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このNEWコーナーは、
私とうちの中学校の生徒「FLOWERさん」との
運命的な出会いから生まれました。
ふたりは「乳がん」つながり!なんです。

名前はFLOWER。今、中学一年生です。
彼女は、お母さんを乳がんで亡くしました。

私がHPを開設したのを機に、
彼女も、お母さんとの思い出をここに連載することになりました。

このページのガーベラの花は、
FLOWERさんのお母さんが好きだった花です。



第一章


私のお母さんは、おととしの8月にガンで亡くなりました。最初は乳ガンでした。ガンを発見してから、今までのことを、いろいろ思い出して書いたので、読んでもらえたらと思います。

乳ガンが発見されたのは、平成7年の10月くらいでした。そのうたがいがあるということで、お医者さんに行ったら、やっぱりガンでした。 その前に、お母さんの妹が乳ガンになっていて、「おねえちゃん、いつも胸には気を付けてさわっときや。」と言われていたので、しょっちゅう触るようにはしていたようです。

けど、私とお母さんが、ふざけあって胸をさわったら、お母さんが「何かクリクリしたのがある。」と言うので、「ウソォ」と言ってさわると、梅干しの種くらいのものが胸のところにありました。「え〜っ」と思ったけど、「まさかなぁ」と思っていました。

私はその時、お母さんに病院に行って「もしガンやったら、何も隠さんとゆってや。そんな隠されたら、いやらしいし、一緒にがんばっていかなあかんやろ。」と言いました。そしたら、「わかった。」と言って、病院から帰ってくると、「『あんまりいいもんじゃないなぁ』って言われた」と言っていました。

数日後、「病理検査」に出していたものの結果が出て、そのものが悪性の腫瘍であることがわかりました。私は、その時、これから支えていったらなあかんし、がんばらな…と思いました。







第二章

それから、いろいろなところを検査して、どこにも転移していないことが分かり、少し「ホッ」としました。そして、12月1日に入院しました。

書き忘れてたけど、私にはお兄ちゃん(中3)がいます。これから家の中のことをどうしようかなぁ。。。と考えて、結局、私がべんじょそうじとゴミすて、お兄ちゃんは風呂そうじとかいろいろやってました。ごはんと洗濯は近くにおばあちゃんが住んでいたので、頼んでいました。

その頃、私は毎日のように病院に行ってました。けど、家の中では、兄ちゃんとけんかばっかりして、ほとんど私が悪いものばかりやったけど、今考えると、不安やったし、余裕がなかったと思います。だから、周りにあたって、ストレス解消していたんだと思う。「あかんなぁ。そんなんして、何になるん?」とか、思いながら暮らしてた。

一人になると「手術はうまくいくんかなぁ」とか、考えてたし・・・・。
ただ、病院に会いに行くことだけが楽しかった。

12月5日に手術をしました。お医者さんの話では、部分摘出にしたと言ってました。もう少し大きければ、胸を全部とらなあかんかったと、後で聞きました。でも、今思えば、あの時全摘やったら助かってたかなぁ。

私は手術の日、学校だったけど、居ても立ってもいられへんし、落ち着かないし、心配で。けど、成功したと聞いて、よかった→と思って、力がぬけました。






第三章


手術から一日でお母さんは立って歩いていました。ビックリしたけど、治りが早いのはいいことだっと思ってました。私は「あんまり動き回らないほうがえええんちゃうん。」と思ってたけど、まぁいいか!!と笑ってました。

ある日、私が病室に行くと、何かワケのわからん紙がはってあって、よく見たら、今日はどこまで手が上がったか記録する表でした。何か紙のところに、めもりがあって、そこに赤ペンで書いてありました。お母さんと同じ病室にも、乳がんの人がいました。でも、みんなとても痛そうにやっていました。

はっきり言って、私には体験したことのない痛さなので、わからんかったけど、リハビリって、そんなに痛いものなのか・・・・。それと、冬なので傷口がつるから、よけいに痛かったんだろうと思います。

その頃私が、「病院っていややなぁ」と思ったんが、変なことかしらんけど、「お風呂に毎日は入れないことが、いややなぁ。」としみじみ感じました。たえられん私には・・・とても。

でも、ひとついいと思ったんが、赤ちゃんを見れること。病室からすぐのところに、赤ちゃんを寝かせる部屋があって、とってもかわいいと、いっつも思ってました。あぁ〜、連れて帰りたいなあと。
そのあと、お母さんも私のことを、おなか痛めて産んでくれてんなぁ。あ〜、ありがたいと思って、少し感動。。。

そんなわけで、お母さんは順調に回復して12月の末に、めでたく退院しました。また、これからが大変だなと思いました。






第4章


家に帰って、とりあえずお正月をむかえて、何ヶ月かはみんなふつうに暮らしていました。私はその時、小学生だったから、学校で6年だけバスケットボールの試合にむけて、放課後練習を自由参加でやっていました。

私は、それにとても真剣に取り組んでいました。だから、絶対にレギュラーをとるつもりで、毎日練習をしてがんばっていた時に、お母さんが私に「さしい。一緒におってくれやな、お母さんもういやや。」と子どもみたいなことを言い出しました。

ねる時は一緒に寝よう・・・さみしいやんと言って、私からはなれません。学校行かなあかん時も「早く帰ってきてな。」と言って、とっても淋しがるので、私もなやんで「もう、ミニバスの練習やめて、お母さんのそばにおったらな。」と思って、先生に「お母さんがちょっと、私がおらなさみしがるし、精神的にも不安定な時やから、ミニバスの練習やめさせてください。」と言うと、「わかった。お前は、お母さんのそばにおったれ。」と言われて、私はミニバスからぬけました。

やめてから数日たって、私がやめたことがみんなに広まって「あの子やめてんて、結局やる気なかったんや。」とか「最初からイヤイヤしてたんとちゃうん。」とか言われて、とても悔しい思いをしました。みんなが見てないときに、いろんなことを考えて、涙がでました。

「何であたしが」と思うのが、日に日に心の中に広がっていきました。でも、ここで負けたらあかんで・・・とは思っていました。けど、12月くらいから、お母さんにあたっては、けんかをするようになっていました。






第5章


それからは、そういうのは収まってきて、もとに戻りつつありました。でも、こんどは私も心が不安定になっていて、毎日毎晩、お母さんと大ゲンカ・・・私はその時、ひどいことをたくさん言ってしまいました。

ケンカしては、家を飛び出して、一人で悩んで、もう家族関係はぐちゃぐちゃ。でも、悪いのは私なんやと思っても、素直に「ゴメン」と言えなかった。苦しかった。

ある晩、またケンカして、お母さんに、その時はもう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分が何でこんなことをしているのか分からない時に、口をついて出た言葉が「死ね」という言葉でした。一番言ってはいけないこと、一番重たい言葉を、私が平気でポンと言ってしまいました。

その時は罪悪感はなかった。でも、お母さんがいない今では、「私は最低な人間や。何でそんなこと平気でゆえたんやろ」と思います。一度でいいから、もう一度会って、あやまりたい。やさしい言葉をかけてあげたい・・・・。

その時、私はとても自分がキライになりました。自分がイヤで、家がイヤで、学校がイヤで、全部がイヤで・・・・。誰も自分のことをわかってくれへんねん。話されへんし、何か自分の居場所がどこにもなかった。見つからへんかった。

ずっと、このままなん? 苦しい。素直になりたい・・・と、毎日考えてた。でも、すぐにまたケンカをしてしまっていた。いっそ、ひとりぼっちの方が良かったと思った。誰かに気づいて欲しかった。助けて欲しかった。話を聞いて欲しかった・・・と、思ってました。






第6章


そして、また、お正月がきた。相変わらず、お母さんとはギクシャクしたまま、一応何もおこらんと、無事に年を迎えた。1997年になってた。

それで、お母さんと家族で、箱根駅伝を見てると、お母さんが「何か、おなかのみぞおちの所が痛い。」と言い出したから、私は「食べ過ぎとちゃうの。」と思っていた。でも、一日中ず〜っと痛がるので、変だなぁ、何でやろ・・・と思ってた。けど、そんなに気にはしなかった。

でも、だんだん日を重ねるごとに、悪くなってきて、会社にいても、何をしても痛いというから、イライラしてて、「「そんなにイタイイタイって言われたら、不愉快やわ。」と、言ってしまった。

もーー、イヤッ!!
それから、どんなに痛くても「イタイ」と言わなくなった。
また言ってもた・・と思った。

でも、いよいよ心配になって、「お母さん、病院に行ったら?」とゆったら、「いやや。」と言われた。「何で?」と聞くと、「お母さんが今、入院したら、あんたらご飯食べられへんようになるし、不自由な思いさしたくないから、絶対入院せぇへん。」と言われた。

私は、正直めっちゃ複雑な気持ちになった。自分が何をゆってきたか、考えた。その時、はじめてひどい人間・・・・と思った。

今、思い出しても、その時のお母さんの顔がうかんで、涙が出てくる。それから、夜ねてても痛がるようになった。今思うと、あの時、お母さんはどんな思いで私と話をしたのかなぁ・・・と思う。

お母さんの痛みは、私にはわからないけど、かなりのものだったことだけは、わかる。でも、もっと、話せば良かったなぁと思う。





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flowerちゃんの近況

おばあちゃんがぎっくり腰で入院されたので
この頃、朝晩のごはんとお兄ちゃんの弁当をつくるので
もぉ、あたまはいっぱいです。

なんでこうなるねん!!
私のうちって、めっちゃ不幸やんか!!
なんて言いながら
でも、目はきらきらと輝いています!

これからも、ぼちぼち連載を続けます。
長い目でみてください。
よろしくお願いします。

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第7章


それからも、痛みは和らぐことはなかった。反対に、ひどくなっていってるなと私は思った。そして、私はもう一度「なぁ、病院いきぃやぁ〜〜。」と言ったけど、やっぱり「いかへんっ」の一点張り。「もう、どないしよう〜〜」と思って、考えていた。

もう、ホンマにやばいでぇ〜という時に、お母さんの友人が家にきて、「病院にいくで、そんな人、ここで寝とっても、子どもらに迷惑かかるし、まわりの人も心配するやろっ」と言って、説得してその人の車で、夜の9時か8時くらいに行った。けど、その日は入院せずに帰ってきた。ベッドが空いてなかったらしい。

そんで、数日後に入院した。そして、すぐに検査した。結果は、ガンがもう片方の胸に転移しているかもしれないということで、もう、体力の問題で手術はしないことになったけど、抗がん剤を投与することになった。

私はその話を聞いて、「抗がん剤って、めっちゃしんどいし、髪の毛ぇ、ぬけんのやろ」と思ったけど、それをすることで元気になってくれるんやったら、ええと思った。でも、そのつらさは私の想像をこえていた。見てるのがツライくらいやった。

まず、吐き気がして、物が食べられんくなって、そんで、髪の毛ぇがぬけてきた。お母さんは、その時は笑って、「今日はこんなに抜けてんで。くしでといたら、ドバーってぬけてんでぇ。」と、私に話していたけど、私は今考えると、「ぜったいに、たえられへん。だって、女の人やのに、胸にキズができて、髪の毛が抜けて、ついでに生理もなくなって・・・。」

まだ、自分のわからへんところで、そういうのがあるんやったら(副作用)、たえれるけど、自分で日に日に、身体の女の一部分が、病気でも、薬でも変わっていくのがわかるのは、ツライかったと思うし・・・・・・。

その時は、まだ自分のことで精一杯やったから、そこまで気づかってあげられなかったのが、くやしい・・・・と思う。







第8章


私は毎日のように病院に行って、お母さんといろんな話をした。その時は、なんかおもしろかったし、行くのが楽しみやった。でも、目の前ではくのが、見ててかわいそうでたまらんかった。

それで、ある日、お母さんが先生に、もう会社も行きたいし、帰らして欲しいんですけど・・というと、「考えときます」と言われて、何かすんなり帰らしてくれた。退院したけど、何ヶ月かに一回、抗がん剤を打ちに通院しているという状態。

それで、やっと仕事ができることになっていた。診断書と書いてもらって、会社にも顔を出して、それが5月くらいで、仕事に出るのが7月からという予定だったけど・・・・。

5月の半ばから、6月くらいにかけて・・くらいやったと思うけど、何かわけわからんことを言いだした。「あれっ? ○○さんと○○さんは、どこ行ったん?」とかゆって、自分の大分の友だちの名前を言い出して、あと妹の名前とかゆって、「さっきまで、おったやろ。どこ?」と言い出したので「な〜、何ゆうてんのん。そんなん、さいしょっから、おらんやろ。」とゆっていたけど、何かおかしいなと思えてきた。

どう見たって、冗談じゃないから、それから悪くなってきた。私は急に変なことを言い出して、どないしたんやろう?と思ってて、ある日、お父さんが「俺、誰かわかるか?」と、大マジな顔でゆっても、「う〜ん、キムタク」とかゆって、変なことをゆって、これはいよいよおかしいな、何かありそうや・・・ということになった。

お父さんが病院につれていくと、脳外科かどっっか忘れたけど、脳みそ関係のところへ行って、先生に見せると、「一応、カウンセリングに来てください」と言われて、一週間に何回か行くようになってたけど、ぜ〜んぜん良くならないし、おばあちゃんが、もう年やし、限界近いから、大分のおばあちゃんが来ることになった。

     注:大分のおばあちゃん→おかあさんの方のおばあちゃん







第9章


それから大分からおばあちゃんが来たけど、私はこのおばあちゃんは大キライだった。それは、なんでもポンポンゆうのはいいけど、一言多いので聞いてるこっちは、腹が立つ。それにすぐたたくし、孫の間でもきらわれている人なのだ!!

最初はこっちも気を使って使って、気のさわらんようにしてたけど、いよいよ大げんかをして、家を飛び出して、父方のおばあちゃんの家が近いので、泣いて飛び込んだ。

その頃お母さんは、もう意識がうすれてきていた。少しは家の外に異様に出たがって、無理やり止めたりしていたけど、近所の家に勝手に入ったり、勝手に出て、外の階段の下で、頭を打って青あざ作っても、もう、イタイとかわからんへんようになっていた。

お母さんに、お兄ちゃんと「私ら、誰かわかるか?」と聞くと、「う〜ん?ん〜」とかゆって、言葉もしゃべられへんし、それから自分で立つことも、食べることもできへんから、オムツを付けて・・・、もう、私は悲しいやら、くやしいやらで、かなりやげやり状態になっていた。

父方のおばあちゃんも、今までかなりお母さんの世話をしていたけど、もう年で体も悪いので家にいた。だから、そんな毎日、自分の母親がおとろえていくすがたを見てるのは苦しいので、おばあちゃんの家に逃げていたっていうか、とまっていた。

見ているのが、とてもツライ。かわいそうで、かわいそうで・・・。でも、逃げている自分もなさけなかった。







第10章


私はもう、何がなんだかわからないし、ただ毎日毎日学校に行っても、おもしろくないって感じで、友だちが幸せそうに見えて、自分だけこんなみじめな思いして、何か悪いことでもしたんかって思ってた。相談する人なんて、もちろん一人もおらへん。

それで、大分からお母さんの妹らが来て、お父さんとおばあちゃんと、父方のお母さんの妹らで話をして、大分に連れて帰ろうって話になった。

お母さんとお父さんの結婚は、お母さんの親は絶対に反対で、それを押し切って一緒になったくせに、病気になってこんなことになってって、大分のばあちゃんは、大激怒。

それで、もうその日の内に、レンタカーで、お母さんを連れて帰ってしまった。私と兄は、大阪の父のばあちゃんの家にあずけられて、まともに話しもせんうちに、ほぼわからんうちに、連れて帰ってしまった。

さみしいと思った。

いつも見れば、おかあさんが寝ていた所は、だれもおらんし、一人でへやの中ですわって、ボーっとしてみた。助かるんか、助からんのか、不安でいっぱいになった。

少しお母さんをとりあげられた感じになって、何で?って思っていた。

でも、その三日後に小学校生活最後の林間に行くことになってたけど、そんなことは、もう、どうでも良かった。ただ、不安でさみしくて、何もかもやる気なし・・・。

楽しみになんかしてなかったし、毎日毎日、お母さんのことを考えて・・・。
やっぱり、林間もあんまりおもしろくなかったしなぁ。







第11章


林間から帰ってきて、少したつと、もう8月になるところだった。8月1日はお母さんの誕生日で、42才になるところだった。それと同じ日に、PL学園の有名な花火大会がある。私の家族は毎年たのしみにしていたので、花火を見に行った。

私は何かわたせるかもわからへんのに、バカみたいに、お母さんのプレゼントを買いに行った。クッションのかわいいのを買って、お母さんにあげるために用意していた。少し前に大分のおばちゃんから電話があって、「もう、どうなるか分かれへん状態やから、意識のあるうちに会いたかったらすぐおいで。」と言われた。

だから、私と兄ちゃんは2人で船にのって、むかえに来てくれたおばちゃんの車で病院に行った。私は病室に入って、目に入ったお母さんに息をのんだ。

機械にいっぱいつながれて、意識ももうない。酸素ボンベで息をして、そこには前みたいにクルクル働きまわるお母さんはおらへんかった。泣きそうになったけど、唇をかんでグッとこらえた。だって、まだ死んでもおらんのに、泣いたらお母さんがかわいそうだと思ったから。

それからしばらくして、おばあちゃんに今日は病院に泊まりなさいと言われたけど、きのう船であんまり寝ていないので、明日泊まるということで、おばちゃんが話をしてくれた。それで、その日はおばちゃんの家に泊まることになった。

私はおばちゃんが大好きなので、大分に来ることは別にイヤじゃないけど、今回はあまり気が進まなかった。







第12章


そして次の日、いとこ3人と兄ちゃんと私とで、バスで病院についた。ついてから少しすると、主治医の先生がきて、「お母さんは、もういつどうなってもおかしくない時なので、できるだけそばにおってあげてください。」と言われた。ショックやった。

そして、夕方になるといとこも帰って、おばちゃんたちが病院に来た。ほんでちょっと話して、ごはん食べて、夜の11時くらいに私だけ、おふろに入りにおばちゃんの家に行った。お風呂に入って、コンビニで買い物して帰ると、12時過ぎくらいで、ひとりだけおばちゃんが残って、もう一人のおばちゃんは帰った。おばあちゃんは疲れて仮眠室で兄ちゃんと寝ていた。

そのうち残っていたおばちゃんも帰って、私ひとりだけでお母さんのそばについていた。その時私は「今日、お母さんのそばにおらな、もう、会われへんかも知らんし、一生後悔しそう。」と、なんでか思った。

ひとり病室でボーっとして、静かな部屋に心電図のピッピッピッという音だけ聞こえていた。いろんなことを思い出しながら・・・。

時間がすぐにたっていって、朝になっていた。6時くらいにお母さんのまわりが、あわただしくなった。何やろうと思って見てると、お医者さんが身内の人を呼んでくださいといった。その頃お父さんと大阪のおばあちゃんは、車の中で大雨の中こっちにむかっていた。携帯で連絡を取りながら。

私はただそのあわただしい中、ひとりでポカンと病室の隅で見ていた。兄ちゃんを起こしてきて、ふたりでずぅーっと見ていた。すると心電図の波形が乱れてきて、40分くらいたつと、ピーっとなって心臓マッサージが始まった。

もう、何が起こっているのかわからへんかった。10分くらいして、お医者さんがマッサージをやめて、時計を見て、たぶん7時20分(午前)○○秒といって「ご臨終です」ってゆわれた。目の前が真っ白になって、涙があふれてきた。頭を殴られたみたいになって、いとこの姉ちゃんとふたりで病室でワーワー泣いた。

涙が次から次へと流れて、こんなに泣いた人ははじめてっていうくらい泣いた。私はいままで自分がゆったこと、やってきたこと全部を泣きながら思い出して「お母さん、ごめんなぁ。」と何回も何回もあやまった。許してくれんでもいいからと思って、あやまった。「つらいことゆうて、あたってごめんなぁ・・・。」って止まれへんねん、涙が・・・・。何か自分が半分になったみたいな感じになって。今頃ゆってもおそいのにな。







第13章


8月5日の出来事

泣いても泣いても足りへんけど、やっぱり泣きたい。

そしたらそこに主治医の先生がきて、「一番身近な親族の方は?」と言われたので、ばあちゃんと私と兄ちゃんを部屋に連れていって、主治医の話を聞いた。

部屋に入ってすわると、その人が「こんな後で言いにくいけど、君たちのお母さんの頭の中の写真をとった時に、僕も見たことのないものが写っていて、これがガンかそれとも全然違うものかが知りたいから、無理にとは言わないけど、解剖さしてもらえないかな?」と言われた。

「え?」と思った。兄ちゃんと二人で話し合って、めっちゃ悩んだけど、最後は「私らのお母さんの体で、同じ病気の人が、これから助かるんやったら、どうぞしてあげてください。その方がお母さんも本望やと思います。」と言ってOKを出した。

また泣きそうになった。ばあちゃんらは、死んでまでそんな頭とか開いたのは、かわいそうやとか言われたけど、私と兄ちゃんがOKしたのは、お母さんの死をむだにしたくないし、お母さんと同じ病気になった人が笑って病院を出ていけるようになってほしいし・・・

何よりも、何でもええから「お母さん」という女の人が生きてて、ここでまだ若すぎるけど、死んでしまったことを、どこかのだれかの記憶の中に残してほしかった。お母さんの存在を伝えたかったからや。

解剖室にはいるまで、私はずっと長いろうかで見送ってた。
最後までお母さんは、カッコよかった。


to be continued…



    


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