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松本昌次 『わたしの戦後出版史』(トランスビュー)
津野海太郎『おかしな時代』(本の雑誌社)
榎本了壱『東京モンスターランド』(晶文社)
という三種の編集裏話を通読した。こういう話がもともと好きな性分でもあるのだがやはり面白かった。
まずは、松本の本から、未来社の編集者時代に、花田清輝、平野謙、埴谷雄高、丸山真男、藤田省三らの代表作の編集に関わっている。花田の『アヴァンギャルド芸術』、平野の『政治と文学の間』埴谷『濠渠と風車』丸山『現代政治の思想と行動』など手がけた名著の裏話を知ることが出来たのは貴重。個人的な好みでは松本の富士正晴への思い入れが良かった。小沢信男がみすず書房からだした書籍にも出ていた庄幸四郎さんという大工さん(丸山真男や竹内好、藤田省三などにも気に入られた人)と松本との関係は、写真家矢田金一郎と未来社の創業者西谷能雄に並ぶ、(大学の同級生玉井五一(元創樹社)や未来社への就職を頼んでくれた野間宏もいるけど)松本が編集者になるきっかけを作った事を知ることが出来た。その後松本が編集し『富士正晴集』(影書房)を購入した。月報に収められた富士のアフォリズムが素晴らしくて講談社文芸文庫か、岩波文庫で編集してくれないかと思っている。
津野の本は晶文社時代の話。平野甲賀との出会いや、植草甚一、高平哲郎、片岡義男との編集者としての関わり、岸田森、草野大悟との付き合いも『不死蝶 岸田森』(ワイズ出版 この本はまだ所持していない)にも津野は一文を寄せそれを読んでいたけれど、六月劇場に入れ込んでいった背景がやっとつかめた。岸田森に植草甚一を紹介したらたちまちジャズ・フリークへ変貌したとか、六月劇場を含めた演劇活動に専念していたとき、後任として編集者で入ってきたのが長田弘、そのついでに久保覚(現代思潮社およびせりか書房編集者)を小野二郎や津野が引っ張り込もうとしたらしいが、久保覚が中村勝哉社長と喧嘩してその話がおじゃんになったとか、ちょっと残念な話もある。あと小野二郎の編集企画と、行動力は凄いけど、実際の本作りは・・・。この本を読まないと見えてこないかもしれない。
松本と津野は年齢差は11歳違うのだけれど、「新日本文学」との関わり、「演劇活動」への参加、多分指摘されてはいないけれど花田清輝の思想的影響下にあること(特に『アヴァンギャルド芸術』)は二著を読んだものなら察しがつくだろう。
榎本了壱は、萩原朔美とならぶ「ビックリハウス」の仕掛け人だけど、粟津潔の弟子だったとか黒川紀章とのかかわりは全く知らなかったので、興味深く読んだし、団鬼六と芳賀書店を面白く読ませてもらった。
それと榎本があとがきで書いている事だが、かいぶつ的なひとたちの死を、見届ける立場になってしまった。それが時代の終焉と関わっている事を痛切に感じている事が伝わってくる文だった。
三者に共通しているのは、(特に松本や津野ははっきり書いているから)「売れる」ということだけで大前提で仕事をしてはいない事。物理的制約はあるけれどもその中で考え抜いて仕事をしたことが、90年代世代や00年代世代から見ると、60年代から80年代に放たれた輝きが見えてくるのは個人的な感想だろうか。(了)
まずは「乱読」から
「読書」
ユリイカ2001年7月号 特集「イタリア」
ここ最近での私の読書のイタリア思想系ブームを作ってしまった本。
和田忠彦、岡田温司、四方田犬彦の三頭対談、もう一方の三頭対談は、鈴木了二、松浦寿夫、和田忠彦。
紹介されているイタリア関係本を片っ端から目を通したいという気持ちに向かわせる。
それで購入した本。未読多数。
『イメージの裏側』 フェデリコ・ゼーリ(八坂書房)
『イタリア絵画史』 ロベルト・ロンギ(筑摩書房)
『モラヴィア自伝』アルベルト・モラヴィア(早川書房)
『目的としての人間』アルベルト・モラヴィア(講談社)
『カラヴァッジョ鑑』岡田温司編(人文書院)
『モランディとその時代』岡田温司(人文書院)
『エーコの文学講義』ウンベルト・エーコ(岩波書店)
『開かれた作品』ウンベルト・エーコ(青土社)
『ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎』カルロ・キンズブルク(みすず書房)
『必要なる天使』マッシモ・カッチャーリ(人文書院)
こちらはその中で一応目を通した(読んだ?)本
『スタンツェ』ジョルジョ・アガンベン(ちくま学芸文庫)
『中味のない人間』ジョルジョ・アガンベン(人文書院)
『幼年期と歴史』ジョルジョ・アガンベン(岩波書店)
『エニグマ』マリオ・ペルニオーラ(ありな書房)
特にアガンベンの3点の書籍に呆然。『中味のない人間』執筆時のアガンベンは28歳。これが処女作って。自分の年齢を省みると何をやってきたのかと、ため息。
『スタンツェ』はグランヴィルから始まって、最後はセザンヌで締め。途中のザクスル、クリバンスキー、パノフスキーの三人共著『土星とメランコリー』(晶文社)への批判が、凄い。この時ですら30代。今の自分、参りましたとしか言葉が出てこない。
ここからはイタリア関係以外の本。
『戦後が若かった頃』海老坂武(岩波書店)
自伝的三部作の第一弾。自ら「左翼的人間」という著者は、サルトル、フランツ・ファノン、メルロ=ポンティ、ジュネなどの翻訳が有名。
1960年代の東大仏文の輝き。蓮實重彦、豊崎光一、清水徹、鈴木道彦きりがないのでこの辺で。もともとこの本でコラムを書きたいと考えていた。
『闇屋になりそこねた哲学者』木田元(晶文社)
『猿飛佐助からハイデガーへ』木田元(岩波書店)
「爆笑問題の爆問学問」から関心が沸いて読んだ本。テレビで見た内容と重なる部分が多かったから、すんなり読めた。最近の『反哲学入門』(新潮社)や文庫化された『木田元の最終講義』(角川書店)にも目をとおしたくなってくる。小野二郎や生松敬三への関心もまた再燃してきた。あと木田元が語った語学学習法。独学で、英、独、仏、ギリシャ、イタリア、ラテン語(但し読み書き)が出来るという。
『ぼくは散歩と雑学が好きだった』小西安陽(朝日新聞社)
十数年ぶりにでたスクラップブック第二弾。まずカバーをめくるのを忘れないように。
日記は必読。和田博巳(はちみつぱい)や若林純夫(武蔵野タンポポ団)とのかかわりを読んではじめて知った。
『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスV世研究』菊地成孔 大谷能生 (エスクァイアマガジンジャパン)
ついに出たマイルス本。東大でこれが実際に講義されたことに羨望を感じる。モグリさんがDVD録画などしていないだろうか?
マイルスが流行とある程度、距離をとりながらアプローチをかけていた事を再確認。マイルスのファッション=モードと、音楽形式=モードは密接な関連があることをはじめて考察した本。
毎日新聞の書評で松原隆一郎もそこをとりあげていた。
『スペインの宇宙食』菊地成孔(小学館)
菊地の処女作を再読。ウェブ日記の箇所、倉地久美夫や、外山明、今堀恒雄、南博について書かれた記述を読み直す。昔読んだ箇所をすっかり忘れている自分に気づく。
それはそれで面白いのだが。
『半歩遅れの読書術U』日本経済新聞社編(日本経済新聞社)
日本経済新聞の日曜書評の名物コラム、「半歩遅れの読書術」。阿部謹也、河合隼雄、城山三郎はすでに故人。
隈研吾が、吉田健一「ヨオロッパの世紀末」、猪木武徳がオルテガ「大衆の反逆」、蓮實重彦が「中井正一エッセンス」、杉本秀太郎はモンサンジョン「リヒテル」などを挙げている。
もっとも気になった文章は阿部謹也がエドワード・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)について書いた文。専門家とアマチュアの問題について。
この辺で「乱視」
「中西夏之 新作展」松涛美術館
「センター」中西夏之を、はじめて見に行く。新作展のため展示作品数は少ない。色は紫と白が基調になっていた。不勉強のため中西の「思考」=「絵画」に入り込むことが出来なかった。以前の図録や著作を見返してみたい気持ちに駆られる。鑑賞が終わったあと、図録を購入したのだが、一人一冊という張り紙が。業者やマニアが買い占めていたのだろうか。
「タカダワタル的ゼロ」
テアトル新宿で、レイトショーで上映されたもの。確か水曜日だったと思う。均一料金のため。「私の青空」を高田渡が歌うとき、いつでも感動してしまう。高田渡はジョアン・ジルベルトに近い境地にいたと思えてならなかった。パンフレットにうえやまとち(「クッキングパパ」の作者)が高田渡との意外な交流を書いている。
「赤塚不二夫なのだ」(NHKプレミアム10)
あらためて不世出のギャグマンガ家だったことを再確認。町田健、斎藤環、中条省平の考察も○。みうらじゅん、しりあがり寿、喜国雅彦の対談も。みうらじゅんの「現実がギャグを凌駕してると、ギャグが成立しない」という考察は卓見。病に倒れる前に、やじきた珍道中をマンガ化しようとしていた事を見て、作品になってほしかったなと思う。
「エリック・クラプトン・ライブ」(NHKBS)
全部を見たわけではないが、グレッグ・フィリンゲインズ(キーボード)がアフロ・アメリカンだと知って驚く。名前と演奏スタイルからずっとドイツ系と思っていた。
最後は「乱聴」
テニー・ザイトリン&チャーリー・ヘイデン「Time Remembers One Time Once」(ECM)
ジョン・アバークロンビー、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネット(ゲイトウェイ)「In The Moment」(ECM)
ドン・チェリー、デューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェル「Playing」(ECM)
マーカス・シュトックハウゼン/ゲイリー・ピーコック「COSI LONTANO QUASI DENTRO」(ECM)
この三ヶ月本当に何も出来なかったという思いだけが残る。(了)

織田作之助賞を受賞した『洋酒天国とその時代』(小玉武 筑摩書房 2007)は、「洋酒天国」という1960年代を代表するPR誌の製作現場の様子が、リアルに浮かび上がってくる好著である。
筆者が知っていたのは、開高健、山口瞳、柳原良平の三巨頭が強烈な雑誌という印象(それは間違いではないけれども)だったのだが、ADの坂根進、ロゴデザインの早川良雄、宣伝部長の山崎隆夫、編集の酒井睦雄といった面々がいて成立した雑誌という事もこの本を読んでからはじめて知った。
一番新しい視点と見えるのは、スポンサーでもあった、佐治敬三が「阪神間モダニズム」の影響を受けていたと見るところではないか。1991年に行われた「小出楢重と芦屋―昭和モダニズムの光彩」展(芦屋市美術館)と1997年に芦屋市谷崎潤一郎記念館で行われた「阪神間モダニズム」展以降、西は六甲から御影、東は夙川、西宮にいたる六甲山麓の文化的風土は、研究者の人たちから俄然注目されるようになっているが、著者の小玉氏は、自身が5歳から7歳までの多感な時期をこの阪神間で過ごされた事もあり、とりわけ関心があったようだ。ちなみにこの阪神間の出身者たちには、淀川長治、花森安治、田宮虎彦、島尾敏雄、遠藤周作、村上春樹、中島らも、村上知彦などがいる。
筆者が斬新だと思ったのは、佐治よりも八つ年上の花森安治(昭和を代表する超編集者、元「暮しの手帖」編集長)との比較。生活文化に対する強い関心や「なにか新しい事はないか」を常に求める姿勢はジャーナリストと経営者としての違いはあるけれども、二人は似たようなものに関心があったし、コンセプトや発言にも共通項が目立っている事を、小玉氏は指摘している。
実は佐治敬三は「洋酒天国」を立ち上げるまえに「ホームサイエンス」という雑誌を作っていて、その編集をやっていた。売れない雑誌はやめたほうがいいと阪急社長の小林一三に言われて、休刊したのだが、「ホームサイエンス」の編集部に在籍していたのが、開高健夫人となった牧羊子で、開高と佐治との付き合いはそこから始まっている。
筆者は書店勤務をしているので、とりわけ花森の「暮しの手帖」の販売戦略に関心を持った。ムックサイズの導入、品切近くなったら重版、返品による在庫リスクを防ぐというやり方をとっていたのだが、このやり方は出版不況の今、一つのコンセプトのたたき台に出来るテーマだと思う。
他にも開高健、山口瞳、柳原良平それぞれのエピソードだけで一章あるので取り上げなかったが、興味深い話もいくつかあった。山川正夫が「洋酒天国」に一時期在籍したこともあったとか、片岡義男が「テディ片岡」名義で執筆した事などなど。これ以上は読者の方々におまかせ。
唯一残念に思った事は索引がないこと。洋酒天国の全巻総目次は大変ありがたいのですが。(了)

2007年もあっという間に終わり。なんとなく今年も年を一つだけ重ねたのみで終わった気がする。後悔が残らないようには、自分自身では過ごしたつもりだけれども、他人からどう取られているかはまったく判らないが。
東京人形倶楽部さんが、2007年を没後20年、30年、50年とか、生誕100年とかやられていた。没後20年だったら、澁澤龍彦、堀内誠一、磯田光一、前田愛、没後30年、吉田健一という名前を挙げて追悼していたが、筆者が見るところ、東京人形倶楽部さんは、名を挙げていなかったので、没後20年を迎える人の中に筆者がこの人の名前を書き足しておこう。足立和浩(1941〜1987)〈元都立大助教授〉である。確かに澁澤龍彦、堀内誠一、磯田光一、前田愛といった面々と比べたら、名前は知られていないし、それもやむをえない部分もある。本人の著作よりも、良く知られているのは翻訳書だからだ。ドゥルーズの『ニーチェと哲学』(国文社)、ブルトンの『通底器』(現代思潮社(現在は現代思潮新社))、そしてデリダの『根源の彼方へ―グラマトロジーについて』(現代思潮社)の翻訳者としての顔。
しかし筆者が考えているのは、都立大大学院での、指導力とその影響力あるいは感化力といってもいい。内田樹(1950〜)〈神戸女学院大教授〉、西谷修(1950〜)〈東京外語大教授〉、合田正人(1957〜)〈明治大学教授〉の三人に与えた影響は大きく、彼らが翻訳者、研究者として、出て行くきっかけを作った人でもある。内田は自身のサイトやブログで、レヴィナスの『困難な自由』を国文社から出す際に、足立先生が紹介してくれたことを書いて、足立への感謝を綴っているし、合田も『レヴィナス』(ちくま学芸文庫)のあとがき(初出は弘文堂)で足立が亡くなったことへの追悼の気持ちを綴っていた。
で足立の著書へ移る。『知への散策 〈現代思想入門〉』(夏目書房 1993)は、最近営業停止になった版元から出版されたもので、1980年に白水社から出た本の増補改訂版。ラカンからフーコー、レヴィ=ストロース、バルト、デリダという感じで流れていくのだが、とりわけデリダの『エクリチュールと差異』のルソー論のポイントを押さえた文章は、「オナニズム=自慰=想像力」という構図が見事である。第二章では当時は作家、批評家として著名だったブランショをとりあげている事もポイントだろう。現在ブランショが、思想家としての顔を持っている事は、ある程度哲学に関心がある人なら知っている。ブランショが盟友レヴィナスを通してハイデガーを知った事も研究が進んで明らかになっているけれども、1980年の刊行当時、ブランショがハイデガーのヘルダーリン解釈に多くを負っていることを喝破した人は、いなかった。批評家としての顔は、同じく都立大の教授でもあった故篠田一士が、20世紀の五大批評家と呼んでいたけれども。(他の四人はベンヤミン、ヴァレリー、E・ウィルソン、ルカーチ) 最後に絶筆が載っている。「現代思想入門」という著書を構想していた際に急逝したため、その構想表が載せられているのだが、ニーチェ、バタイユ、バフチン、クリステヴァ、ドゥルーズ&ガタリの「笑い」を考察する意図が書かれていた。生前に書かれた本に『笑いの戦略』(河出書房新社)、『笑いのレクチュール』(青土社)などがあったから、それを追及していく予定であったのが、道半ばにしてという気がする。『笑いの戦略』で哲学奨励山崎賞という山崎正一が創設した賞の最後の受賞者となったのだが、この本の前書きで賞を送った山崎正一が、東大助手時代の足立のことについて書いていて、学園紛争時、足立君が学生側について行動した事が、「笑い」への考察へつながっているんじゃないかという一文を寄せていた。『知への散策 〈現代思想入門〉』の解説で愛弟子の合田正人は、「サルトルをやるのがつらくなってね」とこぼしていたことや『根源の彼方へ―グラマトロジーについて』の翻訳から啓示のようなものを得て、「笑い」というテーマを軸に知的散策を進めていったのではないかと解釈している。足立を「近代に憑かれた人」であったとも述べている。合田がベルグソンの講義注解や新訳を盛んに出しているのにも「笑い」への合田なりの考察が働いているのかもしれないと筆者は個人的に推察してしまう。また内田、西谷、合田の共通したテーマでもある「近代批判」も、合田自身も述べているけど「近代を骨の髄まで味あわなければ、近代批判なんかできっこない」という姿勢を足立和浩は内田、西谷、合田の三人には身をもって見せたという事はこの本から筆者は感じた。先にコラムで取り挙げた由良君美もそうだけど、弟子たちが一本立ちすると師の影が薄れていくという現実は、間違いなくある。早世したため、足立はそれを味あわなかったけれどもし存命だったら、内田、西谷、合田の現在の思想的な立ち位置も少し変わっているのかもしれない。これは邪推だけれども、井上章一がいうように邪推も一つの楽しみでもあるから。(了)

「スタジオ・ボイス」(INFAS)。今でも刊行されていて、「新しい」音楽や、「新しい」アートを紹介してくれる雑誌。
創刊は1981年。去年が25周年ということで、赤田祐一(団塊パンチ編集長)や、野田努(REMIX編集長)といったつわもの達が、受けた影響を語っていたのだが、その中に、創刊編集長だった、佐山一郎のインタビューが掲載されていた。結局買わずじまいだった。が、最近、佐山の回想録『雑誌的人間』(リトルモア 2006)を購入した事もあって首を突っ込んでみたくなった。
佐山の名前を知ったのは、インタビュアーとしてだった。『「私立」の仕事』というジョン・カビラ、チチ松村、石田純一にインタビューした本を見て、聞き手として面白い人にインタビューするなと感じていたのだけど、そのインタビュアーとしての能力を最も前面に押し出していたのが、1980年代佐山が編集していた「スタジオ・ボイス」だったのだ。
岡崎武志や坪内祐三などもこの頃の「スタジオ・ボイス」の輝きを語っている。
岡崎は『古本でお散歩』(ちくま文庫)で、村上春樹が表紙になっている「スタジオ・ボイス」を取り上げて、こんなポーズをさせて表紙を撮影する事、今だったら絶対やってくれないと思う。と書いていた。
坪内は『私の身体を通り抜けていった雑誌たち』(新潮社)で、「スタジオ・ボイス」時代の佐山一郎について、当時20代だった佐山をえらく早熟だなと感じたという。表紙のインタビュー、景山民夫、松田優作、村松知視、岡本太郎、そういったひとたちが表紙に登場したり、立川直樹と加藤和彦との対談や、渡部直己の『現代口語狂室』(単行本を持っているのだが、あとがきで渡部が、矢沢永吉の話し方について、佐山一郎に紹介されたことから、矢沢についての一章を書いた事が、記載されていた)、猪瀬直樹の『日本凡人伝』の連載誌でもあったことを書いていた。
確か赤田祐一や小西康陽と「クイックジャパン」(49号?)で鼎談していたときも、坪内が、佐山一郎時代の「スタジオ・ボイス」を、持ち出して話を切り出したのだが、赤田祐一は「ちょっと気取ってるというか、鼻に付くところがありました。佐山一郎、でしゃばりすぎんじゃーねえよと思っていた。」と返答していた筈。
で『雑誌的人間』に触れる。内容は、佐山が流行通信社に入社してから、今までの25年を凝縮した1冊と言っていい。「インタビュアーとしての顔」「スポーツライターとしての顔」「編集者としての顔」がこの本から見えてくる。まず佐山を一躍有名にした、インタビュー。「スタジオ・ボイス」誌上のインタビューは、版権問題か何かで、掲載はされていない。が、今井美樹、小田和正、小倉紀蔵、佐原真などにインタビューしたものが掲載されている文を見ると、かなり突っ込んでいく。佐原真の幼年期の話とか、小倉紀蔵の韓流への意識など。とりわけ印象に残ったのは、作家、編集者、料理栄養学研究家、丸元淑生のインタビューである。坪内祐三も「三
茶日記」か何かに書いていたと思うが、昭和30年代に「書肆パトリア」という出版社があり、土門拳の『筑豊のこどもたち』長谷川四郎の『遠近法』などを刊行した。それが東大在学中だった丸元淑生が起こした出版社(編集者も兼任)だった。また『週刊新潮』の「黒い報告書」が丸元が「村上進」名義で書いていた事、『週刊女性』のワンマン編集長だったこと、丸元の小説『秋月へ』が芥川賞候補になったとき、最後まで開高健が強硬に反対して、受賞が見送りになったというエピソードなど。当時の丸元について、調べている研究は見たことがないし、丸元本人の口からその時代の話を聞いているというインタビューは非常に貴重である。
他には「スタジオ・ボイス」時代からの長い付き合いである猪瀬直樹のエピソード。『編集者になる』というメタローグから出た本に佐山一郎が確か書いていたと思う。(インタビュアーとしての心構えや技術を猪瀬直樹から盗んだみたいな事)ちなみに意地悪い筆者は、現在東京都副知事になった猪瀬直樹をどう思うか佐山一郎に聞いてみたい。 安原顕との関わり。朝日カルチャーセンターでの付き合いや、インタビュー二本。
勿論一番のメインは佐山編集長時代のスタジオ・ボイス時代の話。ただエピソード満載で引用をしにくい。こればっかりは本に眼を通していただいたほうがいい。ただ佐山本人にはいまだに「元スタジオ・ボイス編集長」といわれることへの抵抗はあるようだ。自分の名前が「昔の名前で出ています」という感じがあって四半世紀何をしてきたんだろうという思いを馳せることもあるらしい。ただ一時代を築いてしまったものの宿命とも筆者には思える。
最後に佐山の雑誌哲学を引用しておこう。
「規格外の生き方や、考え方、ジャンルの埒外のジャンルを求めて生きてきた。学校や塾が心から嫌いだったからこそ、雑誌や本が大切だった。不良、落ちこぼれが堂々と敗者復活できる夢の砦として雑誌はある」
(帯文から)
余談 佐山一郎の写真を見ていると、若い頃の印象と今の印象はそんなに変化していない。同世代の伊藤俊治や四方田犬彦なんかは歳相応に太ったり、しているのだが。若い頃と今の印象がさほど変わらない人には、浅田彰や松浦寿輝などがいる。


去年亡くなった、山村修(書評家狐)に『狐が選んだ入門書』(ちくま新書 2006年)という生前最後に出された著作があって、前書きのなかで、山村修は、「入門書こそ究極の読み物なのです。」という文章を書いていた。
『狐が選んだ入門書』で取り上げられた入門書は、武藤康史『国語辞典の名語釈』、エルンスト・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史』、前田英樹『絵画の二十世紀』、辻惟雄『奇想の系譜』、菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術―高橋由一からフジタまで』など(これは筆者が関心のある書名だけを挙げている事はあらかじめお断りしておく)だが、これらの本は「入門書」としてはかなり重いなと思えた。もちろん「読み物」としてとらえれば文句無しに全部すばらしい。
ただ山村修は「思想史」というかたちでしか、思想に関する本を取り上げてくれなかったので、思想についての章をもう一章追加してほしかったという願いも込めて、今回の文を綴らせてもらう。
思想で「入門書こそ究極の読み物」として、筆者が挙げるならば酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書 1996)と中山元『はじめて読むフーコー』(洋泉社新書 2004)だろう。とにかく薄さと反比例するかのように内容は濃い。
どちらの著者も、ジョルジュ・バタイユとミシェル・フーコーの優れた研究者であり、翻訳家であること。酒井が『至高性』『純然たる幸福』(人文書院)『無神学大全 ニーチェについて』(現代思潮新社)の翻訳、中山は、フーコーの処女作『精神疾患とパーソナリティ』(ちくま学芸文庫)やフーコーの晩年のテーマのひとつでもあった『真理とディスクール パレーシア講義』(筑摩書房)の翻訳を手がけている。もうひとつはどちらの著者も絶えず、自分を壊しつづける(=拡げつづける)姿勢が明確に伝わってくる事だ。酒井は、『ゴシックとは何か』(ちくま学芸文庫)や『絵画と現代思想』(新書館)などで、バタイユ研究だけではなく芸術論をてがけはじめたし、中山は、『思考の用語辞典』(ちくま文庫)といった哲学の用語集や、フーコーだけではなく、レヴィナスの『超越と知解可能性』(彩流社)、カント『永遠平和のために』(光文社古典新訳文庫)アーレントの翻訳も手がけている。
内容に触れていく。
まず、『バタイユ入門』だが「はじめに−若い読者へ」と題されたまえがきを読んでいただきたい。この入門書のすべてが集約されている。酒井がバタイユと出会い、どのように自分の専門としていったかと、日本におけるバタイユ受容史をつづっているのだが、受容史はきわめて重要。もしバタイユにかなり深入りしている人がいるなら大前提としてもっていないといけない知識だと思う。
たとえば、初期のバタイユの翻訳業が玉石混淆だった理由の翻訳家たちの不利な条件を三点挙げている。
「一つは思想が難解。難解な点は三つ。彼の著作が多岐にわたっていること、ヘーゲル、ニーチェとの影響関係が複雑。そして彼自身の文章が混乱している事。」
「二つ目は 母国フランスでの研究も70年代まで発表されなかった」
「三つ目は辞書が完備していなかったこと、当時の仏和辞典で読みこなすのは至難の業、仏仏辞典もバタイユのキーワードを入れるようになったのは80年代」
1970年代のバタイユ神聖視(三島由紀夫、生田耕作など)1980年代のニューアカデミズムによる脱聖視(浅田彰)などとは、パリに留学していたため、まったく無縁だった酒井は、帰国後、80年代半ばに始まったバタイユの未邦訳の重要作品を訳出する試みに参加し、『至高性』『純然たる幸福』『ニーチェについて』を翻訳した。他には『反社会学』(工作舎)『宗教の理論』(人文書院 現在はちくま学芸文庫) 『エロティシズムの歴史』(哲学書房)などが他者によって翻訳されている。現在は静かではあるが、酒井のほか、吉田裕、湯浅博雄、兼子正勝、西谷修といった方々が中心となって研究が進められている。人文書院、書肆山田、筑摩書房、平凡社、現代思潮新社といった版元の協力も見逃せない。研究が進んだ事によってバタイユの思想家としての全貌が浮かび上がり、『眼球譚』『大腸肛門』『聖なる神』といった特異な小説家としてのイメージよりも、『呪われた部分』三部作(他は『エロティシズムの歴史』『呪われた部分』三部作(他は『エロティスムの歴史』『至高性』)と『無神学大全』三部作(『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』)が完訳されたことによって少しずつ変化している。『内的体験』『有罪者』を1960年代にいち早く翻訳した出口裕弘の存在は、極めて大きい。酒井や西谷などは『内的体験』(出口裕弘訳)を読んでいなかったら、バタイユの研究を始めていなかったと筆者には思える。
『バタイユ入門』の内容の中では、第一次大戦後、編集していた雑誌『ドキュマン』のミシェル・レリス、ロベール・デスノスとの関係、結社『アセファル』のピエール・クロソウスキー、パトリック・バルドベルグなどとの関係、極めて重要なのが、『無神学大全』(とりわけ『内的体験』)の成立にモーリス・ブランショの助言が大きく作用した事だった。「体験の権威は体験のさなかだけにあって、体験が終了すると自らを打ち消す」(権威は持続せず、自分を否定していく、もしくは異議申し立ての運動に自らをさらして滅びるままになる。)この助言が、バタイユにとって「宗教的生活に関するすべての論争に終止符を打つものであり、思考の行使の局面ではガリレオ的な重要度の転回を含むものであると、つまりこの答え(筆者注ブランショの助言)は、諸〈教会〉の伝統に取って代わると同時に、哲学にも取って代わると理解したのだった」というもの。つまりこの答え(筆者注ブランショの助言)は、諸〈教会〉の伝統に取って代わると同時に、哲学にも取って代わると理解したのだった」ものだったことがだろう。入門書という形式を酒井は用いているけれども、『無神学大全』についてのここまでの詳細な論考が、哲学がわからない人であっても(筆者のような)なんとなくつかめるような感じを持てたのは、酒井が難解なことを平易に語っていることの証明である。いかに酒井が難解なことを平易に語ってくれたかが読み終えたあとの結論なのである。
『はじめて読むフーコー』は、「生涯」「思想」「著作」の三章構成になっている。内容は非常に濃いのに、入門書という事もあって、です、ます。の文章体だが、まったく嫌味に見えないのは凄い。
「生涯」を追ってみると、子どもの頃の母親への思い入れ(=愛情)が、メルロ=ポンティやロラン・バルトと同じように強かった事。バルトや、フーコーは同性愛者(差別でもちいているわけではないが、同性愛者はとりわけ母親への愛情が強く、それ以外の女性を低く見る傾向があるらしい)というのもあるのかもしれない。高等師範学校時代の、アルチュセールとのかかわりなどなど。とくにジョルジュ・デュメジルの存在。デュメジルの推薦でスウェーデンのウプサラ大学へ移った事で、ヴァ−レル文庫に巡り合い、『狂気の歴史』(新潮社)へとつながっていく。ただその一方で、夭折した現代作曲家ジャン・バラケ(http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・バラケ)との同性愛関係は、スウェーデン行きによって終止符が打たれてしまうといった事にもなったらしいが。余談になるけれどもECMレーベルなどでジャン・バラケの作品が何点か出ているが、フーコーとの関係は知らなかった。ブーレーズとの交友関係は、ブーレーズ自身が著作にも書いているので、知っていたのだが。
フーコーは二度日本を訪問しているけど、「禅」という修行に関心があったという。吉本隆明との対論や、最近増補改訂版が出た、渡辺守章との『哲学の舞台』はフーコーの日本観を見るにはサブテキストになるかもしれない。
「思想」は「狂気」「真理」「権力」「主体」という四大テーマを挙げているが、中山はこの中で「権力」に多くのページを割いているが、筆者自身は「真理」の文章に書かれているパレーシア(ギリシャ語で真理を率直に語ること)に関する考察を興味深く読んだ。「真理を語ることは、必ずリスクを伴う」とか、フーコーにとっての「真理」の概念が、思想家としての変遷で徐々に変わっていくということの流れを見ることが出来る。
「著作」の冒頭で中山は、『思考集成』(筑摩書房)が 文庫になるといいですね。といっていたのだがこの本が出た二年後、文庫でセレクションが刊行された。何か影響はあったのだろうか。未邦訳のものでは『講義集成』『家族の無秩序』、先述したバラケとの書簡集、中絶し三巻と思われていた『性の歴史』の四巻目、『肉の告白』の原稿がありそうだという話を知る事が出来たのは収穫だった。
ところで中山の略歴を知りたかったときに、この新書を最初に読んだ後、前にとりあげた「先生とわたし」の中で四方田犬彦は、由良ゼミ時代の中山の事を書いていた。『「文学集団」というサークルに所属し、その後大学に絶望し、退学。町工場へ入って旋盤工。吉本隆明の『試行』に接近し、現在の彼は、カントの翻訳者で、卓抜なるフーコー論の著者』と見たときに、この新書を読む前に四方田の文章、読まなくて良かった。この新書読む前に四方田犬彦の文章読んでおかなくて安堵した。中山元のフーコー論は、この本と、『フーコー入門』(ちくま新書)のみ。先入観なしで読むことが出来たから。四方田が「卓抜なるフーコー論の著者」などと書いてしまう人の作品を読み込んで書評するなんて暴挙は出来ないと今なら思う。
この入門書二冊を読んで筆者が感じたのはバタイユもフーコーも哲学の中心に「友愛」を置いていたのではないか、バタイユの『ニーチェについて』やフーコーのアルチュセールとの最後の対話を、読み返すとやはりそんな気がする。(了)
(追記)世田谷美術館で行われていた岡本太郎展を見た際、やっと気づいた。岡本の『自分の中に毒を持て』花田清輝の『恥部の思想』などにはバタイユの影響が濃い。「夜の会」という組織も、バタイユの「夜」の思想からきたものらしい。岡本の話では、岡本が「アセファル」みたいな結社をやりたいといったらしいが、花田の反対にあい、グループによる芸術活動に落ち着いたとのことだった。
去年の六月ごろに、以前コラムで取り上げた葦原英了の文を読まれた方から、平出隆の『猫の客』(河出書房 2001)取り上げた事ありますか。というメールを頂いた。
藤田三男の『榛地和装本』(河出書房 2000)をとりあげたとき、寺田博、金田太郎、清水哲男、といった河出の編集者たちの中に平出隆もいたから、当時の河出書房の雰囲気が知りたくて、購入したのだとおもうのだけれど、関心が薄れてしまい、(澁澤龍彦、川崎長太郎、小沼丹などの担当編集者であり、清岡卓行、ねじめ正一、清水哲男と並ぶ詩人の中でも屈指の野球狂などといったことは知っていたのだけれど)未読のまま、積読されていた。 たまたま長谷川郁夫の『藝文往来』(平凡社 2007)を、入手した事もあり、いい機会と思い、読み通すことにした。(併読の理由は後述)
筆者のコラムを読んでいる奇特な方なら判ると思うが、基本的に詩や小説を取り上げていない。雑文、批評、対談、評伝しかないことに気づくだろう。小説はその人の嗜好があることと、最近まったく小説を読んでいないためなのだが。
今回の『猫の客』も小説であり、散文であり、という形式だったからなんとか文章を起こせた。完全な小説であれば、あきらめてお詫びのメールを送った事だろう。誤読かもしれないけれど、中心になっているのは追悼の文なのである。六章と二十一章は、すばらしく素敵な追悼文。六章のYは、詩人の山口哲夫、二十一章は、鍵谷幸信。他にはお世話になった大家さん(ご主人)、そして・・・。(これは記載しないでおく。タイトルとも関係がある)コラムタイトルに使った「稲妻小路」は、平出夫婦が当時住んでいた家のまえにあった小路の形状から、相談して決めたそうだ。夫人は文章の校正をされているらしい。
六章の文章中で、「手ぶらでやっていくのが一番だということを教わったのは、幾人かの作家たちからであり、彼らと仕事をした歳月からであった。たとえわずかの力であっても一級の仕事を支えてみることが、自分に置いては、その勤めを捨てることにつながっていくのが、ふしぎといえばいえるなりゆきだった。」川崎長太郎、澁澤龍彦が亡くなったのち、平出は河出を退社した。そして山口が死んだ後、こう綴った。
「高潔な人間は、他を押しのけてまで出て行くということを思わぬものである。それに当時、時代という河川はこれからもますます、高潔なものからまず押しのける方式で眺めを速めていくらしい、とも思われた。」
それから二十年後の現在はいわずもがな。やめにしよう。
最後に『猫の客』を読んで、長谷川郁夫の『藝文往来』を併読した理由は、「しもやけ残る円盤少年」と題して、平出の『新潮』に掲載された「物言う円盤」を読んだ感想と「伊達得夫と昭和の詩集」で『山口哲夫全詩集』を造る事ができた事と、山口哲夫のことを長谷川郁夫が綴っていたからだ。筆者が『猫の客』を読んで引かれたのは、山口哲夫と、二十九章に登場する一九五○年生まれの随筆家Hさん(この方は誰かわからなかった)の記述なのである。『山口哲夫全詩集』時間があれば探してみたいと思っている。
蛇足 個人的に、帯文がこの本弱い気がする。平出の大学時代の師でもある、出口裕弘に執筆を依頼すれば良かったのに。高潔じゃなくなってしまうか?

内田樹が『子どもは判ってくれない』(文春文庫 2006)で、「読みたい本というのは、自分が探すのではなく、本のほうからおいでおいでをしてくれる」という事を述べていたけど、筆者もそのような事を感じる読書を最近した。今月発売になった『新潮』3月号に掲載されていた四方田犬彦の「先生とわたし」である。四方田自身が悪魔的な師匠と呼ぶ、由良君美(1929〜1990)の評伝である。
四方田の著書『星とともに走る』(七月堂 1997)のなかで、1990年に由良が亡くなったあと、四方田は、「由良君美について書くには長い時間がかかる」と書いていたが、没後17回忌を迎えた今年、ようやくそれが形となって世に出た。
全体で五部構成になっている。1990年の由良の死を四方田が知ったことから始まり、一章が東大の教養課程で初めて教えを受けた回想から、四方田の韓国行きまで。二章が由良の略歴、三章が由良の父親、由良哲次や、母、清子。祖父弥平、曽祖父、吉田賢輔のことなど。四章が由良の晩年のはなし。五章が四方田が、この評伝を執筆しなければならないと考えた「師と弟子」との関係である。
一章のなかでとりあげられた由良ゼミの内容では、選抜試験に赤塚不二夫の漫画のコピーが手渡され、この漫画のどこがどう面白いか分析せよという試験内容だったとか、四方田が由良から受けた講義ノートを久しぶりに読み返して授業風景を素描してみた後、感じたのは、あまりノートを取れるタイプの学生ではなかったのにそれが理路整然と書かれていた事だった。由良君美は思いついてしゃべったようにみえたけれども、大局を抑え、次にその系譜を辿りながら細部に着目するという基本構造になっていたことがわかったと述べている。公式のゼミが終わったあとに、研究室へ移動し第二の即興的な講義が始まるのだった。四方田もこのゼミの時に受けた宿題として、ケネス・バークの『本当に真っ白な牡牛』やロバート・エリオットの『風刺の機能』ノーマン・ブラウンの『愛の身体』(もちろん原書)をそれぞれを一週間で読んでいった(最後のものは自分で購入までしたらしい)、そして由良がエドワード・W・サイード『始まり』(邦訳『始まりの現象』)にいち早く着目していたこと。これが四方田がサイードの名を最初に知った時で、ノートを読み返すまで迂闊にも忘れていたという。
四方田が大学院の修士課程を終え、オックスフォード行きではなく、韓国行きを選んだとき、一番怒られると思っていた由良から、それはいいと言われて、推薦状を認めてくれたそうだ。この章では実名は挙げられていないが、四方田の富山太佳夫や蓮實重彦に対する批判的な姿勢が見える。
二章は由良君美の略歴、由良の著書『みみずく偏書記』『みみずく古本市』『みみずく英学塾』などで書かれていた箇所とかぶるけれども、鶴見祐輔(鶴見和子や俊輔の父)訳の『プルターク英雄伝』が、由良にかなりの影響を与えたこと(他に澁澤龍彦 谷沢永一 多田智満子も鶴見訳『プルターク英雄伝』で西洋古典の世界や文体に影響を受けていると公言している人)への考察や、ドン・ザッキー(都崎友雄)との関わり。境内大学院での西脇順三郎との師弟関係。(ただ対極にある日夏耿之介にも相当の影響を由良が受けている事は四方田自身も述べているのだからそれにもう少し言及して欲しかった。)大学院卒業後NHKの国際局常勤嘱託を務めていたとき、フランス語のニュース翻訳をやっていたのが宮川淳だったとか。嘱託をやめた後、慶大の助教授を務めた後、1965年東大に移る、その後の学生紛争時代の東大の事にはほとんど由良自身が書き残していないため、四方田は、高山宏や、隠岐由紀子に尋ねている。本江邦夫(府中市美術館館長)、伊藤裕夫(富山大教授)や武田崇元(『地球ロマン』創刊者)や中山元(哲学者)などもゼミに名を連ねていたという。
そして久保覚。現代思潮社とせりか書房で、1960年代から70年代にかけて、異端哲学、左翼系芸術論、神話、象徴、祭祀、原型的想像力をめぐる思想家の本を立て続けに出版した凄腕編集者である。四方田は久保が、由良君美を「現代批評の会」というサークルに参加させた事によって由良君美の眼を英文学だけではなく、人文科学へ広げさせた影の立役者であると考察している。
あとは敵視していた、都立大教授であった篠田一士との関係には、相当篠田への嫉妬があったのではないかと、四方田は見ている。(これは筆者もまったく同感) 三章は、父哲次の略歴、四方田は哲次の影を見ない限り、見えない君美の像がある。と述べている。由良君美が横光利一に親愛の情を惜しまなかったのは哲次が『旅愁』のモデルでもあり、哲次が横光に資料を提供していたからではなかったか、曽我蕭白や伊藤若冲の絵画を本の装丁に使うこだわり、(蛇足だが辻惟雄の『奇想の画家』『奇想の図譜』を最初に読んだとき、由良哲次氏所蔵という表記を若冲や蕭白の図に見たとき、得心した覚えがある)哲学もイギリス、ドイツ系(コールリッジ、ハイデガー)が好き、フランス(バルトやデリダ)はあまり好きではないとかの嗜好も。
偉大な父親(大天狗)を持つという事はどういうことなのか四方田は、夢野久作や吉田健一に由良が共感と関心を持って入れあげていたのは、前者が杉山茂丸、後者が吉田茂という巨大な父親を持ちながら、父と子の対立と和解を通してその独自の達観を文学に持ち込んだ事を、自分の参照項目として考えていたからではないかと見ている。
四方田が見た、由良親子の思考スタイルは、哲次が体系的著述を得意とした長距離走者、君美が書評、エッセイ、序文、解説文、編集行為といった短距離走者だったということを語っている。ただ君美の思考の中心にはポエジーがあったとも。
四章の記述は読んでいてつらかった、いちばん仕事が本という形では成立していたのだが、一時期、高山宏が由良と決別を宣言して、深刻な痛手を負ったことや、アルコールによるトラブルに何度も悩まされる四方田や周囲の関係者たち。ただ緑書房という理解ある出版社がいて、編纂した『大泉黒石全集』や退職記念論文集『文化のモザイック』などが刊行できたのは救いだった事は四方田が述べている。
間奏曲と五章はたぶん人を教えるという立場にある人なら、何度でも読むべき章だろう。それだけ中身が詰まっている。内容を少しつまむとジョージ・スタイナーの『師の教え』と山折哲雄の『教えること、裏切られること』の比較と、青年だった四方田が、由良の人間的な弱さに共感を向ける事ができなかったという事実。50歳代に至って少しずつではあるが推測できるようになった事に。
また高山宏が、澁澤龍彦、種村季弘、山口昌男といった人たちから、彼らの著作に丁寧な書評をしたにもかかわらず、その誰一人からも文章において言及されていない事に、了解できないものを感じていた事を山口に対して、由良君美をどう思うか尋ねたとき「自分は低空飛行だが、由良さんは高空飛行だね」とだけ答え高山はそのクールさにいささか失望したという。
四方田は最後に私見として(このあとにお墓参りをするエピローグがあるが)、「かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合のモデルを創出しなければならないものにとって由良君美という存在の再検討は小さからぬ意味を持っているのではないだろうか」と述べているけど、それを無償そして対等でやれる人が今出てくるかなというのが筆者のこの評伝を読んでの感想である。(了)
蛇足、エピローグを読んで磯田光一の存在が最近気になりだしている。由良とも本を贈りあう仲だったというのをはじめて知った。澁澤龍彦との関係や、谷沢永一、前田愛といった国文学者との関係も知っていたけど、由良との関係は知らなかった。中絶している磯田光一著作集あと5冊の早期復活を望む。


1958〜1964年くらいに生まれた現在を代表するクリエイター(作家、批評家、ミュージシャン、美術家etc)たちが、影響を受けたものの一つとして挙がってくるアルバム(レコードあるいはCD)にドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』(1982 ワーナー・ブラザーズ)がある。このアルバムに魅せられた、現在も魅せられている人たちの名前を列記してみよう。
「彼(フェイゲン)はアメリカにおけるディケイドごとの生活様式のちがい、人々のいだく夢や幻想のありようを微妙に音や歌詞の中にもりこんでいる。(中略)ただその時々に人々が提出し、またそれに自分がはめこまれるところのイメージや言葉のスタイルを醒めた手つきでうきぼりにしていくのである。」
上野俊哉(1962〜 現和光大教授)『音楽都市のパラジット』(1990 洋泉社)
「当時、ドナルド・フェイゲンというひとがスティーリー・ダンというバンドとは別にソロ活動をやっていて、83年くらいに『ニューフロンティア』っていうミュージックビデオを作るんですよ。監督がロッキー・ゴードンとアナベル・ヤンケルのユニットで、ワイヤーフレームのCGなんだけどそれがかっちょよくてハマって。」
高城剛(1964 ハイパーメディアクリエイター)『ギャグバンクvol11』中のインタビュー(2004 G.B.)
「1950年代の「安定したアメリカ社会」が抑圧された欲望により成立していたことを主題とする作品は、ドナルド・フェイゲンのアルバム『ナイトフライ』からトッド・へインズ監督による『エデンより彼方に』まで枚挙に暇がない」
大和田俊之(1970〜 慶応大学准教授〈ちょっと反則〉)『ユリイカ2006年4月号 特集菊地成孔』(青土社)
もうひとつ、菊地成孔が処女小説「Q&A」でエンディングを、「ドナルド・フェイゲンの『IGY』がかかっていた」で終わらせていたと思ったのだが、これは確証を持ってないので、引用はしていない。
どうしてというくらいいろんな人たちに影響を与えているけど、私的にこのアルバムを考察していこうと思う。
まず当時の社会的情勢から、ベトナム戦争が終結して6年くらいしか経っていない、米ではレーガン政権の全盛期で、「強いアメリカ」をアピールしていた時期に、フォークのような集団の反戦活動やパンクムーブメントの破壊的態度のように、声高に何かを主張するわけではないけど、聴く人が意識すれば、やんわりとアメリカを批判するアルバムとして出た事。二つ目は80年代の日本の文化的状況が挙げられる。1970年代後半から1980年代初頭にかけてのアメリカ文化の紹介、常盤新平、青山南、川本三郎らが中心となって刊行された冬樹社のアメリカ関連本、角川文庫から出た、ナサニエル・ウェストなどの一連のアメリカ文学、河出書房から出たバロウズやケルアックなどのビートニク世代の紹介によって表層だけではない、アメリカ文化を受容する下地が出来上がった事。
そしてスティーリー・ダンとして1980年に『ガウチョ』を出して以来沈黙していた、ドナルド・フェイゲンがはじめてのソロアルバムを製作したという事でも、このアルバムが受け入れられる下地があった。ジャケットにはじめて自分の写真を載せたということも。現在もスティーリー・ダンのジャケットには本人の写真を表には出していないから。
アルバムの内容に関しては、アルバムのライナーノート、そしてスティーリー・ダン唯一の評伝『リーリング・イン・ジ・イヤーズ』(リットーミュージック 1997)に詳しい。
「1950年代から60年代のアメリカ、郊外に生まれ育った普通の少年のささやかなファンタジー」というのがフェイゲン自身のコンセプト。
録音中のいろいろなエピソードもあるがあえて挙げるなら「ルビー・ベイビー」でマイケル・オマーティアンとグレッグ・フィリンゲインズに、オマーティアンが左手で低いパートをフィリンゲインズが右手で高いパートをピアノの前に二人で座って同時に弾いてもらって連弾ではあるけれども、微妙なずれをつくる。またリズム・トラックに凄くやかましくて、顕微鏡みたいな耳と、ギタリストやドラマーたちを驚かせたエピソードが数多く出てくる。
去年出たフェイゲンのソロ最新作『モーフ・ザ・キャット』でメインドラマーを勤めているキース・カーロックが、ドラムのテンポを試しに変えたことがあったそうだが、すぐに指摘があったらしい。
そしてもう一つは高城剛が述べているように、MTVだ。DVD化された、『ナイトフライ』には「ニューフロンティア」のMTVが収録されている。手元には持っていないけれど昔テレビで見た画像で覚えているのは、ソファか何かに座っているフェイゲンの周りをカートゥーンアニメのキャラクターが走り回るという感じだったと思う。フェイゲン本人はこのアイデアあまり乗り気ではなかったらしいが、結果的には、スティーリー・ダンを知らない人にも、ドナルド・フェイゲンの名前は知られる事になった。
筆者が、フェイゲンを聴くようになったきっかけは、ウェイン・ショーター。『彩 aja』のタイトル曲のソロが聞きたくて購入したのがきっかけ。スティーリー・ダンのゲストミュージシャンとしてスティーヴ・ガッドやアンソニー・ジャクソン、ジェフ・ポーカロ、バーナード・パーディ、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、リック・マロッタ、デニス・チェンバース、クリス・ポッター、ピーター・アースキンなどがクレジットされている事。そしてエンジニア二人ロジャー・ニコルズとエリオット・シャイナーの存在も大きい事を知ったから。
もう一つ決定的な要素をひとつ挙げて終わらせようか。フェイゲンの歌詞の書き方について本人の言。
「 様々な場所や名前は曲に表情を持たせるためのカラフルな要素で、それらをストーリーに紡ぎ合わせることで自分たちの感情やアティテュードを表そうと考えているんだ。"君を愛してる"なんてことは僕たちは歌わないけど、それとは違う方法で感情を歌ってるわけさ」『エブリシング・マスト・ゴー』(2003 ワーナーブラザーズ)のライナーノーツから。
この視点が筆者が今魅せられている理由だと思う。(了)
蛇足1つ。
スティーリー・ダン『ガウチョ』のなかの一曲『マキシン』ですばらしいソロを吹いていたテナーサックスのマイケル・ブレッカー死去。享年57、白血病とはいえあまりにも早逝。
同じ日にアリス・コルトレーン未亡人も死去。
エピステーメーや週刊本の仕掛け人、哲学書房の中野幹隆氏も同じ日に死去。
(その後WBや、水声通信などで追悼特集が出た)
評論家で中央大学名誉教授の安川定男氏も死去。
1月14日は死者の当たり日?


今でも関心があるのだけど、ブライアン・イーノに興味を持ったとき、調べていくと『NO NEW YORK』というイーノがプロデュースしたアルバムが登場する。このアルバムに参加した面々には、マーク・カニングハム(当時MARS)とかリディア・ランチ、最もメジャーに名を知られているのは、アート・リンゼイ(当時DNA)だろう。いまはニューヨークのシーンを代表する大物ばかり。参加した面々の中では、当時最大のスターだったジェームズ・チャンス(ジェームズ・ホワイト&ブラックスもしくはコントーションズ)が去年来日したとき、エスクァイア・マガジン・ジャパンが製作した『NO WAVE』(2005)が刊行された。最も筆者はチャンスにはぜんぜん興味がなくて、ブライアン・イーノとアート・リンゼイ、それと寄稿者、菊池成孔、大友良英、中原昌也、ECDといったミュージシャンが寄稿しているのが気になってこの本を買ったことを覚えている。それぞれがすばらしい文章を書いている。(菊地の文については以前のコラムでちょっと内容に触れてしまったかも)その時はまともに読んでいなかったのだけれど、阿木譲へのインタビューがこの本に載っていた。略歴はちらっと読んでいて、大阪発の『ロックマガジン』(以下『RM』)の編集をやっていた位しか押さえてはいなかった。あと最近発売された『ロック画報』25号の「裸のラリーズ」特集の中でも阿木譲の名前が出てきた。
その後、朝日新聞で中条省平が町田康の書評をしていた時の書き出しが、阿木譲が(聞き手は篠原章)インタビューに答えたときの「日本におけるパンクという答えに対する解答が町田町蔵です。(パンク歌手時代の町田康の芸名ですよ。念のため)」となっていたのを読んだとき、俄然阿木譲という人への興味が沸いてきた。
篠原章のインタビューというのは、『日本ロック雑誌クロニクル』(太田出版 2005)に掲載されたものだった。でこれは通読した。篠原章は本業は大東文化大の環境創造学部の教授だが、学生時代から音楽評論を音楽雑誌などに寄稿しており、筋金入りの音楽ファンである。(たしかいとこにミュージシャンのサエキけんぞうがいたはず。)
帯に、「壊滅した日本ロック雑誌への鎮魂歌」と書かれているように「日本ロック雑誌」について初めて書かれた通史といっていい。赤田祐一『ポパイの時代』(太田出版)と同じように雑誌から時代を探るという視点は面白い。初出誌も同じ『QUICKJAPAN』だし。星加ルミ子(ミュージック・ライフ)、中村とうよう(ニュー・ミュージック・マガジン〈現ミュージック・マガジン〉)関川誠(宝島)といった日本ロック雑誌の一時代を作った編集者たちへのインタビュー。URCフォークリポートや、新宿プレイマップといった、ロック雑誌とは少し関わりがないと一見思うところまで目配りが利いている。渋谷陽一(ロッキング・オン)にもインタビューを申し込んだが、「メリットがないから」という解答で断られたらしい。で架空のインタビューを作りながら篠原なりの「ロッキング・オン」論を語っている。(しかし藤脇邦夫の『出版現実論』(太田出版)では、渋谷陽一はそれほど内容があったとも思わないが、藤脇と対談していたから、自分の経営理論とか雑誌は自分の子どものようなものだから潰さないという事については語りたいようだ。)
で最終章に、阿木譲(RM)が登場する。『RM』が「ロッキング・オン」「ミュージックマガジン」とまず決定的に違うのは、「ロッキング・オン」だったら渋谷陽一の他に松村雄策や、岩谷宏という面子。「ミュージックマガジン」だったら中村とうようの他に、福田一郎、小倉エージ、北中正和といった執筆者、表紙デザインが矢吹申彦っていう感じがあるのに対し、阿木譲の“個人雑誌”ということ。
『RM』(1976〜1984)は「王道のアーティスト」ではなく「新しい音のアーティスト」を紹介するというコンセプト。「ロック=モード」といっても差し支えない。ルー・リード、スパークス、ニューヨーク・パンク、ニューウェイヴ、ジャーマン・ロックという音楽にいち早く注目して載せた。日本だとYMOやプラスティックスにも。『日本ロック雑誌クロニクル』に紹介されている『RM』のリストを見ると細野晴臣や、立花ハジメが表紙を飾っている。あと1980年に「ファッション」という雑誌も創刊している。内容はファッションやアートと隣り合う雑誌(もっともすぐに休刊したが)。ロッキング・オンが「Cut」や「H」を出したのはそれよりも9年後くらい後の話。『RM』のレイアウトは全部阿木譲自身が一人で手がけていた。造語感覚も凄く、YMOが造ったといわれる言葉「テクノポップ」それを2年くらい早く使っている。「ニホニーズ・ポップ」(「ジャパニーズ・ポップ」という言葉には抵抗がある、歌謡曲の影響をうけているからというのがその理由。現在のJ-POPという用語に近い)「サイケデリック・バロッキズム」(これは椹木野衣が『日本ロック雑誌クロニクル』の中で紹介していた言葉だが、意味は不明)『RM』の装丁やレイアウトを見て驚いて阿木譲に原稿依頼をしたのが、あの『遊』の松岡正剛である。『遊』を筆者は手元に2冊所持しているが、その1冊に阿木譲の文章が確かに載っている。数回互いの雑誌に寄稿しあう仲になったらしい。WEBの千夜千冊でも、阿木譲をきちんととりあげていた。「同時代の音楽雑誌編集者で、誰を意識していたかといえば、中村とうよう、渋谷陽一、森脇美貴夫ではなく阿木譲だ。」見たいな感じの評だったか。(内容はWEB上で確認して頂きたい)松岡の編集思想の根底に「諸事=モード」があるから同類意識があったんじゃないかと思う。
篠原に対して阿木は、次のような事を語っている。
「中村とうよう、渋谷陽一のようにコアみたいなものがあって展開していく評論家には拍手を送るんだけど、ぼくのように、変容していくっていうか、時代とともに変わっていく人間というのはなかなか理解して貰えない」「古いことはいっさい喋らないんです。だけど、誤解だらけの人間だから一度くらいきちんとしゃべっておこうかなぁとも思ってね。これがいい機会かもしれませんね。」
「ぼくはモダンというものをひたすら追及してきたつもりなんですけどね。僕の本質みたいなもの誰も見抜いてくれないんです。来るべき世界はいったい何なのかを、音を通じて学んでるんです。意味のわかるものにはもう興味がない。いつも次は何なのだろうかと。これで人生が終われば本望ですね。」(筆者の編集有)
冷静な視点で自分が理解されない理由を自覚している。
篠原はインタビューの後阿木が評価されない理由を、「スノビズムそのものがネガティヴなニュアンスでしか捉えられない日本という風土の中では、阿木は異端という評価しか与えられてこなかった。日本のロックジャーナリズムが私小説的な文芸評論を模倣することでしか成立する余地がなかったからだろう。(中略)“個人雑誌”『RM』は広く読者を獲得する意志など最初から持ち合わせていなかった。「社会的評価」などという客観性などおよそ求めていなかったのだ。」(筆者の編集有)
ただ阿木譲の影響を受けている人(『RM』の読者)の中で、業界で活躍している人がいる。先に造語「サイケデリック・バロッキズム」を『日本ロック雑誌クロニクル』中で挙げていた美術評論家の椹木野衣や、『ブラック・マシーン・ミュージック』の野田努や、ボアダムスや思い出波止場で活躍するギタリストの山本精一など。そういう意味では理解してくれる人もいて、再評価が進む兆しも見えはじめていると阿木譲=『RM』には言えるのではないだろうか。(了)
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