【自然の縁し】


 

まちよいぐさ
5oの華を
拡大鏡で撮る

みちしるべ
ハンドル
ふるさ
旧平壌・☆歩77
聯隊の戦績
有縁の語らい


◎ ハンドル

自然(jinen)

○ 感応道交

草稿起筆明治44年

その時を経て道は交わる
「その時」の吾は三世の過去・現世・来世の
前世に在って誌に登場せる母は「少女」にして
筆者祖父との姻戚は大正9年父母の結縁により生起した
該誌完結の昭和4年には父母に伴われてその地に居住していた
ときは流れて80有余年に及んで曾孫として
「開教誌」に接し血族の継承者たる自身を知ったのである
その 感応は総括に「不肖心会を負ひ一片の丹心貫通するが
佛祖の加被力の恩なるを知り我子孫の為経歴を誌すのみのみ」
との真意を戴し得た

◎ ふるさと

○ 戦前の平壌

古代楽浪の都とて船橋里郊外に古墳が発掘され
一方 牡丹台古城の景勝史跡は征韓の役にまで遡る

牡丹台下の大同江

京城ー新義州線第二の都市平壌
更に元山・水豊への支線の分岐点でもあり
京城に次ぐ都市として栄え内地の先進都市にも比肩する
発展を遂げ昭和19年には軍管区都市30万の人口を擁する
までに進展した

平 壌 駅          府 
 

市街電車線
平壌駅前ー西平壌駅間に支線船橋里-寺洞を加え
ダイヤル電話化・市バス網・上水道完備と
都市形態は本土の大都市に並ぶまで近代化していた


大和町停留所

勉学施設としては医学専門・中等・小学の
公私立校が内鮮共学を含めて開校していた

☆ 歩兵第77聯隊

聯隊歌
大野東頭点々の 山又山の尽く所
長城一面洋々の 水は千古に変わりなき
古き都に屯する 歩兵七十七聯隊

聯隊俯瞰


瑞気山西麓に旅団司令部・陸軍病院・練兵場・
兵器廠等々の軍施設の一角を占めた

営 門

郷土の聯隊

公式の聯隊史は無いが各種の記録を手繰って得たところでは
大正5/4/18 軍旗親受
昭和6/9/18 満州事変に 第39旅団隷下で出動  
 昭和12年 日中戦争に出動帰還し
以後平時編成下で推移したが
 19年4月南方動員で補充隊を編成継承する

母隊は30師団隷下でフィリッピン戦線に出動し
ミンダナオ島に上陸後主力はレイテ戦線で全滅し
残留の第T大隊は師団と共に壊滅的打撃を受け
レイテては兵3名ミンダナオでは将兵93名が生還した
一方 歩77聯隊補充隊は師管区第244部隊に編成され
 昭和20年6月には
第160師団隷下の
歩463歩464聯隊 要員を編成し南鮮防衛に出動
本隊は師管区第二補充隊として終戦に至る
終戦後はソ聯軍に占領されて
9月上旬将校は弥勒洞・下士官兵は三合里廠舎へ収容
11月以降ソ聯邦へ強制抑留されて分散し
各個別に復員した

☆ 聯隊の戦績

ミンダナオ・レイテ戦

戦友会資料から
S.19年5月 動員下令 渡比
S.19/4/12動員下令 5/7完結 8日平壌出発
 6/6 ミンダナオ島上陸(スリガオ)リアンガ付近に布陣
したがダバオ付近へ転進となり600kmに及ぶ大移動中
10/20 米軍のレイテ上陸に伴いレイテ転進となりカガヤンに
引返すが渡航舟艇は大発6隻だけで2000中1400名はミンダナオ
に残りレイテ転進は4回に分けて行われた
    1回目      
11/3日頃 野中少佐指揮のV大隊と10中隊・3MGがカガヤン出航
 6〜7日 イピル海岸上陸 26Dに配属されブラウエンに向かう
2回目
11月中旬 5中隊と2MGが上陸 船舶工兵指令三井大佐の指揮下に
入り オルモック防衛に就く
3回目
12月上旬 富永少佐指揮の聯隊主力の前回残留や9中隊と11GBの
200名前後がイピル海岸に上陸し
12月/7日  来襲米軍と戦闘し「血染めの竹薮の激戦」と米軍戦史に
名を残し続いてオルモック防衛戦でも中核の5中隊2GBは全滅
に瀕しがらも米軍と5日間に亘って戦闘し三井大佐より感状を
送られた
他方ブラウエンに向かった10中隊3GBは12/10の切込みを
最後に兵力を減じ野中少佐以下60名が西方へ撤退した
12/9 セブ島からパロンボンに着いた新郷聯隊長以下の
2個中隊は砲を運べずセブ島に残した戦力なき聯隊主力ながら
オルモック街道を南下しタンブコ三叉路に着いた頃
富永少佐隊を指揮下に入れた
12月/17日前後 
聯隊最後の戦闘があり戦車中心の米軍に対し
砲力なき我が軍は爆雷や手榴弾を抱いて切り込む挺身攻撃で
「地獄を見た 地雷を抱いて戦車に飛び乗る兵はたちまち撃ち
落とされそれでも次から次へと飛びついてく
そしてまた撃ち落とされる あれは将にこの世の地獄であった」
と語っている
戦闘は2時間位でおわりU大隊長林少佐は戦死富永少佐は自決
12/25 最後の終結地カンギポットに入ったのは聯隊長以下
18名一方ブラウエンで26師団配属を解かれ西方へむかった
野中少佐以下60名はオルモック北方山地をぬけ街道を横切った
辺りで砲撃を受け四散し少佐は戦死
カンギポットには各地の生存者が徐々に集まり100名前後の
集団は聯隊長を中心に自活するが終戦の日生きてこの谷を
出られたのは2名だけである
聯隊旗の行方も新郷大佐の死も不明のままである
生存者
一方ミンダナオに残留した部隊も上陸米軍と戦いながら奥地に
入り食糧不足のため自然と消滅していったが
この方は将校8名が残ったので戦史は詳細に判明しており
結局レイテにおいての兵10名とミンダナオの93名が生き残った
 

 戦友会と慰霊碑の建立趣意書

 故陸軍少将新郷栄次聯隊長以下三千余名が勇躍征途に赴き
たるも時既に戦勢我に利あらず遂に比島のレイテミンダナオ両島
にて玉砕せり勇士達が故国を離れし最后の思い出の地関門を
選んで有縁の遺族や戦友たちが英霊の冥福を祈りて建立する
 昭和五十七年五月歩兵第七十七聯隊有志一同

戦友会の回顧

終戦61周年を迎えた2006年8月15日は戦没者追悼平和祈念の
日であった総理の靖国神社参拝で幕を開けこの日は追悼式場に
天皇陛下をお迎えし戦陣に散り戦火に倒れた人々を追悼就中
靖国神社に祭られた英霊は弐百万を超え わが聯隊のフィリッ
ピン戦線で玉砕した戦友も合祀され運命の不可思議に思いを
新たにした

私 考

昭和18年3月現役入営し19年4月の南方動員では
補充隊に移動し終戦の戦後はソ聯邦に強制抑留後
22年11月復員
 出陣母隊の戦績は「比島ミンダナオに上陸
間無くレイテ戦線へ出撃して玉砕した」とだけで
戦績の詳報は聞かず復員後も確認できず
「レイテ戦史」・「さぁふらんす(SURPLUS)戦史 」や
パソコンの検索
等を補遺して何時しか60年の歳月を経る

 2006年7月に至り「平壌中学同窓会誌」で
歩兵第七十七聯隊の慰霊碑立を知り戦友・遺族会との
連絡がとれ満60年を終えようとしたこのとき
実証が得られた

 レイテ戦線は緒戦から米軍圧倒の戦場に臨んだ兵士の
驚愕は察して余りあり いまに聴く出陣の経緯には「全滅
・切込・敗兵・肉薄・挺身・自活・四散・消滅」との
言葉に集約され反撃の手立てすら選び得ぬ将士の心情は
如何ばかりかと悼む一方
自らの往時にもソ聯軍迎撃出陣の編成下に在って
「全員玉砕」の決意は脳裏を離れない
さらには
「無辜の悲しみ」と表されたソ聯邦の強制抑留中
故国の土を踏めずに異国に埋もれた友を追悼の余生でもある

                                        

○ 終の棲家

横浜市歌に歌う「むかし思へば苫屋の烟」とて
「今は百舟百千舟」と栄えた港横浜

弘明寺への古図

弘明寺への丘

 本殿             山門
  

丘の一画別所の郷

郷社白山神社(社殿)

「白山社由緒」記
「往古は詳らかならずも古来より久良岐郡
一帯の産土神社」とあり
「新編武蔵風土記稿」に「白山社除地二段
小名寺谷見通の辺にありと古木繁茂の
山上にあり」
とて道標には
「左戸塚え」・「奉建立百万遍念仏講中弘明寺」
「寛延年間(1748)」
古刹弘明寺 は
「吾妻鏡」
に「源家累代の祈願所」と記し
「頼朝の保護・戦国時代には北條家より寺領安堵
・江戸時代には朱印拝領」
とあり

西に白根富士を遥かに望み

夕日に みなと未来は夕日に映える

西に東海道・ 東に鎌倉街道の狭間に
別所中里台から弘明寺へ続く丘陵

「横浜横須賀道路」南北に通し
「別所インター」
を麓に拓く里 に

有縁の語らい
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