
最近変わったと思う雑誌に『MACPOWER』がある。今月号は信藤三雄のロングインタビューがあり、先月号は小西康陽のインタビューがあった。その小西康陽のインタビュー中に、「この前なくなった佐々木守さん」という文面を見たとき、一瞬「うそだろ」という感情と、「亡くなってしまったか」という感情が交錯してしまった。現在新聞を取っていないので死亡記事には眼を光らせる事が少なくなっている事もあるのだがやはりショックだった。インターネットで検索すると産経新聞(!)に死亡記事が、ウィキペディアなんかでも没年が記載されていた。(亡くなったのは今年の二月。)
佐々木守の名前を筆者が最初に意識したのは、中学、高校生くらいだと思う。当時JICC出版局(現宝島社)から刊行されていた『いきなり最終回』シリーズの単行本のなかで『男どアホウ甲子園』の最終回とその後に水島新司のインタビューが掲載されていた。その中で水島が編集部が「貸本漫画しかやっていなかった僕がつぶれるんじゃないかと思って、原作をつけて頂いたんです。それが佐々木守先生。」
ただ『男どアホウ甲子園』での佐々木と水島の関係は、『巨人の星』の梶原一騎と川崎のぼるとの関係とはちょっと異なっていた。『巨人の星』は梶原が大まかなストーリーを書き、川崎が忠実にそれを再現するという形だったのだが、佐々木は、ストーリー(試合が始まるまでと、終わった後)を組み立てるけど、野球の試合のシーンはすべて水島が書き、描いていた。先のインタビューで水島はこう語っている。
「佐々木先生は野球をまったく知らないんですよ。試合開始前と、終了後は原作を下さるんですが、試合が始まると、佐々木先生がその前の原稿の最後の文に試合が終わったらまたお会いしましょうって書いてくださるんです(笑)」(佐々木本人もスポーツオンチなのになぜかスポ魂ドラマや、スポーツ漫画の脚本が多いと語っている。)
そのあと『知ってるつもり』という関口宏が昔司会をやってた番組の総合構成に佐々木守が関わっていたことを知って、どういう人だろうと思うようにはなってきていた。そして決定的な引き金になったのが、坪内祐三が今年連載が急に終了してしまった『論座』の「雑読系」で佐々木守の『戦後ヒーローの肖像』(岩波書店 2003)を紹介していたのと、2004年の『新潮』で坪内と四方田犬彦が対談していたとき、佐々木の『戦後ヒーローの肖像』と、足立正生の『映画/革命』(河出書房新社)に二人が言及していたのを読んだからだ。
『戦後ヒーローの肖像』は「体験的子ども番組史」と帯には銘打っているのだが、あとがきで本人が「個人史に近くなってしまった」と語っているように、佐々木守自伝といったほうが通りが良い。山中峯太郎や高垣眸どの大衆小説にはまっていた少年が、明治大学で児童文学をやろうと思って上京し、早大童話会の「少年文学宣言」に衝撃を受け、古田足日、山中恒、神宮輝夫、鳥越信、佐野美津男らとともに同人誌「小さな仲間」を立ち上げたり、砂川闘争への参加、『記録映画』の編集(この時代は花田清輝、関根弘などが作っていた記録芸術の会とも密接な関わりがあった)などをして活動していくうちに、佐野美津男からTBSの橋本洋二プロデューサーを紹介されたことから放送の世界に足を踏み入れていく。又『記録映画』の編集に携わっていた折に、大島渚、小山明子、石堂淑朗と関わるようになり、後の創造社への参加につながっていく。
橋本洋二と知り合ってから、『シルバー仮面』『アイアンキング』といった特撮ドラマに携わったあと、1966年『ウルトラマン』で実相寺昭雄監督と仕事をするようになる。「怪獣墓場」と「故郷は地球」という話が特撮ファンでなくても良く知られているだろう。前者が亡霊怪獣シーボーズ、後者が棲星怪獣ジャミラの登場の話といったほうが分かりやすいだろうか。その後1968年『怪奇大作戦』という円谷プロ製作の特撮ドラマ中の一話、「京都買います」という傑作の脚本を執筆する。監督実相寺昭雄、主演岸田森、脚本佐々木守というトリオが生み出した傑作については、『怪奇大作戦大全』(双葉社 2001)や『不死蝶 岸田森』(ワイズ出版)に詳しいし、鹿島茂も『甦る昭和脇役名画館』(講談社 2005)の中でこのドラマについて言及している。この前後の作品では大島渚の『忍者武芸帳』や『日本春歌考』の脚本、『柔道一直線』『おくさまは18歳』『アルプスの少女ハイジ』や山口百恵の「赤いシリーズ」といったところが有名だろう。1970年に平岡正明、足立正生、相倉久人、松田政男らと批評戦線を組織する。彼らが編集した雑誌『映画批評』は四方田犬彦も絶賛した雑誌だが、ほとんど佐々木守が製作資金を出していたらしい。3年間も雑誌を出し続けたというのも凄いが、この五人がひとつにまとまっていたのは佐々木の力によるところが大きかったと平岡正明が『スラップスティック快人伝』(白川書院 1977)で述べている。
『スラップスティック快人伝』で平岡正明が、「彼(佐々木)自身がエッセイを書いたり、自分の思想と行動をアピールしようとする意志を持たない人物だから、彼がいつも大きなスパンで前面にいることが見えにくい。」と書いているのだが、晩年のインタビューや、『戦後ヒーローの肖像』『ネオンサインと月光仮面』(筑摩書房 2005)を読み返すと、テレビ番組の変質や、彼自身が一番に念頭においていた戦後民主主義の変質への嘆きがかなり出てきているのは、1973年以降ヒーロー物を書かなくなった(それとも書けなくなった?)佐々木自身の自らの嘆きなのか、時代の変化への憤りなのか筆者には分からない。ただ子ども番組(普通は子供番組と書くがこの世代の監督や脚本家たちは山際永三監督の影響から「子ども」を使う人が多い、理由は子供という字は子が大人のお供をしているわけではない。ということ)だからといって、「こんなことは子どもにはむつかしい、子どもにはわからない」といった考えは間違いである。子どもたちはたいていのことはきちんと理解するはずである。という考えには心から共感できた。
実際佐々木守のドラマから、子どもの頃大きな影響を受けている人がいる。『お荷物小荷物』(1970)という佐々木自身も好きなドラマという名作があるのだが、ゴダールの「彼女について私が知っている二、三の事柄」から触発されたドラマで、「脱ドラマ」(俳優が演じている役から突然俳優自身にかえって、自分の考えや経験をしゃべり始めるという、演出ではなく自由に俳優が動く)という設定について関心をよせていた人の名前
を筆者は二人挙げることができる。一人は坪内祐三だ。「雑読系」の『戦後ヒーローの肖像』の紹介の最後は「『お荷物小荷物』の元ネタはゴダールだったのか」という文で終えられていた。もう一人は小西康陽。冒頭の『MACPOWER』のインタビューで「『お荷物小荷物』という佐々木さんのドラマが僕の創造の原点の一つ」と語っているから。放送当時11歳から12歳の彼らに30年以上経過しても痕跡を残し続けるという事は脚本家冥利に尽きるのではないだろうか。(了)
他の参考文献
『仮面ライダーがエントツの上に立った日』奥中惇夫 (筑摩書房 2004)

2006年もそろそろ半分を過ぎるけど、今年もまたさまざまな人が亡くなっている。つい最近作家の吉行理恵が亡くなった。姉で女優の吉行和子が、兄の淳之介と妹の理恵が先に逝ってしまうなんて母(あぐりさん)は思ってもいなかったみたいと思うと語っていたけれど、親にとってみれば子供に先に逝かれるほどつらいことはないだろう。最近の子供の殺人事件などを見ると特に感じるし、筆者なども生来の親不孝者だから、この原稿を書き上げたあとに急逝心筋梗塞でポックリしちゃうかもしれないし。
振り返って見ると、10年前は、死者の当たり年といわれたが、(名を挙げれば武満徹や渥美清など。 今年没後10年でかなりの数の関連書籍や、CD、DVDが再発されている。)10年後の今年もまた、死者の当たり年かも知れない。誰でも限らないけど、人はその人が死んだとき、没後に失ってしまったことの大きさに気づくのだ。つくづく学ばないものである。
なかでも今年、作曲家の伊福部昭と宮川泰が亡くなったことは個人的にはショックだった。今回は宮川泰については取り上げないので、宮川といえば『シャボン玉ホリデー』『ゲバゲバ90分』『宇宙戦艦ヤマト』『生活笑百科』のテーマ曲の作曲者や、年末の紅白で藤山一郎のあとに『蛍の光』の指揮をしている人という印象しか持っていない人もいるが、それだけではない。クレイジー・キャッツやサザンオールスターズの編曲もてがけているし、クレイジーのサウンドへの影響力についてはすぎやまこういち、青島幸男、植木等が作曲の萩原哲晶と、編曲の宮川が組んだからこそクレージーの音楽はいまでも高く評価されているんだということを、ハイビジョン(NHKBSの植木の特集や、BSJAPANかBSフジでやっているGSや過去のテレビ番組についての特集)の番組を実家に帰った折に、たまたまテレビで見て宮川の編曲能力の高さを知ったのである。著作も手元に一冊あった。『サウンド解剖学』(中央公論社 1981)。『歌は世につれ』という本が朝日新聞社から出ているらしいがこれは未見。日本テレビの関係者である井原高忠や斎藤太朗なんかの著作にも宮川の名前は必ず出てくるし、機会があればそれらに眼を通すことをお勧めする。今週末にナベプロの創始者渡辺晋のテレビドラマがフジテレビでやるけど、おおまかなクレージーの歩みやすぎやまこういちと宮川泰の関わりは知らない人には理解しやすいかもしれない。
で本題に移る。ご多分に漏れず、亡くなったあとに関心を抱き、伊福部(以下彼)に関する著作に目を通すようになると、彼の大きさというのがあらためてわかる。われわれ(もちろん筆者もその一人だった)が頭に入れていた事といえば、『ゴジラ』や『地球防衛軍』といった映画音楽の作曲家というイメージ(全部で300曲ほど)がこびりついているだろう。だが実際の伊福部は、現代音楽の作曲と、日本における管弦楽法の研究の第一人者という面、 そしてもうひとつ忘れてはならないのは、教育者としての顔である。東京音楽学校(現芸大)と 東京音楽大学で教鞭をとっているが数多くの作曲家を指導している。芥川也寸志、黛敏郎、松村禎三、真鍋理一郎、矢代秋雄、石井真木、池野成(以上の音楽家は全員東京音楽学校時代の教え子)といった作曲家が教え子で、教え子たちが自らの著作やレコードやCDのライナーに描く伊福部の肖像は、どれもすべて伊福部に対する敬愛の念にあふれている。
上記のことを知ったのも、『伊福部昭 音楽家の誕生』(木部与巴仁 新潮社 1997)と『伊福部昭の映画音楽』(小林淳著・井上誠共編 ワイズ出版 1998)によるところが大。1914(大正3年)北海道釧路生まれ、四女三男の末っ子。子供のころから漢学を学び(家の学問が『老子』としていたため)、札幌二中(現札幌西高校)に進学、同級生に音楽評論家の三浦淳史や作家の船山馨、一学年上には彫刻家の佐藤忠良(佐藤は伊福部の次兄と同学年)がいる環境で育ち、そのころは絵画グループ「めばえ会」というのを伊福部、船山、佐藤の三人でやっていた。それから長兄がマンドリン、次兄がギターやコントラバスをやっていた関係もあり、バイオリンをはじめ、三浦淳史に音楽やるなら、作曲やらなきゃだめだよとメフィストフェレス(伊福部が三浦を表して)のように唆されて作曲を始める。そして同い年の早坂文雄と出会い、三浦淳史と三人で新音楽連盟を組織する。サティやストラヴィンスキー、ラモー、ラヴェルなどの演奏をやっていた。早坂のピアノと伊福部のバイオリンで、サティの『右と左に見えるものを(眼鏡無しに)』を本邦初演したというのには、驚いた。当時の東京音楽学校がドイツ式一辺倒だったのに対し、遠く離れた伊福部や早坂は、ドイツの音楽法が好きではなく、フランスの音楽法に惹かれていた。伊福部、早坂、三浦が入り浸っていた名曲喫茶「ネヴォ」でドビュッシーの「ベリアスとメリザンド」を聴き、言葉にならないほどの感動を覚え、原書や楽譜を読むために北大の教授を口説いて、フランス語を講義してもらうことまでしたという個所を読むと、自己学習能力の高さに愕然とする。当時20歳くらいの学生が、ここまでやっていたことに。そのあと伊福部が1935年に『日本狂詩曲』でチェレプニン賞、早坂が1938年にワインガルトナー賞を受賞して作曲家としての地位を確立する。早坂は随筆家の森田たまの紹介で、東宝で映画音楽を作曲するようになり、伊福部は北大卒業後、森林官を6年勤めた後、ベルカント唱法の第一人者中川牧三(近衛秀麿の弟子、御年104歳!)の勧誘で満州に指揮者の朝比奈隆と一緒に渡り、甘粕正彦とも会ったりしたらしい。作曲もその折にしたそうだが捨ててしまいたいほどひどいものだったと後に語っている。
終戦の一年後に、早坂を頼り上京、その後一月もしないうちに、小宮豊隆の誘いを受け東京音楽学校の教師となり、(森田たまの推薦があった)芥川也寸志、黛敏郎、松村禎三、真鍋理一郎、矢代秋雄、石井真木、池野成を指導、そのあと『銀嶺の果て』(谷口千吉監督)で映画音楽デビュー。その間に『音楽入門』と『管弦楽法』という二つの名著も執筆し始めるのだから、まさに超人的。その後、『ゴジラ』や『宇宙大戦争』を手がけるのだが、『ゴジラ』での監督本多猪四郎や特撮監督、円谷英二との付き合いも非常に面白かった。特に円谷とは月形龍之介と一緒に飲んでいたときに、ただ酒を飲みに入ってきた人がいて、飲み、食い、話をしていたらすっかり気が合い名前も知らずにしょっちゅうあって飲んでいたら、そのあと『ゴジラ』の現場で顔を合わせた時に、お互い名前を知り合って、びっくりし合ったという話は非常にほほえましかった。
伊福部の全半生の戦前と戦後の一時期に話が集中してしまい後半生に触れられなくて申し訳ない。でも『伊福部昭論』(小林淳 ワイズ出版 2005)のような伊福部研究の大著もあるから、そちらを読むか、伊福部の名言である『音楽は音楽以外の何物も表現しない』という言にもあるように伊福部の音楽に浸ってほしい。
伊福部が最初の講義で引用したというアンドレ・ジイドの言葉、「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する。これもまた美しいということを、人よりも先に美の刻印を押す人、それも私は芸術家と呼ぶ」それとしばしば引用していたコクトーによるサティ論「雄鶏とアルルカン」の冒頭の第一行。「公衆が君に向かって非難する点を育て給え。それが君だ。」(坂口安吾、佐藤朔訳)を読むとこの人の音楽に対する姿勢が最後まで変わらなかったことが筆者のような門外漢でもよくわかる。特に後者の文章は欠点と長所は紙一重なんだぞというパラドックスではないかと筆者は思う。絶えず音楽を思考し続けた音楽の求道者の座右の銘を知った喜びを結びにしてこの文章を終えたい。
(了)
2006/05/25


新年を迎えて、正月のテレビや新聞を見ていて、興味を引かれた事柄は三つ。ひとつはNHK教育テレビの人間講座の特番『私のこだわり人物伝』、爆笑問題の大田光と作家の村松友視が出演していたのだけど、『向田邦子』について語っていた太田が、向田邦子の恋人が自殺してしまった事について言及していた折に発した一言。「愛情が人を殺すことだってある。愛情ってもんは基本的に個人的な感情なんだ。『世界の中心で愛を叫ぶ』(以下セカチュー)みたいな愛情が存在してたまるか」と。『セカチュー』への批判をNHKで語っていたのにも感動したけど、なぜそういったことを業界の人たち(出版社や、作家、文学者の類)が言わないのかが疑問に思えた。二つ目は山田風太郎の未発表日記を三国連太郎が読み進める番組。戦中派日記は、筑摩書房、講談社、小学館、未知谷などから様々な形で刊行されているけど、それらに掲載されていないものがはじめて公になったということで個人的に非常に興味を持って見た。山田風太郎の透徹した視点はさすがとしか言いようがない。昭和期の日記文学といえば荷風の『断腸亭日乗』、高見順の『高見順日記(正続)』があるけど、山田風太郎の全日記が刊行されれば文学的な意味からすればそれらに並ぶものになることは間違いないなと感じた。
三つ目は東京新聞の著者紹介の記事で小林信彦が最新作『東京少年』について語っていたときのこと。初期の代表作『冬の神話』について語ったあと、「今の日本人は泣きたがっているんじゃないか」ともらしていたのがあたまにこびりついている。
で正月休みを終えて、本屋の仕事に戻ってみるとゲンナリする。見た目も話し方も大嫌いなやつら、テレビに出てくる女性占い師の手帳とカレンダー、真理子やふみや源一郎の元妻が帯に推薦文を寄せている太ったヒーラーの本。が売れるのを見ると、ムッシュかまやつが、サエキけんぞうとの対談で語っていたときの言葉で、「われわれ日本人は選択能力が低い」という言葉を発していたのが、当時引っかかっていたのだが、今考えてみると事実だなとあらためて思う。版画家の浜口陽三が、「日本人は個性が嫌い。他人が違う事をすると嫌がるんだ」というのをサライのインタビューで語っていたのを最近入手した浜口の遺稿集で読んだのだが、どうして皆同じ本を読みたがるのかが分からない。自分が何も考えていないということを露骨に見せてしまうだけなのに。最近うれしいと感じるのはお客さんが人と違う本を手にとってレジに持ってきてくれたときそれが一番。買い手の思索行為への意思が売り手のこちらにもそれだけで伝わってくるから。
前置きが長くなってしまったが、今回紹介する本はどちらも対談本。ひとつは同世代対談集。山田五郎が昭和30年代生まれの万博世代と語り合う番組から生まれた『20世紀少年白書』(世界文化社 2004)。USEN440で放送されていた「STUDIO58」という番組から生まれた本。去年の9月まで放送されていたのだが、とにかくメンバーが凄い。載っているのは13人だが、いとうせいこう、小池雅代、根本敬、名越典文、湯山玲子、石田衣良なんかも番組に出演しているから。個人的には坪内祐三、野崎歓、大塚英志、大友良英といった面々とも語って欲しかったが。で内容に移るが、共通しているのは公立の進学校の出身が多い事。しりあがり寿が静岡高、サエキけんぞうが千葉高、小西康陽が札幌南高など。サブカルおたくとしての顔。「少年マガジン」=大伴昌司=横尾忠則という図式は、みうらじゅん、小西康陽の口からも出てくる。ガロはみうらじゅん、喜国雅彦、小西康陽から話題になるし、少女マンガにしても小西康陽、喜国雅彦、しりあがり寿が、萩尾望都、樹村みのり、倉田江美について熱く語っているし。共通の話題もあるのだが、対談中にゲストが思わぬ事を口にしてしまう事がある。たとえば大月隆寛が早稲田の劇研の出身とか、みうらじゅんの「とんまつり」の発想の原点がオリジナルコンプレックスからうまれたもので、「誰かに借りてきたAというオリジナルがあったとして、そこにプラスBをかませたときに答えがCになればそれはオリジナル」ということに気がつくきっかけが大伴昌司の「カラー大図解」シリーズと語っていた事をポロッと口にしてしまうところは同世代というところが出ていると思う。個人的には小西康陽と唐沢俊一が札幌にいた際、通っていた書店「リーブルなにわ」の話題が興味深かった。坪内祐三や小西康陽が渋谷の大盛堂書店に同時期通っていたように、リーブルなにわに唐沢や小西康陽も同時期通っていたらしいので。リーブルなにわは塚本邦雄や、荒俣宏の本、詩集や小出版の本が並んでいるかなりマニアックな書店でここの仕入れの担当だった方の詳細が知りたい方は坪内祐三の『極私的東京案内』や荒川洋治の『忘れられる過去』に目を通して欲しい。気になったのは筆者自身が中学2年から高校3年まで札幌にいたためでもあるのだが。
でもう一冊は萩原健太の『ポップス・イン・ジャパン』(新潮文庫 1992)、近田春夫、坂本龍一、細野晴臣、Char 、山下達郎、サエキけんぞう、フリッパーズ・ギターなどと対談しているが、近田春夫の発言などはは初出から17年も経っているけどいまでも十分通用する内容である。聞き手の萩原の力量もあるのだが『考えるヒット』や『気分は歌謡曲』の著者の面目躍如という気が改めてする。ただ今読み返してみると、奥田民生(当時ユニコーン)と大槻ケンヂ(当時筋肉少女帯)のコメントである。彼らの当時の年齢は民生が25歳、大槻が24歳なのだが、早熟だなとあらためて感じる。民生が小林旭の初期のもの、クレージーキャッツの、「ただ叫ぶ」というところに影響をうけたというコメントをしてたり、大槻にいたっては、「ぼくはオタクになれなかったんです。オタク的なものにものすごい憧れていたんだけれども、そこまでマニアックになれなかった。だから運動もできない、勉強もできない、女にモテない、しかも、オタクにすらなれない」「いくら音楽を心から愛するたちががんばっても、日本はアメリカやイギリスのようにはならないですよ。絶対。もっと東洋的な、香港映画みたいなゴッタ煮の、ああいう音楽シーンになっていくでしょうね。(中略)芸能界の流れでも、日本人って結局ヤンキー文化っていうか貧乏くさいカラオケ演歌みたいな世界が好きなんですね。だから日本の音楽シーンでもロック人口が増えたったって、ちゃんと音楽を聞いてる勤勉な人が増えたんじゃなくて、ヤンキー層が増えただけなんですよね。ヤンキーと庶民ですね。お茶の間。真剣に洋楽を聞き込んできた人には、冬の時代が来る」(筆者の編集があることをお断りしておく)
こんな明晰な批評をミュージシャンの側から出来る人間はそうはいない。ましてや当時の年齢を考えれば。筆者自身の24歳時とは比較にならない。この眼があるからこそ、鹿島茂や野崎歓から絶賛される『リンダリンダラバーソール』という本が書けたのだ。と改めて思った。
最後に何を書こうか迷ったが、「本を読んで賢くなる事はありえないけど、何事に対しても疑いを持つようになる事だけは確かだ」という鹿島茂の言葉をひいて今年最初のコラムを締めたい。
(了)
2006/01/15


物を知る、もしくは知っているということと、物を書くという行為は別のものということを、山本夏彦の『無想庵物語』(文藝春秋)を読んだ時にはじめて認識した。武林無想庵の知識のすごさについては江口かん(さんずいに換の右側)の『わが 文学半生記』(講談社文芸文庫)に載っている。その場面が『無想庵物語』にも引用されていて、芥川龍之介、谷崎潤一郎、武林無想庵の三人が対談をした際、江口もそこに同席しているのだけれど、三人が議論をしているときに、江口がものを深く知っていると感じたのは、武林>谷崎>芥川という順番だったのだが、ではなぜ武林は名を残さず生涯をおえたのかという過程を追っていく評伝だった。結局は冒頭で書いたとおり知ることと、しゃべる事は同時代の誰よりもできる人だったけれども、書くという行為が不得手だったためである。いまは口述を、もしくは映像で記録する事もできるから現在に生きていたら武林がどういった評価をうけているかは判らないけれども。
ただロラン・バルト(1915〜1980)の晩年の名文句、「愛するものについてうまく語れない」という言葉にもあるように、自分の好きなこと、関心事を他者にたいして表現することほど難しいことはないだろう。他者がそれに関心を持ってくれなければ、難しい。前回のコラムで取り上げた四方田犬彦も『指が月を指すとき、愚者は指を見る』(ポプラ社)のなかで、花田清輝を取り上げた章があり、そのなかで「文学とは表現することではない。表現できないものを前にした戸惑いである。」と述べているし。
むしろ知識をもっている事が足かせになってしまう場合もあるのだろう。最近文学の世界では新人賞の最年少記録ばかりが、取り上げられているけど、15〜20歳位の人たちが取っているのは、本が売れないための話題作りもあるけれど、表現できない戸惑いを感じないこともあるのではないか。ただそういった本を筆者が読み、面白いと感じているかは別問題。渡部直己が『それでも作家になりたい人のブックガイド』(大田出版)で言っているように、作家になるよりは、音楽家、漫画家、映画監督のほうが才能を要することは間違いないと述べていたけれども、最近の作家と呼ばれる人たちよりは、みうらじゅん、大槻ケンヂ、小西康陽、青山真治、黒沢清、中原 昌也、リリー・フランキーといった本来は物書きではない人たちが書いたり発表したりしている文章や作品のほうがはるかに面白いのは確かである。中原昌也なんかは、「原稿を書くのはつらい」と常にこぼしているけど。
最近、アフォリズムにまた目を通すようになった。大学時代はラ・ロシュフーコーやモンテーニュ、マキャべリなんかを読んだけど。現在読み返しているのは花田清輝とヴィトゲンシュタイン。
花田清輝は『花田清輝評論集』(岩波文庫)を何度も読み返している。特に「人生論の流行の意味」は多分一番花田の文章で読み返した文章ではないだろうか。あとは「読書的自叙伝」マルクス主義者時代の花田の読書遍歴を知ることができたのは一番の収穫。ヴィトゲンシュタインは以前古本屋でアルバイトをしていた時、アルバイト仲間に大修館書店のヴィトゲンシュタインの単行本を読んでいた人がいたことと、『吉田健一集成 別巻』の月報で三浦雅士が吉田健一とヴィトゲンシュタインの会話になった時、吉田健一が「哲学はヒュームで終わったんじゃないの」と言った際、三浦雅士が是非読んでくださいといったら、そのあとヴィトゲンシュタインを吉田健一が読んでいることを人づてに聞いて大変嬉しかったことを書いていたから。主著『論理哲学論考』は書店で触り読みしたくらいだが、『反哲学的断章』(青土社)は旧版と増補改訂版二種類を持っている。今それの比較を読み返しながら比較をしているところなのだけれど、ヴィトゲンシュタインという天才のエッセンスをゆっくりと味わっていることはたしかである。
今思うことはひとつ、筆者みたいなものが花田やヴィトゲンシュタインについて書くのは無粋だということ。是非本屋に飛び込んで作品に触れてほしい。花田は文庫が入手不可だが、影書房から『花田清輝集』が出ているはず。(了)



私事ではあるが、今年三十路になる。あっという間に30年、1年という年月が日増しに短く感じるような年になってしまった。とにかく人生五十年なんていわれていた時代からすれば、半分以上過ぎてしまったわけだし、人生八十年などといわれている現代でも三分の一は過ぎてしまった計算になる。
昔、内田百關謳カが、人間の最良の幸福とは?と誰かから質問されたとき「この世に生れ落ちてこない事」という名言をおっしゃった事があったような気がしたが・・・。確実に言っていたと思うが作品中なんであったかはっきりしない。けだし名言である。ただこういう名言を吐いた先生は八十二歳で大往生を遂げたのだが。
私的には暗黒の二十代を越す事が出来たのは幸運だったというべきか。三月ごろにはちょっと危ないトラブルにも遭遇し、もしかしたらこの世とオサラバしたかもしれないし、もし生まれ変わってもあんな二十代なんてもう真っ平だという思いがある。
普通のひとは、高校から大学にかけての時代に、自分の存在を確立するみたいだけど、もちろん例外もいて、自分の幼年期が作品の源泉になっている人、例を挙げれば澁澤龍彦や菊池成孔みたいに自分の幼年期はべらべらしゃべるけど、二十歳のころなんかのことはほとんどしゃべっていない。最も澁澤の二十代に関しては関係者の数多くの証言があるし、菊池も『No Wave』という本に一文をよせ、青春時代が二年間で終わったのは良かったなどと振り返ってはいるけれど。ただそれは、澁澤や菊池が幼年期のそういった記憶を鮮明に覚えていて、絶えずそれに目を向けているからである。
四方田犬彦(1953〜)は典型的な前者。鹿島茂は『永遠の高校生』、青木保はサントリー学芸賞受賞の際、『マルチオタク』と呼んでいるけど。
どんな事に対しても高校生のような好奇心に満ちたまなざしでアプローチできる視座を持っているのは驚嘆を感じえない。現在進行中の仕事でもパゾリーニの詩集の翻訳(イタリア語)、ドゥルーズの大著『シネマ』(宇波彰との共訳。もう一人の訳者は宇野邦一、フランス語)の翻訳があり、さらに『マルコポーロと書物』(竢o版社 2000)の巻末にある18冊のこれから出す本として挙げていた本のうちここ五年間で10冊くらいはすべて執筆が終わっているというとてつもない仕事量、さらに明治学院大で教鞭をとっている・・・。脱帽である。
四方田犬彦について深く知りたいならまず『マルコポーロと書物』巻末に全著作リストもあるので収集に重宝している。四方田が高校生のころに書いた文章も掲載されているのだが、何を食ったらこんな文章が書けるのだろう。(四方田自身は高校生のとき1歳下の中条省平の文章を「季刊フィルム」で見て衝撃を受けたらしい。)何回も読み返す本なら『クリティック』(新装版 冬樹社 1991)。
筆者の中での流行は『指が月をさすとき、愚者は指を見る』(ポプラ社 2003)という50のアフォリズム集。
とりわけ「恋する相手より、恋していない相手こそ」(パイドロス)という言葉に今回のコラムタイトルは多くを負っているという事を述べて今回の雑文をおしまいにする。(了)