新田荘遺跡 明王院(みょうおういん) 新田觸不動尊(にったふれふどうそん)

所在地  群馬県新田郡尾島町大字安養寺字呑嶺200−1番地
駐車場  5台くらい

正面入口

明王院不動堂

太子堂  2004年4月1日 撮影

国指定史跡 新田荘遺跡 明王院境内  (案内板より)
  
呑嶺山 明王院安養寺   真言宗豊山派
 寺伝によれば、康平4年(1061)に後冷泉天皇の勅により、源頼義が開基となり、奈良の興福寺から招いた頼空上人を開山として創建され、その後、新田氏初代の義重が中興し、さらに八代の義貞が元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅により、七堂伽藍十二坊を有する大寺院として再建したという。
 現存の不動堂は、宝永2年(1705)の建築で,、その参道にある三棟造で知られる二天門はかっての中門で、そのはるか南に大門があったと伝えられている。江戸時代の絵図面に、周囲に二間幅の堀をめぐらせた百余間四方の境内地と、その周辺に十二坊の跡地の位置等が示されており、往昔の当寺の規模を推定することができる。不動堂の厨子(宮殿)には、二体の不動明王像が納められている。その一つは一寸八分(約5.5cm)の閻浮檀金(白金)製で、元弘3年(1333)の新田義貞鎌倉攻めの祭、山伏に化身して越後方面の新田一族に義貞の挙兵を一夜にして触れまわったと伝えられ、「新田触不動尊」として知られる。もう一体は二尺五寸(約76cm)ほどの木像で、新田義重が盾の上に座して軍勢指揮をとる姿を刻ませたはずが、一夜のうちに不動明王像に変じたとされ「御影不動明王」と呼ばれて背後に火炎がないのが特徴である。また、明王院本堂の本尊は、絹本彩色の倶利伽藍不動明王像で、以上の三不動明王が新田氏相伝の守本尊だと言い伝えられてきた。
 元禄16年(1703)に明王院の不動尊が成田山新勝寺の不動尊と共に、江戸城三の丸へ出開帳したことが江戸護国寺住職の隆光僧正の日記に記されている。寛政6年(1794)に当寺境内に芭蕉百年忌の句碑が建立されたことを記念して、翌7年に呑嶺山主(明王院住職)柳翠らが三百余名の同人(江戸、大阪など遠隔地の俳人も多数、尾島関係者は21人)の作品を収めて出版した句集『萩のふす満』は、江戸後期俳諧史の貴重な資料である。

  明王院の文化財                                      
    (町指定重要文化財)                                    (その他の文化財)
     建造物    石造 − 千体不動塔                           芭蕉百年追善の句碑(昭和55年復元)
              源義助 板碑                                薬師如来像(南北朝期の石仏)
                                                       五輪塔残欠、 経塚、 伝興教大師作の摶仏(雨乞い不動)   
  平成元年3月          尾島町教育委員会  

千体不動尊供養塔



尾島町指定重要文化財  千体不動尊供養塔
            指定年月日 昭和53年3月10日
            所在地  尾島町大字安養寺199番地
 この供養塔は、二段積みの基礎の上に、不動尊像を浮き彫りにした石を、ピラミット型に十五段積み上げ、さらにその上へ塔身に金剛界四仏の梵字を彫った塔を安置してある。底辺は約7.2m四方、高さ6mで、伊豆の小松石を使用している。
 不動尊像は東側270体、西側254体、南側238体、北側238体の合計1,000体で、不動尊像につきものの火炎の光背がないのが特色である。これは不動堂内に秘蔵されていると伝えられる「御影不動明王」の木像(新田氏の祖源義重が盾の上にすわり、剣をにぎって軍勢の指揮をとる姿を写したとされる)が、光背に火炎がないのにちなんだものであろう。
 この塔の建立の趣旨を記したと思われる南面の銘文は摩滅して判読できないが、「慈救呪百億供養・・・・・二百万遍由良村寂心坊・・・・・千二百万遍尾島町浄厳坊」などの文字が周囲に彫られているところから、不動明王の呪文(慈救呪)を唱えることにより、諸願成就を祈る不動尊信仰が盛んであったことをしのぶことができる。
 建立の中心となった安養寺村の小川宇兵衛重政が、延享4年(1747)に江戸の石工和泉屋治良右衛門に八十五両で造らせたとの記録がある。その後二百年以上を経ていたみがひどくなったため、小川家二十代の宇十郎が昭和32年に修復した。
       昭和54年 3月                     尾島町教育委員会  


尾島町指定重要文化財   源義助 板碑
          指定年月日 昭和50年10月8日
          所在地    尾島町大字安養寺200番地の1
 この板碑は、昭和8年1月28日、明王院境内の樫の大木の下より出土したものである。緑泥片岩(秩父青石)の武蔵型板碑で、高さ119cm  幅35cmである。
 板碑の上部に、蓮華座と弥陀の種子キリークを彫刻し、その下方に梵字光明真言と次の銘文がきざまれている。
  ○ ○ ○ ○ ○ ○     前刑部卿
  ○ ○ ○ ○ ○ ○      源 義助
   康永元年壬年6月5日
  ○ ○ ○ ○ ○ ○    生年四十二
  ○ ○ ○ ○ ○ ○        逝去
                    (○印は梵字)
 呑嶺山明王院安養寺は、真言宗の古刹(古い由緒sる寺)で、新田氏の祖、義重以来の氏寺であったと考えられる。「太平記」によれば、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの時、この寺の不動明王が越後一帯の新田一族に、義貞旗上げの知らせを、一夜にして触れてまわったといわれる。そのため「新田触不動」として知られている。
 源義助は新田義貞の弟で、脇屋(太田市脇屋)に館をかまえ、脇屋次郎義助と称した。義助は義貞と共に鎌倉を攻め滅ぼし、京都に上がり建武の新政を助け、武者所に列して駿河守となる。延元3年(1338)義貞の戦死後は新田一族を率いて南朝方につくし刑部卿に任じられた。のち四国に渡り四国、九州方面の兵を統率して奮戦したが、伊予の国府において康永元年(1342・南朝年号、興国3年)病没した。
 この板碑は義助の菩提をとむらうために、新田氏ゆかりのこの寺に建てられたものと思われる。
   昭和52年 3月      尾島町教育委員会        


尾島町指定重要文化財   石仏(薬師如来)
          指定年月日 平成3年4月25日
          所在地    尾島町大字安養寺200番地  「明王院境内」
 この石仏は薬師如来の像である。石材は角閃石安山岩で、仏体、光背、台座共に一石で造られている厚肉彫坐像である。制作年代は南北朝時代中期(14世紀)と推定される。左手に薬壺を持ち膝上に置き、右手は肘を曲げて上に立て、施無畏印を結んで蓮華座に坐す。顔の輪郭はよく整い、締まりがあり美しい、惜しいことに鼻は破損している。像の顔の部分には白い粉が塗られ、庶民信仰のあとをとどめている。
 旧呑嶺山十二坊の一つである薬師坊の本尊と推定される。以前は西安養寺の畑中の小堂にあった。
 本来、薬師如来は東の浄土、瑠璃光世界の教主で、病苦と無知に迷う衆生を救うため十二の大願をたて、その誓願を成就して成仏したといわれている。
   平成4年 3月31日           尾島町教育委員会       


芭蕉百年追善の句碑(昭和55年復元)
  ”白露も こぼさぬ萩の うねりかな”
   芭蕉
寛政6年(1794)祖翁百年追善のため栗庵似鳩を後見に呑嶺山主柳翠他俳友の協力で不動尊境内に句碑を建立された と記録にみられたが現物は存せず この度不動堂昭和大修繕(1980)を記念して茲に復元再現するものなり
          明王院第五十六世  照賢誌す
                妻沼  原田美智夫 刻      


板碑収納屋

板碑

薬師如来像

復元 句碑 2004年4月8日 撮影