私のアマチュア無線史
伊勢湾台風襲来(1959)
昭和34年9月、名古屋に住んでいた私(9歳)は激しい台風に見舞われました。後に言う「伊勢湾台風」です。雨漏りする家の中での照明は懐中電灯とローソク。停電していて真空管式のラジオは役にたたず、唯一あったゲルマニウムラジオからは、かすかに放送が聞こえる。そんな反省もあってか当時高価だったトランジスタラジオを父が買いました。松下電気製の中波と短波が聞こえる8石式で、1万円前後したものだったと思います。
松下製 2バンドラジオ(前方の真空管とトランスは無関係です)
ハムの交信を聞く(1961)
家で働いていた父は普段中波のラジオ放送を聞いていますが、短波にすると面白い事をしゃべっていると教えてくれました。毎晩掛け合い漫才よろしく話合っているハムの交信にすっかり魅入られてしまい、これは何だろう→面白そう→やってみたい、との思いに至ります。ところがハムになるにはどうしたらいいのか親に聞いても判らない、親戚でも知っている人はいないという状態でしたが、小学6年の時、教育テレビでアマチュア無線の番組があるのを知りました。司会はJA1CYA須藤典子さんで無線工学や法規の講義とハム局の紹介があり毎週見るようになりましたが、とても難しく感じたものです。
読んでいた本(1961)
模型作りが好きだった小学生の時に読んでいた本といえば「子供の科学」と「模型とラジオ」。小学5、6年の頃は鉄道模型に熱中していましたが、モータを使った電気の世界から電子の世界に興味が移ったのは小学6年の後半で、中学頃からは「初歩のラジオ」になります。泉弘志さんの製作記事が好きで真似ては作りました。「CQ」を買ったのは中学2年の1963年です。難しくて読みこなせなかったのですが、ハムという別世界を知るため何度も何度も繰り返し読みました。当時読んだCQ誌の表紙とか記事の写真は今でも頭に焼き付いています。
初歩のラジオ 1962年3月号
自作のはじまり(1961)
初めての自作は小学6年の時、2つ違いの兄と共同で作った1石(2SB110)のインターホンでした。その後2石(2SA155、2SB110)の高1中1ラジオ、1石(2SA156)レフレックスラジオ、2石ワイヤレスマイクと続きます。抵抗はP型(カラーコードではなく数値が書いてあったもの)を使い、トランジスタ用のソケットというものもありました。ポリバリコンはミツミのPVC1(290PF)。発振用のコイルはNo.88というのが有名でしたね。またケースは積水ボックスというプラスチックケースに入れて色々な物を作っていました。
2SA156,2SB110
パーツ屋事情(1962)
名古屋には仲野無線とカトー無線というパーツ屋が矢場町というところにありました。仲野無線は松坂屋の近くで、名古屋の中心部にあったといっても良いでしょう。昭和区に住んでいた私は家からでも自転車で10分程の距離にあり、土曜日の午後、学校が終わってから自転車で買い出しに行き、土日で作り上げるというペースでした。家電を扱っている店ですが奥にパーツ部門があり、部品はカウンターの中の店員さんにリストを渡して揃えてもらいます。1つ1つの部品名と価格を手書きの伝票に書いて、それを領収書にしていました。今に比べれば部品の種類も少なく、そんな事も出来ていたんですね。また70年代になると伏見の栄電舎もよく利用しましたが、2000年現在残っているパーツ屋は万松寺のアメ横だけになり、自作者にとっては寂しい環境になりました。
昭和40年頃のカトー無線の価格表 (開いたところ)
今の価格と比べてみて、いかがですか?
カタログ集め(1962〜)
矢場町にあるカトー無線の店舗は地下。階段を下りると正面にトリオのTX88Aと9R59が置いて有りました。完成品で5万円以上もするリグは中学生にとっては高嶺の花。店に行った時、新しいカタログを見つければ1枚1枚と貰ったものがいつの間にかコレクションになりました。当時集めたカタログ群 左上から トリオ59シリーズ(TX88A、9R59、CC6、SP5)、JR60、JR200、井上FDAM2、スターSR40。左下から トリオ TR1000、井上 FDAM3D、スターSR600、R100、日進電子 パナスカイマーク6
無線クラブに入る(1962)
中学に入るとクラブ紹介で「科学クラブ・ラジオ無線班」というのがあるのを知り、迷いもなく入りました。顧問は技術の先生ですが、講師は中学のOBで電気屋を営んでいる柘植さん(JA2BDG)で、実は小学生の時この人の交信を毎晩短波で聞いていたわけです。毎週1回のクラブ活動は講師や先輩の指導があり、解らないながらも少しずつ吸収していきました。自作無線機の話や、空で5球スーパーの回路を書いてしまう柘植さんに、すごいなあと感心していたものです。
ワイヤレスマイク(1962)
「無線」という文字にいまでもワクワクする気持ちがあります。自分の声を電波にして飛ばすことに憧れがありました。アマチュア無線は出来なくても、それに近づく簡単な道具はワイヤレスマイクで、中波帯で2石のワイヤレスマイクというのが定番でした。回路を組み上げアンテナをつないで電波を出してみると、見事に自分の声が電波になりました。しかし距離はほんの1〜2m、ベース変調しているので音は悪いけど感動的でした。
トランシーバを買う(1962)
「模型とラジオ」の最後の方に科学教材社の宣伝があり、中学に入ったころ貯金をはたいて3石のトランシーバを兄と共同で2台買いました。1台で4.3Kのかなり高価な代物でした。27MC超再生式で、さてどれくらい届くだろうと期待しながら近所の公園で試してみたら20mも届かなかったでしょう。100m位を期待していたのに、たかだかこんなもんかとガックリ。大きな声でしゃべったら、そちらの方がよく届いた位です。雨の日の通信実験でアンテナを傘の柄にくっつけるとよく聞こえる事が分かり、内蔵のロッドアンテナを長い物に代えたりとか色々改造しました。江角電波製だったと思います。ハム用の50MC・AMトランシーバではMR3を出していたメーカーです。
江角製27MCトランシーバの広告(初歩のラジオ)
シャックを訪問(1962)
中学の無線クラブの友達で小沢君(後のJA2FKR)と日頃ワッチしている無線局の家を訪問しました。交信を聞き大まかな当たりを付け、アンテナを探し、表札を確認し、あとはブザーを押して家に上げてもらうのです。当時はそのような事は当たり前の世界で、リグや交信している所を見せてもらったりと、先輩と後輩の良き関係があったのです。遊びに行ったら2mのFMで無線をやらせてくれた(当然アンカバ)人もありました。
自作受信機で短波を聞く(1963)
中学2年の時、短波を受信できる4球スーパー(6BE6-6BA6-6AV6-5MK9)を作り、自作の受信機で始めて無線通信を聞きました。これがSWLの始まりで、人の交信を何度も何度も聞きながら、ハムとはこういう言葉を話すものかと思ったものです。本にはテストオシレータを使った調整の仕方が書いてあるのですが、そんなもの持っているわけがなく、クラブ講師の柘植さんに話すとテスター1個で調整できるから持ってこいと言われ、クラブ活動の時に持って行くと、テスターを中間周波6BA6のカソードにあて、受信しながらIFTをクルクルと回してハイお終い。実戦的なノウハウを垣間見た思いでした。
短波受信機
電話級の受験(1963)
当時は春と秋、年2回の国家試験がありました。中学2年の秋に電話級を受け見事にすべりました。周波数を計算する時、ルートの開き方さえ知らなかったのですね。しかしその半年後の中学3年の春に同じ電話級を受けて合格。免許の申請から開局まで、とにかく早く申請しても開局できたのか半年以上たった10月で、あこがれのコールサインはJA2FTI。50MC・AMでの開局と運用の喜びも1ヶ月程で、高校受験のためリグはしばらく棚に上げQRT状態となりました。
昭和39年5月29日付朝日新聞 当時は国家試験の合格者が新聞に発表されたのです
ジャンク屋(1963)
名古屋の場合、部品はカトー無線か仲野無線でほぼ揃いました。しかし新品を定価で買っていては部品を全て揃えるのは大変です。そこで中古品を探す訳ですが、真空管などは新品で買うと数百円のものが、ジャンク屋では安いもので1本50円。放送局からの放出品なのでしょうNHKとかCBCという文字が焼き付けてありました。「CBCのものは使い込んでいるので、性能が落ちているものが多いから買わない方がいいよ」という情報も先輩からのものでした。
送信機の回路を探す(1964)
電話級に合格してから、さてどのようなリグを作ろうかと思いました。トリオのTX88Aと9R59というのが当時の標準的なリグでしたが、価格は5万円以上してとても中学生の小遣いで買えるような代物ではなく、親にも頼めません。7MCで10Wを出したいと思っても、終段807という構成ではリグ全体の価格がかなり高くなります。そこで「初歩のラジオ」をめくりながら参考になる製作記事はないかと探し、50MC・AM機の記事を見つけました。終段6AR5・変調6AR5で出力は3W。受信機レベルの部品で作れ、バンドも空いているので7MCのようにハイパワーを出す必要もないようです。どうもこの頃からQRPとの出逢いが始まったようですね。親受信機はあるのでこれにクリコンが必要ですが、CQ誌の交換コーナーで見つけ1.1Kで買いました。6RR8-6J6の構成で、とりあえず50MCを受信する事が出来ました。
自作した50MHz AM真空管式送信機
送信機でトラブる(1964)
「初歩のラジオ」の製作記事をもとに送信機を作りました。作ってみたけどちゃんと電波が出るのかどうか判らないのですが、免許がおりたのでとにかくCQを出してみるとローカル局から早速の応答がありました。「変な音がしている」とのリポートに、マイクがわりに使っているクリスタルスピーカのせいかなとマイクを買いに行ったり、また51MCのFM局に自己発振で妨害を与えていると注意されたりと、自分の電波を正常なものにする難しさを味わいました。試験勉強はしたものの具体的に「中和をとる」方法さえ分からない状態で、古本屋へ行ってCQ誌のバックナンバーを探しやっとその方法を会得したという、かなり危ない状態で送信機を作っていたのです。
変調が浅いと言われ(1964)
送信部の構成は 8MC水晶-12AT7(1/2)-12AT7(1/2)-6AR5 変調部はクリスタルマイク-12AU7(1/2)-12AU7(1/2)-6AR5 です。Eスポの出現で8が聞こえコールしたものの変調が浅いと言われてQSO成立せず。普段のQSOでも時々言われたため1石のマイクアンプを追加し、最終的な変調部は6U8(3極)-6U8(5極)-6AQ5 送信部の終段は6RP10とし、中和はとらなくても良いようになりました。同じピン接続であれば簡単に差し替えのできる真空管というのは便利でしたね。
アンテナ(1964)
開局当時のアンテナはテレビフィーダで作ったフォールデットダイポールです。図面通り作ったのですがマッチングの方法などは知らず、屋根に上げたもののフィーダの長さは10m以上もあったでしょうか、屋根に這わしていたりとかで全然飛びませんでしたね。その後4エレの八木に換え竹竿の上に取り付けてみたところこれはFBで、通信距離はぐんと伸びたものです。
50MHz4エレ八木アンテナ ポールは竹ざおです
50メガの交信風景(1964)
VFOを持たないと発振周波数は持っている水晶の数だけになります。開局当時は8MC台を6逓倍した50.1MCの1つだけ。しかし当時の交信風景はCQを出してから上下に数100kCをおもむろに受信し、そしてはるか離れた周波数でコールしている局を見つけ交信に入るわけです。今のようなトランシーブタイプのトランシーバでは考えられないことですが、皆さん良くワッチしていたものと思います。
高校も無線クラブ(1965)
高校では友達に誘われてテニス部に入る予定だったのですが、入部する前の日に50MCでJA2GCQ局(小川さん)と交信。なんと高校の先輩という事がわかり、無線クラブがあるので是非入部をといわれ、高校も同じく無線クラブ(物理部・無線班)に入る事となりました。2、3年生の先輩でコールを持っている人は、実は同じ時期に国家試験を受けた人ばかりで、先輩と言うより友達みたいに付合っていて、今から思えば随分生意気な一年生だったと思います。当時クラブの所持リグは9R42J、TX26、CC6、VFO2、6V6プッシュプルの変調器。部室はなかったので物理の実験室が活動場所でした。電信術の練習とか無線の勉強もやりましたが、先生が帰ると電解コンデンサの爆発実験をやったりとかで、クラブ活動をしていたのか遊んでいたのか良く分かりません。
プリント基板(1966)
薬学部に入った先輩が卒業後も時々クラブに現れます。何処から仕入れたのかプリント基板エッチング用の塩化第二鉄の固形瓶やエナメル線剥離剤を売ってくれたり、変調トランスを自作したりとか怪しげなことをやる人でしたね(今は厚生省にいるそうです)。基板の作成手順はJA1AYO丹羽さんの記事を参考に作ったものです。沢山作ったプリント基板も現在残っているのは数枚。コンパクトにまとまるのは良いけれど、手間をかけた割には改造する時に不便で次第に作らなくなっていきました。
感電の訓練?(1960年代後半)
真空管式のリグ作りでは感電を経験します。250Vから300V位の電圧は電源を切っても電解コンデンサに残っている分があるため放電を怠るとビリッときます。テレビの修理をしていた先輩は数千Vに触って1日寝ていたとかの恐ろしい話を聞いた事もあります。100V位だったら触っても気持ち良いという電気屋さんの話を聞き、感電に強くなろうと一時期100Vに触る訓練をしたことがありますが長続きはしませんでした(馬鹿な事をやっていたものです hi)。半導体に替わって何が良いかと言えば感電しなくなった事ですね。
大学にはいる(1968)
大学に無線クラブはなく、同級生とアーチェリー同好会を結成し卒業まで続きました。同好会の後輩として入会した工学部の早苗さんはJH3AZCのコールを持ち、現在は滋賀県東近江市でDXerとして活躍しています。60年代ポップミュージックが好きだったことからオーディオの世界にも手を伸ばし、OCLのステレオアンプとかFMチューナーなども作りました。オシロのキットや、GDMを自作したりと測定器の領域に自作の世界を広げました。
球から石へ(1970)
真空管の時代を過した人は、中々トランジスタに頭が切り替わらなかったと、時々聞く事があります。1970年前後はICの出現、そしてシリコントランジスタが安く出回りはじめた1つの大きな変革の時代だったと思います。大学受験を終え、しばらく空白だった無線の世界に戻りました。東芝のシリコンエピタキシャルトランジスタ2SC371〜4は、2SAとか2SBとか言っていた高周波用・低周波用の枠を越え、どちらでも使えると言う時代に入りました。自作の世界に入ったのがゲルマニウムトランジスタからだったため、余り抵抗無く石の世界に入ることが出来、真空管のリグをTRやFETに少しずつ置き換えながら、オール半導体式のリグ作りへと進みました。
2SC371
50メガメーカー製の世界(1970前後)
トリオのTX88Aは50Mにも出られるリグとして一世を風靡しました。TR式では井上電機のFDAM2(1W機)、そしてデザインで優れたトリオのTR1000。江角電波ではMR3、MR4。その後井上のVFO式FDAM3が出てきます。交信していてQRHがあれば「ああFDAM3だな」とすぐに判ったものです。特に良く売れたのは日進電子のパナスカイマーク6です。終段2E26の10W機ですがDCDCコンバータを備えた車載も出来るリグとして、これも人気がありました。AM時代最後の有名なリグは松下電気のRJX601。このリグを最後にAMの世界は下降線を辿っていきます。またパナ6が出始めた頃から自作をする人が段々と減って行ったような気がします。
万博(1970)
兄が京都で下宿していたため万博の年に遊びに行き、京都・寺町のニノミヤとか飛燕堂。大阪日本橋に始めていったものです。数多いパーツ屋に驚き、名古屋では買えない部品を探しました。まさか将来このエリアに住もうとは。。。
ケースの自作(1971)
1970年7月号のCQ誌に144MC・FM機(出力1W?)の製作記事があり、そこではケースが自作されていました。そんな事ができるのかと、回路実験はさておきケースだけ真似て先に作ってしまったのです。四角い箱を作る難しさを味わうものの、自作の領域と自由度が広がる心地よさを感じ、以来ケースの自作が始まりました。
トランシーバの製作(1971)
大学3年の時、授業の一環でメーカー見学があり、九州へ行くことになりました。せっかく6エリアへ行くのだから何かリグを作って持って行こうと計画が始まります。最初は2mFM機を考えますが実験が上手く進まず断念。次に50AM機を考えます。当時の頭の中にあるものを全部実現してやろうと構想し、VXO式50MC・AM送信機で出力は300mW,受信部はWスーパ、単3乾電池8本、短縮ロッドアンテナ内蔵。当時トリオから出ていた2mFMトランシーバのTR2200のデザインを真似て作りました。バラック実験では上手くいったものの、基板にすると動作が不安定になり、VXOを止めて水晶1個に、Wスーパーは超再生へと計画を縮小。出発の前日まで製作し、実運用できない状態でとにかく持って行ったものの、一回も交信できずに帰るハメになりました。要は基礎実験やプリント化の技術が未熟だったわけですが、バラックでは上手くいっていたのにプリント基板にすると動作がおかしくなるのなら、バラック実験の状態を最終製品にしてしまえと発想の転換をし、この頃からラグ板配線が始まったわけです。
信越電気(1971)
通販で部品を買うと安く手に入ることが分かり、CQ誌の広告を見ながら特に半導体関係を探しました。大阪の明電、東京の藤商、小沢電気、そして特に目を引いたのは秋葉原の信越電気(後の秋月)です。とにかく安いのでここだけは別格でした。その信越が名古屋の松坂屋に数日間店を出すということで、買い出しに行きました。バーゲン会場よろしく突入して部品を探します。市販の始まった赤色LEDが1本100円。大変な人数が押し寄せ、その後3年ほど続いたでしょうか。今でも東京出張で時間があれば真っ先に秋月へ駆けつけています。
信越電気で販売された赤色LED(@100)
大学の研究室で(1972)
電気系の学部でなかったせいか、4年生になり研究室に入ると電気を知っているということで先生には結構重宝がられたものです。同学科の4つの研究室や他学科にも出入りし、卒論に使う測定装置作りを手伝いました。測定回路を考えたり「部品はここの通販で買うと安いですよ」とかの実戦的なノウハウを提供しました。その後、院生になり超音波の実験を手伝っていた時、後輩が測定装置を他学科に借りに行っていたのですが、担当の先生に余り良い顔をされないと漏らしていたのを聞き、それなら作ってしまえと一晩借り、装置を見ながら回路図を書き上げ動作電圧を測定して返却。後に部品を集めて同じ物を作ってしまった事もありました。
会社勤め(1975)
会社勤めすると今までの自作ペースがガクリと落ちました。仕事に自作のエネルギーを吸い取られ、今までの勢いで走ろうと頭の中では思いながらも、足がついて来ない感じで、生活の変化と共に趣味のペースも変えなきゃいけないと言う事を体感します。会社の寮が伊丹市にあり大阪・日本橋とか神戸・三宮へは月に2度程は行っていたでしょうか。日本橋は無論の事、神戸では船舶関係の放出品など面白いパーツ屋とかジャンク屋がまだまだ沢山あった時代です。
共通言語としての趣味(1975〜80)
愛知県を出て兵庫県に住みつく事になった時、知っている人と言えば同期入社の連中と、大学時代からの大阪の友達が一人、茨木にいた兄だけですが、無線では見知らぬローカルの人と話し合う事が出来るのです。同じ趣味を持つ事で、場所は変わっても共通言語としてすぐに会話へ入れるという有難さを感じたものです。2mのSSBでは4F(4'th
Friday)というグループに入って毎夜数人でラウンドQSOを楽しみ、またモービルを連ねての遠征や移動運用・シャック訪問など、箕面のJF3HES中島さんの家ではよくお酒を飲ませていただいたものです。また2エリア出身で伊丹に住むJA2ATS平野さん、また宝塚に下宿していた高校の後輩(JH2RCL 林さん)や、名古屋のシャックに遊びに来ていた当時の小学生(JH2NIV 伊藤さん)。コールサインがあるという事(出身地が判る)と、趣味を持つ事での人のつながりができる有難みを感じた時代です。
AMからSSBへ(1975)
50MHz・AMの世界に入ってから大方10年。このモードから中々抜け出せない状態でしたが、1970年台後半は50MHzにもSSBの波は訪れていました。1976年に50MCのPSN式SSB+ダイレクトコンバージョンのリグ作りをしたものの調整の仕方が分からず断念。これからSSBへの長いトンネルが始まります。
サイクリングモービル(1976〜1980)
会社では機械設計という部門に配属され、図面を書く日々が続きます。電波少年の前は模型少年で、もともと物作りは好きな方なので、自分で書いた図面が実物になっていくことに非常な感動を覚えた時期です。ところが毎日机の前に座り通しの日々が続き足がだるくて仕方なく、何か体に良いことはとサイクリングを始めます。3エリアは京都、大阪、奈良、神戸と観光地が多く行く場所には事欠きませんが、それだけでは勿体無いと手持ちのリグをバックに詰め走ることになりました。自作の固定用50AM機は100*200*250と大きく、それに外部アンテナと電池という装備でした。
メーカー製のリグを買う(1977)
会社勤めしてから2年が経過し、自作路線を守り続けて来たものの、ボーナスをもらって懐が豊かになるとそれまでのプライドが脆くも崩れ、メーカー製のリグ購入を検討しました。アンテナの小さい2mSSBを対象にリグを探し、先進的だったICOMのIC221とダイヤモンドの3段GPを購入。電源とアンテナそしてマイクをつなげば実にたやすく交信できるのに驚き、しばらくはその快適さにのめり込んだのです。一端タガが外れると、その後は430FMのTR3200、430オールモードのIC351、2mハンディのIC2Nなど、たて続けに買いました。
2アマの受験(1978)
2mのグループで毎夜ラグチューをしていると、箕面のJA6GZB/3上村さんが1アマを受験するけど一緒に受けないかと誘い掛けます。電話級から一気に1級かと思ったものの、まあやってみるかととりあえず勉強に入ります。工学の方は大丈夫でもCWが全くだめでして、欧文と和文を一緒になって覚えるのはさすがにきつく途中で2級に変更。それでも1人ではどうも挫けそうになるので、ラグチューの時、回りに言いふらすことで自分にプレッシャーをかけました。問題だった通信術はなんとかOK、工学・法規はクリヤして、冬には合格通知を貰う事ができました。勢いに乗って1年後には1アマを受験したものの、当時仕事がVYQRLで1ケ月の内で休んだのは日曜1日だけという状態でしたから、受験には行ったものの和文がだめでして、工学と法規は受験を放棄しました。
初めての電信QSO(1978)
新しいコールとしてJG3ADQをもらい、2mをワッチしていた時和文でCQを出す局を見つけ、無謀にもコールしたのです。応答があったのは良いけれどどうやって答えて良いのか、頭の中は真っ白け状態で冷や汗をかきながら1時間弱のQSOは今でも記憶に残っています。やれば何とかなるという教訓は残りましたが、やはりマイクで喋るほうがずっと楽なので、CWでのQSOは2局で終わりました。
交信に物足りなさを感じる(1979)
昭和30〜40年代のQSOと言えばリグの紹介は「終段は6AR5、変調は同じく6AR5のプレートスクリーン同時変調で入力は6W。受信機はクリコンに中間周波1段の5球スーパー。アンテナは8mハイの4エレ八木です」 と紹介し、そしてリグ作りの苦労話を互いに楽しんでいたものです。ところが昭和50年代になり無線機が安く買えるようになると次第にリグの紹介が簡単になり、話題も世間話へと変り何か物足りなさを感じ始めます。
メーカー製リグの交信に疑問を持つ(1979)
開局してから約15年がたち、当時のログをめくって交信時間を調べて見ると、新規の交信は11分というのが一番多いのに気づきました。RSリポートの交換と雑談です。DXQSOをと相手を探し盛んにCQを出すものの、振り返ってみればメーカー製リグの性能テストをしているだけじゃないかとの疑問が沸き、人の褌で相撲を取るのではなく自分としてもっとやるべき事があるのではと考え始めます。
FCZ誌との出逢い(1979)
自分の技術レベルを知って自作に行き詰まりを感じた時、CQの広告でFCZ誌の存在を知り購読を始めたのが1979年6月。大久保OMが毎月発表される記事や冒頭の「原点」を読みながら、少しずつ自分に新しいエネルギーを注ぎはじめます。しかしこの時投稿していた人達と20年後にアイボールしようとは思ってもみませんでした。
初めて読んだFCZ誌(1979年 6月号)
QRPクラブに入会(1979)
FCZ誌にQRPクラブ紹介の記事があり、何か自分の転機になれば良いし、自作QRPリグもあるし、入会費も会費もタダだからとの不純な動機で入会し058の会員番号を貰いました。またJA1AMH高田OM主催のAM保存会(AMH)にも入会。しかしAMHはその後どうなったのでしょう? FCZ誌には数回投稿しましたが最近になってクラブのメンバーと当時の投稿の話が持ち上がり、文字となり紙となって日本各地に保存されている情報の威力を感じたものです。
ピコ6の購入(1981)
81年9月号のFCZ誌でミズホ通信の広告にピコ6という50MHzSSB/CWトランシーバが、手のひらサイズで売り出される事を知り、FCZ研に電話して在庫確認後、最初のロットを注文しました。当時のSSB機といえば弁当箱サイズのもので、このハンディ機には正直まいりました。こんなにSSB機を小さく作る事ができるなんて、と目からウロコ状態でした。82年にはピコ2が出たのでこれも購入。こんなリグで良く届くものだと驚いていていました。
再度SSB機に挑戦(1988)
結婚そして子供の誕生と時が過ぎ、しばらく無線の世界から遠ざかっていましたが、末娘が2歳になり上の子と遊ぶようになって少し親の手がかからなくなりました。さて自作をと今までの路線を継承し、50MC・AMのトランシーブトランシーバのバラック実験に入ったものの、ワッチしても聞こえるのはSSBの局ばかり。そんな状態に今更AMでもなくSSBの世界に入ろうとCQ誌をめくり、熊本方式の記事を見つけてバラック実験を始めたもののトラブル続きで諦め、それではもうちょっと簡単にとFCZ誌を参考に50のDSB機を作り始めます。
失敗の連続(1988)
50DSB機の受信部まで上手くいったものの、送信部はトラブル続き。石の上にも3年、七転び八起き、とにかく失敗の連続でした。リグに仕立てたものの調整の仕方が分からない、判断基準がない、AM機ならゲルマラジオがあればモニタできますが、DSBではそうはいきません。バラモジでキャリヤバランスをとるもののキャリヤ抑圧比はどうやって測定したらいいのだろう、終段の石は何を選んだらいいのだろう。試行錯誤の日が続き、諦めて半年ほど放り出し、復帰し、また諦め、3年が経過。
21MHzDSB機の製作(1991)
今までに自作した事のない周波数でDXも狙えるからと、FCZ誌の21DSB+DCの記事を参考に作りはじめました。回路図どおりそっくり真似て作ればいいものの、どうもこのバラモジは気に入らないからとSSBハンドブックを参考にしたり、出力をもう少し大きくとりたいからと別の回路図を参考にして何とか作り上げたものの、キャリヤバランスの調整方法に悩みます。出力メータを見ながらキャリヤ0の位置に調整したつもりでもまだ漏れている。ソニーのSSBが受信できるラジオで聞きながらC、Rバランスをとって更に追い込む。しかしVXOからの出力をラジオが直接拾ってしまうため、隣の部屋にラジオを置いてその出力をFMの小型送信機で飛ばし、FMラジオで受信しながらキャリヤ0に近づける。それでもまだキャリヤが残って音が素直じゃない、ゴロゴロしている。ある夏の日に、もっと離れて受信してみてはどうかとマイクにラジオを近づけ、送信状態にして受信機を持って外に出かけ、50m程離れてワッチしてみればなんと素直な音ではないか。モニタが近すぎて手元から出るキャリヤにずっと悩ませれていたのですね。これが転機となり、なんだ行けるじゃないかと、木造2階の長押に張ったダイポールで、8の局と1200km離れ59でQSO出来た時は感動しました。
自作品コンテストへの出品(1993)
21でのQSO実績ができると妙に自信がつき、それなら発表してみようとJARL主催の自作品コンテストに応募します。毎年8月のハムフェアで作品の展示と表彰がされるものです。ケースの製作・塗装、配線など入念に行ったつもりですが、入賞はできず参加賞としてステンレス製の保温マグカップをいただきました。今から思うと電気的な完成度が低く、多分スプリアスなど沢山出ていたのでしょう。

50DSB機の製作(1993)
21に続き50のDSB機も製作。調整方法会得後はごく短期間で作り上げる事ができ、これも快適にQSO。ところがダイレクトコンバージョンの泣き所で、数km先の六甲山にAMの移動局が出て、ビームを東向けに振られるとバンド中に声が入感。これでは安心してQSOできないためSSBへと道を切換えます。
50SSB機の製作(1993)
秋月で買った7.8MHzの水晶フィルタ(@500)を使いSSB機を製作。バラモジやファイナルTRの選択などDSB機で経験しているため、多少のトラブルはありながらもまずは順調に完成しQSOができました。回路はDSB機に比べると複雑ですが、運用の快適さからSSB路線に切換えました。
自作派の集まり(1994)
50SSBでの交信がきっかけになり、自作派が集まろうとJA3OTI上原さんのお誘いで第1回ミーティングが宝塚でありました。リグの持参やシャックの写真紹介など、隠れ自作派が結構いるものだなあと分かり、心強く感じたものです。その時始めてお会いしたJA3PAV仁木さんからQRPクラブの現況を紹介され、再入会したのが1995年。その後仁木さんとは何かのイベントがある度にアイボールをしています。自作派の集まりはその後場所を変え4回程あり、現在は休止状態になっています。
144SSB機への挑戦(1995)
2mSSBには長らく出ていた事があるため、この周波数までは何とか自作したいと思っていました。21で4W、50で1WとSSB機を作り、まあLとCを変えれば同じ回路でも0.5W位は出るだろうと組み上げてみたらなんと10mWしかでません。終段の石を変えたり(2SC1971→2SC1906)、RFCを巻き直したりで50mWまでQRO。CQを出している局を試しにコールしてみるとなんと59のリポート。桜で有名な吉野山移動で距離は70km。こちらのアンテナは1/4GP。まあよく届いたものです。これがきっかけとなり回路を工夫しながら、その後2mSSB機を何台作ったのやら。いま残っているだけでも6台。作りかけが1台。
阪神大震災(1995)
思い切り揺り起こされた1月17日午前5:45。家具はひっくり返るわ、子供はタンスの下敷きになるわ。それでも冬という季節が幸いし布団の中にいたので家族4人に怪我はなし。家の壁にひびが入った程度でしたが、周りの旧家は全壊やら半壊やら。その後食料の買出しやら水汲みやらで数日を過ごしましたが、震災後のお空はワッチしてもしばらくは静かでした。しかし433のモービルで風呂屋を探している人や、それを案内している局の通信が聞こえたり、また京都大学の研究室からアマチュア無線家を対象に、震災の前に異常なノイズや伝播がなかったかとの調査書が郵送されてきたこともありました。
引越し(1995/3)
13年ほど住んでいた借家を出て、300mほど離れた場所に自宅を新築しました。2階の部屋の隅にテーブルを置いてシャックとし、アンテナはベランダに出した144/430共用アンテナからスタートです。
144SSB移動機の製作(1996〜2000)
100mW機の次に1Wリニアを製作し、これも上手くいったのでそれをまとめて144SSB1W移動機の製作に入りました。ほぼ15年間にわたり計画だおれだった移動機をなんとか成功させようと、プリント基板は採用せずラグ板で設計を進めます。電池の収納方法やリグとしてどうまとめるかなど数々の課題はありましたが、それまでの経験が役に立ち完成させることができました。ピアノ線で作ったポイップアンテナで近所の高台からCQを出して三重県青山高原移動局と交信し、長年の夢を果たすことができました。しかしA5サイズながら12V仕様では「大きい・重たい(1.1kg)」という反省があり、7.2V仕様での小型機の製作に入ったのが1997年。単3*6本のトランシーバは質量750gでこれでもまだ重いと、当時市販されはじめた単4のNiMHを使い、ピコもどきのハンディ機を製作開始し翌1998年に完成、380gでした。CADを使った設計など新しい手法を取り入れ、計画2ヶ月+製作1ヶ月+調整1ヶ月と時間をかけたものの、ハンディ機としてまとめることの難しさをいやというほど味わいます。
パソコン通信と自作会議室(1997)
仕事の関係でニフティサーブに入り、パソコン通信のやり方を覚えてから家にパソコンを買ったのが1996年。それまではROM状態だったNIFTY自作会議室とQRP会議室へのデビューが1997年です。これのおかげで日本には自作の好きな人が一杯いる事が分かり、それまで自作について余り話し合えず不満鬱積状態だった環境が一気に変わります。会議室には1年近く出没し、その後インターネットへと発言場所が変わり、色々なホームページを覗きます。
各地のパーツ店を行脚する(1997)
Xの妹夫婦が八王子市へ引越し、学校の春休みを利用して遊びに行く事になりました。主な目的は東京ディズニーランドですが、それだけで行ったのじゃ勿体無いということで、NIFTYの会議室に1エリアのパーツ店を問い合わせると多くの紹介がありました。町田のサトー電気、座間のFCZ研、石川町のエジソンプラザ。そして次の年は八王子のエジソン商会、小金井のサンエイパーツなどを回りました。今後も出張や旅行を利用し各地のパーツ店行脚をライフワークとして続ける予定です。
QRPクラブの全国集会に参加(1997)
初めての全国集会参加は愛知県の蒲郡。ほとんど知らない人達ばかりなのですが、実家が名古屋なので集会のあと親の顔でも見に行くかとの気楽な気持ちで出かけました。蒲郡の駅前で送迎バスを待っていた時に会った人が、GOG島崎さん、KYD影山さん。宴会の席でも同じく影山さんが右に座り、左はVVJ田口さん、正面がXB石井さんで、気持ち良く自作談義を楽しみました。話は出来ませんでしたが、AA庄野さんとか、FCZ大久保さんを目の当たりにし「おお、あれが実物か」と感激。宴会やその後の集会、アイボールを通じQRPクラブのポテンシャルの高さを感じたものです。持参した144SSB移動機にも注目いただき、CDC木屋川内さんのHPにも載せていただきました。
8J1VLPの運用(1997)
世界QRPデーというのが毎年6月17日にあります。JARLも何らかの活動をすると宣言したもののその後10数年具体的な動きがなかったため、JARLQRPクラブでその肩代わりをすべく97年より8J1VLPのコールでリグを各地に運送しながらオペレータが交代するという仕組みで97年よりスタート。1回目は大阪府の金剛山。2回目は兵庫県の大野山。3回目は西宮市の東六甲展望台。普段パイルに加わる事はあっても、パイルをさばくという経験が無いため、皆さんのオペレートを見ながら良い経験が出来たとおもいます。
QRPクラブ役員に(1997)
ある日会報担当の松盛さんから「クラブに「相談室」というものを作る事になり、永井さんにやってもらえないか」という電話がかかってきました。「わたしゃ自作は好きだけどQRP全般の事は知らないよ」とやんわり断われば、「別に貴方が全部答える必要はなく、皆の意見を取りまとめてもらえばいいのです」との話に、まあやってみるかと受諾。どうも頼まれたら断われない性格が災いしています。
ホームページの開設(1998)
ニフティサーブが会員向けにHPを開設できるサービスを始めたのが1997年末。その解説書を本屋で見つけ、1998年春にHPを開きました。といって紹介できる内容も少なく、回路図エディタの習得やデジカメなど、ビジュアルに表現するには準備する事も多く、公開するまでにはしばらくの時間を必要としました。FUJIYAMAの開発のため回路図をHPに載せたりと、新しい利用方法を知ります。また99年9月からはカウンタや落書き帳を加え、HPに訪問いただく方々の数を知るにつけ、自分自身への刺激剤になる事が分かり、今は自作を継続するためのエネルギー源になっています。また今まではメモ、ノート、ファイルとバラバラになっていたデータを一個所に集める事ができるのと、他人様に見ていただくにはそれなりのまとめ方をしないといけない訳で、普段散らかっている部屋もお客さんがある時には片づけるという心境に似ていますね。
FUJIYAMAプロジェクトに参画(1998〜2000)
QRPクラブの役員改選があり会報担当の影山さんが1つのプロジェクトを構想します。皆で集まって海外のクラブに負けないキットを計画しようというものです。リーダーにJH1ARY黒田さんが選ばれ、メーリングリストでなんだかんだと意見を出していたら一緒にやりましょうと誘われましした。再現性重視や調整箇所を減らすなど今までの自作流儀とは違う部分に戸惑いながらも2000年7月現在、β版の頒布にまで漕ぎ着けました。

QRPオンエアデイ(1999)
2エリアでは毎年11月頃アウトドアでのミーティングが開かれています。当然ながら運用もあるため、それを3エリアから迎撃しようと97年頃より準備するものの標高が足らないのかQSO出来ず。ならばスケジュールを組んで2と3で移動しませんかとJE2CDC木屋川内さんに持ち掛けたところ、それなら全国に呼びかけましょうとCQ誌のQRP通信コーナーで紹介されました。結果1、2、3、4での移動運用が行われ、2wayQRPでのQSOを楽しむ事が出来ました。3エリアは西宮市東六甲展望台に移動し、課題であった2エリアと50と144でのQRPQSOに成功。
PLC実験に参加(2001/11/23)
11月23日大阪大学吹田学舎内にてPLC(電力線通信)が短波帯に及ぼす影響の実験が行われました。実験の呼びかけから僅か2週間程ですが、アマチュア無線という意識を共通する者たちが20名近く各地から集まり、実験機材の準備、設置場所の交渉、実験方法の確立、役割分担、当局への連絡、当日の進行など短期間のプロジェクトでありながら、様々な課題をこなしていったパワーに感動を覚えました。

関ハム2005(2005/5)
KANHAM2005では、JARL QRP CLUB による自作相談コーナーが開催されました。関ハムでは初めての試みなので、どのようになるか心配でしたが、時間になると自作に興味ある方々が集まってこられ、丸テーブルを囲み自己紹介に続いてのQ&Aで始まりました。自作への思いや疑問などと話が弾み、今回は17名の参加で、まだまだ話し足りない感じもあったかと思います。最後にFCZ大久保OMから「1つ2つ部品を飛ばしても、まずはやってみて、具合の悪いところがあれば、そこから考えましょうよ」とのアドバイスもあり、会は和やかにお開きとなりました。
CQ誌にQRP特集が(2005/11)
「CQ誌にQRPの特集をするけど、永井さん、原稿を書かないか」とのお誘いがあり、「自作のことしか書けないけど、よろしければ」と返事。12名のクラブメンバーが参加し、運用、自作、アンテナ、海外など多方面の切り口からのQRP紹介です。11月に開催されたQRPクラブ全国集会では、このCQ誌がオークションに。執筆者のうち8名が参加しており、表紙に寄せ書きをしたものが高値で落札。売上金は集会の参加費に補填され、皆さんに還元することができました。
QRPクラブ全国集会in箕面で幹事を(2005/11)
2005年に箕面市の「みのお山荘・風の杜」で全国集会を開催することになり、初めて幹事を勤めることになりました。それまでに7回の全国集会に参加していたので、全体の様子は判っていたのですが、いざ自分の番になるとやはり戸惑いもあります。みのお山荘の支配人さんや、幹事会のメンバーとともに計画を進めましたが、入社した頃はよく宴会や慰安旅行の幹事をやったことがあり、その頃の経験を活かすことができました。人間、なんでもやっておいたほうが良いですね
hi。全国から集まった39名の参加者とともに、歓談、公開実験、宴会、オークション、深夜まで続くアイボールを存分に楽しみました。
8J3Pの運用(2006/5)
VLPのサフィックスでなじんでいたQRP記念局は、2006年から新たに8J*Pというコールサインで開局しました。これは1997年記念局開設当初から希望していたコールサインで、1,3,4,5,6の各エリアで開局し、3では2度の公開運用を行いました。下の写真は京都・比叡山での記念スナップです。

関ハム2006では実行委員を(2006/6)
2006年の関ハムにQRPクラブとして始めて出展しました。初年度でもあるためまずはこじんまりと1小間を借り、自作品の展示を主体に店を開きました。展示品は@短波ラヂオ:JA3PAV、A7MHz400mWCWトランシーバ:JR3TGS、B50MHzAM0.163mWトランシーバ:JH1FCZ、C容量計、1.9MHz用ローディングコイル:JS1BVK、D144MHz0.5WSSBトランシーバ:JG3ADQでしたが、展示品を前にしての自作談義やQ&Aなど、会場をオープンした時からほとんど途切れることなく来客がありました。中々の手ごたえがあり、来年は2小間に増やしての展示を予定しています。

新・QRP通信の企画委員に(2006/6)
CQ誌2006年6月号から「新・QRP通信」の連載が始まり、企画委員として参画することになりました。夏場は移動運用の記事を主体にし、冬場は製作記事をと委員会で相談。12月号と1月号は私が担当し、50MHzDSBトランシーバの記事を書くことになり、7月ころから試作を始めました。入門者用に簡単な回路で、実用的で、部品の入手がしやすく、調整が簡単でと色々な条件を考えながら実験を進め、SSBトランシーバに比べ約半分の部品で作ることが出来ました。ダイポールをつかって140km離れた四国の移動局とQSO出来た時は、こんな簡単な回路でよく飛んでくれたねと、新たな感動がありました。
QRPクラブ50周年で表彰(2006/11)
1956年に創立したQRPクラブは2006年で50周年になりました。全国集会と兼ねて東京で50周年記念大会が開催されました。私は残念ながら出張があり参加できませんでしたが、入会25年以上の人を対象に表彰がありました。入会当時は開局15年の頃で、世の中がAMからSSBへ、住む場所が2から3へ変わって数年、無線や自作に行き詰まりを感じていた頃です。以来27年、クラブを通し多くの方々との関わりの中で、自作の再開や様々な行事への参画、CQ誌への投稿など、一人では成し得ないことが出来るようになったのは、多くの方々の支えがあったからだと思います。
第4回自作名人激集合に初参加(2007/2/25)
大阪府池田市民文化会館にて、『日頃、作品の自慢話が出来ない鬱憤がたまっている自作名人のみなさんに、おもいっきり自慢が出来る機会を提供する』と言う目的で、自作名人激集合が開催されました。昨今はお空の上で自作リグの紹介をしても殆ど反応が無く寂しい思いをしますが、こういった会があると心強いですね。

JARL入会30年の表彰(08/05/30)
JARLから入会30年の表彰状が届きました。中学生のとき開局したものの、その後の受験生活や就職でアクティビティは上下し、それに同調してJARLへは何度かの入退会を繰り返しました。そして就職後に再入会してから、いつの間にか30年がたちました。中学生のとき同級生から「永井は、はっきりした趣味があって良いね」と言われてから40余年。「リタイヤ後は長く続けられる趣味を持ちましょう」と団塊世代に投げかけられるメッセージも、そこだけは筋金入りを自負できるようになりました。