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 No.371「隠すのでなく見つめること」

 ある先生が「教会学校の目的は主の祈りを唱えられるようになることだ」と教えてくださった。子どもたちが成長していく過程で、遭遇するであろう苦難や挫折の時に、主の祈りは神の助けを思い起こさせてくれ力を与えてくれる。だからこそそれが教会学校の最大の目的であると同時に、子どもたちへ与えてあげることができる最も大きなプレゼントともなるのである。

 その主の祈りの第六と第七の願いは「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」という言葉である。ルターは小教理問答書の中で「神が我々を助け守って、悪魔やこの世や我々の肉が、我々を欺いたり、また間違った信仰や絶望、またはその他の大きなとがや罪悪に陥らせないようにしてくださることを、またたとえ我々が試みにあっても、我々が最後には勝利を得ることができるようにしてくださることを祈る。そして天の父がからだと魂、財産と名誉にかかわるすべての類の悪から、我々を救い、ついには我々の臨終に際して祝福された終わりを与えてくださることを祈るのです」と書いている。即ち、神様が試みや悪から助けてくださることを信ずると告白するということなのだが、それはまた逆に、私たちがこの地上に生きている限り、試みも悪も存在し続けるということにほかならない。

 32人の学生が殺害され、犯人も自殺した事件が起こった米国。背景には銃が自由に手に入るという状況がある。だから銃を排除すれば良いと私などは単純に思うのだが、米国はそう簡単に銃の規制に動かない。それどころか、多くの人々が銃をなくせばそのような事件が起きなくなるとは考えていないことも、直後のアンケート結果に示されている。それを聞きながら、悪しきものに対して「隠す、あるいは見えなくする」か「見つめる、そして対抗する力を養おう」とするかの違い、更に言えば、外面(見かけ)を美しくしようとするか、内面(本質)を美しくしようとするかの違いではないかと思える。その上で我々の神は、悪を知り、それに打ち勝つ力を、信仰を通して与えられるようにと願っておられる方であることを知る。



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