会った』(没後永六輔、黒柳徹子の手で編集されたもの 講談社 1992)を読み、ほぼ一ヶ月前後の間に二人が亡くなったことを知ったこと。それだけだったら二人について書くことはなかったが、たまたまネットサーフィンをやっていた折りにMusicman-netというサイトのリレーインタビューで彼等と同世代の宮川泰が、こんなことを語っていたからである。

 「何年か前、中村八大といずみたくの代表曲10曲を選んで解説して笑わせる。というのを永六輔と一緒にやったら、中村八大は『上を向いて歩こう』『黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』『世界の国からこんにちは』『遠くへ行きたい』ウルフルズがリバイバルヒットさせた『明日があるさ』など6つか7つは思いつくけどベスト10はなかなか思い出せない。いずみたくはベスト10じゃ入りきらないくらいある。中村八大はスマート、いずみたくは汗だく。曲もこっちのほうが泥臭いの。それがやっぱりいいんだよね。泥臭いにもかかわらず、ミュージカルをいっぱいやったり、『見上げてごらん夜の星を』とかね。あれだって僕は最初はたいしたことないって思ったけど(笑)最近聞くといいんだよね。年を取ったせいかもしれないけど、この歌いいなあって思うようになったね(笑)。」(文中の敬称略、一部筆者が付加、編集有)

 この記事を読んで感じたのは、二人の代表曲を10曲挙げてみると何故、中村八大は数が少なく、いずみたくは数多く曲が挙がるのかということだったが、この記事から筆者がずっと錯覚していたことが一つわかった。この記事を読むまで『見上げてごらん夜の星を』を中村八大の曲と思いこんでいたのである。その理由を考えて見るとテレビで「夢であいましょう」が再放送された際に、坂本九が歌っている横で、中村八大が伴奏しているのを見てずっと中村八大の曲と錯覚していたのだろう。いずみたくに関心を持ったのはそのことがきっかけだった。
 だが宮川泰が、そのインタビューで「中村八大さんはちゃんとした音楽の大学を出て、ジャズをきっちりやっていて、インテリなんだけど、いずみたくさんは違うじゃない。苦労して苦労していろんな労働してダンプの運転手やったりしてやってきた人で。」といっていたのにはちょっと疑問を感じてしまった。著書を見る限り中村八大は大学にはほとんど出ていなかったみたいなので。だがいずみたくに関する知識はほとんどなかったので著書を探すことにした。
 いずみたくは中村八大に比べて数多くの本を執筆した。『真夜中のコーヒーブレイク』(講談社1974)、『体験的音楽論』(国民文庫)、生前最後に刊行された『新ドレミファ交友録』(サイマル出版会1992) など。中でもとりわけ凝っていると思ったのが『見上げてごらん夜の星を わが歌のアルバム』(新日本出版社 1977)、自曲解題と楽譜、歌詞、歌手に関するエピソードなどを簡潔に綴っている。前置きが長くなってしまったが、『ぼく達はこの星で出会った』と『見上げてごらん夜の星を わが歌のアルバム』を読んで感じた二人の作曲家の違いを少しでも説明できればと思う。それに先述したインタビューの最大の問題点すなわち二人の代表曲を挙げてみると中村八大は数が少なく、いずみたくは数多く曲が挙がるのかということを。

 作曲家のタイプとすれば、中村八大はピアニスト兼作曲家、いずみたくはプロデューサー的な作曲家というのが一般的な見方だと思う。中村八大は中国・青島生まれ、幼い頃からピアノの英才教育をうけ、早稲田大在学時(結局大学は中退)から「シックス・ジョーズ」(宮川泰も参加)「ビッグ・フォー」(八木正生がプラス・ワンとしてアレンジャーとして参加)といったジャズ・コンボでピアニストとしてデビューし、ジャズブームの終焉後、作曲家へ。
 一方いずみたくは東京・谷中生まれ。若い頃は鎌倉アカデミアで村山知義、舞台芸術学院では土方与志や秋田雨雀に演劇を学んていたが、次第に関心が演劇から作曲に移り、芥川也寸志にオーケストレーションを指導してもらったり、三木鶏郎の冗談工房への参加から作曲家へ。という経歴。本人も認めているが、歌手やミュージカルのプロデュースに演劇を学んだことが大きいと語っていることからも、村山知義、土方与志、秋田雨雀といった面々から受けた影響は強かった。生活のためにダンプの運転手をやったりしていた理由は、参加していた演劇集団や合唱団の常任の団員ではなかったこと、収入がいいのと免許を持っていたのが真相のようだ。冗談工房に入るときに月給が8000円と言われ、ダンプの運転手時代の5分の1になってしまったことがかなり堪えたと書いている。
 作詞家とのつき合いを見ると、中村八大は作詞家泣かせだったようだ。中村八大の代表曲と言われる曲の作詞は大部分が永六輔だが、『ぼく達はこの星で出会った』を読むと『遠くへ行きたい』は「知らない町を歩いて見たい〜どこか遠くへ行きたい」というフレーズの「〜」部分に十倍の歌詞があったのを削ってもらったり、『こんにちは赤ちゃん』でも最初書いた詞の最終部分だけを冒頭のフレーズに持ってくるとかしたらしい。さんざん永六輔を怒らせていたようで、一時は半年も口を利いてくれなかったとか。これから見ても中村八大は基本的に自分が作曲した曲を最優先するタイプの作曲家だったのではないか。
 いずみたくは岩谷時子、藤田敏雄、やなせたかし、永六輔、野坂昭如などが主な作詞家で、基本的に対話を重視して曲を作るタイプ。「太陽」「夜明け」「愛」「幸せ」といったフレーズが曲名や歌詞に多く入っているのもも特徴として挙げられる。もっとも両者とも歌手や歌詞を優先して曲を作るタイプではなく、曲が何よりも大切だという自負を自著で熱く語っているのだが。
 けれども皮肉なことに中村八大の代表曲の大半が広く受け入れられるようにと作曲した曲やメロディーよりも、『上を向いて歩こう』(坂本九)『黒い花びら』(水原弘)『こんにちは赤ちゃん』(梓みちよ)『世界の国からこんにちは』(三波春夫)(はいずれも歌手名)のように特徴ある歌手の印象があまりに強く出てしまう結果になってしまった。ここに挙げた歌手のうちすでに三人は亡くなってしまっている方ばかりだから尚更。中村八大自身は自分と自作曲をこう語っている。

 「自分で一生懸命、ウェットになっても、自然と明るい感じのカラッとした曲ができてしまう。仕事のことに限らず、日本人でありながらちょっと乾燥した日本人ができあがっちゃった。」

 「カラッとした曲」という感覚がどういったものかわからなかったのだが、『満月、空に満月』(海老沢泰久文藝春秋 1995)という本の中で若き日の井上陽水が、作曲のスタイルについてこう考えていた。

 「音楽に対して自覚的になってからはマイナー・コードの曲よりメジャー・コードの曲を作ることにあこがれていて、マイナー・コードで作曲すれば日本人が好む情緒的でセンチメンタルなメロディができることは知っていたが、低級なことだと思うようになっていた。
 彼がつくりたかったのは、ニューヨークのしゃれたナイト・クラブでうたってもおかしくないような、からっと乾いたメジャー・コードの曲だった。しかし頭ではそう考えていても、現実にできるのはいつもマイナー・コードの湿った曲ばかりだった。」(文中省略有)

 井上陽水がメジャー・コードの曲にあこがれを抱き、苦心して作曲してもヒットせず、マイナー・コードの曲ならいくらでも作れてぱっと作曲してもヒットするというジレンマに苦しんだことが伝わってきたが、中村八大は井上陽水とは反対にメジャー・コードの曲ならいくらでも作曲ができるが、マイナー・コードの曲があまり作れなかったのではないか。
 「日本人でありながらちょっと乾燥した日本人」という自覚も中国生まれで、日本人が好む情緒的でセンチメンタルなメロディを作曲することが出来ないことへの自嘲のようにも見える。
 いずみたくの曲は、自分が売り出すためにプロデュースした歌手、佐良直美、ピンキーとキラーズ、いしだあゆみ、由紀さおり等を除くと、特定の歌手に当てて書いた曲が別の歌手の持ち歌や小学唱歌になってしまう結果を生みだした。ドリフの『いい湯だな』(元歌はデューク・エイセス)、『手のひらを太陽に』(あまりにも有名な小学唱歌だが元歌は宮城まり子に当てて書いた大人向けの歌)のように。曲が歌手が変わっても印象がさほど変わらないことと、「太陽」「夜明け」「愛」「幸せ」といった曲名や歌詞から受ける明るいイメージも人々に受け入れられた理由だろう。いずみたくは『夜明けのうた』が岸洋子に歌われてヒットしたときから、「歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる」という確信を持ち、プロデュースした歌手以外には特定の歌手に当てた曲を書くことはなかった。
 いずみたくの曲調は宮川泰が「いずみたくは汗だく。曲もこっちのほうが泥臭いの。」と評したことや『見上げてごらん夜の星を わが歌のアルバム』の中の楽譜から見てもマイナー・コードで作曲した曲が多かった。宮川泰が「年を取ったせいかもしれないけど、この歌いいなあって思うようになったね(笑)」といったのは、日本人が好む情緒的でセンチメンタルなメロディを作ることができた同時代を生きた作曲家への敬意が見える。また『見上げてごらん夜の星を わが歌のアルバム』の中にある歌手のプロデュースの仕方一つとって見ても、現在でも十分に通用することがわかる。
 中村八大といずみたくの代表曲の数の多さの決定的な違いはマイナー・コードで「日本人が好む情緒的でセンチメンタルなメロディを作曲すること」だけというのが結論なのだがそんなことはどうでも良くなってしまった。二人に関する様々なことを知るだけでも十分面白かったから。
 一番残念なことは、いずみたくは自分のプロダクションを持っていて数多くの後進を育てたけど、中村八大は自分は作曲家でピアニストであるというこだわりが強かったため、営業のためのプロダクションを作らなかったり、弟子をとらなかったこと。中村八大の作曲スタイルを後進に残すことなく逝ってしまったのを思うと嘆かずにいられない。メジャー・コードの曲のスタイルを研究する上でも。
 『ぼく達はこの星で出会った』の中に収められた原稿から見ても、様々な音楽に精通したことが伺えるから。未収録の原稿を作曲家の立場で再編集すると面白いと思うのだが、没後10年の企画としてでも。編者は宮川泰や服部克久などにやっていただけば良いと思う。

(了)

(追記)『正妻と愛人』という題名はいずみたくが「僕は永君の愛人みたいで、正妻は八ちゃん(中村八大)だね。」といっていたことから頂いた。


バスター吉田の知ったかぶり雑筆19水の景色


『水の景色』

伊藤桂一 構想社 1984

 伊藤桂一(1917〜)の名前を知ったのは、確か大学時代だった。大学図書館または通学途中にあった町田の図書館で、吉田健一の『大衆文学時評』(垂水書房版か集英社の吉田健一著作集の十五巻か記憶がはっきりしない)で伊藤桂一の作品を取り上げていたのを読んで知ったと思う。その作品のタイトルは忘れてしまったのだが、大まかなあらすじは日中戦争の折りの戦士と中国の現地の女性の話だったと記憶している。というのは『大衆文学時評』のその紹介文を読んだとき、どうしてもその作品に眼を通したくなって、棚を探して読んだ記憶があるから。
『大衆文学時評』にはそれだけその作品が魅力的に紹介されていたのだと思う。 ただすっかりその後は忘れていた。そのことを思い出したのは、坪内祐三が週刊文春の連載「文庫本を狙え!」で『螢の河・源流へ』(講談社文芸文庫 2000)を取り上げていたのを見てからである。
 ただ二度興味を持ったにもかかわらず本屋で見かける伊藤桂一の作品が戦記物がほとんどだったのと文芸文庫版の『螢の河・源流へ』というタイトルから野坂昭如の『火垂るの墓』(新潮文庫)と同類の本かという印象を受けその偏見からか購入しようとは思わなかった。
 この『水の景色』は構想社から出ている短篇名作選シリーズの1冊で、(このシリーズの他の作品には小沼丹の『緑色のバス』、水上勉の『草隠れ』、大原富枝の『女身』などがある)この本のための書き下ろしが一編と無名時代から直木賞を受賞して作家としてのポジションを確立するまでに書かれた七編、計八編の短篇から成り立っている。伊藤桂一の主戦場である戦記物ではなく自分の身辺のことを書いた私小説集である。
 連作を読んでみて感じるのは、無名時代の伊藤桂一は上林暁(1902〜1980)と非常によく似た環境にあったような感を受けた。上林暁の最初の妻の死、過度の飲酒による脳溢血とは違い、 伊藤桂一は妹の病死、自らの神経症に苦しむ日々という若干の違いはあるけれど。
 八編の短篇はどれも良いのだが、個人的な好みとしては「母の上京」「猫の上京」と題された二編である。妹が発病する前の家族のつながりが明るいタッチで実によく描かれている。

(了)

(追記)『水の景色』を読み終えた後、『螢の河・源流へ』を書店で立ち読みした。偏見を抱いていたが戦記物ではなく、私小説集だった。 『水の景色』からも三篇入っている。あと伊藤桂一は詩人でもあるらしい。


バスター吉田の知ったかぶり雑筆18 獲物の分け前


『獲物の分け前』

あがた森魚 白水社 1992

 なんであるにしろ物事を知るきっかけというのはどこにでも転がっている。たとえば音楽を聴いたことがなくてもその音楽家の名前を様々なメディアから知ることが出来るように。
 このコラムで取り上げている八木正生や小西康陽といった作曲家あるいはミュージシャンにしても、自身の発言または文章、周囲にいた人の発言や文章を読んだことはあっても、音楽作品(つまりCD)のすべてを筆者は完全に聴き通したことはない。一部のCDと、CM、ラジオ、テレビなどの媒体で流れている曲を耳にしてこの文章を起こしている。今回のあがた森魚(1948〜)に関しても同様。名前を知ったのも『鳩よ』(最近休刊が決まった残念)の愛書家特集で、横田順彌、鹿島茂、山下武、武藤康史といった面々の中にあがた森魚の名前が挙がっていて、稲垣足穂や塚本邦雄が好きといっていたはずだ。ただ彼の音楽に接したことは八木正生や小西康陽と違い、ほとんどない。最近歌手活動30周年を迎えベスト盤がリリースされたていたのでCDショップで試聴したが個人的にはあまり好きなタイプの音楽ではなかった。映画も撮っているらしいがもちろん未見である。
 でこの『獲物の分け前』である。古本屋で見かけたのはつい最近。特価本のコーナーに入っていたのと、装丁に惹かれたので、確認してみるとカバー装画が金子國義で、ブック・デザインは羽良多平吉が手掛けていたため。著者名はあとで確認した。帯に[20世紀パリの異邦人の物語]と書かれているように20世紀のパリに集った異邦人たち(アーティスト)の物語で、白水社の雑誌『ふらんす』(篠沢秀夫、鹿島茂、野崎歓といった仏文学者が執筆している雑誌)に丸二年に渡って連載されたものである。
 三章構成になっていて、「フィルムの中のエトランゼ」「カンヴァスの中のエトランゼ」「生きた踊った愛したエトランゼ」と題されているように、映画人、画家、写真家、作曲家、ダンサーと登場するアーティストたちは実に多彩。メジャーな人たちの名前をあげるとこの本のタイトルにもなっている『獲物の分け前』に主演したジェーン・フォンダ、マックス・エルンスト、駒井哲郎、ポール・デルヴォーといったメジャーな画家。グッゲンハイム美術館(ベネチア)の創立者ペギー・グッゲンハイム、写真家のエルスケン、ダンサーのニジンスキー、タンゴの革命児アストル・ピアソラなど。
 だがマイナーな人たちの方が魅力的である。あがた森魚自身がこの本のあとがきでも「愛らしいもの、愛おしいもの、禍々しいものをここに小さな宝石箱に収めることが出来てうれしくおもう」と書いているように、中田鉄治(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭の仕掛人)、ソニア・ドローネやニコ・ピロスマニといったマイナー画家、バロン目賀田といったあまり知られていない人たちの方が。中でも一番力を入れて書いているのが、60年代のカルト女優兼歌手のマリアンヌ・フェイスフル(1946〜 イギリス生まれ)について書いた文章はこの本の中でもっとも美しい文章である。文章の中で来日した彼女のコンサートを聴きに行った時、あがた森魚は自分の人生訓である「この相手がいなければ自分の人生は成り立たない、という考え方をしないことであり、そういう生き方をしないこと」を揺さぶられるような感動を覚えたことを淡々と綴るのだが・・・。どう揺さぶられたか興味を持たれた方は是非ご一読をお勧めする。

(了)

(蛇足)この本を読む前に、半年くらい前新刊書店であがた森魚の『菫礼礼少年主義宣言』(新宿書房 1990)という本を見かけた。内容は菫礼礼(スミレレ)君という主人公が活躍する小説体の文章が主で、巻末に荒俣宏との対談が載っていた。その対談に惹かれたが結局買わなかった。今回紹介した『獲物の分け前』であがた森魚に対する印象が若干変わったので近いうちに目を通すつもりでいる。


バスター吉田の知ったかぶり雑筆17 「曲線と直線の宇宙」


『曲線と直線の宇宙』

亀倉雄策 講談社 1983

 文章の書き手にもいろいろあって、 その文章を一読した人でなくてもこれはこの書き手の書いたものだとわかる明確な特徴を持つ書き手がいる。たとえば吉田健一の句読点を使わず、「〜で」、「〜であって」、「〜からして」といった接続詞を用いて文章をだらだらと書き流すスタイル、または花田清輝のように、時折「そんなことはどうでもいいのだ」「〜のような気がしてならないのだ」とい う言葉が折り込まれている文章など。 他に名前を挙げれば深沢七郎、森茉莉、武田百合子、植草甚一、 丸谷才一などがこのタイプではないだろうか。
 これとは逆にその文章に独自のスタイルは持たないけれども、まっとうな文章、斬新ではないが古くさくもない文章を書く書き手もいる。(ただしここではあくまでも自覚しているまたは他の書き手から認められている書き手に限る)具体的な名前を挙げれば上林暁、小林信彦、和田誠、大槻ケンヂなどがこのタイプであろう。
 亀倉雄策は典型的な後者のタイプ。この本のあとがきでもこう書いている。

「私は文章を書くのが、好きな方である。そして早く書く方だと思う。文章の専門家ではないので、ボキャブラリーが至って少ない。それだから重圧な、威厳にみちたといった文体とは全く無縁である。ただ、ただ流れるように書くようにしていて、第一にわかりやすいことを念頭においている」

 知らない人のためにいっておくと亀倉雄策(1915〜1997)はグラフィック・デザイナー。東京オリンピックの5人のランナーがスタートするシーンのポスター。NTTのマーク。などはあまりにも有名だ。このあとがきからもわかるように文章を書くことがかなり好きだったようで、まだ目を通していないが、他の著書には『離陸着陸』『亀倉雄策の直言飛行』があるらしい。
『曲線と直線の宇宙』の体裁だが、『離陸着陸』以後にかかれた雑誌や新聞に載った雑文を亀倉がスクラップしていたものがたまってしまったため、整理して講談社から上梓されたものである。
 やはり、デザイナーということもあり、デザイナー論は出色。早川良雄、田中一光、石岡瑛子、細谷巌、福田繁雄、宇野亜喜良、横尾忠則などの特徴をよくつかんでいる。映画好きの友達だった武満徹と和田誠に読んでもらいたいと思って、19歳の時に亀倉が『セルバン』という雑誌に書いた映画評も。勅使河原家(蒼風、霞、宏)との関わり、土門拳、名取洋之助、三浦逸雄(イタリア文学者、三浦朱門の父)などの思い出。勅使河原宏、原弘、中村雄二郎、佐治敬三、堤清二(辻井喬)らとの対談も掲載されている。読後感としてはこの本の帯にデザイン・エッセイと明記されているけれど一種のヴァラエティ・ブックに近い。ただ本人のグラフィックは装丁にしか使われていないのは少々残念ではある。
 最初読んだときはデザイナー論や対談が面白いと思った。今回文章をまとめるに当たって再読してみると、「洋食器の選択」「買い物はむずかしい」「引越し」という身辺エッセイに感じ入ることが多かった。特に「買い物はむずかしい」は最近身につまされることばかりである。

(了)


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