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昭和40年代、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。私はその時代に地質調査の会社に勤務し、新幹線や高速道路の工事に関わる地質調査に明け暮れていた。特に新幹線は速達性が最優先される鉄道であり、山地が多い日本では長大トンネルは避けられなかった。その中の一つ、上越新幹線中山トンネルでの出水事故を思い出しながら記述する。
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中山トンネルは、上越新幹線の高崎駅と上毛高原駅の間にある延長14kmを上回るわが国有数の長大トンネルの一つである。昭和47年7月、自民党総裁が新潟県出身の田中角栄と群馬県を地元とする福田赳夫(現総理の実父)の間で争われ、田中角栄が総裁に決まったその日、福田氏の地元である群馬県高山村の役場を中山トンネルの調査に着手するため挨拶に尋ねた。その時の助役(村長は福田氏応援のため不在)の対応は一言、「何で新潟のための新幹線に群馬県が協力しなけりゃならないんだ!!」。これには一緒に行った鉄道建設公団の工事事務所の所長も“あんぐり”、返す言葉がなかった。兎も角、地質調査が始まった。
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初めは縦抗位置でのボーリングであるが、地質は第三紀から第四紀にかけての弱固結〜未固結状の火砕流により構成されており、当時のボーリング技術ではコア採取率は30%程度でコア箱にはたまに取れる礫がゴロゴロと並ぶ。おかげでコアの整理は楽だった。電気検層はプローブを何本もボーリング孔内に残して、会社にも発注者にも怒られた。トンネル調査のために地下水の調査としてJFTによる湧水圧測定を行ったが、装置も技術者も未成熟だったためかGL−300mに達する深度では正常な測定は望むべくもなく、孔内から取出した装置には粘土がビッシリ張り付いている状態。当然、結果は正常な地下水の動きを反映したものでなく、測定結果に基づき算出された透水係数は×10-4とか×10-5であり、地下水の面から見て比較的問題が少ない地質と考えるに至った。このような結果は私が担当した調査だけでなく他社の結果も同じだった。この結果のためだけではないと思うが工事は比較的安直に着工されたように思えた。
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工事は3箇所の縦坑から始まった。しかし、半年も経たないころから各工区は多量の出水に悩まされる。ある工区では90m進んだ縦坑が地表付近まで水没した。そこで対策としてディープウェル工法で地下水位を低下させすることとしたが、運悪く青函トンネルの大出水事故と重なり、準備したポンプを全て供出したために工事がストップした。特に悲惨だったのは斜坑で本坑にアプローチする工区であった。斜坑の傾斜は−14度、掘進長は約300mであったが、掘進が伸びるに従い出水量が増加し続けていた。当時、私はトンネル出水による周辺環境への影響を評価するための水文調査を行っていた。地形解析による影響範囲の推定や、各地点での湧水量とpH、電導度、水温の現地測定による水質調査を主体とし、必要に応じて陽イオン(K+,Na+,Ca2+,Mg2+)・陰イオン(HCO3-,Cl-,SO42-)の分析を行い、湧水と地質の関連からトンネル出水による影響を判断する資料を作成していた。
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昭和49年9月27日未明、宿の電話が鳴った。鉄道建設公団高山工事事務所からの呼び出しである。こんな夜中に何事か、とは思いつつも、事故であることは予想が付く。事務所へ行くと騒然として取り付く島もない。小野上北という声が聞こえるのでそちらへ向かう。ヘアピンカーブをいくつも超えて斜坑の坑口が見えるところに近づくと、緊急用の照明が異常を知らせる。とてもでないが我々が近づける雰囲気ではない。一旦引き上げる。翌日、現場へ向かうと坑口付近の様子が一変している。辺りは泥水をかぶったような状態。坑口の排水処理施設は泥に埋まっている。小さな八木沢は、泥が流れた跡が何かで引っかきむしられたようだ。坑口から中を見ると300m近く掘り進んだはずの斜坑は、不気味な静けさの中に坑口から数10m程度まで水没している。事故の様子は以下の通り。
・9月26日、斜坑切羽の出水対策のため掘進作業を中止。
・9月27日午前0時ごろ、坑内見回りのため、作業員1名が切羽へ向かう。
・午前0時半頃、切羽付近で異常音を感じ、タダならざる状況を察知して坑口へ戻りはじめる。
・斜坑内の電灯が坑口へ戻る作業員を追うように一つづつ消えていく。
・地底からの唸りのような音に追われて坑口へ急ぐ。
・戻り始めて30分弱、外部の作業通路へ出た途端、坑口一杯の泥水が噴出した。八木沢はひとたまりもなく泥水で溢れ、廃水処理施設の限界を超えた泥水は一気に下流へ。
・一旦坑口から引いた泥水は数分後には再び坑口から飛び出す。数回繰り返して落ち着くまでに数時間。
・兎も角、死傷者が出なかったことに関係者は胸を撫で下ろす。
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数日して復旧に着手した。坑内の排水のためポンプを設置する。水位が下がった区間の斜坑の天盤を見て驚いた。斜坑はボルトで締めたH鋼と数10cmのコンクリートで巻いてあるが、ボルトが引きちぎられ10cm程度も口を開いた亀裂が延長方向に続いている。そのうち斜坑内の水面を埋めるようにポンプを配置しても水位が低下しなくなる。斜坑の延長方向でボーリングを行ったが、中間に10数mの空洞が存在することが分かった。どうやら出水に合わせて地質が流出したようである。複数のボーリングを行ったがすべて同じような深度で空洞が存在した。更に延長上でディープウエル用の井戸を掘ったが、GL‐100m程度で地下水のため掘進不能になり放棄した。
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その後、斜坑のルート変更などを試みるも、出水量は増すばかり。さらに出水に伴い地山の弛みも著しく、切羽の自立が困難になった。大出水発生の2年後、斜坑の工区は廃止に追い込まれた。私もトンネル工事には何件か付き合ったが、途中で閉鎖したのはこれだけである。その後中山トンネルは他の工区でも出水との戦いが続いた。“2階から目薬を差すようだ”といわれたGL−300m付近の地表からの止水グラウトも行った。本線もルート変更が余儀なく、現在でも中山トンネル内ではカーブのために減速区間が存在する。
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昭和40年代後半は、日本列島改造の嵐の中、土木工事は花形であった。当然、土木技術者のおごりもあったと思う。現場では地質調査の結果が工事を左右する、などという考えは殆どなく、地質調査は返って土木工事の邪魔になる、という雰囲気さえあった。地質調査に携わってきたものにとっては、あの時に事前に問題提起ができなかったこと、その技術力不足を後悔している。調査不足だから分からなかったというのは、調査屋の詭弁で、問題を想定して調査の必要性を理解させて実施することが、調査屋の本分ではなかろうか、と思った。
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