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おだわらよもやま話
















70段ほどの石段を登ると、木立の中に巨大な石を背負った毘沙門堂がある。

第  話 小田原城北方の守護神・水之尾毘沙門天のこと


 小田原市のこどもの森公園わんぱくらんど≠フ近くに、水之尾という30軒ほどの集落がある。その中ほどに毘沙門堂がある。このお堂は、いまから420年ほど前に建てられたものらしい。
 70段ほどの急な石段を登ると、杉や桧の木立の鬱蒼と繁る中にお堂は建っている。しかも、お堂の後背には巨岩があり、お堂の中にもその巨岩の一部が入り込んでいる。この毘沙門堂は、小田原城の北方の守護神《毘沙門天》を祀るため建立されたとのことである。
 立て札には、このお堂の由来がつぎのように書かれている。

 水之尾毘沙門天(北向毘沙門天)
 ここ風祭水之尾は俗に石切場と言われ、昔から小田原石の産地として知られていた。伝承によれば、小田原北条の頃、小田原城修築のため城石の切り出し中に、突然巨石の間から血が流れ出た。そしてその夜毘沙門天が枕辺に立ち、「我が身を傷つけるな、しからばお前を守護してやろう」といった。そこで切り出しを中止し、この自然石を本尊として、毘沙門天を祀ったという。
 江戸時代になって、この話しを聞いた小田原城主が、毘沙門天堂を創建したという。(元禄15年―1702年)
 毎年正月初寅の日にご祈祷が行われ、寅年の4月に本尊が開帳され、多くの参拝者が訪れる。

 ところでこのお堂には、高さ60センチほどの彩色の木造、毘沙門天立像が安置されている。この像がいつ作られたのかは不詳である。また、この堂の正式な名称は「水峯庵毘沙門天」といい、小田原市の市史編纂室の調査によれば、関係書類が焼失されたため定かでないが、風祭の永禄山寶泉寺に属し、天正年間(1580年間)の建立と伝えられる、という。
 ところで、堂の扉の上に立派な奉納額がかかっている。額の上部には北条秀司、箱根・奈良屋、鈴廣、土岩、杉兼など38の屋号や氏名が彫られている。そして下部には熊笹を背景に3態の虎が彫られているのである。奉納されたのは昭和37年とある。昭和35年には小田原市制20周年を記念して小田原市城が復元されているから。これに関連して小田原城北方の守護神《水之尾毘沙門堂》が事業家など有志の手によって改修されたのであろうか。
 このお堂について筆者には思い出がある。いまから50数年前の少年のころ、このお堂をお参りしたことがあるのだ。その頃、両の手の甲にイボができ、恥ずかしくて人前にだせなかった。なんとかこのイボを治そうと効能があるとされるさまざまな療法を試みたのだが、まったく効果がなかったのである。荻窪の農家に育った母は、その上手の集落にある水之尾の毘沙門天にお参りすれば、必ずイボをとってくれるといって しきりにすすめるのである。昔からこの毘沙門天にお参りすればイボが治るとい言い伝えがあったようである。
 神や仏頼みでイボはとれないと思いつつも、私はこの毘沙門天の石に手をこすりつけてきたのである。ところが、それから1年ほどの間にすっかりイボは跡形もなく消滅したのだ。毘沙門天様の効能か、イボに寿命がきたのか、これまでの療法が効いたのか、全く定かではなかったが、私はイボの悩みから開放されたのである。
 この第6話を書きながら、そんな少年の頃のことが思い出された。














12年に1度、毘沙門天はご開帳される。しかし立像は撮影されていない。
広辞苑には毘沙門天のこんなイラストがあったが、水之尾毘沙門天はどんな像なのであろうか。